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「決勝 見上げた天井」


 

こめどころ       2005.2.10(発表)









高校1年の息子が柔道県大会地区予選を勝ち抜いて県大会に出場した。
その県大会においても息子は勝ち進み、ついに決勝に進んだ。

私は何時になく興奮していた。
自分自身のことではなく感動で目頭が熱くなるなどという経験は、留学2年目のラングレーが
インターハイの重量級でついに優勝をもぎ取った時以来だった。
来日する以前に向こうでも柔道の経験があったとは言え、人並みはずれた根性と忍耐が続かなければ
ありえないことだった。

あの時私は準決勝で足を痛めてDr.ストップが掛かってしまい、戦績は結局3位で終った。
わが終生のライバルと見込んだ男は、現在よりも30kgは体重が少なくスマートな体型だったな。
私は体重こそ今もあまり変わらないが体型の劣化はいかんともし難い。密かに通っているジムで
2人で顔を会わせると互いを蔑みの目で見ては言い争いになるのだがまぁそれは別の話だ。
とにかくその時、ラングレーは優勝カップを取り、わが校の名誉を見事に守った。

次の日、私を連れ出したあいつは技術室でメダルを真っ二つにし、強力な接着剤をつかって
半分づつ張り合わせ、私に渡した。それきり私もラングレーも何も語らなかったが、誰よりも
通じた男同士の友情に、私達は心うち密かに感動していたのだった。
大学に進学後も我々は親友同士でありライバルだった。
良き飲み友達であり、一緒に馬鹿をやらかし、試験の順位を争い、技を競った。
院に進学して後、一人前の研究者になってからも研究のパートナーとして、また研究者としての
能力を競った。

最後には恋敵にもなった。そして当然のことだが私が勝った。


「ユイ、見ているか。シンジはとうとう決勝に出場したぞ。」

『見えていますとも。強く、元気に育って。こんなうれしい事はないわ。』


私だけに聞こえたユイの声を不自然とは思わなかった。
ユイはそういう女だ。
この瞬間に声が聞こえたとしても一体何の不思議がある。


「そうか。そうだろうとも。わしらの、あの弱かった子が。」

『そうね。生まれた途端に新生児黄疸起こすわ、水痘とハシカと肺炎を併発した事もあったわね。
レイがまだ乳離れしていない頃で――ゲンドウさんは忙しいのに毎晩泊り込んで点滴の落ちる数を
数えてた。』

「42度という発熱だった。わしにはそれしかできる事が思いつかなかったのだ。」

『あの時からね、あなたが本当の意味で父親になったのは。』

「そうだったかな。」

『そうよ。親だって子供に育てられていくの。そういう意味じゃ子は親の鏡ってだけじゃない。
親も子の鏡なのよ。』

「そういうものか。」

『立派になった息子を見て誇らしく思えるのは自分自身も息子を育てる事で子に育てられたから。
息子が自分の親を誇らしく思えるのは今の自分を育ててくれたのが親だという事を知ってるから。』

「いや、それはどうかな。俺はそんな立派な親とは思えない。むしろラングレーの娘と会って
からの方があいつは明らかに変わったぞ。」

『きっとアルだってそう思っているわ。ゲンドウさん達は兄弟より似てるんですもの。』


その後私とラングレーは道を分かつ事になる。彼は親の後を継ぐべく実業家となり、私はユイの
死後、研究者の道を捨て、一から営業から管理職への道を進み、経営者となった。
結局随分遠回りをした挙句、私とラングレーは再び同じ道で出会うことになった。
そして、驚いた事に息子とあいつの娘が今は恋仲なのだというから人生は油断ならない。


