もう一度ジュウシマツを

 

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「兄は旅立つ 妹は見送る」


 

こめどころ       2004.5.13(発表)6.3(修正補筆掲載)








「じゃあ、碇くんは合宿に行くと言ってたんですね?」

「はい。宿泊の準備をして26日の朝に出かけたんです。」

「おかしいな、僕には31か1日から参加すると言ってたんですが。」

「でも実際兄はいないんです。」

「わかりました。」


 お兄ちゃんが失踪した。柔道部の人にしてみた電話は切れた。一体お兄ちゃんはどこへ行ったんだろう。
せめて私には本当の事を伝えておいてくれると思っていたのに。お兄ちゃんは変わった。早朝練習を始め、
遅くなって帰ってくるようになってからすっかり変わってしまったように怖い顔をし、時々思いつめた顔
をしてた。まったくお父さんがあの顔で変に予言めいた事を言うからいけないんだ。どこで何をしているの。
あの汗だくの疲れようから考えて、別に悪い事をしているのではなく、どこかの道場で猛烈な練習をしてい
るのだという確信はあった。私はどうしようもなくなってお兄の机の中を探った。後であやまれば良い、今
は行方を知るのが先だ。お父さんたちが気づく前に。


「これ…警察道場の会員証だ。」


ヘヤピンで鍵を開け、机の奥のほうまで探ると、思いがけない物が出てきた。通常、大学柔道よりも厳しい
警察柔道に一介の高校生が入会すればどうなるか。体力が付くまでは反吐を吐くほどの猛烈な練習となる。
今までの事が次々と接続して行く。そうか、そういうわけだったのか。安い地場の旅館に泊まって毎日最大
限の時間をそこに注ぎ込んでいるんだ。お兄ちゃんはそんなに練習が好きという訳ではない。お兄は本来は
家で本を読んでいたいというクチなのだ。それがよくもあの修永館柔道部で続いた物だと思っていた。勿論
それはアスカちゃんの為というのはある。中学まではただ漠然とした物だったと思う。それがここに来て急
に変わった。私は先日の一件のためだと思っていた。つまり嫌らしい本やビデオを見たり読んだりしてるの
を私たちに知られ、大恥を描いた上に絶交されたんだから何か良いところを見せようと言う事――があるの
かと。でも、もしかしたら、それ以前にもっと何かあったんじゃないんだろうか。あの日は――そう、確か
柔道の試合もあった。そこに原因が?

――そうだ、あの日の試合のビデオが有るはず。

思いついてお兄ちゃんの本棚を探す。映画や漫画のビデオと一緒に試合ビデオが並んでる。セットして早回し。
次々人が出てきてバタバタと投げたり押さえ込んだりちまちまチョコチョコと錬成会館道場を動き回る。ああ、
やっとアップ。うちの試合だ。アスカちゃんが何人かを倒し、激しく息をついている。立ち上がった時のエネ
ルギー切れの感触が甦る。最後にお姉ちゃんは外国チームの人に敗れた。綺麗な笑顔の人。
試合のビデオはそこで終って、その後だ。あ、お姉ちゃんとあの人が仲よさげに話してる。このビデオを取っ
た人は誰?その直後にはお兄ちゃんの顔が写っている。呆然としたお兄ちゃんの顔、あ、また2人の表情。
2人はニコニコしながら試合を振り返っているのだろう。その後にまたお兄ちゃんの悔しそうな顔が入る。

そうか、これなんだ。お兄ちゃんがいきなり居なくなった、あの日だ。なるほどそういうことだったのか。
少なくともこのビデオを撮った人はそのことに気づいてる。アスカちゃんとお兄の表情が交互に撮られて、
間にその男の子がたまに挟まる。

その男の子を登録し、ビデオデータをパソコンに取り込んでスキャンし、彼が出てくるシーンを抜粋する。
インターナショナルハイスクールのメンバーだ。名前まではわからないがかなり顔立ちは綺麗な子。高2か
高1?試合の直後にもアスカちゃんに話しかけている。何よあいつ気色悪い。柔道のことで話しかけたんじゃ
なければとっくにお姉ちゃんに撃退されてるはず。お兄もしっかりしなよ!パソコンの前でほぞを噛んだ。
お姉ちゃんの笑顔に媚びも何も無いのだけが救い。笑顔がたまに複雑なのは悔しい時の癖だもの。




