もう一度ジュウシマツを

 

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「雨降って地面は本当に固まるか?」


 

こめどころ       2004.6.20(発表)






 笑ってたら、シンジは参道の方に駆け出して行っちゃった。やばい、あいつはどうして
こう打たれ弱いんだろう。あっという間、声をかける暇も無く、シンジは根っこの階段を
駆け下りていってしまった。
ちょっちょっと待ちなさいよ。そう思いながら口をパクパクさせて、馬鹿みたい、あたし。


「このままでいいのかしら、アスカ。」

「良いのかしらって、焚き付けたのはヒカリでしょ。確かにあたし笑っちゃったけど
きっかけを作ったのはあんたじゃない。ひどいわ。」

「そうかな。良く考えてご覧、アスカは何故笑ったの。碇を馬鹿にして笑ったの?」


そう言われて少し考えた。


「そりゃ、あんな事でやきもちやくシンジが可笑しかったって事も有るけど…」


馬鹿にしたんじゃない。ただ笑ったというだけじゃないわ。もっと心が明るい感じだ。


「ああ、きっと――嬉しかったんだと思う。あいつもやきもち焼いてくれてたことが。」

「自分だけが一人相撲取ってるって思ってたんでしょ。ずっと。」


そのヒカリの言葉に、はっと胸を突かれたようになった。
その通りだったから。何も答えられなくなって、ただ肯いた。
そう、シンジを好きだと意識した時から、ずっとあたしは心の中で、もしかしたら自分だけ
が空回りしてるんじゃないかって心配してたわ。

あの時から、ずっと。うちに寄っていけって引っ張り込んだ時も、『お父さん』が死んで、
レイに助けを求めて走った時も。マンションに踏み込んだ時、シンジがずっと部活を休んで
いた時、合宿の申し込みに行こうとして学校で出会った時、感情が激して泣いてしまった時。
シンジが困った顔をしてたのにあたしは。合宿所で出会った時、忘れた振りをしてシンジに
接したら、あいつは普通にしてくれてた。そしてずっとシンジの答を待っていたあたしに、
自分の心を打ち明けてくれた。あたしの為に強くなりたいって。
あたしの、シンジに対する気持ちが、あたしだけの独りよがりじゃなかったってことの証。
あたしがシンジを想う様に、シンジもあたしを想ってくれていたと言う証としてのやきもち。
あたし、嬉しかった。とても嬉しかった。


「アスカにも、もうわかってるよね。やきもち――嫉妬といっても良いけどそれは『好き』から
もう一歩あなた達が進んだって事なのよね。」

「やきもち…あたしが今感じてることも?」

「そうかもね。」

(「まだ、よく分からないけど。そうか、これが嫉妬なんだ。」)


あたしのどこかを触りたい?なんて大胆な言葉があたしの口から出てしまった訳は何だろう。
そうまでして、あたしはシンジの関心を引きたかったって事なのかしら。子供の頃のような
純粋な気持ちからではない、多分。あたしはシンジの興味を引きたかったんだ。あの時、
あたしはシンジが最初何も言わなかったことにがっかりしてた?あたしをアスカとしてじゃ
なく、女の身体を持ってるって事、意識して欲しかったんだろうか。いやらしいとも、思う。
だけど、そういう心が自分の中に芽生えてる事も事実なんだ。あの、女の中の女みたいに、
女のフェロモンをぷんぷんさせてる色っぽいミサトさんに、いつの間にかあたし、対抗しよう
としてたんだ。精一杯背伸びした挙句に、シンジの身体にはしたなく触れたり、際どい言葉を
並べてシンジを誘惑しようとしたんだろうか。まだ子供の癖に。

――子供ってことで済んだろうか? 本当にそうだっただろうか。

シンジが、もしもっと積極的だったら、どうするつもりだったんだろう、あたし。
泣いて許してもらうことになったかもしれない。そんなことになってたらどうすれば良かった
だろう。恥ずかしくて恥ずかしくて、2度と顔を合わせられなくなってたに違いない。