『シンジをお願い、あなた。シンジをお願いね。』


シンジにだぶって現れたユイの幻影は最後にそう言って消えた。
息子が試合で戦うのは3年連続優勝を狙う強豪、樋山哲だ。相手に不足はない。





「お兄ちゃん、お兄ちゃん頑張って。」


歯の根が合わないほどのこの不安は一体何。自分の試合のときだって、こんなに緊張した事はなかった。


「レイ、落ち着いて。」


隣に来ていたリツコさんがわたしの様子がおかしいのに気づいた。


「わたし、顔色悪い?」


リツコさんはその問いには答えないで、バッグの中から白いバスタオルを取り出してわたしの肩に掛けた。
助かる。緊張しているときには身体を温めるのが結構効果があるんだ。
リツコさんはそのまま腕を肩に回してわたしを抱き寄せた。


「レイ、お兄ちゃんは勝てるかしらね。相手の選手は大会3連覇を狙ってる県下一の猛者だそうよ。」

「お兄ちゃん、この夏ずっとがんばったもの。身体だって凄く大きくなったしっ。」

「そうよね、高等部へ進んだ頃とは見違えるようね。春に買った制服、全部買い直したの知ってるでしょ。」

「背も高くなったし、身体も何か分厚くなったわ。」

「家の中で、熊を飼ってるみたいな感じよね。男の子ってあんなに凄いもんだとは思わなかった。
小さい頃はあなたの方がずっと元気良くてお転婆だったのにね。シンジ君は弱くてしょっちゅう風邪ひいて。
それが今では食べる量も半端じゃないし。まぁそれはあなたも同じですけれど。」

「わたしそんなに食べてないもん。そうだ。レイ、って、お兄ちゃん毎朝背中を叩いて挨拶するでしょ。
どかんって分厚い辞書か何かで叩かれたみたいに重くて、息が詰まっちゃいそうになるの。
あれで今までどおりにしてるつもりなんだよ。」

「ああ、あれね。確かにそうだわ。あの手の分厚い事って言ったら。」

「ちょっと手加減してって言ったらきょとんとしてるの。失礼しちゃう。ほんとにわかってないの。」


気がついたら、さっきまでの胸が痛いような想いが楽になってた。どんな結果が出てもお兄ちゃんを
今夜お祝いしてあげるのがわたしの役目。今はお兄が全力を出せるように一生懸命大声で応援しよう。





館内では猛烈な応援合戦が繰り広げられている。

2つの会場の観客、選手、制服姿の援団が集まり、会場は熱気が渦巻き気温がぐんぐん上がっている。
フル回転の空調がまるで効いていない。
喉も裂けよと歌い続ける応援団の中央には旗手が大応援旗を斜めに差し出して堪えている。
強豪と当たって不安を感じていた選手が、これに曝されると身体中にどっと熱情が溢れかえる。
涙ぐんで感動し勝利を誓う。さらにその姿に感動して観客席の生徒たちが大歓声を上げるんだ。
中学のときにはこの雰囲気に呑まれるばかりだったけれど今は違う。

準決勝進出の段階でミサト先生が学校に入れた連絡。僅か1時間と少し前のことだ。
それを聞いて続々と駆けつけてくれた学校のクラスメートや、先輩、OB諸氏。学校の先生たち。

普段クールな洞木さんやレイも、顔を真っ赤にして声を限りに声援を送ってくれてる。
僕とアスカは選手指定の入口から会場に進んだ。


「お兄ちゃん!お兄ちゃーんっ!」

「アスカッ、アスカーッ!頑張んのよーっ!」「お姉ちゃーんっ。」

「碇ッ。」「碇さーんっ!」「死ぬ気で行けーッ!」「シンジーッ!」

「ガンバレ――ッ!」「アスカ先輩ーぃ!碇先輩ーぃ!」「惣流さーんっ!」


うおおおおん、と体育館に僕らを応援する人たちの声が満ちている中、ミサト先生と顔を寄せ合い
最後のアドバイスをもらう。


「今更何も言わないわ。ただ、なかなか人間平常心を維持するのは大変なことよ。
まだ高校生ですもんね。ただ樋口って子は足技と内股が得意なの。それを警戒しておいて。
ま、君には金髪の幸運の女神がついてるから問題ないわね。」