 原則5人抜きで昇段が認められる警察柔道昇段審査。僕は3人まで勝ち抜いて負け、2度目は4人まで勝ち
抜いて負けた。この3ヶ月間の必死の努力ってなんだったんだろう。あと一人が勝ち抜けなかった。もっとも
3ヶ月程度の努力で昇段できれば僕はここまで頑張らなかったかも知れない。本当にぼろぼろになるまで頑張
ったのは初めてかもしれない。僕は何時でも中途半端な奴だったからこれでよかったんだ。

すっぱい葡萄じゃないけどその場で得られないものはいっぱいある。その時に諦めてしまうかもっと粘るか、
人間はそれで決まるんだ。なんだ、これって親父の受け売りじゃないか。
僕は諦めの悪い人間になろう。アスカの為にと思ってはじめた事だけど、それだけっていうのも情けない。
実際僕は意地になりかけてる。――いや、もうなったぞ。
昇段審査会場の芝生に引っ繰り返りながらそんな事を考えてた。

夏の空が青い。もともと僕はどうしてアスカにかまう様になったんだっけ。
そうだ、あの中学の最初の合同練習の日に飛び出してきたちびで元気の良い女の子。あれがアスカだったんだ。
すぐに15歳までは取れない警察柔道の2段を取った子だという話を聞いた。そうだ、あせっても僕はまだあの
ときの小さなアスカにも及んでいないんだ。対等になりたいと言う気持ちもどこかにあったかもしれないけど、
あのエネルギーの塊のようだった彼女に力づくで何かをむしりとりたいと思う貪欲さと言うか痛々しさと言うか
そんな物も漠然と感じていたっけ。たまたま一緒の方向でレイも交えて行き帰りを共にするうちに、互いに次第
に心を開くようになっていき、少しずつアスカに魅かれていくようになった。次第に?そうかな。もしかしたら
もっと電撃的だったかも。もしかしたら刷り込まれた様に。

それでも互いに好きだという想いを確かめあったのはつい最近のことだ。だけどアスカには悪いけれど男は女の
子とのことだけ考えてては生きてはいけない。いや逆にそうだからこそあえてアスカの事を特別に考えてるんだ
って言えるんじゃないか。アスカだから、特別。そんな風に考えてた。

特にアスカやレイそしてリツコ姉さんのような人ならなおさらだ。実際、好きだから君のためを考えて、なんて
言ったらアスカはきっとこう言うだろう。


「何馬鹿なことほざいてんのよ! あたしはあんたのお守なんか無くたって十分幸せになれるわッ!」

「人の世話やいてる暇があったら、自分の頭のハエを追いなさいっ!」


 そんな風に叫ぶアスカの顔があまりにも自然だったので、僕は声を出して一人で大笑いしてしまった。
何かがすっきりと吹っ切れた気がする。そうか、僕はアスカにかっこいい所が見せたかっただけなんだ。
親父が言ってた失敗した方が良いことって、この事だったんだ。実際本当に僕に相談したい事は、あいつは
何のてらいもなく真っ直ぐに僕に相談してきた。僕の事が心配なら真っ直ぐに僕にその心配をぶつけた。

僕がやらなければならなかったこと。自分の煮詰まった頭で幾ら考えていてもわからない事。あいつと僕との
間の正しい距離と、本当に判らなければいけなかったこと。僕は頭に血が上って訳がわかんなくなってた。
失敗してみないといつまでもわからないことがあるってこういうことだったんだ。

僕があのインターナショナルスクールの選手とアスカとの間に感じた不安、それは自分が本来居なければなら
ない場所に居られなくて感じた不安だったんだ。それが嫉妬とか、アスカをとられるんじゃないかという不安
とか。その不安からアスカを何が何でも自分の物にしておきたいと言う暗い欲望とかそんなものに歪んで行っ
たんだ。アスカは、僕が考えてた、アスカの為になんて、そんな事望んじゃいなかった。

だから僕のしてる事が理解できなくて泣いたんだ。
泣いてた…アスカが泣くだって?

大変だ、アスカを泣かせちゃって、そのままだった。


『お前はアスカ君を永遠に失うだろう。』 


親父の声がまた頭をよぎる。僕がアスカのためと言いながらアスカを勝手な僕の思いで翻弄し、不安がらせ、
泣かした事がやっとわかった。だけどそれが失敗だとわかったときには…わかったときには。
僕は親父の言うようにあいつを永遠に失ってしまうことになるんだろうか。

僕の足は勝手に走り出していた。会場に駆け込むと、一緒に来ていた境さんたちに学校の合宿に行くので先に
帰りますと伝え、柔道着を脱ぎながら更衣室に駆け込んだ。廊下に居た女の人たちが悲鳴を上げたけど構って
いられなかった。昇段審査前の最後の合宿特訓を何日かしていたので、柔道着も身体も汗臭いし、どろどろ
だったけどしょうがない。水を一杯被っただけでろくに拭きもせず、とにかく着替えて外に飛び出した。


