幸せは球音とともに

ー 1976 

〜 中の1 〜


 

2005.05.02        ジュン

描:神有月葵

 
 




 宝塚第壱高校1年2組出席番号3番。
 これがうちの高校における僕の認識番号。
 幸いにも僕は身近な女性と同じクラスになった。
 あ、それってアスカじゃないよ。
 だって、アスカと僕が同居してることは高校側にも知られているし、中学でのことだって報告されているに違いないから。
 別に騒動を起こしたわけではないけど、僕とアスカが婚約しているということはみんなに知られているしね。
 で、一緒のクラスになったのは洞木さん。
 こいつは結構助かったんだ。
 アスカの親友だもんね。

 ただ、入学早々問題が発生した。
 うちの中学から進学したものなら3年の先輩でも僕とアスカのことは知っているみたいなんだけど、
 大きく4つの中学からこの高校に集まってきている。
 だから、アスカに対するアプローチが凄かったんだ。
 同級生先輩を問わず。
 アスカと同じクラスにケンスケがいるから、僕をいらいらさせる情報がどんどん入ってくる。
 当然アスカは断り続けているけど、交際を求めてくる男子が多いそうだ。
 
 そして、あの大事件が起こった。





「ぐふふふ、来たわね、ついに」

「はぁ、やめようよ、ここは飛ばそうよ、ね?」

「はんっ、ダメよ。そんなに可愛く迫ったってダメなものはダメ」

「ア、アホ。可愛くなんかしてないよ、もう40過ぎたおっさんなのに」

 我が家では親愛の情を込めた罵声に気を使う。
 関西での生活が長いにもかかわらず、碇家は標準語が基本だ。
 まず、父さんが関西弁を喋れない。
 無器用な人だからね。しかも無口だし。
 母さんの方は近所の奥さんと喋る時は見事に関西弁を使っている。
 家の中やキョウコさんとは綺麗な標準語。
 アスカも外に出れば上手く関西弁を混ぜている。
 僕はといえば父さんと同じ。
 まああそこまで極端じゃないけどね。
 微妙に関西弁が混ざってるかどうかって感じ。
 当然、二人の子供は関西弁だ。
 ただし両親がそんな具合だから、鈴原家のような徹底した関西弁ではないけどね。
 この場合はとっさに“アホ”が出た。
 もちろん、これも親愛の情を込めての話だ。
 ただし、アスカは目を剥いた。ギロリと。

「アホですってぇ?愛する妻に向ってアホとは何よっ」

 ああ、勘弁して欲しい。
 揚げ足をとる気だ。
 そして否応無しに書かせるつもりなんだ。
 その上であの時と同じように僕を苛めるつもりなんだ。
 どうせそうなんだ。

「何よ、その顔。何か文句でもあるの?」

 あっても聞く気もない癖に。
 僕は精一杯恨めしげに妻の顔を睨みつけた。

「へぇ〜、不満たらたらって感じよね。ま、いいけどさ。
 じゃ、アンタは歴史を歪曲するわけ?」

「歪曲ってそんな大袈裟な。ただこれくらい書かなくてもって」

「これくらい、ですってぇ?」

 アスカは娘の時から変わらない、あのポーズで僕のデスクの横で足を踏ん張った。
 本当に老けないよなぁ、我妻ながら。嬉しいことに。
 まあ、キョウコさんの例もあるから。
 キョウコさんも50過ぎくらいまでは30代で通用してたもの。
 あ、因みにうちの母さんも。
 時々レイの母親に間違われたこともあったからね。
 その時のアスカの顔といったら…、喜んでいるんだからもうどうしようもないよ。
 彼女の論理でいくと、母さんがレイの母親になるんだから私はお姉さん!ということらしい。
 女性はわからないよ、まったく。
 僕なんか年相応に見られたいくらいだから。
 その僕に向ってアスカはぐっと顎を上げた。

