昭和短編集


あなたの知っている
漢字を書きましょう

ー 1968 春 

 


 2006.10.06        ジュン

 
 







 「伊吹先生、どうされたんですか?」

 背後からの問いかけに伊吹麻耶は微笑を残したままくるりと振り向いた。
 もちろん、椅子が回転式ではないから腰を捻って上半身だけで後ろを見たのである。
 これが校長や教頭ならば、いや彼の声でない他の先生ならばちゃんと返事をして立ち上がっていただろう。
 教職についてまだ2年目の彼女にとって気軽に話ができるのは、この小学校の中では彼だけだったのだ。
 彼女と日向誠人は昨年この緑が丘小学校に赴任した。
 この小学校では近くにニュータウンとマンモス団地ができたので爆発的に生徒数が増えている。
 新卒の彼ら二人は他の小学校からのベテラン教師達と共に着任したのだが、
 一気に学年2クラスずつ増えたものだから、例年ならば新人教師への教育や激励があるべきところが、
 昨年はそのような事情で二人はいささか放任的に…と書けば聞こえがいいが、寧ろ放置されたとするべきかもしれない。
 ただし、これは二人が信頼されていたという証でもあったともいえるが。
 確かに新任の割にはしっかりしていると二人とも評価が高かったのは事実だ。
 しかし昨年までは学生だったのだ。
 笑顔の下でどんなに不安だったことか。
 このような理由で境遇が同じの新人同士が仲良くなるのは自然の流れだった。

「すごくにこにこしていましたよ」

「そうでした?」

 誠人は彼女の隣の椅子に腰掛けた。
 時間はもう6時を過ぎている。
 もちろん子供の声などまったくしない。
 校庭からも元気よく駆け回っていた彼らの姿はまったく消えていた。
 いや、子供たちだけではない。
 この机の持ち主の大田先生も既に帰宅していた。
 42歳で子供が三人もいる、「10年前までは美人女教師だったのよ」が口癖の彼女の椅子は麻耶のようなパイプ椅子ではない。
 お尻のところが回転するタイプの椅子だった。
 教師の数が増加したのはこの職員室の椅子を見ただけでも明らかだ。
 年功序列とはこのことか。
 パイプ椅子が置かれている机はすべて若い先生の場所であった。
 3年前まで新しい椅子に座っていた若い先生も赴任してきたベテラン教師には椅子を譲らざるを得ない。
 今年は麻耶が4年生、誠人が5年生を担任している。
 真面目一方で今まで過ごしてきた誠人にとって、麻耶の存在は彼の日常においてかなり重くなってきているこの頃だ。
 
「ええ、楽しそうに見えましたよ。それ、作文か何かですか?」

「うふふ、ご覧になります?」

 麻耶は手にしてた一枚のわら半紙を差し出した。
 受け取った誠人はそれを見て首を捻った。
 4年4組1番相田健助。
 これはわかる。
 一番上に書かれているのは名前だ。
 だが、その下に書かれているのはどういう意味だろう。
 テストのように問題は書かれておらず、紙一面に漢字がびっしりと書かれている。
 そこに何箇所か赤ペンが入れられていて、名前の横に335と数字が小さく記されていた。

「335…点ですか、これは?」

「いいえ。335個。点じゃないんですよ」

「335個。ということはこれまでに習った漢字をいくつおぼえているかっていうテストですね」

「残念でした。違うんですよ」

「えっ」

 誠人はもう一度わら半紙を見た。
 名前の下に真っ先に書かれているのは“怪獣”だった。

「怪獣?これは…何年生で習うんだっけ?」

「どっちも教育漢字じゃありませんよ。知ってる漢字を書きましょうってしたんです」

 くすくすと麻耶は笑った。
 わら半紙に目を落とすと、他に書かれているのは、
 “逆襲”、“赤影”、“白”、“青”、“金目教”、“忍者”、“円谷”、“東宝”……。

「何ですか、これ」

「あら、ご存じないんですか?
 きっと健助君は怪獣映画とかが大好きなんですよね。それでそういう漢字を真っ先に思いついた」

「怪獣映画、ですか?」

「まあ、日向先生は見なかったんですか?ゴジラとか」

「ええっと…」

 誠人は昭和20年生まれ。
 9歳の時に『ゴジラ』が公開されている。
 もちろん話題のこの作品をマコト少年も見に行きたいと思った。
 だが、4歳年下の妹があんな怖い映画には行きたくないと泣き出し、結局映画は見れず仕舞い。
 小学校での映画の評判に話題を合わせることができずに知らぬ顔をするしかなく、
 その影響で彼は特撮映画が嫌いになってしまったのである。
 しかし、伊吹先生の前で怪獣とかが嫌いだとは言いにくいような気がした。
 本能的に。

