「アスカったら、意外に我慢強いのねぇ」

 マナは感心した風に言った。

「甘いわね、マナは。アスカは逆に喜んでるのかもよ。噂を既成事実にして碇君と…ってね」

「わっ、アスカ凄すぎ!ほんとう?」

 目を輝かせるマナに対し、アスカはわざとらしい溜息を吐く。

「馬鹿ね。アタシはそんなに大人の女性じゃないわよ」

「そうよね」

 言った当のヒカリがふふふと笑う。
 そして、友人の肩をぽんぽんと叩いた。

「まあ、人の噂も75日って言うから、我慢する方がいいわよ、アスカ」

「うん、シンジもそう言ってた」

 そう言うと、アスカはじっと窓の方を見た。
 窓の向こう、数メートル先には碇家がある。
 彼はあの噂のことを本当に気にしてないのだろうか。
 そのように考えると哀しくなってくるアスカだった。



 噂の一部をはじめて耳にしたのは火曜日だった。

 しかし、その前にシンジの病気のことと、二人の家のことを書いておかねばならない。
 懸命なるアスカの看病の結果、日曜日の夜にはシンジは平熱に戻っている。
 そして、その夜のことだ。
 とんでもない事実が発覚したのは。
 台所でアスカが『新婚の奥様への家庭料理のすべて』を参考にしながら、鼻歌交じりに晩御飯を準備している時だった。
 幸せ一杯の彼女の背後にのっそりと男が現れたのだ。
 シンジは眠っている上に、その男の背は異様に高い。
 はっとして振り向いたアスカにその男はぼそりと呟いた。

「すまんがわしの分も作ってくれんか」

「ど、どうして!ドイツじゃなかったの!」

 台所に入ってきたのは、なんとシンジの父親だった。
 碇ゲンドウは3人と一緒にドイツへ行くと置手紙をしていたはずだ。
 しかし実際はずっと書斎、つまり小説家である彼の仕事部屋に篭っていたのである。
 それはゲンドウがパスポートというものを元より持っていなかったことによる。
 が、まさか国外に出るのにパスポートが必要であるなどという基本情報を夫が知らないとは、さすがのユイも思いもよらなかったのだ。
 あの日、あまりに断固とした口調でドイツへ行くと言い出した夫が飛行機恐怖症を克服して自分と旅行へ行く決意だと知り、彼女も舞い上がってしまった。
 そして、空港へ向かう途中に惣流夫妻の突込みを受け、碇夫婦は揃って肩を落としたわけだ。
 従ってゲンドウは一人寂しく妻を見送り、その帰途、電車の中で急に小説の着想が沸いたのである。
 しかしそこから家まではまだ2時間はかかる。
 その間にせっかくの着想を忘れてしまうかもしれない。
 大雨の中を彼は途中下車し、駅ターミナルの中で原稿用紙とペンを買い、駅前のビジネスホテルに宿泊したのだ。
 そして徹夜で原稿を書き進めた彼が帰宅したのは、丁度シンジたちが学校に行っている土曜日の午前中だった。
 尚も物書きとしてのテンションが上がっている状態のゲンドウは保存食や飲み物を抱えて書斎に篭ったのだ。
 それから先は見事に二人とすれ違っている。
 ただし、土曜日の夜にシンジが高熱を出してアスカに伴われて帰宅してきたことをゲンドウは承知していた。
 さすがにあれほど大騒ぎをしながら帰宅してきたので、書斎から顔を覗かし様子を窺ったわけだ。
 もしアスカがいなければ自分で看病しないといけないとは思ったのだが、幸運なことに彼女はずっと看病をしてくれるようだ。
 それを確認した彼はアスカに声をかけるのも惜しんで、再び原稿用紙に向かったのである。
 ようやく書き上げたのは日曜日の昼。
 腹が空いていたがそれよりも睡眠を欲した彼は書斎にあるソファーで横になっていたのだ。
 そして夜になり空腹で目を覚ましたゲンドウが台所に現れたというわけだ。
 彼の話を聞いたアスカはまさに抱腹絶倒したのだが、腹を空かしている彼のために自宅へ走った。
 土曜日のハンバーグが冷蔵庫に保管されているからだ。
 かくして煮込みハンバーグと化したおかずをゲンドウはもりもりと食べたのである。
 その途中で起きてきたシンジがいないはずの父の姿を見て驚いたことは付け加えるまでもないだろう。
 安心したアスカはその夜は自宅へ戻り、きちんと目覚まし時計をセットして早めにベッドに入った。
 よく考えると前日はほとんど寝ていなかったのである。
 彼女は幸福を噛み締めながら、すぐに眠りについた。
 それが日曜日に起こったすべてであった。

 さて、問題の噂だ。
 
 碇シンジと惣流アスカが同棲している。

 そんな噂を耳にした時、実はヒカリが言った様にアスカは少し嬉しかったのである。
 同棲?したいわよ!それができるのなら、三畳一間であろうが、神田川の傍だって、なんだって!アタシの力でハッピーエンドにしてあげるんだから!
 実際にはできるわけもないが、心情的にはOKの50万連発もしたいほどに同棲万歳のアスカだったのだ。
 最初はそんな風に楽しめた。
 しかし、噂は日を追う毎にどんどん酷くなっていく。
 アスカが妊娠しているという噂も加わったのだ。
 これにはアスカも苦笑する他なかった。
 そして、どうしようかと考えた。
 考えたが答えは出ない。
 出ないままに、アスカは今日も碇家を訪れるつもりだ。
 今日でもう4日目になる。
 あんな噂が立っているというのに、そうやってシンジの家に毎日行っているのは家事をする人間がいないからだ。
 何故ならドイツへ旅立った3人がいまだに日本の土を踏んでいないのである。
 事故ではない。
 机上の計画が当然のことながら予定通りに行かず帰りの飛行機に間に合わないことがわかった瞬間に、ユイとキョウコはあっさりと次の計画に乗り出したのだ。
 そして国際電話が朝早くにかかり、帰国が1週間延びると宣言されたのである。
 その時のゲンドウの顔をアスカは忘れられない。
 つい数日前に見たシンジの表情そのものだったからだ。
 父親の置手紙を見てアスカにすがってきた、あの情けない顔。
 やはり親子なんだと思い、彼女は優しい気持ちになった。
 ともあれ、今日に至っても3人は未だドイツにいる。
 文句のひとつも言いたいところだが、日本にいる3人は誰ひとりとして国際電話のかけ方を知らない。
 電話局に聞けばわかるだろうが、国際電話がすこぶる高いことは承知している。
 そこまでして3人のうちの誰かを捕まえたとしても聞くことは、結局「いつ帰る?」しかないのだ。
 仕方がないので訪独組の3人への文句は、帰国して、土産を貰ってからの話だと、残留組の3人で決めている。
 だがしかし、残留組で家事がこなせるのがアスカ一人だというのは負担が大きい。

