もう一度ジュウシマツを ――これまでのお話――


妻を亡くした男と母をなくした兄妹。
男は仕事に逃げ込み、家族を省みず、一家はばらばらになります。
少年の心にぽっかりと空いた穴。
その心を母が残したジュウシマツが埋めてくれます。
若い家政婦がもう一度結いなおそうとする家族の絆、兄妹の絆。
そしてある日現れた元気一杯の少女との出会い。
数々の事件を乗り越え、少年も少女も妹も成長を重ね互いの絆を深めていきます。
家族はジュウシマツ一家のようにその姿を取り戻していきます。
そして、少年と少女はその心をしっかりと重ねあわせていくのでした。

その父親達の学生時代から続く厚い友情。その父親達の見境の無い愛情と周囲を取り
巻く人々の温かい眼差し。楽しく展開する学園生活。
その中でアスカは総合柔道の大会を駆け上がり、ひ弱だった少年は少女のために
挫折を繰り返しながらも血を吐くような激しい訓練に耐え抜き、
少女の力になろうと頑張ります。

少女アスカの祖母との別れ。生きること、齢を重ねるということ、愛するということ、
亡くなった人たちの想いはどこに行くのか。それに立ち会う少年シンジとアスカ。
謎の少女ヒカリ。弓道の精と称される妹レイが二人に寄り添います。
だけど、アスカにはまだ明らかにされていない秘密が。なぜ彼女は柔道という武道に
これほどのめりこんでいるのか。ヒカリがずっとアスカを見続けている理由は?


お話は祖母の国ドイツから二人が戻り、半ばあきらめていた全国大会に出場すると
アスカが言い出したところから始まります(前回45話)
勝ち抜いていくアスカ、ついに準々決勝への進出。
シンジの不安は次第に大きくなっていきます。
アスカが明るく、まっすぐに自分を愛してくれていることを感じるほど。
では、今回のお話へどうぞ。








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「洞木、ずっと前に君が僕に言ったこと、憶えてるか?
アスカの試合には、どこかおかしな所があるって言ってたよな。」


じっと洞木を見つめたら、彼女は目を瞬(またた)かせ頭を掻いた。
ただの笑顔じゃない。とうとう気がついたかって、あらかじめ想定された笑いだった。
参った、今の今までまさか憶えてるとは思わなかった、と言いそうな。

だが無論、そんなことおくびにも出しはしない。お下げが揺れただけだ。


「やっぱりお前、何か知ってるんだな。」


思わず乱暴な口調になってしまう。


「何も知りはしないわよ。ただ、あんたより少しばかり勘がいいの。それじゃ駄目かな?」


僕がよほど疑わしそうな目つきをしてたのか、洞木にしては言い訳じみた物言いだった。


「構わないさ。今はお前の正体より、アスカのほうが心配だから聞いてるんだ。」

「正体ってなによ。CIAとか内閣調査室とか言い出さないでしょうね。
でもこの情況でまさかアスカが出場してくるとは思ってなかった。
碇が絶対止めてくれると思ってたんだけど?」

「そっ、それは。」

そのつもりだったけど、ラングレーのオヤジさんに一蹴された。どうせ知ってるんだろ?

待てよ。話を逸らされるな。
アスカが怪我してたってことが、この状況に影響してるってことなんだぞ。

「それって、怪我がアスカを追い詰めることになるって事か?」

試合に臨んで、アスカは獣のように、衝動を抑えきれなくなるってこと?
一体洞木は何を知ってるって言うんだ。そう、あの麻疹の時だよ。
あの中学の頃からこいつは妙にアスカのことに詳しかった。
まるでいつもアスカのことを観察している様にアスカの気持ちの奥底を解き明かして見せた。


「たった一人で舞い続ける娘。魅惑的だけど寂しすぎる。私、ソロって嫌いなのよ。」


と言うことは、中等部でアスカを取り巻いていた状況は、今もさほど変わってないってことか?
あの頃のアスカは、一人ぼっちだったかもしれないけど、少なくとも今は人気者じゃないか。
あの頃だってちょっとかっとなりやすくて荒削りな所があるけど、悪い奴じゃないって皆わかってた。

だから僕や妹とだって仲良しになった。別に皆が認めてるから仲良しになった訳じゃない。
そして今は、僕とアスカは誰よりも大事な関係を保っていると信じてる。
レイだって、本物の姉の様にアスカを慕ってる。
あいつの弟やお母さんも、父さんもリツコさんも、アスカのことになると目の眩むオヤジさんだって、
ミサト先生も加持さんも、みんなアスカのことを大切に思っている。

それなのに、それでも、アスカの中の欠落した部分は結局埋まってないって洞木は思うわけ。
いや、洞木より付き合いの深い両家の家族は当然気づいていて僕だけが知らなかったとか。

そんな可能性はどうだろう?



