『冬 雪降り積んで』



校庭の真ん中に立つ、見上げる暗い空から雪がゆっくりと渦を巻くように落ちてくる。
腕を広げる、その渦の中心にいる自分。
周囲に斜めに舞う、大きな牡丹雪。
これから気温が下がればそれは細かくなる。
手袋に付いた雪の結晶は、幾つかの種類がある。
やって来た高度、その雲の中の気温によって、結晶の顔は変わる。


「いったい、何をしてるの。」


アスカが横に立って、僕のしていることを眺めている。学校は昨日で終わった。
校庭には誰もいない。
ここにやってきたのは、誰も踏んでいない、美しい雪原を眺めにきたのだった。
この、校庭の真ん中まで、僕とアスカとの足跡だけが門から続く並木道を経て、並んでいる。


「雪の貌を見ているんだ。」

「ホクエツセップでも読んだの?すぐ影響されるんだから。」

「この雪は、日本の雪じゃないかもしれない。シベリアや日本海の水蒸気かもしれないだろ。」

「まあね。新潟の雪かもしれないわ。昨日今日と、1日中、日本海側は猛吹雪ですって。」

「雷が凄いんだろうなあ。」

「冬に、雷が鳴るの? 雪が降ってる最中に?」

「夏にこっちで雷が鳴るだろ?あれの日本海Ver.だよ。向こうの人たちは雪下ろしの雷なんて言う。」

「雲の上で、誰かがどんどん雪を降ろしてる。降るなんてもんじゃなくて落としていく。
それほど雪が降ったんでしょうね。
昨日から降って、今は長岡市内で70cm積もってるって。明日朝には1m越えるかもって言ってた。」


白い校庭と雪の中に煙っていてぼんやりと建っている校舎。
並木に降り積む雪を背景に、アスカが立っている。


「長岡や、松代サイトに派遣されている人たち、雪かき大変だろうな。」

「松代は寒さはともかく雪はさほどでもないんだって。」

「ふーん。」

「ただ、道なんか凍っちゃうみたいよ。こういう四季が戻ってきてから。」


そうか、昔は皆で車を押したって言うけど、本当なんだな。


「コート、雪だらけよ。」


そう言って僕の身体をアスカははたいた。
そうして自分の長いマフラーを僕のフードの上からぐるぐる巻きつけた。


「こうすれば、顔が雪だらけにならないでしょ。」

「ああ、ありがとう。」

「どういたしまして。」


顔を見合わせて、僕らはまた密やかに手をつなぎ、その手を僕のコートのポケットにいれて歩き出した。
途中で雪がひどくなって、僕はマフラーをアスカに巻き戻した。
鼻まで毛糸に包まれた彼女は幼女のようだ。
アスカのフードの周りにはみ出している、細かい彼女の髪に雪がまとわり付いている。
まるでクリスマスツリーの雪のよう。
今日は、イブだ。
僕は無宗教だが、アスカはクリスチャンだからミサに出るのに今夜付き合うことになっている。
そのために、今日のデートは町の中心の大きなツリーまで、ずっと歩き続けることになっている。
イルミネーションに輝くビル。街角の家の飾りと小さなツリー。救世軍の募金の呼び声。鐘の音。

カソリックとか宗派は昔は色々あったらしいけれど、今都会では誰でも参加できる自由教会が主流だ。
もともとアスカだって熱心な宗教の信仰者ではない。このほうが気楽だ、なんて僕には言う。
でもアスカのお母さんは熱心な信者だったらしいから、クリスマスには親孝行に教会に行くんだって。
日本じゃ当たり前のように思えることだけれど、宗教が社会の根本を形成してるヨーロッパ。
その社会ではカソリックかプロテスタントか他の宗派かは重要な問題らしい。
らしい、と言うのは僕にはよくわからないことだから。
アスカのやる通りにやればいい、と言うことでついてきただけ。

ミサはもう始まっていて、賛美歌が歌われていた。英語の歌詞と日本語の歌詞が交互に歌われている。
エナジーフローとか、In terra pax や、その人が歌うときなどの合唱も行われていた。
それは、キリスト教と言う宗教だけがあるのではなかった。
僕には、それは地球に住む人たちの祈りを至高の存在に届くように祈る儀式である様に感じられたんだ。
アスカは、教会の講堂の真ん中の通路を半ばまで進んで、そこに膝を突いて、フードを後ろに倒した。
長い豊かな金の髪が、ゆったりとしたウエーブで彼女の背中半分を覆った。
僕はその斜め横少し後ろに同じように。
ややうつむいて、指を軽く絡めるように合わせて、唇に何か言葉を載せている。


「地に平和を、人々に愛を。
愛することのない者は、神を知りません。
神は愛します。
人は愛されていることを知らないと、人を愛せない。
神よ、私を愛して下さりありがとうございます。
そして私を愛する人がいることを、
その人が私を愛してくれていることを知らせて下さり感謝します。
私は初めて人に愛されて、それゆえに愛を知りました。
私もその人を愛していきます。
愛するものに愛を。そして地の全ての人々に愛を注ぎます。」


初めて聞いた、アスカの祈り。いつもの、長い長いアスカの祈りの内容。
それは、僕自身への祈りだったのだった。
一体、いつからアスカはこんな祈りを繰り返していたの?
喉が、つまった。僕はその瞬間に涙を流しているのに気づいた。
ああ、そうだ。僕はアスカを愛している事についこの間気づいたんだった。
アスカは、そのことに気づいた。それを、神に感謝しているのだ。不思議だとは思わなかった。
そういう事がこの世界にはあるのだと、僕はアスカの言葉を純粋に信ずることが出来た。

