昭和短編集


この本、
貸してあげるわよ

ー 1974 晩秋 

 


 2006.11.12        ジュン

 
 







「ちょっと、馬鹿シンジっ」

 彼女の声に僕の胸はびくっと震えた。
 但し、その震え方はこの夏までの震え方とは大いに違う。
 それまではどちらかというと…いや、明らかに“脅え”ってヤツだ。
 何か悪戯されるのではないか、因縁でもつけられるんじゃないか。
 そう。町中を歩いていて、行く手にたむろしている不良連中にでもからまれるのではないかって、胸をドキドキさせられるあの感覚。
 そんな印象を持たされてしまうのが幼馴染の声なんだ。
 もともと男子相手には乱暴な喋り方の彼女だけど、何故かしら僕には特にかなり酷い口調になる。
 彼女の友達からたしなめられるほどだ。
 何しろ彼女とは物心ついた時からの腐れ縁だ。
 家が隣り合わせで母親同士が大の仲良し。
 従って同い年の幼児は性別が違っていてもいつも一緒に遊んでいたというわけだ。
 ただし小学校に入れば5クラスに生徒が50名弱。
 二人が同じクラスになったのは3年生の時に一度だけだったんだ。
 で、その時には僕は嬉しいなんてこれっぽっちも思えずに物凄く嫌な気分になった。
 だってアイツって乱暴だし、僕のことは名前を呼び捨てだしさ。
 だから4年になって違うクラスになった時は嬉しかったよな。
 中学になったらクラス数は10。
 もちろん彼女とは体育すら一緒にならない1組と8組。
 それについては何の感慨も持っていなかったんだよね。

 ところが、なんだ。

 2年に進級したら僕は3組で彼女は4組。
 体育の授業は二クラス単位だから特殊な場合は男女一緒に同じ授業を受けるときがある。
 水泳がそうだった。
 どうしてだかわからないんだけど、3回目の水泳の時間に、
 僕は幼馴染に恋をしてしまったんだ。
 それがプールサイドで彼女の水着姿を見た途端に、胸がドキドキして。
 しかも何故か準備運動をしている時の後姿で。
 ぴょんぴょん跳んでいるすらりとした足をぼけっと見ているうちにね。
 それからはというものは彼女の姿や声に心がときめいて。
 幼馴染に恋するなんて変かなぁ。
 こんなことになるなら小さい時にもっと仲良くなっておくんだったよ。
 もう遅いけど。
 結果的に言うと、彼女は同学年で多分一番の人気者。
 僕はその他大勢でラブレターやバレンタインのチョコレートなんか一度も貰ったこともない。
 つまり、月とすっぽんが隣り合わせに住んでいるってことなんだ。

 前置きが長くなっちゃった。
 彼女に声をかけられたのは放課後だったんだ。
 僕は理科室の掃除担当でゴミを焼却炉に運んで一人で教室に戻ってきたところ。
 帰宅部だから鞄を持って早々に家に退散しようとしていた。
 その時だった。
 “馬鹿シンジ”と呼びかけられたのは。
 びくんと震えた胸を落ち着かせて、僕はさりげなく振り返った。
 ああ、綺麗だ。
 ほんの数ヶ月前まではそんなことこれっぽっちも思っていなかったのにね。
 金髪に青い眼。
 すらりと伸びた脚をぐっと踏ん張って、腰に手をやって僕を睨みつけている。
 うん、いつものと同じポーズだ。
 見た目が明らかに白人だけど、僕の幼馴染は生まれも育ちも国籍も日本。
 だから嬉しいことに僕と同じ学校に通っているというわけだ。
 くどい様だけど数ヶ月前までは全然そんなこと思ってなかったけどね。

「何ぼけっとした顔してんのよ」

「え、えっと…」

 最近は特に言葉が出てこない。
 彼女を好きだと自覚してから、ことさらに慌てふためいてしまう。
 もっともいつだってすらすら立て板に水で喋ることのできる僕じゃない。
 彼女とは正反対だ。

