幸せは球音とともに

ー 1976 

〜 中の2 〜


 

2005.05.05        ジュン

描:神有月葵

 
 




「うふふふっ!飲むわよ!今日はっ!」

 葛城ミサト先生は宣言した。
 場所は碇家の食堂。
 父さんはまだ仕事なので列席者は僕とアスカと母さん。
 アスカはあきれた顔をして、母さんは仕方がないわねという感じで微笑んでいる。
 
「いいの?明日はまだ学校があるんでしょう」

「大丈夫で〜す!中途半端に飲むとかえって辛いんですよぉ。
 こ〜ゆ〜のは前後不覚になるまで飲んだほうがいいんです!」

 ミサト先生は明言した。
 果たしてそういうものなのかどうか僕にはわからない。
 まあ父さんたちの飲みっぷりを見てると、それも当たっているのかもしれないとは思ってしまうけどね。
 僕としてはこの前にラングレーさんに飲まされたときに二日酔いで酷い目にあったから、
 あんなに飲んで大丈夫だっていうみんなが不思議でたまらない。



 あ、そうそう。
 どうしてミサト先生が我が家にいるのかというと、母さんにお呼ばれしたんだって
 そのことでアスカは不満をまったく隠そうとしていない。
 それどころか、ミサト先生への第一声がこれだもんね。

「ど〜して、アンタがここにいんのよっ」

 晩御飯だって母さんに呼ばれて2階から降りたら、
 いつも父さんが座っている席にミサト先生がいるんだもん。

「ん?お呼ばれしたのよぉ。ほらほら座って座って」

 アスカにはあの後僕らの家族とミサト先生との関係を話したんだけど、
 やっぱり不機嫌なのは変わりがなかった。
 母さんの大学時代の恩師がミサト先生のお父さんで、
 僕が産まれてからも何度も葛城家にお邪魔したこと。
 そして、いろいろご馳走してもらったりしてたんだ。
 でも僕はすっかり忘れていたけどね。
 ミサトお姉さんという存在がいたことを。
 学生の時は下宿していたみたいで、だから僕の記憶になかったのかもしれない。
 ましてその人と一緒にお風呂に入っていたなんて。
 えっと今ミサト先生っていくつなんだろう?
 大学を出たばかりじゃなくて東京の方で何年か先生をしていたって話だから、失礼だけど25は過ぎてるよね。
 ということは僕が一緒にお風呂に入っていたのってミサト先生が高校生くらい…。
 うわっ!それって今考えると凄いことじゃ。
 なるほどそういうことも手伝って機嫌が悪いのかも。
 まあだいたいいきなり縛り上げられて密室に監禁されたんだもんね。
 気持ちはよくわかる。

「ねぇ、ユイママ。私、気分が悪いから」

 うわっ、アスカ言っちゃったよ。
 気分が悪いって言うのが身体の調子が悪いって意味じゃないことは誰の目にも明らか。
 廊下に立って腕組みし、視線は真っ向からミサト先生に。
 
「あらダメよ。アスカ」

 母さんが台所から顔を覗かせる。

「でも、私…」

「ダメですよ。お客様に失礼でしょう?」

「だってぇ」

 青い瞳をミサト先生から母さんの方へ移したアスカの表情が凍りついた。
 どうしたんだろうと僕もその視線を追うと…。
 暖簾から顔を出した母さんの右手には包丁が握られていた。
 ちょうど顔の辺りできらりと蛍光灯に反射する刃の部分をぶらぶらさせている。
 もちろん母さんはいつもの笑顔。
 でも、そのきらめく刃先から僕たちは目を動かせないでいた。
 そりゃあ脅迫してるはずなんかない…よね。

「そうそう、ちょっと手伝ってくれる?まだお刺身切ってるから、サラダの方をお願い」

「う、うん。わかった」

 まるで催眠術にかかったかのように母さんの背中が消えていった暖簾を追うアスカ。
 実の息子だけど母さんはわからない。
 天然ボケなのか計算してのことなのか。





「アンタ馬鹿ぁ?計算してに決まってるでしょ」

 例によって背後から自信たっぷりの声。
 今度扉付近にセンサーつきの鳥の置物でも置いておこうかな?
 ひっかかると鳴き声がするヤツ。
 扉を開ける音とか足音がしないからねぇ、うちの奥様は。
 まあやめておこう。
 わざと蹴飛ばされたりして壊されるのがオチだ。
 ことさらに家庭不和の元をこしらえなくてもいい。

