昭和短編集


小さな恋のメロディ

ー 1971 初夏 

 


 2007.11.16        ジュン

 
 




 その時、僕はぼけっと『クイズグランプリ』を見ていた。
 そんな僕の頭越しに母さんの声がテレビに飛んでいく。

「ああ!どうして芸能音楽を選ばないのよ。この人、馬鹿じゃない?」

「母さんが得意なだけだろ。きっとこの人は学問系が得意…うわっ、何するんだよ!」

 湿った布巾が頭に飛んできた。
 
「母さんはね、化学も得意なんだよ。ふんっ!」

 それはわかってます。
 専業主婦になる前は化学の教師だったんだよね、女子高の。
 僕にはどうも想像できないんだけどな。
 頭に乗っかった布巾を僕は卓袱台の上に置いた。

『おおっと、チャンスカードが出ました。得点が倍になります…』

 司会の小泉博が穏やかに言う。
 僕にはこの人は怪獣映画のイメージしかないんだよなぁ。
 もう怪獣モノはとっくに卒業したけどさ。

「ほらっ、その布巾でさっさと台を拭きなさい。何のために投げたと思ってるの?」

 腹が立ったから。
 でもそんなことを言い返したら、一言だけじゃなくて二言三言返ってくる上に、
 別の話題に飛び火するかもしれないから僕は黙って布巾を動かすことにした。
 ふふふ、僕も大人になったなぁ。
 今年から大人料金だもんね、バスも電車も。
 母さんは子供料金で乗ったら半額なのに、なんて意地汚いこと言うけど、中学生である僕は誇りをもって拒否してる。
 お金を出しているのはこっちだよと母さんは不服顔だけど、これは仕方がない。
 法律がそうなっている以上、分は僕にある。
 
「ああっ、馬鹿。その答は“買い物ブギ”じゃない!」

 母さんは洗い物を投げ出して、僕の隣に座った。
 まあいつものことだけどね。
 『クイズグランプリ』は月曜日から土曜日までの毎日夜7時30分からだから、母さんは毎度こうなる。
 毎日のことなんだからちゃんとそれまでに仕上げてしまうか、オープニングがはじまった時に中断すればいいのに、
 いつも番組開始後5分くらいしないと居間にやってこない。
 もっとも台所と居間の距離は徒歩3秒だから充分聴こえてるからこれでいいらしい。
 母さんの屁理屈には絶対に勝てないことは僕の13年の人生でよぉくわかっている。
 
「今日は、田中さんね。勝つのは」

 はは、今日の感情移入相手は右端の人ね。
 本当に母さんはクイズ番組が好きなんだから。
 15分の番組が終わると毎回「洗い物洗い物!」と台所に舞い戻ってしまうんだもん。
 僕は8時まで新聞を読んだりぼけっとして、それから勉強の時間だ。
 ただし、洋画劇場のある日は1時間で切り上げてテレビの前に舞い戻る。
 それが終わってからお風呂に入って、残りの宿題に突入しないといけないんだ。
 お風呂の件ではいつも母さんに文句を言われる。
 団地なのだから遅い時間に入るのは周りに迷惑だって。
 特に壁隣(つまり隣の階段のお隣さん)はおじいさんの一人暮らしだからね。
 母さん曰く、いくらあなた(僕のこと)が命の恩人でもご近所に迷惑をかけちゃ駄目だ、と。
 確かに集団生活だからね、暗黙のルールは守らなきゃ。
 だから気をつけて入浴はしているよ。
 夜中のラジオとかカセットとかもかなり音を絞ってる。
 まあ、父さんは夜勤が多いのでチャンネル権が僕の手にあるのは大変ありがたい。
 友人たちは一台しかないテレビを如何に見るかで苦労してるみたいだけど。
 母さん?
 よく考えると、僕は母さんに有利なように躾けられてしまったのかも知れない。
 だって母さんの趣味は洋画に洋楽。
 僕が見ている隣で一緒に映画劇場を見ていることが多いんだ。
 そんなことを友人に言うと、お前マザコンか?とからかわれるんだけど、そんなんじゃないと思う。
 ただ仲がいいだけだし、だいたい母さんの容姿に色気なんか感じないし、みんなが言うほど綺麗とも思わない。普通のおばさんだ。
 僕が好きなのは、やっぱり白人の女優さんなのだ。
 9歳くらいから母さんに連れられてロードショーとか名画座に行ってたから、そんな風になっちゃったのかな?
 初めて映画館に行ったのが『冒険者たち』だった。
 字幕を追うのが大変で、知らない漢字は適当に咀嚼して。
 その映画のヒロインだったジョアンナ・シムカスが綺麗だなぁなんてオマセにも思ったんだ。
 因みに母さんは当時大人気のアラン・ドロンが目当てじゃなくて、ごついリノ・バンチュラの方。
 でもこれには僕は大いに納得している。
 だって二枚目俳優が好きなら、あの無愛想面の父さんと結婚するはずがないじゃないか。
 見合いじゃなくて、恋愛結婚だったって胸を張ってるんだもん。
 僕はといえば、個性派の女優は目に入らない。
 やっぱり綺麗な人が好きだ。
 ジャクリーン・ビセットにラクウェル・ウエルチ、オリビア・ハッセーにナタリー・ドロン、キャサリン・ロス…。
 綺麗だって思うのに尺度がないと思うけど、そこの基準は自分のことなのによくわからない。
 とにかくそういう女優さんが僕の好みなわけで、その結果日本人のアイドル歌手とかにはほとんど興味がないのだ。
 さらには同級生にも。
 まあ白人の映画女優と比べられちゃ彼女たちも可哀相だとは思うけど、これは僕の嗜好性なんだから誰にも変える事はできない。
 
