ー 1974 8月 ー
2009.08.20 ジュン |
昭和49年のきもだめし
7月『エクソシスト』
9月『ヘルハウス』
「はっはっはっ!馬鹿シンジったら、何ぃ?あんなに怖がることないんじゃない?」
高らかに言うと惣流・アスカ・ラングレーはクリームソーダをずずずっと音を立ててストローで啜った。
もう5回目の侮辱を受けた碇シンジは唇をやや尖らせながら、小さな声で呟く。
「だって、仕方ないだろ。首がぐるって反対側に曲がるんだよ。びっくりしない方がおかしいよ」
「ふんっ、そんなの言い訳じゃない。アタシなんて全然怖くなかったもんね」
顎を上げたアスカは偉そうに嘯いた。
しかし、彼女は内心危なかったとほっとしていたのだ。
きゃああああああああっ!と叫ぼうとしたそのコンマ5秒前、隣の席のシンジが「うわぁっ」と叫び彼女の右手をぎゅっと握ったのだ。
そのショックのおかげで何とか叫び声をあげずに済んだアスカだったのである。
しかしそんなことはおくびにも出さない。
「アンタが素っ頓狂な声出すから、みんな笑ってたじゃない」
アスカも笑った。
そして小声で、嘲りの言葉を囁いたのだ。
馬鹿シンジ、恥っずかしいっ、と。
しかし、これは恐怖映画を見ているときの映画館特有の反応だろう。
誰かが先に怖がると笑ってしまう。
その笑いで自分の恐怖心を誤魔化すのだ。
アスカもそうだった。
しかし、この明るいレストランには悪魔にとりつかれた少女などいない。
日曜日の昼前。
百貨店の最上階にある展望大食堂にはさんさんと陽射しが降り注いでいる。
そのテーブルのほとんどは家族連れで占められていた。
小さな子はお子様ランチを選び、少し歳が増すとカレーライスが多くなる傾向があった。
シンジはお子様ランチに気が引かれながらも、隣に住む幼馴染に倣ってカレーライスを父親に頼んだ。
背の高い父親はデザートも頼んでいいぞと子供たちにぼそりと言ったので、アスカはクリームソーダ、シンジはプリンを頼んでいる。
この日は母親たち二人は子供をシンジの父に押し付けてショッピングを心置きなく楽しんでいた。
アスカの父親の方は休日出勤だと文句をたらたらとこぼしながら会社に向かっていた。
初回上映の映画を楽しんだ後、子供二人は碇ゲンドウに連れられて大食堂に向かったのだ。
少し早いが今の時間なら待たずに食事ができると妻に言われたとおりに彼は動いていた。
事実、彼らがカレーライスを食べている間に席はどんどん埋まっていき、入り口の方を見ると行列ができ始めている。
そうなると思わず知らず優越感を抱いてしまうのが子供というものだ。
もっとも11歳の二人はもう子供と呼ばれることにいささか抵抗を感じ始めるお年頃となっているのだが。
特にその意識の強いアスカはクリームソーダを飲み干してしまうと、未だプリンとじっくりと格闘しているシンジを横目で見つめた。
硝子の皿に載ったつややかな肌をしたプリンの傍らにはアイスクリームが少しだけ添えられている。
彼女にすれば信じられないことなのだが、シンジは自分の決めた法則通りにスプーンを動かしているようにしか見えない。
スプーンを差し込む角度や削り取る量を決めていて、その通りに食べる。
それはまるで砂山の頂点に立てた旗を倒さないように少しずつ削っていくあの時間つぶしの遊びにも似ていた。
彼女たち二人はもっと幼い頃、近所の公園で散々楽しんだ遊びだ。
結果から言うと、その遊びに関してはほとんどアスカが負けている。
地道に砂を削っていくシンジにいらだってきたアスカが大量に砂を取り旗に見立てた棒を倒してしまうのが常であったのだ。
ふとその遊びのことを思い出した彼女はまるで本能に突き動かされたかのように手元のスプーンを伸ばしてしまった。
「ああっ」
「おいしいわねっ、プリンも」
「ひどいや、僕の取らないでよ」
「なんだ、じわじわ食べてるから、嫌いなんだと思った」
「嫌いなもの頼むわけないじゃないか。もう…アスカはどうしていつも…」
哀しげな表情をシンジは浮かべる。
わっ、やばい。こいつ、泣くかも。
さすがにアスカが拙いなと思ったとき、ゲンドウが決め付けるように言った。
「さっさと食え、シンジ。席が空くのを待っている人がいるぞ」
「あ、うん。わかった」
父に言われると少年は慌てた。
先ほどまでとはまったく違う量をスプーンに掬い口に運ぶ。
それを見て、アスカは眉を顰めた。
ふんっ、この馬鹿シンジめ。アタシが苛めてたみたいじゃない。
でも、今のプリン、結構美味しかったな。
アスカは口の中に残っているプリンの甘みを舌で軽くさぐった。
母親たちとの待ち合わせまでまだ時間がある。
その後、3人が向かったのは書籍コーナーだった。
シンジはおもちゃコーナーだと主張したのだが、アスカに軽く却下されてしまった。
アンタ、まだそんな子供染みたものが欲しいわけぇ?と言われてしまうとシンジは二の句が告げない。
仕方なくアスカの後に続いて書籍コーナーに向かったのだ。
お目付け役のゲンドウも内心にんまり笑いながら子どもたちの後を追う。
割れ鍋に綴じ蓋とはよく言ったものだ。
将来この二人が、母親同士が期待している様に恋仲になるかどうかは知らぬ。
しかし、今はお似合いの二人だ。
これで色恋を感じる年頃になればこの関係がどう変化するのか…。
まさか素直に互いに恋心を抱き合うことはなかろう。
まずは別の者に初恋をして、それから…。
それからは勝手にしろ。
母親どもがあれこれ画策するだろうが、自分の人生だから自分たちで決めればよい。
そのようなハードボイルドチックな思考に自己陶酔しながら、手にした『ノストラダムスの大予言』を立ち読みするゲンドウであった。
シンジは素直に子供のコーナーに行き、少年探偵団シリーズの本をあれこれ見ている。
しかしアスカは子供向けコーナーには足を向けなかった。
彼女が向かったのは心霊本が置かれているところである。
『恐怖の心霊写真集』や『私は幽霊を見た!』などと帯に煽り文句がある本を彼女はじっと見下ろした。
見つめること数秒、彼女はぷいっと顔を背け歩いていく。
怖いもの見たさでそれらの本を読んでみたいのだが、そんなものを目にすれば絶対に今晩が大変なことになる。
お気に入りのお猿さんを抱きしめて寝ても怖いものは怖いのだ。
心霊現象の特集を見た夜中に、目を覚ました時抱きしめていたお猿さんの顔を見て叫び声をあげたのは惣流家での伝説となっている。
当然、そのことは厳重に口止めされているが。特に隣接する碇家の住人に対しては。
怖いものを見るのは好きだが、怖いものは怖い。
矛盾しているようだが、アスカは好奇心が旺盛なので心霊特集番組と聞くと見たくて仕方がなくなってしまうのである。
そういう時に彼女にとってとても効果的に使えるのがシンジだった。
彼の前では怖くない自分を演じることができる。
つまり、怖さを我慢できるのだ。
先ほどの映画のように先にシンジの方が反応するので、自分が騒ぐことをしなくて済むからなのであった。
そのことは映画館で散々実証されている。
彼女がびくっとする直前に隣の少年がひっと息を呑んでくれるのだ。
そのことで彼女は安心できた。
読み通りである。
人気の恐怖映画『エクソシスト』を見たくてたまらなかったのだが、話を聞くだけでも怖そうだ。
絶対に一人では見に行けないし、親に笑われるのも嫌だ。
そうなればシンジしかいない。
彼女の期待に彼は見事に応えてくれた。
もっとも、この映画を見に行くことにシンジは当然の如く大抵抗を示してくれた。
他の映画ならまだしも『エクソシスト』だけは絶対に行きたくない、と彼は叫ぶように主張したのだ。
結局は次の東宝チャンピオンまつりに一緒に行ってあげるということで話はついた。
怪獣モノが好きなシンジだがすでに両親は彼を連れて映画館に行くことを拒否するようになっていた。
一人で映画館に入るにはシンジの度胸は足りやしない。
従って、アスカの申し出は彼にとって大変ありがたかったのだ。
彼女としては別に特撮映画やアニメを見ることは苦でもなんでもない。
寧ろ面白いと思っているほどだが、そんなことはシンジの前ではまったく見せはしない。
仕方なしに付き合ってあげるのだと恩着せがましく言うことで、『エクソシスト』に彼を引っ張り出すことに成功したのだ。
これで絶対大丈夫!