「この大事件を書かなくてどうするのよ」

「大事件ってそんなオーバーな」

「私にとっては大事件なの!馬鹿っ!」

 アスカは僕に対してしか“馬鹿”とは言わない。
 シンイチやレイは関西生まれの関西育ちだから“馬鹿”と言われればむっとした顔をする。
 カタカナの“アホ”じゃないと親愛の情が伝わらないのだ。
 因みに教壇ではやはり“アホ”の方が生徒たちには受けがいい。
 もちろん生徒たちにそうそうそんな言葉をかけるわけはないけどね。
 そんなわけだから、子供達の感覚ではアスカに“馬鹿”と罵られている父親にはつい同情してしまうらしい。
 こっちはそれほどショックがあるんじゃないんだけど、まあ味方はいないよりあるほうがいい。
 ともあれ、アスカはこの件については一歩も引き下がる気はないようだ。
 あ、別にこの件以外でもそんなスタンスだけどね、彼女は。
 結局僕は書かざるを得ない。
 それが家庭と夫婦仲の円満に繋がると信じて。

 




 僕は巧みに呼び出されてしまった。
 アスカが数人の先輩に連れ出されたというニセ情報を信じて。
 場所はD棟の3階の端。
 すなわち職員室や一般教室からは一番目の届かない場所。
 まして3階は使われてもしない地学の教室などがあって、普段でもひっそりしているところなんだ。
 放課後、吹奏楽部の練習している音がぶうぶうと上の階から聴こえてくる。
 通報者の情報ではアスカが連れ込まれたというのは一番奥の視聴覚室。
 ここで矛盾に気づくべきだった。
 連れ出されたのを見ただけで行き先がわかるわけがない。
 でも通報者であるアスカの隣のクラスの男子にそのことを聞いた時、
 僕はすっかり頭に血が上ってしまって冷静な判断ができなくなってしまっていたんだ。
 洞木さんは教室にいなかったし、トウジやケンスケに相談しようという才覚もなかった。
 ただ彼の情報を聞いて礼もそこそこに廊下へ飛び出してしまった。
 で、問題の教室の扉の前で僕は立ち止まった。
 相手は何人だろう。
 ええい、何人でもかまうものか。
 僕がどうなってもアスカだけは守る。
 実力はともかく決意だけは誰にも負けない。
 僕はいきおいよく扉を開け中に飛び込んだ。

「いらっしゃぁい、碇シンジ君」

 教室の中央。
 机に腰掛けて足を組んでいるのは確かに女性だったけど、
 髪の毛は金色ではなく、目の色も青くない。
 それに制服も着ていない。
 ミニスカートから飛び出しているむっちりとした小麦色の肢が挑発的だ。
 喋ったことがなかったけど、新任の先生が机に座っていた。
 ケンスケたちが凄い凄いと声高に話していた人だ。
 僕にとってはただの女性の先生に過ぎなかったんだけどね。
 まあ、美人でスタイルも凄いことは認める。
 背の高さも胸の大きさもアスカより優れていることも認める。
 ケンスケは先生の胸の大きさはアグネス・ラムといい勝負だって鼻息も荒く言ってたっけ。
 そうかもしれない。確かに大きかった。
 でも、僕は興味がなかったんだ。
 いや、誤解しないでほしい。
 僕だってもうすぐ16歳の健康な男子高校生だ。
 あっちの方面についての興味がないわけじゃない。
 何しろアスカとキスまで済ましているんだ。
 その先に何があるのか、知りたくないわけがないだろう?
 テレビや映画で美人のお姉さんとかが際どい格好をしているのを見ると正直胸が躍る。
 松坂慶子に関根恵子なんてのもいいと思うし、『エマニエル夫人』や『O嬢の物語』のポスターとかも眩しく見えた。
 ところがみんなが凄いというこの先生だけは特にそういう気持ちにはならない。
 アスカなんかにも「アンタ、どっかおかしいんじゃない?」なんて、
 嬉しそうに…そう、嬉しそうにからかわれていたぐらいだ。
 そんな先生が僕の目の前にいた。
 たしか葛城って名前の先生はにっこり微笑むとすらりと伸びた肢をすっと組み替えた。
 その瞬間に見えそうで見えないスカートの奥の暗がり。
 わざとゆっくり組み替えたんだ。
 それを見せ付けようとして。
 でもその時僕が思ったのは、困ったなぁということだけ。
 よくわからないけど、まずい状況に追い込まれたのではないかという直感がした。
 その直感を確定するかのように突然背後でがらがらと扉が閉まった。
 慌てて振り返ると、そこには誰もいない。
 扉に手をかけ開けようとしてもまったく開こうともしない。
 かわりに鍵が差し込まれた音と、何人かの男子の笑い声がした。
 どういうことだ、これは。
 まさか葛城先生が男子と結託して…。