 

− 46 −

「いと高きところからの眼差し」


こめどころ       2008.09.15











アスカは自分が意識しないうちに相手の腕を折ろうとしたことに戸惑っていた。
試合が終わった時のアスカの表情。折らずにすんでよかったと、表情が安堵していた。
だが、こうして眺めていると、アスカの表情は既に笑顔と自信に満ち溢れている。
輝くような笑顔、煌くこめかみの汗。
今のアスカはいつもとなんら変わらないとも思う。
だがあの時は確かにどこかが違っていた。反射的に出てた技。


「碇、困ってるでしょ。」

「え、あ、ああ。」


洞木は僕と同じようにアスカを見ている。目を細め、半分微笑を浮かべた表情。
こういうのをアルカイックスマイルっていうのか、不思議な表情だよな。
この表情、どこかで見たような気がする。
でもそれは教室でみんなが騒ぎ過ぎたときに「静かにしてくださいっ!」って叫ぶ彼女とは違う。
壇上で自治会長として話すときの、上級生みたいに落ち着き払った彼女とも。


「たった一人で戦い続けてるアスカ。でも僕らが周囲にいるってことがあの頃とは違う。
でも、そのことが少しもアスカに影響を与えていないっていう事だよな。洞木のいうことは。」

「そうね。」

「だけどこの切羽詰った状況で、僕がアスカにできることって何だ。」

「碇はよくがんばって来たと思うよ。少なくとも今のアスカは周囲の仲間にまで無駄な敵意を
向けたりする事はなくなったもの。上出来よ。碇じゃなきゃできなかったことだと思う。
あの子は確かに普通になりつつある。」

「普通って何だよ。異状だったみたいに言わないでくれ。
前だって無闇に周りに噛み付くようなことはなかったじゃないか。
普通の人間が歯噛みしながら我慢する事を、あいつは我慢なんかしないってだけだよ。
我慢と意気地が無いのとは違うじゃないか。それに僕は――
あいつの近くにいたってだけで、元々何の役にも助けにもなってやしなかった。」


少し声を荒げてしまった。


「そうだったかしらね。」


そう言われたとたん思い出した。アスカが僕だけにかまう理由として洞木が言ってたこと。
アスカが自分で何か重要な欠落があると気づきかけているのかもしれないって事。
それで僕に拘ってるって、無意識に僕に何かを求めているんだって。もし本当にそうなら。
そう、本来守るべき対象であるレイや十姉妹が、本当は僕の拠り所だったように、
惣流にとってそれが大事な問題なら、僕は今まで友達として何も気づかず何をしてたんだ。
あいつは僕を守る姉のような立場でいながら、同時に僕を頼りにしてたってことなんだろ。


「思い出した。」

「それはよかったわ。あれより少し前、知り合った頃のアスカは色々と問題児だったのよ。」


そういえば、柔道部で初めて会った時の喧嘩の売り方、何だか随分堂に入ってたような気がする。
もしかしてあちこちで喧嘩売って回ってたなんてことはないだろうな。


「合併は10月頃だったわね。
中学が始まって転入してきた半年間の傍若無人ぶりを見せてあげたかったわ。
転入者っていうのは地の塩では少なくて、公立からはみ出した個性的な子が多いんだけど、
あの子は特に群を抜いてたというか。」

「そ、そんなに?」


まぁ、確かにあの勢いで女子校に乗り込んで来たとすれば、異端児もいい所だったろうな。
それで羽仁先生がからかっていたのか。
上品すぎるくらいの女子校に、あの爆弾娘がやって来て無事で済むわけがない。
柔道部の顔合わせでのあの時、アスカは破壊を期待する仲間たちの声援を受けていたもんな。

破壊というより、既存の規律や制度や習慣をぶっ潰し、変えることを皆に期待されちゃったんだ。
あの地の塩って学校は普通の学校に比べたら随分ましな学校なんだけど。
それでも日々に倦み、何か劇的な変化を期待したり物足りないと思う気持ちは誰にだってある。
地の塩の体現者と言われてるようなレイですら、何かと不満は口にする。それは当たり前のことさ。

