僕は袋の中に指を入れた。
親指と人差し指でつままれた袋を取り出してみると、どういう具合かもう一枚くっついてきたんだ。
「あれ?」
「こら、シンジ。ズルはだめよ。ひとつに一枚なんですからね」
「わかってるよ、母さん。勝手にくっついてきたんじゃないか」
「ふん、そいつは当てて欲しいと、ひっついてきたのではないか」
父さんがいつものように思わせぶりなことを言う。
「そうなのかなぁ。うぅ〜ん、どっちにしよう」
僕は悩んだ。
摘んだ方とくっついてきた方を左右に並べて、見比べる。
こういう選択は苦手なんだ。
「じゃ、こっちでいいや」
数秒悩んだ末に、僕は自分で摘んだ方を選んだ。
別に悩んだって言ったって、生きるか死ぬかってわけじゃない。
どんなカードが入っているかってだけだ。
まあ、子供である僕としては充分悩むに値するもんだったけど。
「本当にいいのか、それで」
「もう、あなたったら。シンジは悪魔の囁きに耳を貸さなかったということなんです」
「む、わしは悪魔か」
「その顔ですからねぇ」
母さんはさらりと言った。
両親のいつもの会話には耳を傾けず、僕はカードの入った袋を前後とひっくり返して検分した。
ちゃんと開け口もあるから、ここから開くんだな。
「うむ、開けてみろ」
僕は深呼吸した。
どんなカードなんだろう。
びりっと破れた袋から出てきたカードは…。
ー 1972 夏 ー
2007.05.02 ジュン |
昭和47年8月。
未だに、西暦で何年だったっけと考えてしまう。
私は…と、自分のことを書くとどうも変だ。
何故ならあの当時、自分のことは“僕”だったのだから。
やはりここは、昭和47年8月、僕は…と書き出すべきだろう。
昭和47年の8月の半ば、僕はいつものように汗だくになって友達と遊んでいた。
その日は何をして遊んでいたか、今でもよく覚えている。
自転車で市民プールまで走り2時間ほど遊んだ。
そう、遊んでいたのであって、泳いでいたのではない。
僕はようやく25m泳げるようになったばかりで、友人の鈴原トウジのように100m以上などとはとんでもない話だ。
もっとももう一人の友人である、相田ケンスケのように15mくらいで沈没してしまうことはない。
まあ、トウジに言わせれば、僕もケンスケも「目くそに鼻くそ」らしいが。
だが目くそであっても通知表に25mと書かれるのと15mでは両親の覚えが違う。
断然違う。
母さんは教育ママではなかったが、こういうことには結構煩い。
あと10mどうしてがんばれないのかと、卓袱台を挟んで説教されるのが常だ。
しかもそれが外から丸見えだから僕としてはたまらないのだ。
何故丸見えかというと、我が碇家はお店なのである。
パン屋のチェーン店で、お菓子とか日用品もちらほら。
コンビニなき時代のコンビニみたいなものだ。
ただし、営業時間は24時間じゃない。
朝は7時で夜は6時くらい。
朝の方はきちんと店を開けるけど、閉店時間は結構いい加減だ。
夏はお日様がまだまだ高いから7時頃まで開けている時もあるけれど、
冬が近づくと5時くらいに早々とガラス戸を閉めてしまうことが多い。
もっとも買い物のお客さんはそこのところは重々承知しているから、戸が閉まっていても平気でどんどんと叩いてくれる。
そういった場合晩御飯の途中でも母さんは席を立つ。
お客様は神様だからだそうだ。
さて、その三波春夫的な母さんの相棒は、見たところ一年を通して母さんの一日分しか喋ってないように感じる。
店の方は母さんに任して、父さんは隣町にある製菓会社で働いているんだ。
授業参観はあるけれど、仕事参観などありはしない。
だからその無口な父さんがどんな顔をして働いているのか、僕にはわかったものではないんだ。
ただ、母さんはその父さんの仕事場所に新入社員で入ってきたそうだ。
所謂職場結婚というものだが、どうして父さんみたいな無愛想な人間と結婚したのだろう。
時々そんなことを思うことはあったが、両親に尋ねてみようとなど思ったことは一度もなかった。
僕は忙しいのだ。
子供の仕事は遊ぶことだ。
大人になれば仕事をしないといけないのだから、今のうちに遊んでおかねばならない。
そんなケンスケの意見に僕は全身全霊で賛成していた。
さてさて、そんな僕が友人と別れて向ったのは我が家。
プールで遊びすぎたのか、少しぼけっとした頭で自転車のペダルを漕いだ。
帰ったらまずごろんと横になって昼寝をしよう。
それから冷蔵庫で冷えている筈の三ツ矢サイダーを飲む。
今日は土曜日だから、夜には『仮面ライダー』がある。
毎週楽しみにしてるんだ。
しかも今日はダブルで楽しみなわけなんだ。
何と言っても今日の話には、もう一人の仮面ライダーが出てくるんだもんね。
前回の予告編でそのことを知り、登校日の学校では大騒ぎ。
本郷猛(1号ライダー)は確かにカッコいいんだけど、2号ライダーで「仮面ライダー」を好きになった者が大半だったからね。
因みに僕は旧1号の時から見てるよ。うん、第1話「怪奇蜘蛛男」から。
まあ、そういうわけで教室はその話題で持ちきりだった。
もちろん男子だけだったけどね。
女子の冷たい眼差しなんか関係ない。
あいつらまだ3年生の癖に大人を気取ってさ。変な奴らだよ、僕たち子供なのに。
その頃、クラス一、いや小学校一の怪獣博士であるケンスケの友人を僕はしていたんだ。
怪獣と怪人は違うなんて馬鹿らしいことは考えない。
僕だって怪獣番組の知識は平均以上のレベルだと自負していた。
それに僕には素晴らしい環境があった。
先に書いたように僕の家はパン屋さん。
お菓子も一緒に売っているというところがミソなんだ。
駄菓子屋さんじゃないから、メンコやビー玉は売っていないけど、
ケンスケたちの目から見ると垂涎モノが店先に並べられている。
怪獣のブロマイドがまずそうだ。
一枚5円の袋入りのブロマイド。
これが問屋さんから入ると、僕はケンスケにすぐ連絡する。
この頃はそんな用件で電話を使うと母さんの機嫌を損ねて、こういう利便に目を瞑ってくれなくなる。
まあこれは横流しに近いもんね。
自転車でケンスケの家に走り、帰りは2台の自転車が疾走する。
時には彼は今で言う大人買いをすることがある。
握り締めた150円を鼻息も荒く母さんに手渡すと、紙紐で縛った30枚セットを全て買ってしまうんだ。
そして僕の部屋に行き、一枚ずつ中身を確かめる。
この時の彼の表情には笑ってしまいそうになるんだ。
おそらくあの頃一番真剣な眼差しをしていた。
数年後、生涯の趣味となったカメラのファインダーを覗く時と同じような。
そしてダブったものを僕のコレクションと交換したり、お礼だと二三枚くれたりしてね。
あっ、これじゃ完全に収賄?
