惣流アスカはテレビのチャンネルをがちゃがちゃと回した。
本当はもっと勢いよく回したいのだが、先日ついにチャンネルの部分が外れてしまい両親に大目玉を食らったところだ。
従って、彼女としてはかなり譲歩して手首を捻っている。
それでも結構細かい音がしているのだが。
先ほどまで見ていたNHKがローカルニュースに変わったので、何か目ぼしいものはないかと民放のチャンネルを見てみたのだ。
すると、『キリンものしり館』が目に留まった。

「今日は何の日…かな?」

くだらないミニアニメと思いながらもつい見てしまう。
他のチャンネルも似たような短時間の番組ばかりの時間帯だ。
特別面白いと思わなかったが、それでもひとつためになったとアスカは微かに笑った。
その時だった。
キリンレモンのコマーシャルがはじまった。
♪透きとおったときが心にひろがります♪
テニスウェアに身を包んだ、目の大きな娘がにっこりと微笑みかけてくる。

『なぎさは、蟹座。あなたは何座?』

アスカはテレビに向かって答えた。
容姿の点では確実に負けているという気持ちがあるからこそ、逆に胸を張り、対抗するように。

「ア・タ・シ・は、射手座っ。馬鹿シンジは双子座!ふんっ」




昭和短編集


星座グラスに愛をこめて

ー 1977 6月 

 


 2008.06.06        ジュン

 
 


 


食後、自室に戻った惣流アスカは膨れっ面で漫画雑誌を睨みつけた。
そこには星座占いが載っていて、彼女が睨んでいるのは自分の星座の欄である。
12月4日生まれの彼女は射手座だ。
その射手座と相性がいいのは…。
いや、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。
問題は何座と相性がいいかではなく、双子座との相性がどうかということなのだ。
雑誌にとって幸運だったのは、相性が悪いのではなく“悪くはない”ということだった。
もし悪いと明記されていれば、八つ裂きおよび火炙りの刑に処せられていただろう。
もちろん、それは未読の漫画を読んだ後の処刑であろうが。
アスカは占いを目にすれば、必ずそれとなく相性を確認している。
しかし相性占いといえば、そのほとんどが星座占いであって、尚且つその結果は同じである。
掲載紙毎に星座占いが食い違っているのであればその方が問題なのだが、それでもアスカは確かめずにはいられない。
ある雑誌には、確率35%と書かれていた。
説明欄には65%の努力であなたの恋は報われるでしょうとなど無責任なことが記されている。
彼女は叫んだ。

「65%ぉ?アタシは10000%以上、努力してるわよっ!!!!」

因みに、それはアスカの脳内の範囲内で、実際には1%もできていない。
しかし、彼女はついに立ち上がった。
アスカも意中の彼も中学2年生なのだ。
いい加減に何とかしないとどのような障害物が現れるとも限らない。
2年に進級した途端にその障害物を排除したばかりなのだ。
もう、のんびりとしてはいられない。



その3日後、アスカはある情報を手にして、そして素晴らしい計画を築きあげたのだ。

「ええええっ、またぁ?」

元障害物が不満の叫びを上げた。

「うっさいわね、アンタ、好きだって言ったじゃない」

「言ったけどさ。でも、毎日だよ。毎日飲まされて…って、こらアスカ、本数がおかしいじゃない」

「へぇ、馬鹿マナの癖に計算できるんだ」

「くがっ、算数以前の問題でしょうが。ここにいるのは3人でどうして4本あるのよ!」

「マナ。算数じゃなくて、数学でしょう。はは、私も毎日はちょっと…」

「ヒカリ、アンタまでぇ?はんっ、ご馳走になって文句を言うなんて、アンタたちもいい根性してるわね」

アスカは友人二人を睨みつけた。
そのすさまじい視線に友人たちは震え上がりはしない。
洞木ヒカリは1年からの付き合いだし、元障害物の霧島マナももう慣れてしまった。
しかも本気の睨みつけかそうでないかをあの一件で知ってしまったからなおさらに。

「だってねぇ、こう毎日じゃ…」

「うん」とヒカリも頷く。
アスカははしたなくも舌打ちをした。

「仕方ないわね、じゃ今日はとりあえずこれを飲んでもらってさ。
明日はなしで、3日後に3本でどう?」

「あ、それならいいよ」

「待って、マナ。アスカ、その3本ってまさか一人3本じゃないでしょうね」

「ちっ、さすがヒカリね。単純馬鹿とは違うか」

「馬鹿馬鹿言うな!」

「ふんっ、アタシが馬鹿って言ってあげてんだから光栄に思いなさいよ」

「まあ、そうね。アスカは好意を持ってない相手には馬鹿って言わないもんね、ふふふ」

「あ、そうか。なるほどね」

「本当に嫌いな相手なら馬鹿じゃなくて、もっと酷い言葉使うもの」

うんうんと嬉しそうに頷くマナだったがふと気がついてヒカリを睨みつけた。

「ちょっと待った。ヒカリは馬鹿って言われないじゃない」

「ふん、ヒカリは馬鹿じゃないもんね。でしょ?馬鹿マナ」

「私、怒っていい?」

「OK!」

いつでも来いとばかりにアスカはにんまりと笑った。

「だいたいアスカは鬼よ。恋しい碇君を諦めさせた上に、馬鹿呼ばわりして、それでキリンレモンを毎日飲ませて!」

「それで終わり?」

平然と返してくるアスカにマナは言い返さずにはいられない。
かくして、マナは2年になって出会ってからのあれやこれやをあげつらいだした。
もっともその殆どがどうでもいいことのオンパレードなので、アスカは一向にダメージを受けない。
ヒカリも馬鹿らしいとばかりに、せっせと宿題を始めだす。
ものの5分も喋っているとついにネタが尽きてしまった。
マナは鼻息も荒く、アスカを睨みつけた。

「ふふん、声ががらがらになっちゃったじゃない。優しいアスカ様が注いであげましょうか?」

アスカは水滴がついているよく冷えたキリンレモンの王冠を栓抜きで開けた。
ぷしゅんっと心地良い音が響き、壜の口から微かに白い煙のようなものがたなびく。
そしてこれ見よがしにコップを掲げて注ごうとする。

「ふんっ!自分でやるわよ!」

マナはアスカの手からコップと壜を引っ手繰った。
とくとくとくとコップにキリンレモンを注ぎ、ごくごくごくと一気に飲み干す。

「わおっ!いい飲みっぷり!もう1本いってみよぉ〜!」

「おおっ!」

すかさず2本目の栓を開けたアスカは、マナの手にあるコップにとくとくと注いでいく。

「しっかりアスカのペースに乗せられちゃって」

「へ?」

「もう!ヒカリったらぁ」

ばれちゃったじゃないと、アスカは横目でじろりとヒカリを睨みつける。
そこでようやくマナはアスカの策略に気がついた。

「もうっ!アスカの馬鹿ぁ!」

「引っかかるやつが悪いのよ」

嘯くアスカを睨みつけ、こうなりゃ自棄だとマナは2杯目を飲み干した。
よくもまあ炭酸系の飲み物なのにあんなにごくごくと飲めるものだと、ヒカリは妙な感心をする。

「うおっ!もう1杯!」

「げふっ」

「うわっ!」

大量摂取の炭酸で、マナは大きなゲップを漏らす。

「もうご馳走様。あとはアスカママの手作りクッキーをいただきます」

「マナ、宿題は?」

「ん?後でヒカリの写す」

「だめよ」

「ひっどぉ〜い!」

「あ、そうだ。マナ?アタシの写させてあげるからさ、あと1本飲まない?」

「え、っと、ぉ……」

どうしようかと悩んでしまったマナを見て、ヒカリが大きな溜息を吐いた。

「こら、この食いしん坊。で、アスカ、いい加減に話しなさいよ」

ヒカリがシャープペンシルを置いた。
そして、友人の青い瞳をまっすぐに見つめる。
アスカは慌てて眼を逸らすが、すでに挙動不審モードに入ってしまっている。

「どうせ、碇君のことでしょう?アスカがこういうわけのわからないことをする時は確実にそうだもの」

「うんうん。陸上部の部室に乱入してきた時もそうだった」

「何言ってんのよ。あそこは体育倉庫。うちの中学にスポーツ関係の部室なんてありませんよぉ〜だ」

「じゃ、うちの縄張りってことで。あんときゃびっくりしたわよ。いきなりアスカが飛び込んでくるんだもん」

「ふん、アタシでよかったじゃない。先生だったらアンタら停学ものよ」

「漫画やジュースやお菓子で停学にはなりませんよぉ〜てね、まあ、職員室に連行されて説教されて、もろもろは没収されただろうけど」

「ふふん、で、先輩たちは生贄を差し出したわけよね。ね?生贄にされた霧島マナさん?」

「よく言うよ。指名したくせに」

マナは立ち上がって、腰に手をやり足を踏ん張った。

「霧島マナを借りるわよ!後を追っかけてきたら、このことをばらすからね!」

「アタシ、そんなにカッコ悪くないわよ」

アスカは立ち上がって、マナをきっと指差した。

「他の連中には何もしないから、さっさとこのオタンコナスを引き渡しなさいよ!
さもないと、ここでいかがわしいパーティーを開いてたことを生活指導にタレ込むわよっ!」

どんなもんよとばかりに、アスカは胸を張った。

「そうそう、それそれ。髪の毛振り乱して、眼からレーザー光線出して、口から火を吐いてた」

「アタシは怪獣か!」

ああ、とてもいい表現だと、ヒカリは心の中で大きく頷く。
もちろん、それを声に出すほどヒカリは愚かではない。
その時の様子を詳しくは知らない彼女は先を促すことにした。

「それから?」

「私はアスカに理科室に連れ込まれたのよ」

「へぇ、理科室だったんだ。何だか怖いわね」

「そうそう、改造手術でもされそうって感じでさ」

「そこしか空いてなかっただけでしょ。誰かいたらこんな話できないじゃない」

「で、いきなりアスカに突きつけられたのよねぇ、アタシのラブレター」

マナは精一杯の演技力を駆使して恨んでますと言いたげにアスカを睨みつけたが、
如何せんさっぱりとした性格なので、過ぎてしまったことでは迫力も憐憫もまったく出てこない。