でも転入からもう4年も経っている。
もはやアスカと言う異端児がいなくても校内の変革は合併や洞木たち生徒内部の変革グループや
新しい学校経営陣の手でどんどん進めらている。
それが生徒の好まざる改変であれば、生徒は制服の一件のようにボイコットで応える。
意外とこの学校の生徒達は骨っぽくて、羊の様にずるずる流されたりはしない。
羊の群れの中にはちゃんとヤギたちも牧羊犬も従順な子羊でいない奴らが混じっている。

ただ、アスカはそういうのとは最早レベルが違う。

僕は十分にあいつの事をわかっているつもりでいたけど、それだって僕がそう思ってるだけで。
わかった積もりなってるだけの事なんて幾らだってある。
全国大会ベスト8に残ったアスカは、いよいよ真剣に全てを曝け出してでも必死で試合に臨む。
この土壇場に来て感じる不安。見ていたのに気づいていなかったアスカの影?の部分。

その事に今触れるのは試合の勝敗だけを考えるなら不利に働くことになる。
僕の漠然とした不安と、洞木の予言みたいなあやふやな理由によってだ。
そんなことを根拠にして、今アスカの心を乱すわけにはいかないじゃないか。


「シンジーッ!」


向こう側の階段。大きな声で、思い切り背伸びをし、アスカが僕に向かって手を振っていた。
次の試合はベスト4に残るための試合。その次は準決勝。そしてついに決勝戦だ。
僕が手をあげるとにっこり笑いながら手を振り返す。
この笑顔を見ている限り、何の心配もなさそうなんだけど。


「今は、アスカが変だなんて言うべきじゃないだろうな。」

「碇がそう思うなら、それでいいんじゃない。」

「待てよ。洞木、お前は何を見てるんだ?」


一瞬の睨み合い。目線をはずして洞木は後ろに踵を返そうとした。


「アスカの夢がかなうかどうかの瀬戸際。応援するしかないわよね。」

「そうだよっ、他に選択肢があるか?」


そういって洞木の肩をつかんで引き戻そうとした、その瞬間アスカが背中に飛びついてきて。


「なによ、こんな離れたとこでヒカリと何の話してるのっ?」

「とうとうここまで来たわね。
あんたのやんちゃも、病膏肓に入るってとこねって話してたのよ。ね、碇くん?」

「うん、ここまで来れば、ただのお転婆娘ってだけじゃないよな。」


一瞬きょとんとした後、アスカの顔がカーッと上気した。


「な、何よ。あんた達私に喧嘩売るわけぇっ?」

「とんでもない。誉めてんのよ、ね、碇。」


いちいち僕に同意を求めるなよって。


「怪しい。2人がつるんでるときは何か悪企みしてるような気がするっ!」


こっちもまた、いい加減鋭いったら無い。


「気のせい気のせい。
ここまで来れば、もうあんたのお転婆のせいで私が割り食って叱られるってことはないでしょ。」

「な、何を今さら・・・」


たちまちタジタジとなって何も言えなくなる様子がちょっと可愛く見えた。
洞木には随分前から借りが一杯あるようだな、アスカのやつ。
そう言えば、若かりし日の永遠子おばあさんも、随分羽仁先生に面倒かけてたらしいけど、
これも血筋ってもんか?
親友に迷惑をかける血筋、近くにいる奴はたまらないな。えーっと、もしかして僕もその一人か?
でもまぁ僕はどちらかというと振り返れば、迷惑かけられるより掛けてるほうが多いのかも。
まぁドイツへ行ってた間ずっとアスカをフォローすることに一生懸命ではあった。
日本に戻ってから、あいつのトレーナーをしてたからずっと面倒見てきた気になってるけど。
実際には中学からこの方、ずっと世話を焼かれてきたのは僕のほうなんだ。
多分、ていうか本当は。


「お兄ちゃん。」

「うわ。」


思わず飛びのいたらそこにレイがいた。


「な、なんだよ。」


何で出不精な妹がこんなところにいる?


「今朝急に、お父さんが京都へ行けって中央駅まで連行されてきたの。」

「あの人も急に思いつく人だからなあ。で、父さんは?」

「知らない。後から来るって言ってた。」


ま、レイがいてくれるって言うのはシスコンの僕にとってはうれしいことだけど。
父さんがレイだけを送り込むなんてちょっと考えられないしな。


「お兄、アスカちゃんのマッサージしないと。」

「あ、そ、そうだった。」

「これ、アイシング用の氷。」


一階席に置いてあったクーラーボックス。持って来てくれたのか。
肩からガシャンとそこに下ろした。もう一つのボストンも。
ちょうどいい場所に長椅子が並んでいた。2つ平行に並べて、アスカに横になるように促した。
道着の上着を脱がせる。この分厚い刺し子の上からではマッサージの効果は無い。
上衣を脱ぐと、薄いシャツ一枚だけだから汗まみれにブラや何かもすっかり透けている。
新しい奴に着替えさせないと。レイと洞木が大判のバスタオルを広げ、その中ですばやく着替えた。
その間に2人がすばやく前と背中の汗をふき取った。
横になったアスカをバスタオルで覆い、マッサージを開始する。膝と踝、肘や肩。
そして打突を受けた部位に氷を袋につめた氷を小さなタオルで来るんで押し当て、熱を取る。