ただし、チャンピオンまつりとは異なり、ロードショー館に子供たちだけでは入れない。
そこでお目付け役としてゲンドウが選ばれたのだが、必死になって眠ろうと試みていたことは彼だけの秘密である。
恋愛映画や文芸モノが好きなゲンドウとしては恐怖映画など絶対に見たくなかったが、ユイに指名されると逆らえるわけがなかった。
さて、アスカは一旦子供コーナーへ向かったものの、また心霊本の置いてある場所に舞い戻ってきた。
そして、思い切って1冊を手にする。
怖々とページをめくり、3枚ほどの心霊写真を見るまでは我慢できたが4枚目でもう耐え切れなかった。
彼女はいかにもこんなの怖くないという風情で本を置くと、ゆっくりとそのコーナーを後にする。
数歩歩いた後は早歩きで子供コーナーへ向かった。
行き先はもちろんシンジのところである。
怖くなった時にはシンジがいれば大丈夫なのだ。
アスカはシンジの背中をばんと叩いた。
びっくりした彼は本を落としそうになって、恨めしげに振り返る。
こんなことをするのは世界中でたった一人しかいない。
「アスカぁ…、びっくりさせないでよ」
よし、この顔。
これで大丈夫。
アスカは一安心して、シンジが落としかけた本を睨みつけた。
「はあ?『魔人ゴング』?アンタ、それ持ってたんじゃなかったっけ?」
「持ってるけど…。何となく」
「ばっかみたい。どうせ立ち読みするんなら持ってない本にしなさいよ」
アスカはぐるりとコーナーを見渡した。
「やっぱり、世界怪奇スリラー全集は置いてないわねぇ」
「はは、よかった。あったら買うんだろ、どうせ」
「どうせって何よ。どうしてあんなに面白い本が売ってないんだろ。不思議っ」
「売ってなくてよかったよ。あんなのどうして読みたいのかわかんないよ、僕」
「面白いからに決まってんでしょ。ヒカリの家に2冊あるのよね。お姉さんが買ってたんだって。また借りてこよっかな」
「か、借りるんなら、自分の家で読みなよ。わざわざ僕の部屋で読むことないじゃないか」
「アンタが読んで欲しいって言うから」
「言ってない。読んで欲しいなんて1回も言ってない」
「そうだっけ?」
アスカは惚けた。
あんな怖い本をたった一人で自分の部屋で読むなどできるわけがないではないか。
「アスカが勝手に読むんだろ。それに自分が借りた本をどうして僕の部屋に置いておくんだよ」
「アンタが読みたいと思ってさ。優しいでしょ?」
「僕が読むわけないだろ。あんな怖い本」
アスカはにんまりと笑った。
それは重々承知の助。
アンタの困った顔が見たいからわざと置いて帰るんじゃないのよ。
もっともそれはシンジも承知している。
彼には怖いもの見たさというような性癖はまるでない。
怖いものは怖いので絶対に見たくなどない、という言わば素直な性格をしているのだ。
どうしてわざわざ怖くなるようなものを見たいのだろう、アスカは。
で、どうして僕は『エクソシスト』なんか見に行っちゃったんだろう。
東宝チャンピオンまつりに一緒に行ってくれるっていっても、そんなの僕一人でも…。
ああ、やっぱり駄目だ。
どんなに見たくても一人で映画館には行けないよ、恥ずかしくて。
トウジたちも「俺たちは怪獣卒業」なんて冷たいこと言ってくれたもんなぁ。
やっぱり、アスカと一緒なら大丈夫だし、それなら我慢して『エクソシスト』を見るしかなかったわけか。
でも、冬休みにはあるのかなぁ。
毎年夏休みにはあったのに、今年はチャンピオンまつりなかったもん。
もしなかったら大損だよ、まったく。
母親たちは待ち合わせに30分遅刻し、アスカは罰だとシングルレコードを1枚買わせた。
『エクソシスト』のテーマ曲のレコードを選んだ彼女を見て、シンジは素直に顔を歪めた。
どうせあのレコードを僕の家で聴くんだ、絶対に。
あんなの聴いたら思い出しちゃうだろ。
そのシンジもちゃっかりレコードを買ってもらった。
アン・ルイスの『グッド・バイ・マイ・ラブ』を何故選んだのか自分でもわからなかった。
『ウルトラマンレオ』を手にした時にアスカが馬鹿にしたような顔をしたので、アン・ルイスのレコードに変えたのだ。
で、その変えた理由が彼自身よくわからなかったのである。
その光景を見て、母親たちは笑いをかみ殺し、この翌日二人だけで会った時に大笑いをした。
シンジがアン・ルイスを選んだのはアスカに対する面当てに違いないと、母親たちは断定していた。
そしてその面当てはかなり巧くいったのである。
芸能人と比べられたような気がして、彼女は不機嫌になった。
もし山口百恵などを買っていればそれほど腹立たしくはなかっただろう。
外国人の容姿をしているからこそ、そのレコードをシンジが買ったことにむかむかとしたものを覚えたのである。
帰宅したアスカはアン・ルイスの悪口を言い続け、あんな曲なんか全然いい歌じゃないと鼻で笑ったのだ。
いい曲だと歌詞を全部覚えていたくせにそういう反応をした彼女の真意はどこにある?