う〜ん、まあ子供だったってことで許してもらおう。
どうせ時効だしね。
おっと、脱線した。
とにかくその日、つまり昭和47年8月12日午後3時…頃。
僕は家に帰ったんだ。
その僕を待っていたのは…。
「へぇ、アンタがシンジ?こんちは」
「そう、碇シンジ。私の従兄妹」
二人の女の子のうち、右側で微かに笑っている方はよく知っている。
綾波レイ。
確かに従兄妹で、母さんのお姉さんの子供で僕と同い年だった。
隣の市に住んでいてよくうちに遊びに来るんだ。
その目的はどうもうちの店の商品にあるような気がして仕方がない。
どうやら母さんはレイのヤツがお気に入りで、欲しいものがあったら遠慮なく言いなさいよなんて甘やかすんだ。
僕なんて店の商品に手を出したら追い出すなんて言われてるのにさ。
まあ、幼稚園の頃までは結構仲がよくて…、一緒にお風呂に入ったこともあるし、くっついてお昼寝となったこともある。
今じゃそんなこと恥ずかしくてできやしない。
でもクラスの女子よりは仲がいいのは間違いない。
そのレイは色白なんだけど、それなりに日焼けしていた。
そういえば、夏休みに入ってすぐ林間学校に行くとか何とか、母さんが言ってたような気がする。
お前も行くかと聞かれて、すぐに行かないと返事したんだ。
友達たちも一緒だったら話は別だけどね。
いや、問題はレイじゃない。
彼女の左側でにやにや笑っている“外人”だ。
今や“外国人”と表記しないと難しい問題になってしまうけど、この時代は“外人”以外の何者でもない。
その外人の女の子がガムを噛みながら僕の顔を見て笑ってる。
それ、うちの商品じゃないだろうなって突っ込もうと思ったんだけど、僕は英語を喋れない。
開口一番思い切り流暢な日本語で挨拶された事など頭からすっ飛んでしまってる。
だって金髪の外人だよ。
女の子なのにジーパン履いてるしさ。
それにその頃の僕は断片的な英語くらいしか聞いたことがない。
ああ、それも正式には英語じゃない。
ジーパンとかセーターとかモンスターとかライダーとかビフテキとか…、つまり和製英語なんだ。
だってテレビの洋画は全部吹替えだし、近くに外人さんは住んでないんだもん。
まあ、昭和47年当時の子供ってこの程度だよ、うん。
だから目の前の女の子が日本語を喋っていたとしても、ああ吹替えなんだって錯覚したのかもしれない。
馬鹿げた話だけど、どうもあの時の僕はそう思ったみたいだ。
「れ、レイ?この外人さんどうしたの?どうして僕んちにいるのさ」
「くわっ、外人ですって?アタシは日本人よ!それに外人じゃなくて外国人って言いなさいよ!」
「わわっ、日本語じゃないか。あ、そうか、吹替えか」
「アンタ馬鹿ぁ?どこに吹替えの人がいるのよ!」
「えっ、吹替えって…」
そりゃあそうだ。
ジョン・ウエインの声はムラマツキャップで立花のおやっさんなんだもんね。
吹替えするには誰か別の人がいないといけないんだ。
僕はレイの顔を見た。
「レイ?レイが腹話術してるの?」
「くくく、私できない。面白そうだけど」
「えっ、じ、じゃ、自分で喋ってるの?」
金髪の少女は呆れ顔を隠さずに肩をすくめた。
「レイ、こいつ馬鹿?それともふざけてんの?」
「ふふふ、こんなの、いつも」
「はんっ、生まれつきのぼけぼけってことか」
「な、なんだよ。いきなり!」
「ははっ、怒った」
「アスカ、怒らせるのはよくないんじゃないの?」
「うぉっ!そうだった、つい…」
何が、つい、だ。
僕は怒る時には怒るんだぞ。
でも、怖かった。
だって、外人の女の子は物凄くこわばった顔で無理矢理笑ったんだもん。
「へへへ、ごめんね」
嘘だ。絶対に悪いって思ってない顔だ。
僕にはわかる。
というか、この子はわかりやすいや。
何しろ母さんやレイときたら無表情というわけじゃないんだけど、何を考えているんだかわからないんだよ。
それがこの外人の女の子は表情がころころ変わって、しかも考えがまるわかりなんだ。
「アタシは惣流・アスカ・ラングレーっていうの。ま、特別にアスカって呼んでもいいわよ」
「えっと、惣流さんでいいよ、うん」
「何ですって?人が下手に…」
その時、ごほんと咳払い。
金髪の女の子の肩に手を置いて、レイが首を横に振っている。
「ううう、もうっ、わかってるわよ。とにかく仲良くしましょ」
すっと白い手が差し出される。
うわっ、握手?