「あー、気持ちいいっ。極楽〜〜」

「何かお姉ちゃん、婆くさいよ。」


くすくすとレイが笑う。


「うっさいわねー、レイだって試合後にアイシングして揉んでもらったら同じ状態になるわよ。」

「私やってもらったこと無いもん。」

「今後チャンスがあったらレイにもしてやるよ。せっかく習ったんだから。
伊吹さんと警察柔道部の直伝だから効率いいし、効くよ。」

「あん、シンジそこっ。腿の前面のその上。はあ、ああ。そんなとこ指圧したら、ああ。」

「へ、へんな声だすなって。」


こいつ絶対からかってるな。確信犯だ。レイが目を丸くしてるじゃないか。
それからたっぷり30分は揉めただろうか。準々決勝の呼び出しがあった。
軟膏を塗りこみながら僕は耳元で囁(ささや)いた。


「アスカ、左の踏ん張り、不自然にならないように気をつけろ。狙われるぞ。」

「やっぱりシンジにはわかっちゃったか。ま、痛みがあるわけじゃないから。」

「当たり前だよ、できればテーピングしたほうが速さは落ちないぞ。」

「狙われて、一発男子の蹴りが入ったらおしまいだもん。我慢するわ。」

「わかった。アイシングは大分効いた?」

「ええ、とっても。」


効いてなくても効いたって言うだろうな、こいつは。
じっと見つめあってしまった。「アスカ冷静にな。」心でつぶやくと彼女はこっくり肯いた。
大丈夫、僕らはつながっている。


「よし、行け。」

「何か偉そうねぇ、うんっ。」


ゴリッと僕の頭に拳をこすり付けて笑った。
レイと洞木が結い上げたひっつめ三つ編みで、アスカはトトト・・・と階段を下りていった。
それを2階席の一番前まで行って身を乗り出し、手を振って応援しているレイと洞木。
向こう側の席で振られている応援旗、各校が試合前に声を枯らして応援歌をがなっているのだ。
その中でも、特に目立つのはうちだ。なんせ過半数が女の子たちだからね。
なんて言っても女生徒たちの憧れ、惣流アスカが大試合に臨むのだ。気合が違うよ。
修永館高校のバンカラ丸出しの校歌や応援歌とはまるで違う、美しいハーモニーが流れる。
前代未聞、柔道大会で伝説の純女子校『地の塩学園』の校歌が響き渡っているんだからね。
おまけに締めなんかアーメンで終わっちゃうんだから。
この試合はTV中継されてるから唖然としてる人も多いだろうな。
華麗な女声4部合唱に猛者共はすっかり毒気を抜かれちゃって応援旗も止まってしまった。
まぁ、そりゃそうだよなあ。と、ちょっと気の毒みたいに思った。


「まるで体育館が聖教会堂になったみたいねー。」


ミサト先生も苦笑して言った。準々決勝が終われば、その後は一気に準決勝と決勝だ。


「シンジ君、アスカの足、どうだった?」

「気、気がついてたんですか?」


この人も油断ならない人だ。昼行灯を気取ってる見たいなとこがあるから。


「先の試合の足払いは結構利いてたようですけど、痛みはもう無いと。
たっぷりアイシングして、揉み解しましたけど、テーピングは標的になるからいらないと。」

「テーピングかぁ。まぁしないで済むならそれに越したことはないけど。
この試合以降のほうが問題かもね。」

「この試合の相手、前村さんって只者じゃないでしょう?」


いつの間にか身体に汗が吹き出てきた。マッサージは結構施術者のほうが消耗する。
それだけって訳じゃなく、次の相手は北陸地区で有名な、前年度もベスト8に食い込んだ選手だ。
しかもスピードと打突で勝負するアスカと同じタイプの選手だ。苦戦するかもしれないと思った。
自分の試合のように全身が緊張する。