本人はわかっていないのだが、こちらも母親たちは承知していた。
互いに意識しているだけのこと。
これだけ笑えたのだから、シングルレコードなど安い出費だったと二人は頷きあっていた。
8月に入ると、林間学校があった。
これは学校主催のものではなく、町内会の主催のものだ。
アスカとシンジは1年生の時からずっと参加していた。
2泊3日の林間学校は楽しいものではあったが、シンジにとっては1年の中でトップレベルに当たる精神的苦痛を受ける場所でもある。
それは2日目の夜に開催されるきもだめしの所為だった。
林間学校は彼らが住む市の野外センターのバンガローを借りて行うのだが、その野外センターはやや人里から離れている。
近くの村落までは1kmほどあり、野外センターの周囲には整備された遊歩道が森の中をくねるように走っている。
その遊歩道がきもだめしの順路であり、そのゴールは村はずれにある古びた祠だった。
どこの自治会もこの野外センターを訪れると夏にはきもだめしを開くのが常で、このルートはいわば定番である。
低学年の子供は大人をリーダーとした集団行動でぞろぞろ歩く。
中学年は5人ほどのグループでわいわい言いながら歩く。
そして高学年になると、男女のペアにして二人で歩くのだ。
アスカとシンジは5年生になった。
だから今年は二人できもだめしに参加というわけである。
基本的にはペアはくじ引きなのだが、例外があればそれは認めている。
例外というのは自己申告でペアを要求した場合だ。
もっともこれは兄妹などのパターンくらいだったのだが、今年は違った。
「はいはぁ〜い!アタシはシンジと行きまぁすっ!」
そうくるのではないかとシンジはがっくりきた。
でもこの事態は去年から予測はしていたのだ。
アスカは自分とペアになるだろう、と。
しかし落胆はするけれども、別の女の子と一緒の方がいいかというとそれはそうでもない。
アスカの方が気が楽だ。
少なくともスタートとゴールは手を繋いでいないといけないのだから、親しくもない女子と手を繋ぐのは運動会のフォークダンスくらいで充分だ。
もっともアスカのことだから、きもだめしの最中にいろいろと悪戯を仕掛けてくることも考えられる。
それは大いに嫌なことだが、でも…。
シンジはそっと溜息を吐いたが、アスカ以外の子供にふがいないところを見られるのは物凄く嫌だ。
何故なら彼女にはこれまで散々情けないところを見られているからである。
去年までのきもだめしで、脅かし役の大人が何か仕掛けてくると真っ先に悲鳴を上げていたのだ。
おかげで怖がりのシンちゃんとみんなに冷やかされていたのだが、そういうことは今年でもうなくなる。
それだけは嬉しい。
それは今年も驚かされることはあるだろうけど、少なくともみんなに見られることだけはないのだ。
祠にたどり着けば、そこで引換券をもらえる。
町に戻って、町内にある青葉パン店でその券を渡せばアイスクリームがもらえる仕組みだ。
シンジにすればアイスクリームなどいらないからきもだめしに参加などしたくないというのが本音だった。
だがそこまでの主張ができる彼ではない。
だから、去年まではいやいやきもだめしに加わっていたのだ。
運がいいのか悪いのか、これまで雨天中止は一度もない。
今日も満天の星空が輝いていた。
「お〜い、惣流。シンジがしり込みしても怒るんじゃないぞぉ」
「泣き出したらゴールできないからな」
「ゴールできなかったらアイスが余るんじゃないか?」
「やった!その時は俺がいただき!」
「うっさいわね!6年の癖にがたがた言うんじゃないわよっ」
アスカは上級生相手でもまったくひるまない。
同級生にはもちろんのこと、男子とでも平気で話すことができる。
シンジにとっては考えられない芸当だった。
目を丸くしている彼の方を向くと、アスカは指を鼻先に突きつけた。
「い〜いっ?アイスを食べられないなんてことになったら、ただじゃ済まさないわよっ。
そうねぇ、林間学校から帰ったら毎日アイスを奢ってもらおうかしら」
「えっ、そ、そんなぁ」
「それがいやなら、黙って着いてくるってこと。ふふんっ」
「おいおい、だったらゴールできない方が得じゃないのか?」
ちゃちゃを入れてきた6年生の言葉にアスカは「その手もあるか」と腕組みをしたのでその場は笑いに包まれる。
笑わなかったのはシンジだけだった。
その時すでに下級生グループは出発済みで、中学年組もバンガローの前で出発の合図を待ってわいわい騒いでいる。
学校の旅行の場合は学年単位だから、町内の子ども会での林間学校は別の意味で楽しい。
この当時の子供たちは結構縦割りでも遊ぶことが多かった。
ゴムボールの野球などを町の公園で遊ぶ場合は、同学年だけで遊ぶより他の学年も交える方が面白いからだ。
そういう意味で馴染みの顔ばかりの子ども会のイベントは自宅の延長線上で楽しんでいるのかもしれない。
アスカとシンジのペアの出発は5年生組のラストだった。
その後は6年生の男女のペアが5組と男子のトリオが1組で終わりだ。
昭和40年代前半に県営住宅の大きな団地群ができ、そのすぐ近くに一戸建ての住宅が競うように軒を連ねたこの地区は、とにかく子供の数が多かった。
隣町に新しい小学校を建設中だが、現状は昼休みになると校庭は芋の子を洗うような状態になってしまう。
特殊教室を通常の教室に替えて何とか対応している状態である。
大人たちはそんな子供たちの実情を可哀相だと口々に言うが、当の子供たちは自分たちの世界しか知らないのだから不満など覚えていなかった。
そんなことを考えるよりも、今を楽しく過ごしたかったのである。
父親は仕事に忙しく休みは日曜日だけ。
休みに純粋な旅行に行った生徒などクラスでも数えるばかりで、ほとんどは父母の実家にお盆に帰るだけだ。
家はあってもガレージのないものがほとんどというこの時代。
そういう子供たちにとって子ども会の林間学校は格好の遊び場であり大きなイベントだったのだ。
アスカの実家はドイツだからおいそれとは帰れない。
シンジの方は両親ともにすでに父母を亡くしているので田舎というもの自体が存在しなかった。
だから、二人とも夏休みなどになると両家共同で動くことが多かったのである。
そんな二人が出会ってから既に7年が経過していた。
アスカのような白人の容姿の子供は町の中で浮いていたのだが、シンジとのまるで漫才コンビのようなやり取りの所為で学校や近所で変な目で見られるということはなかった。
そのために幼稚園や小学校では、極力二人を同じクラスにしていたのである。
小学3年生ではじめて違うクラスになったのだが、その頃にはもう惣流という暴れん坊は名物と化していたわけだ。
彼女を異端視する者の方がもぐりとなっていたのである。
流石に転校してきた子供は外人の存在に目を丸くするが、べらんめえ調で友達たちと騒ぐアスカにすぐ慣れる。
しかし、幼稚園の年少組の時、苛められて休みがちだった彼女のことをほとんど誰も覚えていないのだ。
何しろそれはほんの1ヶ月にも満たない期間だったのだから。
ゴールデンウィークの間にお隣に引っ越してきた碇家の息子と仲良くなってからは見違えるばかりに快活になったアスカだ。
それをしっかり記憶しているのは惣流家の親子だけだ。
その後生まれた惣流家の長男はそんなことなどまるで知らずに育っている。
幼稚園でも「ほら、アスカちゃんの弟だよ」と一種畏敬の目で見られているほどだ。
さて、そのような経緯をシンジは知らない。
彼はアスカに初めて出逢った時、とんでもないことをしでかしてしまったのだ。
