『驚天動地って
ほんとに使える言葉だったんだね』



僕は困っている。アスカとの関係が急にうまくいかなくなったんだ。
別に今までと変わったわけじゃない、ただ普通過ぎるんだ。
朝、僕の部屋に急に入って来て起こすなんて事はしなくなった。お陰で遅刻が増えた。
ランニングの後も、今までのようにタオルを取ってくれとか下着も一緒にとか言わなくなった。
ちゃんと自分でやっている。
むしろ(考えればこれが当たり前なんだけど)僕の目に下着を触れさせないようになった。
きちんと部屋の中で制服に着替え、休みの日もだらしない格好を見せなくなった。
口調は今までのままだし、そっけないということも無い。朝だって一緒に出かけている。
こうして並べると何も変わっていない。でも、どこかしら今までと違うんだ。
違ったこと。
僕が寝坊して起きないときは、(無論何度もドアの外で呼んでくれるけど)先に行ってしまう。
こっちから頼まないと宿題を教えてくれない。
無理やりやっていた家庭教師も、強制しなくなった。(これも頼めばちゃんと教えてはくれるけど。)
朝は一緒だけど、帰宅時はあまり一緒に帰らない。(僕が誘えば大抵は付き合ってくれる。)
僕以外の男子達ともよく話すようになった。(例の朝礼で知り合った奴なんかとよく話している。)
それどころか、他の男子達と帰ることもある。喫茶店にいるのも見かけたことがある。
女の子達とも、今まで以上に仲良くなった。(今までちょっと浮いてるところもあった。)
僕らの共通の友達から「碇。別に振られたわけじゃないよな。」なんて聞かれるけど・・・
元々そういう関係じゃないから振られたも何もないんだけどな。いや、そう思ってたんだけどさ。
でも、今になってわかった。
僕とアスカは、相当「そんな関係に見えてたし、事実上そうだった」ってこと。


「なんだ、今頃になって気が付いたのか。」

「失ってみて初めて気づく大切な存在。テンプレだな。」

「あのボケようじゃ、アスカだっていい加減あきらめちゃったのかしらね。」


中学校からの友達たちの意見の冷たいことったらない。
しかも、全面的に僕が悪いってことになってる。そうなの?
アスカが僕のことを特別扱いしてた、それは確かにそうかもしれない。
でもそれは外から見たらそうかもしれないけど、僕にしてみたら玩具にされてたとしか思えなかった。
もしくは家政婦扱いされてたとかそういうことでさ。

……そうかな。

そう考えた途端、思い当たることが次々と浮かんできたんだ。
確かに中学時代はそうだったかも知れないけど、最近は随分違っていたんじゃないかと。
甘酒を吹いて、冷ましてくれたよね。照れながらちょっとした優しさを見せてくれる。
みんなの前で無理を言ったときに、家に帰ってからこっそり謝ってきたりとか。
勉強の教え方だって、優しくなった。
怒鳴ったり叩いたりしなくなって丁寧にわかるまで教えてくれて。
まあ、そう言うのって普通、女の子ならあったりまえの事だけどさ。

一緒に帰る時も先に立ってどんどん歩いていくんじゃなくて、寄り添うように歩くことが増えた。
腕を絡ませたり、手を握ったり。一緒の傘に入ったり。(皆がいない所でだけだけど)
家でも転げ回って遊ぶより、背中合わせに座って静かな時間を過ごすことが多くなった。
僕はそんなアスカにどきどきしたり、頬の温かさを感じたりする事が増えてたんじゃないか。
今までと、中学校の頃とは違ってるって事に気が付かないままで。

でもここ暫くのアスカは、一緒に住んでいるだけの普通のクラスメート見たいに振舞ってる。
「だけ」って言ってもそれって凄く特別なことだよな。「普通」なんかじゃないよ。
TVやDVDの映画をみていると、いつのまにか横に座って一緒に見ている。
一緒の毛布に包まったり、同じ袋のお菓子を摘んで。僕の腕を枕にしたり、寄りかかったりして。
今は、そんなことはしない。一緒に見る時も別のストゥールに腰を下ろして見てる。
気が付いていなかった、今までと違う距離。
それを寂しいと感じている自分に、やっと気が付いた。
こんなのは嫌だ。あいつと僕との距離じゃない。でも、元に戻りたいってどう言えばいいんだ。
おどおどした目でアスカを見ているしかできない僕。それに気づいてるのか気づいていないのか。
「今まで通り」「友達としての距離」を保ち続けているアスカ。