こんなの生まれて初めてだよ、僕。
彼女の手を握ろうとして汗ばんだ手に気がつき、慌ててジーパンでごしごし拭いて握手する。
感触?柔らかかったかって?とんでもない。それよりも痛かったんだ。
彼女は最初は笑顔だったけど、だんだん歯を食いしばってきて。
つまり、握った手に思い切り力を入れてきたんだ。
「痛い!痛いよ!」
僕は我慢強い方じゃない。
すぐに悲鳴を上げた。
すると腹が立つことに彼女はにやりと笑ったんだ。
「あ、ごめん!つい、力を入れちゃった」
また、つい、だ。
くそぉ、何て乱暴な女の子なんだ。
これがアスカとの出逢いだった。
はっきり言って、僕は迷惑この上なかったんだ。
言葉が通じない方がまだよかったかもしれない。
口は悪いし、態度も悪い。
どうしてこんな乱暴な女の子とレイが友達になったんだろう?
いや、そのきっかけがどうこうよりも、どうして彼女が僕の家にいるんだ?
しかも、泊まるんだって。
レイと二人で僕の家に。
うちは旅館じゃないぞ、どうしてだよ。
その理由がわかったのは、晩御飯の後だった。
「ええっ、ライダーカードぉっ?」
僕の声がひっくり返ってしまったのは仕方がないと思う。
だってあんなにライダーカードの収集が流行っていても、あくまでそれは男子の範囲内だ。
女子でライダーカードを持っているのなんて見たことがない。
ライダースナックの処理を頼んでも即行で断られるくらいだ。
あ、ここで脱線。
ライダースナックの処理とはどういうことか説明しよう。
いや、そもそもライダーカードとは何ぞやからかな。
平成の時代になってまた復刻されたんだけど、カルビーが販売しているスナック菓子の景品がライダーカードだ。
まあ、景品と言ってもこっちがメインであることは誰の目にも明白だよね。
復刻版ではポテトチップスだったけど、元々はライダースナックといって甘味料でコーティングされたお菓子だったんだ。
それがもう甘いのなんのって。
はっきり言って、一袋食べたらもういいやって感じの味だ。
でも、僕たちはそういうわけにはいかなかった。
何しろ僕たちの目は開かれてしまったんだから。
それはこういうことだった。
今とはまるで子供たちを取巻く状況が違う。
トレーディングカードという言葉自体がなかったんだ。
最初に話した怪獣ブロマイドもそうだ。
世の中にどれくらいの種類があるのか、僕たちにはまるでわからなかったし、ブロマイドにナンバリングもされていない。
ただ僕たちはお気に入りの写真が出てきたら喜んでいたに過ぎない。
コレクションをしてもお菓子の缶か何かに放り込んで、見るときには畳の上にざぱっと出すんだ。
もちろん友達と交換することはあったけど、それはそう頻繁にあることじゃない。
まあ、こういうものでベースはできていたのかもしれない。
メンコは勝負するもので保管して見せびらかせるものじゃない。
本やソノシートやおもちゃなんかとも違う。
あれはそのもの自体を目的にしたものだし、何より高価なものだから。
思えば、ライダーカードにはいろいろな要素が含まれていたからこそ、あんなに僕たちを熱狂させたんだと思う。
お小遣いで買えて、何が出てくるかわからず、さらにラッキーカードがあって、コレクションもでき、友達と交換することで補完もできる。
技術や財力ではなくて、公平な舞台で友達と競うことができるって言うのも魅力だったんじゃないかな?
まあ、箱ごと買うような子供はいなかったし、大人もいなかった。大人買いなんて言葉もなかったもの。
ただ箱ごとはなかったけど、10個くらい買う子はいたので社会問題にもなったんだけどね。
先に書いたようにはっきり言ってライダースナックは不味い。
中には美味しいという子もいたけど、僕たち子供の総評としては一袋で精神的満腹感を与えられる代物だ。
カード目当てで買って、そこらの幼児や女の子たちにスナックをあげると言っても絶対に断られた。
いいよって言われても、カードつきならなんてのがオチだったしね。
ライダーカードはナンバリングされていて、その中にラッキーカードが入っているとカードアルバムがもらえる。
それがどのくらいの確率かなんてことは全然わからない。
父さんだって教えてくれないんだ。
何度も訊くんだけど、企業秘密だって教えてくれない。
ライダーカードの会社自体じゃないんだけど、その関連会社に勤めているんだから知ってるはずなんだけどね。
でも、父さんには感謝している。
だって、ライダースナックを発売されることを教えてくれたんだから。
僕はそれがどういうものかよくわからなかったんだけど、まあ誰よりも先に知ったわけだから喜んでね。
そして母さんにうちの店にも入るのかって訊ねたんだ。
すると売れるかどうかわからないけど、一箱注文してみようかって言ってくれた。
今は「やめときゃよかった」なんてこぼしてるんだけどね。
僕の家に…いや、店にライダースナックが入荷した日のことだ。
去年の12月の終わりごろ。
クリスマスの前だったと思う。
母さんは店頭に並べるのを一日遅らせたんだ。
そこらあたりは母さんの甘いところでもある。
父さんも母さんもこれくらいはいいだろうと判断すれば、結構僕が大喜びするようなことをしてくれた。
日頃はそういう顔を見せないんだけどね。
これもそうだった。
今みたいに発売日をまだかまだかと待っている人なんかいやしない。
店頭に並んでもすぐには売れていかないものだ。
だから、箱の中から僕に真っ先に選ばせてくれたわけ。
もちろんお金を払ってだよ。
そういうところはしっかりしているというか、店の商品に手を出すとどんな目に合わされるかわからない母さんだからね。
僕はお小遣いの中から20円を母さんに渡した。
そしてまずライダースナック本体を手にする。
だけどそれにはカードはついていない。
