皆さんはご存知だろうか。
象が踏んでも壊れない筆箱のことを。
サンスター文具株式会社が発売したアーム筆入れのことだ。
昭和40年に発売されたが、爆発的にヒットしたのがその2年後。
すなわち昭和42年にテレビコマーシャルで放送されたことがきっかけとなっている。
アーム筆入れを地面に敷き詰め、本物の象が前足を乗せる。
そして筆箱を見ると、壊れていない!
キャッチコピーは『象が踏んでも壊れない』だった。
こんなにインパクトのあるものを見せられて、世の子供たちが欲しくならないはずがない。
親も文房具だからそれなりに消耗品なので買い与えてしまう。
消しゴムだからと絶対に消すことのないコレクション型消しゴムにお金を出すのとも微妙にニュアンスが異なる。
何しろアーム筆入れは質実剛健というイメージで、ちゃらちゃらした雰囲気のまるでない文房具だったのだから。
そんな理由もあったのか、アーム筆入れはあっという間に日本中の小学校に姿を見せることになったのだ。
ー 1969 初夏 ー
2007.05.09 ジュン |
碇シンジはニヤリと笑った。
日頃はそんないやらしい笑い方をしない彼が珍しいことだ。
近所では母親似で、屈託のないいい笑顔をしていると評判の彼なのだ。
『まあ、そんなことはないですのよ。この子ったら時折主人そっくりに笑いますの』などと言う母親にみな首を捻る。
確かにこの美人の奥さんが主人と呼ぶ男は、無愛想で笑う時も鼻先で笑うような態度を示す。
本来なら隣近所から総すかんされてもおかしくないものだが、
そこは他の家族が揃って人気者だけに逆に無愛想さが愛嬌となっているわけだ。
シンジは明るい笑顔が魅力の小学6年生だったのだが、この時の彼は違った。
友人からこの計画を明かされて、彼はニヤリと笑い積極的に計画への参加を表明したのだ。
『カバが踏んでも壊れない』
二番煎じどころか、三番か四番は間違いない、いわゆるバッチモノの筆箱だった。
その筆箱をゴールデンウィークに遊びに行った行楽地の夜店で入手したのは鈴原トウジだった。
放課後の教室掃除が終わり、急いで帰る用事もなくいつもの3人が馬鹿話を始めている。
鞄から取り出して机の上に置かれた、緑色の筆箱を見て相田ケンスケは呆れた声を上げた。
「だけど、サイが踏んでも壊れないって言うのは見たことあるけどなぁ。カバかよ」
「せや、カバや。そやけどなぁ、見事に騙されてもうたなぁ。
3個で100円やってとこで気づかなあかん」
自分が勢いで買ってしまったことなど棚の上にあげておき、トウジは腕組みをしてうんうんと頷いた。
「馬鹿か。そんなに安いってところでどうしてわからないんだよ、なぁ、シンジ」
「うん。小遣いは考えて使わないとね」
「センセは考えすぎやっちゅうねん。駄菓子屋であんなに悩むんはセンセくらいなもんや」
「だって、あれもこれも欲しいじゃないか」
「そんな時は目に付いたもんをすぱっと買うたらええんや」
「で、これを買っちまったってことか。やっぱり、馬鹿だな」
「馬鹿言うな、馬鹿と。アホにしてくれんか」
「馬鹿言え。友達をアホ呼ばわりできるわけないだろ」
「はぁ…、これやから東京もんは冷たいねん」
「カバの筆箱だから馬鹿でもいいんじゃないかなぁ」
いささかピントの外れた言葉をシンジが漏らした。
しかし、それにトウジがここぞとばかりに飛びついたのである。
「おお、そうやのう。筆箱を逆さにしたら、カバやのうて確かに馬鹿や。ははは!」
「やっぱり馬鹿だ。で、トウジ」
「なんや?」
「カバが乗っても壊れないのか。これ」
トウジは手を顔の前で振った。
「あかんあかん。カバどころかわしが乗っても、みしっや。割れてもうた」
「ふぅん。割れたんだ」
「当たり前だろ。アーム筆入れだって本当に象が乗ったら割れるだろ」
ケンスケの冷静な言葉に、シンジは心の底から驚いた。
「えっ、で、でも、テレビでは壊れてなかったじゃないか」
「アホか、あれはコマーシャルやないか。本気で象が乗ったかどうかなんかわかったもんやあらへんで」
「だな。あれだって前足だけだしな」
「そ、そうなんだ」
「これやからセンセはのほほんとしてるって言われるんや。ま、そやから惣流のヤツにいつもこてんぱんにされとるわけやしな」
「アスカの話はやめてよ」
シンジは唇を尖らせた。
6年生は5年からの持ち上がりなのでクラス替えはなかった。
担任教師もクラスメートも顔なじみだというわけだ。
従って、シンジは隣家の惣流・アスカ・ラングレーという少女とまた同じクラスになったわけである。
そのことが彼には不満でならなかった。
何しろアスカという少女は、幼馴染であるシンジに対して必要以上にコミュニケーションをとりたがる。
低学年の時はそれほど意識しなかったが彼らももう6年生だ。
しかも女子は二次成長が早いので、体の凸凹が目立ち始めてくる。
その上男子は体の成長よりも、性的好奇心という分野で急激な好奇心を持つ時期だ。
中学校にもなれば己の体の変化も手伝い子供じみた行為は目に付かなくなるが、
まだ小学生ともなれば“からかい”や“囃し立て”といった事を平気で行う。