「アスカ頑張れっ!」


大声で声援したけど、あいつの耳に届いているのか、わからない。


「すごい殺気ね。震えが来そう。」


並んで立っていたミサト先生が思わずつぶやいた。
その時、後ろ肩をぽんと叩いたのは加持さんだった。


「ああ、そうだな。」


そうか、加持さんて京都の大学が本拠地だったっけ。来るって伝えてなかったらしい。
ミサトさんがびっくりして叫んだ。


「加持ぃ!!」

「あの子の試合ってのは、何かこう、見てて怖いな。」


どきん!心臓が跳ねた。気がついてる、加持さん。アスカの試合う姿のこと。


「日頃の練習のときとは、えらい気合が違うじゃないか。殺気とでも言うんかな。」


たしかにこの試合運び自体が今までとうって変わっている。
柔道の試合というより組み合わない空手の試合の様相を呈している。目つきも呼吸も、違う。
身体の間に火花が散っているようにさえ見える。差し引きの足の動き、体の動き全てが段違いだ。
前村選手が、アスカの迫力にいつもより力を引き出されている、僕にはそう見えた。

審判は盛んに組んで!のアピールをしているが、レベルが高い上に打突系同士でそれはつらい。
確かに本来の趣旨から言えばこれは柔道の試合なのだ。全国大会となれば試合運びには厳密なルールが適応される。
1分間にらみ合った後、注意が与えられた。さぁ、2人に取ってはここからが試合開始だ。

ほぼ同時に組み合った瞬間、2人は互いに左手を振り払った。
互いの襟を巻き込んで持ち、上に跳ね上げた腕には、赤い指の痕が一瞬見えた。
筋肉のスジに沿って指を突き入れたのだ。こぶしが大きい分だけ相手選手のほうが襟を固く保持できる。
袖だけで押し込んでアスカが戻るところを膝に足を飛ばす。蹴りかと警戒して逃げ足を引いたところを
半身押し込んで小内を刈ってきた。2,3歩押し込まれ体を返し、アスカも膝に足を飛ばし、一瞬膝車の体勢。

互いに打突を警戒して、地味な小技を出し合い続ける。途切れのない緊迫した技の応酬と筋肉の躍動。
凄い、ベスト8となると、これだけレベルが高く変わるのか。見ている自分の身体が熱を持った。
アスカ、負けるな!こぶしを固く握り胸のうちで幾度も叫ぶ。
ただ見ている分にはごく初心者の柔道の試合のように見えたかもしれない。だが瞬時の揺らぎが勝敗を分ける。
膝から足を床に下ろした瞬間、完全に下ろさないまま身体を横に倒しながらアスカは上半に蹴りを突き上げた。
左肩を抜き、相手は肋骨に拳をたたきつけ、それを両手で受け流しながらアスカは飛び下がった。


「待て!」


前村選手の左首から血が噴き出していた。アスカの激しい蹴りが首の皮を一枚切ったのだ。
アルコールを吹き付けて血止めをし、大きな傷テープを張る。盛んに首をひねっている。
違和感があるのか。柔道着の左肩に血が滲んでいる。汗で濡れているので染みが少し広がっていく。
アスカは正座したまま息を整えている。試合中に休みが取れるだけアスカには有利になる。


「はじめっ!」


開始と同時に、前村は激しく組んできた、と見せかけてアスカの左胸に打突を叩き付けて来た。
浮き身が取れきれず、アスカの顔が歪んだ。同時に彼女の右足が前村の左腹部に吸い込まれ、
相手は呻きを上げて数歩下がった。しかもその後アスカの足はクイと曲げられて地に着き回転し、
その足を軸として飛び、左足の踵がややうずくまった姿勢の前村の後頭から首にかけて打ち込まれた。
実際には、それは一瞬で行われ、目にも留まらない稲妻の閃光のようだった。
大技のワンツーに会場は大きくどよめき、前村選手はそのまま正面にひやりとするほど激しく倒れた。
傷めていた足をあえて軸にして打ち込んだ、際どい技でもあったが、とにかくアスカの圧勝だった。
左の肋骨を手で押さえもせず、アスカは勝者の宣言を受け、笑顔で降壇した。


「肋骨、やっちゃったか?」

「たぶん大丈夫だけど、最初の連打が効いたみたい。」


暫くしてやっと彼女は笑顔を止めて眉根をしかめた。TVに写っている間に苦痛の表情は見せられない。
アスカは、毛筋ほどの弱点も見せるわけにいかないのだ。
無敵の女性選手という擬態は相手に緊張を強いる効果がある。試合を急ぎたい気持ちにさせる。
ゆっくり構えられ、体力と筋肉に物を言わせて傷めたところを一点集中で攻められたらどうしても
不利になる。しっかりしろ碇シンジ、とスタッフとしての自分を励ました。
アスカが危険な事をしているのは承知の上でその意思に従ったんだ。
反対はした、だがアスカはあきらめない。
だったら僕はもう自分のできること全てをアスカに注ぐしかないじゃないか。
そう決心したんだろう、碇シンジッ。