「何か用、アスカ?」

「はんっ、用があるからわざわざ待ってやってたんじゃない。ほら、これっ」

 加速装置でもついているのではないの?
 どうすれば5mの距離をあっという間に目の前までやってこられるんだろう。

「貸してあげるわよっ!」

 顔の前にぐぐぐって突きつけられたのは一冊の本だった。
 差し出されたものを手に取ってしまうのは条件反射ってヤツだ。

「こ、これ、何?」

「アンタ馬鹿ぁ?本に決まってんじゃない!じ、じゃあねっ!」

 登場も唐突だったけど、退場もいきなりだった。
 迫ってきた時とは大違いで、ばたばたとした足音も高く彼女は廊下へと飛び出していった。
 アスカの身体が見えなくなるまで戸口を眺め、それから手にした本を見下ろす。
 
「飛び出せ青春……あ、続?」

 装丁には赤色の帯もついていて写真が載っている。
 その写真には懐かしい三人が写っていた。
 河野先生と…女の先生と…えっと、石橋正次か。
 いい加減な記憶に苦笑する僕だった。
 二三年前に大好きだったテレビドラマだ。
 落ち零れの生徒たちと型破りの先生の青春もの。
 確かアスカもその番組が大好きだったけど、小説なんか持ってたんだ。
 僕なんか「飛び出せ青春」の小説版があるなんてことすら知らなかったよ。
 どうして彼女がその本を読めと言ってきたのかということなど考えもせずにペラペラとページを捲ろうとする。
 すると真ん中の方に何か挟まっていることに気づいた。
 そういえば本が少し膨らんでいるような気がしてた。
 挟まっていたのは、蛍光ペンだった。

「わっ、これ!」

 僕は少し震える指先でそのペンをつまみあげた。
 笑わないで貰いたい。
 蛍光ペンというものはこの9月に発売されたばかりの新製品だったんだ。
 それにこの時には“蛍光ペン”という名前はない。
 トンボ鉛筆の“暗記ペン”で蛍光色というのが正確な名前だ。
 恐る恐るキャップを取ってみる。
 顔を覗かしたのは目にも鮮やかな黄色のペン先。
 
「こ、こんなのになってるんだ」

 ボールペンともシャープペンとも違うし、マジックペンとも全然違う。
 不思議な感じのペン先に僕は見とれた。
 その時、廊下から声が聞こえてきたので、僕は慌ててペンと本を学生鞄に入れた。
 もし顔見知りにこのペンを見られたら使わせてみろと言われるに決まっている。
 とんでもない。
 アスカの蛍光ペンなのだから誰にも使わせてなるものか。
 僕は鼻息も荒く学生鞄を抱きしめると教室を飛び出した。
 さっきの彼女のように。




 只今と言うが早いか、二階の自分の部屋まで駆け上がる。
 扉に鍵はないからしっかりと閉めて、学生服も脱がずに机に向う。
 そして鞄の中から本と蛍光ペンを取り出し、そっと机の上に並べたんだ。
 僕は腕を組んだ。
 アスカの真似をして、ね。
 小さい頃ゲームをしていて僕が考え込んでしまったら、彼女はこうやって腕を組んで「早くしなさいよっ」って言ったものだ。
 机の上の本と蛍光ペン。
 「貸してあげるわよ」と言って渡されたのが本で、その中に挟まれていたのが蛍光ペンだよね。
 これはアスカに貸してもらったのは、本なのか、蛍光ペンなのか。
 うぅ〜ん、どっちだ?
 もしこれがボールペンとかシャープペンなら、まず本の方に違いないって思うんだけど。
 何しろ最新製品でまだ僕は見たことのない蛍光ペンだものね。
 もしかすると僕に見せびらかすために…って、もしそうだったらアスカのことだから僕の目の前でぶらぶらさせて渡してくれないような気がする。
 うん、きっとそうだ。
 じゃ、これは単純に本に挟んでしまっただけなのだろうか。
 でも、小説だよね、これ。
 参考書じゃないんだし、蛍光ペンを使って暗記だなんて。
 はたと思いついて僕は本の中身を確かめてみた。
 カバーが「続・飛び出せ青春」なだけで中身は別のものかと思ったんだけど、それは間違い。
 う〜ん、やっぱり本を読めってことなのかなぁ。
 でも、どうして“続”なの?
 わけわかんないや。

