もう一度ジュウシマツを

 

− 14 −

「アスカ 奔走する」


 

こめどころ       2004.4.14(発表)5.13(掲載)

 






碇シンジの家を出て、真っ直ぐに学校に向かった。その間にもあたしは何回も汗を拭く
振りをして涙を拭った。シンジはあたしの助けを拒んだ。あいつにはあいつの男としての
誇りが有るだろうから。でもあたしの女としての誇りはどうなる。あいつがショックを受
けていないわけが無い。それを支えるのがあたしの役割な筈だ。でもそれはまだあたしの
役割になっていないんだ。たった3年の月日ではあいつの信頼は得られてはいないんだ。
得られている訳が無い。

あたしは、あたし達はまだ幼くて、大人の、本物の恋人になっているわけではない。家族
の庇護の下に暮らし、シンジの好意は得たかもしれないけど信頼や友情を本当に手にして
いる訳ではないんだ。あいつがもっと不誠実で、嘘つきで誇りなど持たない人間であった
ら、あたしはずっと楽にあいつの心を絡め取れただろう。あたしが望んでいた、ちょっと
照れたり、自尊心をくすぐりあったり、恋人の真似事やデートを重ね、楽しいゲームがで
きたことだろう。でもあいつがそんな安っぽい人間では無い事を、どうしてあいつの事が
こんなにも気になったのか、改めてあたしは確認した。

あいつは古臭くて固くて頑固な男なんだ。今時はやらない、馬鹿男なんだ。馬鹿シンジ、
あたしこのくらいの拒絶であんたの事、嫌いになったりしてやらないんだから。あたしに
は世界一頑固なドイツ娘の血が流れているんだからね。

だけど。と立ち止まって考えた。あたしは先走ってまた要らない事をしようとしていない
だろうか。本当に煩い奴だと嫌がられたりしないか。自分の誇りを無碍にしたと思われな
いだろうか。もし違ってたっていいじゃない、そう思うのに足が止まって前へ出ない。
膝と足の指先が震えている。怖いんだ、あたし。でも、あの時のあいつの目。

『僕は男の子だから。悲しい事があっても我慢しなきゃいけないんだ。』





「惣流先輩、どうしたの?」

「シンジの十姉妹が百舌に襲われたの。『お父さん』が食い殺されて。」


顔から、血の気が引いた。背中も筋肉が収縮し冷たい物が駆け上がった。


「あいつ、ひどくショック受けてて。でも、あたしじゃ駄目なの。まだあたしじゃ駄目。」

「何故そう思うの。」

「抱きしめてあげたかった、でもあいつはこのくらいの事は男は一人で我慢しなきゃって、
悲しくても我慢できるから、帰れって言ったの。でも、ほっといたらいけない、あいつは
きっと追い詰められてると思う。他の人にはただの小鳥でも、シンジには違う物だもの。」

「それでここに来たの?あたしにだって何も出来無いわ。お兄ちゃんが一人でやれると思っ
るなら、そうしたほうがいいと思うもの。」

「違うわっ!」


惣流さんは真っ赤な顔をして叫んだ。


「自分で大丈夫と言ってるから大丈夫な事と、そうじゃない事が有るのよっ。今のあいつ
にはレイが必要なの!あたしじゃ駄目なのよ、まだ、シンジの中にあたしは入って無い。」


青い目がきらきら輝いていた。アスカさん、涙?


「あたしじゃ駄目だから、駄目だからレイに頼むの。早く帰って。シンジの側にいてあげて、
お願い、お願いだから。」


そう言って何回も私に頭を下げる。自分の事でもないのに何故こんなに私に頭を下げるの。
3つも年下の中学1年生がなんの役に立つというの。私は日弓連から今日のためにわざわざ
来てくださった先生に目を向けた。惣流さんの声は大きいからさして広い訳でもないここで
みんなに聞こえてしまっただろう。プライドの高い惣流さんがそんなことにすら気づかない
なんて。私は顎から垂れる汗を拭って、先生に頭を下げた。うん、と先生は応えてくれた。





――あたし、馬鹿だ。


急いで片付けをして出てきたレイと暗い校庭を足早に横切り、最短コースで森を抜けた。
校門まで行けば、ママが大きなランドローバーを回してくれているはずだ。あれなら弓を
持っていても楽に乗れるはずだ。


――こんなことしてもシンジは喜ばない、レイにだって。


良く笑うけれど、そうじゃない時は氷のように冷ややかに整った表情を見せるシンジの妹。
この子にも迷惑かけた。その上になんでもないなんて笑われたら。考えてると悪い方にばかり
思いが回ってしまう。自分がこんなマイナス思考をする人間だとは思ってもいなかった。
陽気で、怖い物無しで、天下無敵くらいに思ってた。シンジの事だって。


――こんなに、あたしって小さかったのか。


「…とう。」

「え?」

「ありがとう。惣流さん。」

「レイ?」

「私だけだったら、そんなことに気づいてあげられなかったと思う。だからありがとう。」

「でも、まだあたしはシンジに受け入れられて無いんだって良くわかった。そんなに簡単に人
が人の事を受け入れるはず、無いのよね。好きだって言って、僕も好きだったよとか言って、
それで全部おしまいだったら、恋愛小説なんかがはやるわけ無いのよ。うん。」


レイのありがとうが、こんなに急に元気を与えてくれるなんて。いじけていた気持ちが晴れて
行く。自分の中で、もう一度芽吹いていく想いがある。それを感じる。あたしって単純だな。
ううん、単純でよかった。車はあっという間にあたしの家の前を過ぎ、シンジの家の門に着いた。