 朝、いつもよりも2時間早く起きて、自分の洗濯物を抱えて碇家に突入する。
 3人分の洗濯物を碇家の洗濯機に掛けている間に朝食と弁当の準備だ。
 用意する弁当は3つ。
 中学に向かう自分たち二人の分と、家でお仕事のゲンドウの弁当だ。 
 2つ作るも3つ作るのも手間は変わらない。
 朝はご飯に味噌汁だとおずおずと主張する碇家の男二人は睨みつけて黙らせる。
 ご飯はタイマーでできるが、味噌汁はそうはいかない上にどうやらユイの作るものと微妙に味が違うようだ。
 比べられるのは作っている方として腹が立つ。
 だからアスカは朝食はパンで押し通したのだ。
 その代わり、目玉焼きにミニサラダを用意すると、単純なものでシンジとゲンドウは大喜びをした。
 調子に乗ったアスカが次の日半熟卵をエッグスタンドに乗せてテーブルに出すと、二人は初めて見るようで殻つきの卵をじっと見つめている。
 内心飛び上がらんばかりに狂喜したアスカだったが、そこは涼しい顔で悠然とスプーンを使って殻を取り除いていく。
 そして出てきた中身を塩をかけながら優雅に食していくアスカ。
 もちろんギャラリー二人の目を大いに意識してである。
 彼女の食べ方を学習し、碇親子は卵と取っ組み合った。
 そして、エッグスタンドに載った半熟卵はアスカ作成の朝食の定番となっていったのだ。
 このように彼ら3人の日常生活は概ね良好で、主婦的な忙しさを除いてはアスカにとって不満など微塵もない。
 
 問題は、同棲の噂だけであった。
 アスカ自身は何を言われようが毅然とした態度で立ち向かえると自分を信じていた。
 事実、彼女は物心ついた頃からそうやって立ち向かってきているのだ。
 昭和35年に生まれた彼女は外国人などまだまだ珍しい時代に育っている。
 これが横浜や神戸のように外人が住んでいても周りの者がそれほどの違和感を持たない土地ならば話は違ったのだろうが、
惣流家が住んだのは普通の住宅街であった。
 したがってアスカのような容姿の子供は完全に浮いてしまう。
 そんな彼女を精神的に守ったのが隣家の幼馴染の存在であり、いささかおとなしい彼を守ろうと逆に威勢のいい女の子に育ったアスカだった。
 それでもやはり彼女に初めて接する人間は外国人の見かけに驚いたり、物怖じしたりする。
 幼稚園、小学校、中学校と、世界が広がるたびに同じことを繰り返してきたのだ。
 だが、周囲の変な目も増えるのだが、それとは正反対の喜びも見つかった。
 中学入学と同時にできた親友の存在。そしてもう一人、三角関係寸前から不思議なことに仲がよくなった友人も。
 小学校時代には友達はいたが、ここまで腹の中まで打ち明けられるような相手は初めてだった。
 その二人が今、アスカの噂について頭を悩ませてくれている。
 アスカの部屋で、アスカの用意したおやつとジュースを飲みながら。
 ヒカリは少しは遠慮がちに飲み食いし、マナは一切遠慮なしに飲み食いしている。
 話をそこに戻そう。

「へぇ、じゃ碇君と話してるんだ。噂のことを?」

 マナが目を丸くして訊ねてくる。

「うん、少しだけね」

 アスカは微かに嬉しそうな笑みを浮かべた。

「いろいろ言われてるみたいだけど放っておいたらいいって。やっぱり言ってたわ。人の噂も…ってね」

「もう!みんなそればっかり!」

 マナはばりぼりとカールを食べて、ネクターで流し込む。

「それでもさ、75日は長いよ。2ヵ月半じゃない」

「そうよねぇ」

 今度はアスカも苦笑する。
 確かに日数で聞くよりも2ヵ月半と言い直すとかなり長く感じてしまう。

「今からだったら…えっと…」

 視線を宙にさまよわせるマナの隣で、ヒカリがあっさりと計算を終える。

「7月の10日くらいね。直に夏休みになっちゃう」

「まあ、確かにそこまでいけば噂も消えるような気がするよね」

 マナがにっこりと笑った。
 そんな彼女の肩をアスカは軽くつつく。
 
「当事者じゃない人は気楽に言ってくれるわよねぇ。長いわよ、やっぱり」

「ふふふ、気の短いアスカとしては毎日が地獄ってことか」

「残念でした。アタシじゃないのよ。まっ、アタシも気が長い方じゃないけどさ。問題はシンジなのよ」

 え?と首を同時に傾げるヒカリとマナは続いて顔を見合す。
 あの亡羊とした感じの碇シンジがどうして問題なのか。

「二人とも小学校はアタシたちと違うでしょ。だから知らないのよ、シンジが我慢の限界を超えたときのことを」

 アスカは淡々と話す。
 小学校時代に何度か喧嘩騒ぎをシンジが起こしたことがあると聞き、二人は耳を疑った。
 その理由を聞くと案外とつまらないことばかりで、優しげな彼の様子とのギャップが激しすぎる。
 そんな二人の表情を見て、アスカは憤懣やるかたないとばかりに彼の弁護をする。
 つまりは喧嘩になるのはそれまで積もりに積もった鬱積がくだらないからかいや何かが引き金になって爆発するのだという。
 そうやって説明を受けるとそんなものかと思えてくる。
 マナは腕組みをしてうむぅとばかりに頷いた。