「私はこう見えてもああいうの、結構好きなんですよ」

「えっ、そうなんですか?」

 本能は正しかった。

「はい。下が弟ばっかりで。母の代わりに映画に連れて行きましたからね。
 ゴジラにラドンにモスラにキングコング。実はウルトラマンもずっと見てるんですよ」

「は、はは。じゃ、子供たちとも話が合いますね」

 これはまずい。
 誠人は話を逸らした。
 クソ真面目ながり勉君というレッテルは彼女が好みそうもないからだ。

「ええ、だから授業中も時々脱線しちゃって」

 麻耶は自分の頭をこつんと叩いた。

「これなんかどうです?」

 彼女は重ねてあるわら半紙の中から一枚を引っ張り出した。
 どれどれと誠人はそれをしげしげと見る。
 そして、彼は思わず吹き出した。

「鈴原のヤツ!あいつ、関西弁まるだしの癖に巨人ファンだったのか」

 名前の下には巨人軍の選手の名前がずらりと書かれていた。
 巨人、長嶋茂雄、王貞治、金田正一、柴田勲、高田繁、土井正三、森昌彦、黒江透修、末次利光、堀内恒夫、高橋一三、星飛雄馬…。
 だが、無常にも柴田の“田”や高橋の“一三”には赤でチェックが入れられている。
 漢字が重複しているという意味だろう。
 また、こういうのもありますよと差し出されたものには、一面に数字が羅列されていた。
 ただし、十一、十二、と続けられているので、せっかく裏まで使って五百まで書かれていても赤ペンチェックだらけであった。

「ああ、本人はやった!って思って書いたんでしょうね」

「ええ、だから残念でしたって書きました」

 どの用紙にも最後に麻耶が一言書き加えている。
 数字の羅列のものには「ざんねんでした。いい思いつきだったんだけどね。漢字がかぶったらだめです。でもがんばったね」と。
 鈴原の紙には「巨人の星なら花形や左門も入れてあげてね。仲間はずれにしないで。それと他の球団の名前もね」と。
 
「みんなそれぞれ違っていて面白いんですよ。凄く難しい漢字を書いているのに、数字とかの簡単なものをまったく書いてない子もいたりして」

「へぇ…。ああ、この子は花が好きなんですね」

 朝顔に菊、水仙といったものから、曼珠沙華などといった難しい花の名前まで書かれている。
 
「ええ、彼女は花の世話係に真っ先に手を上げましたよ。ほら、この子なんかきっと少年探偵団が好きなんでしょうね」

 そのわら半紙には、少年探偵団、怪人二十面相にはじまって、江戸川乱歩や明智小五郎などといった人名や作品名まで書かれていた。

「けっこう習ってない漢字も知っているものなんですね。教えた漢字のテストしかしないですからね、普通は」

 誠人はすっかり感心してしまった。

「ええ、でもね、これみたいに間違ったまま覚えちゃっているものもあるんですよ」

 その子は鉄道が好きみたいで、思いつくままに駅名や電車の名前を書いていたが、麻耶は“阪急”にチェックを入れていた。

「ああ、なるほど。“急”の横棒が突きつけてますね」

「そうなんです。独学で覚えているから間違いに気付かないまま大きくなっちゃうんですよね」

「そうか。今のうちに直しておくといいですよね。いや、感心しました。よく思いつきましたね、伊吹先生」

 お世辞抜きの褒め言葉に麻耶はぺろりと舌を出した。

「実は、私、“発達”の“達”という字をずっと下の棒を2本で書いてたんですよ。大学に入るまで気がつかなかったんです」

「えっ、本当ですか!」

「はい。入っていたサークルで赤っ恥かいちゃいました。そんな経験から思いついたんですよ」

 麻耶は楽しげに笑う。
 彼女は思い出していた。
 まだ一年しかない教師の実績だが、間違いなくあの時が一番みんな揃って真剣にテスト…とは言えないが…に望んでいたように思う。
 最初にわら半紙を配られた時は新学年でいきなりテストかと生徒たちの口から不平が漏れた。
 だが、習った漢字ではなく、知っている漢字を書くのだと言われてみんなの顔つきが変わった。
 「時間は30分、はじめ!」と号令をかけた途端に、みんなわら半紙と睨めっこ。
 かりかりかりかりと物凄い音を立てながらとんでもない勢いで漢字を書いていく者もいれば、
 一つ一つ思いおこしながらゆっくりと書く者もいる。
 時々手を叩いたり、「あ、そうだ!」と叫ぶ子も。
 これから一年彼女が教えていく子供たちがみんな可愛く見えた。
 この時、よぉし、がんばるぞ!と密かに思っていた麻耶なのである。