引越しの片付けの邪魔になるからと、彼は隣家に快く預かられた。
その時、彼はお絵描きの遊びをしたのだが、アスカのクレヨンを折ってしまったのだ。
しかも彼女が一番好きな赤色のクレヨンである。
アスカは彼もまた自分を苛めているのだと誤解してぼろぼろ涙をこぼして大泣きした。
たまたま手伝いをしにアスカの母が隣に行っていた時だったからシンジは誰にも縋れなかった。
少なくともクレヨンを折ったのは自分だし、そのことで彼女が泣いているのもわかった。
日頃、母親から「女を泣かせる男は最低だ」と聞かされていたので、何とかアスカをなだめようとした。
しかし、どんなに言葉を尽くしても彼女は泣き止まない。
そして…。
彼も泣き出した。
それはちょうどアスカが泣き疲れた頃だったので、あまりに凄いシンジの泣き様に彼女の涙は枯れてしまった。
これまで自分が泣いたことはあっても、人を泣かせたことはない。
アスカはおろおろして、何とかして今日会ったばかりのシンジを泣き止まそうと試みた。
しかし、彼女もまた宥める術を持たなかったのである。
そして、またアスカも泣き出した。
結局、二人は泣きつかれて抱き合うようにして子供部屋で眠ってしまったのである。
それが二人の出逢いで、そして始まりだったのだ。
そして、この夜、さらなる転機が二人に訪れたのだ。
「そうそう!それから、ほらほら、あそこのプリン、おいしかったわよねっ。大食堂のっ」
「僕のを盗ったくせに…」
「もうっ、男の癖にしみったれたこと言うんじゃないわよ。ほんのちょっとしか食べなかったでしょ。ふんっ。あ、そうそう…あのねっ」
二人のきもだめしが始まって5分。
バンガローの光りはもう見えず、灯りは二人がそれぞれ手にした懐中電灯だけが頼りである。
もっとも道は一本道でよほど馬鹿な真似をして森の中に入って行きでもしない限りは迷うわけがない。
その5分もの間、アスカはほとんど喋り続けている。
それに最初はシンジの手を引っ張って歩いていたのだが、今はすぐ隣を歩いているのだ。
つまり歩調をシンジに合わしているのである。
是は常に先頭を歩きたがるアスカとしては異常と言っても差し支えない事だ。
さすがに鈍感で有名なシンジでも変だと思い始めた。
何故、アスカはこんなに喋りっぱなしなのだろうか。
そして、手を離すどころか、バンガローが見えなくなった辺りからアスカはさらに力を込めてシンジの手を握り締めている。
まさか…。
もしかして、アスカは怖がっている?
シンジはふっと笑ってそのことを否定した。
あの怖いものが大好きなアスカがそんなことあるもんか。
しかし、シンジのそのわずかに漏れた笑い声をアスカは耳ざとく捉えたのだ。
足を止めた彼女は突然騒ぎ出した。
「ち、ちょっと、やめなさいよ!馬鹿シンジ!変な笑い方するんじゃないわよ!アンタ!このアタシを驚かそうっていうの?はははははは!百万年早いっていうの!」
とんでもない過剰反応である。
しかも、手の方はさらに強い力で握られた。
「いたたたたっ、痛いよ!」
「きゃっ、驚かさないでよ!馬鹿ぁ!」
あまりの痛さに大声を出したシンジの手を握り締めていた方の手は動かせなかったので、空いていた左手をアスカは大きく振り回した。
その拍子に掴んでいた懐中電灯が宙を飛んだ。
ガシャンという派手な音は立てなかったものの、道に落下した懐中電灯は灯りを消した。
「げっ!」
女子にあるまじき悲鳴を上げたアスカはシンジの手を引っ張って懐中電灯に駆け寄り拾い上げる。
スイッチを何度も入れたり消したりしてみるが、光りはもう灯らない。
「豆球が切れちゃったんだね、きっと」
愛想笑いもつけて、シンジは悠然と言葉を発した。
しかしアスカの方はそれどころではないような様子だ。
「ど、どうすんのよ!懐中電灯が切れちゃったのよ!アンタ、何ぼけっとしてんのよ!何とかしなさいよ!」
「何とかって、こんなところに電気屋さんなんかないよ」
冗談や皮肉でそんな発言をしているのではないから余計に腹が立つ。
アスカは頬を膨らませて残った懐中電灯を取り上げようとした。
「うっさいわねっ。それよりアンタの懐中電灯寄越しなさいよ!」
「えっ、でもこれひとつだけだし…」
「はぁ?そのひとつしかないものをアンタは独り占めするつもりなのねっ」
「え?だって自分の壊したのアスカじゃないか」
「がたがた言わずに寄越せっ」
何を言っても無理というのは承知していたから、シンジの懐中電灯はあっさりとアスカの手に移動した。
そして壊れた方はシンジの手に。
その間も互いの片手は繋がれたままである。
文字通り、死んでも離すものかという感じでアスカの指はシンジの手に食い込んでいた。
「ほらっ、何とろとろしてんのよっ。さっさと行くわよ!」
ぐいっと手を引っ張ってアスカは前進する。
シンジは別にとろとろしていない。
全部アスカの所為じゃないか、と思いながらも彼は何も言わなかった。
その代わりに周囲を見渡して、何かを確認すると小さく頷いてアスカの歩幅に合わせて歩き出した。
厳密に言うと、何かを確認したのではなく、確認できないことを確認したのだったが。
祠までの途中、2回ほど脅かし役の大人が出現した。
その度にアスカは吼え、シンジと大人たちは苦笑した。
彼女が虚勢を張っていることはそのへっぴり腰を見れば一目瞭然だからだ。
「あ、あんなのでこのアタシが怖がると思ってんのっ?はははは!シンジじゃあるまいし!」
今回はシンジは驚く暇がなかった。
何しろ、神経過敏状態のアスカは脅かし役が何もいないうちから、いや、ただ風で木の葉が鳴るだけで大騒ぎするのだから。
そしてその度に言い訳するのだ。
これは他のみんなを怖がらせるために大声を出しているのだとか、脅かし役にサービスしてあげているのだとか。
シンジは思った。
こんなに怖がりの癖にどうして『エクソシスト』や『世界怪奇シリーズ』みたいなものを見たがるのだろうか。
あ、もしかして…。
この時点で彼はようやく気がついた。
アスカはこれまでの夏休みで心霊番組の特番があるときは必ず碇家のテレビで見ていたではないか。
そしてその横にシンジを座らせ、彼のために手を握っていてあげようかなどと毒づいていたのだ。
確かにあの霊写真などの紹介では、シンジは時にテレビを消してよと口走るほど怖がったのだ。
再現フィルムでは驚いたりはするがそこまで怖がっていないのに。
しかし、基本的にシンジは心霊番組を怖がるのは確かである。
少なくとも面白がって見る事は一度もなかった。
それが面白いからアスカは彼をからかうためにそういう番組を一緒に見ていたと思い込んでいたのだが…。
額に白い三角形の布をつけたジャージ姿の世話係の青年がアスカの叫びに顔を引きつらせて「もう少しだからね」とシンジに励ましの言葉を送ってから、もう50mほど歩みを進めていた。
アスカはまるで夢の中のように思うように進めることができない足を何とか前に前にと出している。
なんとしてもシンジには自分が怖がっていることを悟られてはならない。
少しだけぼろを出してしまったかもしれないが、相手はシンジだ。
言い含めることなど簡単な筈だと、彼女は自分に言い聞かせていた。
身に纏っていた装飾がすべて剥れてしまっているなどとは思いもよらず、アスカは自分を必死に落ち着かせようとする。
しかし、彼女は不思議だった。
今日はどうしてこんなに怖がってしまうのだろうか。
いつもシンジと一緒なら怖くないのに…。
いや、違う。
怖いのだけれども、声や態度に出す前にシンジの方が先に動いていたからだ。
それがどうして今日は?