「ははは、私の読み通り。やっぱり山田さんが勝ったじゃない」

 さっきは田中さんじゃなかったっけ?
 よくもまあそれだけ口からでまかせを言えるもんだ。
 溜息交じりの僕を尻目に、母さんはまたバタバタと台所へ戻っていった。
 そして僕は夕刊を手にする。
 テレビ欄は朝刊を隅から隅まで見ているから(あ、テレビ欄をだよ、当然)、3面記事とか芸能欄を読むのが習慣だ。
 あとは映画の広告かなぁ。
 今日のは…と、『小さな恋のメロディ』?なんだ、これ?
 11歳の爆弾宣言?僕たち、結婚します?
 はぁ?大人料金も払ってないような子供が何言ってるんだ?
 こんな馬鹿らしい映画は見に行くことはないか。
 6月26日公開か。オリビア・ハッセーくらい大きかったらいいけど、11歳だろ。やっぱり女優は…。
 そんな僕の思い上がった思想は、数十秒後に崩壊する。
 7時45分になり『スター千一夜』がはじまっていたことを何となく耳の端に留めていた。
 どうせゲストは日本人の誰かさんだろうから集中してみようとは思わない。
 だってチャンネルを替えても中途半端な時間だから仕方がないもんね。
 今日は他に映画の広告はなしか。
 次は何の映画に行こうかなぁ。
 そういやケンスケがリバイバルの2本立てを見に行こうって言ってたっけ。
 その時、テレビから流れてくる音が変わった。
 音楽が変わったっていう方が正しい。
 “旭化成”のコマーシャル音楽だ。
 確かトワ・エ・モアが歌ってるんだっけ。
 さあ8時だ、自分の部屋へ…。
 腰をあげかけた僕は、ふとテレビ画面を目にとめて、そのまま凍り付いてしまったんだ。
 女の子がバレェか何かを踊っている。
 そのスローモーションの姿に僕は一瞬で惹きつけられてしまったんだ。

♪愛を育てるぅ、旭化成♪

 腰を上げかけた珍妙な格好で、テレビ画面に僕は釘付けになってしまっていた。
 なんて…可愛い…うん、可愛いんだ。
 コマーシャルが終わったあとで、僕はぺたんと腰を落とした。
 名前も何もわからないけど、あの同じくらいの年恰好の白人の女の子に僕は一目惚れをしてしまったんだ。

「ははぁん、シンジ、あの女の子に惚れたね?」

「うげっ」

 背後からの攻撃は母さんの得意技だ。
 きっと中腰の僕の姿を後から見ていたんだ。
 くそぉ、何て場面を見られちゃったんだよ、もう。

「あなたにしちゃあ珍しいわね。いつもお姉さんっぽい女優ばっかりなのに」

「そ、そ、べ、別にいいじゃないか」

 と、あっさり僕は認めてしまった。
 まあそれほどインパクトが強かったってことで。

「で、行くわけ?あの映画に」

「はぁ?」

 そこで母さんは吹き出した。
 どうやら今のは映画のワンシーンをコマーシャルにしたものだったらしい。
 きちんと字幕で題名とかが出ていたのに、僕は女の子の姿を追うのに夢中で目に入っていなかったみたいだ。
 
「な、何の映画?」

「ん?小さな恋のメロディって出てたけど?」

「嘘っ!」

 僕は慌てて夕刊を捲った。
 その拍子にびりっと新聞が破れたけど、広告の部分は無事だった。
 母さんが「こらっ」と叱ったけど、僕の耳には届かない。
 でも、僕は不満だった。
 新聞広告に載っていた、その女の子の写真は全然可愛くも綺麗でもなかったからだ。
 だいたい、不細工な男の子が大写しになっていて女の子は小さくしか写っていなかったし。
 ああ、こいつ覚えてる。
 『オリバー』は母さんと見に行ったミュージカル映画で、こいつはガキ大将みたいな役で…。
 なんだ、こっちの男の子は“オリバー”本人じゃないか。
 でもやっぱりこの女の子には見覚えないなぁ。
 たぶん、この“トレーシー・ハイド”っていうのが名前なんだろう。

 その日、僕の宿題の出来は散々だった。

 翌日の夜、7時45分。
 僕はテレビの前に正座していた。
 母さんがやたらに冷やかしてくるけど、ふん!気にするものか!
 そして、待望のコマーシャルが来た!
 今度は金魚の入ったガラス瓶を見つめて笑ったり…。
 うわぁ、やっぱりいいよ!
 でも、11歳?僕より年下?
 ああっ、でもでも、現実の同級生たちに比べてずっと大人びて見えるじゃないか!
 僕は再確認した。
 やっぱりこの女優さんが好きになったんだ、と。



「ねぇ、ケンスケ。行こうよ、『小さな恋のメロディ』」

「いやだね。あんなガキの映画。そんなのに小遣いはたけるかっての。
 しかもロードショーだろ。名画座三回分の値段じゃないか。
 つまりそれだけの資金があれば、6本見られるかもしれないんだぜ」

「そりゃあ、そうだけどさ」

 いつもの僕ならケンスケの発言に大いに賛同しているところだ。
 でも現実に資金の問題があるから、今週末に名画座に行くのを『小さな恋のメロディ』に変更しようと誘ったのだ。
 
「ほら、前売り買えば…」

「馬鹿言え、100円ぽっち安くなっても仕方ないぜ」

 確かに言う通りなんだけど…。
 でも『小さな恋のメロディ』が名画座に下りてくるのは一体いつのことになるか。
 それに僕は一刻も早くあの映画を見たいんだ。
 ケンスケは無理か。
 じゃ、トウジ?……絶対に除外だね。
 あいつはアクションものしか見ないし、ロードショーなんて最初から行かないから。
 結局、一人で行くのか?
 仕方ないか。
 二枚分の資金はあるけど、ケンスケや母さんに奢ってやるほど僕はお人好しじゃない。

 でも、僕はとんでもない人の魔の手に落ちてしまったんだ。
 根瑠府東宝プラザ。
 わが街の誇るロードショー館だ。
 自転車を飛ばして30分。途中で息が切れたから飛ばすのは止めたけど、それでも結構距離がある。
 そこの窓口に人がいなくなるのを僕は待った。
 だって恥ずかしいもん。
 一人でこういう類の映画の券を買うのなんて初めてだし。
 よし!今だ!
 誰もいなくなったのを確認し、周囲に人もいないという絶好の機会を僕は捉えた。
 それが最悪のタイミングだったのに気がつくわけもない。
 窓口にいたのはショートカットの若い女の人だった。