「お兄ちゃんっ!」

「レイっ!如何してここに――」


どうなってるのかわからないけど、妹がブルーの自転車に跨ってそこに居た。僕は目を見張った。
レイの額からこめかみにかけ、汗の玉が噴き出している。


「お兄ちゃんは私の掌から所詮逃れられないのよ。」

「ばか、お前は観音様か。」

「いいから乗って、駅まで吹っ飛ばすわよ。」

「さすがにわかってらっしゃる。」


僕は苦笑して後ろに跨って、レイの発進を助けるためにバタバタと足を蹴って助走した。自転車は良い調子
で軽快に走り出した。


「よくここに居る事がわかったな。」

「悪いと思ったけど、机の鍵開けちゃった。」

「ええっ!おい。」

「そこで警察柔道の会員証見つけて、昇段審査の事も、知ったわけなのっ。よいしょっ、よいしょっ。」


レイは立ち上がると全体重を掛けて、うんしょうんしょと坂道を上がり始めた。


「レイ、代わりな、お兄ちゃんが漕ぐよ。」

「お願い、お兄、なんか少し重くなったんじゃない? ひはー。」


僕らは入れ替わる。レイの体重は殆ど感じられないほど軽い。ほいほいだ。


「お前、痩せたんじゃないか?」

「猛烈成長期だよっ。身長は余り伸びてないけど随分あちこち大きくなってるよ。お尻とか胸とか?嬉しい?」

「ばーか、妹が育ったって何のメリットも無いだろ。」

「アスカちゃんの胸が大きくなったらあるわけ? ぎゅっとしたら良い感触でしょうねぇ。」

「ば、ばか!」


自転車がぐらりと揺れて、動揺が丸わかりだ。兄貴としての沽券が。レイはこんなキャラじゃなかったはずだ
けどな。大分アスカの悪影響があるのかも。いや、この間のエロマンガ本の一件からか。だとすれば自業自得
という事になるのか?――
びゅんびゅん景色が飛んでいく。程なく駅前に着いた。


「お兄ちゃんっ、これ下着4日分とタオルとパジャマとTシャツと替えズボン。あと水着なんかも入ってるから。
今持ってる汚れ物は面倒だったら家に送っちゃって。それとこれお金ね、5万円入ってるから。帰ってきてから
全部清算してね。利息取るからお忘れなく。」


準備のよさに感動したけど最後でこけた。しょうがない、この際少々の奢りはやむをえないかな。





 手を振りながら駅舎に駆け込んで行くお兄ちゃんを見送った。あと20分で合宿所のほうに向かう特急が来る。
ちょうどまにあって良かった。あの笑顔、何だ心配しなくてもちゃんとお兄ちゃん、答えを見つけたみたい。
手を広げて見る。しがみついてたお兄の背中は、少し前に2人乗りした時よりずっと大きくなってた。私だって
随分大きくなったと思うんだけど、背筋や肩の筋肉がとっても変わってたし、ランニングの成果で胸囲もずっと
厚くなってたようだった。あの小さい頃から見慣れてた、冬になるとお蒲団で寝込んでたお兄ちゃんとはもう
違うんだ。もう男の人なんだな、と思った。
何時も一緒におままごとでもやってくれて、外に行くと樹に登れなくて、私がよじ登るのをはらはらしながら
見てたお兄ちゃん。優しいけど弱々しかったお兄ちゃんのイメージがこの短い二人乗りの時間の中で消えていった。
汗臭い、武道をやってる人独特の匂い。胴着の匂い。それに混じる男の人の匂い、たぶんね。


お兄ちゃんの乗ってるはずの特急が出て行くまで、私は駅前のロータリーでずっと立っていた。
よく晴れた、日射しの強い日だった。


「ほらレイ、ちゃんと帽子かぶって。」


お兄ちゃんの声が聞こえたような気がした。




第21話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

 


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 ついにここまで来たわ。
 
ここまでは“エヴァFF発表・評価板”で掲載されたお話になるのよね。
 次回からはいよいよ誰も読んだ事のない「もう一度ジュウシマツを」が掲載されるのよ。
 わくわくどきどきっ!
 お願いだからシンジを苦しめないでよね。こめどころ様。
 ふっふっふ。これだけ可愛くお願いすれば大丈夫よね。
 まあ、物語に起伏は付き物だから仕方はないけどね。
 大人であるこの私はそんなこと百も承知よ。は、はは…。
 さ、早く来なさい、シンジ!私の元へ!
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。

 

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