シンジの場合はそういう行動でなく、アスカと一緒にいることに胸苦しさを覚えるようになってきたのだ。
そして彼はそんな心理に“恥ずかしい”という言葉を当てはめた。
それはほんの少し的外れなどであったが、まだ愛だの恋だのに目覚める前のことだから仕方がなかろう。
ともあれ、この場で彼が気色ばんだのは理由があってのことだ。
それは6年生になって初日のことだった。
昨年度もそうだったが、このクラスの委員長は100%推薦で決まっている。
この時、委員長にアスカは洞木ヒカリを推薦した。
そして満場一致でまたもや委員長となったヒカリはその報復という意味合いもあってか、
図書委員にアスカを推薦した。
これもまた反対する者はおらず、めでたくアスカが図書委員になった。
問題はこの後だ。
副委員選出にあたって、アスカが真っ先に挙手したのだ。
もちろん委員である彼女が立候補したわけではない。
彼女は推薦をしたのだ。
慣例として異性を推薦するようなことは高学年では皆無といっていい。
だから教室はざわめいた。
その後彼女が誰を推薦するのか、咄嗟にわかったのは親友のヒカリと担任の伊吹先生だけだっただろう。
その二人に遅れること数秒、ほとんどの人間が彼女が誰を指名するのか察知できた。
ただし、それはあくまで何となくわかっただけで、二人のように深い意味までわかってのことではない。
アスカはシンジを推薦した。
この二人の取り合わせは何も奇妙なところはなく、寧ろこれもまた慣例どおりと言える。
何の委員になろうとも、アスカのペアはシンジであると決まっていたのだ。
だが誤解しないでいただきたい。
それは二人がお似合いだからとかそういう意味合いではない。
単に男子はアスカとペアを組むのが嫌だったから、幼馴染のシンジに押し付けていたに過ぎない。
何しろアスカは男子と真っ向から向き合う、言わば異色の女子だったからだ。
身長はクラスで一番高く、運動神経も良く、頭もいい。
ドイツ人の血を多く継いだ、その容姿はまさしく外人そのもので、金髪に青い眼、そして白い肌。
黙っていれば充分お人形さんと形容しても誰も文句は言わなかった。
これで優しさが溢れ出てくるようなキャラクターであれば、誰もが憧れるような存在であっただろうが、
如何せんアスカはお転婆だった。
口は悪いし、時には男子よりも先に手が出る。
取っ組み合いの喧嘩でさえ辞さない、その言動には男子は呆れていたし、恐れていた。
「さすがに本気で喧嘩はでけんやろ。こっちは男やねんから」というトウジの意見がその言い訳である。
半分くらいはそういう意識もあっただろうが、シンジにすれば本気でかかっていっても負けるに違いないと思っていた。
アスカはそれほどの暴王の如き存在だったと言ってもいい。
ただし、その暴王は無闇に暴れるわけではなく、他の女子を庇ったりという状況がほとんどだったのだが。
だからこそ、男子は頭が上がらず、教師たちも苦笑するしかないのである。
それでも連帯責任で怒られる時は、男子だけが拳骨をもらうということにアスカは不満を漏らした。
自分も叩け、と。
体罰自体が極めて少なくなっている平成の世とは違っていても、女子に手を上げることはさすがに躊躇う教師は多い、
しかし、4年生の時には教室の中で野球(もちろんゴムボール)をして、廊下側のガラスを割った件で
担任だった青葉先生にアスカを含めた全員が横っ面を引っ叩かれている。
当然、アスカ本人もアスカの両親もそれに文句など言いはしない。
それどころか、叩かれなかった方の頬を平手で母親が叩いた。
もし廊下を誰かが歩いていたらどうなっていた?と。
それを聞いたアスカは、はじめて涙を浮かべたのである。
他のクラスだったシンジもその話は聞いている。
いささかアスカの説明に筆を要してしまったが、何はともあれアスカという少女はこんな感じの暴王だったのだ。
因みに“暴王”であって“暴女君”でも“暴女王”でもないところが、アスカらしいというか、まだ小学生というか。
話を元に戻すと、このクラスでは暴王アスカとペアを組む不幸な男子はシンジであると暗黙のうちに決まっていたのだ。
だから、放っておいても誰かがシンジを推薦して、それで話はおしまい。
そのはずだったのに、何故かアスカ自身がシンジを推薦してきたのだ。
しかも先生が「じゃ男子は…」と口にした途端、瞬時に手を上げて「碇シンジ君がいいと思います」と。
一瞬、教室は呆気に取られたということは先に述べた。
その時、アスカが勝ち誇ったような目を教室の一角に向けたことはヒカリだけが見ている。
そして彼女は微かに優しげな微笑を浮かべたのである。
だが、そんな反応を示したのは彼女一人で、他の女子は一様に「変なの」といった表情でいる。
問題は男子の反応だった。
彼らはわけはわからないものの、こういった場合、小学6年生の男子としては自然な方向へ向った。
しかも集団で。
その先頭に立ったのはトウジだった。
「おおっ、結婚か。ぷろぽぉずってやつちゃうんかっ!」
「わああっ!」
この時は男女問わず歓声が上がった。
こういう話題には何かと興味があるものである。
自分がどうこうという事は関係なくだ。
逆に恋心というものがよくわかっていないだけに、余計に辛辣な攻撃をしてしまう。