「じゃ、アスカが今すぐやるべき事もわかるよね。」

「シンジを直ぐ追いかけること?」

「きっと参道を大して行かないうちにうずくまってるよ。遠くには離れられなくて。」

「追いかけて、それで何言えば良いのよ。」

「そんなの、アスカが決める事よ。自分の心の声に従えば良いの。自然に出てくる言葉に。」

「だって、そんなの。」


――今の――今のままの気持ちなんて、そんな事言えない。


「そっから先はアスカが決める事だね。」


ヒカリはくるっと後ろを向くと宿舎の方に行ってしまった。一人残されたあたしは、決心して
縁側から飛び降りると、そこにあった古い下駄をつっかけて、シンジの後を追いかけた。
参道はもう真っ暗もいい所で、鼻をつままれてもわからない程の漆黒の闇。想像もした事が
無いほどの。所々木の枝が開いた場所から月の光が差し込んでくるのだけが頼りだった。
シンジがどこにいたって、これじゃ見つけられるわけ無いじゃない。心細い。一人で暗い所に
いるのがこんなに心細い事だったなんて知らなかった。下駄は履きづらかったけどなんとか
木の根っこの階段を降りる事ができた。


「シンジ。」


返事が無い。


「シンジ、どこなの?」


声が届かないほど遠くにいるんだろうか。


「シンジッてば!シンジーっ!」


長く尾を引いた声は、オクターブ高かった。情けない、自分ではっとするほど女の子の声だった。
なによ、あたしにこんな声出させるなんて、卑怯じゃないの。ずるいじゃないの!
もうこれ以上シンジを呼べば、ホントに情け無い事になってしまう。だからあたしはシンジを呼
ぶのをやめた。
そうすると周囲の闇があたしの身体の中に染み入ってくるように感じられて、一層不安が増して
しまうのだった。周りを見回す。月の光の中にいるあたしが、そばにいれば見えているはず。


「ツイッ!」


歯の間から息を吹き出して、高い音を出す。


「ツィッ!」


ジュウシマツが仲間を呼ぶ時のさえずり。誰かいないの、そこにいるのは誰、の信号音。
返事をして、と呼びかける声。
よく通る高い音は、森の木々の間を抜けて遠くに響く。シンジ、聞こえてるんでしょ。
じっとそこに立ち止まったまま、あたしはジュウシマツのさえずりを続けた。
だって、これはあたし達の約束、あたし達の絆。シンジとアスカの出会いだもの。
聞こえていれば、気づいてくれれば、必ず応えてくれるとあたしは疑わなかった。


「あ。」


――ツィッ!


微かに聞こえた声。あたしはその声のしたほうに思わず歩き出した。もう少し下のほう。
根っこの絡み合った木々の階段を、ゆっくりと辛抱強く降りていく。


――ツィッ!


あ、また聞こえた。――ツィッ!あたしも応える。――ツィッ!するとまた――ツィッ!と。
間違いない。シンジが鳴いているんだ。あたしは安心し、もう何も怖くない。
あたしの心を占めてるのは、ただシンジに会いたいという、その気持ちだけ。

耳を澄ます。シンジの微かな気配も聞き逃すまいと、全身が感覚器になっている。

あたしは、何回もこの男の子を好きだと思った事が有る。
日常のほんのちょっとしたこと。

初めて会ったときのこと、まだあんたは覚えているかな。修永館の男の子達に舐められない
ようにムキになって5人相手に試合をしたっけ。結局あんたは落とせなかった。
ぜんぜん武道の経験が無いような子、5人相手に勝ったって当たり前だった。それでもすれすれ
でシンジはこらえた。へえ、結構根性有るなと思って、それで名前を覚えたんだよね。

ジュウシマツの事で感心したりびっくりしたり。でもあたしの飼ってる子達が、もともとは
シンジの家の小鳥だったなんて聞いて、あの時あたしを励ましてくれた手紙がシンジの書いた
ものだったって知って。それまでの「碇くん」があたしの中で昇格したのよ。部屋に招いて、
ベッドに腰掛けて、シンジはお母さんの作ったジュウシマツのぬいぐるみにしきりに感心してた
わよね。何か緊張しまくってて、砂糖つぼひっくり返したりして。あの時に、ボレー粉をやること
とか、この歯笛の鳴らし方なんかもを教えてもらったんだ。あの時の桜餅の味。シンジの顔を
見てると時々思い出す。「ありがとう」そうあたしが言ったら、あいつも「ありがとう」って
応えた。初めてシンジを意識したのはあの時だったのかな。