「ねぇ、どれくらい時間かかった?そのラブレター」

興味津々でヒカリが質問する。

「えっとね、5時間くらいかなぁ」

マナの回答を聞いて、アスカがぷっと吹き出した。

「ちょっと!あれで5時間?時間かかりすぎなんじゃないの?」

「うるさいわねぇ。それだけ時間と愛情をかけたのに、読んだのはアスカだけって侘しすぎるわよ、まったく」

「大丈夫よ、マナ。きっとアスカだったら5日かけてもまだ書きあがらないに決まってるわ」

「そうなの?」

「絶対」

断言するヒカリにマナは感心した表情をする。

「じゃ、ヒカリだったら?」

「えっ、そ、そ、そうね、うぅ〜んと、2日と…3時間くらい……」

「えらく具体的じゃない、ヒカリ?さ、て、は、書いたな、ラブレター」

「わっ、誰、誰、誰?相手は?」

「そ、そ、そんなの言えるわけないじゃない。まだ出してもないのに」

「ふふん、引っかかったわね、やっぱり書いたんだ」

しまったとヒカリが頭を抱える。
にんまりと笑ったマナはアスカの肩をぽんと叩いた。

「さっすが、刑事コロンボ?金田一耕助?」

「どっちも冴えないわねぇ。ま、名探偵アスカってとこよ」

アスカは胸を張り、心の中でヒカリの思い人は誰なのかと考えた。
1年前なら彼女が誰かに恋をしているなどとは気がつかなかっただろう。
その時は、アスカ自身恋というものを知らなかったのだから。
まさか、彼女の恋が10年以上前からすぐ近くにあったことなど予想もしていなかった。
物心がついた時からずっと幼馴染である、お隣の少年が恋の相手になるとはアスカの願望を大きく下回っていたのだ。
背が高くて、ハンサムで、カッコよくて、頭が良くて、スポーツ万能で、優しくて……。
およそ考えられる限りの美点を並べ立てた理想の男性像に、その幼馴染は遥かに届かない。
しかし、その恋心に気がついた時、アスカは理想の男性像というものを大きく、そして具体的に修正したのだ。
自分の求める理想の男性は、徒歩わずか19歩の隣に住む碇シンジ13歳その人である、と。
それからのアスカは性格が少し変わった。
大胆不敵、唯我独尊、その他諸々の四字熟語が横行するアスカ辞書の中にとても可愛らしいものが加わったのだ。
“恋する女の子”である。
この新たに加わった性格が、彼女の恋路を邪魔したのだ。
失敗したらどうしよう?などという考えなど、それまでのアスカの辞書にはまったく書かれていなかったのである。
それが今や、その「どうしよう?」に囚われてしまっているアスカだ。

「それより、読んだの?そのラブレター」

「ん?読んでないわよ。アタシ、そんな趣味ないもん」

そうなの?とマナを見ると、彼女はそうなのよとばかりに肩をすくめる。
ああ、アスカだ、とヒカリは思った。
1年生の時に親友と呼べる存在になったアスカのことを同級生たちに悪く言われることがよくある。
どうしてあんな乱暴な女の子と友達なのか、と。
彼女たちは本当のアスカが見えていないのだ。
自分も最初は随分と無礼な女の子もいたものだと思った。
しかしアスカと同じ小学校から来た者は誰も彼女を悪く言わない。

まだ1学期の最初でオリエンテーリングが終わったくらいのときだから、まだ出身小学校毎に集まっている状態だった。
この中学校はふたつの小学校の校区から構成されているので、1年生の大抵はほぼ半々の比率となっている。
しかし、1年1組はややヒカリたちの出身校の方が多く、推薦されたヒカリが多数決で委員長に決まった。
彼女たちの小学校ではヒカリはその統率力や面倒見の良さから、男子でも彼女の委員長に異議を唱えるものは皆無だ。
だが、アスカたちの小学校の連中はそんなことは知らない。
この当時、女子といえば副委員長と相場が決まっている。
当然、彼らの側の男子は、いや女子でさえ女子の委員長を快く思わなかった。
しかしながら、彼らはその対抗馬を出そうとはしなかったのだ。
何故ならば、妥当な人材がいなかったからである。
頭のいい子やスポーツのできる子は男子の中にいたのだが、どれも小粒で言わばカリスマ性がなかった。
唯一の人材がアスカで、彼女は女子だから心情的に対抗馬にはならない上に、
そのアスカ自身が女子で委員長に推薦され、しかもそのことを遠慮もしないヒカリという同級生に興味の眼差しで見ている。
そしてそのままヒカリが委員長に選出され、そこで1組は妙な空気に包まれてしまった。
これは拙いな、と担任の日向マコトは思う。
ところが、彼は手も口も何も出さない。
臆したのではなく、それは経験からの選択だった。
方向性を示すのなら良いが、最初から頭から押し付けてしまうとクラス運営が巧くいかない。
だからこそ彼はしばらく様子を見ることにした。
少しばかり胃が重くなっていたのは事実だが。
ヒカリは空気を読んでいた。
つい小学校の時と同じ感じで気軽に委員長を引き受けてしまったのが拙かったのか。
しかし向こうの小学校の人間のことはまるで知らないので、誰を副委員長に推薦したものかわからない。
女子ならばあの外人(にしか見えない)なのだろうが、さすがに女同士で正副の委員長を占めるのは拙かろう。
困ったなぁと思っていると、その外人娘が手を上げて立ち上がった。

「先生、質問!副委員長って性別決まってるんですか?」

「おっ、そうだなぁ、惣流。特に決まってないが、習慣的に委員長とは反対の性別になってるな」

しめしめと日向先生は心の中で微笑む。
初日からの生徒たちを見ていると、どうもこの惣流という生徒が良くも悪くも台風の目になりそうだ。

「ふぅ〜ん、じゃ、山本山、アンタが副委員長。女同士でいいんだったら、アタシがやってもいいけど?」

「えっ、お、俺?」

山本山と名指しされたアスカと同じ小学校からの生徒がびっくりして立ち上がり自分を指差す。
まかり間違っても自分はあるまいと思い、ころころと鉛筆を転がしていたのがアスカの眼に留まったのだ。
名前が目立つだけでそれほど華のある男子ではないので、アスカ側の小学校の人間もあいつが?と思ってしまう。
彼女の目論見はそこだった。

「か、勘弁してくれよ。惣流がやれよ。な、頼むよ」

山本山君は早くも逃げ腰である。
当然、そんな彼では副委員長などとんでもないとヒカリ側の小学校の連中も思う。

「アタシ?まあ、面白いけどね。女同士が委員長してるのってうちだけになるだろうしさ。
それにこのアタシだったら、まあ男子みたいなものだしね。暴れん坊だから、ははは!」

「違いないや」

「今言ったの、神田?ぶっ飛ばすわよ、アンタ!」

へへへと頭を抱える窓際の男子。
6年生の時に同じクラスだったのでつい半畳を入れてしまったようだ。
この二人の反応が面白くて、教室が沸いた。
すかさず、ヒカリは挙手して立ち上がった。

「先生、どうでしょう?みんながOKしてくれるなら、私は惣流さんでいいと思います」

「よし、じゃ、先生はちょっと確認してくるから、その間にクラスの意見を固めておいてくれるか?
できれば、他の委員も決めておいてくれてたら助かるなぁ」

「わかりました。じゃ、惣流さん、前に出てきてくれる?」

「OK!」

立っていた二人が教壇まで歩いていく。
日向先生はじゃ10分ほど頼むと言って、教室を出て行った。
扉を閉めて数秒、彼は聞き耳を立てる。

「よぉし、じゃ…って、議長は委員長の仕事ね。アタシは黒板に字を…って、アタシの字読めるかなぁ」

「惣流の字は勘弁してくれよ」

「うっさいわね、神田は!アタシは日本人だけど書き取りだけは外人なのっ。ねぇ、そっちの小学校の方で字の巧い子いる?」

「そうね、小笠原さんならばっちり。書道の段持ちだしね。ねぇ、小笠原さん、学習委員してくれない?」

ヒカリはアスカの意図を素早く汲んだ。
その様子を立ち聞きしていた日向先生はにんまりと笑うと足音を忍ばせて職員室に向かった。
女同士の委員長コンビが許可されるかどうかの確認などする気もない。
もし他の先生から文句を言われても断固として押し通すつもりだ。
今は彼女たちの力でクラスの空気をまとめさせようと、教室を離れただけである。
その教室の中では指名された小笠原さんが学習委員の副ならばと発言していた。

「そうね、全部の委員を女子ってわけにもいかないからね」

「ええっ、アタシはいいと思うけどな。全部女子にしたら面白いじゃない」

「惣流、いい加減にしろよ」

「おっ!鈴木の分際でアタシに逆らうっていうの?アンタ、根性あるわねぇ…ってことで、鈴木が学習委員ね」

「ええっ!」

「じゃ、体育委員?生活委員?どれがいい?」

「そ、そりゃあ、体育かな、その中じゃ」

「えっと、立候補ということでいいですか?」

すかさずヒカリが口を挟んだ。
鈴木君は行きがかり上、仕方ないなと頷くしかない。

「じゃ、小笠原さん、とりあえず、黒板に書いてくれる?各委員の名前と決まった人の名前を」

自然な流れで彼女は席を立ち、黒板に向かった。
黒板に委員長洞木ヒカリ、副委員長惣流アスカと順に書いていく。
その字を見て、アスカは腕組みをして不満そうな声を上げる。

「ちょっと、本人よりも巧いってどういうことよ。アンタ、惣流って名前にしたら?」

アスカは黒板の端に惣流と書く。
わざとではなく、普通にチョークを動かしているのだが、明らかにその字は汚い。
その違いに教室中が笑った。
こうなるともうヒカリのペースで議題を進められる。
その後アスカは二度と口を挟まず、教壇の横で腕組みしてにたにたと笑っていただけだ。
しばらくして日向先生が戻ってくると、1組の委員はすべて決定していた。
但し、この時、1組の生徒たちが認識したのはヒカリの手際の良さであって、
アスカの方は女の子の割りに乱暴で少し不真面目な感じがするというだけである。
彼女がクラスの空気を変えるように目論見、そしてそれに成功したことを知っていたのは先生とヒカリだけだったのだ。
これがアスカとヒカリが仲良くなった発端である。
その後、ますますヒカリはリーダーとしてクラス内の地位を確立し、
アスカの方は彼女の相棒としてではなく、目立つ生徒という場所を確保したのだ。
親友となったヒカリにもっと委員とかの仕事をすればいいのにと言われても彼女は笑って取り合わなかった。
だって面倒じゃない、と。