こうなると先生としても「騒がない」としか注意できない。
“恋愛”の授業など小学生相手にできるわけがないからだ。
ともあれ、6年5組の教室は蜂の巣を突付いたような騒ぎになってしまったのである。
「けっこん!けっこん!けっこん!わぁ〜いっ!」
机を叩いたり揺らしたりしながら男子は大声を上げた。
しかしながら、からかいの相手であるはずのアスカは澄ました顔を崩さない。
いつもの彼女なら激昂して言い合いになろうというものだが、何故か今日の彼女は男子を相手にしていなかった。
寧ろその表情に満足げなものまで浮かべているではないか。
その顔を見て伊吹先生は『かなわないなぁ』と思った。
まだ12歳の癖に随分ませているものだ。
自分のその頃はもっと子供子供していたはずである。
初恋は中学3年の…。
甘酸っぱい思い出に浸りたいところだが、この喧騒の中では不可能なこと。
伊吹先生は立ち上がった。
「こらぁ!静かにしなさい!」
これだけの騒ぎの中、アスカは自分のやりたいことをやったので満足であった。
しかし、間接的にからかわれる羽目となったシンジの方は堪ったものではない。
彼は恋心どころか、性的な好奇心でさえまだ育っていないのだ。
いささかませ気味の男子の中では、アスカの膨らみつつある胸が気になっているのを彼も知っている。
あいつ、ぶらじゃ〜してるのじゃないか?などと。
もっともそれはいやらしい目ではなく、性的好奇心の段階なのだ。
ところがそれがまだ彼にはよくわからないのだ。
当然なことだとシンジは思っていたから。
大人になると女子は胸が出る。
ここは大事な点である。
乳房が膨らむ、のではなく、胸が出る、わけだ。
この点だけをとってみてもシンジの現状がわかろうというものだ。
従って幼馴染であるアスカの自分を見る目が変化してきていることなど気づきもしていない。
もっとも教室内でそれに気づいているのは、前に述べた様にたった二人だけなのだが。
余談になるかもしれないが、この時アスカがこんな行動に出たのはある情報を手にしていたからだ。
5年生の3学期に転校してきた女子が、何とシンジのことを『いい感じ』と喋っているらしい。
もちろん交際したいとかそんなことを思う年頃ではないのだが、一緒にクラブ活動や委員会に出席するだけでもその心は充足できる。
だからその少女は、当然何かの委員になるだろうアスカの相方を別の男子にしようと考えたのだ。
それは簡単なことだ。
誰でもいいから推薦したらいいだけのこと。
しかし、彼女の計画は甘い上にすぐに漏れてしまう。
まず、甘いというのは仮にケンスケあたりを推薦したとしても、すぐにケンスケ自身がシンジを推薦するに決まっているからだ。
そうなれば、決選投票されることはあっても、まずシンジが多数票を集めてしまうだろう。
従って彼女が計画を実行していたとしても、敢無く失敗に終わっていただけだ。
その上、彼女は結構多数の女子に計画のことを喋っていたのだ。
誰もアスカに直接喋りはしなかったが、結果的にヒカリの口を通してアスカにまで情報は伝わった。
それを聞いて金髪の少女は不敵に笑い余裕を見せたものの、自宅に戻って大慌て。
人生初のライバルの出現に慌てふためいたのである。
自分とシンジのつながり具合の深さから考えると、誰もその間に入ってくることなどできやしないと高をくくっていた。
人生経験が豊富ではない少女のことだから、その程度で充分人生の勝利者になれるものだと思い込んでいたのだ。
そこでアスカは考えた。
中学になると同学年の女子は一気に倍になる。
あの素敵な(アスカ視点)シンジに好意を持つ女の子は何十人も発生するのではないか。
しかもクラスは10くらいあると聞く。
同じクラスになれないと彼に目が届かない。
そして、中学を何とかしたとしても、次は高校、そして大学……。
どんどん彼女たちの世界は広がっていくのだ。
こいつはまずい。
何とかしないといけない。
アスカは考えた末、とりあえず目の上のたんこぶをどうにかしようとしたのだ。
そして、彼女は誰の手も上がらないうちに、自分からシンジを推薦したというわけなのである。
さてさて、シンジにとって見れば迷惑この上ない。
どうして自分がこんな風にからかわれなければならないのか。
自分が何をしたというのだ。
理不尽この上ない。
悪いのは誰だ。
僕じゃない。
それでは、アスカが悪いに決まってる。
彼はからかいの嵐の中、充分に考えた末に幼馴染に悪の烙印を押したのだ。
その日から、シンジのアスカを見る目が変化してきている。
それまでは話しかけてこられても積極的に会話はしていないまでも、受け答えはしていた。
時には下校時に一緒に帰ることもあった。
ところが、それ以降、シンジはアスカを避けるようになったのだ。
これにはアスカも心底参ってしまった。
おかげで6年生になってから、シンジもアスカもいささかブルーな日々を送っていたのである。
そして、話は元の時間に戻る。
シンジがアスカに対する悪戯に加担したのだ。
作戦はこうである。
シンジがアスカを呼びつける。
当然、呼ばれたアスカは怒ってシンジのところにまでつかつかと歩いてくる。
