『世間は温かくなっていく。僕らも』



「シンジ、ねぇシンジってば。起きてっ。起きなさいっ!」

朝起きるときって、寝ぼけ眼で半分頭が動かないっていうのが漫画なんかではパターンだけど、
あんなにネボスケが多かったら日本みたいな早起き社会が成立するわけはない。
少なくとも朝起きるのは苦にならない人が多数派であるということだろう。それは解かる。
早起き社会もやむをえない。だが、その範囲内においてはどう暮らそうとそれは個人の自由だ。
遅刻しそうになって走っていくのも、ぎりぎりまでベッドにもぐっている至高の時間には替えがたい、と
思う人はそれを選べばいいんだ。とやかく言うのは余計なお世話だ。

だが、そんな理屈を鼻ッから受け付けない奴もいる。
僕の家族、というか友人というか、同居人。惣流・アスカ・ラングレー。
彼女の朝は早い。6時には着替えてランニングに飛び出していく。
それこそ雨でも雪でも。暴風雨警報とかが出てでもいない限りね。
僕は2時ごろまで起きていることもあるしあいつは11時までには寝て朝は6時なんだから、睡眠はあっちのほうが多い。
でもそんな理屈は選択した段階でわかってたことでしょ、で済まされてしまうんだ。

「ほらっ、起きてッ!」

とうとう掛け布団ごとベッドから引っ剥がされてしまった。ええ、もう7時なの?
見るとまだ6時15分じゃないか。

「何するんだ!まだ起きる時間じゃないだろ!」

僕は半分切れた。相手がアスカじゃなかったらもっと怒っていただろう。

「ね、いいもの見つけたの。一緒に見に行こ、ねっ。」

話が無視されるくらい腹の立つ事ってないよね。
でもそのときのアスカは額に汗を浮かべ、何かを僕に見せたくて一生懸命駆け戻ってきたのが明らかで。
僕はぶつぶついいながらもズボンをはいてシャツを羽織った。
最近パンツ一枚で寝るんだけどその格好で起き出してもアスカは顔色一つ変えない。
早く早くと、隣で急かし続けている。
一度突っ込んでみたんだけど、本気で女の子がキャアキャア言ってると思ってるの?と鼻で笑われただけだった。
それから僕は少しだけ女性不審だ。

僕らの家は以前住んでいたマンションの跡地にある。こじんまりした軽量発砲コンクリートの一戸建てだ。
残骸を片付け盛り土をし、適当に起伏をつけて芝の種を撒いた。そこに高い塀に囲まれて建っている。
その周囲は以前は並木通りだった。楓やプラタナス、イチョウや花梨、色々な樹木が通り毎に植わっていた。
だから、イチョウ通りとか花梨通りとか名前が付けられていた。今は修復中の公園みたいになっているけど。
僕は、アスカの跡を追ってずっと駆け下って行った。こんな速い速度でよくも走れるもんだと感心する。
また上り坂を走り、その後はまた下りだ。大きなカーブを歩調も乱さず、右に左にと曲がっていく。
溌剌と、アスカの身体はまるで鹿か何かのように弾む。それを眺め、気を散らして苦しさに耐える。
でも、とうとういい加減僕が限界になりかけたとき、アスカは急に速度を落とした。

「ほらっ、ほらこれ!」

「え。」

そこには、何本かの枝の先に桜が開き、ふっくらとその後に続く美しいつぼみがいくつも輝いていた。

「これ、桜よね。」

「そうだよ、桜だ。」

「この通り全部、桜の並木なのよ。今朝気がついたのこの通り一帯全部、この花が咲いているの。」

「すごい。」

僕は、枝の先端に一斉に開いているわずかに色づいた並木を、息を弾ませたまま見渡した。
僕自身も、もの心ついてから初めて見る桜並木だった。並木の空気全体が淡い桜の色に染まっているような。
そんな、優しい色だった。ピンクでもない、桃色でもない、桜色としかいえない色だった。


「ああ、凄い。」

風が吹き、枝が揺れた。

「ねえ。」

「なに?」

「誉めてくれないの?」

「え、ああ。」

考えたら、アスカは僕以上に桜のことを知らないはずだった。そのアスカが一番最初にこのことに気がついたんだ。
もう何日かしたら、皆も気づくだろう。桜を見るために人が溢れて、誰でも知っている場所になるだろう。
でも、僕は知ってる。ここを一番最初に気づいたのは、アスカだということ。
誰でもない、遠い国から来て、日本に住み始めたばかりの、この女の子がいちばん最初に気が付いたと言うこと。

「凄いよアスカ。大手柄だよ。ここにこんな桜並木があるなんて、誰も気づいてなかったと思うし、
咲き始めたのを見たのは、僕らが最初だよね。あ、もちろん、君が一番だよ!」

「へっへっへ〜」

アスカは身体をねじらせて照れ笑いをした。高校生になったけどアスカの中身はさほど変わっていない。
僕もだけどね。暗く冷たくひねくれていた自分を思い出すと、今の世界が信じられない。
中学の頃の喧々したアスカ、取り付くしまも無かった彼女は、今のこんな様子とは全然違う女の子に
見えたかもしれないけれど、それでもだ。
アスカは機嫌よく笑うと手を差し出した。こういうときはすぐ反応しないと。
その上に首にかけていたタオルをがポンと置かれた。

「汗びっしょり、拭きなさい!」

気づいてなかったけど、僕の顔は汗だらけだった。それを彼女のタオルで拭うとさっぱりした。
返そうとしたその手を引っ張るようにしてアスカは走り出した。

「ねぇねぇ。お寺のお団子屋さん、もしかしたら草団子とか花見団子もう出してるんじゃないかな。」

「さぁ、どうだろう。帰りに寄ってみようか。」

「ナイス、シンちゃーん。」

懐かしいミサトさんの口真似をして、アスカはスピードをあげた。僕は負けまいとして歩幅を伸ばした。
さっきは起きたばかりで遅れを取ったけれど、身体があったまれば女の子に負けないぞ、なんて。

「おっ、やる気?」

アスカが言った瞬間、全力でダッシュをかけた。

「あっ、ずるいっ!」

そのまま100mくらい引き離したまま走っていたけれど、すぐに追いつかれてしまう。
アスカはからかうように笑いながらどんどん僕を引き離して行った。く、くそ〜。
気が付いたら、僕らの家に続くこの通りの並木も、随分緑色の陰が濃くなっていた。
見上げると、枝ごとに小さな葉がびっしりと芽吹きだしていて。
坂を上った先でアスカが手を振っていた。



世間は温かくなっていく。僕らも −了−


 

挿絵:六条一馬

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