そして、僕はある日決定的な一言を聞くことになる。


「じゃあ、皆で映画でも見に行こうよ、今度の土曜日の放課後。」

「いいねえ。」「そうしよう。」とそこに固まっていた5−6人が同意したようだった。

「あ、でも碇君は誘わなくていいの? 仲良しって言うか、付き合ってるんでしょう?」

「シンジ?うーん、シンジとは仲良しだけど、そういつもいつも一緒にいるわけじゃないし。」


内心、ぎくりとしながら部屋の隅で黙ってPCに向かって宿題を済ます振りをしてた。


「シンジは別に私の彼って訳でもないし、向こうもそう思ってないよ、きっと。
必要があって一緒に住んでるだけだもの。」

「へえ、そうなんだ。何故一緒に住まなきゃいけないの?」

「高校からのもんは知らんことやが、碇と惣流には色々事情があってな。」

「詳しいことは言えないんだけど、人生色々あるのよ。」

「ふーん、複雑なんだね。」


そうさ、前は確かにそうだった。僕らは一緒に住んでまとまって行動することで護衛の労を省く。
そういう必然性があったんだ。だけど今は、本当はそんな必要は無いんだ。
僕らは組織が何も言ってこないのをいいことにそのまま一緒にいるだけ。
聞かれないから応えていない。それは、そのまま僕らのあいだそのままの事なんだ。


『向こうもそう思ってない』この言葉は。ああ、この言葉は僕がアスカに投げつけた言葉だ。


笑いさざめく彼らには何気ない話題の一つにしか過ぎなかったろう。
だけど僕には、馬鹿な僕には金属の破片が喉にでも突き刺さったように思えたんだ。
その破片はずぶずぶと鈍い痛みを伴って内臓を抉ってくる。
自分の言った言葉に自分で傷付いていれば苦労はないや。

教室が静かになった。
アスカたちはいつのまにか教室からいなくなっていて、僕は一人きりになっていたのだった。
立ち上がるとザックを背負って廊下に出た。明るい廊下には人影がなく、放課後の教室は静かだ。
通り過ぎるどの教室にも誰もいない。部活に出ている奴らの荷物が机の上に置いてあるだけ。
長い廊下を端まで歩き階段を下りると通用口、その向こうに生徒用の靴箱が並んでいる。
どうしてだろう、いつもざわざわしているその場所にすら誰もいなかった。
こんなことがあるんだろうか。
本当に、僕はまた世界の最後の一人になってしまったのだろうか、という考えが浮かぶ。

いや、今更そんなこと。
この世界は再び戻ってきた世界。もう揺らぐことの無い安定した世界のはずだ。
その証拠にこの世界は僕自身にすら容赦は無い。
思い通りにはならない。必然によってしか動かない。
物理的法則に縛られた世界であり、皆その法則の中で生きている。

正面の大きなガラス扉には僕が写っている。
そこの扉は蝶番が壊れかけていて斜めにずれて閉まらない。修理される事になっている。
僕はちょっと傾いている。傾いて困ったような不安気な表情をしている。
こんな僕を、僕はいつだったか見たことがある。それを思い出したんだ。
僕は膝を抱え、だらしなく体を脱力させて引きずられるままに移動していた。
何もかも投げ出すつもりだった。自分にはもう出来ることが何も無かった。だから投げた。
だからその代わりにあの事が起こり、僕はあの時姉を殺した。

僕は今も何もしていない。このままではアスカは僕の下から去っていってしまうだろう。
それは、とても辛くて悲しいことなんだと、僕はやっと気づくことが出来た。
アスカを、今まで通りの暮らしを取り戻したいと思っているのに、僕はここで傾いたままでいる。
傾いて、動けないでいる。動かないでいる。ただ不安気な貌をして、膝を抱えている。
僕は、何をしている。
アスカが何を求めているか?
それはわからない。ただ、僕がそう信じていることをするしかない。
僕がアスカにあげられるものを、アスカにぶつけてみるしかない。
僕がアスカから受け取りたいと思っていることを、彼女に求めるしかないんだ。

ゆっくりと歩き出した。歩幅を伸ばし、足の交差する回数を多くする。
次第に上がっていく速度。傾いていた体は勢いに乗って、次第に真っ直ぐ起き上がっていく。

全力で、僕は校門を飛び出た。そこを歩いている制服が、すごい勢いで後ろに飛んでいく。
曲がっていた背中は、前のめりになって、傾いていた姿勢は真っ直ぐに立ち直った。
数分間、息をするのも忘れるほど僕は懸命に走った。地を蹴り、腕を大きく振る。加速していく。
身体中に汗が噴き出して、息が途切れそう。だけど僕はまだ走れる。
アスカに追いつくためにまだ走れるんだ。
坂の上に立ったとき、向かいの坂の中腹に、ぽつんとアスカが見えた。
僕は思い切り息を吸った、もうこれ以上吸いきれないほどに。
そして思いっきり叫んだ。