その足元にそっと“カバが踏んでも壊れない筆箱”を滑らせて、アスカに踏ませようというのだ。
アスカに勢いよく踏まれればもちろん筆箱は割れるだろう。
いや、元からトウジによって半分割れている状態にまでなっているのだ。
例えこの時に割れなかったとしても、割れたと言い張ることはできる。
そして、暴王アスカをギャフンと言わせようという、実に子供じみた悪戯だった。
それにはシンジの悪戯への参加が必要不可欠なのである。
トウジやケンスケが呼んでもアスカはやってくるわけがないからだ。
逆に用があるならこっちに来なさいよと言われるのがオチである。
ケンスケの思いついた作戦に、シンジはあっさりと参加を表明した。
彼もアスカにギャフンと言わせてみたくなったのだ。
翌日である。
放課後、今週の教室の掃除当番はシンジたちなので昨日同様に彼らは清掃活動に入った。
ただし、その意気込みは昨日とはまるで違う。
通常はのんべんだらりと時間をかけて、しかも丹念には掃除をしない彼らだったが、
今日は丹念は別として、そのスピードが凄い。
何しろ悪戯を決行するには他の教室を掃除に行っているアスカよりも先に掃除を終わらせないといけないからだ。
彼女を罠に嵌めるには、だ。
何も放課後ではなく、休み時間に決行してもよいものなのだが、本人たちがそう思い込んでしまっているのだから仕方がない。
子供の作戦というのは得てしてそのようなものだ。
漏れは決行時間だけではないのだが、それはもう少し後で判明する。
ものすごい勢いで掃除を完了させた彼らはすっかり息を上げていた。
班の他のメンバーは3人の様子に首をひねっていたが、引きずられるように協力する羽目となった。
机を後ろから全部定位置に戻し終わり、3人は顔を見合わせてにやりと笑う。
準備完了だ。
シンジはトウジから筆箱を受け取り、自分の席に座った。
そして、おもむろに教科書を開き、こっそりと筆箱を床に置く。
足で蹴りながら、机の真下、右隅に滑らした筆箱を右の上靴で蓋をする。
よく見れば緑色の筆箱がはみ出しているのがわかるだろうが、まずわからないだろうとケンスケはOKサインを送った。
もう、この状態でシンジはあっぷあっぷである。
心臓は口から飛び出しそうだし、背中に冷や汗が流れている。
この時になって、はじめて彼は後悔していた。
どうしてこんなことをしてしまっているのか。
確かに最近のアスカはやたら鬱陶しい。
よく喋りかけてくるし、家に帰ってからでも一緒に宿題をしようだとか、登校時に迎えに来たりとか。
この時期、町に子供は溢れかえっている。
集団登校は基本であり、地区委員長(普通は6年生)の命令指示は絶対であった。
アスカやシンジの住む地区の委員長は言わずと知れたアスカであり、となれば副委員は当然シンジだ。
毎朝、地区委員は隣家の副委員を迎えに現れる。
地区委員なのだから、自分たちは一番に行ってみんなを迎えないといけないのだと。
どちらかと言えばのんびり屋のシンジとしては朝が苦痛なのだ。
もう少し眠りたいと思うのが彼のディフォルトであるのに、副委員になったがために毎朝が地獄だ。
彼は知らない。
アスカの意図は地区委員の義務やへったくれではなく、彼と少しでも一緒にいたいという乙女心であることを。
因みにその乙女心は、彼女の両親と彼の両親には察知されている。
さて、シンジの後悔に戻ろう。
確かに鬱陶しいのではあるが、さりとてこんな悪戯を仕掛けていいのだろうか。
しかし彼はアスカがかわいそうだからと考えたわけではない。
あくまで警戒本能というか、我が身可愛さに過ぎない。
確かにあのアスカを笑いものにするというのは、想像も出来ないくらい面白いに違いない。
しかしその代償として、必ずや彼女に仕返しされるに、これも違いないのだ。
恐ろしい。
それなのに彼はこんな暴挙に出てしまった。
一瞬の快楽を得るために。
後悔と恐怖に喉がからからになってしまっているシンジとは違い、
離れた場所で机に座って話をしているトウジとケンスケはわくわく感が止まらない。
あのいつもいつもこてんぱんにやられているアスカにしっぺ返しができるのだ。
但し、彼らは誤解している。
彼らが悪戯や悪さをする時に先頭に立って糾弾しているのは、委員長である洞木ヒカリなのだ。
しかも彼らに逆襲されようが、最後に謝らせるに到るまで彼女は一歩も引かない。
アスカが糾弾に参加するのは、その半ばくらいからだ。
ヒカリが危ないとは少しも思っておらず、見ているうちにアスカの闘争本能に火がついただけとも言える。
イメージというのは恐ろしいものだ。
金髪で背が高いということで目立つ上に、そのトークは辛辣この上ない。
だから、糾弾の首謀者であるヒカリよりもアスカの方が恨まれてしまっているわけだ。
そんなアスカは罠が待ち受けているとも知らず、教室に入ってきた。
ヒカリは別の班で、今日は稽古事があるから先に下校していたのも拙かったのかもしれない。
アスカは一人だった。
他のメンバーを先に返し、自分は特別教室の鍵を職員室に返しに行っていたのである。
ケンスケとトウジは思わず鼻で大きく息を吸った。
いけ!シンジ、惣流を呼ぶんだ!