「でもさ、あそこでもしアスカがそれでもイヤだって言ったら?」

「包丁が飛んできて食堂の壁にぐさりと刺さる」

「おいおい」

「かもね」

 アスカはニヤリと笑った。

「冗談よ。私がいやいやでも従うことが読めてたんでしょ。
 お母様はそういう方よ」

 出た。
 お母様、だ。
 アスカと母さんはよその家庭よりもいい関係だとは思うけど、
 それでも時に嫁と姑の対立が表面化することがある。
 そういう時はいつもの呼び方じゃなく“お母様”と呼び名が変わってしまう。
 だからアスカの口から“お母様”が出てくると僕は緊張してしまう。
 大喧嘩になるんじゃないかとひやひやだ。
 ただし、これまで一度もそこまでの喧嘩にはなっていないからちょっとは安心してるんだけどね。
 
「ま、あの時はねぇ。私も大人だったわよ。ぐっとこらえてさ」

 これは明らかに挑発だ。
 何しろ僕はアスカ歴30年を超えている。
 こういうあからさまな地雷を踏むほど愚かではない。
 ただし、彼女は巧みに僕を別の地雷原に誘導するのが得意だからいずれ踏んでしまうのは時間の問題だろう。
 僕は苦笑した。

「あ、何その笑い。馬鹿にしたわね。だいたいレイがくすくす笑うのはアンタに似たのよ。
 娘さんはお母様にあまり似ていらっしゃらないんですねって担任によく言われるの知ってる?」

 ああ知ってます。
 職場でも言われてるからね。
 何しろ僕の勤め先にレイが在学しているんだもの。
 さすがに僕の担任クラスには娘はいないけど、やはり僕的にはやりにくいったらありゃしない。
 まあ優等生のレイだからえこひいきとか言われようがないのが助かるんだ。
 おっとっとその話じゃない。
 さすがにレイの個人懇談に僕が席につくわけにいかないから、
 中等部も高等部もアスカが学園に来ることになる。
 自分の奥さんのことを美しいって言うのは何だけど、
 どう客観的に見てもアスカの容姿は素晴らしい。

 ばこっ!

 パームレストが後頭部に炸裂した。
 あれ?褒めているのにどうして?
 僕は文面を再検討。
 ……おい、ここか?まったく、もう…。

 どう見てもアスカは容姿も素晴らしい。

 こう書き直すと、我が奥様は鼻歌交じりに部屋を出て行った。
 どうやら紅茶かコーヒーをご馳走してくれるようだ。
 まあ、素晴らしい性格をしておいでだ。
 ああ、横道に逸れてしまった。
 ともあれアスカはいくつになっても目立つ。
 40を過ぎてもあの自慢の髪の毛はさらさらのままで、これにはキョウコさんもジェラシーに燃えていたらしい。
 そういえばキョウコさんは40前後でショートカットに変えたっけ。
 アスカもわざわざそれをキョウコさんに自慢するんだもんなぁ。
 おっとまた脱線。
 親子懇談の席からアスカが帰った後、レイのクラスの担任が僕の背中をとんと叩いた。