降り立つレイの手を包む、


「頼んだわよ、レイ。」

「うん、お姉ちゃん。行くね。」


そう言って微笑むと、レイはその長身を翻して門の中に入っていった。


「お、お姉ちゃんだってっ。」

「よかったじゃない、アスカ。」


ママが運転席から微笑んだ。あたしは肯くともう一度振り返ってシンジの部屋を見上げた。
その部屋には明かりが付いてなくて、それどころか家中が真っ暗だった。
あたしは急にまた不安を感じた。――レイ、お願いよ。シンジを助け出して。そう祈った。






 暗いところに座っている人にいきなり眩しい明かりを当ててはいけない。
床の間のある部屋の座卓の前、お兄ちゃんは私が帰ってきたことも気づかないで、じっと暗い庭
を見つめている。昔は純粋な日本庭園だったそうだけど、今は縁側から最初の大きな石の所まで
は綺麗に芝生が生え揃っている。お兄ちゃんが生まれた時に、お父さんが土を柔らかく起こして、
芝生を植えたんだって。その上で、赤ちゃんとお母さんが遊べるようにって思い付いたんだって
お父さん言ってた。その頃は庭の隅にはスズランの一群れがあったけれど、それも全部掘り起こ
したそう。スズランて毒草だからな、ってお父さん恥ずかしそうに言ってた。

 こんな庭の中にだって、お父さんと、お母さんが、私とお兄ちゃんのために思ってくれた事が
残っていて、それは簡単には消えない。お母さんの顔をはっきり覚えていなくてもその心は届く。
私が着れるようにと残された振袖や帯の入った箪笥。綺麗にパックされたあたしとお兄ちゃんの、
パックされた産着。それを広げるとお母さんという人がどんな人だったかわかる。
レイちゃんは一人じゃないわ、とリツコ姉さんが出して見せてくれた、そういうお母さんの手が
通ったものたちが、私を抱きとめた。

だけど、父さんは決してお兄ちゃんに甘い父親ではなかった。本来お父さんは優しい人。私に対
する態度でそれがわかる。お母さんに似てきたと呟く時の父さんの目は、何時でも心なし潤んで
いる。その事が、自分は両親が愛し合って生まれた子なのだという自信と強い意志を私に与える。
でも、父さんはお兄ちゃんには厳しい人だった。母さんが言い残したシンジをお願いと言う言葉
が、一層父さんの使命感を駆り立てていたに違いない。母さんの死から逃げていた父さんが戻っ
て来てから、父さんはお兄ちゃんの事になると目の色が変わった。それは男の子への期待という
ものとは少し違っていた。お父さんは、ただただ立派にお母さんとの約束を果たそうとしている。
それが優しいお兄ちゃんを傷つけていると気がつかないままで。

私が、男の子のように弓道に熱心だったのは、そのせいも有った。自分も男の子のようであれば、
お父さんの目はお兄ちゃんだけでなく私のほうにも向くかもしれない、そうすればお兄ちゃんが
少しでも楽になると思ったの。大して役に立たなかったけれど。


明かりをつけないまま、辛うじて残照が残る部屋の中。私はそっとお兄ちゃんの両肩に手を置いた。
そのまま背中に身体と顔をくっつけて、しがみ付いた。


「レイ。」

「聞いたわ。アスカお姉ちゃんに。」

「あいつ、おまえのとこにまで行ったのか。」

「そうよ。お兄ちゃんにはもうアスカちゃんがいるのよ。」

「あいつにひどいこと言ったのに、帰れって。」

「辛かったの、そんなに。」

「『お父さん』が、殺されたんだ。僕の一番最初の、母さんとの一番の思い出だったあの小鳥が。」


そのことは聞いた事がなかったけれど、お兄ちゃんにとって特別な存在である事は気が付いていた。
お兄ちゃんの背中がかすかに震えていた。私は自分の喉にも何か大きなものが詰まっているように
感じた。お兄ちゃんが泣いてる。私のお兄ちゃんが泣いてる。


「お墓、つくりに行こう。何時もそうしてたじゃない。」


お兄ちゃんは大きな背中を丸めたまま、肯いた。私は脇の下に手を入れ、よいしょっと力を込めて
抱えあげた。お兄は逆らわずに立ち上がった。


「随分力が強くなったんだな。」

「軽いもんよ。アスカお姉はもっと強いでしょ。」

「そうだな。」


お兄ちゃんが少し笑ったので私はほっとした。静謐な夕方の空気の中で2人で桜の木の下にお父さんの
片足を穴を掘って埋めた。綺麗なお菓子の箱に入れてあげて。穴を掘っているうちに私も小さな子供の
ようにぽろぽろ泣いてしまった。私にも小鳥たちとはさまざまな想い出がある。お兄ちゃんの手が私の
頭を撫でた。見上げたお兄の目は真っ赤になっていた。

その夜は久しぶりにお兄ちゃんと一緒の部屋に寝た。
お兄ちゃんはずっと小鳥たちの事をいろいろ話し、最後はアスカさんとの事を照れながら話してくれた。


そしていつの間にか眠ってしまった。お兄ちゃんと手を繋いだまま。

 

 

 

第15話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

 


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 くぅぅっ!
 
私じゃダメなのね…。
 悔しいよぉ。
 私がもっとシンジの心を開いてあげれればよかった。
 後悔先にたたずってこのことね。
 次回はもっともっとがんばってやるんだからっ。
 あ、レイって絶対に本当の妹よね。実は血が繋がってないなぁんてことは…。
 はん!恋する乙女は不安でいっぱいなのよ。
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。

 

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