カードは別の袋に入ってるんだ。
「こういうのって買った子に選ばせてあげるもんかねぇ」
「うむ、そんなもんだろう」
「どうだい、シンジ?」
「そりゃあそうだよ。当たり前田のクラッカーだよ」
「はいはい。じゃ、そうしますか。はい、じゃ一枚引きなさい」
母さんはカードが50枚入っている袋を僕に差し出した。
僕は袋に指先を入れながら神様に祈ったんだ。
いいのが当たりますようにって。
まあ、中身がどんなものなのか全然知らなかったんだけどね。
そして僕はその中から一枚を選んだ。。
「うむ、開けてみろ」
言われなくても開けるけど、父さんは一家の長として一言言わずにはいられなかったんだろう。
僕は大きく深呼吸しながら封を開けた。
中から出てきたのは、仮面ライダー2号のカードだった。
「わっ、ライダーだ」
その時、僕が考えたのは怪獣ブロマイドの方がいいやってことだったんだ。
それはカードの大きさが原因だったんだと思う。
だってあっちは5円で、しかもサイズがカードの4倍くらいあるんだよ。
ライダーカードは20円でサイズは逆に小さい。
子供としてはブロマイドを支持したくなるのは当然だ。
それが数秒後に価値観が天地さかさまにひっくり返るなんて予想もしていなかった。
僕はカードの裏を見たんだ。
因みに怪獣ブロマイドの裏は白紙だ。
そのカードには黒丸に白地で41という数字が書かれていて、そしてその下には“ラッキーカード”と記されていた。
もし、今こんなカードを当てたなら躍り上がってしまいそうなものだけど、この時の僕はきょとんとしていた。
そりゃあそうだろう。
カードの仕組みなんて何も知らなかったんだから。
「ラッキーカードだってさ。えっと、このカードを…」
このカードを下記のところにお送り下さい。仮面ライダーカードを入れるアルバムをお送りいたします。
まさに神の言葉だった。
この神様の言葉を見たいがために、僕たちはお小遣いを散在することになったんだ。
そしてその散在の結果が社会問題になった。
カードだけが欲しいからスナックを捨てる子供が出てきたんだ。
僕はしてなかったよ。あ、ケンスケやトウジもね。
さすがに食べ物を捨てるなんて駄目だって、そういう躾をされていたからだと思う。
残さず食べなさい。嫌いなものでも食べなさい。
それでも嫌がっているとお説教が始まる。戦争中や終わってからも食べるものがなくて…。
そんな話を聞くと食欲自体がなくなるし、確かにその通りだから否応なく食べるんだ。
ほとんどの家でそんな躾をされていたはずなんだけど、
でも確かに公園のゴミ箱やドブにスナックが封も開けずに捨てられているところを何度も見た。
PTAでも問題になってうちの店にも会長さんとかが来たらしい。
母さんはぷんぷん怒ってた。
苦情を言われたからなんだけど、やっぱり売った食べ物が捨てられているってことが大きかったんだろう。
だから母さんはまず個数制限をかけた。
一人一個。何度も買いに来ても顔を覚えてるから一日に一個しか売らない。
おかげで僕は学校で文句を言われた。
5年生から叩かれたこともあったけど、トウジがかばってくれてケンスケが先生を呼んできてくれたから助かったんだ。
その5年生は通りがかった伊吹先生に頬っぺたを叩かれて、職員室で担任の青葉先生に頭を拳固で叩かれた。
体罰がどうのって五月蝿い時代じゃなかったからね。
親にだって叩かれたことがないのに…って変な時代になったって思うよ、つくづく。
親は叩くものだ。もちろん自分の機嫌がどうこうでなく、子供が間違っている時でここぞという時にはね。
そして何故叩かれたのか子供がわからないようじゃ叩く意味はない。
おおっと、思い切り脱線した。
とにかく、ライダーカードは日本中で問題になり、問題になったことも手伝って子供たちは熱くなったんだ。
僕も他の子供と同じようにライダースナックを買わないとカードはもらえない。
しかも最初は選ばせていたけど、今は上から順番にカードを渡していく方式に母さんは変えた。
一枚を取るのに時間をかける子供がいたり、2枚抜こうとする悪ガキも出た所為だ。
まあ、そんなこんなで、この1972年の夏もライダーカードは大流行していたんだ。
僕のコレクションはまあそれなりにって感じだった。
というのも友人に化け物がいたからね。
ケンスケは凄いヤツだ。
ライダーカード集めに物凄い情熱をかけていた。
僕が宣伝した所為で最初の入荷の時から彼は小遣いを注いでいる。
うちの店が一日一個に制限されたから、隣町の店にも遠征をしているんだ。
今日もプールの帰りにそのまま自転車でふたつ向こうの小学校の近くに住んでいる子の家に行って、交換をして来るんだと言っていた。
僕はそこまでの情熱はないから、ケンスケの行動をトウジと一緒に半ば呆れながらけしかけてるんだ。
それでも僕やケンスケ、トウジのコレクションは圧倒的に有利だった。
というのも集め始めた時期が早かったからだ。
この6月に新カードが大量に出てきたから、No.105までの分は僕たちの間では古(ふる)カードと呼ばれるようになったんだけど、
僕たち3人はその古カードをたくさん持っていた。
おかげでダブって困っていたカードが交換に利用できるようになったんだ。
古カード10枚とカードアルバムとかね。
ケンスケはこの方法でカードアルバムを増やしていった。
さすがに自分の運だけでラッキーカードを当てるのは限界があるからね。
僕だって最初の1枚と、4月頃に当てた2枚だけしかないもの。
でも、僕のあの最初のカードアルバムはみんなの羨望の的だったんだ。
それは厚手で無地のビニール製で全体が金色の(本当は黄土色)アルバムだった。
正直に言うとそれほどカッコいいもんじゃない。