 わけがわからないままに、僕は読み始めた。
 そうするしかなかったもんね。
 第一話は「北海道へ着きました!」だった。
 ああ、そうだそうだ。北海道で合宿する話があったっけ。
 そんなことを思い出したら、もうすっかり文章に引き込まれてしまった。
 読んでいると何となく場面が浮かんでくる。
 うんうん、山本に柴田に片桐だ。
 ああ、そうだ、石橋正次の役名は高木勇作だったんだ。
 どんどん思い出してきたぞ。
 高木の恋人になるのが生田みどりで、あの女の子は気が強かったよなぁ。
 でもアスカの方が間違いなくもっと気が強そうだけど。
 そうそう、森下真樹って凄くスタイルがよくて、いつも先生を困らせてたっけ……。
 アスカもあれくらいボインになるんだろうか?
 おっとっと、そういう妄想は夜になってからだ。
 あれ?
 
 僕の目がとまったのは、19ページ目だった。
 ページの中ほどにぽつんと黄色が見えたんだ。
 “お前たちにハッキリわからせてやる”って河野先生が言うんだけど、そこの“ハ”の部分があの蛍光ペンで塗られている。
 ハッキリ言って意味不明だ。
 もしかして読んでいてここに落としてしまったとか?
 アスカって確かペンを口に咥える癖があったはずだ。
 でも小説を読むのに蛍光ペンの蓋を開けて口に咥えるか?
 そんなことするわけない。
 だがそこで、僕はさっと後ろを振り返った。
 扉は固く閉ざされている。
 いや、もしかすると母さんが廊下にいるかも。
 抜き足差し足忍び足。
 音がしないように扉を開けて顔を突き出す。
 二階の廊下には人影はなし。
 一階から微かにラジオの音が聞こえる。
 母さんがいつも聴いている番組だ。
 ごくりと唾を飲み込もうとしたけど、喉はからから。
 僕は扉を音がしないようにきっちりと閉めて、再び抜き足差し足忍び足。
 椅子をがたごと言わさないようにそっと座り、大きく息を吐き出した。
 視線の先は蛍光ペン。
 そのペンをそっと手にすると、僕はゆっくりと持ち上げたんだ。
 そしてキャップの方を唇に近づける。
 微かに先が触れた時、びっくりしてペンを離した。
 何かビリッときた様な気がしたんだ。
 大きく深呼吸して、それからセカンドランナーを振り返るピッチャーのように肩越しに扉をチェック。
 よし、行くぞ。
 ぱくん。
 さすがに舌で嘗め回すなんてできないよ。
 小学校時代の彼女がしていたように咥えたペンを唇を使って上下させたりして悦に入る。
 よし、間接キス成功!
 まあ、アスカがこの蛍光ペンでいつもの癖を出していたかはわからないけど、まあいいや。
 にんまり笑っていると母さんの声が扉越しに突入してきた。

「シンジ。ちょっとお隣にお砂糖借りに行ってくるわ。すぐ帰ってくるから」

「う、うんっ。わかったっ」

 慌てて返事をすると、当然咥えていたペンはニュートンの主張通りに下へ。
 ぽとりと畳に落ちた蛍光ペンを拾い上げ埃を吹き飛ばそうと顔の前に持ってくる。
 
「うわっ」

 叫んでしまったのも当然だ。
 びっくりした時に思わず噛んでしまったんだろう。
 キャップの先の方に歯型がついてしまっている。

「ど、どうしよう」

 立ち上がって部屋の中を3周ばかり徒競走。
 それから東側の壁を力なく見つめた。
 そっちの方角にアスカの部屋があるんだ。
 そして、ああ…と頭を抱える。
 そのままのポーズで逆回転し、5周ほど行進した。
 その上でもう一度キャップを見るけど、部屋の中を駆け巡ってももちろんそれで魔法が起きるわけもない。
 キャップの歯形は消えはしない。
 はああああ…ととびっきり盛大な溜息を吐いて、よろよろと椅子に腰掛ける。
 もうおしまいだ。
 僕はがっくりとうな垂れて、ぼんやりと本の表紙を眺めるしかなかった。
 