「はい、いらっしゃい」

「あ、あの、あの!」

「あ、わかった。『小さな恋のメロディ』ね。彼女とデート用でしょ。わかってるって。
 ああ、学生手帳はいいわよ。見ればわかるし。はい、2枚で…」

 僕は馬鹿だ。
 言われるがままにお金を払ってしまったんだ。
 こっちに向ってくる女の子たちの姿が目に入ったこともあったんだけど、
 僕は逃げ出すようにチケット2枚とチラシを手に窓口から駆け出していった。
 制服の名札には“伊吹”ってあったけど、恨みます、伊吹さん。
 僕は2枚も…。
 あ、2回行けばいいのか。それもありかも。
 その時の僕はすこぶる前向きだった。
 それだけあのヒロインがお気に入りになっちゃったってことだね。



「おい!見たか、聞いたか、知ってるか!」

「見てへんし、聞いてへんし、知らへんわい」

 僕の気持ちをトウジが代弁してくれた。
 朝だというのに物凄いハイテンションでケンスケが僕たちに詰め寄ってきたんだ。

「凄いぞ!金髪だぞ!おい!しかも、滅茶苦茶可愛いんだ!」

「何や、エロ本かいな。わかった、帰りに寄って拝見させてもらうさかいに、興奮すな」

「馬鹿野郎。帰りじゃねぇ!」

「アホ。こんなとこに持ってくるヤツがあるか。気になって授業どころやあらへんやないか」

「だからエロ本じゃないっ。本物だ!」

「ほんもん?金髪美人が裸で学校におるんか?」

「いい加減に裸から離れろよっ、スケベ野郎」

「お前に言われたないわい。わしはクラスで二番目にスケベなだけや。一番はお前や」

 はは、二番目ってのは認めるんだ、トウジのヤツ。
 あ、僕は3番じゃないよ。普通。うん、普通だ。

「あのな、金髪の女の子がうちのクラスに来るんだ。転校してきたんだ。凄いぞ!」

「お前、見たんか?」

「見た、見た!しっかり見た!どこから見ても外人だ」

「うおおおおっ」

 今のはトウジでもなければ、僕の叫びでもない。
 クラスの男一同の叫びだ。
 最初は3人だけの会話だったけど、興奮したケンスケの言葉はあっという間に男子を引き寄せたわけだ。

「まったく、男子は馬鹿ね」

 こっちに聞こえるほどの大きさで委員長がうんざりとした口調で言う。
 そんな嫌味も僕たちのわくわく感を妨げはしない。
 そして、彼女は現れた。



「ありゃあ、あかんわ。わし、一抜けた」

「ま、まあ、確かにかなりの乱暴者だってことは認めるが、顔やスタイルはいいぜ」

 うんうんと僕は心の中で頷いた。
 特に後者の方を。

「しかしいきなり鞄で殴るってぇのはなぁ。日向先生ごっつい慌てとったで」

「委員長がすかさずアイツの味方についたからだろ。ああなったら女子の側に立つしかないじゃないか」

「せやな。しっかし、いいんちょとアイツが組んだらとんでもあらへんで。ウーマンリブや」

「まったく『おれは男だ!』だな。ここには森田健作なんていないから誰も相手できんぞ」

 そりゃあそうだ。
 森田健作みたいなのでもあんなじゃじゃ馬は大変だろう。
 あ、つまりこういうことが起きたんだ。

 日向先生に連れられてきた金髪の女の子はかなりふてぶてしい態度で教室に入ってきたんだ。
 女の子らしい雰囲気なんて全然見せずに、鞄を肩に引っ掛けたりして。
 で、自己紹介の時にも素っ気無く名前を言っただけ。
 アスカ・ラングレー、さん。
 騒動が起きたのはその後だ。
 鈴木君が手を上げて起立して、いきなり質問したんだ。
 恋人はいるんですか?って。
 すると彼女はすぐに表情を変えた。
 あ、不機嫌そうな表情から、不機嫌極まりない表情にね。
 その直後に彼女は怒鳴った。
 うん、べらんめぇ調で。
 やっぱりその容姿から英語ってイメージがあったのに、第一声がこれだったんだもんね。

「アンタ、馬鹿ぁ?失礼にもほどがあるわよっ、このすっとこどっこい!」

 鈴木君は口をぽけっと開けたまま固まった。
 あ、男子一同、プラス、女子と先生も。
 
「人に質問する時はまず自分から名乗りなさいよ!アンタ、そういう基本教育も受けてないのぉ?
 ふんっ!しかも恋人ですってぇっ?どぉして、アンタなんかにそんなこと言わなきゃいけないわけぇっ?
 いい加減にしてくれる?アンタなんて全然カッコよくもなんともないわよ。バッカみたいっ!」

 僕の知っている限りではこのクラスで男女交際をしている生徒はいない。
 でも、この鈴木君はまずクラスでも一番のカッコよさで運動神経も頭もいい。
 そんなことを自負してる彼だから、当然硬直から回復した途端に怒り出した。
 
「こ、こいつ!女の癖になんだ!」

「女の癖にって何よ!」

 これは転校生の子の発言じゃない。
 委員長の洞木さんだ。
 鈴木君の隣の席だから、すくっと立って頬を真っ赤にして言ったんだ。
 すると女子が一斉にそうよそうよと囃し立てた。
 こうなると彼もおさまらない。
 
「お前も女の癖に委員長に立候補なんかして…」

 そう毒づきながら、彼は洞木さんの肩を突こうとしたみたいだ。
 でも結局それはできなかった。
 教壇のところにいた金髪の転校生が素早く突進してきて、持っていた学生鞄で思い切り鈴木君の頭を殴ったんだ。