「そういうことです!」


僕はいつになく自信を持って答えてしまった。その横にいたアスカも大きく肯いている。


「あっらー、可愛くないんだ。2人とももう十分マンタンって事? けっ、近頃の若ぇもんは。」


笑ってそう言う。明らかにからかわれてるのについ僕らはムキになって言い返してしまう。


「そ、そんなんじゃないですよっ。」
「あんたがだらしないからこんな事言われるんじゃないっ!」


同時に叫んだ僕ら。ミサト先生は、面白そうに声を堪えて笑っている。なんだよ。

その途端に主審が僕の名前を呼んだ。



「私立新東京森の原学園、碇シンジくんっ!」

「碇ッ、呼ばれたわよっ!」


そう言ったアスカは、もう僕の彼女ではない。
激しい炎を燃やしている若き武道家、惣流アスカの表情をしていた。
その真剣な顔を目にした途端に身体が引き締まった。身体に惣流の炎が燃え移ったように感じた。

大声で主審に向かって叫んだ。


「はいっ!」

「ようし、いい顔になった。行って来い、男の子っ!」


ミサト先生と握手して会場に上がった。さっきより大きな歓声が僕を包んだ。


「私立水都高校、樋山哲くんっ!」

「はいっ!」


わっ、と思うほどの大声援。取材席といわず全館の席からフラッシュが一斉に焚かれる。
一気に歓声が3倍ほどになった感じだった。さすがに優勝候補だけの事はあるなぁ。
その上3年連続優勝が掛かっている。いままでこの県でそんな記録はないもんな。
そう思った途端、頭がかーっとなった。まずい、上がってるのかっ。
落ち着け、自分!
実績の違う選手が声援されるのは当たり前じゃないか。

その怒号のような大声援の中で、よく通るアルトの声が僕の名前を呼んだ。
咄嗟に目を泳がすと、一番前の席に陣取った惣流が立ち上がり、こぶしを振って叫んだ。


「シンジッ!よく相手を見るのよっ。あたしがついてるからねっ!」


周辺の席から笑い声が上がった。まるで弟を声援するお姉ちゃんみたいに思われたんだ。
僕は答える代わりに手を振った。今惣流とまともに目を合わせてしまうと力み過ぎてしまいそうだ。
それだけ彼女の目は真剣で、周りの奴にはわからない、僕だけに見える炎に包まれていた。
チラッと目線を合わせただけだったけど、惣流から飛び移った熱い血液が身体中を駆け巡ってる。
必要以上に高ぶっちゃダメだ。
けれど僕の目の中に、小柄な惣流の姿が浮かび上がって、強調されて見える。光を放っている。
そうだ。僕はこの騒ぎの中でもあいつの声が聞き分けられるんだ。
群衆の中の彼女を一瞬で見分けられる。それは多分あいつがどんなに変装してたとしても、だ。

同じ部活の仲間に過ぎなかったお転婆のちび娘だったあいつ。入部式で初めて出会った。
行き帰りが一緒だったというだけの仲だったけど、偶然僕のジュウシマツの引き取り手の一人だった。

それはただの偶然。桜の舞い散る中を。木漏れ日の、街路樹の葉紋の中を歩くだけの日々。
一緒に桜餅を食べたり、ジュースを飲んだりした。いろいろな事を共有する喜びが増えて行った。
青色のベンチに腰を降ろして口を動かしながら毎日を送って行った。いろいろな相談をした。
朝のランニングを一緒に頑張り、ジュウシマツが百舌にやられたときも助けてくれた。
あいつは誰よりも僕の事を分かってくれた。まるで他人じゃないみたいに。掛け替えのない友として。

風邪をひいたり、ハシカに掛かったり。初めて女の子の部屋に入ってベッドに腰を降ろした事。
学園祭で馬鹿をやって大目玉を食らったこと。やきもちを焼いた事。合宿で唇を併せたこと。

数限りない、彼女と一緒に過ごした記憶と照れくさい思い出。強くなりたい。あいつの為に強くなるんだ。
僕の学校生活、日々の鍛錬、それはいつしかあの子の為にあの子を中心に動くようになってたんだ。
僕は強くなる。あいつに為に!