ハシカにかかった時、お見舞いに来てくれたあいつ。そのあと急にあたしの頑なな心が崩れた。
あいつに気に入ってもらいたいとか、好意を向けて欲しいとか。そんな事を考えるようになった。
自分でも可笑しいくらい頑張ってたな。それでレイが先にあたしの気持ちに気づいて。よくあの子
に泣き付いたっけ。シンジの鈍感に焦れて。

そして中学の終わりの頃。あたしとシンジは初めて意志の交換をした。ほんの少し前の事なのに
もうずっと前の事だと思える。あたしはシンジの顔に指を伸ばし、頬に触れ、顎に触れた。
薬指の先にシンジの鼓動が触れた。シンジがするのと同じようにシンジに触れた。
シンジがあたしに触れる指先にあたしの鼓動が伝わっていくのを感じた。あたしはもう少しで
目蓋を閉じそうな表情をしていたかもしれない。自分が女の子なんだって感じた瞬間。


「アスカは――『僕の』アスカになるんだ。そうだろ。」

「シンジだって、あ・た・し・のになるんだからねっ。」


中学生らしい、照れくさくて穏やかな。でも一生忘れない思い出。キスも何も無しの、
ただ思いを伝え合えた嬉しさ、喜び。それだけで十分だった。
心が繋がったと、十分信じる事ができたあの時。あたし達は高校生になった。

好きと言う気持ちは薄いヴェールのようなもの。どこからか舞い落ちてくる、あたし達の上に。
シンジに帰ってと言われて、絶望に身体が冷え切ったような思いのまま、レイを迎えに走った。
あいつが危ないと、何か本能があたしを呼んだようだった。

幾つもの事があった。そのたび、あたしは結局シンジに拘っていく。はまっていくって言っても
いい。結局シンジから離れられない事を知る。シンジを、自分のものにしたという実感が無い。
それなのに自分はシンジのものになって行く。そんなの不公平だ。そう思うのになぜだろうか。


ツィッ!

ツィッ!


シンジの囀りが直ぐ側で聞こえた。


「馬鹿。あんた何やってんのよ。」


そう呟いた声は暗がりに消えたけど、あいつに間違いなく届いたのが気配でわかった。暗い森の
中は、こんなに静かなのに色々な気配に満ちている。微かな、意識しない音もする、饒舌な世界。


「何で逃げるのよ。」

「軽蔑しただろ、僕の卑しい気持ち。気持ち悪いと思っただろ。アスカの事になると、変だよ。」

「暗い所にいるから曲がるのよ。あたしに言いたい事があるならもっと堂々と言いなさいよ。」


自分だってシンジに面と向かってなんか言えない。自分で思っているより、あたしはホントは
もっとずっと子供なんだ。シンジがもっとあたしを引っ張っていくならあたしは引きずられていく。
シンジがもっと子供なら、あたしももっと幼いままだろう。


「あたしに――言いたい事が有るんじゃないの?」


あたし、ずるいな。
でもずるくてもいいんだ。女の子はこうしてもいいんだ。知ってるもの、そのこと。女の子だから。

いきなりシンジの顔が暗闇から現れた。まるでシンジの一部分が切り取られて闇の外へ押し出された
みたいに、急に現れた。この月の光のサークルの中に。


ツィッ! シンジが鳴いた。  ツィッ! あたしも応えて囀った。


真顔のシンジがそのままあたしに寄り添った。身体を寄せて、あたしの腰に手を回した。
その手を振り払えるはずだった。上半身は弓なりに反って寄せられてくるシンジの顔を避けられた。
でもー――あたしはそうしなかった。