白い文字で“スナック仮面ライダーアルバム”と会社名が書かれているだけで、絵も写真も描かれてないんだ。
でも、希少価値がある。
すぐにカードアルバムは紙製でライダーやサイクロンの絵が描かれたものに変わったんだ。
だからうちの近辺でこのアルバムを持っているのは僕だけだという噂になった。
事実はわからないけど、確かに見せて欲しいとか交換して欲しいって全然知らない子からも声をかけられた。
見せることはするけど、交換は絶対にしない。
だってあのケンスケでも持っていないんだもの。
カードの方は穴ぼこがちらほら。
それでも穴は少ない方だと思うよ。
ケンスケには負けるけどね。
あいつはあと3枚で古カードは揃うって豪語していたんだ。
さてさて、金髪の女の子、アスカのこと。
彼女の目的は何とライダーカードだったんだ。
女の子の癖に。
女の子二人が加わった晩御飯は賑やかだった。
母さんが「女の子が家にいるといいわねぇ」なんて言うと、父さんが大きく頷くんだ。
お客さんが来たためか、今日はカレーライスの上にチキンカツが鎮座している。
うちのは甘口だからごめんねと、母さんは愛想を振るけど僕じゃないぞ。
父さんが甘口カレーを好きなんだ。
それなのに僕の所為にされて、もちろん僕は不満で一杯だった。
だから膨れっ面をしながらも、カレーは好物だから一生懸命に食べたんだ。
それにしても、あのアスカは母さんと父さんには愛想たっぷりだ。
あんなに口が悪いのに、それは少し引っ込めて面白おかしく話をする。
よく考えると僕も父さんもあまりぺらぺら喋る方じゃないし、レイのやつも無口な方だ。
で、母さんはどうかって言うとよく喋る。
いつもは独演会に近いんだ。
僕たちが合いの手を入れるくらいの反応しかしないもんね。
ところが今日はアスカの所為で卓袱台の上を言葉が飛び交っている。
碇家としては滅多に見られない光景だ。
「へぇ、そうなの?林間学校でそんなことが?」
「そうなんですよ!レイったら、カレーのお鍋に入れるはずのにんじんをぽりぽり齧ってるの」
「まあ!レイはウサギの生まれ変わりだったのかしら」
「ふふふ」
「で、美味しいかって訊いたら、マヨネーズが欲しいって」
「あ、でもお塩でもけっこういけるのよ」
「えっ、お塩ですか!うう〜ん、試したくないかも」
「だけど、アスカちゃんとレイがよく仲良くなったわね。不思議な感じ」
「意地悪なヤツがいたから、それぞれ別々に戦ってて、で、共通の敵だから手に手を取ったんです」
「ふふふ」
「おおっ、まるでテレビの漫画みたいね」
こんな感じ。
因みに途中で挟まる笑いはレイのヤツ。
その間、僕と父さんは黙々と食べている。
食べ終わると自分の部屋に上がってしまいたかったけど、そんなわけにはいかない。
だって、今日はライダー2号がゲストで出てくるんだから。
うちの子は片付けもしないでどうこうという母さんの悪口には耳を塞ぎ、僕はテレビの前に陣取った。
チャンネルはもちろんNHK。
仕方がないんだ、土曜の7時からは父さんがチャンネル権を握っているからね。
でもさ、新聞読みながらだから見てるんじゃなくて聞いてるだけなんだ。
だから、交渉次第でチャンネルは変えさせてもらえる。
金曜日の7時にはは毎週「ウルトラマンA」を見させてもらってるんだ。
ビデオのない時代だから好きなものを見るのは大変なんだよ。
台所で母さんの手伝いをしているアスカは放っておいて、レイはちょこんと居間に座っている。
レイは手伝わないのかと訊ねたら、見かけと違って彼女は家庭的だからとピント外れの答えが返ってくる。
まあ、自分はする気がないのだという意味だろうとぼくは了解した。いつものことだし。
ようやく7時30分になって、チャンネルは開放された。
そして「仮面ライダー」が始まる。
僕はブラウン管に釘付けになり、いつの間にかすぐそばにアスカがやってきていたことに気づいてなかった。
その存在に気づいたのはコマーシャルになった時だ。
「ねぇ、アンタ。1号と2号、どっちが好き?」
いきなり問われて僕はうろたえただろうか。
いや、こういう質問なら即答できる。
「2号。でも、変身する人は1号」
「くわっ、何よそれ。そんなのありぃ?」
「私、滝が好き」
「滝は変身しないだろ、レイ。じゃ、君はどっちなんだよ」
僕は隣に座っているアスカに質問した。
すると彼女は僕と同様にすぐに返事したんだ。
「本郷猛。でも、変身ポーズは2号かなぁ」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、僕と変わらないじゃないか」
「へへへ、よく考えるとそうか」
「考えなくても一緒だよ……あ、始まる」
この女の子、案外悪いヤツじゃないかもしれない。
だって女の子の癖に「仮面ライダー」の話ができるんだもん。
ああ、そうだよ。僕はすこぶる単純なんだ。
で、単純な僕はその2時間後、むかっ腹を立てていたんだ。
その日、僕はキカイダーとデビルマンを堪能し、お風呂はレイたちの後にして、
すっかり満足顔でパジャマに着替えて自分の部屋に行ったんだ。
するとそこにはアスカとレイがすでに侵入していた。
レイが教えたんだと思うけど、僕のライダーカードアルバムをアスカが見ていたんだ。
ちょっとだけびっくりしたけど、例の黄金アルバム(ケンスケ命名)を褒められたもので僕は気をよくした。
ところがその後に彼女は僕にとんでもないことを言い出したんだ。
「あのさ、欲しいカードがあるんだけど」
彼女ははっきりと切り出した。
それはケンスケが初めて会う子に交換を申し出る時よりも決然とした態度だった。
その態度に僕は少し鼻白んだんだ。
だってまるで上級生が傘にかかって話をするような感じだったから。
同級生の癖に。僕より背は高いけど。
「ええっ、ライダーカードぉっ?じゃ、君は僕のライダーカードを狙ってきたの?」