「開始ッ!」

「おっしゃあぁぁっ!」

「うりゃああっ!」


最近は剣道のように掛け声をかける事が普通だった。でも樋山さんの気合は全然違った。
身体がびりびりと震えるような激しさと勢いに満ちている。だが負けずに怒鳴り返した。
ガッと音がするほど激しく僕らは組み合った。何の駆け引きもなく自分の力一つを信じて格上の
相手に挑む喜びに身体中が興奮してるっ。
感覚が鋭敏になって、足指の一本一本の裏までに畳の感触が伝わってくる。
柔道着越しに樋山さんの筋肉の動きが感じ取れる。呼吸が読める。
警察の先生たちに日頃から言われていてわからなかった感覚が今わかった。
心と身体が真に集中するとわかるんだ。そうかっ、この感覚かっ。
今僕の身体は数秒を十秒に感ずるほどに活性化されてるんだ。
この感覚に身体がついていけば行くほど、完璧な技が手に入るんだ。

樋山さんの袖が動いたと思った瞬間、僕の身体は激しく引き寄せられ、同時に身体は既に跳ね上げられていた。
訳がわからないうちに僕の身体は勝手に反応してローリングしつつ体を軸線上から逃していた。
その技はそれに反応して途中で打ち切られ、反対にのしかかって来た。一旦浮かんだ身体が地に付き、
僕はその足を中心にして、戻ってきた相手の身体を巻き込んで腰を払った。そのまま思い切り体を投げた。
ふたりは絡み合ったままで畳に落下した。

うおおおおっ、とも、ごおおっとも聴こえる唸り声が大波のように一瞬聴こえた。

落下した姿勢から咄嗟に腕をつかんでひしごうとした瞬間に相手の腕はそれを振り払っていた。
絡まっていた肢は相手の足に固められかけていたが、僕はとっさに身体を離して場外に転がりだした。


「離れてっ!」


審判の指示どおり、僕らは別れて立ち上がった。さして着衣は乱れていない。
再び身構える。樋山さんの表情からゆとりが消えた。彼に敵として認めてもらえたのがわかった。
よしっ。いけるっ。
僕より背の高い樋山さんは、奥襟を狙ってきた。なんと左でだ。この人ッ右利きのはずだっ。
途惑った瞬間、奥襟をつかまれてその強大な力が僕の身体を引き寄せた。いつもと違う左相手の組み手。
グッと身体の中心に相手の太股が押し入ってきた。まずいっ!
突き放して咄嗟に真後ろに下がった。僅かに遅れていたら完全に内股を喰らっていただろう。


「シンジッ!」


アスカの悲鳴が聞こえた瞬間、下がった僕より遥かにすばやく樋山さんの身体が並んでいた。
既に奥襟をつかまれて天井が見えた。成すすべはもはやなかったが夢中で身体を捻って腕を突き通した。
つかまれていた肘上の道着から手が離れた。
僕らは再び畳の上に一緒に叩きつけられた。くそっ大外刈りかっ?