「いやぁ、ホンマに羨ましい!」

「はい?」

「失礼やけど碇先生と同い年なんでしょう?とてもそうは見えませんわ」

「はは…」

 ここは苦笑しておくしかない。
 まさか胸を張るわけにはいかないだろう?
 職場でわざわざ敵をつくるほど僕は愚か者じゃない。
 これはアスカの相方を30年以上務めてきた者の知恵ってやつだ。
 そのかわり心の中で、いいだろいいだろ!と自慢することになる。
 ああ、僕って暗い!
 こういう時はアスカが羨ましくなる。
 彼女は平気で僕のことを惚気てくれる。
 もっともそれは僕が実に平凡な男だから世間に悪い印象を与えることがないためだと思う。
 アスカがいくら褒めてもその僕が世間一般的なカッコいい男では絶対にないからね。
 だから惚気も愛嬌くらいで留まるってこと。
 でも僕がアスカのことを惚気たら愛嬌では済まない。
 やっかみとかそういう悪感情を回りに振り撒いてしまうに決まってる。
 だから、苦笑。
 アスカに言わせると下らない処世術になっちゃうだろうなぁ。
 まあ、いい。
 こういう気苦労ができるのは僕の特権だと思うから。
 アスカの夫なんだからね。
 あ、こうやって書いているってことはこれも惚気か。
 当然、こういう部分は学校の事務室に届ける原稿からは削除されているんだ。
 これは所謂、私家版。
 おっと、またまた脱線。

「せやけど、娘さんは碇先生の方に似たんですなぁ。お母さんとは髪の色とかも違いますし」

「ええ、僕に似たって言うよりも僕の母。おばあちゃん似なんですよ」

「ああ、そうなんですか。まあお父さんの前ですけど碇は優等生ですしね。いささか無口ですが」

 僕は教えない。
 スイッチが入るとレイの口は止まらないことを。
 これもまたおばあちゃん似だ。
 彼女が饒舌になるのは完全に気を許した相手にだけ。
 どうやら霧島さん…じゃない、今は宮本さんだった…彼女の娘さんとは親友みたいになってるようだが。
 2年にあがり同じクラスになってから、お互いの家を行き来している。
 当時の霧島さんに似て可愛い娘だ。

 僕はさっと振り返った。

 戸口のところに立つアスカの手にフルーツナイフが煌いている。

「あ、アスカ?」

「ねぇ、りんご食べる?頂き物があるんだけど…」

 見るからに屈託のない笑顔だ。
 でもこの笑顔はあの日の母さんを髣髴させる。
 確信はないけどここは従うべきだ。
 僕の本能がそう教えていた。

「食べます。そっちに行って」

「OK!じゃ、剥いといたげるね」

 鼻歌交じりにアスカは去った。
 僕は大きく溜息をつく。
 そして、さっきの一行を訂正した。

 彼女も可愛い娘さんだ。

 上書き保存をクリックすると、僕は腰をあげた。
 リビングで愛する妻が待っている。
 おそらくは僕のりんごの皮は向いても自分の分は剥いていないだろう。
 で、僕に剥けと。
 まあ、いつものパターンだ。





 ミサト先生はぐびぐびっと缶ビールを飲む。
 まるで父さんたちみたいに。
 こんな飲みっぷりの女性をはじめて見た。
 母さんたちもお酒に強いけどがぶがぶとは飲まないからね。
 隣で同じ光景を見ているアスカはまだ不満が表情から消えていない。
 頬を膨らませて、天井からぶら下がっている蛍光灯の傘を見ている。
 だけど視線はミサト先生に。
 相変わらず器用なもんだ。
 まあアスカの性格じゃ簡単に許すとも思えないけど。

 ところが、アスカは簡単に許した。
 それどころかミサト先生の手を握って感謝すらしたんだ。

 ミサト先生があんなことをした理由を知ったから。

「アリガトっ!ごめんね!誤解してた!そこまで考えてたなんて凄いわ!
 まるで軍師みたい!それに恨まれてもいいだなんてなんていい人なの!」

 アスカは言っちゃ悪いけど単純なところがある。
 自分の判断で180度評価が変わることもあるんだ。
 この時もそうだった。
 
 ミサト先生が2年生の男子たちの密謀をたまたま聞いたことが発端だった。
 あのマジックミラー越しに準備室で聞いたんだって。
 準備室の電気が消えていたので誰もいないと思い込んだらしい。
 その時、ミサト先生は…。