「ホンマに、あれは鞍馬天狗か忍者かって感じやったのぉ。わしも鈴木のアホたれをどついたろかと…むにゃむにゃ」

 最後の方はトウジの口の中でくごもって聞こえなかった。
 確かにトウジの言う通りだ。
 僕の席の隣を駆け抜けていったんだけど、赤金色の髪の毛がさあぁっと目の前を靡くように通過していったんだ。
 まるで新幹線並みのスピードだよ。
 で、その騒動についてはとりあえず先生が終息させた。
 まあ学生鞄の中に教科書とかが入ってなかったから、鈴木君もたんこぶひとつ作ってなかったしね。
 でも男のプライドの方はかなり傷ついたようで、今日一日ぶつくさ言ってたっけ。

 中学の近くの三角公園でそんなことを喋ってから、僕は団地へとひとりで向った。
 ケンスケもトウジも別の小学校からだから、住所は方向違いなんだ。
 三角公園の裏手から畦道を通り、路地を数本抜けて通学路へ出る。
 知る人ぞ知る近道ってヤツだ。
 するとどうだろう。
 目の前を赤金色の髪の毛がさっと通り過ぎていった。
 わっ、あれはええっと、ラングレーさん?
 白人にしか見えないけど、アスカって名前だったからハーフなんだろうか。
 住所はこっちの方なんだ。
 はは、なんだか嬉しいな。
 乱暴な子だけど、顔は綺麗だし、うん、見てるだけならいいかもね。
 そんなことを思いながら、彼女の15mくらい後を僕は歩いた。
 その後姿はわき目も振らずにさっさと歩いている。
 でも、手にした荷物はかなり重そうだ。
 あ、そうか。教科書を渡されたんだ。全教科分だから学生鞄に入りきれずに、残りは風呂敷に包んだんだな。
 持ってあげようかな…。
 でも、断られるだけじゃなくて、鈴木君みたいにがつんとやられるのもいやだし…。
 あれ?その鈴木君だ…。
 あらら、クラスの男子たちもいるじゃないか。ええっと、10人くらい?
 鈴木君は彼女の前に立ちはだかった。
 ええっと、僕はどうすれば?
 ラングレーさんは立ち止まったから、僕が足を止めない限りはその差はどんどん縮まっていく。
 うぅ〜ん、これってかなり拙い雲行きのような…。

「こら、お前。謝れよ。暴力振るったの、そっちだろ」

「ふん!馬鹿らしい。そんなことで待ち伏せしたのぉっ?」

 うわぁ、あんなに大勢を相手に彼女は一歩も退かないじゃないか。
 って、もうすぐ合流しちゃうよ、どうしよう。

「あ、ごめん。やっと追いついたよ」

 僕は口からでまかせを言った。
 
「先生が荷物を持ってやれって僕に。ごめんね、ぐずぐずしてて。あ、みんな、どうしたの?」

 今さら気づいた振りをして僕は明るくみんなに声をかける。
 こういう時に僕のぼけっとしたキャラクターは得をするんだ。
 どうも気勢が削がれてしまうみたい。
 
「なんだ、碇。お前、女の荷物持ちか」「情けないな、本当によ」「暴力女の奴隷か?」

 なんて言われても、そんなに気にはならない。
 僕は平和主義者なのだ。一応。
 だいたい、みんなの口調もそれほど刺々しくもないしね。
 多分、中学入学早々にトウジとやらかした大喧嘩がよかったんだと思う。
 痣はできるし、口は切るし、鼻血は出るし。
 それでいて喧嘩の理由が…なんだっけ?って考えてしまうほど些細なことで。
 小さい時からごく稀に僕は大喧嘩をするんだ。
 かっとなったら勝手に体が動いたりして。
 だから、碇は怒らせると怖いヤツだ、なんて思われている部分もある。
 その代わり喧嘩相手だったトウジと仲がよくなってるんだから、変なやつだとも思われているはずだ。
 まあ、そんなことも手伝ってか、緊迫した場が和みかけた時にいい人が通りかかった。
 ぴぃ〜ぷぅ〜。
 ラッパを鳴らしてお豆腐屋さんの自転車が来た。
 鈴木君は大きく溜息と一緒にもういいやと吐き出した。

「お前、今度暴力振るったらたたじゃすまさないからなっ」

 どこかでよく聞くフレーズを残して、鈴木君は歩いていった。
 他の連中は毒気が抜けたのか、僕に向って「じゃあな」と口々に言って鈴木君の後を追っていく。
 数秒経って、僕は大きく息を吐いた。

「礼なんか言わないわよ」

「えっ」

 隣でぶすっとした声がした。
 そっちを見るとすぐ近くにラングレーさんの顔があった。
 
「い、いいよ、そんなの。僕は戦争嫌いだから」

「ふんっ、私だって…」

 そう言ったきり、彼女は口を閉ざした。
 そして風呂敷包みを持ち直すと、さっさと歩いていったんだ。
 僕はぽりぽりと頬を掻いて苦笑した。
 本当に気の強い子なんだ、ラングレーさんって。

「ちょっと、アンタ!どうしてもお礼を言えっての?」

「ち、違うってば。僕の家もこっちなんだよ」

「ふんっ、どうだか」

 ラングレーさんが文句を言うのももっともだ。
 あのあと10分間、僕は彼女を尾行しているような感じだったんだもん。
 ええっと、この会話をしているのは団地の入り口で、ということは彼女もここの住人?
 
「アンタね、ホントにしつこいわよっ」

「だからっ、僕の家はあそこなんだってば!」

 僕は我が家を指差した。
 5階建ての5階で、右から三つ目。
 するとどうだろう。
 ずっと険しい顔をしていたラングレーさんが呆気に取られた顔をした。

「えっ、じゃ、アンタがシンジちゃん?うそっ」

 ちゃん?
 どうして、ちゃん付きなんだ?