 結局、その後本を読むことしかできなかったんだ。
 僕の得意な“とりあえず結論はあとまわし”ってヤツだ。
 我ながら情けないことこの上ないけどね。
 母さんはまだお隣から帰ってこない。
 あの人の“ちょっと”は少なくとも1時間以上なんだ。
 もう6時を過ぎてるから、しばらくするとどたばたと大騒ぎして晩御飯を準備しだす頃だ。
 はぁ。
 主婦って気楽でいいよ、まったく。
 そんなことを思いながら暗い気分でもう一度最初から読み始めたんだけど、
 好きだった番組の小説だから次第に本に引き込まれていったんだ。
 だって記憶と違う話の展開があったり、重要な登場人物が出てきていないことに気がついたりしたからね。
 県立高校から転校してきた木次がいないんだ。
 北海道に着いてヒッチハイクをした時におならをしたのは木次の筈だよ。
 どうしてなんだ?なんて思っていると、キャップの歯形のことを忘れてしまったんだ。
 それが再びそのことを思い出してしまったのは、また途中で黄色い蛍光色があったからなんだ。
 しかもそのページには3箇所も。
 “ロ”、“ー”、“バ”……。
 ローバ?老婆?わけわかんないよ。
 まあ、いいや。
 アスカって何考えているかわからないのは今に始まったことじゃないしね。

 その後もぽつりぽつりと黄色のマークがあったけど、
 とりあえずそのことは無視することにした。
 話が面白かったからね。
 出てこないっておかしいと思っていた木次も第三話で転校してきた。
 ああ、こういう話があったよなぁなんて時間を忘れて読みふけっていたら、母さんに急襲されちゃった。

「早く食べなさい!もう7時よ!」

「えっ!」

 学習机のスタンドの明るさで気がつかなかったんだけど部屋は真っ暗。
 天井の照明を点けていなかったんだ。
 それだけ集中していたってこと。
 おかげで母さんに嫌味たらたら言われちゃったけどね。

 勉強もあれくらい集中してくれたらいいんだけど。
 漫画?え、小説ですって?まあ珍しい。で、誰が書いてるの?
 知らない?あらまあ、そうなの。変な子。

 別に相手をしてるつもりはないんだ。
 でも母さんにかかっちゃ、いつの間にかちゃんと話をしているんだよ。
 まるで刑事コロンボか山さんみたいだ。
 きっと刑事になったら名刑事になっていたと思う。
 でも、拳銃を持たしたら案外乱射してるかもしれないなぁ。

 僕だって母さんに負けていられない。
 母さんが行っていたのはお隣さん。
 つまりアスカの家だ。
 好きな女の子がどうしているか。
 いや、今日の行動の意味とかがわかったりしないかと思ったんだけどね。
 結果的にはまったくわからなかった。
 母さんの口からアスカの名前が出てきたのは唯一度だけ。
 