「へっへっへぇ。お昼寝してたのよぉ」

 らしい。
 立派な理由だ。
 それはともかく、連中の会話を聞くと話に耳にしていると、
 その中に聞き覚えのある名前が出てきたんだ。
 碇シンジ。
 そう、僕の名前。
 そこで耳をそばだててよくよく聞いてみると、どうやら彼らが計画しているのは
 何と“碇シンジ襲撃計画”。
 アスカに告白しても無理だと悟った連中が、僕の方から身を退かせようと考えたわけ。
 
 アスカは怒った。
 立ち上がって握りこぶしを突き上げると叫んだんだ。

「そいつらの名前教えなさいよ!ぶっ殺すっ」

「えへへ、ダメなんだなぁ、それが」

 ミサト先生は嬉しそうに笑った。
 
「これでも教師だからさぁ、問題が起きないようにしたわけよ。
 だからこの事件はあれでおしまい。もう、揉め事は起こさないでよね」

 でへへと笑う先生にアスカは不承不承腰を下ろした。
 だけど、やはりその先の話をせがんだんだ。
 僕だって気になる。
 危うく襲撃されるところだったんだもんね、僕自身が。
 ついでに言っておくと母さんはコップに注いだビールをちびちびと飲んでいる。
 素知らぬ顔で笑みを浮かべながら。そう、全身を耳にして。

 彼らの襲撃計画が冗談のレベルではないことがわかると、ミサト先生は考えたんだ。
 ここで説教して計画をやめさせたとしてもまた形を変えて実行されるに決まっている。
 こういう場合は彼らの意識を昇華させるしかない、と。

「ふふ、まるで教師みたいね、ミサトちゃん」

 そこまで話をし息継ぎに(って感じだったんだ)ビールを飲んだミサト先生に母さんが声をかけた。

「酷いなぁ、ユイさんは。私はもう立派な高校教師なんですよぉ」

 母さん相手には微妙に口調が変わる。
 僕たちはミサト先生の授業じゃないから実際には聞いたことはないけど、
 噂ではかなりフレンドリーな感じの授業らしい。
 後で本人に聞いた話じゃ母さんのことを姉のように慕っていたんだって。
 昔はユイ姉さんと呼んでいたらしい。
 さすがに僕みたいな大きな息子がいるから“姉”は取ってしまったとのことだ。
 きっと母さんは“姉”つきで呼んで欲しいと思っているに決まってる。

 さて、その計画にミサト先生が乱入したのは聞いたその場だったらしい。
 連中も驚いたことだと思う。
 よからぬ相談をしていたときにいきなり教師が姿を現したんだから。
 おそらくその登場の仕方も派手だったんじゃないかな?
 じゃじゃ〜ん!って自分でファンファーレなど奏でながらとか。
 最初からミサト先生にペースを握られてしまった彼らはまったく別の計画に着手することになった。
 すなわち、碇シンジ誘惑計画だ。
 僕がミサト先生に誘惑されてだらしない姿になっているところをアスカに見せつける。
 馬鹿らしいようだけど、けっこう核心を突いた作戦だ。
 もし僕が別の女の人に腑抜けのようになってしまっている現場をアスカが見たら怒るだけでは済まないと思う。
 それこそ日頃口にしていることを実行するかも。
 アンタを殺して、私も死ぬ。
 危ない危ない。
 その気はなかったけど、あのままミサト先生が真剣に迫ってきていたら僕はどうなっていただろう。
 もちろん僕にそんな気持ちはなかったけどね。
 それでも100%の自信はない。
 これからはもっと毅然とした態度でいなければいけないんだ。そう僕は自分に誓った。
 ミサト先生が連中に授けた作戦はこうだった。
 アスカを呼び出して監禁する。
 次に僕を呼び出してミサト先生が誘惑する。
 その光景を準備室に縛り上げているアスカに見せつけるというわけ。
 もっともミサト先生は途中で誘惑するのを止めて僕とアスカにこっそりと事情を説明し、
 それでも二人の愛は変わらないということを連中にわからせることだったらしい。