「はははっ、アタシ、もっとカッコいいヤツかって思ってた」

「アスカ、口を慎みなさい」

「はぁ〜い。ごめんなさい」

 あれ?どうしてこんなに素直にごめんって言えるの?学校では言わなかったくせに。

「すまんの、シンジちゃん。こういうお転婆の孫じゃが仲良くしてやってくれんか」

「えっ」

 と、言ったのはラングレーさんの方だ。
 どうしてこんなヤツと、って顔に書いてある。
 よく母さんに「お前の顔に書いてある」って言われるけど、その意味がよくわかったよ。
 
「こら、アスカ。わしの命の恩人じゃぞ。そんな顔をするな」

「ぶぅ、これからよろしくお願いします。……で、いい、おじいちゃん?」

「まったく、この子は…。お茶でも淹れてくれ」

「日本茶でいい?」

 そう言うと、ラングレーさんは台所に立った。
 あ、紅茶とかコーヒーじゃないんだ。
 その後、僕はお番茶を一杯ご馳走になって階段を降りていった。
 壁の向こうが僕の家だけど、さすがにもうベランダ伝いに移動する自信はない。
 いや、あの時だってよく出来たもんだと自分でも感心してるんだ。
 火事場の馬鹿力ってヤツだね、まったく。
 僕は階段を降りながら思った。
 さっきのお番茶に茶柱が立ってたけど、何かいいことが起こるんだろうか?って。



「あれ?シンジ、いいの?終わっちゃったわよ」

「はぁ?」

 部屋に顔を覗かせた母さんを僕は振り返った。
 
「宿題していたのに…」

「ほら、あなたの好きなあの子の。旭化成の」

「あっ!」

 忘れてた。
 あの日から毎日(日曜日除く)、あのコマーシャルを欠かさず見ていたのに、
 今日はどうしたことか、完全に忘れてたんだ。
 きっと、宿題が多い所為だ。
 葛城先生の馬鹿。
 僕は机の上に置かれた英語のノートを睨みつけた。
 こんなにたくさん日本語訳しろなんて鬼だよ。
 まだ英語を習いだして3ヶ月にもならないんだぞ。
 僕が相手をしなかった所為か、母さんはいつの間にか居間の方に引っ込んでいた。
 
 9時過ぎになって、ようやく地獄の日本語訳が終わった。
 だいたい習ってないところを訳せだなんて無茶苦茶だよ。
 母さんにそう零すと辞書の使い方を自主学習させる意味があるんだねと先生らしい顔で頷くだけだった。
 所詮母さんは元教師だ。生徒の気持ちなんてわからないのさ。
 一息入れようと考えたのか、僕はベランダに出た。
 3年前だっけ。
 夜の9時頃に壁の向こうでどたんという音とばりんと何かが割れるような音がしたんだ。
 母さんもびっくりして飛んできて、どうやら向こう側の惣流さんの家からみたいだってわかって。
 近所の人と扉をがんがん叩いたんだけど、鍵が掛かってて開かないんだ。
 牛乳瓶受けから中の様子を窺うと、微かに呻き声が聞こえて大騒ぎになった。
 救急車を呼ぶ一方でどうやって中に入るか頭を捻ったけど、
 合鍵は県の事務所にあってもこの時間だしチェーンがされてあったらどうしようもない。
 で、独断で家に戻った僕が、ベランダを伝って隣の部屋に行ったんだ。
 ベランダのテラス窓の鍵がかかってたら割るつもりだったけど、運良く鍵は掛かってなかった。
 そして血塗れになって倒れている惣流さんを見つけたんだ。
 慌てて玄関のチェーンと鍵を開けて、外の母さんたちを呼び入れて。
 いきなり僕がドアを開けたものだからみんなびっくりしてたけど、惣流さんの様子を見てそれどころじゃなくなったんだ。
 すぐにやってきた救急車におじいさんは運ばれて行って、近所の人が輸血とかして結局命には別状ないってことになった。
 天井の蛍光灯を換えた後にバランスを崩して椅子から落ちて、人形ケースにぶつかってそのガラスで足を切ったようだ。
 でも、僕は叱られた。
 母さんに頬をぶたれて、それから泣かれてしまったんだ。
 僕に行かせるくらいなら自分で行ったと母さんは言ったけど、思わず笑っちゃったんだ。
 どう考えても子供だからできたことだもん。
 そりゃあそうねと納得しながらも、もう一発頭に拳骨をもらって抱きしめられちゃった。
 他の人に見られてなくてよかったよ。だって、恥ずかしいだろ。
 そういうわけで、惣流のおじいさんは僕を命の恩人と呼ぶ。
 僕としては昔の話で気恥ずかしいだけなんだけどね。
 そのことを思い出して、ベランダの手摺に手を置き、首を外に突き出しお隣を見た。

「うわっ!」

「きゃっ」

 びっくりしたなぁ、もう!
 そこにはラングレーさんの顔があったんだ。
 距離にして2mくらい右隣。

「こ、こんばんは」

 碇さんちのシンジ君は礼儀正しいとよく言われる。
 こんな状況でよく挨拶がすっと出るもんだ。
 自分でも感心するよ。
 ラングレーさんの方は少し戸惑った様子だったけど、すっと無言で引っ込んだりしなくてよかった。
 どうやらおじいさんに聞いて、実地検証をしてたみたいなんだ。

「アンタ、ここ通ってきたの?どうやって?」

「え?手摺を越えて、蟹みたいに横伝いに」

 しかできないだろ、この環境じゃ。

「そ、そうなんだ。怖くなかった?」

「はは、怖かった。後で。その時は夢中だったから」

 ラングレーさんはしばらくじっと僕の顔を見て、それからぼそっと言った。

「そっか」

「うん…」

「アンタ…」

 その後に何を言ってくるのか、僕は何故かわくわくしながら待った。
 でも、続いて出てきたのはごく普通の会話だったんだ、中学生としては。

「宿題、した?」

 僕は苦笑して、正直に言ったんだ。

「やっと英語が終わったとこ。まだ数学が残ってる」

「ふぅ〜ん、じゃ英語見せて」

「えっ、見せてって、それって、えっと」

「鈍いわね、写させてって言ってんでしょ。早く寄こしなさいよ。明日返してあげるから」

 というわけで僕のノートはベランダ越しにお隣へ移動したんだ。
 彼女は「さんきゅ」って言って中に入っていった。
 さっきまで話していた相手がいなくなると急にベランダが寒々しく感じて、僕は部屋に戻った。
 すると、そこに母さんが入ってきたんだ。