「どうしたのン。怖い顔しちゃってぇ」

「アスカはどこですかっ」

「あらま、第一声がそれぇ?怖い怖い」

「冗談はやめてください!アスカに何をしたんですか!」

「う〜ん、ちょっち暴れるから縛って…」

「縛ってぇっ?」

 今様に言うと、僕はキレた。
 我を忘れて、女性である先生に掴みかかってしまったんだ。
 結果は滑稽なものだった。
 さっと机から飛び降りた先生は僕の手をかわしてあっという間に僕の後に回り込んだ。
 目標を失ってよろけた上に、さらに背中をドンと突かれて大きな教壇に倒れ掛かる。
 そして、右手を後ろ手に捻り上げられ不様にも教壇に上体を押し付けられてしまったんだ。
 
「まぁ、怖い。か弱き女性に対してこんなことするぅ?」

 どこがか弱いんだ。
 滅茶苦茶強いじゃないか。
 アスカと観に行ったカンフー映画の女ドラゴンみたいだ。
 
「は、離せっ!アスカを返せ!アスカはどこだっ!」

「ん?ああ、シンジ君の大切な金髪の美少女ならあそこよ」

 先生は悠然と指を指す。
 その指先には黒板があった。
 わけがわからないでいると、突然黒板の方でごんごんと何かを叩く音がする。
 
「アスカ?ど、どこにいるんだ!」

 ごんごんごんごんごんっ!
 僕の呼びかけに呼応して、また音がした。
 やっぱりアスカなんだ。

「どこっ!どこにあるんだ、秘密の部屋は!」

 首を捻じ曲げて後の先生を睨みつけると、へらへらと笑いを返される。
 強者の余裕か?
 でも、アスカを助けないと!

「秘密の部屋なんかないわよ。知らないの?黒板の裏側は教員の控え室じゃない。
 しかもこの教室は控え室から丸見えなの。ほら黒板の横に大きな鏡があるでしょ。あれがマジックミラーになっててね」

「アスカっ!そこにいるんだねっ!」

 ごんごんごんっ!

「もうっ、シンジ君の彼女は野蛮ねぇ。靴も脱がせといたらよかった。
 あとで二人で掃除しておいてよ。あの教科主任うるさいんだから」

 勝者は饒舌というものなのか、葛城先生はべらべらと喋った。
 
「靴もって!アスカに何をしたんだ!」

「へ?」

 僕は全身の力を振り絞って葛城先生から逃れようとしたけど、
 つかまれている腕から背中にかけてはぴくりとも動かない。

「あはは、ごみんね。私ちょっち武道の心得があるのよ。
 だから襲っても無駄よぉ」

「襲いませんっ!それよりアスカがっ」

「あら、お姉さんに興味ないのぉ?
 この日本人離れしたグラマラスボディに」

 そう言うと、先生は僕の背中にのしかかってきた。
 うわぁっ、む、胸が!
 なんだ、このぷにょぷにょした固まりは!

 ごんごんごんごんごんごんっ!
 物凄い勢いで壁が蹴られる。
 そ、そうだった。
 こっちの様子は丸見えだって言ってたっけ。
 じ、じゃ、僕の様子や表情もアスカに見られてるんだ。
 先生の胸を背中に押し付けられているところを見たからあんなに暴れてるに違いない。
 ああ、さっきの僕、喜んだ顔とかしてなかったよね。
 自信ないけど。
 こんな時なのについそんなことを考えてしまった。
 それより、アスカじゃないか。
 靴以外を脱がせたってことは…。
 ああ、神様!

「ふっふっふぅ、お姉さんは悲しいわぁ。
 こんなことしてあげてんのはシンジ君だけなのよぉ。うちの生徒じゃ」

「してもらわなくていいです!僕にはアスカだけで!アスカぁっ」

 ごんごんごん!