「そういえばアスカちゃんも本読んでたわね。シャーロック・ホームズだったわよ」

 これだけ。
 過大な情報、ありがとうございます。



 食後もすぐに部屋に戻って読書の続き。
 あと1/5くらいだからね。
 結局、読み終わったのは9時前になっていた。
 母さんに早く入れと連呼されていたお風呂に入り、ゆったりとした気持ちで机に向った。
 ああ、いい話だった。
 最終回はテレビとは全然違ってクリスマスパーティーで。
 だけど最後の最後にテレビと同じ場面が出てきたんだ。
 それも最終回じゃなく、途中の話で休学になる高木が教室で友達たちの計らいで幼馴染のみどりと結婚式を挙げる。
 木次が牧師をして凄く盛り上がった場面だ。
 そこの部分が小説の最後になっていた。
 僕はそれが凄く気に入ったんだ。
 だってそうじゃないか。
 幼馴染同士で結婚する。
 うんうん、いい話だ。
 お風呂の中でも鼻歌交じりだったもんね。
 歌詞を忘れたから適当に誤魔化した“太陽がくれた季節”を歌ってたんだ。
 「飛び出せ青春」の主題歌なんだ。
 そうだ、アスカがレコードを持っていたっけ。
 本を返したときにレコードを貸してもらうなんていい考えじゃ…ない…か…。
 思考が止まったのは机の上の蛍光ペンが目に入ったからだ。
 キャップの歯形はもちろん消えていない。
 ああ…。
 アスカに怒られる。
 きっと弁償しろって…。
 あ、そうだ。
 壊したとか言い訳して新しいの買えばいいじゃないか。
 いくらだっけ?
 確か100円もしなかったと思うけど…200円くらい残ってるはずだ。
 今月分のお小遣いの残金を確認し230円あることに僕は大満足。
 壊したって言えばアスカは絶対に怒るだろうけど、キャップに歯形をつけただなんて知られる方がもっと恐ろしい。
 絶交だって言われるかもしれないもん。
 それだけは困る。
 あ、そう言えば、来月はアスカの誕生日じゃないか。
 何かプレゼントしてちょっとでも僕のことを好きになってくれるように…。
 うんうん、これはいい考えだ。
 最近のアスカが一番好きなのって何かなぁ。
 
 さっきまでの煩悶はどこへやら。
 うきうきしてきた僕は本を手に取った。
 そして、急に思い出したんだ。
 蛍光ペンで塗られていた文字のことを。
 全部で30箇所くらいあったよね。
 心が軽くなったおかげで、僕は全部の文字をチェックしてみることにした。
 アスカのことだから何か悪戯しているかもしれないし。
 引っかかってあげないとね。
 喜ばせてあげるといいことがあるかもしれないし。

 僕はマーキングされた文字を一つずつノートに書き出していった。

 “ハ”…、“ロ”、“ー”、“バ”…、“カ”…、“シ”…、“ン”…、“ジ”…。
 ほらね、やっぱりそうだ。

 ハローバカシンジ。

 はいはい。
 こんにちは、僕は馬鹿シンジですよ〜だ。
 さてさて次は何かな。
 文字を追っていくうちに、うきうき気分はさらに盛り上がってしまった。
 だって、こうなんだよ。

 私 は シ ン ジ の こ と が 大 

 だ、大、大好き じゃないのかぁっ!
 その次の文字を探す僕はまるで狂っているかのように見えたと思う。
 だって仕方がないじゃないか。
 ところが67ページの“大”からなかなか次の文字が出てこない。
 ページが破れるんじゃないかという勢いで僕は探した。
 そして、ようやく152ページの二つの文字に黄色のマークがあったんだ。

 嫌い

 はぁっ……。
 やられた。
 やられました。
 さすがはアスカだよ。
 僕の心を見事にもてあそんでくれた。

 大嫌い だって言いたいがためにこんなに回りくどいことをしたの?
 多分違うと思う。
 きっと蛍光ペンを手に入れて悪戯を思いついたに違いない。
 で、その相手に選ばれたのが僕なんだ。
 光栄です。
 でも、まだ黄色が一杯あったよね。
 どこだっけ。
 次のマークは早速捲ったばかりの場所にあった。