「わざありっ!」


審判の声が遠くで聞こえた。利き手が途中で離れたため辛うじて一本は取られなかったようだ。
だがもう一歩踏み込まれていたらやられていた。
そこから意識が跳んでる。本能だけで僕は場外に転がり出ていた。元々ラインぎりぎりであったらしい。
再び館内に溜息と怒号が満ちた。僕には激しい海鳴りの音のようにしか聞こえていなかった。
立ち上がりかけ、頭を振る。朦朧とした意識が急に戻った。


「続けるか?」

「は、はいっ。」


僅かな攻防の時間で息が上がりかけていた。明らかに僕にはオーバーペースだった。
それでも、惣流が見てる。立ち上がらなきゃ。負けちゃダメだ。僕は…
立ち上がって、相対した。やせ我慢でも我慢のうち。精一杯息を吸って身体中に力を込めた。
そうだ、気迫だ。
歓声の中から、あいつの声がはっきり聞こえる。僕に一生懸命声援を送ってくれてる。

身体中の力を、お腹に込めた。よしっ!まだやれるぞっ!


「開始ッ!」

「どりゃあああっ!」

「おしゃあああっ!」


僕と樋山さんは吼えあった。もう一度身体中からエネルギーを搾り出すんだっ。
鳴り物は禁止されてるけど、もしあったら太鼓がどんどん打ち鳴らされた事だろう。
暫し間合いを伺って、じりじりと半円を描いた。汗が、こめかみから流れて胸の方に垂れていく。
樋山さんにはまだ余力がある。技を受けての切り返しは通じないだろう。それはわかっていた。
だとすれば僕のとる道はひとつだけ。もう僅かしか時間はない。攻めるっ!攻め続けるっ!
樋山さんもそれがわかっているから積極的に攻めて来ないんだ。受けはダメだ、行くぞっ!

袖をつかんだ。咄嗟に僕は飛んだ。飛びながら相手の胸倉の襟をつかんだ。
僕の奥の手、飛び込み巻き込み背負いだっ。確実な手ごたえがあった。行けるっ!

僕がそのまま渾身の力で投げの動作に入ったその時、圧倒的な力で利き腕はちぎれるように
振り払われた。しまったっ。
相手は身体を一回転させ、僕より2周りも大きな身体が信じられないほどの速度で僕の身体の
正面に現れ、屈み込んだ。
僕の視野から樋山さんの背が一瞬で消えた。
身体中が、がくんとするほどその引きは強烈で。


「うっしゃああああっ!」


その勢いのまま、僕の下半身は高々と宙を舞って、次の瞬間、畳に叩きつけられてた。
受身、取れてなかったと思う。それとも利かないほど強烈だったのか。


「げっ、っほっ!」


肺とか心臓、胃袋が身体を突き破って飛び出しそうなほど強烈な衝撃。


「いっぽんっ!」

「一本ッ!」「一本っ!」


続けざまに旗がさっと上がった。僕は見事に敗れたんだ。激しく息を継いだ。
身体の中に渦巻く熱気が呼吸のたびに吐き出された。動けなかった。
僕は、惣流の目の前で見事なまでに敗れたんだ。しかも僕の得意技を打ち破られて。

完敗だ!

会場の天井のライトが照り付けて来る。
互いに交差した湾曲した鉄骨が僕を囲っているように感じた。まるで鳥カゴみたいだ。
思わず腕で目を隠した。まだ視野がぼやけている。少し脳震盪をおこしてるのかな。


物凄い歓声と叫びと怒声と眩しいフラッシュが焚かれていた。
早く立ち上がらなくちゃ。
僕は、仰向けになった身体を回して、両手を突いて何とか立ち上がった。心臓が痛い。
息が苦しい。ハアハアといってるのは自分の呼吸音だ。
目の前に、小さく、アスカの顔が見えた。僕は樋山さんに助け起こされ、何とか立った。
はだけた柔道着を手早く正す。相対する。ひとしきりの歓声が納まっていく。


「勝者、樋山くんっ!」


再び湧き起こる大歓声の中で両者、礼。僕は敗れたんだ。負けたんだ。
一段高くなった試合場から降壇する。
正面に惣流が立っているのに気がついた。僕に大判のスポーツタオルを渡してくれた。
何も言わないでそれを受け取り、こめかみと顔の汗を拭った。