「もぉっ、アスカ、アスカって、うるさいわよ。
 だいたい貴方たち婚約してるって聞いたけどさぁ」

 その瞬間、背中に圧し掛かっている肉体の悪魔はくっくっと笑った。

「どうせ肉体関係なんか無いでしょ。ま、キス止まりってとこかしら」

 鋭い。
 壁からは余計なお世話とばかりにアスカの靴音が連打される。
 
「てことは一緒にお風呂なんかも入ったことないでしょ」

 くっ。ない。残念だけど、小学校の時もそんな経験はしてない。
 だって出逢った時からアスカを好きになっちゃったんだから、そんな子とお風呂に入れるわけないだろ。

「ところがさ、この葛城ミサトさんはねぇ、シンジ君と真っ裸でお風呂に入ったことがあんのよ」

 音が止まった。
 僕の思考回路も停止寸前になった。
 嘘だ。こんなのまぎれもない嘘じゃないか。
 僕が葛城先生に会ったのはつい最近で、しかもそんな人と裸でお風呂になんか!

「へへへ、シンジ君ったらねぇ、意外にエッチでさ、私の胸に触ったりして…」

 ずんっ。

 揺れた。
 教室が微かに。
 そして、次に物凄く嫌な音がした。

 ぱきっ。

 鏡にひびが入った。

「ありゃっ!ち、ちょっち、待った!今のは冗談!本当の話だけど、冗談なのよぉ!」

 遅かった。
 先生は後ろに跳び退って叫んだけど、その叫びは逆効果だったかもしれない。
 だっていくら冗談だって言っても、同じ口で本当だって叫んでたら何の意味もない。
 
 がんっ!ぴきぴきぴき…。
 
 何かが叩きつけられた音に続いて鏡がどんどんひび割れていく。
 さらにどすんと重い音がすると、ばらばらと鏡が崩れていった。
 そして、その向こうにはアスカがいた。
 猿轡をされて、後ろ手にイスに縛り付けられている。
 そんな状態で無理矢理に足を踏ん張って腰を浮かしていた。
 不自由な姿勢で暴れていたみたいだ。
 その姿を見てまず感じたのが安堵だった。
 縛られてはいたけど制服はちゃんと着ていたから。
 でもその安堵は一瞬のことで。
 だって、あんなアスカの表情を見たのは初めてだったもん。
 顔に書いてあるって言葉があるけど、それをリアルで理解できた。
 この時、アスカの顔に書かれていたのは…。

 アンタ、この前書いたの覚えてる?浮気したらコロスって、書いたわよね。
 アンタをコロシて、その女もコロシて、アタシも死ぬっ!

 アスカは本気だった。
 実はこの時だったんだ。
 アスカ以外の女性を一生愛さないって誓ったのは。
 うん、骨の髄まで。
 
「違う!違うよ!アスカ!僕、そんなことしてない!」

 僕の真実の叫びにもアスカの爛々と燃える目の輝きは消えやしない。
 今にもレーザー光線が飛び出してきそうだ。

「こ、これはきっと悪者の罠なんだよ!」

「あらぁ、悪者って何よぉ。ひっどいわねぇ。シンジ君ったらっ。
 一回だけじゃないのよ。何度も一緒にお風呂に入って…」

「先生!葛城先生っ!」

 義憤に燃えるアスカの瞳から逃れるように僕は先生の方を振り返った。
 血の出るような叫びを受けても先生は微笑んだまま。
 僕は先生を睨みつけた。
 くそぉ、どうしてこんなことをするんだよ。
 しかもこんなに楽しそうな顔して。
 にやにや笑って…、なんて人だ、いや魔女だ。
 あれ?
 僕は変な思いに一瞬囚われた。
 違和感じゃなくて、なんだか懐かしいような…。
 先生の顔を見つめる。
 その笑みが大きく広がっていく。

「ふふふ、シンちゃん。大きくなったわねぇ」

「あああああっ!」

 その悪戯っぽい笑顔を僕は指さした。
 どんどん記憶が蘇っていく。
 その記憶の中にお風呂のことはなかったけど、多分先生の言うとおりだと思う。
 
「思い出した?」

「は、はい!」

 僕は大きく頷いた。
 そうだ。葛城先生。葛城先生じゃないか。
 名前の方は覚えてなかったけど、あのお姉さんだ。
 母さんと先生の家に行った時によく遊んでもらったっけ。
 えっと、葛城先生の名前は…ケンスケが言ってたよね、確かミサト先生…。
 ああっ、そうだ、ミサトお姉ちゃんだ!