「なるほどねぇ。アスカの凶暴性がうつったわけか。可哀相な碇君」

「アタシは感染性のウィルスかなんかか!」

「うんうん。世にも恐ろしいアスカウィルスってね」

「するとそのウィルスはマナにも感染してるんじゃないの?」

「そう言うヒカリにもね、あはは」

 笑いあう二人を横目にアスカは溜息を吐いた。

「好きなこと言ってなさいよ。マナはともかくヒカリが暴走するわけないでしょう」

「ひどいこと言うなぁ。こう見えても、私は学校では一度も喧嘩とかした事ないわよ」

「こう見えるって自覚はあるんだ。それに学校では、なのよね」

「そうそう。家ではお兄ちゃんや弟と取っ組み合いの…って、まあ、兄弟喧嘩はするけどね」

 マナはぺろりと舌を出した。
 こんな彼女の存在はアスカにとっていい緩衝材になっている。
 豪放な外見と違い意外に繊細でまじめなアスカと、見かけ通りにまじめなヒカリの二人ならば、こういう時に暗くなってしまいがちなのだ。
 その時、ピンポンが鳴った。
 するとどうだろう。
 浮かない表情をずっとしていたアスカが、ぱっと顔を輝かせ「シンジ!」と口走り部屋の外へ飛び出していった。
 残された二人は顔を見合す。

「今の碇君?」

「さあ。普通にピンポンって鳴っただけみたいだったけど?」

「そうよね。今ので区別できるわけない…」

 おそらくアスカの妄想だろうと笑い合っていると、どかどかどかと階段を駆け上ってくる音がして、アスカが顔を覗かせる。

「ごめん!ちょっとだけ待ってて。今、晩のおかず決めてるから」

 それだけ言い残し再び、豪快な足音は階下へ去っていく。
 やはりアスカが言うようにシンジだったのだと、二人はびっくりした。

「ね、どうする?」

「食べて、飲んで、帰る」

「そうよね。どうせ二人で仲良くお買い物に行きたいんでしょうし」

「そうそう。ってことで、アスカの分も食べちゃいましょ!」

 むしゃくしゃとおやつを頬張るマナを見て、苦笑しながらもヒカリもおやつに手を伸ばした。
 あと1/4も残っていないからこのまま放置して帰るわけにはいかない。
 それでもお皿の上のおやつをすべて食べきるのに3分はかかってしまったが、階下に降りるとまだシンジは玄関にいたので二人は一安心する。
 これで胃袋に無理をさせた甲斐があったと。
 少しだけ照れながらシンジは二人に挨拶をする。

「晩御飯決まった?」

 答えるアスカの笑顔は実に和やかなもので、先ほどまでの苦悩は欠片も感じられない。

「マナったらホントに食いしん坊ね。今日は餃子にするの」

「えっ、アスカ、餃子作れるの?出前とるんじゃなくて?」

「あれ?マナの家は自分で作らないの?」

 マナは当然とばかりに頷く。
 彼女の家では餃子といえば父親のお土産と同義語になる。
 共働きの母親は手間のかかる餃子など作る余裕はないのだ。
 
「アスカ?仕上げにお水入れるのって、小麦粉入れてる?」

 家事をよく手伝うヒカリがつい口を挟んでしまった。
 これでは二人の邪魔をしないようにとおやつをがんばって食べたことに意味がなくなってしまう。
 おいおいと思いながらもマナも会話に参加する。

「仕上げってフライパンに入れるあれでしょ?じゅわぁ!ってやつ」

 駅前の中華料理屋で見た光景を彼女は思い出していた。

「小麦粉って、水に溶くの?」

「そうよ。少しだけ小麦粉を入れるとね、パリッと仕上がるの。試してみたら?」

「OK!早速今晩試してみる」

「碇君、今から一緒にお買い物?」

 マナに問われて、シンジはどうしようかなと頭をかく。
 実際噂が立っている中を二人で出歩くのはどうかと思ってしまうのだ。

「行ってらっしゃいよ。別に変なことするわけじゃないんだしさ。胸を張ってばばんと!」

「マナったら、もう!じゃ、私たち帰るから。また明日ね」

「ああっ、引っ張らないでよ。まだ靴が!じゃあね!」

 バイバイと手を振るアスカに見送られ、二人は彼女の家を出た。
 しばらく歩いていると、突然マナが大声を上げた。

「決めた。私、料理を勉強する」

「あら。アスカの影響?」

 少しからかうように言葉を返すと、意外にもマナは「うん」と大きく頷いた。

「だって、いつかは私だって好きな人に美味しい料理を食べさせてあげたいもん」

「そうか…、そうよね」

「うん、今すぐは困るけどね」

 真剣な顔で言うマナを見て、ヒカリは我慢できずに笑ってしまった。
 たちまち、膨れ顔になるマナ。

「酷いなぁ。どうせ、私は家庭科の成績が悪いですよぉ〜だ」

「試食は得意なのにね」

「そうそう。お腹は丈夫だから…って、ヒカリっ」

「きゃっ」

 ぶつ真似をすると、ヒカリは手で頭をかばう。

「今度簡単なの教えてよ。お願い」

「そうねぇ、ボイルドエッグなんてどう?」

「わっ、いいねぇ。どうやってつくるの?」

「沸騰したお鍋に卵を入れて7分で出来上がり」

 一瞬きょとんとした顔になったマナはぷぅっと膨れた。

「それって、ただのゆで卵じゃない!馬鹿にして!」

「ごめんごめん。マナが可愛かったから、ちょっとからかってみたかったの」

「本当?また冗談だったら、今度は許さないわよ」

「本当よ。いつか好きな人に料理を食べてもらえたらいいね、アスカみたいに」

「うん!私はいつか出会う運命の王子様に。それから、ヒカリは鈴原トウジ君にね」

 さぁっと顔面を赤らめるヒカリを見て、マナは「いいなぁ」と思う。
 人を好きになるとヒカリやアスカのようにこんなに可愛く見えるのだ。
 となれば、あの時碇シンジのことを好きになったと思ったのは錯覚だったのか、それともただの憧れのようなものだったのか。
 すぐにあきらめることができたのだからそれほど深い想いでなかったのだけは確かだ。
 マナは思った。
 75日といわず、明日になればあんな噂などなくなってしまえばいいのに、と。



 マナの願いは通じなかった。
 それでころか、アスカの心配したとおりになってしまったのである。
 やはり、シンジはいろいろと鬱屈とした思いを抱いていたのだろう。
 事件は4時間目の終わり頃に起こった。