「狙って…うう〜ん、確かに狙ってるか、これは」
「そ、そりゃあ、交換してもいいけど。どれ?」
「えっとねっ」
アスカはメモを取り出した。
「4、12、13、26……」
僕は呆気に取られてしまった。
全部で15枚もあって、それがすべて古カードなんだ。
しかもほとんどダブっているものがないときてる。
目をキラキラさせて僕を真っ直ぐに見ているアスカに気後れしながらも、僕は言わなきゃ駄目だと自分を叱咤激励した。
「ご、ごめん、ダブってるのは13と…」
「ここにあるじゃない!」
「い、いや、だから、これは1枚しかなくて」
「だからそれが欲しいのよ。お願い!お金ならあるからっ」
アスカはいきなりバッグからがま口を出した。
夜店なんかで売っているビーズで作ったあの派手なヤツだ。
その真っ赤ながま口を開けて、彼女は岩倉具視と伊藤博文を数人取り出したんだ。
「ち、ちょっと、待ってよ。お金って。こ、交換じゃないの」
「だって、もう交換するカードって新カードしか持ってないし。アンタ、新カードはほとんど持ってんじゃない!」
「そ、それはそうだけど、でもお金なんて駄目だよ」
「どうしても?」
「あ、当たり前じゃないか。レイ?レイからも何か言ってよ」
僕は逃げ道を探した。
だけど、いつの間にかレイは姿を消していたんだ。
そう言えば、アスカが欲しいカードというのを聞いていた時にすっと立ち上がったような気がする。
アイツ、こうなるのを知ってて逃げたんだ。
「レイはいないわよ。邪魔だから」
「じゃ、邪魔ぁ?」
「そうよ。カードとの交換や、売ってくれないなら、もうこうするしかないから」
「こ、こ、こうするって?」
「仕方ないわよね。どうしても譲ってくれないんだもん」
彼女はじっと僕を見つめた。
離している間に彼女は僕ににじり寄ってきていて、二人の目と目の距離はほんの50cmくらいだ。
殺される!
僕はそう感じた。
「お願いします!アタシに譲ってください!」
「助けてっ!」
至近距離で二人同時に頭を下げたものだから、結果は当然そうなるだろう。
ごつんじゃなくて、こぉ〜んという音だった。
涙が出てきた。
僕も彼女も同じポーズで頭を押さえている。
たんこぶになるかもしれない。
「こ、こらぁっ、なんでアンタまで頭下げるのよぉっ!」
「だ、だって」
「いったぁぁ〜いっ!アンタ、なんて石頭なのぉ?馬鹿馬鹿っ!」
大きな音とアスカの悲鳴に、馬鹿息子が何か仕出かしたのかといささか気の早い心配をした両親が下から駆け上がってきた。
まだ小学3年生だってば!
十数年後に両親からそのことを聞いて僕は憤慨したもんだ。
まあ、それはそれとして、アイスノンでおでこを冷やす僕たち二人は少し冷静になって話をしたんだ。
その結果、僕は彼女の望むカードを惜しげもなく提供したんだ。
もちろん、ただで。
だってあんな話を聞いたら、そうしないと仕方なかったんだ。
つい数日前、アスカの弟さんが目の手術をしたんだけど、入院する前にその子は願掛けをしたんだって。
仮面ライダーのカードが全部集まったら成功するって。
確かに難しい手術だからと2年間待ったらしい。
でもこのままにしておくと失明すると、手術に踏み切ることにしたんだ。
で、弟さんの願掛けの話をアスカは手術が終わってから聞いたんだ。
一生懸命に集めたんだけど、まだ38枚も足りないって明るく言う弟さんにアスカは誓ったんだ。
包帯を取る日までにお姉ちゃんが全部揃えてあげるって。
でも一週間は短い。
学校の知り合いとかに頼んで掻き集めて残りは15枚になったんだ。
だけど残りはあと2日。
せめて夏休みじゃなかったら。
せめて林間学校に行った時に教えてくれれば…って、思ったんだ。
もしかしたら失明するかもしれないと手術の前に自然を見せておきたいと、
アスカと二人で夏休みに入ってすぐに林間学校に参加したんだ。
その頃ならもっと走り回って探せたのにって悔やんだ時、林間学校で出会った友達のことを思い出した。
それがレイ。
楽しそうにカードアルバムを見せる弟さんにレイが言ったことをアスカは頭の隅っこに留めていたんだ。
私の従兄妹は黄土色のカードアルバムを持っているわよ。
えっ、それって凄くめずらしいアルバムなんだよ!すっごいなぁ、そのお兄ちゃん。
それだけの会話だったが、そんなに凄いアルバムを持っているならばとアスカはレイに連絡をとろうとしたんだ。
でも、この当時の事だ。
携帯電話もなければ、電話番号を交換するような風習もない。
レイとはただ住所を交換しただけ。
手紙を書きましょうねって。
アスカは豚の貯金箱を叩き割って、横浜から静岡のレイの家に向ったんだ。
それが昨日。
夜に到着したアスカはレイにその従姉弟、つまり僕の住所を教えてくれって頼んだ。
僕が住んでいるのは東京だ。
そして翌朝、レイはアスカの手を掴んで上りのひかり号に乗ったわけ。
乗車券はレイの親が買ってあげたそうだ。
もちろん、夜の間にアスカの親に連絡を取って安心してくださいって伝えた。
まあ、母さんのお姉さんだから、しっかりしていることは母さん以上なんだ。
こんな話を聞いて、交換だ、お金は駄目だ、なんて言えるわけないよね。
僕は無償で古カードを提供したんだ。
アスカはそんなの悪いって言ってたけど、僕だって男なんだ。
おれは男だ!なんて言いたい気分だった。
で、僕はアスカに14枚のカードを手渡した。
絶対に弟さんの目は見えるようになるって励ましながら、ね。
そう、14枚。
アスカが欲しいのは、15枚だった。
僕が持っていないカードがあったんだ。
No.73 『仮面ライダーのひみつ』だ。
2号ライダーが変身ポーズをカッコよく決めているカードなんだ。
どうして知っているかって言うと、僕はそのカードを持っていたんだよ!