「そぉよ、ミサトお姉さんでぇ〜す!」

 葛城先生はにっこり笑って胸をそらした。
 しかしまあ、あのお姉さんってこんなにグラマーだったっけ?
 そこら辺は全然覚えてないや。

「ぐごごごごごぉっ!」

 人間のものとは思えないような唸り声が背後で響いた。
 あ……忘れてた。
 恐る恐る振り返ると、壊れた鏡の向こうの暗がりに後ろ手に縛られた猿轡の少女。
 彼女の瞳はまるで猫のように輝き、体中から異様な雰囲気が醸し出されている。
 『エクソシスト』や『ヘルハウス』なんて目じゃない。
 正直に言うと、助けることを途惑ってしまうような……。

 




「いてっ!」

「何よ、これっ!助けたくないですってぇっ」

 ほら、怒った。
 だから書きたくなかったんだよ、もう。

「助けたじゃないか、すぐに」

「信じらんないっ。最愛の女性があんな酷い目に合わされているのに助けたくないですって!」

「いや、だから、あの時にはもうアスカの身に危険はないってわかってたからさ」

「ど〜してそんなことが言えんのよ。あのビア樽女がアンタとナニをナニするつもりだったかもしれないじゃない」

「はは、ミサトさんがそんな…うわっ」

 椅子に座った僕の肩を両手で掴んで前後に揺さぶる。
 き、キモチワルイ。
 シェーク攻撃は勘弁してよ。

「ミサトは言ってたわよ。あの時、そうなったらそうなったでかまわなかったってさ。
 ど〜せアンタの事だからもっと迫られたらあっさりナニをナニしてたんでしょ!
 このスケベ!エッチ!ヘンタイ!
 このアタシがあそこで大暴れしてなかったらどうなっていたことやらっ!」

 叫びながらもシェーク攻撃は続いている。
 まあ、この程度じゃ済まなかったからね、あの時は。

 




 ばしばしばしばし!
 往復ビンタを2往復。
 げしげし!
 両足の向こう脛にキック。
 そして仕上げは…。
 ぶちゅぅぅぅ。

「ふわぁ、おいおいお二人さん。ここは教室ですよぉ。そんなのしないでくれる?」

「うっさいわねっ!」

 息継ぎをするかのように唇を離したアスカは続いて僕の頸に口を近づけた。
 血を吸われる!
 本気でそう思ったんだ。
 ハマー映画のドラキュラものの見すぎかもしれないけど。
 で、血は吸われなかったけど、そのかわりに大変なものをつくられてしまった。
 これがキスマーク。
 噂には聞いていたけど、まるで虫刺されみたいだけど、これがキスマーク。
 僕の頸や頬には直径2cmくらいの痣みたいな痕があちこちに。
 まるで蚊の大群に襲われたみたいだ。
 難しい顔をして離れたアスカは僕の様子をしげしげと眺めた。
 
「ふんっ」

 鼻を鳴らすと僕に向って顎を突き出し、彼女はその顔をゆっくりと動かす。
 その方向にはミサト先生の笑顔があった。

「はぁ〜い、はじめまして」

「はんっ、さっき会ったじゃない。ひっどい目に遭わせてくれちゃってさ」

「あらあら怖い。縛ったって言ってもさ、タオルとか使ってお肌に傷がつかないようにしてたし、 
 お馬鹿な狼に襲われたりしないように連中を追い出して鍵掛けて入れないようにしておいたでしょ」

 ミサト先生の言うとおりだった。
 ロープの下にはタオルが巻かれていたし、猿轡の仕方もちゃんと考えられていた。
 もっともそういう仕打ちをされたこと自体が問題なんだけどね。