 鈴原トウジは2年7組であった。
 彼は窓際の席で壁の時計を見ては長めのカウントダウンを開始していた。
 あと15分。
 チャイムが鳴って、礼が終わったら、購買部へ全力疾走や。焼きそばパンを絶対買うたるで。
 今日は弁当ではないトウジはふと傍らの窓から聞こえてきた歓声に耳を欹てた。
 今、確かに「イカリヤメロヨ」と聞こえた。
 1組と2組は体育の授業の筈だ。
 もしかすると友人は何かしでかしたのかもしれない。
 トウジは先生に怒られることを覚悟で窓から運動場を見下ろした。
 するとどうだろう。
 体操服姿の数人がもつれあうように取っ組み合いをしている。
 遠目だがその中にシンジの姿が彼の目に見えた。
 トウジは「センセやりよった」と呟くと、踵を踏んでいた上靴を履きなおした。
 そして先生の叱責を背に受けて教室を飛び出していったのである。
 下足に履き替える時間などない。
 彼は上靴のまま運動場へ駆け出していった。
 トウジが駆けつけた時にはもうシンジは劣勢だった。
 数人の相手に囲まれた彼は1組の男子に胸倉をつかまれ殴られようとしていたその時、その男子の背中にトウジは体当たりしていった。
 
「すまんの。ちょっと急いどっって見えへんかったわ」

 にやりと笑ったその顔は明らかな宣戦布告。
 
「トウジ!どうしてっ?」

「ちょっとな」

 相手は5人でこっちは2人か。
 情勢を掴んだトウジだったが、2組の男子への嫌味は口の中に押し込んだ。
 本当なら「同じ組の人間の味方くらいせんかい!」と叫びたいところだが、ここ最近のシンジを知っているだけにうかつなことは言えない。
 まあええわ、わしが3人相手すればええやろ、と段取りをしていると、おっとり刀でケンスケが走ってくる。

「酷いぜ、トウジ。俺に声をかけていけよ」

「おお、すまんの。4組は授業中やったもんでな」

「馬鹿か。お前のところも授業中だろうが」

「ケンスケ。君まで」

 ケンスケを見るシンジの目にはもう最初の頃のような妙に据わった目つきが消えている。、
 それを確認するとトウジは軽く鼻で笑った。

「おい、鈴原に相田、お前ら何してんだよ。よその組の喧嘩に顔出すなよ」

「アホか、お前ら1組やろ。2組のセンセに喧嘩しかけとるやんけ」

「俺たちはからかっただけだ。殴りかかってきたのは碇のヤツだぜ。俺たちは被害者だ」

 喧嘩につき物の言葉の応酬。
 どうしていつもこうなのだろうか、とケンスケはおかしかった。
 それにしても体育教師はどこへ行ったのだ?
 ケンスケが周りを見ていると、その体育教師がA棟の方から突っ走ってきた。
 なにやら叫んでいるが、罵声であることしかわからない。
 せっかくの昼休みが説教の時間かと彼は苦笑した。
 ケンスケ以外の者も教師を確認して闘志を収める。
 そして、関係者一同は体育教師に引率されて生徒指導室へと連行されたのである。

 2組の女子は体育館での授業だった。
 だから、運動場での騒動について一番情報が遅れてしまったのだ。
 1組の教室で女子が着替えをしていると、ようやくその情報がもたらされた。
 2組の碇が1組の大田たちと喧嘩をして生徒指導室に連れて行かれた、と。
 そのことを聞いたアスカは詳しいことがわからないまでも大抵の予想がついた。
 1組の連中が引き金を引いてしまったのだ。
 彼女は唇を噛み締めた。
 自分が何とかしないといけない。
 これまでもずっとそうしてきたのではないか。
 どうする?どうする?
 アスカは顔を上げた。
 よし、この手で行こう。
 彼女は沈黙したまま体操服の袋を2組の教室に運び、そして廊下へ出て行った。
 その鬼気迫る雰囲気にクラスメートは誰も声をかけられなかった。
 アスカが昇降口に向かったのを見て、みんな彼女は家に帰るのではないかと思う。
 確かに彼女は上靴を履き替え、校門へと足を運んだ。
 しかし、アスカの足は校門からわずか5mの場所で止まったのである。
 そこは文房具店兼パン屋の森田屋であった。

「あら、惣流さん。買い食いは禁止だよ」

 森田屋のおかみはアスカのことを知っている。
 さすがに白人の容姿をしている生徒はここ数年で彼女一人だけにすぐに名前と顔を覚えたのだ。
 さて、登下校時は別として、その間は森田屋での生徒の買い物は基本的に禁止されている。
 ただし、あくまで基本的なので抜け道はある。
 購買部のパンや文房具が売り切れになったとかであるが、その場合も教師の許可が必要だ。
 しかし、この時アスカは別の手を使った。
 
「あ、おばちゃん。アタシじゃないの。葛城先生のおつかい。もうホントにたまったもんじゃないわよ。
 自分で買いに行けって感じよ、まったく」

「おやおや、それは可哀相に。で、何を頼まれたんだい?」

 アスカはにっこりと笑った。

「コカコーラの缶のを。2つ、ちょうだい」



 マナの食事は早い。
 この日も素晴らしいスピードで弁当に立ち向かい、いよいよ大好物の鶏肉に箸をつけようとした時だった。
 普段と変わらない面白くもないお昼の放送をしていたスピーカーから悲鳴が聞こえたのだ。

『そ、惣流さん!何っ!?』

『うっさいわね!アタシの言うことを聞かないとただじゃ済まさないわよ!』

 うおっ!とマナは叫び、鶏肉に未練を残したまま弁当箱に蓋をした。
 いざ鎌倉!とばかりに彼女は教室を飛び出していった。
 走ってはいけませんと張り紙がされている廊下を全力疾走し、向かうはA棟2階放送室。
 教師が来る前に行かねばならぬと彼女はひた走った。
 放送室の前にはまだ教師の姿はなかったが、階段を上がってくる足音がする。
 マナは扉を開けて中に飛び込んだ。

「霧島マナ参上!」

 ここは名乗りを上げるべきだと、彼女はまるで子供のように高らかに叫んだのだ。
 扉のところに立っていた放送部員たちは二人目の乱入者に驚き、さっと前をあける。
 するとそこにはマイクを挟んでアスカと放送部の部長が対峙していた。

「マナ!止める気?」

「まさか。さぁて、私は何をすれば?」

 にんまりと笑うマナに、アスカは微かに笑う。

「扉を押さえてて。入ってこれないように。あ、その前に連中を外へ押し出して!」

「了解!」

 マナは扉を開けると放送部員たちを押し出す。
 ちょうど教師がやってきたところだったが、部長〜!と人質を案じながら押し出される部員たちに邪魔されて扉に向かえない。
 がらがらと扉を閉めたマナだったが、内側から鍵がかけられないことに舌打ちをする。
 しかし転がっていた箒をつっかえ棒にして、その上自分も扉をぐっと支えた。