そんなアスカが幼馴染への恋に目覚めたのはバレンタインデーだった。
この時代、義理チョコなどという風習はまずなかった。
この日に動くチョコレートはすべて本命といってもよい。
だから、その個数は非常に少なく、そしてその価値はとんでもなく重い。
貰った男子は即答で交際するかどうかの返答をするか、3月14日までの執行猶予を申し出るかの返事を要求される。
交際を喜んで受諾するか、執行猶予を選択するかが普通のパターンなのだが、碇シンジ少年は違った。
3年生の先輩にチョコレートを贈られた彼はその場で「ごめんなさい!」と平身低頭したのだ。
その噂を聞いたアスカは早速隣の家に乗り込んだ。
こんなに面白い話題を見過ごしてなるかと彼女はどうして断ったのかと幼馴染に迫ったのだ。
それはもう好奇心をいっぱいにして。
すると彼は頬を染めて、アスカの視線から顔をそむけてこう言った。

「だって嘘は吐けないし、好きでもないのに付き合うなんてできないだろ」

「アンタ馬鹿ぁ?」

と、まだ自分の気持ちに気づいていなかったアスカはいつものように彼を嘲る。

「葛城先輩なんて中学一の人気者じゃない。これを逃したらアンタにはもう二度とチャンスはめぐってこないかもよ」

「こんなのチャンスじゃないや」

シンジはようやくそれだけを口にする。
もっと詳しく自分の気持ちを言えたならよかったのだが、そんな度胸が彼にあるわけがない。
自分のことなどただの幼馴染としか思っていないであろう、そんな彼女にうかつなことを言ってこの距離感を失ってしまっては大変だ。
だから彼に言えたのはそんな愚痴のような言葉だけだったのだ。

「はぁ?何言ったの?聞こえないわよ、はっきりしなさいよ、馬鹿シンジ」

「だ、だから、はっきりしたんだってば。返事を延ばした方が可哀相だろ。どうせ断るんだから」

「ふぅ〜ん、そうなんだ」

アスカは腕組みをして、新種の生物でも見るかのように幼馴染の横顔を見つめた。

「まさかアンタ、女が駄目とか?ほら、渚とかいうのと仲がいいじゃない」

アスカとシンジはクラスが違う。
シンジは9組で、そのクラスに転校してきた渚という名前の男子とよく一緒にいたのだ。

「ば、馬鹿な」

とんでもない邪推にシンジは慌ててアスカへ向き直り言い訳を始めた。

「僕、そんな趣味ないよ。女の子の方がいいに決まってるじゃないか」

そこまではアスカの顔を見ていたのだが、言い終えると急にまた顔を逸らす。
本当は“女の子”ではなく“アスカ”と言いたかったが、彼にそこまでの勇気はない。
勇気はなかったのだが、彼の言葉は徐々にだがアスカの心を侵略していったのである。

「へぇ、女の子ねぇ。でも葛城先輩は好みじゃなかったんだ」

腕組みをしたアスカは首を傾げた。
物心がついたときからのお隣さんで、幼馴染なのだ。
彼の趣味や嗜好品はよく知っているつもりである。

「アンタが好きだったのは…えっと、ん…、そういやアンヌ隊員とかには興味なかったわよね」

「はい?」

「どっちかというと、イデ隊員とか南隊員みたいな…やっぱり男じゃない」

「そ、その時は…というか、それは愛とか恋とかって関係ないじゃないか」

「そっか」

「そうだよ」

「ふぅ〜ん。でもアタシは赤影とか光速エスパーとか一文字隼人とか好きだったわよ」

「だから」

カッコいいとかそういうものと、愛とか恋は違う。
絶対に違うものだが、その違いを明瞭に説明できない。
もういいや、とシンジは諦めた。
それにしてもアスカは女の子のキャラクターに憧れたことはなかったのだろうか。
出逢った頃はハヤタ隊員に憧れて…いや、ウルトラマンに変身する人間に憧れていたのだろう。
その後も彼女がいいと口にするのは、所謂ヒーローばかりだ。
女の子が憧れる筈の、サリーちゃんやコメットさんはテレビを見ようともしない。
従って、アスカの家にあるソノシートやレコードは一枚残らず特撮かアニメのヒーローものであった。
それは今も同様だ。
彼女が好んで見るのは男子が好みそうな番組ばかりである。
刑事ものやミステリーものばかりと来ている。
だが、そんな男っぽいアスカでもシンジは好きだ。
ただし、そんな性格のアスカだが、小学校の高学年あたりからめっきりと容姿だけは女らしくなってきている。
元々可愛らしい顔つきだったのだが、表面に出てくる性格が男っぽいので小学校の時は色恋沙汰が彼女の周囲で起こることはなかったのだ。
それが中学に入ると状況は一変した。
まず先輩たちや他校からのメンバーは性格がどうのということより、、まず見た目というものでしか彼女を見ない。
金髪で碧眼、つまり白人そのものの顔つきに加え、そのパーツも整っている。
中学に入学して1ヶ月も経たないうちに先輩から告白を受けた。
その彼には可哀相な事だが、瞬時に断られた上に帰宅後早々シンジへ事の経緯を笑い話として報告されてしまった。
その時である。
シンジが幼馴染のことを異性として好きなのだと認識したのは。
だからこそ、彼はこのバレンタインデーの出来事を利用したのだ。
自分がそうだったのだから、アスカもそうなるかもしれない。
そう期待して、わざわざ自慢話のようにアスカに葛城先輩からのチョコレートの一件を持ち出したのである。
ところが話はどんどん逸れていく。

「つまりさ、えっと、葛城先輩と結婚するなんて考えられないじゃないか」

「結婚?あはは、とんでもないこと考えるじゃない?どぉ〜して、そこまで話が飛んじゃうのよっ、ははは!」

シンジはこの時点でほぼ諦めていた。
今のアスカに色恋の話題をぶつけても何の効果もない。
こうなればアスカに変な虫がつかないように傍にべったりくっついておくしかないと彼は決意した。
もっともそれはできる限り、という条件付だ。
いくら好きな女の子ができたといっても、彼はまだ中学生。
友達たちと遊びたい時もあれば、組が違うのだからそういつも巧くタイミングが合うわけがないからだ。
もっとも彼にとって幸運なのは、彼の姿を見つけるとアスカがすっ飛んできてくれることか。
ただしそのついでにこっ酷く背中や肩や頭を叩かれるのは堪らないが。
幼馴染という存在ではあるが、とにかく自分はアスカにとって一番近い男性なのだ。
シンジはそう自分に言い聞かせて、日々チャンスを窺っていたのである。
今日はかなり期待していたのだが、後は惰性で話を続けるしかない。

「だってさ、付き合ったら、そりゃあ…そのまま付き合ってたら、大人になったら結婚するだろ」

「だから!馬鹿シンジなんて付き合ったらすぐに別れるに決まってんじゃない」

「そうなの?」

「当然!アタシが言うんだから間違いないわよ!あっ、で、チョコレートは返したの?」

シンジは苦笑した。
やはり話は自分の望む方向には進んでくれないようだ。

「もちろん返すに決まってるじゃないか。断ってるのに」

「ええっ、もったいないなぁ。手作り?」

「知らないよ。包装されてたもん」

「断るけど、これだけはもらっておくよ、って言ったらよかったのに」

「鬼」

「くわっ!」

アスカが牙を剥いた時点でこの話題は終了した。
失言の代償としてシンジは映画を奢らされる羽目となり、内心踊りだしたい気分を押し殺して不満気に頷いた彼である。
因みにこの時一緒に行った映画は二番館に降りてきた『ダウンタウン物語』で、
シンジはジョディ・フォスターよりも隣に座るアスカの方がずっと綺麗だと思っていた。

さて、その時のアスカだ。
彼女は映画の間ずっとどきどきしていたのである。
そう、この時彼女はもう恋心に目覚めていた。
それはあのバレンタインデーの夜のことだった。
熱いお風呂に入り、宿題も終え、布団にもぐりこんだアスカだ。
寒い夜のこと、冷えた布団ですぐに眠れるものではない。
そこでぼけっと今日の出来事を思い返していると、やはりすぐに心に浮かぶのはシンジの一件であった。
学校一と言われる葛城先輩からの告白を断るなど、何を考えているのかと鼻で笑う。
その上、付き合うならば結婚まで考えるとは…。
まあ、馬鹿シンジは昔からなよっとしている癖に一本気なのよねぇ…。
その時、アスカの笑いは微笑みに変わっていた。
アイツ、どんな相手と結婚する気かしら?
それはとても面白い思いつきに思えた。
彼女は見慣れた天井を見つめ、そして思い描く。
幼馴染の少年と腕を組む女性の姿を。
しかし、その女性の顔どころか姿かたちすら想像できない。
この段階ではアスカはぷっと吹き出した。
やっぱり彼には女性が似合わないのではないか、と思ったわけだ。
漠然としたイメージだけでは無理のようだ。
仕方がないので、葛城先輩を利用することにした。
制服を着た葛城先輩をシンジの隣に立たせてみる。
アスカはまだ笑っていた。
似合わない。
断然、似合わないではないか。
馬鹿シンジに似合うのはもっと…こう…。
アスカは思いつく限りの実在の女性を彼の隣に並べてみる。
その中でまだマシだったのは彼の母親と従姉妹の二人だけ。
しかし、彼の母親は隣にいても自然に見えて当たり前だ。
そして、残った従姉妹の綾波レイ。
もちろん、アスカの従姉妹ではなく、彼女はシンジの従姉妹だ。
これも彼と似た雰囲気があるから…。
親戚だものね…と、思いながらもどこかが引っかかるアスカだ。
もうすっかり彼女の目は冴えている。
瞳をぎらぎらと輝かせて、うっすらと見える天井を睨みつけた。
既に日付は2月15日に切り替わっている。
15日は火曜日だから当然学校はある。
アスカはそのことは忘れ、記憶という古池の底に眠る気になるものを必死に探った。
そして、やっと思い出したのだ。

同い年の綾波レイが泊り込みで遊びに来た時、今だによくあることだが彼女は仲良しのアスカの部屋に泊まったのである。
そう、幼稚園の大きい組の夏休みだ。
小さな二人は同じ布団に並んで寝て、それぞれタオルケットをお腹に乗せて眠る前のお喋りをしていた。
なぞなぞをしたり、歌合戦をしたり、明日は何で遊ぶかを考えたり。
そのうちにレイが言い出した。
大きくなったらシンジちゃんと結婚するのだと。