「馬鹿言ってんじゃないわよっ!私の身体がどうこうってことじゃないわ!
 シンジに色仕掛けで迫ったってことが問題なのよっ!」

 あ、そっちが問題なんだ。
 嬉しいな。
 
「シンジにはね、アタシっていう立派な婚約者がいるんですからねっ。
 昔の知り合いだかなんだか知んないけど、アンタなんておばさんはお呼びじゃないのよっ!」

「おば…」

 ミサト先生の笑顔が凍りついた。
 そして、徐々に眉がつりあがっていく。

「婚約者ですってぇ?で、その婚約者さんはシンジ君とどこまでいったのかなぁ?
 ま、あつ〜いキッスは今見せてもらったけど、セックスどころかペッティングもしてないでしょ!」

 僕は声を失った。
 この時代、セックスに関する言葉は平然と交わされるべきものではなかった。
 それがこの日中に大声で叫ばれた。
 さすがのアスカも口をパクパクするだけ。

「へっへっへぇ、この私はシンジ君とお風呂に入った仲なんだもんね。
 あんたは一緒に入ったことある?当然、ないでしょうね」

 アスカは見る見る顔を赤くしていく。
 そして、耳の先まで赤くなったとき、彼女は地の底から湧きあがってくる様な声で言った。
 
「シンジ、帰るわよ」

「え?」

「ほら帰るって言ってんじゃない。さっさとついてきなさいよ」

 アスカは僕を見もしないで重ねて言うと、さっと背中を向ける。
 彼女にしてはいやにあっさりと反撃をあきらめたなと思って、その背中を追おうとした。
 
「へぇ、今から帰ってお風呂に一緒に入るってわけぇ。いいのかなぁ、そんなことして」

 アスカの足が止まった。
 先生の冗談に反応してまた口げんかを始めるの?
 ここは僕がこの場の雰囲気を和まさなきゃ。

「勘弁してください。そんな冗談…。わっ」

 手首を掴まれた。
 アスカの熱い手に。
 
「ぐずぐず言ってないでよ。私に恥かかさないで」

「恥って…」

「決めた。お風呂だけじゃなくて…。ユイママたちには私が話す」

「げっ!」

 言わんとするところはよくわかった。
 それはとてもとても嬉しいことなんだけど、これでいいのか?
 こんな対抗心で僕と…えっと、ナニをナニするのはちょっとまずいんじゃないか。
 それに僕たちはまだ高校生になったばかりなんだし。

「ま、ま、ま、待ってよ、アスカ」

「何よ!私としたくないのっ?そ、その、あ、あの、あ、あれを」

「あららら。お風呂だけじゃなくて一気にセックスまで?ススんでるゥ!」

 はっきり言わないで下さい、先生。
 顔が熱くなった。
 アスカの肩も大きく上下している。
 
「お〜い、外のアンタたちぃ。
 この二人はそこまでいっちゃうそうだから、あきらめなさぁ〜いっ」

 僕たちの頭越しに声が飛んでいった。
 その声に反応するかのように、廊下の方でバタバタと音がする。

「へっへっへ。これで狂言芝居はおしまい。ちょっち待っててね」

 つかつかとミサト先生は扉の方へ歩き出す。
 がらがらっと扉を開けると、廊下に顔を突き出した。

「こらっ、まだあきらめきれないの?はい、そこに並ぶ」

 ミサト先生は廊下に姿を消すと、そこで誰かと話をしているみたいだ。
 その微かな声をそれとなく耳にしながら、僕はちらりとアスカを窺う。
 彼女は顔を俯けている。
 その頬はまだ赤い。
 そりゃあそうだろう。
 興奮したあまりあんなことを口走ったりしたんだもんね。