「よくやったわ、マナ。今度、特製餃子を食べさせてあげる」

「一緒に作って、食べる。が、いいなぁ」

「わかったわ。じゃ、扉の方お願いね。さてと、部長さん、ちょっと借りるわよ」

 3年生の鈴木部長は心の中でにやりと笑っていた。
 実は最初のやり取りと騒ぎの中で校内放送の音量を絞っているのだ。
 しかし、アスカは放送の仕組みを知らないのでこのまま放送できると思っている。

「仕方ないなぁ。その代わり、絶対にその缶の蓋は開けるなよ」

「はんっ!邪魔したら開けるわ。そうなったらアンタも機械も炭酸まみれになるわよ」

「わかった、わかった。機械にそんなことされたら拙いからな。何をするのか知らないけどさっさとしてくれよ」

「ふん、そっちの隅に離れてなさいよ」

 アスカはマイクの前の椅子に座った。

 さて、放送室の前である。
 部員たちに状況の説明をうけた教師たちは扉に向かったが、マナと箒の力により開ける事ができない。
 当然、次は怒鳴りつける順番だ。

「惣流!扉を開けろ!馬鹿な真似をするな!」

 青葉先生はその後に「お母さんは泣いているぞ」と付け加えたくなったが、それは何とか飲み込んだ。
 しかし、当然のことながら放送室占拠犯は先生の説得には耳を傾けない。
 そして何かをマイクに向かって喋っているようだ。
 ただ部長の機転で外にはその音は漏れていない。
 アスカの作戦は無駄に終わろうとしていたその時である。

「あの…先生?私が惣流さんを説得しましょうか」

 先生が振り返ると、そこにはヒカリが立っていた。
 彼女は申し訳なさそうな表情をして、長身の青葉を見上げている。

「おっ!洞木か。お前もとんでもない友達を持っちまったな。頼むぞ」

「すみません。では、少し下がってください」

「よし、みんな離れるんだ」

 青葉先生の指示に従って部員たちと数人のギャラリーが扉から離れる。
 わずかにギクシャクとした動きでヒカリは扉のそばに近づくと、マナに呼びかけた。

「ヒカリよ、入れて」

 その一言だけで数秒後に扉が開き、ヒカリは放送室の中にさっと入る。
 その次の瞬間にはもう扉は閉まっていた。
 青葉先生たちは彼女の毅然とした行動に賞賛の言葉を漏らす。
 さすがは名委員長だと。
 しかし、ヒカリは一世一代の決断をしていたのである。
 部屋の中に入った彼女は早速こう言ったのだ。

「アスカ、音が入ってないわ」

「えっ!」

「スピーカーから音が全然出てないわよ。スイッチが切られてるみたい」

 ヒカリの発言に鈴木部長は天国から地獄に叩き落された気分になった。
 彼女の登場によりこの騒動も終わるものと信じていたからだ。
 アスカはゆっくりと椅子から立ち上がった。

「ちょっと、やってくれんじゃない?そんなにコーラを浴びたいってわけぇ?」

 アスカは手にしていたコーラを威勢よく上下に振る。

「マナ!アンタにも1本わけたげる」

 机の上に置いていたもう1本の缶コーラをアスカは左手でマナに投げる。

「飲むんじゃないわよ」

「わかってるって。ふふふ、何だか楽しくなってきた」

 マナは左手で扉を押さえ、右手でコーラの缶を忙しく振る。

「はぁ、私、何てことしてるんだろ」

 今更ながらに自分の行動を反省したヒカリは手近な椅子に座るが、それでも忠告は忘れない。

「アスカ。部長さんにコーラを掛けても意味がないわ。放送機材で脅した方がいいと思う」

「なるほど!さすがはヒカリっ」

「ああっ、やめろ!た、高いんだぞ!明日からの放送をどうしたらいいんだよ!」

「はんっ、簡単なことじゃない。さっさと校内すべてに放送が流れるようにしなさいよ。あと5秒以内に」

「えっ」

「5,4,3…」

 カウントしながらさらに缶コーラを振るアスカ。
 当然、マナも同じように楽しげに缶を上下に振っている。

「わかった!やめろ!すぐするから!」

 悲壮な表情を浮かべながら、部長はスイッチを入れる。

「これでいいの?」

 アスカが質問した声が扉の向こうから聞こえているのをマナが確認する。

「大丈夫。聞こえてるみたい」

「OK。よぉし、いくわよ、アスカ!」

 アスカは自分を奮い立たせるように小さな声で呟いた。
 こうして、第一中学校にこの先ずっと語り継がれていく伝説の放送が始まったのである。

 話を少しだけ戻そう。
 生徒指導室に連行されたシンジたちのことだ。
 シンジとトウジ、ケンスケの3人と1組の連中は間を空けて立たされていた。
 その前には腕組みをした体育教師が苦虫を噛み潰したような顔をして仁王立ちしている。
 そこに1組の担任とミサトが入ってきた。
 さすがのミサトも神妙な顔をしている。
 
「石橋先生、こいつたちの担任も呼びましょうか?」

 1組の佐藤先生がトウジたちをこなして言うが、体育の石橋先生は部屋が狭くなるからいいでしょうと答えた。
 確かに生徒指導室はそれほど広くもない空間である。ミサトなどはただ一人の女性なのでいささか退き気味で立っている。

「さてと、先に手を出したのは誰だ」

 すぐに「はい」と手を上げたのはシンジである。

「ほう、2組の委員長か。ということは…」

 石橋先生は後の言葉を濁した。
 生徒たちの噂は職員室にも伝わっている。
 だが、特に問題も起きていないことである上に、そもそも事実が確認されていないのだから、彼らはまだ手出ししないと暗黙の了解ができていたのだ。
 石橋先生はごほんと咳払いした。

「で、手を出した理由は何だ。何かあったんだろう?」

 しかしシンジは口を噤んでいる。
 先生は1組の連中を見た。

「殴られたのは誰だ?おお、大田か、何を言ったんだ」

 大田という生徒は1組の中で一番のお調子者である。
 おそらく彼がきわどい言葉でからかったのだろうと教師たちは想像した。
 しかし、真実は誠にくだらない発言だったのである。