「くやしい?」

「くやしい。」


思わず、その青い瞳に答えていた。声が引き攣っていた。


「次は私よ。よく見ていて。」


うん、と言おうとしたけれど、どうしたんだろう。声が詰まって出なかった。
あいつは一瞬だけ優しい目をして、頭からすっぽりとタオルを掛けてくれた。


「一番前で、見てて。」


彼女が指し示した席は、さっきまで僕を応援していてくれた席だった。


「冷たいお茶、置いてあるから。」


そういうと、僕から目を離して試合場を見て腕を組んだ。僕は席に戻った。
どかっと、音がするほどの勢いで席に腰を下ろす。もう立っていられなかったんだ。
惣流の赤いポットが席の袖に掛けてあった。蓋いっぱいにお茶をついで飲み干す。

そうだな。僕は負けた。負けて、こんなに悔しかった事があっただろうか。
涙が出るほど悔しかった事があっただろうか。
その時、やっと自分で気づいた。汗だけじゃなかった。これは。

相変わらず、会場内では各校の応援合戦が続いている。
Bコートでの決勝戦がクラス別に続いているため、どの試合でも声援は白熱しているんだ。
次のAコートはいよいよ無差別級。
このクラスだけは全く雰囲気が違う。会場の一画を医師や救急隊員が占めている。
それだけ無差別級は危険性が高いんだ。
というのは無差別級だけはいわゆる講道館柔道ではないからだ。

総合武道に近い元々古武道としての古柔術そのままで行われる試合からだ。
一般的な意味で言えば、柔道は柔道と言う名のスポーツだ。洗練された技を競うスポーツ。
だけども無差別級は柔道で禁じられている技も使う事が許されてるんだ。
空手、合気道に近い技などもその中にはあり、打突や蹴り、危険な関節技など全てが含まれる。
言わば武道ではなく武術。殺し合いの技術の直系。野生そのままの荒削りな戦いの技術。
そのうえフルコンタクトだ。寸止めではない。それだけに危険極まりない。
なぜこんな危険なクラスに出るのかを尋ねると、これが本来の武道でしょうと笑って答えた惣流。
普段の僕らと一緒に生活しているときの彼女と全く違う彼女の一面。
いや、あいつの裏面と言ったほうが近いのかもしれない。それはまだ僕の知らない彼女。





目を上げた。惣流はさっきと同じ場所、同じ姿で、会場を睨むように見渡していた。






第37話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

もう一度ジュウシマツを(36)決勝 見上げた天井 2005-02-09 komedokoro




インターハイ:全国高等学校総合体育大会(総体)/柔道大会
主な高校の全国大会には他に全国高等学校柔道選手権大会、金鷲旗高等学校柔道大会などがある。
実際には国体を始めとする全国レベルの大会には外国籍選手の出場について長い間種々の制限が
あった。現在でも外国籍選手の出場には制限のある種目があり出場学校資格の問題も解決していない。


 今回から管理人の私がこの場所を担当。
 アスカのキャラコメでは恥ずかしい……のかな?こめどころ様のご希望です。
 私は美文とか書けないですから、満足のいく紹介はできないものと思っていてくださいよ。
 と、先に言い訳しておきましょう。

 さて、今回はシンジの決勝戦。
 負けてしまいましたね、シンジ君。でも、何故でしょう。彼にとっては負けた方がいいような気がするのは。
 ここですいすいと優勝してしまうと慢心というか、そこで彼の成長は止まってしまいそうです。
 彼としては遥か彼方に見えているアスカのもとへ行こうと頑張る。
 もう既に隣に並んでいるというのに。
 そういう誤解とも鈍感ともつかないモノに衝き動かされて一生懸命になるのがこの作品のシンジです。
 この二人のスタンスはそういう方が上手くいく様に思うのは私だけでしょうか?
 ご投稿、ありがとうございました、こめどころ様。
 (文責:ジュン)




描:こめどころ画伯

次回はアタシの試合!シンジの悔しさは私が晴らす!

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