「ちょっと待ちなさいよっ!」

 アスカが怒鳴った。
 また立ち上がってミサト先生を睨みつけている。
 ああ、またスイッチが入っちゃった。

「全然誘惑やめてなかったじゃない!」

「あ、へへへ、ちょっちね、本気になっちゃったって言うか」

 ミサト先生はぺろりと舌を出した。

「それにまさかあんたが鏡を蹴破るだなんて想像もしてなかったのよぉ。
 まあ、その時点で作戦を咄嗟に修正して大成功に導くとは私もさすがよねぇ。あはははは!」

 僕は思った。
 アスカも結構そういうところはあるけれど、ミサト先生の自画自賛は物凄い。
 だってあのアスカがあきれ返って何も言えなくなってしまうんだもの。

「で、ミサトちゃん。鏡の修理代は?」

「ああ、それは惣流さんの授業料に加算されて…」

「えええっ!」

「って、いうのは冗談。躓いて割ったってことにしましたから学校で直してくれるみたいです」

 ミサト先生はニヤリと笑った。

「はっ、また色仕掛けでそう仕向けたんじゃないの?」

「アスカ!」

 僕は少し顔色を変えたけど、ミサト先生はへへへと相好を崩した。

「らくちんだったわよ。あの事務長。気をつけてくださいね、怪我をされたら大変だなぁんて」

 ああ、したんだ。色仕掛け。

「だって、結構高いんだもん、修理代。そんなの払わされたら私干上がっちゃう」

 まあ、こんな勢いでビールを飲んでいたら干上がりはしないと思うけど。

「ふふ、ミサトちゃんたら。ああ、そうね、これからアスカのことは名前で呼んであげてね」

「了解!葛城大尉はそうするであります!」

 おどけた口調で敬礼までしてみせる。
 
「ふんっ、新入りの二等兵の癖に」

「あらぁ、じゃあさぁ、あんたはこれでいいのぉ?
 ユイさん、シンちゃん、惣流さんって感じで。
 あんただけ仲間はずれって感じになっちゃうんだけどなぁ」

「ダメ!シンちゃんは不許可!そんなので呼んだらただじゃすまさないから!」

「ええ〜、だって小さい時からシンちゃんなんだもん。いいじゃない」

「絶対にダメっ!ま、そんなに親しいならシンジ君くらいは許してあげてもいいけど」

「シンジ君、かぁ。ま、それでもいいか。じゃ、あんたのことはアスカちゃん?」

「ふん、アスカでいいわよ。ちゃんを付けられるのあまり好きじゃないし」

「了解!葛城少佐は…」

「こら、すぐに昇進するな!」

 馴染みだした。
 そんな感じがした。
 アスカとミサト先生は結構仲がよくなるかもしれない。
 ただ、ミサト先生は人をからかうのが好きだ。
 この時もアスカのことをさんざんからかった。
 題材は僕の小さい時のこと。
 お風呂に一緒に入ったのは事実らしく、その上とんでもないことを言い出す始末で。