「シンジ?」

 少ししわがれた声が僕を呼んだ。
 アスカの視線は視聴覚室の床に落ちている。

「何?」

 僕はできるだけ穏やかな口調で言った…つもりだったけどやっぱり少し喉に引っかかっちゃった。
 
「私のこと…エッチな女の子だって軽蔑したでしょ」

 僕はことさらに声に出して笑った。
 この3年同じ屋根の下で暮らしてアスカのことを少しはわかってる…これもつもりだ。
 完璧な自信はないけどね。
 
「軽蔑はしてないよ。でもちょっとだけ、ほっとした」

「へ?」

 僕はアスカのおでこを人差し指で突付いた。
 反動で顔を上げた彼女は怪訝な表情をしている。

「アスカも少しはエッチなことを考えてるんだってことがわかったからね。僕と同じくらい」

 見る見る膨れていくアスカの頬。
 
「い、い、一緒にするなぁっ!」

 よかった。
 これでいいや。
 でもちょっと残念な気持ちもある。
 もしあのままアスカと出て行ってたら僕も大人になっていたのかもって思ったらね。

「ほ〜い。お待たせっ」

 ニヤニヤ笑いながら、ミサト先生が廊下から入ってくる。
 アスカは膨れっ面をしながら先生を睨みつける。
 そりゃあすぐに許せるわけがないよね。
 だいたいどうしてこういうことになったのかも全然わからないのだし。
 ミサト先生はアスカの視線など意にも介さず彼女の頭をぽんぽんと叩く。

「はっ、やめてよ!」

 頭に置かれた手を払いのけたアスカにミサト先生は豪快に笑ったけど、
 その視界にあの壊れた鏡が入った途端に世にも情けない顔つきになっちゃった。
 
「くわぁ、どうしよ!あれって高いんでしょ、きっと!」

 多分そうだと思う。
 マジックミラーなんだから。

「ちょっと、犯人!どうするのよ!」

 先生に追及されたアスカは「ふん」と鼻で返事をしてそっぽを向く。
 
「警察でも校長室でも連れて行っていいわよ。
 私も正直に話すだけだしさ。
 新任教師にいきなり縛り上げられて密室に監禁されましたって。
 それからその教師は男子生徒を誘惑して…」

「ああっ、もう!わかったわよぉ!」

 ミサト先生は頭を抱えた。
 初任給が消えるとか家賃が払えなくなるとかぶつぶつ言ってるその姿を見て、
 アスカはやっと笑ってくれた。
 いつもと同じ様子で楽しそうに。

 




 この騒動がどうしておきたのか、
 僕とミサトお姉さんならぬ葛城先生との関係…、おっとまずいそんな書き方をすればアスカに怒られる。
 えっと、葛城先生との思い出話については次の話で。
 その夜、先生が我が家に来襲したんだ。
 
 あ、念のため言っておくけど、アスカと帰宅しても何も起こらなかったよ。
 まだ大人の関係にはならなくてもいいかなって。
 いつかは…とは思ってはいたんだけどね。
 まあ、昭和50年代に入ったばかりの当時の高校生はこんなもんだ。
 今から考えると純朴なものだと思う。
 まあ、そっちの方面の憧れは今より強かったかもしれないけどね。
 実は僕だってアスカの目を盗んでプレイボーイやGOROを読んでいたんだ。
 どうせアスカや母さんにはばれていたんだと思うけど。
 
 さて、ではその夜の話を次回に。


 

「幸せは球音とともに」

−1976−  中の1
 


 

<あとがき>
 

 暴飲教師葛城ミサト登場。
 ウルトラシリーズならタイトルバックにそういう紹介をされてしまいそうな彼女の初登場です。
 因みに彼女のお父さんである葛城教授(葛城先生と表記)は本人ではなく言葉上で一度登場しています。
 実はその役は最初冬月と書かれてました(大汗)。
 ところが後日その冬月を聖ネルフ学園の理事の一人として登場させてしまったのです。
 ええ、いい加減な作者が完全に忘れていたんですねぇ。
 読者様のご指摘を受け作者真っ青。
 慌てて“冬月”の名前を消したのですが、その時“葛城”という字を当てたのは作家仲間の助言。
 Whoops!様だったか三只様だったかrego様だったか?
 覚えてないからともかく誰かさんありがとう。
 おかげでこの話ができました。お礼はございません。あしからず。

 あ、そうそう、アグネス・ラムは初代クラリオンガールで巨乳という語句のなかったその時代、
 一世を風靡した“豊かな胸”の女性でした。はい。
 

専用インデックスページはこちら

SSメニューへ

感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちら

掲示板も設置しました。掲示板はこちら