その唇とばら色の横顔が僕には本物の天使のように見えた。
アスカって、こんなにもきれいな子だっただろうか。
他の誰にどう見えたって構わない。
例えアスカが醜く変装していたとしても、僕にはアスカがわかる。
僕にはアスカがこう見えるんだ。
100万人の中からだって僕はアスカを見出すことが出来る。

顔を上げた彼女は、祭壇を暫くの間じっと眺めていて、それからゆっくりと僕を振り返った。
その頬に、涙があった。僕はアスカの手を取った。


「さあ、皆さんご一緒に歌いましょう。賛美歌第2編167番、アメイジング・グレース。」


司会の聖職者が声をかけた。
周囲のみなが立ち上がり、ひざまづいたままの僕らは森の中の小動物のようだった。

Amazing grace! how sweet the sound
驚くほどの恵み、なんとやさしい響きか
That saved a wretch like me 
私のようなならず者さえも、救われた
I once was lost, but now am found 
かつて私は失われ、いま見出された
Was blind, but now I see.
盲目だったが、今は見える
'Twas grace that taught my heart to fear 
私のこころに畏れることを教えたのは恵み
And grace my fears relieved 
そして、私の恐れを解放したのも恵み
How precious did that grace appear 
なんと素晴らしいことか
The hour I first believed 
私が最初に信じたときに現れたその恵みは


「シンジ…」

「何、アスカ。」

「ここに、一緒にいてくれて、ありがとう。」


僕は、ゆっくりと首を振った。それは、僕こそがアスカに言いたい言葉だったからだ。
ミサの間中、僕らは手を離さなかった。
外に出ると、火照った顔と身体につめたい夜風が気持ちよかった。
明日一日中降り続くという雪が、激しさを増していた。
雪は僕らを取り囲み、周囲の景色を僕らから遮り、僕らのことも周囲から隠していた。


「去年から、いろいろなことがあったよね。」

「なんか、お団子ばかり食べているうちに一年おわっちゃったような気もするわね。」

「振られかけたこともあったし。」

「焼きもち焼いたり、焦れて意地悪したり。」

「父さんと母さんと、アスカのお陰で仲直りできたよ。
ずっと意地張ってたんだ。僕を捨てた親だって。」

「あなただけじゃない。」


アスカは後ろを向いて言った。


「私だって、未だに父母のことには拘りがあるの。答えは知っているのにね。」

「アスカ。」

「でも、いつか。ちゃんとそれには向かい合う積りだよ。でも、」


もう一度アスカは僕を振り返り、震える声で言った。


「私は、逃げ出しちゃうかもしれない。そんな時、シンジは絶対私のことを守ってくれる?」


僕はアスカの目をしっかりと見て肯き、握手をした。そのままアスカは僕と身体をあわせた。


「約束だよ。」

「必ず、約束するよ。」


アスカは、僕の両肩に手を置くと、背を伸ばした。
甘い香りと一緒に、柔らかくて暖かい、ルージュの香りのする唇が、僕の口と重なった。
しばらくそうしていてから、アスカは唇を離す。そして、優しい瞳で僕に言った。


「なによ。抱きしめてもくれないの?」


そう言われて、僕は慌ててアスカの体を抱きしめた。
少し弓なりになった背中をもう片方の手で支えた。
アスカは、僕の目を、じっと見つめてから、瞳を閉じた。
微かに、唇に隙間があって、ぷっくりとした唇は僕を待っているように見えた。
…い、いいのかな。


「問題ない。」
「いいのよ。」


急に誰かの声が。その声に突き動かされるように、僕は赤い唇に重なった。
唇が、僕を受けて僕はアスカを強く抱きしめて、温かく触れた舌先を、触れ合わせた。
合わさった唇で、僕らは互いの息を吸った。
頬がふれあい、そこを摩り合わせた。

目を開けると、アスカの瞳が潤んで、涙が零れかけていた。


「アスカ、僕は。」

「なぁに。」

「君のこと、愛してる。今なら、その意味がわかるから。」

「うれしい。ずっと、一緒にいてくれるんだよね。いつまでも。」

「うん。」

「ありがとう、シンジ。・・・ありがとう。」


僕らは互いの髪の中に指を差込み、顔をうずめあった。アスカの香りで僕は気が遠くなりそうだった。
絶対に、この子を手放したりするもんか。
それから、僕らは悪いことでもしたかのように、周りを見回して急いで家に向かって駆け出した。
逃げ出した、と言ってもよかったかも。



家に帰り、僕らはケーキとほんの少しのワインとチキンでイブを祝った。
そして、おしゃれをしたままの格好で、唇を触れさせるだけのキスをした。
身体が震えるほど、アスカを離したくない気持ちが噴き出してきた。
それでも、アスカを大切にしたい気持ちの方が勝っていたんだ。

今日、この記念すべきイブを祝って、二人で一緒に後片付けをした。
そのあとで、もう一度コートを羽織り、雪の降り続くきれいな庭に二人で出た。

見上げた空から渦を巻くように雪が降る。
手をつないでいるアスカと一緒に、雪空に吸い上げられるように感じる。


「ね、空に上がっていくみたいね。」

「そうだね。」


ほら、同じ事感じていた。

髪に触れた。もう一度アスカの髪の香りに酔った。なんて優しい匂いだろう。
それだけでも、僕は凄く幸せだった。

アスカの顔は僕の首に押し付けられたままだった。紅潮した顔が幸せそうに見えた。
僕の喉のどこがそんなに良いの?アスカ。

抱き締めあっていて、ふと視線が合った。


「何、不思議そうに見てるのよ。」

「いや、別に。理由なんか無いけど。」

「そうね、わたしも。」


もう一度、アスカは僕をぎゅっと抱きしめてくれた。




その晩、雪は50cmも積もった。 



冬 雪降り積んで −了−


 

挿絵:六条一馬

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