どうして今日はそれほど怖くないんだろうか?
シンジも不思議に思っていた。
自分が驚くより先にアスカが反応しているから、と最初は思っていた。
確かに最初はそうだった様な気がする。
しかし、今は違うのだ。
どう違うのかというのははっきりしないが、とにかく自分の中に何か奇妙な気持ちが生まれてきている。
それはいったい何だろう。
あ〜あ、アスカったら掌に汗びっしょりだよ。
手を拭きたくてもこんなに強く握り締められていてはどうしようもできないと、シンジは音に出さずに苦笑した。
そうしないとアスカがびっくりしてしまいそうだったからだ。
へへ、こんなのって初めてだよね。
幼稚園からずっと彼女に庇ってもらっているかのようにシンジは感じていた。
確かに口も悪いし、手も出る…が実際に頬やお腹などを叩かれたことなど一度もない。
頭をぱこんとはたかれたり、お尻や太腿にキックをくらう事はよくある。
だがそれで怪我をするようなことは絶対にないのだ。
逆にシンジが誰かと取っ組み合いをするときは加勢してくれるほどだった。
しかも、アスカは強い。
そういえば…、アスカが喧嘩して先生に叱られるのって全部僕が絡んでいたっけ…。
僕って弱虫だからなぁ。
そんな自分が今、彼女を守っているような感じで歩いている。
そこまで考えついて、ようやくシンジは気がついた。
そうか、今日はアスカがちょっといつもより怖がりだから僕ががんばってるんだな、うん。
彼は少し胸を張った。
いつもは臆病な自分なのに何故か彼女より強い立場に立っているということに、彼は誇りを覚えていた。
今日くらいは僕がアスカを守るんだ。
それは男というよりも少年らしい自負心だった。
その気持ちがアスカにも伝わっていたのだろう。
だからこそ、彼女は虚勢を張らずにシンジを頼ろうとしたのだ。
周りの目がない…わけではないのだが、それよりも怖いという感情の方が先に立っていた。
その感情を隠さずにシンジに主導権を渡したのは何故だろうか。
そこまで考える余裕はアスカにはなかった。
簡単なことである。
彼女にとってこの場所が安全圏内ではなかったというだけのことだ。
これまで彼女がシンジに対して強気でいられたのはアスカの領域内であったわけである。
家の中はもとより、学校や近所のみならず、映画館でもそしてバンガローや水遊びの川においても彼女は大丈夫だった。
それは闇が彼女を包んでいなかったからだ。
実は怖がりな彼女は寝る時いつも天井照明の豆電球を点している。
このような懐中電灯だけが頼りで、かつシンジしか周りに人間がいないという状況はアスカにとって初めてであったと言っても良い。
もっとたくさん人がいれば、見栄張りの彼女は虚勢を張ることができただろう。
しかしここには気の置けないシンジしかいない。
だから、素の自分が出てきてしまった。
親にしか見せたことがない、弟にも見せられない、怖がりの自分が顔を覗かせてしまったのだ。
そして、いくら気が置けない相手とはいえ、自分の弱さを見せてしまったのは…。
アスカ本人は気がついていないが、それはシンジを頼れる存在だと認識したからに他ならない。
ただ無意識のうちに認識したのだから、彼女が戸惑ってしまうのは仕方がなかろう。
何しろ自分を偽る余裕もなく、素直に感情を表してしまっているのだから。
「こ、こらっ、馬鹿シンジ!何黙ってんのよ!何か喋んなさいよ!」
「えっと、何喋ればいいの?」
「怖くないことなら何だっていいわよ!」
「そ、それじゃ…」
と、考えてみるがこういう時に限って思いつくのは禁じられたことばかりである。
この状況で「エクソシストは怖かったよね」などと言ったものならどうなるか。
それくらいの判断はつくシンジは一生懸命に他の話題を考えた。
しかし、極限状態に近いアスカがその短いシンキングタイムを許容できるわけがない。
「ああっ、もう!アンタって、物凄く意地悪っ?そうやってアタシを苛めてんのねっ」
「そんなぁ、苛めるわけないじゃないか。あ、見えたよ」
「ひえっ!な、何がっ?オバケ?幽霊?妖怪?悪魔ぁ?」
ぐわっと抱きつかれて、シンジはよろよろと足をふらつかせる。
なんと言ってもアスカの方が9cm背が高いのだ。
やせっぽっちの彼が支えきれるわけがない。
文字通り、シンジはアスカに押し倒されてしまった。
ごんっ、と音が鳴ったのは、二人のおでこや唇が接触したものではない。
アスカが持っていた懐中電灯が地面とキスをした音だった。
その音が響いた次の瞬間、あたりは真っ暗闇。
「ひいいいいっ!」
珍妙な悲鳴を上げたかと思うと、アスカは渾身の力を込めてシンジに抱きついた。
もっとも今は彼女が彼を押し倒している状況なので、胸の辺りにある彼の頭をこれでもかというくらいの力で抱き寄せている形である。
色気づいていないシンジにとっては息が苦しいという思いしかない。
ずっと後になって、そう、中学生になってからそういえばあの時柔らかい感触があったような気がすると思い出した程度だ。
この時はただ、苦しい、息をしたい、という切実な願望しかなかったのである。
唯一の灯りである懐中電灯が機能しなくなった今、アスカは暗闇の中シンジだけが頼りだった。
そのシンジもまた真っ暗闇の中にいる。
目を開けてもアスカの身体で何も見えないのだ。
息がまったくできないわけではないが息苦しいことこの上ない。
彼はアスカの背中を乱暴に叩いた。
しばらくしてアスカがシンジの頭を離したのでようやく彼は荒い息を弾ませながら彼女の身体の下から抜け出した。
彼は目をパチクリしたが、完全に闇の世界というわけではない。
僅かに月の光りなどでぼんやりと周りは見える。
彼の場合、もっと暗い状態にいたので目が慣れていたのだろう。
自分が持っていた懐中電灯は落としていない。
もっともそれも壊れてしまっていたからどうしようもない。
シンジはアスカの落とした懐中電灯を拾い上げようとしたが、その彼の足をがしりと掴んだのはアスカである。
「いやぁぁぁっ、置いていかないでぇっ!」
「ち、違うってば。懐中電灯が…」
「やだやだやだっ。助けてぇっ」