思わず、ユニコーンの草間大作少年風に心の中で叫んでしまったケンスケである。
ところが、ジャイアントロボならぬシンジ少年は目を伏せたままぴくりとも動かない。
アスカが入ってきたことは承知しているはずだが、すぐに目をそらしてしまったのだ。
「あかん。センセ、びびってしもとるで」
トウジ、大正解。
そこで彼は碇シンジを谷底に落とすことにした。
獅子は我が子を千尋の谷に落とすというではないか。
『巨人の星』で覚えたばかりのこのフレーズを彼は心の中で思い出し、大きくうなずいたのだ。
もちろん、シンジはトウジの子供ではないが、しかし彼は背中を突き飛ばされたのである。
「おぉ〜い、惣流!センセが用あるんやって!」
名前を呼ばれた瞬間に一気に臨戦態勢にまで突入しかけたアスカだったが、
“センセ”という、トウジ独特のシンジを示す固有名詞を耳にするや否や、胸がどきゅんと高鳴った。
母親がその姿を見れば大きな溜息を吐いていただろう。
何故なら惣流キョウコならばアスカに尻尾が生えて、その尻尾が嬉しげに振られているイメージを即座に描いただろうから。
無論、この時居合わせた同級生たちにそんな芸当ができるわけもなく、
彼らは表面上のアスカの言動を見るだけにとどまった。
「何よ!馬鹿シンジがこのアタシに何の用があるっていうのよっ!」
いつものように驕り高ぶった調子で叫ぶとアスカはのしのしと歩み寄った。
そういう風にしか見えない。
ところがアスカとしてはこうだったのだ。
照れ隠しのために少し大げさにものを言って、駆け寄って行きたいのだが恥ずかしいのでゆっくりと歩いた。
イメージというものは恐ろしいものである。
アスカにとっては可哀相なことに、シンジですら前者のように見えていた。
だからこそ、彼は少し身をすくめて、トウジを呪ったのだ。
もう駄目だ。
逃げはきかない。
ここで逃げたらトウジたちにも、男子全員に馬鹿にされる。
この時点でのシンジはまさに毒を食らわば皿までの心境だった。
悪戯に参加してしまった自分の馬鹿さ加減に悪態を吐きながら、彼は右足を少し動かした。
アスカが足を踏み出す場所はよくわかっている。
毎日どころか、一日に5回くらいは同じ動きをされているのだ。
アスカがどのようにシンジの机までやってくるか身体で覚えている。
のしのしのしと歩いてきて、机の右隅のあたりで右足をどんと鳴らす。
上靴でそんなに大きな音をさせるのだから、かなり強い力で踏みしめているに違いない。
周りにいる者もそれをよく見ているから、思いついた悪戯なのだ。
「はっ、何だって言うのよ、まったく!」
来た。
あと2歩だ。
シンジは目を閉じた。
そして、思った。
ごめん、アスカ……ではない。
助けて、アスカ!である。
報復を恐れて罠に嵌める相手に助けを求めるとは、いかにも情けない。
シンジは筆箱を所定の位置に滑らせた。
どん!と、音が鳴るはずだった。
アスカもそう思っていた。
しかし、鳴った音は、ぐわしゃっ!である。
その音が鳴った時、シンジはさらにぎゅっと目を瞑り、アスカは驚いて足元を見た。
そこで彼女に余裕を与えてはいけない。
残酷なようだが、子供はこういう呼吸をよくわかっているものだ。
「おおおおおっ、惣流のやつ、筆箱を踏み潰しよったで!」
「うわああっ、あれ、割れないやつじゃないのか!」
トウジとケンスケはここぞとばかりに大声を張り上げ、二人の元に駆け寄った。
二人の大げさな反応にびっくりしたアスカはさっと飛びのいた。
教室の床には無残に砕けた緑色の筆箱が見える。
「え、で、でも、こんなの転がってなかった…」
「言い訳するんか?」
「あったから、壊れてるんだろ。踏み潰しておいて何だよ」
「でも、なかったもん。ねっ、シンジ、なかったよね…」
アスカは愕然とした。
助けを求めたシンジはこっちを見ていない。
知らぬ顔をして、窓越しに運動場の方を見ているのだ。
彼女は了解した。
シンジがしたことなのだと。
アスカの思考回路は停止してしまった。
世界で一番味方になって欲しい人に裏切られた。
悪戯だと笑ってくれれば、まだよかったのだが、こんな風にそっぽを向かれてしまうと孤独感がさらに増す。
もはや彼女の耳にクラスメートたちの声は聞こえない。
トウジやケンスケたちが「壊した、壊した」と囃し立てる大声でさえ。
この場にヒカリがいれば、すぐにトウジの前に飛び出してきてアスカをかばっただろうが、
今教室にいる女子数人の中にそんな勇気の持ち主はいない。
一人が小声で「先生呼んでくる」と言い残し、職員室へ走っていくだけで精一杯だった。
伊吹先生が6年5組の教室に駆けつけた時、すでにアスカの姿はなかった。
そこに残っていたのは戸惑った顔の男子たちと、それを教室の隅で見ている少人数の女子だけだ。
シンジはといえば、戸惑いどころかどうしていいのかわからないという顔つきで椅子に座ったままだ。
事情を聞き、悪戯をしたことを知った先生は当事者たちを並ばせ、
さらに囃し立てた男子も同罪と男子全員の頭に拳固を食らわして回った。
そして、ランドセルも持たずに出て行ったアスカの家に電話をし、帰宅したことを確認しひとまず胸をなでおろす。
さらにキョウコに事情を説明し、シンジにランドセルを持って帰らせるのでお願いします、と謝罪を繰り返したのだ。
これで終わればいいが…と、その時、伊吹先生と惣流キョウコは一様に感じた。
それは直感だったが、不幸にして的中してしまったのである。
「あなたたちが悪いんじゃない!特に、鈴原!」
ヒカリは吼えた。
黒板の前に昨日の男子9人がずらりと並び、罰の悪い顔をして目を伏せている。
当然、その中にシンジ、トウジ、ケンスケの3人も含まれていた。
しかし、シンジの顔色の悪さはどうしたことだろうか。
彼らにとって不幸なことにこの日の6時間目はホームルームだった。
緊急議題を委員長は提示し、昨日の事件を糾弾しようとしたのだ。