「あら、ベランダのデートはもう終わり?」

「ああっ、覗いてたな!」

「覗いてたも何もないでしょ。網戸越しに台所に入ってくるわよ、話してたら」

 ああ、そりゃあそうだ。
 でもそういうことを全然考えてなかったよ。

「でも、味も素っ気もない、ロミオとジュリエットね」

「あのね。今日会ったばかりだよ。あの子と」

「母さんは日曜日に会ったわよ。挨拶に来てくれてね、惣流さんと」

「えっ、そうだったんだ」
 
 そうか、日曜日は晩御飯前までケンスケたちと遊んでたんだっけ。
 その間に挨拶回りしてたんだな。

「僕には何も言わなかったじゃないか。びっくりしたよ、同じクラスだったんだから」

「あら、母さんは知ってたわよ。惣流さんがあなたと同じクラスにして欲しいって学校に頼んだらしいから」

「ええっ」

 もう驚くことばかりだ。
 母さんの話によると、ああいう白人の容姿をしているからクラスになじめないかもしれない。できれば近所の子と同じクラスにしていただきたいと頼み込んだんだって。
 そんなことができるんだって妙な感心をしてたら、母さんはそんなことは日常茶飯事よってまた元教師の顔をする。
 その後、母さんは真面目な顔をして僕にラングレーさんの話をした。
 どうしてここに来たのかってこと。
 僕は次第に真剣になって聞き入ってしまった。

 全部、惣流さんに、おじいさんから聞いた事らしい。
 彼女のお父さんはアメリカの軍人さんで半年前にベトナムで戦死した。
 そしてお母さん(惣流さんの娘さん)は身体を壊して入院中なんだ。
 ご主人が亡くなってがっくりきてしまったんだって。
 長期入院になるということで、ずっと住んでいた横浜から唯一の身寄りの惣流さんの処に引っ越して住む事になった。
 お母さんの看病がしたいと主張したんだけど、金銭的な面でそれができなかったんだ。
 何故ならお父さんとお母さんは籍が入ってなかったから、
 国からのお金は本国のお父さんの実家の方に…そっちには籍の入った奥さんと子供がいるそうだ。
 惣流さんは年金生活だから、同居する孫娘にも苦しい生活をさせてしまうと寂しげに笑ったんだって。
 それから本当は名乗れない死んじゃったお父さんの姓しか受け付けないらしい。
 “惣流アスカ”という戸籍の姓はイヤだって言い張り続けているんだ。
 僕は何も言えなかった。
 誰にも話したら駄目だよと念を押す母さんに僕は尋ねた。
 どうして僕にそんな大事なことを話したのかって。
 母さんは僕の頭をごしごしと乱暴に撫でた。

「母さんは嬉しいよ、余所様にあなたが信用されてるってのはね。
 惣流のおじいさんがあなたに孫娘さんを見守ってやって欲しいんですって。
 母さん、あんな綺麗な子じゃ危ないですよって言ったんだけど…」

「母さん!」

「シンジちゃんなら大丈夫なんですって。どうする?」

「どうするって…どうしよう?」

 僕が困ってると、母さんは大笑いして台所の方に戻っていった。
 さっさと風呂に入れと言い残して。
 僕はお風呂の中でも考え込んで、何をどうしようということでもなく、とにかくどうしようかって。
 で、お風呂から出てきてもまだ考えて、それから気が付いた。
 数学の宿題をまだしていなかったことに。



 翌日、運のいい僕は英語の時間で真っ先に当てられてしまった。
 ラングレーさんに貸したノートは新聞入れに放り込まれていて、朝刊と一緒に回収して今手元にある。
 葛城先生は訳をしてもらいましょうかと悪戯っぽく目を輝かせた。
 従順な生徒である僕が逆らえるわけもなく、ノートを開いて昨日書いた文章を読んだ。
 あちこち間違っている自信はあるから、おっかなびっくりで読んでいったんだけど…あれ?
 ところどころ僕の字じゃないよ、これ。
 僕は訳をやめて、斜め後ろを振り返った。
 そこにはラングレーさんが座っているけど、彼女は窓の外をじっと見ているだけだ。
 僕の方なんか見もしない。
 彼女が間違いを直してくれたんだ。
 お返しのつもりなのかなぁ。
 とにかく、助かった。
 僕は自信を持って読み始めたんだ。
 さっきまでとは違って、はきはきと元気よく。
 まったく現金なものだ。
 間違いひとつもなく訳を終えた僕に、葛城先生は不満この上なく見えた。
 
「ああっ、完璧に訳されちゃどうしようもないじゃないっ。授業やめてプールでも行こうか?」

 プールという響きにみんな歓声を上げたが、すぐに不平不満の声に変わって授業続行を求めた。
 葛城先生が「プール掃除をするのよ」なんて言うからだ。
 きっと自分が水泳部の顧問だから大人数で掃除をしたかったんじゃないかと、後でトウジは推理していた。
 
「せやけど、ミサト先生が水着姿になるんやったら、がんばって掃除するけどなぁ」

「おうっ!俺も参加するぜ」

 確かに葛城先生のスタイルは日本人離れしてるけど…、でも、僕にはぴんと来ない。
 やっぱり日本人の顔だからかなぁ。
 いつもの三角公園で話をして、それから僕は帰宅した。
 帰宅部だから暢気なものだ。
 そして我が家への階段を上がる前に、右隣の階段を上がる。
 5階建ての団地だからエレベーターなんてついてないけど、物心ついてからの団地育ちだから階段はどうってこともない。
 最上階の惣流さんの扉の前に立ってから、「ありがとう」の次に何と言うべきか考えていないことに気が付いた。
 どうしようかと考えているうちに階段を上がってくる音がする。
 誰だろうかと思っていると、あらら、ラングレーさんじゃないか。まだ帰ってなかったのか。
 彼女は踊り場で立ち止まり、僕を睨みつけた。