でも、それがよりによってラッキーカードだったから、製菓会社に送ってそれはもうカードアルバムに変わってしまっていた。
その頃は送られたラッキーカードは返却されていなかったんだ。
だから、僕の手元にNo.73は存在しない。
その上、僕以上のコレクションを持っているケンスケも僕と同じだったんだ。
アイツもラッキーカードのNo.73だったんで、それが3枚しかない歯抜けカードの一枚だった。
僕はアスカに謝ったんだ。
こんなことならラッキーカードを送らなきゃよかったって。
アスカは笑ってた。
仕方がないわよ。それに残り一枚まで集めたんだから、神様も考えてくれるわよってね。
でも、僕は悔しかった。
きっとアスカもそうだったに違いない。
布団の中で僕は眠れなかった。
おまけにどうやら蚊が一匹入り込んでいるみたいで、蚊取り線香がレイとアスカの寝ている部屋に引越ししている以上、
自力で退治するか、血を吸われることに耐えるかどちらかしかなかった。
で、我慢強くない僕は蚊と戦うことに決め、照明を点けてパンパンと虚空で何度も拍手を打つことになったんだ。
その夜の『仮面ライダー』に出てきたのがモスキラスで蚊の怪人だったのは偶然かなぁ。
でも…。
アスカって強いよなぁ。
弟さんのためにこんなにがんばったんだ。
レイが言ってたけど、恥ずかしいから余計に態度や口が悪くなるんだってさ。
それって実際傍迷惑だよね。
残り一枚か……何とかしたいけど…。
あの黄金アルバムを弟さんにあげてよって言ったんだけど、
アスカは言葉だけもらっておくって断るんだ。
物凄く嬉しいけど、それはずっと家宝にして持っておかないといけないんだって。
よくわからなかったけど、どうもそこまでしてもらっても何も返せないってことらしい。
熱に見返りが欲しくて言ったんじゃないんだけどなぁ。
見返り…。交換…。
あ…。
ミニサイズのモスキラスとの戦闘中にふと僕は思い出した。
確かにケンスケはNo.73を持っていない。
でも、今日プールで別れる時にあいつは何と言っていた?
「これからな、●●小の校区へ行くんだぜ。もしかしたら残り全部揃うかもしれない……」
全部?
ぱんっ。
気持ちがケンスケの方に飛んだまま、無意識に叩いた掌には赤い点がぽつんとついていた。
僕は走った。
まだ8時になったばかりだけど仕方がない。
アスカがあと1時間で帰るんだ。
それまでに!
頼むよ、ケンスケ!手に入れていてくれ!No.73を!
ぬか喜びさせたくないから、アスカには何を言わずに出てきたんだ。
行け!走れ!サイクロン!
ペダル式のサイクロン号だから、たいしたスピードは出ないけど、
それでも頭の中のサイクロン号はマフラーから煙を吐いて疾走している。
もしかしたらこの時期、日本には男の子の数だけサイクロン号は存在したかもしれない。
16インチのサイクロン号はひた走った。
ケンスケは驚いた。
それはそうだろう。
手に入れたばかりのNo.73を寄こせといわれたんだもんね。
しかも交換相手はあの黄金アルバムなんだから。
でも僕の血相が変わっていたからだと思う。
ケンスケは笑って、わけを話してみろよと大人ぶった感じで言うんだ。
で、僕は喋った。
そういう理由だから彼女の弟さんにNo.73をプレゼントしたいんだって。
すると、ケンスケは黙ってアルバムからカードを引き抜いた。
「持ってけよ。アルバムはいらない」
「えっ、でも」
「俺を鬼にするつもりかよ、馬鹿」
ケンスケはカードを突き出した。
「お前だけ、いいカッコするなよ、な」
「い、いいの?」
「いいから、ほら行けよ。急いでるんだろ、え?」
「う、うん」
「また探せばいいことだぜ。そらっ!」
ケンスケに後押しされるように僕は自転車に跨った。
何度もありがとうを言って、ペダルを漕ぐ。
ケンスケに渡すはずだった黄金アルバムにNo.73はちゃんと挟んである。
これをアスカに渡すんだ。
これで古カードが全部揃う。
そうすれば、弟さんの目だって!
アスカもきっと喜んでくれる!