伊吹先生としてはここまでの事態は避けたかったのだが、女子全員の要求なので無碍に却下もできない。
しかも、被害者のアスカが学校を休んでしまっているのだ。
もはや悪戯がどうのという問題ではなく、あのアスカを泣かせて学校を休むところまで追い込んだことで彼らはつるし上げられている。
それはそうだろう。
痛かろうが、悲しかろうが、絶対に涙を見せないアスカなのだ。
そのアスカが涙を流しながら、鞄も持たずに家に帰った。
これはまさしく大事件なのだ。
「わ、わしはただ…悪戯のつもりで…」
「何言ってるのよ!あなた、それでも男?女子を泣かせるなんて、最低!」
そうよそうよと女子たちがいっせいに声を上げる。
「私はあなたをもっと…。男らしいところがあるかと思っていたのに、そんなのだとは思わなかったわ」
そうよそうよとまた女子が追随したが、それぞれの頭の中で何がそうなのか意味がよくわかっていなかったりする。
意味がわかったのは伊吹先生だけで、アスカだけではなくヒカリもまた心に想う人がいるのだと了解した。
解決策のない糾弾はさらに数分続いたが、このあたりで、と伊吹先生は立ち上がった。
「洞木さん、いい?」
まだ言い足りないところもあったが、そろそろ助け舟が欲しいと思っていた彼女は頷いた。
「さてさて、これからどうしようかしら?」
自分なりの解決策はすでに構築しているのだが、それをすぐに提示しないところは彼女も教師として成長している。
6年生ともなれば、自分で考えることも必要だからだ。
「こいつらみんな、アスカのところに行って謝ってくる!」
「こら、霧島さん。こいつらはいけません。女の子なんだから」
先生に窘められて、彼女はぺろりと舌を出した。
「そうねぇ、謝りに行く、か」
「あ、あんな、先生」
センセではなく、教師のことは先生と呼ぶ。
微妙な使い分けをするトウジは、真剣な眼差しで顔を上げた。
「わし、行ってくるわ。謝ってくる。まさか、惣流が泣くとは思わんかったからな」
「こら、鈴原君。相手が泣かなくてもいじめるのはよくないのよ」
「いじめるつもりじゃなかったんだ。ちょっと、仕返しを…」
「こらっ、相田君。言い訳するんじゃないの。
言い返したいこと、自分に間違いがないって思うんだったら、その場で相手に言いなさい」
「はぁい」
叱られて、小さな声で返事をしたケンスケはまた顔を俯かす。
「みんなもそうよ。もし惣流さんが間違ったことを言っていたなら、先生も彼女を叱ります。
でもねぇ、あの子って案外間違ってないのよね」
伊吹先生は苦笑した。
そのことはクラスメート全員が承知している。
間違っていないだけに、反論ができず遺恨を残す。
そういうことなのだ。
「まあ、言い方とかに問題はあるから、そこは先生も注意します。
でも、今回は先生はみなさんを許しませんよ」
殺気立った教室の空気をいったん和ませておいてから、先生はもう一度引き締めた。
「みんな、謝りに行く?」
「いくで!」「いくよ!」
8人は声に出し、シンジは俯いたまま頷いた。
「よし、よく言ったわ」
伊吹先生はにっこりと微笑んだ。
しかし、すぐに首を傾げて黒板の前の連中から教室の方に目を移す。
ゆっくりと生徒たちの顔を見渡しながら、彼女は言った。
「さてと、それでいいかしら?ね、洞木さん、どう思う?」
先生は立ち上がったままでいたヒカリに問いかけた。
委員長としてではなく、アスカの親友としての意見を求めたのだ。
そのことはヒカリには充分伝わってきた。
だからこそ、彼女は慎重に考えた。
「あの…、いきなり男子が家に押しかけるって、どうかな…?」
考えながら、ヒカリは言葉にした。
疑問形ではあるが、彼女とすれば確信している。
アスカなら余計に殻に閉じこもってしまうのではないだろうか。
「じゃ、どうする?」
「私が…まず行って、アスカに言います。鈴原たちが謝っているって」
伊吹先生は笑顔で先を促す。
「それから…、あの…鈴原たちはホームルームで散々やっつけたから許してあげてって」
「許すの?」
先ほどの霧島さんが驚いて声を上げた。
「うん。そりゃあアスカがぶん殴らないと気が済まないって言うんだったら…」
少し笑みを浮かべながらそんな物騒なことを言うと、黒板前の九人衆を除いた全員がどっと笑いさざめいた。
伊吹先生はことさらに楽しそうに笑った。
『さすがは委員長。教室の雰囲気がよくなった』と感心しながら。
「ええでっ!何発でも殴られたるわい!」
「俺はできれば一発にして欲しいな。惣流のは痛いぞ」
笑いを取ろうとは思っていず、本心からの言葉だったが、トウジとケンスケの決意は余計に教室を沸かせた。
九人衆の一人を除いては、みんな同じ思いだったようだ。
「どうやら鈴原たちもやる気…じゃない、殴られる気満々みたいですから、まあ、正直にアスカにそう伝えます」
「それで許してくれる?」
「それでも駄目だって言うなら、私…う〜ん。ううん。アスカなら絶対に許してくれます!」
ヒカリはきっぱりと言い、女子を中心に拍手が起こる。
彼女はいくばくか頬を染めて、席についた。
伊吹先生は目を細め、長く息を吐く。
悪戯についてはそうだろう。
だが、アスカの問題はそこではないのだと思う。
あんな悪戯で休むような子じゃない。
彼女が学校を休むほど心が傷ついたのは…。
先生は微笑んで、大きく頷いた。
「なるほど。それもいい意見ね」
ヒカリは頷いた。
しかし、伊吹先生はそれでは少し足りないと思っている。
だからこそ、彼女は最上と判断する意見を持っているはずの生徒に声をかけたのだ。
「碇君。君はどう思う?」
シンジは唇を噛みしめた。
あの後、ランドセルを家に届けたが、アスカは絶対に会ってくれなかった。
キョウコに理由を説明して涙ながらに謝ったが、今日はお帰りなさいと言われてしまったのだ。
会ってくれないのだから自分にはどうすることもできないじゃないか。
言葉にはしなかったが、それが彼の言い訳だった。
だが、どうだ?