「もうすぐ昼休みだなって」

「それだけじゃないだろ、ん?」

「碇の弁当は惣流さんがつくってるって?と言ったんです」

 シンジはそっぽを向いた。

「すると碇のヤツがそうだって言ったものだから…」

 これは同棲しているという噂でからかったに違いない。
 散々我慢してきたのでそれで彼が爆発したのだと、シンジと大田君以外の全員がそう思った。
 
「僕、言ってやったんです。馬鹿言え、作ってるのはお前の方じゃないのか?って」

 そのまったく想像もしない言葉に先生や生徒たちは一様にはぁ?と疑問符を頭の上に浮かべる。

「だ、だって、どう見ても惣流さんって、こう…女王様って感じじゃないですか。きっと碇が全部家事をしてるんだって思って」

 大田君は同意を求めるように1組の仲間を見る。
 彼らもそれはそうだなぁと頷いた。
 彼女の家事能力の高さは特に男子ほど認識できるものではない。
 家庭科の授業を一緒に受けている女子でもよく注意していないと見抜けないのだから。
 
「で、惣流さんの料理が下手だからお前が作ってるんだろうって言ったんです。そしたら急に…」

「黙れ!アスカを馬鹿にするな!」

 突然、シンジが叫んだ。
 その声の大きさと迫力に友人であるトウジとケンスケまでもが驚いてしまった。
 シンジは両手の拳をこれ以上は無理なほどにぐっと握り締め、じっと大田君を睨みつけている。
 
「お、おい、碇、やめろよ、その目は」

「センセ、落ち着けや、な?」

 トウジがシンジの肩に手を置くが、その手は邪険に振り解かれた。
 教師たちは息を飲み、ミサトも咄嗟にどう対応すべきか迷ってしまった。
 しかし、ケンスケがあっさりとシンジの憤懣を解いたのだ。
 友人の頬をぎゅっと抓りあげて。

「痛いっ」

「よぉ、シンジ」

「何するんだよ、ケンスケ」

 さっきまでの険悪さは消えて、再びしょんぼりとした様子に戻っている。

「あらま、ってことは碇君が怒ったのって、同棲のことじゃなかったの?」

 ミサトが素っ頓狂な声を上げた。
 室内の誰もが彼女と同じ思いだった。
 トウジとケンスケでさえそうだったのである。
 それだけ彼は本音を表面に出していなかったのだ。
 心配する友人に「大丈夫」「ありがとう」「人の噂も…って言うだろ」と、シンジは寧ろ笑いながら喋っていた。
 そしてついに彼は本音をさらけ出すことになる。

「同棲のことは…噂は…、かえって好都合だったから…」

 ぼそりと呟くその言葉を聞いて、一同は耳を疑った。
 数秒間の静寂の後はミサトとトウジとケンスケが一斉に質問攻めをしたので生徒指導室は喧騒が訪れる。
 うつむいたシンジは頬に朱を走らせて、本当の気持ちを語りだしたのだ。
 要約するとこうだ。
 いつの頃からか女性として惣流アスカを好きになったのだが相手は自分のことなど男として思っていないはずだ。
 だから振られて幼馴染としての関係を崩してしまうよりは、今のままで彼女の一番近い異性(血の繋がらない)でありたい。
 周囲は二人が交際していると思うかもしれないので、逆にそれを利用すれば彼女に変な虫がつかないではないか。
 そんな風に思っていた折にこの同棲疑惑という噂が巻き起こったのだ。
 これは自分にとって大きなチャンスではないか。
 このまま噂を放置しておけば、同棲相手がいる女に告白するなどという酔狂な男など現れない。
 だからこそ、シンジは噂を放っておいたのである。
 彼の話を聞き、教師も生徒も安堵とも馬鹿らしいとも言えない複雑な溜息を吐いた。
 その中でさすがに女性であるというべきか、ミサトがシンジを戒めたのである。

「あなたの気持ちはわかるわ。でもね、噂の中で傷つくのは惣流さんなのよ。そこを考えてあげないと」

「で、でもっ、否定しても誰も信じてくれないじゃないですか」

 そう反論されてミサトも言葉に詰まってしまった。
 同棲はともかくとして、恋仲であるということを否定してもなるほど誰も信用すまい。
 一同がそんな風に思っていた時だった。
 アスカの放送がはじまったのは。



『2年2組の惣流です。今日はみんなに聞いてもらいたいことがあって…』

 こんな切り出しをアスカはした。
 放送は教室だけでなく、建物の中すべてに流れる。
 さすがに鈴木部長は外部への放送まではスイッチを入れていない。
 その判断は後に教職員から褒められることになるのだがそれは余談。
 もちろん生徒指導室にもアスカの放送は流れ、シンジたちはスピーカーを見上げた。

『あの噂についてです。事実をはっきり言います。同棲はしていません。
 アタシの両親と碇…ううん、シンジのお母さんが一緒にドイツへ行っているので、シンジの家はお父さんと二人だけなんです。
 だから、アタシが家事をしてあげてます。いいえ、自分からしたの。したかったから。
 事実はそれだけ。同棲なんかしてないし、あ、あ、あ、赤ちゃんなんてそんなの絶対に…ありえないもん』

 アスカの発言を聞いて、シンジはどんどん青ざめていった。
 彼にすればそうなるであろう。
 二人の関係を暴露しているというよりも、シンジとはそれだけの間柄なのだとアスカが力説しているようにしか彼の耳には聞こえないからだ。
 しかし、ミサトがそっと囁いた。

「大丈夫よ、碇君。しっかり聞いてなさいね」

 シンジは頷きもせずに、荒い呼吸のまま拳を何度も握りしめながらスピーカーを見つめた。

『だって、だって、だって!アイツ、あの馬鹿っ!馬鹿シンジはっ!』

 ついにアスカのスイッチが入った。
 放送室の中にいる親友二人はにっこりと微笑みあった。
 これで彼女は本音を全校中に発表するだろう。
 もちろん、碇シンジはその想いに応えるに決まっている。
 しかし、幼馴染の二人はそれでいいだろうが、自分たちはどうなるのか。
 説教だけで済むのかどうか。
 マナとヒカリの微笑はしだいに自嘲めいたものも含んでいくのだった。

『アタシのことなんかただの幼馴染としてしか見てくんないんだもん!妊娠なんて!キスなんて、全然っ!
 手だって握ってくれないのよ!そんなの…そんなの…無理なんだもん…』

 まともな放送はそこまでだった。
 それから先はまるで子供のようなアスカの泣き声しか聞こえてこない。
 最初はにやにやして聞いていた連中もその泣き声を聞くとさすがに自責の念を持ってしまう。
 しばらくすると、放送室の扉がノックされた。
 ミサトの声が碇君も来ているから扉を開けてと告げる。
 マナはヒカリと顔を見合し、扉を恐る恐る開いた。
 いきなり先生たちが飛び込んでくるのかと思えば、入ってきたのはミサトとシンジだけだった。
 ミサトはつかつかとアスカのそばに歩み寄ると、彼女には目もくれずマイクに顔を近づけた。