「アスカ。」


シンジの声は震えた。昼間にあたしがしたような、ぶつかり合ったようなものじゃない。
もっと、本気で。もっと身体が震えるような。
あたしの身体は、怖いほど震えてた。脚も、腰も、背中も。そして胸は潰れそうなほど――


「シ・・・」


声が、掠れた。
シンジの唇が、あたしを呼んでた。あたしの耳にはその言葉がはっきり聞こえていた。

愛してる、だったか。大好きだよだったか。君の全ては僕のものだ、だったか。
とにかくそんな言葉だった。シンジのその心が直接あたしの心に届いて潜りこんで来たのよ。

瞬きができないまま、目を優しく閉じる事も出来ないままだった。
腰が引き寄せられたかと思うと、シンジの腕があたしの頭に巻きついてシンジの左の肩に引き寄せ
られて、身体は斜めに傾いだ。シンジはランニングシャツのままだったし、剥き出しの肩と腕に
あたしの頭は押し付けられて、そのまま頬を摺り寄せるように、シンジの唇が、あたしの唇に覆い
かぶさった。

ぎゅうっと抱きしめられて、息が胸から搾り出されて苦しい。
それがあたしの陶酔を誘った。
気が遠くなって、足元が消えたようで。
シンジの背中に手を回したいのに動く事ができなかった。
それはパパやママや親しい人たちと交わしてきたキスとはまるで違う、初めての恋人とのキッス。

唇を押し付けあって、何回か顔の角度を変えて、息を吸う。
温かく、柔らかい、優しい舌を絡めあって、ぞくぞくした感触が直接頭の中をかき回した。
シンジの唇があたしからはずれ、そのままあたしの喉を降りていく。溜息が幾つも出た。
身体が自然に、喜んだようにシンジに摺り寄ろうとして動く。
唇に、我慢できずに喉を反らす。
そこをシンジが降りていき、Tシャツの淵で止まって鎖骨の横に口づけされた――

身体がぞくりと波打った。その時初めて目をつぶった。それは余りにも不安な感覚で。
目蓋を閉じた途端に、渦に巻き込まれるように自分の位置を見失ってしまった。
生まれて初めてあたしは身体に口付けを許したんだ。
あたしはシンジの腕の中に崩れ落ちて、屈み込んだシンジの膝の上で抱えられていたのよ。

次に目を開けたとき見えたのは、心配そうなシンジの目だった。


「アスカ――?」


――大丈夫。と応えたつもりだったけど声が出なくて、替わりにどうしたわけか目から涙が溢れた。


「あ、あれ?あたし。」

「ど、どうしたのっ!」


シンジは慌ててポケットをまさぐったけど、男の子のポケットにハンカチなんて気の利いたものが
入っている事は極まれな事よね。


「いいから、じっとしてて。」


人の前で泣くなんてあたしの趣味じゃないけど。その時はそのままでいたいと思った。
そうか、嬉しかったのと同時にあたしは怖かったのかもしれない。シンジというあたしの男の子を。
でも、もう大丈夫。怖いと嬉しいが混じると恋になるのかしらね。よく分からないけど。

シンジはそんな気持ちをわかってくれたのかどうか、
そのまま身じろぎせず、あたしを抱き続けていてくれた。

下駄が片一方脱げて、どこかに飛んでしまっていた。


――下駄なんか履いてこなければよかった。


あまりこれからだってロマンチックな事なんて多くも無いだろうに。そう思った。


「だって、シンジだもの。」

「え?何か言った?」

「ううん。」


あたしはシンジの首に腕を回し、初めての「恋人からのキス」をお返しした。
今度は最初から目をつぶってね。

 






第27話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 


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 は、は、恥ずかしいっ。
 
ぼふぼふっって、赤面しちゃうわよ。
 でも、よかったぁ。
 シンジとちゃんとお話できてさ。
 これで私たちは完璧よ。完璧な恋人ってヤツよね。
 だけどさ、この作品のヒカリって何者?
 まるで神様のように温かく、ちょっとだけ楽しみながらいろいろやってくれてんもんね。
 ま、ヒカリの期待にも応えないといけないし、がんばりましょうか。ね、ジュウシマツアスカ?
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。

 

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