その時、自転車はサイクロン号に変身した。
僕の耳には爆音が聞こえる。
待っててね、アスカ!
話はここまでだ。
物語によくあるような、不幸な展開は何もなかった。
疾走する僕、いや、私は交通事故にも遭わなかったし、アスカの弟さんの手術は見事に成功したのだ。
不幸な展開はなかったが、幸福な進展は大いにあった。
高校の卒業後、私は、ある約束通りに、ある大学に入学し、ある金髪の娘と同期生になった。
その女性は通学に不便だからと、我が家の一室に下宿するようになり、
そして、そのまま今もこの家に姓を変えて居座っている。
二世帯同居となったが、このことを見透かしていたのか、元々空き部屋が多かった碇家は充分生活できる。
最後に一つだけ付け加えておこう。
平成の時代になって、ライダーチップスという名前でライダーカードが復刻された。
私と、私の妻と、そして私たち夫婦の子供たちは揃って目の色を変え、カードを集めたものだ。
相変わらず一人に一個しか売ってくれない、我が家のおばあちゃんから買った、子供たちがラッキーカードを当てた。
結局、家族五人でがんばったがラッキーカードは子供たちが当てた3枚きりだ。
私は苦笑した。
あの母もやはり孫には甘いようだ。
陰でこっそりライダーチップスを買い与えているに違いない。
厳重に口止めして、私と妻には知らぬ顔をしているが。
しかし、どうやら私のラッキーカードはあの頃で打ち止めのようだ。
よく考えると、あの最初の一枚をラッキーカードで引いていなかったらどうなっていたのだろうか。
もしかすると、永久に彼女と出逢っていなかったのかもしれない。
よくぞ、あれを選んだものだと、あの時の私が目の前にいたら頭を思いっきり撫でてやりたい。
そんなことを思うのは、幸福だからなのか、歳を食ったからか。
まあ、いい。どちらでもいい。
もしあの時、からかう父の言うとおりにもう一枚のカードを選んでいたら、私は当然、黄金アルバムを手にしていない。
そしてラッキーカードを当てたと興奮して触れ回らなければ、ケンスケもあそこまでライダーカードにのめりこんでいなかったかもしれない。
そうすれば彼に引きずられるようにして、私が一生懸命にカード収集することもなかっただろう。
と、なればレイが林間学校で話題にすることもない。
結果的に、その時、私たちは出逢っていないわけだ。
もちろんすべて偶然の積み重ねだとは思うが…。
それでも運命の不思議さを思わずにはいられないんだ。
しかし、妻はこともなげに言ってのけた。
「馬鹿らしい。どっちにしても、あなたと私はこうなってたのよ。運命の二人だったのだから」
どっちにしても運命じゃないか、とは私は言い返さなかった。
その代わりに昼下がりのコーヒーを頼んだ。
すると妻は澄ました顔で言ったのだ。
「もうできてます。呼びに来たの。そうしたら、間延びした顔でライダーカードを眺めてるんですもの。ほら、冷めるわよ」
さっさと背を向けた妻に私はついていく。
ただし、リビングボードの飾り棚に、あの黄金アルバムをきちんと戻してからだ。
そこに飾ろうと言い出したのは妻の方だった。
彼女はあの後、何度もライダースナックを買ったが一度もラッキーカードを当てることはできなかったと言う。
ところがアスカは誇らしげに言うのだ。
「私のラッキーカードもあれが最初で最後だったのよ。
人生最高のラッキーカードを引いたのだから、神様はもう打ち止めにしたんだわ」
さて、“あれ”とは私のことで正解なのだろうか?
(おわり)
<あとがき>
ライダーカードの解説は不要でしょうが、あの熱気は私の筆では追いつきませんね。
確かにあちこちで未開封のライダースナックが捨てられていました。今でも充分問題になりそうです。
私はやや遅れて集めだしたのでラッキーカードを当てることはできましたが、普通のカードアルバムでした。
ただホワイトアルバム(黄土色でなく白色ベース)のものなら見たことがありますけど。
で、交換するために知らない子の家に行くことも何度もありました。
○○(地名)の誰某は何番を持っている。とかの情報が小学校を駆け回ってましたね。
因みに最初期の豪華アルバムは中のホルダーもビニール製なので、カードがくっつくんですよ!
それで破れてしまうこともあったんです。その少し破れたのを交換(低レートで)してもらった記憶があります。
余談ですが、ラッキーカードは最初のうちは返却されませんでした。まさに交換だったわけです。
でも子供の要望が多かったので済みマーク(赤の○印だったか)つきで、返却されるようになりました。
No.73についてはどっちだったか覚えてません。ごめんなさい(汗)。
最初は後日譚として居酒屋でシンジ、ケンスケ、トウジの3人が小学校時代を振り返っているというラストでした。
最高殊勲者は俺じゃないのか?とケンスケが絡んだり。
そのカードを持って帰ってきたシンジが白馬の王子様のようにアスカには見えたとか(トウジの奥さんからの情報)。
そういう会話だけでかなり長くなりそうなので、やめました(笑)。
ウルトラマンA
の変身をシンジとアスカで真似て遊ぶ場面は残したかったのですが、
弟の手術のことを内心気にしているアスカにそういうことをさせられなくて断念。
またどこかの話で、北斗と夕子なり、番長とがり勉なり、演じていただきましょう。
余談で説明。
三波春夫=国民的歌手で「お客様は神様です」と言った人。
ジョン・ウエインの声はムラマツキャップで立花のおやっさん=アメリカの国民的俳優の吹き替えの声は小林昭二。
岩倉具視と伊藤博文=500円札と1000円札の人。
感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちらへ 掲示板も設置しました。掲示板はこちら |