「シンちゃん…じゃない、シンジ君はおっぱいが好きでねぇ。
 もしかしたらこんなに立派な胸になったのはシンジ君がちゅ〜ちゅ〜してくれたおかげかも」

「してません!」

 アスカが立ち上がる前に、僕が立ち上がった。
 
「あら、してたわよ、シンジ。まだ2歳くらいだったかしら。おっぱい欲しいなんて可愛い口調で」

 僕は天井を見上げた。
 母さんまで…。

「へ、へぇ…、そんなことがあったんだ」

 怖い。
 斜め下を見るのが怖い。

「そうよぉ。あ、そういやアスカ言ってたわねぇ。今晩は一緒にお風呂に入るって」

 がたんっ!
 椅子を弾き飛ばしてお隣さんが立ち上がった。

「まあ、大変。今日がそんな記念日になるなんて」

「母さん!」「ユイママっ!」

 少し目を赤くして僕たちを見上げて微笑む母さんがどこまで本気かわかったもんじゃない。
 でもこっちの人は本気だってことはよくわかる。

「あ、じゃお姉さんも一緒に入ってあげる。色々教えてあげようかなぁ。正しい婚前交渉の…」

「ミサトさん!」「この色ボケ教師!」

「困ったわねぇ、キョウコになんて言えばいいかしら」

「もう!勘弁してよ!」

 その時、すぐそばで微かな笑い声が聴こえた。
 アスカの笑い声だ。
 しかもよからぬことを思いついたとき特有の。

「わかったわ。じゃ、電話する」

 アスカはすたすたと黒電話に向かうと、さっさとダイヤルを回しだした。

「おおっ!アスカってすご〜い!どうする、シンジ君?彼女はヤル気満々ですよぉ」

 ミサト先生のテンションはどんどんあがっていく。
 母さんの方は素知らぬ顔でマカロニサラダをちまちまと食べていた。
 えっと、今向こうは何時だっけ?
 今こっちが夜の8時だから…朝の6時!
 はは、起きてるかな?
 アスカは電話に出た人に早口で喋りだした。
 僕もアスカに英会話を特訓されてるから部分部分はわかる。
 どうやら相手はキョウコさんでラングレーさんに代わってくれと頼んでいるみたいだ。
 この時点で僕は安心した。
 アスカが僕とナニをナニするつもりじゃないってことがわかったからね。
 いくらなんでも父親にはそんなことを言わないだろう。
 ま、ちょっとは残念だけど、ね。
 それから電話にラングレーさんが出たみたいで、アスカはさらに早口で喋りだした。
 よく舌がこんがらがってしまわないものだ。
 すると受話器からラングレーさんの怒号が響いてきた。
 ど、どうしたんだろう?
 アスカはにやりと笑うと、受話器に手で蓋もしないでミサトさんを手招いた。

「へ?私?」

「ええ、ミサトに代わってくれって、パパが。
 私がアンタに縛られて、密室に監禁されて、狼たちの餌食になりそうだったって言ったの」

 ミサト先生の顔色が変わった。
 何しろ受話器が壊れるのではないかと思うほどのラングレーさんの怒鳴り声だ。

「あ、え、えっと、私、英会話はちょっち…」

「あらら、ミサトって英語の教師じゃなかったかしらぁ?」

 うわぁ、アスカが楽しげに笑ってる。
 その笑い方やめようよ。
 美人が台無しだってば。

「わ、私、専門がグラマーなのよ。ほ、ほら、身体がグラマーだしさ」

「早く代わらないと、パパ短気だから、何しでかすかわかんないわよ。
 アンタみたいな乳牛なんてちょちょいのちょいの牧場主なんですからね」

 アスカの脅しにラングレーさんの怒号の伴奏曲。
 ミサト先生の腰がひけるのも無理はない。

「ゆ、ユイさん…」

「仕方がないわね、ちゃんと説明すればわかってもらえるわよ、ミサトちゃん」

 助けを求めた母さんににっこりと微笑まれて、ミサト先生は進退が窮まった。
 あの母さんがこんなに面白そうな機会を逃すわけがない。
 世にも情けない顔で大きな溜息をつくとミサト先生は粛然と電話台に向う。
 そしてアスカから受話器を受け取るとおずおずと切り出した。

「Hello…」

 その後のことは書くに忍びない。
 ミサトさんは汗びっしょりになりながら必死に喋っていた。
 間違いなくあれは冷や汗。
 でもその時思ったのは英語の教師でもなかなか英会話は難しいんだなってこと。
 アスカに英会話を習っていて気がついたんだけど、学校の英語と生きた英語は違うんだってわかったんだ。
 だからアスカは一生懸命に僕に教えてくれているのかもしれない。
 学校の英語だけじゃラングレーさんとちゃんと会話できないもんね。
 ミサトさんはしばらくして母さんが助け舟を出して地獄の責め苦から開放された。
 母さんの英語ってけっこう凄いんだ。
 よく考えたらこんなに長い英語を喋ってるのを聞いたのは初めてかもしれない。
 そのうち、言葉が日本語に変わったってことは相手がキョウコさんになったのかな?
 アスカがさっと椅子を電話台のところに持っていく。
 にっこり微笑んで腰掛ける母さんは長話の様相。
 おいおい相手は朝なのに。いいのかな?
 因みにこういう気の利く姿はアスカは外では滅多に見せない。
 学校なんかでは僕をこき使っているように見せるんだけど、
 家での姿はみんな想像できないだろうなぁ。
 まあ、いつものことじゃないけどね。
 さて、すっかりほろ酔い気分も消えてしまった先生は物凄く疲れた顔で椅子に座った。