これが思春期のペアによるきもだめしであれば、もしかすれば問題のある方向性に移行していたかもしれないシチュエーションだが、何分彼らはまだ小学5年生。
そういう面映い言葉のやり取りにはまったく聞こえやしない。
まるで命の危険に襲われているかのような切羽詰った雰囲気である。
「大丈夫だって。あ、やっぱりこっちも壊れてるや」
「シンジの意地悪っ。怖いって言ってるじゃない!アンタが悪いのよ!」
「えっと、あ、そうだ、ほら、もうすぐしたら、6年生が来るよ。そしたら、懐中電灯を1本借りたらいいじゃないか」
「6年…生…?」
足にすがり付いていたアスカを立たせたシンジが言った言葉にようやく彼女は少しは冷静さを取り戻した。
そしてそれとともに彼女の特色である虚栄心がむくむくと持ち上がってきたのである。
こんな姿を他人に見られてたまるものか。
「い、行くわよ!ば、ば、馬鹿シンジっ。ほら!さっさと…見える?」
「うん、何とか…って、大丈夫なの?」
「全然大丈夫っ!追いつかれる前に行くのっ」
「う、うん。で、でも、もうちょっと離れてくれないと歩けないよ」
「やだっ」
現状は側面からアスカに抱きつかれているシンジである。
これで彼女が足までも彼の身体に絡めてしまえば、まさしく抱き枕。
アスカよりも身体の小さなシンジにその状態で動けるわけがない。
「おんぶ…」
「無理だよ、そんなの」
「ケチ」
少しは悪態も出てきたところを見ると、アスカもパニックからは収まってきたようだ。
少年の身体から少しだけ離れて、そっぽを向いたのだが暗闇が怖く視線をすぐにシンジに戻す。
それぞれが壊れた懐中電灯の1本ずつを持ち、シンジは右手で彼女と手を繋いだ。
「アンタ、ホントに見える?」
「うん、だいたいだけど。アスカは見えないの?」
「見えるけど見えない」
どっちなんだよと突っ込みたかったが、シンジは結局その言葉を吐かなかった。
繋いでいるアスカの指が微妙に震えていたからだ。
彼はそっと右手に力を入れ、そして「じゃあ行くね」と歩きはじめた。
祠には教えられたとおりにアイスの引換券が置かれていた。
風で飛ばぬように小石の下に置かれていた短冊のような紙を二人はそれぞれ手にする。
「これでアイスが食べれるね」
「どうだっていいわよ、別にアイスなんて…」
ぶつぶつと呟くアスカは唇を尖らせた。
「えっ、いらないの?」
「いらないなんて言ってないでしょ。ふんっ」
「わけわかんないよ」
「うっさいわね、男の癖に。よこしなさいよっ」
「ええっ、僕のを?」
「当たり前でしょ。ふんっ、それで当たりを出すから、そしたらそれをアンタにあげるわ。優しいわよね、アタシって」
それなら自分の分で当たりを出して2本食べればいいじゃないか。
そう言い返そうとしたが、結局シンジは口にはしなかった。
やっといつもの元気なアスカが戻ってきたのだからと、素直に引き換え券を渡したのだ。
アスカはニヤニヤ笑いながらポケットに2枚の引き換え券を入れ、ぐっと顎を上げた。
「さっ、じゃ帰りましょうかっ。馬鹿シンジ、さっさと案内しなさいよっ」
突き出された白い手をシンジは握った。
しばらく離していたから少し汗ばんだ感触は和らいでいる。
この祠からの帰りのルートはそんなに距離はない。
ほんの300メートルほどである。
森の中は暗く、壊れた懐中電灯では何の役にも立っていないが、それなりにアスカの目も暗闇に慣れていた。
しかし、彼女はそんなことを言わない。
見えないことにしてシンジに案内させているのだ。
それは彼を困らせて楽しもうという気持ちであったのだが…。
だが、バンガローに到着して彼の手が離れてしまったとき、彼女の心にちくりと寂しさのようなものが生まれていた。
シンジはアイスクリームを食べられなかった。
いや、食べたことは食べたのだが、それはアスカが奢ったものである。
パン屋に引き換えに行ったが当たらなかったわよと、胸を張る彼女はその手に2本のアイスバーが入った紙袋を掴んでいた。
パン屋さんから駆けてきたもののやはり真夏である。
じんわりと柔らかくなってきていたので、アスカは碇家の応接間で一緒にアイスを食べた。
溶けて落ちてしまっては大変と、二人は会話もせずに一心不乱にアイスバーと格闘をした。
結局、その2本のどちらにも当たりの文字はなかったのである。
「当たらないなぁ。アスカ、ちゃんと選んだ?」
「うっさいわね、たった2本じゃないのよ。当たんなくてもアタシの所為じゃないわ」
「2本じゃないだろ。その前にきもだめしの2本があるから、全部で4本じゃないか」
「あ、うん…そうよね」
さっと目を逸らしたアスカを見て、シンジは勝利の笑みを漏らした。
たまには自分も勝つことがあるのだと思うと、嬉しかったのである。
だが、彼は気がついていない。
あの引換券はパン屋さんの手には渡っていなかったのであった。
では、どこに?
シンジの部屋で扇風機の取り合いをしながら夏休みの宿題に取り組んだあと、夕方になってアスカは自宅に戻った。
もうすぐご飯よという母の声に威勢良く返事をして、彼女は自分の部屋に上がる。
宿題のプリントを入れた布袋を机の上に放り投げ、それから学習机の一番下の引き出しを開けた。
その中、色々なものが入っている一番奥の奥。
アスカはそこから、小さなチョコレートの缶を取り出した。
これはドイツに住む父親の実家から送ってきた缶を小さなアスカが自分のものにしたのである。
それを宝箱にするのだと色々なものを入れていた。
まだ幼稚園に入るかどうかという頃だったので、中にはゴミかと見間違わんばかりに種々雑多なものがつめこまれていた。
ただし、他人にはゴミであっても入れた当人にとっては宝物なのだ。
その色々な宝物をアスカは別の箱に移動させた。
それが数日前、林間学校から帰ってきた日の夜のことだ。
食事をし、風呂に入り、それから眠ろうとしたのだがどうも眠れない。
確かに蒸し風呂のような暑さで扇風機を“中”にしていたが、眠れないのはそのためではなかった。
その前日のきもだめしを終えてから、どうにも心が落ち着かないのだ。
アスカは布団の上で右手を天井に差し伸べた。
豆電球の点いた部屋に細く白い手が何かを求めるかのように指を動かす。
さて、自分は何を求めているのだろうか?