「アスカアアアアァァァァッ!」


アスカと僕の間にいた人たちは、一人残らず振り返った。そしてアスカも。
僕はもう、つんのめる、つんのめる、顔から道に突っ込むと思いながら必死になって走った。
見る見るうちにアスカが目の前に迫って、僕は迷ったんだ。
このままアスカを抱きしめる。/アスカの前で立ち止まる。
でも、そんなことは心配なかった。僕の身体はやるべきことをよく知っていたんだ。
アスカの前まで行って僕は急ブレーキをかけた。
青い目を丸くして口に手を当てている女の子の直前で最敬礼をしてたんだ。


「ごめんっ!」


たっぷり一分間はそうしていたと思う。


「馬鹿ねッ、何するのかと思えば。これ?」


ゆっくり顔を上げた。


「もう少しこのままでも新鮮でよかったんだけど。うん?」


アスカはアスカらしく笑った。
それは全くいつもと同じ笑いだったんだけど、僕にはちゃんと区別の付く笑顔だったわけで。
ほっとした僕もつられて笑ってしまった。


「そんなにちゃんとわかってるくせに。どうしてなの?」

「いや、それはさ。」

「いいわ。で、今日こそお寺に行くんでしょ。」


ばれてる。結局アスカには何もかもばれてるんだ。もう、諦めるしかないんだ。
秘密も、僕の感情も、何もかも。 



それで、僕とアスカは春の日射しの下で墓の前に立っていた。
行きがかりも両親に対する感情も今は忘れよう。


「父さん、母さん。シンジです。そしてこちらは惣流・アスカ・ラングレーさんだよ。」

「司令、お久しぶりです。そしてシンジさんのお母様、初めまして。」


線香の煙が僕らに向かって漂って、二人をくるむ様に動いた。白檀の香りが僕らを包む。
アスカは真剣な顔をして、手を合わせた。僕も。
彼女は一体何を祈ったのだろう。

僕は、正直に、この子が好きになったんだ。と祈った。
できればずっと一緒にいたいって思ってるんだ。
でも僕は馬鹿でどじだからいつアスカを怒らせちゃうかもしれない。
そんなことが無いようにあらかじめ気が付くようにして欲しい。
真っ直ぐ立ったまま、僕は祈った、ちょっと長く。

目を開けると、横にいたアスカはまだ手を合わせていた。
背筋が伸びてきちんと立っているアスカは綺麗だった。
その時、アスカは目をやっと開いて、


「わかりました。シンジさんの事は私が引き受けます。」


とキッパリ言った。


「何、そのせりふ。」

「なにって?聞いた通りじゃない。
頼りないあんたを私がちゃんと育て上げますって約束したのよっ。」

「そ、そんな。」

「まぁ、それが私の利益にもかなうし。」

「何の利益だよ。」

「シンジは黙って私の言う通りしてりゃあいいのよっ!」

「うへっ」


再び御無体なアスカの日々が始まるのだろうか。
その日のアスカは久しぶりに湯上りにタンクトップを着て機嫌が良く。

次の土曜日の朝、僕はアスカに連れられて映画館にやって来た。


「なーんだ。結局碇クン連れてきたんじゃない。」

「まぁねー、こういう腐れ縁なのよ。」

「暫く苛められてたみたいだったけど、もういいの?」

「ちょっと聞き捨てならないわねっ、そんなうわさが立ってたのっ。」


アスカがムキになっても仲間はぜんぜん平気で。


「で、実際のところ二人はお付き合いしてるわけなんでしょ。」

「違うわよっ。」「そうだよ。」

「ええっ?」


アスカだけじゃなく、他の皆も驚きの叫び声を上げた。


「アスカ、もういいじゃないか。
僕はきみのことが好きだし、きみも僕が好きなんだから、隠さなくても。」

「だっ、誰があんたのこと好きですってえっ。」

「アスカが。僕を。」

「どどどの口がそんな馬鹿げたことをッ。」


そう言いながらアスカの顔は額と頬を中心にして真っ赤に染まりあがって。
皆は爆笑した。
やった。このままじゃずっとアスカの支配下に入れられちゃうものね。


「か、帰るっ!」

「そうは行くもんかっ。」


僕は身を翻して走り出ようとしたアスカの腕を取って映画館に引っ張り込んだ。
皆も笑いながら僕らを押し包むようにして続けて入ったので彼女は逃げられない。
アスカは悔しがって散々わめいた挙句、おとなしく僕の隣の席に座った。


「憶えてなさいよ!」


そんな物騒な事言っていながら、アスカは僕の分の肘掛にドンと手を置いた。
当然そこには僕の手がある。

この驚天動地の出来事は、一学期一番の事件だったな。僕にとって。



驚天動地ってほんとに使える言葉だったんだね −了−


 

挿絵:六条一馬

「二人の季節」メインページに戻る