「あの手で受け流した奴?」

「防ぐ前に、先に一発食ってたの。とんでもない相手だったわ。
その前のは身体を曲げてよけたけど、速い打突だった。
上への蹴りはかなり苦し紛れってとこだったけど、結果的には助かったわね。」


あれは、体をかわすためにとった姿勢と攻撃だったのか。
つまり、あの首の出血は狙ってたわけということ?
審判の指示で医務室にDr.と一緒に戻った。


「君は向こうだ。」


と追い出された。カーテンの向こうで洞木が付き添い、治療をしている。
折れたりひびが入ってはいないがその直前まで行って弾性で戻ったような状態。
周囲の組織はかなりのダメージを受けている。

「先生、これじゃあ、上腕が攣って動きません!」

「待てよ、ここを剥がしたら、もう一発食ったら簡単に折れちまうぞ。」

「上腕が回らないと、受けが取れないから返って危ないのよ。」

「男子みたいに分厚い筋肉の防御壁があるわけじゃない。動くことで攻撃と受けを同時にするんです。」


洞木の言葉には、悪いけど選手本人よりより説得力があった。
それでもしぶしぶという様子でDr.はテープを一枚剥がし、新しいテープを少し下に張りなおしたようだ。


「足。こっちはもうだめだぞ。」

「うーんしょうがないな。」


右足の踝にはテーピングが施されたようだ。
だけど、試合の相手によっては引っ剥がしちゃうだろうな。アスカは。




「準決勝は40分後からだ。何か口に入れる?」

「ママの卵サンドが食べたいなぁ。」


アイシングをしながら、足を高い位置に乗せたアスカは、そんなことを言った。


「リツコ母さんのだけど、食べる?」


レイがサンドイッチのパックを差し出した。お弁当も持たされたのか。
リツコさんレイには甘いなあ。ほんの少し僻んだかも。
アスカはにっこりすると、卵サンドをつまんだ。
リツコ母さんのゆで卵は薄めたマヨネーズでよく練ってあって、パセリのみじん切りが入ってる。
卵サンドは女の子に譲ってポテトサンドを食べた。保冷剤がよく利いてひんやりした食感。
うん、いい塩加減。いろいろなハーブが少しづつ練りこまれている。
リツコさんのサンドは美味しい。
化学の実験と料理は似てるから、とリツコ母さんはよく言うけどヨーロッパ料理のレシピを
よく勉強してるのを僕らは知っている。香料やハーブの棚が段々充実して行ってるってことも。
花壇のハーブ畑が増えていることも。(うちの花壇は十姉妹用の小松菜とかカタバミがメインなんだけどね。)


「おいしい!」

「私も大好き。紅茶もあるよ。アイスもあるから冷たいのが飲みたくなれば言ってね。」


アイスじゃなくて温かい程度。薄甘いミルクティーは疲れを取るのにぴったりだ。


「このサンドイッチ、ママのサンドに似てる。パセリや香草が入ってるとことか。」


ふと、そのママって、亡くなった本当のママのことなんだって、気がついた。
洞木が、そのアスカの横顔をじっと見ている。
アスカを抱きしめるのか、とふとそう思った。


「お兄ちゃん。」


レイが目で向こうを指し示した。
テレビのクルーが順にベスト4の選手にコメントをもらって回っているのが見えた。
アスカのお父さんはインタビュー受けたら喜ぶかもと思ったけれど・・・
だがここではそんなことで疲れさせたくなかった。
僕らは女子更衣室に逃げ込み、椅子を持ってきて洞木と僕は更衣室の前に座り込んだ。
数分もしないうちにテレビクルーの一団がやってきたが、寝ているといって追い払った。
そのすぐ後にドアが開きレイに中に引っ張り込まれた。