「で、一番は誰でした?」

 こういう方向に気が回るのはテストの点が気になった学生時代の現われかもしれない。
 こんな質問をしてしまった自分に苦笑する誠人だったが、麻耶は頓着しなかった。

「誰だと思います?まあ、大本命でしたけど」

「惣流ですか?やはり」

「ええ、裏までびっしり。よくあの時間内に書けたものです。それにチェックが入ったのが最後の二つだけ」

 引っ張り出した惣流明日香の用紙は何と2枚。
 言葉通りにその裏表にびっしりと漢字だらけである。
 15分を過ぎた頃に彼女が大声で手を上げたのには麻耶もびっくりした。
 まさか「もう一枚ください!」などと要求されるとは思ってもいなかったのだ。
 血相を変えて鉛筆を走らせる彼女を見ていると、30分で切り上げるのが可哀相に思えたほどだ。
 
「733か!さすがに天才惣流ですね。しかも整然とジャンル別に書いてますし」

「ふふ、字の方も整然として欲しいんですけどね。明日香は字が汚いから。
 多分、字を書くスピードが発想力に全然追いつかないんでしょうね。それでかな?」

「なるほどね。はは、あいつらしいなぁ。その最後のチェック二つが“馬鹿”ですか。こりゃあわざとですね」

「ええ、“馬”も“鹿”も動物の名前のところに書かれていましたから」

「しかし、馬鹿はいけませんね。こういうテストをするなって意味ですか?けしからんなぁ」

「違うと思いますよ。うん、絶対に違います」

 麻耶ははっきりと言い切った。
 新しいクラスの担任になって真っ先に仲良くなったのが惣流明日香だったのだ。
 天才児で良くも悪くも目立つ子だと他の先生に脅されていた麻耶だったが、
 初日の夕方にはもう「アタシのことは明日香って名前で呼んでね」と告げられていた。
 それは放課後になってポスターを張りに教室へ行ったときのことだった。
 誰もいないと思っていた教室で彼女が静かに本を読んでいたのだ。
 訊くと図書室を追い出されてしまったらしい。
 彼女の家は共稼ぎなので今日は学校で暇を潰していたらしい。
 友達の家に毎日お邪魔するわけにもいかないからね、と彼女はあっけらかんとした表情で言った。
 そしてぼそりと「馬鹿真嗣のヤツは最近男としか遊ばないし」と呟いたのも麻耶はしっかり聞いていた。
 しかしその呟きは聞き逃すことに決め、「じゃ鍵ッ子なのね」と言うのに留めた。
 その返事は予想外にも「ううん、アタシは鍵預けッ子なの」というものだった。
 彼女の話を聞くと、家の鍵は隣家の碇家に預けているらしい。
 アクティブな明日香に鍵を渡しておくのは危険だと両親は判断したのだとか。
 「失礼しちゃうわよね」と憤慨する彼女は本気では怒っていないようだ。
 低学年までは碇真嗣と一緒に遊んでいたからそれで段取りがよかったのだが…。
 「仕方ないのよ。アイツだっていつまでも女の子と遊んでちゃいけないもん」と明るく言った彼女の表情はそれまでとは逆に酷く寂しげに見えたのだ。
 明日香のそんな表情を見たためか、麻耶は「秘密よ」と帰りにコーヒー牛乳を奢ってあげてしまった。
 その見返りが名前で呼んでもいいという権利だった。
 麻耶は翌日から早速その権利を行使させてもらった。
 良くも悪くも目立つ明日香といつの間にか仲がいい感じの担任教師を他の生徒たちも信用したのか。
 4年4組は既に二日目から和やかな雰囲気になっていたのだ。

「そうですか。だったらいいんですが。でも、面白いですね、これは」

「ええ、学力の進み具合だけじゃなくて、その子の趣味や考え方、それに友達とかもわかりますからね」

「あ、そうか。友達の名前も書きますよね。なるほど、惣流もほら、馬鹿の前に人名を思い出したのか、碇の名前を書いてますね」

「はい、あの二人は幼馴染らしいですよ」

「そうか、それでいつも“馬鹿真嗣”なんて汚い言葉で呼んでるんですね」

 麻耶は二人の様子を思い出していた。
 男子と女子が一緒に遊ぶことはないが、給食の時間などによく明日香の方から幼馴染にちょっかいをかけたりする。
 そんな時に彼の方は膨れっ面をしたりしているのだが、天才だ秀才だと言われている明日香は屈託がない。
 ところが彼女の生徒カードを見ると、友達の欄には彼の名前は書かれていない。
 だが、日頃の言動や、このテストの最後の最後に彼の名前を書いているところを見ると…。
 まだ4年生だが、そろそろ異性への想いを抱き始める頃だ。
 そういうことを考えると、麻耶は生徒たちが微笑ましく、そして愛らしく思えてくるのである。