 じゃ な く

 そして、その隣のページにも。

 て 、   

 私はシンジのことが大嫌いじゃなくて、

 じゃなくて…。
 じゃなかったら何なんだ!
 またページを捲る指先に気合が入ってきた。

 その10ページ後に“大”。
 さらに12ページ後に、また“大”。
 またまた12ページ後に、“大”。
 結局、204ページまで“大”が10個並んだ。

 また悪戯だ。
 悪戯に決まっている。
 絶対にそうなんだ。
 そう思いながらも期待に胸はどんどん膨らんでいく。

 そして“大”以外の文字がやっと出てきた。
 204ページから離れること遥か72ページ。
 その282ページの3行目に黄色のマークがしっかりと引かれていたんだ。

 “………しみこんだちくわぶが大好きでね、庶民の味だよ……”という校長先生の台詞。
 そこの“大好き”に黄色の蛍光色があったんだ。

 僕は息を飲んだ。
 飲んだまま吸うのも忘れた。
 でもぶっ倒れはしなかったことからすると、どうやら本能的に身の危険を感じた身体の方が勝手に呼吸をしてくれたようだ。
 
 もう一度、僕はマークを確かめる。
 確かに“大好き”だ。
 それから、ゆっくりとその後のページを確かめる。
 もしかしたら、これも悪戯でまた“だと思う?”とか“のはずないでしょ”だなんて文字があるかもしれないからね。
 でも、それは杞憂だった。
 最後のページの近刊ご案内までチェックしたけどどこにもない。
 いや、念には念を入れてカバーを捲って調べてみたら、とんでもないものを見つけてしまったんだ。

 白いカバーを捲って、クリーム色の裏表紙を見てみると、そこには彼女の名前が書かれていたんだ。
 見慣れた彼女の自筆で、万年筆を使ってしっかりと。

 碇アスカ ってね。

 僕は奇声を発し、階下で父さんの帰りを待つ母さんを驚かせた。
 あとで聞くとまるで動物か何かの叫びにしか聞こえなかったんだって。
 いいよ、何でも。
 舞い上がってしまった僕を誰も止められやしない。
 僕は机の上のカバーをひん捲った本と蛍光ペンを持って部屋を飛び出した。
 行先はどこかって?
 そんなのいちいち書かなくてもわかるだろっ。
 僕は階段を最高速度で駆け下りると玄関をあっという間に突破した。
 そして徒歩10秒の隣家まで3秒で到着。
 ベルを鳴らすのもまだろっこしくてそのまま門を抜けてアスカの家の玄関の扉を叩いたんだ。
 どんどんどんどん!
 ドアの鍵は掛かっている。
 ごそごそノブを回している僕に扉の向こうからやけにしおらしげな幼馴染の声が。

「誰?」

「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく!僕だよ!僕っ!」

 ああ、こんな大事な時になんて情けない台詞しか言えないんだろう。
 
「シ、シンジ?」

「そ、そうっ。碇シンジ!僕、シンジだよ!」

 どうしてもっとロマンチックな言葉が言えないんだろうか。
 これからはもっと本を読もう。
 かちゃりと音を立てて鍵が外され、そしてノブがゆっくりと回った。
 そして扉の隙間からアスカの顔が覗く。
 
「どうしたの?いったい」

 うわぁ、何だよ。
 これがあのアスカ?
 信じられないほど可憐に見える。
 いつもの甲高い声で叫ぶように喋るんじゃなくて、おずおずと小さな声で、しかも少し俯き加減に喋るんだ。