「おじゃまだから。」


レイは訳のわからないことを言って、僕と入れ替わりに外に出た。
上衣を脱いでくつろいでいたアスカが、レイの紅茶をカップに入れて勧めてくれた。


「とうとう、準決勝まで来たわね。」

「ああ。」


いざとなると、僕はまるで父さんの様に、ぜんぜん言葉が出ない人間だった。


「次の試合も、見ててね。」

「当たり前じゃないか。」

「私、あなたのために試合するから。」


その後すぐに、


「ま、それだけじゃないけど。」

にっこりと微笑み、「サンドイッチがすごくおいしかったから元気でた。」
と、付け加えた。
いつものアスカの目。試合中のあの怖いくらいの、ケモノのような目とは違う。


「テレビに出てる私を見て、パパは必死で応援してるでしょうね。」


そうだろうな。あの人はとにかくアスカを溺愛してるからね。
そう思って肯いた。アスカを何より大事に思っているという点で僕とオヤジさんは仲間だ。


「きっと、天国から君のママも見てる。」


唖然とした表情で、アスカは僕を見た。


「なんでわかったの。」

「サンドイッチを食べてたときに気がついた。」

「シンジ・・・」


僕は、自分で意識しないまま、アスカの両頬を包んでいた。


「頑張って。でも無理はするなよ。」

「す、少しくらい無茶しなくちゃ、勝てるもんも勝てないわよっ。」

「わかってるさ。でも、僕の気持ちもわかってるだろ。」

「冷静に、賢い試合をするわよ。でも、行けるとこまでは行ってみたいの。例え、」

「たとえ、は無しだ。君はそのまま無事に帰ってくるんだ。僕のところへ。」

「・・・うん。」


僕はその時のアスカの瞳を一生忘れないだろう。


「わかってるママ。約束する。」


その返事に一瞬声を失った。


「や、やだあたしったら。」


身体全体に激しい衝動を感じた。多分、アスカも。
それは、今まで感じたことのない激しい衝動。
まるで、何かまったく異質なものが自分に降り立ったような衝動。
多分ここで手を握りしめただけで他の時空に異動してしまいそうなくらい。

暫くして僕らは離れ、椅子に腰掛け差し向かって2人で紅茶を飲んだ。
何も言葉は交わさなかったけど今までで一番アスカとの一体感を感じていた。


「お兄ちゃん、もうすぐだよ。」


ドアをたたく音と一緒にレイの声が聞こえた。準決勝が始まる。


「勝つわよ。」

「ああ、勝って来い。」

「あんたのために勝つわ。」

「一瞬も見逃さないよ。」


手を握り合った。そしてまた互いの瞳を見つめあった。


「開けるよ。」


洞木がドアを開け、そのままドアに顔を向け歩き出した。







アスカの父親は自宅に戻る時間がもったいなくて、会社の応接室を占拠していた。
長っ尻のオイルダラーは何とか放送開始の前に引き上げてもらったが次回の会食やらアポやら
煩く言い出しそうなので、全て引き受ける、都合のよいように秘書に連絡をくださいと満面の
笑みで追い払ったのだった。これでいくらか利益が減ってもどうってこたぁない。
また大叔父あたりが隠居所から何か言ってくるかもしれんが知っちゃいない。

テレビ会議用の巨大プロジェクターに中継放送を写し、固唾を呑んで試合開始を待っている。
5人前の鮨桶をテーブルに据え、ビール缶が3本ほど転がっている。万全の構えだ。
ラングレー付きの秘書たちも鮨桶を支給され、一緒の部屋で観戦している。
容貌魁偉とも言えるラングレー氏の自慢の娘を初めて見て、あまりの愛らしさ凛々しさに
驚き、そのまま皆ファンと化してしまったのがご愛嬌だ。

今、氏は居ても立ってもいられなくなって、家に電話を入れたところだ。


「見、見てるか。いよいよ準決勝だぞ。」

「ちゃんと見てますよ。録画もずっとしてますから。」

「まったく、途中で何回席を立とうと思ったか知れん。長々と喋りやがってオイルダラーが。」

「あら、ベスト8戦、ご覧になれなかったんですか。」

「いや、試合後のビデオは見れたんだが。
その後のインタビューや解説でアスカの事をちっとも取り上げないんだ。」

「それは多分シンジ君や学校の方がアスカを疲れさせないためにマスコミをシャットアウトして。」

「それはわかっとる。だがな、」

「はいはい、アスカちゃんが映らないのが不満なのよね。」

「血が噴いたときには肝を潰したぞ。相手だったからよかったが。」

「良いということはないけど、私も同感でした。」

「打撲は大丈夫なんだろうな。」

「学校から電話がありましたわ、お嬢さんは骨折もなく無事準決勝に出ますって。」

「ば、馬鹿もん。そういうことは直ぐに連絡せんか。
そうだ、学校に会社の応接室にわしが居るからそっちに直通で連絡をしろと言って、」

「そんなことできるわけないでしょう? 我侭もいい加減にしなさい。」

「何が我侭だ、こういうときのために馬鹿高い学費を払ってるんだろうが。寄付だって。」

「――切りますよ。」

「ま、まてっ!わしが悪かったっ!」


ラングレー氏としても連絡が間接的にでも届かないと困る。早めに降参するしかなかった。
秘書軍団の女性たちが顔を見合わせて微笑む。
そのとき、画面に目をやったラングレーは目をむいた。
会場中継に、終生のライバル、あの碇ゲンドウがちらと映し出されたのだった。


