『アスカのもたらす危機と安全、
そして僕のこころ』



一渇された途端、桶や柄杓から手を放してしまって、大きな音が境内に響いた。
音を辿れば、今や女の子にキスされる直前です、って格好の僕がいるわけで。
静かだけれど数人の部外者がこの事態を見てるに違いない。
じりっともう少しアスカの顔がにじり寄った。僕の顔は既に火を噴きそうだ。


「最後よ。なに隠してるか、言おうね。」

「さ、最後って…何する気だよ。」


アスカはそこでまぶたを閉じた。
リッとした唇は、微かに開いて濡れたように光っていた。
し、心臓が、停まっちゃうかも。
嘘じゃない。
この時点でアスカから任されたこの後の処置に対し、僕は指一本動かせないまま蝦蟇(がま)の油状態だったわけで。


「ア、アスカッ。ねえっ!」

「シンジ。キス、してくれないの。」


目を瞑ったまま答えるな、目を開けて対応しろよ。


「ば、バカ。そんなことできるわけっ。」

「一回したことあるじゃない。」

「あんなの数に入るわけないだろっ。勘弁してよ、困らせないでよ。」

「じゃあ、2回目して。」


そういうとパッと目を開き、頬を包んでいた手を離して首に巻きつけて来た。
こッ、このまま引き寄せられたら。


「わぁ!わかった、わかったぁっ!白状するからっ!」


シーツほどもある白旗をばさばさと振り回して降参せざるをえなかった。
アスカはにっこりと(邪悪な)笑顔を浮かべ、巻きつけてた腕を緩めてくれたわけで。
ほんの一瞬、このままキスでも何でもしちゃえば勝てる、
と途方もない事も思いついたけど、
到底実行できるわけなんかなかった。
第一、そんなことして泣き出されたりでもしたらどうするんだ。

――アスカが泣くなんてことあるわけないじゃないか。

胸の中で呟いた。アスカが泣くなんてことがありえるわけがない。
何でこんな事思ったんだ、馬鹿みたいだ。


「で?」

「お墓参りに来ただけだよ。これはほんとの話。それだけっ。」

「ほんとに?」

「こんなことで嘘ついて何になるんだよ。」


ふーん、といいながらアスカは首に腕を回したまま、僕の周囲を半分回った。
それを目で追う。まだ半信半疑って顔をしてる。
こいつなんでこう勘がいいんだろ。


「ねえ、」

「なにさ。」

「聞いてもいいよね、誰のお墓?」

「し、親戚の、お墓。」

「知り合いのお墓って言ってなかった?」

「知り合いだし、親戚でもある。
ほら、親戚でもあまり付き合ってなかった家ってあるでしょ。」

「まぁね。」


これ以上、お墓のことには触れられたくなかった。


「ねえ、もういいだろ。」


自分でもはっとするほど嫌な声だった。慌てて言い加えた。


「ほら、蒸し饅頭のいい匂いがするじゃない。奢るよ。」


いいタイミングで湯気が僕らの間を抜けていった。
茶屋を振り返るといつものお姉さんがにっこり笑っていた。
もしかして、ずっと見られていた?するりと首からアスカの腕が抜けた。
2人で会釈を返し、縁台に敷かれた緋毛氈(ひもうせん:赤い敷物)に腰かけた。
酒種餡の蒸し饅頭だ。餡子をその場で皮にとって蒸してくれる。アスカは3つも注文した。
パフェ食べに行ってきたんだよね。その後で?
苦いお茶を含んで手持ち無沙汰で待っているアスカ。
その後ろには、大きな連翹(レンギョウ:長いしなった枝に黄色の小さい花が一杯に咲く)の一叢があって、その黄色の中に埋もれとても明るく見えた。
黄色いセーター、優しい、女の子の形。
白黒の世界にずっと慣れていた目には鮮やか過ぎる光景だった。
もし、この子がここにいなかったら、僕はしばらくモノクローラルの冷たさに
浸かったままでいたことだろう。
昔あったように壊れてしまったかもしれない。

日射しが、急に広がった。雲が切れたんだ。
見渡すと、境内には思っていたよりずっと多くの花が咲いていた。
やっと蒸し上がったあつあつの饅頭を割って、アスカは顔中笑顔のまま口の中に入れた。


――キスしたかったな。

何言ってんだ僕は、今更。



アスカのもたらす危機と安全、そして僕のこころ −了−

 

挿絵:六条一馬

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