「あ、あ、あの、ほ、本!」

 しまった。
 カバーを外したままじゃないか。
 おまけに突き出した表紙がしっかり“碇アスカ”と書かれた側で。
 慌てた僕以上に慌てたのが彼女だった。

「ば、ば、バカ!見たのねっ」

 あらま、あっさりいつものアスカだ。

「ご、ごめん!で、でも、それより、中が!黄色!黄色の蛍光が!」

 支離滅裂の僕の言葉をアスカはちゃんと理解したようだ。
 頬が真っ赤に染まって、くるっと背中を向けてしまった。

「アスカ?」

 答えてくれない。
 僕は玄関の中に入った。
 手の届く場所にアスカの身体があるけど、もちろん触れることなんかできるわけがない。
 僕はもう一度話しかけた。

「アスカ。これって悪戯じゃな…」

「返事」

 ピンクのパジャマの背中が短い言葉を返してきた。
 今さらながらに気がついたけどアスカはパジャマ姿だったんだ。

「え?」

「返事は?」

 おお…。
 碇シンジ、人生最大の場面がやってきた。
 人生ゲームの貧乏農場か億万長者かなんて目じゃない。
 僕はこの短い時間で一生懸命に考えた。
 なんと言えばいいか。
 そして結論を出したんだ。
 人の手助けを借りようってね。
 僕は本を開いた。

「汝は僕を夫として愛し、いたわり、尊敬し、生涯を共にすることを誓いますか」

 そう。小説の最後の場面の台詞だ。
 高木勇作のところを“僕”に変えたんだ。
 彼みたいにカッコよくないけど、僕の最大の賭けなんだ。

「ちょっと馬鹿シンジ。いきなり結婚の誓いなの?」

 声高ではない。
 それに肩が微かに震えている。
 
「う、うん。だって、そうしたいから」

 嘘じゃない。
 小説を読んだ時、自分とアスカをダブらせてしまったもん。
 まだ中学生だって思うけど、もう大人料金なんだ!

「まだつきあってもいないのに?まだ中学生なのに?」

「だってずっと一緒じゃないか。3年生まで一緒にお風呂にだって入ってたじゃないか」

 ばしっ。

「痛っ!」

 後に目があるんだろうか。
 彼女の右足が僕の右のすねを蹴飛ばしてきた。
 器用なもんだ。

「そ、それにアスカは人気があるから今から予約してないと絶対に僕なんて…」

 これが一番の本音だと思う。

「あのね、いいこと教えてあげる。
 二学期が始まった頃にね、アンタのクラスの女の子がアンタに告白しようとしてたのよ。
 それがアタシの情報網に引っ掛かってさ。
 穏便に説得してあきらめさせたの」

「えっ、誰が?」

 ばしばしばしっ。

「痛いっ!」

 すねに三連発を喰らって僕は思わず蹲ってしまった。
 下駄じゃなくてサンダルでよかったとつくづく思う。

「調子に乗るんじゃないわよ。まったく。
 アンタみたいなヤツに興味を持つなんて、とんでもなく趣味の悪いのがどうしてやたらに出てくるのよ。
 おかげでアンタに告白させるつもりでずっと待ってたのにさ…」

 碇シンジ、起立!
 こいつはびっくり。
 いや、趣味の悪いのがやたらにってところじゃないよ。
 アスカがずっと待ってたってところ。
 当たり前じゃないか。

「ご、ごめん」

「ま、まあ、いいわ。アタシは別に告白もしてないし、ラブレターなんかも書いてないもん」

「え、じゃこれは…」

 本を顔の高さに差し上げたその時、アスカの身体がくるっと回転した。
 その一瞬で本は彼女の手中に。
 
「あっ」

「証拠は?はんっ、証拠もないのに変なこと言うんじゃないわよ」

「そ、そんな…」

「無謀にもこのアタシに告白して来た幼馴染がかわいそうだからつきあってあげんの。
 断ったら自殺しそうな顔だったから仕方なしにってことよ。ふふふん」

 これがアスカなんだ。
 こういうヤツなんだ。
 そういえば初めて遊んだ時もアスカの分のおやつを自分から僕にくれたのに、
 僕の母さんには「ほしいっていったからあげたの」ってしゃあしゃあと言ってくれたっけ。
 おかげで母さんには怒られたっけ。
 こんないやしんぼに躾けた覚えはありませんって。
 いやしんぼでも何でもいいや。
 
 この後、家の外と中とで聞き耳を立てていた母親二人に乱入されて、
 僕とアスカは散々冷やかされたんだ。
 とにかくこれが僕たちが異性として交際をはじめた第一歩だった。
 言うなれば、偉大な一歩ってアレだよ。

 え?
 蛍光ペンはどうなったのかって?