「わっ」

「わっ…て何よ、アンタ馬鹿?」

「ち、違うよ。あ、馬鹿は馬鹿かもしれないけど。あのさ、お礼言いたくて」

「ああ、英語のノート?写そうと思ったら間違いだらけで余計に時間がかかっちゃったじゃない。どうしてくれんのよ」

「わっ、やっぱり?ごめん!えっと、じゃ…あ、映画の券が余ってるから、それあげるよ」

 これはいい思い付きだと僕は内心得意になった。
 だって今から買うんだったらもったいないとか考えるかもしれないけど、もう買っちゃってるんだからそんな気にならない。

「はぁ?何の映画よ」

「あ、あのね、ほら、『小さな恋のメロディ』だよ。知ってる?」

「知ってる」

 鸚鵡返しのように答えたラングレーさんは僕をじっと見上げた。
 あ、そうか。扉の前に突っ立ってるから中に入れないのか。

「じゃ、僕は…」

 階段を降りて踊り場に立った僕は、これから前売り券を持ってくるって言おうとしたんだ。
 ところがびっくり。

「いつ行くのよ。今度の日曜?それとも来週?」

「へ?」

「アンタ、このアタシを誘ったんでしょ。映画を一緒に見に行こうだなんて、アンタ、女たらし?」

「ええっ?ぼ、僕…」

「まあ、いいわ。おじいちゃんの命の恩人だしさ。1回だけ付き合ってあげる。あの映画、アタシも見たかったし」

「い、いいの?僕と一緒で」

「何言ってんのよ、誘ったの、アンタじゃない。行ってあげるって言ってんだから、喜んだらどうなのよ、馬鹿っ」

「は、はい、ありがとうございます」

 どうしてこうなるの?
 僕の返事に満足したのか、ラングレーさんは大きく頷いて残りの階段を駆け上がった。
 そしてドアのノブに手をかけた時に、ぼけっと見上げている僕を睨みつけたんだ。
 
「じゃあね。また」

「あ、うん、また明日…」

「はぁ?また、9時にベランダ、でしょうが。宿題見せてよね。今日は数学。今度は間違いなしのを頼むわよ」
 
「え、えっと、うん、わかった」

「じゃあね、馬鹿シンジ」

「ば、馬鹿シン…」

 とんでもない呼び名に抗議しようとしたけど、その時にはもうラングレーさんは家の中に入ってしまっていた。
 で、9時にベランダで数学の宿題を見せるだなんて…。
 だったらご飯を食べたらすぐに取り掛からないと駄目じゃないか。
 おいおい、ぼけっとテレビを楽しむ時間がなくなっちゃう…。
 僕は階段を下りながら考えた。
 これって、もしかして…デート?
 へへへ、ラングレーさんがそう思ってなくても、僕の方で勝手に思っちゃったらいいんだ。
 ひょっとしたら生涯で最初で最後のデートだったりして。
 何だかうきうきしてきた僕は自宅への階段を全速力で駆け上がっていった。
 2段飛ばしに3段飛ばし、踊り場では勢いをつけて片足だけで急角度ターンだ。
 5階まで上がった時にはもう心臓がぱくぱく。
 何やってるんだろ、僕は。
 


 日曜日が来た。
 朝一番に根瑠府東宝プラザへ着いた僕とラングレーさんは長い行列が出来ているのにびっくりしてしまった。
 金曜日に封切られたばかりだから仕方がないかもしれないけど、こんなに人気があるとは驚いてしまったよ。
 立ち見で入るか、それとも2時間近く並んだままで2回目に座って映画を見るか。
 そんな決断を迫られた時、ラングレーさんはあっさりと結論を出したんだ。
 立見は嫌だから、並ぶって。
 だけど、その並んでいる時間は結構短く感じたんだ。
 ラングレーさんといろいろお喋りして。
 いつもの制服やジーパン姿じゃなくて、今日は黄色いワンピースでさ。
 ええっと、物凄く可愛くて、僕が隣にいていいんだろうかって思うくらい。
 並んでいる人たち(ほとんど女の子だったけど)の会話なんかが聞こえて、凄く恥ずかしいっていうか舞い上がっちゃうというか。
 だって、あの二人カップルかな?なんて言われてたんだよ。
 映画は面白かった。
 ただし隣が気になって、ちょっと集中できなかったかもしれないけどね。
 僕は思った。
 トレーシー・ハイドよりも、今僕の隣に座っている女の子の方が断然いいって。
 どうやら僕は初めて現実世界の女の子に恋をしたみたいだ。
 その子はやっぱり白人の容姿をしてたけど。

「アンタ、どこがよかった?」

「えっと、墓地の場面、かな?」

「そうね、あれは日本の墓地じゃ絵にならないわよねぇ。アタシもあそこが好き」

 映画館を出て、すぐ近くの広場の石段に僕たちは並んで腰掛けた。
 そして見てきたばかりの映画の話をしたんだ。
 彼女がどのシーンがよかったかって訪ねてきたから、僕は思ったままの場面で答えた。
 ダニエル(主人公)とメロディ(ヒロイン)が初めてデートをする場面。
 墓地で並んで腰掛けて、近くの墓碑銘を読むところだ。
 そこに刻まれていた50年愛し合った夫婦というのがよくわからない二人。
 愛情がということではなく、50年という長い時間が想像できなかったんだ。
 50年間も愛せるかと訊ねるメロディに、ダニエルは大丈夫だと言う。
 嘘だと訝る彼女に彼は胸を張って言う。
 もう一週間愛してきた、って。
 そこがいいと僕は思った。

「アタシはまだ3日か…」

「はい?」

 ラングレーさんがぼそりと言ったことに僕はすぐ反応できなかったんだ。
 後になってもしかしたらって狂喜乱舞したんだけどね。
 鈍いよ、僕は。
 そしてすぐに家に帰るのはもったいないからって、本屋さんとかレコード屋さんにも行ったんだ。
 そこで僕たちは『小さな恋のメロディ』のシングルレコードを見つけた。
 ビージーズの主題歌の入っているものだ。
 欲しかったけど正直言って買っちゃうと後が辛い。
 するとラングレーさんが魅力的なことを申し出てくれたんだ。