「さぁて、生徒諸君。ここからはこの私、葛城ミサトの言うことをよく聞いてくれるかな?」

 アスカは突っ伏したまま顔を上げていないので二人の姿を見ていなかった。
 だからすぐ近くでいきなり聞こえたミサトの声に驚き、彼女は涙塗れの顔を上げた。
 そのアスカにミサトはにこりと微笑みかけ、さらにマイクに向かって喋り続ける。

「では、噂の元になった目撃者の皆さん、今すぐ放送室に集合!立候補推薦、どっちもOKよン!
 後になって目撃者だってわかったら、すっごく立場が悪くなっちゃうからねぇ、早ければヒーローになれる!あ、ヒロインもね!ほら、急いだ急いだ!」

 一気に喋ったミサト先生は鈴木部長に目顔で促す。
 ほっとした彼はようやくボリュームをゼロにすることができた。

 さて、ここまでくればもう大団円はすぐ近くまで来ている。
 その前にやはりアスカとシンジのことははっきりさせておかねばならないだろう。

 ミサトの放送が終わった時、アスカは扉のところにシンジが立っていることに気がついた。
 彼女は慌ててごしごしと目を擦ると、ちらりとシンジの顔を見る。

「ごめんね、アスカ。僕が悪かったんだ」

 いきなり謝られても、何が悪かったのだか咄嗟にはわかる筈もない。
 生徒指導室にいた者ならシンジの気持ちが伝わるだろうが、アスカには、とりわけ彼女はシンジには異性と思われていないと信じ込んでいるのだ。
 しかし、そんなアスカにでもすぐに了解できる、取って置きの台詞をシンジが吐いたのである。

「あのさ、つまり、えっと、こういう時何て言ったらいいんだろ…」

 前置きが長いのはお許しいただきたい。
 立て板に水の如く、すすっと発言できるような男にアスカが惚れるわけがない。

「僕に死ぬまでお味噌汁を作ってくれる?」

 よし、決まった!とシンジは心の中でガッツポーズをとった。
 いきなりプロポーズとは何事かと思うだろうが、ここ数日彼はアスカとの同棲生活を主に妄想していたのだから仕方がないのかもしれない。
 ところが、ゆっくりと立ち上がったアスカは腰に手をやり、足を踏ん張った。
 そのポーズを見て、シンジは慌てる。
 この馴染みの格好は彼女の臨戦態勢を示すものではないか。
 僕、どこか間違った?と、自分の吐いた台詞を大急ぎで吟味しなおす。
 しかし、アスカはそんな余裕を与えてはくれなかった。

「アンタ馬鹿?このアタシを一生女中として扱き使おうなんて百万年早いわよ!」

「ち、ち、違うよ。女中じゃなくて、つまり、あのね、ああ、どうしよう、どこを間違えたんだろ、ごめん、だから…」

 うろたえるシンジだったが、おせっかい焼きのマナが彼のそばにすっと近寄って囁く。

「碇君?アスカの目を見てごらんよ。素直じゃないんだから、アスカは」

 はっとしてアスカの顔を見ると、仁王立ちしているにもかかわらず、その目は笑っていた。
 彼女の優しい眼差しは微かに涙に濡れ、そのピンク色の唇はじわりじわりと微笑へと移りはじめている。
 こうなるともう言葉は要らない。
 アスカはしっかりと頷き、シンジは破顔する。
 それでもうすべては終わった。
 ただし、それはあくまで二人の精神世界の上でのことで、実生活ではいろいろと整理しないといけないことがある。

 二人が夢の世界に旅立ってしまっている最中、証言者たちはおずおずと放送室に現れた。
 証言者その1からその4までの生徒はそれぞれ自分の目撃したままのことを喋り、
 その都度ミサトがアスカに確認していく。
 ベッドの上で暴れていたのは小学2年生の時のことだと知り、証言者その2の1年生男子は真っ赤になって「ごめんなさい」と言う。
 そして最後は渚屋書店の若旦那がにやにやと笑いながら登場したのである。
 これまでの4人と異なり、彼は堂々とマイクに向かってあの朝のアスカの行動を逐一証言し、購入した本の題名まで暴露した。
 『新婚の奥様への家庭料理のすべて』という題名を口にすると、
それは証言者に間違われても仕方ないだろうとミサト先生が混ぜ返し、そして一連の証言は終了する。

「まっ、こういうことで今回の同棲疑惑はおしまい!はい!お昼休みはあと5分もないわよン!食べてない子はさっさと食べること!
 チャイムが鳴ったら容赦なく先生は教室に行くからねっ!」

 彼女の言葉に、生徒たちだけではなく先生も慌てた。
 この騒動で弁当を食べていない者が多かったのだ。
 かく言うミサトもその一人である。
 だが、今更職員室に帰って弁当を広げる時間はなさそうだ。
 困ったわねと思っていたミサトの目にある物が見えた。
 コカコーラの缶である。

「おっ、ラッキー!これイタダキ!わっ、まだ冷えてる!誰のか知らないけどアリガトっ!」

 誰も止める暇がなかった。
 ミサトは勢いよくプルトップを引きちぎった。
 しかし、中から炭酸がほとばしり出ることはなかったのである。
 一瞬血の気が引いた鈴木部長やマナたちだったが、ほっと溜息を吐く。
 振り回してから結構時間が経っていて、中身は沈静化していたようだ。

「ん?どうしたの?これ、飲んだらまずかった?ゴメンね」

 謝りながらも飲むことはやめないミサト先生の姿にその場にいた人間は二人を除いて爆笑した。
 その二人とはもちろん、バラ色の未来に旅立っているアスカとシンジであった。



 さて、この騒動についてはもうほとんど語ることもない。
 但し、シンジとアスカ、そしてその友人たちの処分については穏便というわけにはいかない。
 学校中を巻き込んだ騒動を起こし、またシンジにいたっては暴力を振るったのであるから処分は仕方がないところだ。
 殴られた大田君は処分不要を主張したが、教師たちは筋を通した。
 その結果、関係者一同、つまりアスカ、シンジ、マナ、ヒカリ、トウジ、ケンスケの6人は体育館の床掃除。
 アスカとシンジについては主犯ということで、それに加えて1週間の放送室の清掃を命じられた。
 ただし、体育館の清掃については最初は6人ではじめたものの、結局は大人数で行われたのである。
 大田君たち1組の男子、それに噂の元になってしまった証言者たちが自主参加してきたのだ。
 さらにその光景及びインタビューを放送部が録音し、翌日のお昼の放送で流したというおまけもついた。
 そしてこの事件が発端になって、ヒカリとトウジの仲が進展し始めたということも付け加えておこう。