「生徒カードよりもこっちの方が信用できたりして」

「僕も真似しようかな。だけど5年生じゃチェックに大変かも」

「あ、じゃ特許料いただかないと」

「い、いいですよ。何なら映画でも。6月に『華麗なる賭け』ってマックィーンの新しいのが…」

「うぅ〜ん。それなら、私『猿の惑星』がいいなぁ。今、上映中の」

「えっ、あれですか」

 一瞬、SF映画という好みでないジャンルに気持が退けたが、
 よく考えるとデートの誘いに乗ってくれたのではないか。
 しかも、2ヵ月後ではなく、今すぐに。

「わかりました!では、今度の日曜日に!」

 思わず立ち上がって大声を出してしまった誠人は慌てて周りを見渡した。
 だがその場にいた先生は数人で、しかも素知らぬ顔で机に向っている。
 ほっと胸を撫で下ろした誠人だったが、麻耶の方はこれはまずいなぁと内心溜息。
 どうやら日向先生は…と、しかしそちらの方はまんざらでもない自分に彼女は微笑んだ。
 そして、麻耶は明日香の用紙を取り上げた。
 誠人は気づかなかった。
 “馬鹿”の前に書かれていた文字のことを。
 書き殴られた“馬鹿”の下に乱暴な消しゴムの跡があり、
 よくよく見ると消された文字がうっすらと判読できる。
 そこには“真嗣”と見える。
 碇少年の下の名前だった。
 きっと自分の気持ちに忠実に最後の最後まで取っておいた彼の名前を書いたものの、
 あまりにその名前が浮いてしまっているような気になって慌てて名前だけ消して“馬鹿”と書いたのだろう。
 そんな彼女の気持ちが麻耶にはわかるような気がした。
 その意識がちょっかいをかけたり、悪口を言ったりさせているのだろう。
 これが6年生や中学生になったりすれば、照れてしまい何も言えなくなってしまうかもしれない。

 麻耶はふと考えた。
 明日香にあることを教えてあげようかどうしようか、と。

 真嗣のわら半紙にも、彼女の名前が書かれていたことを。
 そして、それをそのままに残し、彼の場合はその後に男友達の名前を書き加えていたのだ。
 相田健助や鈴原冬次よりも先に自分の名が書かれたことを知れば、明日香はどんな反応を示すだろうか。
 これは教師としてはいけない考えなのだろうと、麻耶は自分を戒めた。




 翌日の昼休み。
 麻耶は明日香を呼び出した。
 この前の漢字の用紙をみんなに返しておいて欲しいと。

「明日香。これはテストじゃないけど、他の人のを見たりするんじゃありませんよ」

「はぁ〜い!」

 実にいい返事だった。
 明日香はにっこりと笑うとクラス全員の分のわら半紙を両手で持ち上げた。
 そして職員室を出て行く彼女の後姿を見送って、麻耶は口の中で呟くのだった。
 嘘吐き明日香ちゃん、と。

 その日の5時間目以降、惣流明日香の機嫌は凄まじくよかった。
 いつもは不満げな教室の掃除も元気よく率先してがんばってもいたのだ。
 さらにいつもの“馬鹿真嗣”は連発され、声をかけられる彼の方は迷惑気この上なかった。
 教壇に立ってその様子を見ていた麻耶は思った。
 この先どうなるかわからないが、私はハッピーエンドが大好きなの、と。

 週末の日曜日、誠人との初デート…彼女もそう意識していた…で見た映画の結末には唖然とさせられたのだが。



(おわり)





 


 

<あとがき>
 

最近の子はこんなに純ではないかもしれません。
パソコンやビデオの普及で昔の子ほど漢字を知らないかも。
最初はアスカ、マヤとカタカナ表記にしていたのですが、どうもピンと来なかったので適当な漢字表記に変えました。
さらに人物描写もしないことにしました。
もしかすると、この話のアスカは黒髪に黒い瞳なのかもしれません。
また、もしかするとこういう昭和の断片での二人の短い話を書いていくかもしれません。
あくまで“かも”ですが。
『猿の惑星』の結末については知らない人はいないと思いますが、とりあえずぼやかしておきますね。
ハッピーエンド好きの麻耶さんは大いに驚いたことでしょう。
 

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