「で、アタシは…」

アスカは天井を睨みつけた。
あの時と同じように。

「アタシはこう言ったんだ」

小さなアスカはタオルケットを跳ね飛ばして、布団の上で手を腰に立ち上がる。
そして、それはもう男らしく(?)きっぱりと宣言したのだ。

『だめっ。シンジちゃんはアタシのものなんだからっ!レイちゃんにだってあげないっ!』

中学生のアスカは大きく息を吐き出し、寒い部屋の中でその息が白く広がった。
そして彼女は頬を赤らめた。
恥ずかしがっているのではない。
興奮してきたのだ。
あの時の記憶がすっかり甦り、アスカは毛布と布団を跳ね飛ばした。
左右に飛び散る掛け布団と毛布には目もくれず、彼女は本棚を目指す。
目標は分厚いフエルアルバムだ。
暗闇の中でもさすがは自分の部屋。
容易くアルバムを手にすると、机の上にドカンと置いた。
蛍光スタンドを点けると、闇に慣れた目に眩しくアスカは目を細める。
最初の方のページは白黒写真で、3ページ目に彼女と隣の少年が並んで写っているものがもう発見された。
ふたつの家族で一緒に行った遊園地での写真だ。
ミステリーハウスの前で勝ち誇った顔のアスカと半ば泣きべそのシンジ。
写真を見たアスカは頬を緩めた。
そうだ、この時はミステリーハウスの中で泣き出した馬鹿シンジを守って出口まで歩きとおしたのだっけか。
まあ、いやがるシンジを引きずって中に入ったのはアタシだったけどさ。
アスカはアルバムをめくっていく。
そこかしこのページに二人のツーショット写真が貼られている。
寒さなど忘れてしまって、アスカはアルバムに見入ってしまった。
幼稚園の頃の写真で、小さなレイを見つける。
居間での写真で卓袱台に座ったレイはケーキ2個を前にご満悦で、その近くでアスカが物欲しそうな顔で見つめている。
二人の顔があまりに面白いと、母親がシャッターを押したのだ。
そう、これが記憶の証明写真なのだ。
シンジと結婚したいと言い出したレイに出した交換条件が明日のおやつを二人分あげるというもの。
レイはあっさりと了承して、指切りをしてくれた。
まさかそのおやつがショートケーキだとはアスカも想像できず、恨めしげになったものの約束を反故にしようとは言わなかった。
あれは意地になっていたのか、それとも…。
もしかして、本当にシンジのことを…?
アスカは結論を出さないままにページをめくっては写真を楽しんでいく。
小学校に入った時の校門での記念写真もまた二人のツーショットだった。
まっさらのランドセルを肩に背負い、興奮を隠せないアスカとぎこちない笑顔のシンジ。
ふふん、と小さく声に出してアスカは笑った。
小学校に入るとさすがにクラスでの写真が多くなるが、それでも休みの日に出かけた行楽の写真はいつも彼女の傍らにシンジがいる。
このアルバムの中にいったい何枚のツーショット写真があるというのだろうか。
そして、中学入学の日。
やはり校門のところで二人は並んでいる。
アスカは6年前と同様に楽しげに笑い、シンジの方はぎこちなさがとれて自然に笑っていた。
真新しい制服に身を包んだ二人は、中学生活にやはり夢を抱いていたのか。
アスカはふっと溜息を吐いた。
アルバムに見入っていた姿勢を解き、彼女は背もたれに身体を預けた。

「なんだ、アタシが一番似合ってんじゃない…」

その呟きに、自分ではっとする。
そして、くさみ。
街路にまでまで聞こえようかという遠慮も何もないくさみに、アスカは身体を震わせ、時計を見てびっくりした。
もう3時を過ぎているではないか。
慌てて寝床に飛び込んだものの…、翌朝彼女は発熱して唸っているところを母親に発見された。
当然、2月15日火曜日、惣流アスカは病欠。
その日お見舞いにやってきたシンジは顔を真っ赤にして布団から顔を覗かせているアスカと顔を合わせた。
その時、彼は誤解する。
よもや彼への恋心に気がつき一日中布団の中で悶々としていたとは知りようもなく、それだけ熱が高いのだと見誤った。
鬼の霍乱だなどと学校で噂されていたと冗談を言われても、アスカはうんうんと頷くだけでシンジは早々に部屋から出て行ったのだ。
その後、アスカはまた熱を出し翌日もまた学校を休み、2日後に登校した時にはもう普段通りの彼女に見えた。
アスカは決意していたのだ。
バレンタインの時の発言から考えると、彼は今少しだけ異性に興味がある。
しかし意中の人はまだいない。
となれば、彼の周りからそういう人材を排除するしかないではないか。
最後に勝つのはこのアタシだと、一件ポジティブには見えるがその実まことに後ろ向きな決意に燃えて。



「へぇ〜、そういうことで私は排除されたってわけだ」

マナは呆れたように言う。

「で、何?碇君と星座グラスの関係は?」

アスカの告白などすべて予想の範囲内とばかりに、ヒカリは次の質問を投げつける。
頬を赤らめたアスカは、説明をはじめた。

「あのさ、コマーシャル知ってるでしょ。キリンレモンの」

「うん、知ってる知ってる!♪なぎささわやか♪キリンレモン♪でしょ!」

「そう。でね、大瓶1ケースを注文したら星座グラスが2個貰えるのよ」

「そうね、コマーシャルでもそう言ってた」

「その星座グラスをさ、シンジが集めてるみたいなの」

「碇君が?ほほう、片平なぎさのファンになったか」

「げっ」

「あれ?アスカったら、それは考えてなかったの?」

「普通そうだよねぇ。男の子があんなの集めるって、好きなタレントのためじゃない」

「えっと、そうなのっ!」

アスカは思わず立ち上がった。
座ったままの二人は、特に珍しく攻勢に出られそうなマナはここぞとばかりにアスカをからかう。

「片平なぎさかぁ。すっごくグラマーだよね。まだ…えっと高校生だっけ」

「うぅ〜ん、18歳くらいかしら。もう大人よね、あの身体は」

ヒカリまでもアスカの身体を下から上へ嘗め回すように見て、明らかにまだ子供だと言わんばかりの態度をとる。
もっとも学年の中ではアスカのスタイルは一級品であり、隣人の少年はそのスタイルに大いに満足しているのだが。
しかし、アスカには彼の気持ちなどわかるべくもなく、人気アイドルの容姿を思い浮かべる。
いつぞやヒカリの部屋で見た、平凡だか明星だかに掲載されていた彼女の真っ赤なビキニ姿は到底敵うわけがない。

「し、し、シンジは、あ、あ、ああ、アアイウノガコノミナワケ?」

「ちょっとからかい過ぎた?壊れちゃったよ、アスカったら」

握りこぶしを作ったまま固まってしまった友人を前に、ヒカリとマナは滅多にできない攻撃の矛先を収めることにした。

「でも、アスカも女の子だったのねぇ」

「可愛いとこあるじゃない。まあ、この姿を見ることができただけでよかったでしょ、マナ?」

うんうんと頷いたマナはせぇのとばかりに右腕でアスカの膝の後をごつんと叩く。
姿勢を崩したアスカはよたよたと尻餅をついた。

「見た?見事なフォアハンド」

「はいはい。腕は見事なのを確認したから、早く捻挫を治したら?」

捻挫のために現在休部中のマナは舌をぺろりと出した。
ようやく松葉杖とさようならをして、今は復帰に向けてリハビリ中なのだ。
それをいいことに毎日のようにアスカたちと勉強と称して遊んでいるのである。
こんな調子ではテニス部に復帰する気がないのではとヒカリは心配しているが、アスカの方はいたって平然としている。
きっとマナのヤツは家では必死に筋トレとかしてるに決まってると笑うアスカだ。
事実、家でのマナはこことは別人だった。
テニス部の部長にもあと1週間で復帰すると宣言して、後は医者の許可待ちという状態である。

「あのさぁ、アスカ。片平なぎさがOKなんだったら、間違いなく葛城先輩でもOKしてるわよ」

「そうよね!」

簡単なものである。
マナの一言で、あっさりとアスカは復活した。
この単純さが彼女の可愛らしさなのだとマナは微笑んだ。
憎い筈の恋敵と友達になってしまったのは自分でも不思議だが、別に後悔も不満もない。
シンジ以上の男を見つけてアスカに見せ付けてやろう。
それがマナの遠大な計画なのだ。
しかし、今アスカをからかいたい気持ちは抑えられない。

「あ、でもほらあの渚カヲルの名前から片平なぎさが好きになったって可能性ない?」

「ないわよっ!」

アスカは吼えた。
女ならまだしも、好きなシンジに男の噂などとんでもないことだ。
それにクラスが分かれてからはシンジとその男子はほとんど一緒に遊ぶことがない。
それはしっかりとアスカは把握している。

「シンジはとっても気のいいヤツだから、あんな変なのの相手をしてあげてただけなの!ふんっ」

ともあれここまでアスカがエキサイトするところを見ると、2年に上がるまではかなりヤキモキしていたようだ。
これ以上アスカを興奮させても話が前に進まないので、ヒカリがそっと話の軌道を元に戻した。

「それじゃ、碇君は星座グラスを集めてるってことなの?」

「と、思うの。ママ同士の情報」

「星座って事は…えっと、何種類あるの?」

照れ隠しで笑いながら、マナが質問する。

「12種類よ!で、今アイツが持っているのは…」

アスカは情報を披露した。
牡羊座、牡牛座、蟹座、天秤座、蠍座、山羊座、魚座の7個で計12個の星座グラスをシンジは持っている。
   作者註:本物の星座グラスは12種類もありません。アレンジさせていただきました。あしからずご了承ください。
牡羊座を4個も当ててしまうところは逆に何かの運を持っているのかもしれない。

「幼馴染のお隣さんって凄いわね。情報が筒抜けじゃないの」

呆れたような声をヒカリが上げた。
こんなに豊富な情報があれば、あの人への想いを届かせることもできるかもしれない。
少しばかりのジェラシーを込めて、ヒカリは親友を見つめた。
この野郎、とっとと告白して幸福になってしまえ!
などと柄にもない悪態を心のうちで漏らしながら、それでも告白できないという乙女心にはしっかりと共感できる。
マナのような勇気を二人とも持ち合わせていないのだ。

「で、アスカの方は?」

「まだ6つなのよ。しかも二つダブってるしさ」

唇を尖らせるアスカが名前を並べたのは、牡羊座、天秤座、射手座に水瓶座だ。
シンジの所有しているグラスと牡羊座と天秤座が重なっている。
そして自分の星座である射手座とそして牡羊座がそれぞれ2個ずつあるのだ。