 アスカの家の応接間で紅茶をご馳走になってから家に帰る時だったんだ。
 あ、母さんはとっくの昔に愛する父さんの出迎えをするために帰宅していた。
 キョウコさんも気を利かして食堂か居間かに引っ込んでくれてたんだ。
 で、玄関で照れながら互いに「おやすみ」と「またね」を繰り返してた時だった。
 アスカが僕のパジャマのポケットに入っていた蛍光ペンの存在にようやく気がついたんだ。
 いや、僕はすっかり忘れてた。
 人生最大の舞い上がり状態だったんだもん、仕方ないよ。

「あ、シンジ。アタシのマーカー返してよ」

「えっ、あ、あ、あ、こ、これは、そ、その、あれだよ、うん、えっと、壊したから弁償するんだ、うん、弁償」

 我ながら嘘が下手だ、下手すぎる。
 おまけに渡すまいとした蛍光ペンをいともあっさりと彼女に奪われてしまった。
 アスカはキャップを抜いてしげしげとペン先を見るが当然別におかしくはない。

「何よ、別に変じゃないじゃない」

「そ、そうだろ。だ、だからいいじゃないか。返してよ」

「アンタ馬鹿ぁ?アタシのペンよ。ど〜してアンタが…」

 そこで言葉が止まった。
 アスカ歴13年の僕ならわかる。
 何と言っても互いの名前すら発音できない頃からの付き合いなのだ。

 感づかれた!

 アスカはゆっくりとキャップをはめて、そしてまじまじと蛍光ペンの頭を見る。
  
「ふぅ〜ん、そういうことか…」

 彼女の視線はキャップの先に。
 気づくよね、気がつくよね、だって僕の位置からも見えるんだもん。
 アスカが僕を見た。

「残念でした。これはまだ一回も咥えてないの」

「そ、そうなんだ。は、はは…」

 本当に残念だ。
 絶対に間接キスだと思ったのに。

「ばぁ〜か。アンタはやっぱり馬鹿シンジよね」

 アスカの言葉に苦笑した僕の頬が凍りついた。
 だって、彼女はじっと僕を見つめながら…。
 歯型のついた蛍光ペンをいつものように唇へ。
 
 この日からその蛍光ペンは二人の宝物になったんだ。
 中のインクがすっかり乾いてしまっても。



(おわり)





 


 

<あとがき>
 

今のように蛍光ペンがあることが普通な時代ではあの時の衝撃は想像もできないでしょうね。
暗記用のマーキングは色付きのボールペンやマジックペン、ああ、一番多かったのは赤鉛筆かな?
そんな環境下で突然現れたのが、トンボ鉛筆の暗記ペン蛍光色一本70円でした。
色は黄色/桃色/橙色/黄緑色。今と変わりませんね(笑)。
さて、今回のもう一つの主役である本の方。
日本テレビ刊読売新聞社発売の「続・飛び出せ青春」です。
村野武憲、酒井和歌子、石橋正次主演の青春ドラマのノベライズです。
実はこの本を購入したのはほんの数年前。当然古本でした。
でも読んでみてびっくり。こんなに内容を変えているとは…。
「太陽にほえろ!」のノベライズは殆ど放送内容と同じでしたが、これはまったく違う。
いえ、違う印象が強いんです。何よりもスケジュールの都合がつかず第1クール以降はゲスト的にしか出演できなかった
石橋正次=高木勇作がどんどん出ているんです。それだけでも全然印象が違う。
おまけに最終話を13話の「さらば高校5年生」にしてしまって…。
つまり主役は河野先生ではなく生徒たちということ。
バランスを生徒寄りにしたことで作品の印象がかなり変わったんです。
ここのところは創作の参考になりましたね。
「飛び出せ青春」が好きだった方は是非一度読んでみてください。
もっとも古本屋さんかオークション頼りになってしまうことは間違いないですけどね(鬼)。

 

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