 秋になった。
 体育祭が行われ、そのお昼休みである。
 前半の競技で活躍した生徒を朝礼台の上に呼び出しインタビューをするという企画が放送部によって実施されている。
 何人かの後に朝礼台に上がったのはアスカだった。
 インタビュアーはあの鈴木部長である。

「障害物競走でぶっちぎりの独走をした惣流さんです。盛大な拍手を願います」

 あの事件以来学校中で人気者になってしまったアスカは生徒席からおきた拍手に手を振って応える。

「いやぁ、さすがは惣流さんですね。障害は得意中の得意ですよね」

 明らかにあの事件を想像させるような質問に対して、アスカも期待通りの答を返す。

「障害が多ければ多いほど燃えるじゃないですか。それに…」

「それに?」

「今回の障害の中に噂話なんてなかったから、楽勝です!」

 経緯を知っている生徒たち、そして教師はどっと沸くが、来賓たちはわけのわからない顔をする。
 ここでやめておけば、アスカに校長室の1週間清掃は待っていなかったのだ。
 その時、2年1組から野次が飛んだ。
 そう、お調子者の大田君がここぞとばかりに叫んだのである。

「惣流!キスくらいはしてもらったかぁ?」

 手くらいはもうつないでいるだろうと思い、キスという中学生では羨望でしかないものを彼は持ち出し、
そして場内も彼の野次に応えて笑いが起きた。
 しかし、アスカは胸を張って、1組に向かって堂々とVサインをして見せたのだ。
 彼女のこの行動の意味をわからない者などいるわけがない。
 歓声と怒号と指笛と拍手の中、朝礼台のアスカは仁王立ちで笑顔を振りまき、2組の席にいたシンジは身体を小さくして俯いていた。





 これが中学校時代のアスカとシンジの同棲騒動の顛末である。
 そして、そのわずか5年後、つまり二人が高校を卒業した時のことだ。
 何と二人はその親の存在抜きにして同居をすることになった。
 その場所は遥かドイツはミュンヘンである。
 高校1年の時にアスカの親戚の下を観光で訪れて、その時にミュンヘン大学に魅せられたのだ。
 しかもそれはシンジの方がである。
 彼は留学の意思を固め、当然の様にアスカも同行を決めた。
 高校に通う間、二人は英語とドイツ語を必死に勉強し、ついにその年の夏にドイツへ向かうことになったのだ。
 その情報を聞き、中学当時の関係者はついに二人が同棲することになったかと感慨を深くした。
 しかし、それは同棲ではなかった。

 昭和54年4月吉日。
 二人は親の承諾書を手に役所に赴き、結婚届を提出している。
 その夜お祝いの席でケンスケが野次を飛ばした。

「やっとあの噂が本物になったな!」

 しかし、アスカは友達たちにあっかんべぇをして、胸を張ってこう言ったのだ。

「結婚したのだから同棲ではないってばっ!新婚よ、新婚っ!」

 3ヵ月後、ドイツへ旅立つアスカの荷物の中にはあの分厚い本は見当たらない。
 そう、噂の元になった『新婚の奥様への家庭料理のすべて』である。
 何故なら、もはや彼女はその中の料理をマスターしているのだから。
 それにドイツでは本に書かれた食材を入手することは難しいではないか。
 ミュンヘンに着き新居であるアパートメントに落ち着いたら、アスカはまず本屋へ行くつもりだ。
 購入する本は、当然『Das Kochbuch fuer Braut(新婦のための料理の本)』というタイトルの本に決まっている。



(おわり)

 


 

<あとがき>
 
 お読みいただきありがとうございました。
 この作品は
大輔様の掲示板の書込みから着想したものです。『神田川』の映画のあらすじに二人を当てはめられたのですが、あの作品がベースになればバッドエンドになってしまいます。ということで例によって(笑)二人には幸福になってもらいました。
 さて、随分と長いお話(いつものことですが:汗)になってしまいましたが、これでもカットした場面が結構あったりします。時田教頭の出番は丸々カットされ、教頭がゲンドウの小説の愛読者であるという部分もなくなりました。それに伴いシンジの処罰のためにゲンドウが中学校を訪れるのもカット。ユイたち3人が帰国してああだこうだというのもカット。結局、彼女たちは1ヶ月近くドイツで遊んでいたことになります。もっともそれはユイとキョウコの恩師が体調が思わしくなく、彼女の子供がアメリカからやってくるまでの間日本に帰りそびれていたという裏設定があったりするのですが、それも明確にしませんでした。
 最後に、同世代の男性ならば、にやりと申しますか、照れてしまいそうな話題を一つ。そう、『同棲時代』の由美かおるのヌードです。あの後姿のオールヌードは、それはそれは物凄いインパクトがありました。今のようにインターネットがあるわけがありませんから、あのヌード写真を見るために男子諸君はどんなに苦労したことか。新聞などの白黒写真では物足りない。何とかカラーで見ることはできないか。男性雑誌などにはバンバン掲載されていたのですが、コンビニなどといったもののない時代、本屋でプレイボーイや平凡パンチを買う勇気などあの頃の10代前半の子供にあるわけがありません。それでも見たい。見てみたい。できれば、それを夜に自分の部屋で一人で見たい(何故かの突っ込み不可)。暴露してしまうと、私はさほど興味がありませんでした(えへん)。どうしてかって?すでにその頃、洋画に狂っていた私はスクリーンなどの雑誌で白人女性の肉体の素晴らしさに魅せられていましたので(おい)。でも、やっぱりあの由美かおるの後姿は関根恵子たちとともにあの時代を象徴するヌード写真であると断言できるでしょう。

 追記

 Adler様に情報を頂戴しましたが、男女の性差別に繋がるためにドイツでは『新婦のための…』という本は存在しないとのこと。なるほど、アマゾンドイツで書籍名検索をかけてもヒットしない筈です。
 ということで、ミュンヘンについて本屋さんに向かったアスカはさぞかし戸惑ったことでしょう。そして、その意味を知ってシンジが僕も手伝うから、なんて言うものだから余計にアスカの闘志に火がついて…。などという後日譚でも想像してください(笑)。


 

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