「凄い!自分の星座をふたつも当ててるじゃない」

「でもさ、肝心の双子座が…」

あっ、とヒカリとマナは顔を見合わせた。

「もしかして、碇君って双子座なの?」

ヒカリの問いかけにアスカは頷いた。
全部揃えられなくても、その双子座を含んだ星座グラスをプレゼントするというのが彼女の計画だったのだ。

「もう時間がないのよ。あと10日しかないんだもん」

「それって碇君の誕生日に?」

「うん。6月6日」

「無理じゃない?」

「無理じゃないもん!だからがんばって飲んでよぉ〜」

アスカは文字通りに泣き言を漏らすのだった。




友人二人はがんばってくれた。
マナは3本、ヒカリが2本で、アスカはヒカリが飲んだことにして2本で、計7本の新記録である。
二人が帰った後、アスカは意気揚々として台所に乗り込んだ。
母親のキョウコは晩御飯の準備中である。

「ふふっ、今日は肉じゃが?パパの大好物ねっ」

「当たり前でしょ。アスカの好物は二の次よ」

「いいわよぉ、そんなのどうでも。それより、ママ!あと1本だから、キリンレモンの追加、注文しといてよ!」

「あら、早かったわね。わかったわ、明日三河屋さんに注文しておく」

「アリガト、ママ!」

今度こそはと意気込んだアスカは鼻息も荒く台所から退散しようとする。
そんな彼女の背中に母親は明るく声をかけた。

「あとは蠍座をもうひとつ、いえふたつね。あれってガラスが薄いからスペアも持っておかないと」

「えっ、じゃなくて…」

振り返ったアスカはその後が言えない。
自分の欲しいのは双子座のグラスであって、他のものは要らないとはどうしても口にできなかった。
どうやら家族全員の星座グラスを揃えたいとアスカが望んでいるのだと母親は誤解しているようだ。
キョウコの誕生日は11月21日で蠍座なのだ。

「どうせ、わたしは蠍座の女♪」

腹立たしいことに母親は声が綺麗で歌が巧い。
どうせアタシは音痴のパパに似たのよと、母親の美声を羨むアスカは鼻歌交じりで調理している母親にあっかんべぇをする。
そして彼女はふぅと息を吐いた。
チャンスはあと2回くらいか。
こうなれば、土曜も日曜もマナとヒカリを誘うしかない。
しかし…。
アスカは思った。
事が成就すれば、しばらくは炭酸飲料を口にするものか、と。



「えっ、嘘!」

それから二日後のことだ。
学校から帰ったアスカを待っていたのは、笑顔満面のキョウコとテーブルに並ぶ3つの星座グラスだった。
それを見てアスカは自分の目を疑った。
今回貰えたグラスがふたつとも蠍座だったのだ。
これでキョウコの希望通りに家族3人の星座グラスが揃ったということになる。
左に父親の牡羊座、右に蠍座で、真ん中に射手座と3つのグラスを2セット並べて、キョウコはニコニコと笑っていた。

「凄いでしょう、アスカ」

「ふん、よかったわね」

「あら?何を怒ってるの?」

「知らない!」

捨て台詞を残してアスカは階段を駆け上った。
確率は1/12なので過大な期待はしていなかったのだが、母親の希望通りのグラスが手に入ったということが気に入らない。
同じ確率なのに、どうしてあっちの方が簡単に望みが叶うの?
アスカはぺたんと畳に座り込んで、思い通りにならない運命を呪うのだった。
この調子ではあと1回のチャンスも無理に決まっている、と。

『アスカ!お友達が来たわよ!』

階下から母親の甲高い声が響くが、アスカは頬を膨らませたまま動かない。
しばらくするとヒカリとマナが階段を上がってきた。

「なんだ、アスカ。まだ着替えてないの?」

「ちょっと今、神様に文句言ってるとこ」

「何それ、アスカが変になっちゃってる」

「マナよりはマシよ。くそっ、今日は10本飲んでやる」

低い声で愚痴をこぼすアスカに、ヒカリは笑って肩を叩いた。

「あのね、アスカ。とってもいい情報があるんだけど、聞きたい?」

「星座グラスのこと?」

「もちろん」

「聞く聞く聞くっ!話して!」

まるで犬っころのようだとマナは思った。
どちらかというと猫科に見えるアスカだが、今の姿は尻尾が生えて勢いよく振っているようだった。

「実は…」

ヒカリは驚愕の事実を伝えた。
それは彼女の姉からの情報だったのである。

結果から言うと、星座グラスを選択することは可能だ。
アスカは驚愕の雄叫びを上げた。
彼女には失礼だが、雄叫びで駄目ならば咆哮だ。
決して悲鳴ではない。

ヒカリの姉、洞木コダマは面倒見がよく気立てがいい。
姉を見習ってきたヒカリが模範生で委員長タイプなのだから、さらにその上を行くというわけだ。
さて、そのコダマ。
妹から星座グラスのことで相談を受けるとすぐにそれは妹の親友のことだと察知した。
そして高校の同級生で格好の相手がいることに気がついたのだ。
それは中ノ島酒店の跡取り息子だ。
コダマは休み時間に彼の席に行き、星座グラスのことを質問した。
すると彼はあっさりとグラスは選び放題だと胸を張った。
友達にも頼まれて好きな星座を選ばせてやっているようだ。
ただし、どうもそれは袖の下も要求しているようで、中ノ島君はコダマに鼻の下を伸ばした。
デートしてくれたら好きなグラスをあげると。
当然、コダマは私じゃなくて妹の友達が欲しがっているのだと、呆れ顔で訂正する。
すると彼は中学生でもいいからと言い出した。
「ふざけるんじゃないわよ」とコダマは彼を睨みつけ、さっさと自分の席に戻った。
彼の酒屋だけがキリンレモンを販売しているわけではない。
しかも、彼のところで選択が可能ならば、別の酒屋でも可能なはずだ。
その夜、コダマは妹にこの情報を伝え、ヒカリは姉の手をとって感謝した。

アスカもまたヒカリの手をとって感謝したのだ。
そして今夜、洞木家にお礼の電話をしようと彼女は決めた。
隣でマナがうんうんと頷いている。
天真爛漫な笑顔を見てアスカは自分は何もしていないのにいい気なものだと苦笑した。
その笑顔が重大な事実を思い出させた。
アスカは立ち上がった。

「どうしたの?」

「行ってくる!」

「酒屋さんに?」

頓珍漢なのか察しがいいのかよくわからない質問をマナがしてきたが、アスカはきっと眼差しを吊り上げこう宣言したのだ。

「うちのボスのとこっ。あの性悪女が!」

吐き捨てるように言うと、アスカは制服の裾を振り乱して階段をのしのしと降りていった。

「ボス…って、石原裕次郎?」

「馬鹿ね。アスカのお母さんのことでしょう」

「もう…ヒカリまで馬鹿って言わないでって。で、アスカのママさんってもしかしてモーレツ?」

「そりゃあアスカのお母さんだもん。アスカに勝てっこないわ」

ヒカリは笑って、宿題の準備を始める。
そう。
親には叶いっこないのだ、どこの家でも。

「ママ!アンタ、グラスが選べること知ってたのね!」

「親に向かってアンタって何ですか。制服も着替えないで、この子は。アイロンかけてるのいつもママでしょう。たまには自分でかけなさい」

アスカの豪腕サーブに対して、キョウコは乱れ打ちで返す。
母親ならではの返答だった。
質問の答えは一切せずに、子供の弱みをピンポイントで、しかも同時に数箇所を突いてくる。

「だからっ!アタシが言ってるのは星座グラスのこと!」

「一度言えばわかります。でも、アスカは一度もどの星座が欲しいとなど言わなかったじゃない?」

「うっ……」

確かにそうだった。
母親に向かって、双子座が欲しいなどと言えばコンマ1秒でその理由に見当をつけられてしまう。
生まれてこの方ずっとキョウコと付き合ってきているのだ。
母親のスペックはおそらく父親よりも本能的に知っているかもしれない。

「で、あなたは何座が欲しいの?言って御覧なさい」

アスカは口をパクパクさせた。
文句を言うどころか、とんでもない逆襲を受けてしまっている。
キョウコはにんまりと笑いながら、娘をどんどん崖っぷちに追いやっていく。

「大体、あなたが悪いのよ。酒屋さんに訊いてみれば、星座グラスがどのように配られているの、簡単に知ることができるでしょう」

「だ、だって」

「ママは2回目を注文する時に聞きました。選ぶことはできないかと。三河屋さんはあっさり請け負ってくれましたよ」

「そ、そんなぁ」

2階から降りてきたときの意気込みはどこへやら、アスカはがっくりと食卓の椅子に腰をかけた。

「で?」

キョウコは真っ直ぐに娘の目を見つめた。

「あなたはどの星座グラスが欲しいの?はっきりと仰い」

「そ、それは…」

アスカは恥ずかしくなり、眼を逸らす。
その瞬間にキョウコがぴしりと音がするような叱責が飛んだ。

「真っ直ぐ前を向きなさい!あなた、それでも女の子?」

世間一般的に言うと、この叱り方は少し違うのではないかとも思うのだが、
ここ惣流家の伝統では常に女性は毅然とした態度で何事にも立ち向かえとされている。
家系図があるほどの旧家である惣流の血筋は、昭和の現在においてその容姿が日本人からかけ離れてしまっていても、
綿々として受け継がれているのだ。

「好きな人ができたなら胸を張って言いなさい。うじうじと悩んだり姑息な手を使うだなんて、それでもアスカは女なの?
欲しいものがあるなら自分の手で掴み取りなさい。女の子の癖に情けないったらありゃしない」

アスカは唇を尖らせて、しかしそれは不満ではなく、まさに幼児が叱られている様である。
そしてキョウコの叱責は階上にも丸聞こえだった。
普通の二階建て家屋で扉が開いていれば大声は筒抜けである。
アスカの部屋ではヒカリとマナが耳をダンボにしていた。

「何だか凄いね、アスカの家」

「男っぽく育つわけね。でも、アスカのお母さんカッコいいわ」

「ふふ、ヒカリもああなる?」

「無理無理。私、あんなのできるわけないよ」

「よねぇ、碇君も大変だ」

「そうかしら?けっこう彼には合ってるんじゃない?」

「そう?」

「ほら、彼に見に行く映画とか決めさせたらずっと悩みそうよ」

「はは、らしい、らしい。で、アスカが怒り狂って勝手に決めるわけだ」

「そうそう。でも、それでいて碇君は大事な時にはちゃんと自分がリードするって気もするなぁ」

「それってアスカにぴったりってこと?うぅ〜ん、私にも合ってるような気もするけどさ」

「碇君はチェロ弾くよ。マナ、演奏会の間ずっと我慢できる?」

「5分くらい?」

「音楽のテストじゃあるまいし。アスカは欠かさず行ってるみたいよ、小さい時から」

「あらら、そりゃあ、碇君も逃げようがないわ。他の選択肢を探しようがないじゃない」

「よね?彼の女の子を見る物差しがアスカが基準なんだもの。そりゃあ葛城先輩でも断るわ」

「よかった。申し込まないで。玉砕するしかなかったってことか」

「そうね、よかったじゃない。アスカが怒鳴り込んできてくれたおかげで、こうやって友達にもなれたんだし」

マナは鳴らない口笛を照れ隠しに吹く真似をした。

「アスカママのおやつ、まだかなぁ?」

「この食いしん坊」

階下ではまだキョウコの叱責が続いているようだ。
あれではアスカが口を挟もうにも隙間を見つけることもできないだろう。
ヒカリとマナは当面のおやつはあきらめて、先に宿題に取り掛かることにした。