「はい、ど〜ぞ」

 すかさずアスカが蓋を開けた缶ビールを差し出す。
 ミサト先生は恨めしげな目でそれを受け取ると、一気にぐびぐびと飲み干した。

「はぁ、自信喪失。私、英語教師なのにぃ」

「仕方がないわよ。パパ興奮したらケンタッキー訛りで早口になっちゃうし」

「もう、酷いわよぉ。アスカ」

「ふふん、これで貸し借り無しね。縛られたことも全部忘れてあげる」

「くそぉ、こうなったら1年の英語担当に頼んで緊急テストを」

「いいわよ、別に。私どうせ100点取るし」

 涼しい顔のアスカにミサト先生は本当に悔しそうな顔になった。

「ああっ、じゃっ、シンジ君を誘惑して」

「ダメダメ!それはダメっ!」

 今度はアスカが顔色を変えた。
 これでミサト先生もいくらか気が治まったのだろう。
 苦笑すると冷えてしまった焼き鳥にかぶりついたんだ。



 あ、ひとつ付け加えておくと、
 襲撃計画を企んだ連中はもう二度とアスカと僕にちょっかいを出さないと誓ったらしい。
 その誓いを信用できないと言うアスカにミサト先生は豪快に笑い飛ばした。

「絶対に大丈夫!
 あそこでさ、連中を横一列に並ばせて言ってやったのよ。
 あの二人の様子は聴こえたでしょう?あきらめなさいってね。
 それから付け加えてやったのよ。
 今完全にあきらめるならご褒美を上げるって。どうする、みんな?って言ったらいちころよぉ」

「ご褒美って?」

「ほっぺにチュッ」

「げっ!したの!」

「うん、したわよ。でもこんな集団で人を襲う計画なんかするんじゃないわよって、でこぱっちんとセットでね」

 こともなげにミサト先生は言ってのけた。

「ま、可愛いシンちゃん…じゃない、シンジ君とその婚約者のためだもんね。
 大盤振る舞いってヤツよ。あはははは!」

 その時、アスカがすっと立ち上がった。
 そして、ミサトさんに向って最敬礼したんだ。

「アリガト!ホントに、アリガトっ!」

 もちろん、僕も慌ててアスカに倣った。

「ありがとうございました!」

「あはははは、照れるじゃない。そんな。えへへへへ」

 照れ隠しなのか、ミサトさんは新しい缶ビールの蓋を開け、ごくごくと喉に注ぎ込んだ。

 

 こうしてミサト先生はアスカとも親しくなった。
 むしろ、昔馴染みの僕よりもね。
 まあ、その魅力的な肉体のことを考えるとあまり僕と親しくなってない方がいいような気がする。
 でも、少しだけ思った。
 お風呂に入った記憶がすっかりなくなっているのが残念だって。
 僕だって年頃の男なんだ、うん。
 だけど、ケンスケたちには絶対に秘密にしておこう。
 袋叩きにされるのがオチだからね。

 さて、次はミサト先生のお話。
 どうして関東に住んでいた先生がこっちの学校に勤めることになったか。
 もちろん、僕とアスカのためにじゃないことは確かだ。
 





 

「幸せは球音とともに」

−1976−  中の2
 


 

<あとがき>
 

 ミサトさんとアスカの親交結束編です。
 舞台が碇家の食卓オンリーなので、
 時事ネタも野球ネタもございません。
 あしからずご了承下さい。
 今の学生さんには昔の英語って想像もつかないだろうと思います。
 息子の中学の英語の教科書を見て、何だこの挿絵や写真でいっぱいの教科書はって思いましたから。
 会話することよりも読み書き主体でしたからねぇ。
 次回は少し野球ネタも。とある男も登場…まで進むかな?
 それからミサトさんがこっちに来た事情も。
 
 

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