ふと、アスカはシンジの言葉を思い出した。
祠からバンガローに戻る途中のことだ。
アスカは彼に何故アン・ルイスのレコードを買ったのか尋ねたのである。
そして、シンジはあっけらかんと答えた。
アスカが口ずさんでいるのを聴いて、いいなと思ったからだ、と。
その時は、彼女は「あ、そ」とだけ返事をしただけだった。
しかし、心の中では嬉しかった。
何となく、理由もわからずに。
ただ、繋いでいる右手に力が少しだけこもったのを自覚していた。
シンジの手は汗ばんでいたが、全然不快ではなかった。
そうだ、この手はシンジの手を求めているのだ。
一瞬浮かんだその解答はアスカを布団の上に起き上がらせた。
座り込んだ彼女は胡坐をかき腕を組み、「うぅ〜ん」と唸った。
この感情はなんだろう?
もしかして…。
彼女は部屋の電気を点け、机の前に向かった。
その上にはアイスの引換券が2枚乗っている。
明日の朝に引き換えに行こうと決めていたのだ。
引換券をじっと見つめたアスカはだんだん胸がドキドキしてきたことに気づいた。
ああ、なんと凛々しかったではないか。
怖がる私を冷やかしもせずにずっと守ってくれたシンジ。
この時、彼女の感覚にある補正が入るようになったことをアスカは知らない。
好きになった人の言動が恋愛フィルターを通るために美化されてしまうのだ。
そのことを意識できないからには、それがアスカの恋の始まりなのだろう。
補正が入ってしまったシンジの行動には美しいものしか残っていない。
ほんの少しだったが、アスカに対して冷やかしたり邪険にしたことなどすべて消去されている。
アスカは鼻息も荒く決断した。
この引換券をアイスになど換えてなるものか。
これは記念品であり、宝物なのだ。
そうだ、宝物なら宝箱に入れないと!
彼女は宝箱を頭の中で捜し求めたが、生憎該当するものを最近見たことがなかった。
乱暴者と噂される彼女はここ数年そういう愛らしい行動などしたことがなかったのである。
しかし、彼女は思い出した。
ずっと昔に宝箱を持っていたはずだ。
その場所は…。
アスカは机の引き出しの一番奥から宝箱を発掘した。
そして、その中を見たとき、彼女はにんまりと笑ったのだ。
色々なガラクタのような宝物の中に、あるものが入っていたからだ。
それは、赤いクレヨン。
一度も使っていない、赤いクレヨンが1本だけ宝箱に入っていたのだ。
アスカは胸の中が熱くなった。
なんだ、この時からシンジのことが大好きだったんじゃないの、アタシってば。
シンジと初めて出逢った時、折れてしまったアスカの赤いクレヨン。
真っ二つに折れたそれの代わりにと、彼は自分のまっさらのクレヨン箱の中から赤いものを1本抜いてアスカに渡したのだ。
ごめんねと謝って渡されたそれをアスカは自分のクレヨン箱には入れずに宝箱に入れた。
そして折れたクレヨンを彼女は使い続けたのである。
何故そんな事をしたのか。
幼き日の自分は答えてくれないが、昭和49年のアスカは勝手に理由をつけた。
逢ったその日からシンジのことが大好きだったからよ!
アイツのものは全部アタシのもの!
アタシの宝物はシンジに関するものなのよ!
アスカは宝箱の中のものを他の箱に移し変え、赤いクレヨンと例の引換券を2枚だけ、宝箱に移した。
これからもっともっと宝物は増えるだろう。
いずれはもっともっと大きな宝箱が必要になるに決まっている。
その時はその時のことだ。
彼女はそう決意し、宝箱を引き出しに安置したのである。
「アスカぁ、勘弁してよ。僕、やだよ。見たくないよ」
「ふんっ、そんなの関係ないわ。アタシが見たいのよ。アンタの事なんかどうでもいいの」
「そんなぁ!酷いよ」
「うっさい。アンタは黙ってアタシについてくればいいのよ」
「イヤだよ、そんな。夏休み前に『エクソシスト』につきあっただろ。勘弁してよ」
2学期が始まってすぐのこと。
夕刊の新聞広告を見て、アスカはすぐに隣家に乗り込んだ。
そして夕食前のシンジに一緒に映画を見に行くのだと宣言したのである。
彼の反応は予想したとおりだった。
何しろ、今度の映画も恐怖映画だったからだ。
「悪霊の家だって書いてるじゃないか。絶対にイヤだよ。悪魔みたいなもんじゃないか」
「違うわよ。これは乗り移るんじゃなくて、出るのよ。うん、間違いないわ」
「どっちも一緒だよ。怖いことには変わりないじゃないか」
シンジは何とか逃れようと力説した。
アスカは机の上に置いた新聞をバンバンと叩く。
「アンタね、『ヘルハウス』よ『ヘルハウス』。すっごく面白そうと思わない?」
「思わない」
きっぱりと言うシンジにアスカは内心舌なめずりをする。
どうやって彼を一緒に映画館行きさせるか。
最終的には絶対に同行することは確定しているから、後はシンジにうんと言わせるだけのこと。
家を出る前に母親に同行してくれるかと尋ねたところ、ふたつ返事でOKしてもらったのである。
その母親の笑顔を見てアスカは直感した。
この笑みは娘の感情を見抜いているのかもしれない。
映画館で娘とその幼馴染改め想い人の動向をその目で見てみたいと思った。
あの母親ならやりかねない。
もしかすると、今の今、この碇家の1階でアスカの母親がシンジの母親にこのことを伝えているかもしれない。
一緒に行って楽しまないか、と。
もし、そういう話になっていれば、モロバレしている。
でも、それがどうというのだ。
アタシの恋路を邪魔するというのなら例え母親でも許しはしない。
でも協力してくれるならば、全然OK!