さて、アスカである。
3分もキョウコのマシンガンを浴びていると、心はすでに決していた。
しかし、敵の攻撃は凄まじく、反撃の糸目も見つからない。
だから彼女は隙あらばとばかりに、じっと母親を睨みつけていた。
そして、彼女は一瞬の隙を見つけたのだ。
それが母親の愛情だと知るにはまだアスカは若い。
キョウコは息継ぎのために、はぁと大きく息を吐いた。
その瞬間、アスカは叫んだ。

「アタシが欲しいのは、双子座!シンジが好きなのっ!」

「あら、そうなの。じゃ、次の注文の時にお願いしておくわ」

キョウコはあっさりと言う。

「それからアスカ?ママね、お隣の奥さんにこのグラスを見せびらかせたくて仕方がないの」

「え?」

キョウコはにんまりと笑った。

「ユイさんって負けず嫌いだから…」

自分の負けず嫌いを棚に置き、キョウコは隣に住む大親友のことを悪く言う。

「きっと私に対抗して家族の分のグラスを揃えるに決まってる。そう思わない?」

アスカはそうに違いないと思った。
シンジのママはそういう人だ。
今興味がないからシンジが一生懸命になっているのを横目で見ているだけだが、そうとなればきっと…。

「ああっ!」

娘が上げた悲痛な叫び声に、キョウコはにっこりと微笑む。

「そうね。ユイさんならプレゼントの仕組みにすぐに気がつくわ。
となれば、あっという間に全部揃っちゃうわよ。しかもあの人なら揃うだけのケースを注文しかねない」

しかねないのではない。
絶対にするに決まっている。
自分の母親ではないが、あの碇ユイという女性とは付き合いが長いのだ。
たった一晩の間に徹夜で寝室の模様替えをしてのけたことをアスカは知っている。
あれは3年前で夫の浮気を疑って頭にきたユイが、2階にある夫婦の寝室から夫のベッドを1階の応接間に引き摺り下ろしたのだ。
それだけではなく、箪笥の中から夫の衣類などをすべて放り出し、それらは応接間に投げ込み、
寝室の方は夫のものの痕跡がまるでないほどに整理整頓されてしまっていたのである。
小学5年生のシンジが眠れないと文句を言おうとしたが、母親の怒り狂った表情を見て布団の中で震えていたという。
しかしながら、すぐに誤解は解けて、その日の夕方にはベッドは元の場所に納まった。
さすがに2階まで上げるのはユイ一人ではできず、子供たちやキョウコまで借り出されたのだが。
しかしながら女で一つで引き摺り下ろしたものだから、ベッドの足はぼろぼろ、階段や壁も無残な様相を呈していた。
するとこれを機会にダブルベッドを購入し、リフォームを実施してしまうのだから、ユイの一本気は恐れ入ったものなのだ。
因みにこの件をまったく知らずに、碇ゲンドウ氏は一週間の出張から帰ると「模様替えしたのか」と発言しただけである。
もうひとつ因むと、その件に関するキョウコの意見は、“馬鹿らしい”の一言だ。
自分なら確証を掴んでから夫と浮気相手を刺し殺すだけだと平然と言ってのけた。
さて、自分はどっちになるのだろうかとアスカは苦笑したものだ。
そんなユイだから、集めるとなれば徹底してくるだろう。
アスカは青ざめた。
そうなると、せっかくの計画がおじゃんになる。
そんな娘の表情を見て、キョウコは軽い口調で言った。

「もうそんな計画は放棄したら?好きよって、シンジ君に言えばそれでもう大丈夫。そんなまどろっこしい事しなくても」

アスカにキョウコの真意はわからなかった。
だが、口調通りに軽い気持ちで言ったのではないことだけは感じた。
彼女はぎこちなくではあったが、にっこりと笑った。

「ううん。最後までする。途中で投げ出すの嫌いだもん」

「あ、そう」

つまらなさそうにキョウコは言う。
しかし、内心は娘の返答に満足している。
母親はつまらなさそうに立ち上がった。

「仕方がないわね。それじゃユイに自慢するのは…6月6日は月曜日だっけ?」

「そうよ!早くてもその日にしてね。いくらなんでも一日では無理でしょ」

「ふふふ、それじゃその日にするわ。怒るでしょうね、ユイ」

この地球上で、碇ユイの怒った顔をわざわざ見たいと思うのは惣流キョウコただひとりかもしれない。
その様子を安全圏でなら見てみたいと思うアスカだったが、よく考えるとそれどころではないではないか。
何しろ、その日は6月6日。
碇シンジの誕生日にして、そしてXデーなのだから。




Xデーが来た。
碇シンジの誕生日は日本国の祝日ではない。
従って、いつものように平日ダイヤで鉄道は運行し、学校も平常の授業が執り行われた。
平常心を保てないのは、アスカただ一人だ。

「アスカ、落ち着いて」

「落ち着いてるわよっ。いいくにつくろう鎌倉幕府だから1192年!ほらね」

「確かにそれは今日授業で教わったけど…」

ヒカリは苦笑した。
既に時間は放課後。
アスカの心は既に帰宅してしまっているようだ。
ところが生憎と今週は掃除当番なのだ。
アスカとは班が違うのだが、どう見ても挙動不審な親友の姿に、掃除を付き合ってあげている優しきヒカリである。

「ほら、塵取りが逆さま。それじゃうまく乗せられないよ」

「うん!わかってる!ちゃんと包装して机の上に置いてきた」

こういう目を据わった目というのだろうか。
アスカの瞼が一度も瞬いていないような気がするのは、自分の気のせいだろうかとヒカリは思った。

「制服のままで行くの?着替えて?」

「黄色のワンピース!昨日買ってきた!」

「そうなんだ。はい、じゃアスカは机を並べて」

「わかった!」

声は威勢が良いのだが身体がどうもついていかないようで、アスカは平らな床で躓きおっとっとと後ろに寄せられた机の群れに突っ込んでいく。
こいつは家まで送っていったほうがよさそうだとヒカリは笑みを零す。
今日がアスカにとってどんなに重要な日か事情を知らないクラスメイトたちは遠巻きに二人を見ながら教室の掃除をしている。

「ねぇ、洞木さん?惣流さん、おかしくない?」

それほど仲が良いわけでもない女子がさすがに変だと声をかけてくる。
ヒカリの予想では200%の確率で親友の恋は実ると確信しているのだが、それを言い触らすほど彼女は愚かではない。

「あの日、かな?」

「えっ、そんなに酷いの?」

「そうみたいよ」

と、これもまた事実だと生理が軽めのヒカリは嘘で誤魔化した自分を弁護する。
生理の間のアスカはかなり不機嫌だからだ。
もちろん、今日の彼女は生理ではない、筈。
あの日はあの日でも、彼の誕生日にプレゼントを渡して告白する、あの日、なのだ。
ヒカリは机と格闘している親友を見やり、そして慈母の如き微笑を浮かべた。

「がんばれ、アスカ」



ふぅ…。
アスカは何十回目かの溜息を吐く。
服は既に勝負服の黄色いワンピースに着替えている。
プレゼントは机の上に置かれ、後はそれを手に隣家に行けばいいだけなのだ。
しかし、踏ん切りがつかない。
怖いのだ。
シナリオは完璧だ。
夕べ遅くまで何度も練習をしたのである。
しかし、アスカには自信があった。
間違いなく、シンジと顔を合わせたその瞬間にまったく違う台詞を喋ってしまうだろう、と。
その危険性を承知しているからこそ、18種類のシナリオを用意したのだ。
だが、19個目のシナリオが飛び出してこないとも限らない。
『アンタ、オーメンと同じ誕生日じゃないの!あははは!』と言い出さない保証はない。
シナリオナンバー19、オーメン編を緊急作成しようかと悩み始めたときだった。

「アスカ!電話よ!」

ふと気がつくと、母親の怒鳴り声。
慌てて椅子から立ったついでに無意識にプレゼントを掴んでいた。
階段を降りる時そのことに気がついたが、いまさら引き返すわけに行かない。
アスカは廊下の電話台に向かった。
母は既に姿を消しているので、電話の主が誰かわからない。
黒い受話器が仰向けに台上に置かれている。
まさか、シンジ!のわけないか…。
アスカは苦笑して、受話器を取り上げた。