謝りに行くのが怖いだけだから。
会ってくれなければ、自分が傷つくから。
それはあくまで自分本位なその考えであると、このホームルームで彼は思い知らされていたのだ。
それに一番大きな問題がある。
アスカは怒ったのではなく悲しんだのだ。
その悲しみも苛められたからではない。
いつもの彼女ならあの程度のことなら笑って済まし、むしろ喧嘩を売られたものと即座に買っていたことだろう。
それが涙を浮かべ鞄も持たずに家に逃げ帰った。
一晩考えて、シンジは答を出していたのである。
自分があんなことをしたから。
アスカを罠に嵌めたのがこの自分だったから、彼女はあんなに傷ついた。
あの目。
涙に濡れた目で一瞬シンジを見つめた。
その眼差しを見た時、彼は取り返しのつかないことをしたのだと思ったのだ。
罵声もビンタも飛んでこず、アスカに泣かれた。
その涙は何を意味するのか。
それがわかったからこそ、シンジは朝からずっと落ち込んでいたのだ。
しかし、彼は自分から動けなかったのである。
今までは。
「ごめんなさい。僕が…僕が悪いんです。だから…僕が謝らないといけないんです。僕が」
「なんでやねん。こういうのは連帯責任やないか」
「そうだぞ。俺たち友達だろ」
「ちょっと待って。鈴原君、相田君」
友情は大変結構だが、ここで混ぜ返されてはシンジの決意が鈍ってしまう。
伊吹先生は慌てて口を挟んだ。
「じゃ、碇君は自分ひとりで行きたいのね」
いささか乱暴に誘導することにはなるが、仕方がなかろう。
「はい!僕がいきます。僕じゃないといけないんです!」
シンジの背筋がピシッと伸び、伊吹先生はほっと大きく息を吐いた。
これで“アスカが踏んだら壊れちゃった”事件はおしまい。
大好きな彼が本気で向ってくれば、アスカも受け止めてくれるでしょう。
「ああああああああっ!どうしてくれんのよ!やっぱりあいつら全員引っ叩く!」
アスカは両の拳を硬く握って叫んだ。
「お、おい!待ちぃや。わしら謝って、惣流は許してくれたやないか。それやのに、なんでやねん!」
鈴原ももういつもの調子だ。
目の玉を見開いて、離れた場所から大声で応じる。
その叫びを聞き、アスカはニヤリと笑った。
獲物は餌に食いついた。
「アタシはね!5年生まで皆勤賞だったのよ!一日も学校を休んだことがなかったの!
それがっ。あああああ!悔しいっ!ぜぇ〜んぶ、アンタたちの所為よ!」
腰に手をやり、足を踏ん張って、アスカは男子の群れに向かって仁王立ち。
「な、何言うてんねん。お前、3学期に一週間休んだやないか!」
「はんっ!あれは、インフルエンザ。休みになんないの。そんなことも知らないの?
ははぁ〜ん、アンタ馬鹿ね。正真正銘の大馬鹿ねっ」
「ば、馬鹿言うな!」
アホにしろとはアスカには言えやしない。
そんなことを言えば、アホのトウジとして渾名が確定されてしまう。
アスカの目論見が見えているだけに、トウジは口をつぐむしかなかった。
彼は悔しげに顔を歪め、そして笑いを堪えている男子に向って「行くで!」と叫んだ。
給食後は当然運動場で遊ばねばならない。
今日はドッジボールか、それとも探偵と泥棒か。
とにかく男子はぞろぞろと廊下へ出て行った。
その最後尾にいたのはシンジである。
彼は振り返っていつも通りのアスカに溜息を吐き、そして「待ってよ」とトウジたちの後を追った。
その背中をアスカは温かい笑顔で見送る。
ばんっ。
「うわっ…って、何よ、ヒカリ」
「ねぇねぇ、アスカ。教えてよ」
親友の肩を叩いたヒカリは、好奇心丸出しの顔で迫ってくる。
「何をよ」
「決まってるじゃない。ねぇ、碇君は何て言ったの?謝っただけ?」
アスカは周りを見渡した。
目をそらす女子は誰もいない。
みんな顔に『興味があります』と書いてある。
アスカは友人たちの耳がいつもよりも巨大化しているような錯覚を覚えた。
「聞きたい?」
うんうんと頷く顔が24個。
プラス1個。
教室にやってきた伊吹先生も戸口で頷いている。
「まあ、教えてあげてもいいわね」
アスカは澄まして言った。
実は言いたくて言いたくて仕方がなかったのだ。
「シンジはね、ふふん(得意げにアスカは笑った)、一生アタシを裏切らないって誓ったの」
「いっしょうっ!」
そのとんでもない長さに少女たちは声を揃えて驚いた。
「そうよ!アタシの行く大学に一緒に行くように頑張るって約束したの」
本当は約束させたの、が正しい。
しかし、アスカにも見栄というものがある。
恋しいシンジが少しでもいい男だと思われたいではないか。
「だいがくぅ!」
その想像の範疇でしかない、未知の空間に彼女たちは声を揃えて驚く。
しかし、彼女たちの脳裏に浮かんだイメージを知ればアスカも憤慨しただろう。
学生運動の先頭に立つアスカに、へっぴり腰でついていくシンジ。
「まっ、そんなとこよ。そこまで言うんだったらって特別に許してあげたのよ」
そこまで言わせたんだ、と伊吹先生とヒカリは即座に了解した。
さすがはアスカだ。
いいチャンスだとシンジを絡めとろうとしたのだ。
他の連中は素直にそうだったんだと思っただけである。
「あ、そうだ。みんな、ちょっと注目!」
アスカは楽しげに机から筆箱を出した。
それは“カバが踏んでも壊れない筆箱”の最後の1個である。
シンジに頼んで、トウジからせしめたのだ。
「あのね!あれはアタシが重いとか、乱暴だとか、そういうので壊れたんじゃないのよ。
そこんとこをはっきりさせたくてさ。ほら、よぉく見ててよね」
アスカは床に緑色の筆箱を置いた。
「アタシがカバよりも重いなんてしっつれいしちゃうわよ!いっくわよぉ!」
ばきっ!