「うちにはレコードプレーヤーがないのよ。割り勘で買って、アンタの家で聴かせてくれる?」

 はい、はい、はい!
 レコード屋さんの中で手を上げて大声で賛成したかったけど何とかそれは思いとどまった。
 その場は「うん、ありがとう」とだけ言ったんだ。
 彼女はレコードの入った袋とパンフレットを大事そうに手に持ち、団地に戻るバスの中でこう言ってくれた。
 
「割り勘で買うってことは所有権はどうなるんだろ」

 バスは満員で、僕たちは車掌さんがこれまでいた場所に避難してそれなりのスペースを確保していたんだ。
 ワンマンカーになる前は出口のところに車掌さんが立っていた。
 そこならラングレーさんがゆったりとできるから。

「ええっと、それは…」

 所有権だなんて難しいこと言われちゃすぐに答えられないよ。

「まあ、いいわ。アンタ、映画好きなんでしょ。映画音楽とかレコード持ってる?」

「うん、母さんも好きだから結構あるよ。ビートルズとかも」

「やったっ。所有権はアンタにしてあげるからさ、アタシにレコードをあれこれ聴かせてよ」

「あ、うん、いいよ」

「う〜ん、それと割り勘で買ったのは何か印がいるわよね」

 ラングレーさんはちょっと首を捻った。
 そして腕の中のパンフレットをちらりと見ると、にっこり笑ったんだ。
 その笑顔を見ていたら、もう提案される前から賛成してしまいそうだった。

「ほら、これ。このサイン。メロディって英語で書いてるじゃない。割り勘で買ったものにアスカって書いてくれる?」

 そのデザインを覗き込むと続け字で“Melody”と書かれてて、その上に小さく“love”。それから下には“×”が3つある。
 “×”って何だろ?3つだから主役の3人のことかな?

「いいよ、って、英語で?これを真似て?」

 彼女はこくんと頷いた。
 僕は何としてもこの書体と同じように、“ASUKA”と書こうと誓った。
 あ、もちろん心の中で固く、ね。
 さすがに小さな“love”は書けないけどね。
 僕の片思いなんだから。
 彼女には何とかやってみると言っただけだ。

 その決意が僕たちの未来を決定付けたとも言える。

 我ながら素晴らしい出来で仕上がった“ASUKA”サインは彼女にも好評だった。
 そして、レコードジャケットだけでなく、教科書とかそういうものにすべて書いて欲しいと頼まれたんだ。
 単純な僕はよしきたとばかりに、あちらこちらにそのサインを描いていった。

 しばらくして、学校中で僕とラングレーさんが交際していると噂になった。
 それは僕にとっては嬉しいことだけど、学校では特に親しくしているわけでもなかったのにどうしてだろうかと疑問を抱いた。
 するとどうだろう。
 ケンスケが教えてくれたのは驚愕の事実だった。
 始業前の教室で僕はケンスケを捕まえて噂の真相を尋ねたんだ。
 すると彼は大きな溜息を吐いて、こう言ったんだ。

「あのよ。あのASUKAってサインがあるだろ。ラングレーの持ってるものにやたら書かれてるヤツ。あれ書いてるのお前だよな」

 僕は頷いた。
 その通りだもん。

「あれのな、アルファベットの下に×マークを3つ書いてるだろ」

 僕は頷いた。
 だって元の図案に書かれてたのをそのまま写しただけだもん。

「お前も大胆だよな。あれ、キスマークだって知ってて書いてるのか?」

 僕は頷かなかった。
 飛び上がってびっくりしたんだ。
 だってそうだろ、ラングレーさんにキスを3回するって意味になるじゃないか。
 もう顔は真っ赤になるは、喉はからからになるはで、もうどうしよう!って感じになっちゃった。
 
「女子の中では凄い噂になってるぞ。結婚の約束までしたとか」

「け、結婚っ?」

 裏返った声で叫んでしまったその時、ラングレーさんがにこやかに教室に入ってきた。

「おはよっ。馬鹿シンジ」

「あ、あ、お、おはよう。ラングレーさん」

「何?その顔。あ、今日からアタシ、ラングレーじゃないからね。惣流アスカ。戸籍通りの呼び名にするから」

「あ、う、うん。じゃ、惣流さん、になるんだよね」

「違うわよ」

 彼女はにっこりと微笑んだ。
 まるで天使のように。

「え?」

「シンジだけはアスカって呼んでいいから。他の連中は惣流さんにしてよね」

 ラング…じゃなかった、惣流さんは僕にではなく、教室中に聞こえるような声で言った。

「で、でも、いいの?名前で呼んだりして」

「いいわよ。アタシとアンタの仲じゃない」

 出遅れました。
 僕が叫ぶ前に、周りの連中が先に反応したんだ。
 教室が揺れるほどにみんなが大声で歓声というか野次というか、そんなのを怒鳴って。
 それは静まるのを待って、彼女はもっと大胆な行動に出たんだ。

 ちゅっ。

 僕の頬に柔らかいものが当たった。

 こうして僕とアスカは職員室に呼ばれて説教を食らうことになった。
 葛城先生に怒られてるんだからニヤニヤするなってからかわれたりしたけど、もう頬の緩みは止まりやしない。
 ただ映画みたいにトロッコで逃げ出すまでのことはなく、そのまま楽しい学園生活を送れるはずだ。
 きっとアスカのお母さんも身体が良くなって一緒に住めるに違いない。
 僕もアスカもハッピーエンドの映画が大好きなんだから。


 

- Happy Ending -

 


 

<あとがき>
 
久々に一気に書けました。まあ、このネタは昭和専用ですよね。
『小さな恋のメロディ』はずっと見てなかったんですよ。ガキ映画だって馬鹿にして。馬鹿にしていた私が馬鹿でした、はい。


 

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