「もしもし?」

『おっそぉ〜〜〜い!いつまで待たせるのよ!』

アスカは肩に込められていた力が抜けるのを感じた。

「なんだ、マナか」

『なんだはないでしょ、なんだは!』

「で、何?何の用?」

すっかりアスカの興奮は冷めていた。
お馬鹿なマナに感謝すべきかもしれない、と彼女は思った。

『そんなの決まってるじゃん。どうだった?もう行ったんでしょ?駄目だった?』

「はぁ?」

心配してくれていたのかどうだか。
最後の質問がよりによって『巧くいった?』ではないところが何とも腹立たしい。

『もしかして、まだ?何してるのよ、アスカったら。あ、そうそうあのね、私、お医者さんから復帰のOK貰ったのよ』

話を突然変えるな。
アスカはだんだん向かっ腹が立ってきた。

『だからさ、もしアスカがうじうじうじうじしてるんだったら、この私が快気祝いも兼ねて碇君に誕生日プレゼントでも…』

アスカは叫んだ。

「おあいにく様!今から行くところだったのっ!この馬鹿マナ!」

がちゃんと音を立てて受話器が叩きつけられ、その数秒後には玄関の扉が開き、そして勢いよく閉められた。



「おお、痛い。アスカのヤツ、思い切り叩きつけてくれた」

マナは右の耳に指を突っ込んで、顔をしかめる。

「凄い音。ふふ、やっぱりまだ行ってなかったんだ」

ヒカリはにっこりと笑った。
電話ボックスに少女が二人、顔をくっつけるようにして笑い合う。

「さすが、ヒカリね。お見通しだったわけだ」

「だって、アスカなんだもん。あれこれ考えすぎてるに違いないわ」

「普段のアスカじゃ考えられない」

「恋は人を極端にするのよ」

「おおっ、人生を知り尽くしたって感じの発言!」

マナはにんまりと笑った。

「で、ヒカリの方はどうなの?例のラブレターは渡した?」

「えっ、私っ?」

あっという間に顔を赤く染めたヒカリは慌てて話をそらせようとする。

「そ、そうだ。お祝いしてあげる。テニス部復帰祝い。家においでよ」

「やった!ありがとう、ヒカリ!」

躍り上がるようにしてボックスから出たマナは、続いて出てきたヒカリに真剣な顔をしてこう言った。

「言っとくけど、キリンレモンは出さないでよ」

「うちは三ツ矢サイダーだけど?」

「ええっ!勘弁して!」

「うそよ、美味しい紅茶淹れてあげる」

「ジュースの方がいいなぁ」

「紅茶に合うお菓子もあるけど?」

「うぅ〜ん、どうしようかなぁ」

「じゃ、お祝いやめる?」

「ああっ、駄目駄目っ」

笑い合いながら、少女たちは公園を後にしていく。

「そうだ、明日から天気が悪くなるみたいよ。いよいよ入梅だって」

「ええっ、そんなのやだぁ。せっかくの復帰初日が体育館の庇の下?」

「日頃の行いかしらねぇ」

「酷い!ヒカリの意地悪!」

ヒカリもマナも胸の奥に灯った温かい気持ちで気分はほかほかしていた。
だから身体も軽ければ、口も軽い。

「そぉだ!次はヒカリの恋を実らせようよ。そうしよ!」

「ま、マナ!」

「でもって、その次が私。その時はよろしく」

恭しく頭を下げたマナは足取りも軽く、ヒカリの家に向かう。
その背中を小走りに追いながら、協力してもらうかそれとも自分の力で何とかするか、前向きに悩み始めるヒカリである。
入梅前の空は少し雲が多く、遠くの山に微かな夕焼けが見えた。



その頃、アスカはシンジを睨みつけていた。
彼女の予想通り、シナリオとはまったく違った展開になってしまったのだ。
しかし勢いというものは恐ろしい。
マナに背中を押されたアスカはもう本人でも止められない。

「シンジ、アンタ、誕生日よね」

「う、うん。そうだよ」

これはどういうことなのだろうか。
正直に言うと、今年の誕生日をシンジは期待していた。
アスカから何らかのアプローチがあるとまでは思っていない。
小さい頃は両家合同の誕生日パーティーが存在したので、アスカからのプレゼントを受け取ることができた。
ただしそのプレゼントはキョウコが見立てたものなので、アスカはそれを渡すだけの役割に過ぎない。
小学校の中学年あたりからそのようなパーティーは自然消滅してしまい、いきおい名義上のアスカからのプレゼントも彼の手に渡らなくなった。
そのことを彼は別に寂しいとも思わなかったのだ。
しかし今の彼はもうそうではない。
欲しい。何としても欲しい。アスカからのプレゼントを。
もっとも貰える可能性などゼロに近い。
例年のものであれば話は別だが、この年になって、しかも彼女の意思でなど絶対に無理な話だとシンジにもわかっている。
だがそれでも、欲しいものは欲しいのだ。
それがアスカが突然部屋に現れたのだ。
しかもその胸に抱きしめているのはどう見てもプレゼント。
何と夢のような出来事だと思ったのは一瞬。
彼女は背中で扉をどすんと閉め、それはもう物凄い眼つきでシンジを見据えたのだ。
殺される!と一瞬思ってしまったのも無理がないほどの勢いと形相だったのである。

「欲しい?」

シンジは「何を?」と聞き返したかった。
しかし2m向こうにいる金髪の幼馴染にはとてもそんな言葉が言えなかった。
ただ彼にできたのは、がくがくと首を振ることだけだ。
アスカはぎこちなく笑った。
彼女に恥らう気持ちはなかった。
彼は欲しがっているのだ。
では与えようではないか。
この…、この…、この星座グラスのペアセットを?
射手座と双子座のグラスをセットにして手ごろな箱に詰めて綺麗に包装した、この手にしっかりと握られている包みを?

そんなの、つまんない。
だって、シンジは欲しがってるんじゃない。
欲しいって言ったんだから、アイツの所為なのよ、これは。
もし後で文句を言うもんなら、アンタの責任だって主張できるじゃないの。
既成事実ってヤツよ、ふふふふふ。

心の中での笑い声は、実際には「いひひひ」と発音されてしまった。
いくら恋しい女の子でもそんな笑い方をされると身を退きたくなろうもの。
しかし、ここはシンジは堪えた。
精一杯の勇気を持って彼は踏みとどまった。
何かが起こる。
ただ、それだけを信じて。

アスカはずんずんと前に進んだ。
目標物は上体を微かに後ろに反らすが、踏ん張った足は1mmとて動かない。
そして、二人の距離が限りなくゼロに近づこうとする時、アスカの気が変わった。
このまま自分から仕掛けたら、シンジの責任にできないではないか。
ぐんぐんと迫ってくるアスカの唇をずっと見つめていたシンジは息をするのも忘れている。
しかし、あと1cmくらいの場所から、ぐぐっと桜色の唇が後退する。
彼の意識上では1km以上離れたように感じた。
か、からかったのか?
彼の胸は憤怒に燃えた。
その時、桜色の唇が開いた。

「いくじなし。自分からできないんだ」

くっ!
シンジの心の中で何かが弾けた。
昭和52年6月6日月曜日、午後5時58分。
彼はその時を自分の第二の誕生日と位置付けることになった。
ちゅっと音がして、二人の唇が触れ合う。
そのタイミングを計ったかのように、部屋の扉がノックされた。
二人が慌てたことはもちろん言うまでもない。
アスカが下がれるだけ後ろに下がり壁面に背をつける。
シンジも後退できるだけ後退し、もともと座っていた椅子にどすんと収まった。

「いらっしゃい、アスカちゃん。あらあら、どうしたの?」

満面の笑みを浮かべて、シンジの母親が入ってきた。
その手にはお盆が持たれ、そこにはキリンレモンが2本と普通のグラスが2個乗っていた。
どうしたのと問われ、今ファーストキスを済ませたところだと答えられるわけがない。
しかもシンジにそういう柔軟性はまったくないことをアスカは承知している。
従って、ここは自分ががんばらないといけない。

「た、た、誕生日のプレゼントを持ってきたの」

どもるな、アタシ!
さすがのアスカもキス初体験の興奮でいつもの調子が出ない。

「あら、本当?中身は何かな?って私が見ちゃまずいわね」

「そ、そうです。はい」

異様なほどに丁寧な喋り方でアスカは返事をする。
明らかに挙動不審なアスカの様子にシンジは助け舟を出せない。
できることなら彼は駆け出したいのだ。
歓びと恥じらいとその他様々な気持ちが入り混じって、彼の小さな胸の中では抑え切れない。
それが扉を母親の身体で塞がれている。
彼にできることはただ引き攣った笑いを浮かべるだけだった。
もっともここでアスカを置き去りにして、奇声をあげながら街中を走り回ることはできようもない。

「まあ、残念。そうそう、今日はうちで食べていってね。一応誕生日だからそれなりにご馳走にしてるの」

「いいんですか?」

「ええ。こんなこともあろうかと、多めに作っておいたから大丈夫よ」

「あ、あの、ありがとうございます」

「お赤飯ってお祝いにはつき物だからちょうどよかったわね。ね、シンジ」

謎のような言葉を吐き、ユイはお盆を畳に置く。

「いっぱい飲んでね。うちは全種類を3セット揃えるの。協力してね、アスカちゃんも」

「えっ、は、はい、喜んで」

顔で笑って心で泣いて、そして喉にはげっぷが上がってきそうになった。
もうキリンレモンはたくさんなのに…、しかも3セットって!
ママったら、どんだけ挑発したのよぉ!
アスカはユイには逆らえそうもない自分が情けなかった。

「まあ、嬉しい。じゃ、準備ができたら呼ぶからね。それまでごゆっくり…」

にこにこと笑いながら、ユイは廊下へ出て行った。
二人がほっと息を吐いたその瞬間、扉がぐっと開く。

「でも、キスまでよ。それ以上はまだ早いからね」

顔を出さず、声だけが部屋に入ってきて、そしてまた扉が閉まった。
もちろん、キスの実行犯はその共犯者と顔を見合わせる。

「ばれてた!」

そして、部屋の窓から小気味よいサンダルの音が響いてきた。
その音を聞くが早いか、アスカは窓に飛びつく。
するとどうだろう。
碇ユイが凄まじいスピードでアスカの家の玄関に突っ走っていくではないか。

「あ…」

溜息とも嘆声ともつかない、空気の漏れるような音を二人が同時にあげた。
ユイはチャイムも鳴らさずに惣流家の玄関扉を開きその中に飛び込んでいった。
「ちょっと、キョウコ!大変!」という声が聞こえてくるような気がする。
そして、窓のところに並んで立った二人は諦め顔で力なく笑い合った。

「信じらんない。あれから5分も経ってないんじゃない?」

「はは、まさか父さんには言わないと思うけど」

「どうだか?アンタ、アタシのパパに殴られるかもよ」

「そうかなぁ」

「さあね。まあ、殴ったりしたら、アタシが復讐してあげるから安心しなさいよ」

「殴られる前に止めてくれないの?」

「そりゃあ、アンタの返事しだいね」

アスカはじっとシンジを見つめた。

「アンタ、どうしてアタシのファーストキスを奪ったの?」

「えっ」

明らかに誘っていたではないか、と言ったらいけないことだけはすぐにわかった。
それほどアスカの表情が真剣だったわけだ。
彼女はゆっくりと身体を動かし、椅子に座っているシンジの身体を掠めて学習机の上から二番目の引き出しを開ける。

「相変わらず机の中はぐちゃぐちゃね。整理整頓しなさいよ、馬鹿。あ、見つけた」

アスカは何食わぬ顔で引き出しの中から彫刻刀のケースを取り出した。
左手に持っていたプレゼントの包みは机の上に置き、ケースの中から一番刃の大きな彫刻刀をぐっと掴む。

「ほら、早く返事しなさいよ。忍耐強いアタシにも我慢の限界っていうのがあるんだからね」

アスカの辞書に“忍耐強い”なんて項目はないじゃないか!
シンジは大いに抗議したいところだったが、ここは人生の関が原だ。
彼はゆっくりと言葉を紡いだ。

「あ、あの、アスカを好きだから」

「誰がよ」

「僕」

「ちゃんと言いなさいよ。アンタ馬鹿ぁ?」

アスカはただきちんとした主語述語のついた文章で告白してもらいたかっただけだ。
しかし、シンジは今のでは足りないのかと誤解した。
一瞬考えた彼は、ええい言っちゃえとばかりに大胆極まりない宣言をしたのだ。