「アンタ馬鹿ぁ?この映画に行かないとチャンピオンまつりは無しってことになるのよ」
「えええっ、そんな!」
がたんと音を立ててシンジが椅子から立ち上がった。
「だ、だ、だ、だって、約束したじゃないか。『エクソシスト』を一緒に見に行ったらチャンピオンまつりに付き合ってくれるって」
「うん、言ったわよ。でも『エクソシスト』1本だけとは一言も言ってなかったけど?」
しらばっくれるアスカをシンジは物凄い目つきで睨みつけた。
わっ、怒ってる。
ちょっと、拙かったかしら。
アスカは路線を美修正した。
いや、大修正である。
「でも、アンタにとってはいい条件だと思うんだけどな。だって、チャンピオンまつりの方は1回だけじゃないのよ」
「え…?」
「これからずっと、付き合ってあげるって言ってんの。大人になっても見たいって言うなら、いくつになっても付き合ってあげるわよ」
シンジの瞳が微妙に動いている。
一生懸命に考えているに違いない。
大人になっても怪獣映画に行きたいと思うのかどうか。
それくらいの判断ができる年頃なのだ。
アスカはさらに付け加えた。
「ま、チャンピオンまつりにあきたら、別のにつきあってあげてもいいわよ」
「で、でも、アスカって字幕で映画を見るのはイヤだって言ってなかったっけ?テレビで日本語で見る方がいいって」
確かに言った。
数ヶ月前の発言を覚えてくれているとは嬉しいではないか。
思わずにやついてしまいそうになるのを抑えて、アスカは逆に表情を強張らせた。
「くわっ、それ何?アタシに喧嘩売ってるわけぇ?アタシはね、日本生まれの日本育ちの純粋な日本人なのっ。英語なんか全然知んないわよ」
「はは、そうだよね。『グッド・バイ・マイ・ラブ』の英語で喋るところは適当に誤魔化してるもんね」
「何ですってっ!」
今度は真剣に腹が立った。
事実だから余計に頭にくるのだ。
その時、アスカは決意した。
先ほどの提案にさらに上塗りをした、さらに魅惑的な約束を交わすのだ。
「ま、いいわ。確かにそうだから。よし、じゃあ、アタシは今日から英語の勉強をするから」
「えっ。日本人だから英語なんか必要ないって言ってなかった?」
「知んない。とにかく、アタシは英語がペラペラになるの。ドイツ語も覚えてやる」
「ど、ドイツ語も?」
「だって、ドイツ語じゃないとドイツのお婆ちゃんとお話しするのに困るじゃない。ふふん、アタシは天才だから中学に入るまでに覚えてやるわ」
「そ、そんなの無理だろ」
「無理じゃないっ。じゃ、賭ける?」
不敵に笑ったアスカはもし日常会話ができるようになっていなければ…と切り出した。
その時は、13歳から後のシンジの誕生日にはずっとプレゼントをしてあげると偉そうに告げた。
アスカに対しては被害妄想的なシンジは、そのプレゼントはそこらに落ちている小石とか蛙などのとんでもないモノだろうと口にし彼女を怒らせた。
ちゃんとアンタの希望を聞いてあげるわよ!と叫んだアスカは計算通りの成り行きに内心笑いを押さえられない。
それならいい条件だと考えたシンジだったが、そうなるともしアスカが約束を果たした時が怖くなる。
その時はまさか僕に物凄く高いプレゼントを寄越せって言うんじゃないよね、と半ば腰を引き気味な彼を見て、アスカは残念ながらもその条件を変更せざるを得なかった。
そして彼女が提示したのは、中学に入学してから英語の家庭教師をしてやるという、シンジにとっては解釈不能の条件であった。
それで自分が得をするのかどうか。
英語の授業など考えたこともないので全然見当もつかない。
彼が戸惑っていると、アスカにとっての救いの主が階段を上がってきた。
「ごはんよ。アスカちゃんも帰りなさい」
あ、でも…とアスカが口にしようとした瞬間、碇ユイはすぐに言葉を継いだ。
それは何も口を挟めさせるものかという勢いだった。
「今の、いい話ね。アスカちゃんが英語の先生してくれるなら、おばさん助かるわ。
まあ、ただでっていうのはかわいそうだから、レコードを1枚くらいなら買ってあげようかしら?」
「わっ、LP?」
「あら、シングルって言おうとしたのに…。まあ、いいわ。月に一枚買ってあげる」
「やった」
「ち、ちょっと待ってよ。勝手に決めないでよ」
シンジが慌てて口を挟むと、じろりと母親に睨まれる。
父親でさえ目を逸らしてしまうという、氷のような眼差しにシンジが堪えられるわけがない。
「じゃ、毎回100点とれるっていうの?あなたは。この前の国語のテスト、何点だった?」
「えっと、85点」
「日本語でさえ85点しかとれないんじゃない。アスカちゃんは何点だった?」
「98点です。1問間違えちゃった」
わざとらしく舌をぺろりを出すアスカをシンジは横目で睨んだ。
「まあ優秀。それじゃ英語も絶対に完璧ね。それじゃ中学になったらうちの馬鹿息子の家庭教師をよろしくお願いね」
「か、母さん!それは賭けに負けたときのことで…」
「黙りなさい。そもそも賭けって何?母さんに説明しなさい」
きっぱりと言われてしまうとしどろもどろになるしかないシンジだった。
映画の件と英語の件を説明すると、ユイは大きく頷いた。
「そんなのアスカちゃんが勝ったらやっぱりプレゼントに決まっているでしょうが。家庭教師の方はそれとは関係なしでお願いするわ。あ、それから映画はもう行くことになってますから」
「えっ、ちょっと待ってよ」
「待ちません。もうお父さんにお願いしてますから。帰りに前売り券を買ってきてって」
「そ、そんなっ。父さんまだ帰ってないじゃないか」
「ちょうど今から帰るって電話があったからお願いしたの」
毎日会社が終ると電話をする習慣のある父親をシンジは恨めしく思う。
俯いてしまった息子を確認してから、ユイはアスカに向かってウィンクをした。
ああ、やっぱりおばさんにも伝わっちゃってる。
これってラッキー!
喜び勇んだアスカは、その日から英語の勉強を始めた。
まずは『グッド・バイ・マイ・ラブ』の英語の歌詞を覚えるという程度だったが。
ただ、アスカは新たな目標も忘れていなかった。
自分だけならシンジもすべてを受け入れてはいなかっただろう。
今日のあれはすべてユイおばさんの力だとアスカは自覚していた。
いつの日か…。
お母さんにさようならと、シンジに思わせてやる。
そして…。
何歳になったら結婚できるんだろうか?
自分は母親の28歳の時の子供の筈。
げげっ、今から17年?
それってどれくらいあるのよと、彼女は日数計算をはじめた。
やがて数え疲れ眠りについた11歳のアスカである。
それから数日後。
アスカの宝箱の中に映画の半券が収められることになる。
シンジより先に悲鳴をあげて彼にしがみつくのはなかなか難しかったが見事に成功した。
わざと離れた席に座ってくれた母親たちに感謝し、そして映画が終わった後にシンジの偉そうな言葉も丁重にいただいたアスカだった。
「アスカって本当は怖がりだったんだね。あの程度で悲鳴あげるだもん」
「うっさいわね!何よ、もうちょっと怖がったらどうなのよ!ふんっ」
わざとらしく頬を膨らましたアスカは、さっと腕を動かした。
スプーンの上にはシンジのプリンがかなりの量で掬われていて、すぐに彼女の口に運ばれる。
もちろん不満を表明したシンジだったが、その表情には大いに余裕があることをアスカは確認した。
馬鹿シンジったら、いい気になっちゃってさ…。
ま、コイツはまだまだお子様だから仕方ないけど。
「ん?どうしたの?」
「別に?プリンが美味しかっただけ。もっと寄越しなさいよ」
「やだ。ホントにアスカって子供だよね」
「ふんっ、馬鹿」
恋したことのないアンタの方が子供なの。
だけど…。
ああ、幸せ。
いつかは恋愛映画とかにも一緒に行けるかな…。
当然、親抜き、で。
そう思った彼女はストローに口をつけ、ずずずっとクリームソーダを啜るのだった。
− おしまい −
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