「今のは――碇じゃなかったか?」

「そうでした?私見逃したかしら。」

「考えたら、奴は俺と違って今日は休みが取れるわけだ、居ても不思議ではない。」

「気のせいじゃありませんか?」

「畜生っ、出し抜かれたっ。」


只でさえ、トレーナーがあの碇の息子だというだけで危惧しているというのに。
やきもきが収まらない。勝っても負けても娘はあの少年に・・・血管が浮き上がる。
二人が抱きしめあう姿が目に浮かんでしまう。まあ母国にいたらそれだけじゃすまないでしょ、
という妻の声が聞こえたような気がした。確かにアメリカで17歳ともなれば男友達と深い関係に
なっていてもなんら不思議ではない。真面目の塊のような碇の息子だからこそ・・・わかってる。
わかっていても納得できないのが父親というものだ。


「ち、チクショウッ!ゲンドウのやろう覚えてろよ!孫はワシのもんだからなっ。」


吠えたところで所詮負け犬である。
一方、碇家のリビング。
TV画面を、じっと見ているのはリツコだけだった。珍しくホットミルクなど飲んでいる。


「結局、ゲンドウさんもレイちゃんも京都に行っちゃうし、私だけ除け者なんてずるいわよね。
ま、しょうがないか。この時期の旅行は母体に悪いって言うし。」






「不戦勝!惣流・アスカ・ラングレーッ!」


え、ええええ〜〜〜っ!会場中が割れるような驚きのどよめきに包まれた。
ついさっきのベストフォーインタビューでは、元気に答えていた東海代表の選手が亀裂骨折のため
急遽、試合放棄を発表したのだ。これはだれも予想していなかったことだ。
最後の最後まで出場をすると言い張っていたらしいが、まだ来年もある2年生だ。
OBや3年生、監督の説得に応じたらしい。
やや不満そうだったアスカだが、舞台下で泣いているその選手を見てまた覚悟を新たにしたらしい。
勝利にはいろいろな思いがある。負けたほうは常に勝った相手に先を託し、それを受けて進んできた。
鋭い視線を、次の試合の花沢選手と一ノ関選手に向けた。
ともに優勝候補と目されてきた3年生だ。表情一つ変えていない。
それに比べて、アスカははダークホースに過ぎない。
優勝候補のどちらが勝っても、不戦勝はアスカにとって有利なことには間違いない。
今までアスカに不利に作用していた僕らの市や県の大会地区割り、怪我。
この大会においてはそれが逆に回っている気がする。僕らにとっての幸運のサイクルが回ってる。
この勢いを背に、突っ走ろう、アスカ。

いよいよ、ここまで来た。
惣流・アスカ・ラングレー、いよいよ決勝進出決定だ!






「すまんがその桃ネクターとレモンスカッシュを2本づつくれ。あとアイスココアも1本。」

「ひっ、は、はい〜。」


売店で怪しげな髭面男が子供たちのためにジュースを購入し、売り子に脅威を与えていた。


「不戦勝か。悪く無いな。」





















第47話へつづく

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もう一度ジュウシマツを第46話 ――いと高きところからの眼差し 2008−09−15  KOMEDOKORO






「もう一度ジュウシマツを」第46話です。
3年ぶりなんですねぇ。
前回(第45話)で4ヶ月ぶりだと恐縮したのですが、その次にこれほど間が空くとは…(ジト目)。まあ、中絶とはならなかったということで、お許しくださいませ。
さて、今回。スポーツ音痴の私には試合のことはさっぱりわかりません(おい)。したがいまして、試合運びその他に対することは一切触れませんのでご了承ください(笑)。
勝ち上がったアスカはぼろぼろの状態です。そこまでして戦うのは何のためなのか。正義のためではなさそうですが、シンジに捧げるものでもなさそうです。となれば、彼女はどうして?という疑問がわいてきます。その疑問は今回では解けません。と、いうことで、速やかに次回の投稿を要求します。ええ、依頼ではなく、要求、いたします。次は3年なんか許しませんよ。長くて4ヶ月。いえ、年内に必ず。
ご投稿、ありがとうございました、こめどころ様。
(文責:ジュン)

 

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