「大人になったら結婚してください。あ、僕と、アスカが」

アスカは度肝を抜かれてしまった。
手にしていた彫刻刀をいつの間にシンジに回収され、ケースを引き出しにしまわれたのか、まったく記憶になかった。
シンジはぶつぶつ愚痴を零す。

「何だよ、せっかく気合をこめて言ったのに…。命の危険を感じたから嘘を言ったんじゃないってば。
まあ、いいや。こうなったら、アスカがイヤだって言っても絶対に結婚してやる。絶対」

何か反応があるかと思いきや、彼女はぺたんとその場に座り込んだ。
まるで身体中の力が抜けたように、アスカは微かに口をパクパクさせているだけである。
そんな反応にシンジは満足しなかった。
もっと何かリアクションを出して欲しい。
彼はにやりと笑うと、少し顔を赤らめながら身体を傾ける。
椅子から立って、素直に蹲ってから行為に及べばよいものを無理な姿勢で彼はセカンドキスに挑んだのだ。
しかし、2回目はアスカが主導権をとった。
近づいてきたシンジの顔を両手で固定すると、ぶちゅうという擬音がぴったりなほどに力強くキスを仕掛けたのだ。
姿勢が崩れている上に予期せぬ相手の動きにシンジはとうとう椅子から転がり落ちてしまった。
どすんと音を立てて畳に転がったシンジを見ながら、アスカは立ち上がりはしたなくも舌なめずりをする。

「ふんっ、アンタ馬鹿ぁ?このアタシが我を失うだなんて思ったわけぇ?逆襲のチャンスを窺っていただけじゃない。ははは!」

腰に手をやり仁王立ちしたアスカは大嘘を言う。
覚醒したのはほんの30秒ほど前なのだ。

「なんだ、芝居だったのか。ちぇっ」

シンジは単純である。
アスカの嘘を見抜けず、素直に悔しがっている。
そんな彼が可哀相になって、慌てたアスカは本音を出すことに決めた。

「まっ、アンタがどうしてもって言うのなら結婚くらいしてあげてもいいわよ」

「えっ、本当?」

ぱっと顔を輝かせるシンジを見て、光の速度で緩んでいきそうな頬をアスカはぐいっと引き締める。

「仕方ないでしょ。アンタみたいなヤツ、アタシがいないと駄目なんだもん」

うんうんと頷くシンジは心からその通りだと思っていた。
その逆も真実であるなどとは思いもよらない。
アスカはここぞとばかりに既成事実を固めてしまおうと思った。

「そ、それじゃ、誓いの乾杯でもしましょうよ。そこにちょうどキリンレモンもあることだしさ」

「あ、そうだね、うん、そうしよう!」

這うようにしてお盆のところに行ったシンジは栓抜きで王冠を飛ばす。
そこでアスカは気がついた。
いいものがあるではないか、と。

「待って。そのグラスには注がないでよ。こっちにして」

アスカは机の上からプレゼントを持ち上げ、シンジの傍らに置く。

「中にさ、えっと…開けたらわかるわよ!ふんっ」

素直になりきれないアスカは腕組みをしてそっぽを向いた。
何だろうかと包みを開けると、中から出てきたのは星座グラスが2個。

「わっ!射手座と双子座じゃないか!これっ、これっ?」

「ちゃんと洗ってあるから問題ないわ」

シンジの父親の口癖を借りて、アスカは横目で彼の様子を見届けている。

「実はアスカにプレゼントしようかと思って僕も集めてたんだよ。でもなかなか出なくてさ。凄いや、アスカ」

「はんっ!」

星座グラスを自分にプレゼントしようと思っていたと聞き、アスカの心は身体を突き抜けて窓から空へと飛び出さんばかりに跳ね上がった。
彼はそのために集めていたのだ。
しかし、そこで素直に喜ぶことができる彼女ではない。
嬉しいからこそ悪態をつかずにはいられない。

「こんなの簡単なことじゃない!射手座が欲しいんですけどって三河屋さんに訊いた?あっさりセットでくれたわよ。ふふんっ」

思いついたのはキョウコで、訊いたのもキョウコで、お願いしたのもキョウコだ。
アスカはそれをあたかも自分の手柄のごとく偉そうに並べ立てる。
素直なシンジはそうだったのかと元幼馴染で現在の恋人を尊敬の眼差しで見た。
アスカは大層面映かったのだが、ここは知らぬ顔で突っぱねる。
いずれシンジに真実が知れるのだろうが、今ここでの虚栄心やら何やらは充分以上に満たされた。
余は満足じゃ。
彼女は悪代官のような台詞を心の中で呟くと、心底喜んでいる彼の表情を見てにんまりと笑った。

「アタシは双子座の方にしてよ。ほら、早く注いでよ。あっ、アンタのはアタシが注ぐんだからねっ」

かくして二人は誓いの儀式を執り行った。
その儀式の終わりを告げたものが、計らずも二人同時に出てしまったげっぷであったことだけは笑うしかなかったが。



それから、ユイの計らいで夕食はシンジと二人だけで食堂で食べた。
もっともリビングにいる筈のシンジの両親が気になって二人の会話はおとなしいものであった。
それでも時に交し合う視線に頬を染めたりと、何百回も経験済みの二人での食事がそれはそれは初々しい雰囲気をかもし出していたのだ。
夕食後もそれは続いた。
いつものような騒がしさは影を潜め、かなりぎこちない会話を交わしたのだが、もちろん二人は幸福だった。
その後、アスカは幸福な気分で家への道を辿った。
ほんの19歩の道程ではあるが、彼女はその間に15回もふりむいて手を振る。
その都度、窓に見えるシンジは思い切り大きく手を振り返してくれた。
名残惜しい気持ちを抑えて、玄関の扉を閉めたアスカはふわふわした足取りで階上の自室へ向かおうとした。
父親も既に帰宅している筈だが、父も母も顔を出さない。
キョウコが娘を茶化したい気持ちを必死で抑えて、今晩だけは幸福の余韻に酔わせてあげようと夫婦二人で居間に篭城しているのだ。
そんな親の気持ちに気づきもせず、アスカは微笑を浮かべたまま階段へ向かった。
その時、居間からテレビの音が聞こえてきた。
ちょうど、キリンレモンのコマーシャルがかかったのだ。
今回はロングバージョンで片平なぎさがこう言った。

『なぎさは、かに座。うお座の人と相性がいいんですって』

立ち止まったアスカはぐっと顎を上げてきっぱりと言った。

「アタシは射手座。65%の相性って言われてた双子座のシンジと…」

そこで一息入れたアスカは、にっこりと笑った。
アイドル歌手も顔負けの心からの笑顔で。

「世界最高の組み合わせなのっ。星座占いなんか、べぇ〜っだ!」

居間に向かってあっかんべえをしたアスカはばたばたと階段を駆け上がっていった。
友人たちに今日のことをどこまで報告しようかと考えながら。


(おわり)

 


 

<あとがき>
 
 お付き合いありがとうございました。
 本当の星座グラスは1種類だけだった筈です。でもそれではドラマティックにならないので趣向を凝らしてみました。キリン様、ごめんなさい。
 我が家の星座グラスは計4個ありましたが、その4個とも震災で割れてしまいました。薄いガラスでしたので、仕方がないですね、こればっかりは。因みに幼き頃愛用していた赤影のお茶碗は助かりました。
さて、その星座グラスは間違いなく片平なぎさに惹かれた結果です。あのCMを見て、初めて日本人の女性に眼を奪われたのです。それまではすべて外国人だったんですよねぇ。そして初めて買った日本人の歌手のレコード(アニメ特撮除く)も彼女が初めてです。いまだに『純愛』や『陽だまりの恋』を聴くとあの頃のことを思い出しますね。私の世代の人なら、片平なぎさといえば“なぎささわやかキリンレモン”では?もう少し若い方なら『スチュワーデス物語』の手袋女?今の人は2時間ドラマの女王でしょうか(笑)。
もう一度、あのコマーシャルを見てみたいですね。音源はテープレコーダーで長短2種類を録音してあるのですが、テニスウェアじゃない方の衣装の片平なぎさが好きでした。薄紫色の服を着て、麦藁帽子とキリンレモンを片手に、森の中(もしかすると葡萄畑?)に佇む彼女。『心のひびわれ』というシングルレコードのジャケットになっています。曲の方は…個人的には忘れてしまいたい出来ですね(苦笑)。因みにこのキリンレモンのCMがなければ、アイドル片平なぎさという存在はそのまま自然消滅となっていたかもしれません。もちろんそうなれば元々の希望だった女優というスタンスに流れていったのでしょうが、このCMで大ブレーク。主役のドラマ(白い波紋)も勝ち取って、さらに横溝正史シリーズUの『女王蜂』ヒロイン(この時すでに女王化?)起用。そして現在の女王様(笑)に至るというわけです。私的には片平なぎさの場合、歌唱力というよりも顔(表情)で歌っていたという印象があるのですが、みなさんはいかがでしたか?(といってもこの場合のみなさんは40代以降ですね:笑)
 さあ、この作品のアスカはこれからどうするのでしょうか?間違いなく翌朝はシンジを誘いに行く筈ですが…。作中にあるように6月7日は入梅のようで。策士アスカは相合傘計画というのも目論んでいそうですね。
ああ、そうそう。キリンの夕方のミニアニメは関東では放送されていたのかしら。WEBではそうではないようなことを書かれてましたが…。まあ、無地域作品ということでご了承くださいね。
 最後にこの作品でのシンジ君のこと。読者様の中での男性の方なら覚えがあるでしょう。好きな女の子とアイドルとかは別腹だということを(笑)。ここには書く余裕がありませんでしたが、この誕生日の夜に彼は密かに集めていた片平なぎさのグッズを泣く泣く処分に入っています。いずれアスカに露見してしまうのは眼に見えていますからね。星座グラスをアスカに贈りたいというのは本意でしたが、その発端は片平なぎさに心惹かれたからだったのです。マナの発言は的から外れていたのですね。だって18歳のアイドル歌手とリアル15歳女子中学生ではさすがのミサトさんも負けてしまいます。もっともリアルにアイドルに迫られたとしたら、そこは別腹にできるかどうかは疑問ですが、やはりシンジ君には是非アイドルを振ってアスカを選んで欲しいところです。それでもレコードまでは処分できなかったシンジ君はアスカに問い詰められて結局白状することになった…という後日譚は脳内でよろしくお願いいたします。


 

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