「えっ!」
見事に壊れた筆箱を見下ろして一同は呆気に取られる。踏み壊したアスカも心底驚いた。
その音に慌てて中に入ってきた伊吹先生に「ものを大事にしなさい」と叱られ、アスカは冷汗をたっぷり流したのである。
「アスカってカバより重いんだ」「違うわよ、カバより力があるのよ」「じゃ馬鹿力?」などと大きな声で囁かれ、彼女は自己弁護するほかなかった。
「違うってばぁ。これって何かの間違いよぉ。ねぇ、みんな信じてぇ!」
その頃。
教室での騒ぎを想像して、運動場のトウジはニヤリと笑った。
昨日の夕方、アスカの使いのシンジが“カバが踏んでも壊れない筆箱”を要求してきた時、トウジは彼に訊いたのだ。
これで何をするんや、と。
シンジは明るく言い放った。
「たぶん、踏んでも壊れないって証明するんじゃないかなぁ」と。
「さよか」と何気なく返したトウジだったが、シンジに渡す前に筆箱にわからないように切れ目を入れておいたのである。
「まっ、悪戯っちゅうのはこういう感じにやるんがええんや」
「何のこと?」
「へっ、こっちのこっちゃ。行くで!」
トウジはドッジボールをぼんぼんと地面でドリブルさせる。
やがてそのボールは唸りを上げて親友ケンスケを目がけて飛んだ。
今は敵のチームだから容赦はない。
その姿を横で見て、シンジは同じチームでよかったと胸を撫で下ろしていた。
そして、もう一つ思った。
アスカも一緒にドッジボールをすればいいのに。
そうすれば、約束通り一緒に遊べるのになぁ。
あ、でも、トウジの剛速球を受け止められる?
そんなことをしたら、アスカのおっぱいが……。
アスカの…おっぱい!
その時、シンジは覚醒した。
性的に。
「おい、センセ!逃げんかい!」
「へ?」
この当時、顔面セーフというルールはなかった。
さて、鼻から吹き出た紅は、ドッジボールの所為か、はたまた何やら性的な妄想の為せる業か。
本人にもわからない。
鼻の穴ふたつに赤色に染まった鼻紙を詰めたシンジが教室に戻ってきた時、
筆箱を踏み壊した恥ずかしさも手伝ってか、誰がやったかと報復に燃えたアスカが騒ぎまくった。
6年5組、5時間目の授業は社会である。
ただひとり廊下にぽつんと立たされているアスカの窓越しの横顔は、何だかとても綺麗なようにシンジには見えた。
(おわり)
<あとがき>
ええっと、すみません。
シンジがアスカに謝る場面を読みたかった方、本当に申し訳ありません。
教室内の一幕ものにしたかったので。
さて、象が踏んでも壊れない、アーム筆入れは有名ですよね。
実は『犀が踏んでも壊れない筆入れ』というのも本当にあったそうです。
で、『カバが踏んでも壊れない筆箱』を捏造しました。
実在のアーム筆入れですが、ええ、試しましたとも。
みんなでアーム筆入れを踏みましたが、本当に壊れませんでした。
まあ、小学校低学年でしたし、帝●小学校のげんた君の様な巨躯の友達はいませんでしたから。
さて、作品中の蛇足です。
シンジ少年はいかにしてアスカのおっぱいなるものを想像できたのでしょうか。
本文中には明記していません(リズムが悪くなるので)ので読者諸兄に真相はゆだねますが、
一応作者の設定ではこうなっています。
幼稚園の折に合同家族温泉旅行なる企画がありました。
もちろんそれは碇家と惣流家ですが、当主二人は酔いつぶれ温泉に入ろうとはしません。
ですので、残った男子であるシンジちゃんはかわいそうに温泉に入れなかったのです。
そこで女性陣と一緒に温泉入りを果たしたわけですが、
その時に見たキョウコさんの裸身がベースになっているのです。
子供心に綺麗だなぁと思ったその身体の、顔の部分がアスカにシンクロして…。
まあ、こんな感じです。
ユイのスタイルも綺麗なのですが、なにぶん実の母親ですから見慣れていましたので(今は知りません:笑)、
そちらには何の感想も持たなかったわけです。
以上、『性に目覚める頃』のおはなしでした。
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