惣流・アスカ・ラングレーは眠れなかった。
 布団には午後11時には入ったというのに、枕もとの目覚まし時計はもう1時30分を示している。
 二度三度と、いや百回以上は寝返りをうっていたアスカだが、それは彼女を夢の世界には誘ってくれない。
 うぅ〜と微かに唸り声を上げる。
 睨みつけた青い瞳の先にはここ一ヶ月ばかりずっと見ている天井があった。
 最初は木の天井に違和感を持っていたが、もうすっかり慣れてしまった。
 それどころかすっかり馴染んでしまい、それまでの無機質なものに比べどことなく温かみを覚えてきている。
 アスカはそんな事をふと思い、そして「慣れか…」と呟いた。
 小さな呟きは彼女自身の耳に届くとほどなく消える。
 確かに慣れた。
 日本の中学校、日常生活、町に氾濫する日本語とまったく見えないドイツ語、そして監視活動。
 もう遠くから彼を見つけることが容易になってきているアスカだった。

「あの馬鹿、マシュマロ、くれるのかしら?」

 無意識に出た呟きを耳にし、アスカは大急ぎでその言葉を修正した。

「べ、別にアタシはそんなの欲しくなんかないんだからっ」

 今度の声は少しばかり大きく、天井にまで届いてそれからゆっくりと彼女に降ってきたような気がした。
 しかめ面をしたアスカは、ぐるぅっと女の子らしからぬ唸り声を上げて布団の中に潜り込んだ。
 眠れ、眠れ、と自分に命じ続けるが、それでもまだまだ彼女は夢の世界に旅立てなかった。
 昭和52年3月14日、午前1時50分のことである。


昭和短編集


チョコとマシュマロ
 
後  編

ー 1977 3月 

 


 2009.03.14        ジュン

 
 


 

 アスカは自分がいつ寝入ったのか覚えていない。
 母親に叩き起こされて飛び起きたのは、目覚まし時計がばねの限界まで鳴り続けた5分後のことである。
 明らかに睡眠不足で朦朧とした頭を叱咤激励し、とにかく着替える。
 ゆっくりと着替えながら思い出した。
 母親が布団を引っ剥がした時に何を叫んでいたのかを。
 『いつもより1時間も早く目覚ましかけて何するつもりだったの!』
 1時間も早く?
 アスカは止まってしまった目覚まし時計の針を眺めた。
 時間は5時55分。
 なるほど窓の外はまだ暗い。
 あれれ、自分はこんな時間に何をしようとしていたんだっけ?
 そして、アスカは思い出した。
 今日が3月14日であることを。
 眠たげに細いままであった彼女の目はかっと見開かれた。
 そして先ほどまでのそりのそりとしか動いていなかった着替えはあっという間に終わった。
 彼女は完璧に目覚めたのだ。
 洗面所に飛び込むと歯磨き、洗顔、髪の毛のセット。
 それから鏡の中の自分に笑顔で挨拶するがぎこちない。
 食堂へ行くと既に母は夫と娘の弁当製作の真っ最中だ。

「あなたの世話までできないわよ。自分の分は自分で用意しなさい」

「OK!」

 6時30分になると祖父が、その10分後には父親が食堂に現れる。
 そうなると母は手が10本ほど生えているのかと思わんばかりに凄まじい動きをはじめる。
 それにまきこまれるとアスカの算段どおりには進まなくなってしまう。
 そうなってはなるものかとアスカはご飯と味噌汁と味付け海苔を準備し食べ始めた。
 台所ではそれを見越してきちんと味噌汁を温めているのだから母はやはり凄い。
 あんな奥さんに自分はなれるのかしらんとアスカはふと思った。

 午前7時、アスカはいつもより45分早く家を出た。
 第壱中学校の正門に到着したのはその12分後だ。
 早く足を進めていたつもりはなかったのだが、普段よりも3分も時間短縮されている。
 昇降口へ向かうとグラウンドの方から運動部の連中の喚声が聞こえてきた。
 こんなに早くから身体を動かしてるんだとアスカは感心したが、しかし自分はそんな事をしたくはないと思う。
 色々な部から勧誘されたが、部活動に入るつもりは全然なかった。
 碇レイと同様に帰宅部に所属するつもりである。
 アスカは自分の下足箱の前に立った。
 昇降口付近に人気はまったくない。
 彼女は周りを見渡した後に大きく深呼吸をした。
 そして唇を噛むと、小さな木製の扉を大きく開いた。
 中に入っていたのは彼女の上靴だけである。
 それを取り出した後、アスカはもう一度じっくりと中を検分する。
 やはり何もない。
 はしたなくも短くちっと舌打ちをしたアスカは上靴に履き替えた。
 まず、ひとつわかった。
 あの馬鹿は朝一番に下足箱に例の物を放り込むほどには自分のことを思っていないようだ。
 アスカは鼻を鳴らした。
 そういうヤツなのだ、あの馬鹿は。
 ぶすっとした顔つきで廊下をずんずんと歩き、教室の扉をがらがらっと勢いよく開けた。
 誰もいない1年2組の教室に入るとアスカは自分の席に腰掛ける。
 頬杖をついて黒板を睨みつけているうちに彼女の表情が次第に和らいでくる。
 そうだった、そもそも朝に下駄箱の中に入っているかどうかなどが問題ではなかったではないか。
 あれはもしかしてそうだったら計画が狂うかもしれないということで確認したに過ぎない。
 そうだ、そうだ、そうだった。
 自分の計画はあの馬鹿に面と向かって言い放つことなのだ。

「これって何のつもり?アンタ馬鹿?アンタごときがこのアタシとつきあおうですって?100万年早いわよ!」

 何度も考えに考え抜いた返答だ。
 言う時の仕草や調子、目線に足の踏ん張り方に至るまで練習を繰り返してきた。
 もはや完璧にこなせる自信がある。
 いつでもこい、碇シンジ。

「おはよう」

 と、声をかけてきたのは彼ではない。
 お下げ髪のクラスメートだった。

「オハヨっ!早いわね、ヒカリ」

「え?私はいつも通りだけど?」

 うっとアスカは言葉に詰まった。
 確かにそうである。
 真面目な洞木ヒカリはいつも8時前に登校しているのだ。
 アスカの方は大抵8時15分頃なのだ。

「もしかして、アスカは待ち合わせとかで早く来たの?」

 他に登校してきている生徒がいないので、ヒカリは随分と思い切ったことを訊いてきた。
 
「だ、誰とよ!」

「アスカがチョコレートあげた男の子じゃない」

「ば、ば、馬鹿っ。あげたのはレイにでしょうがっ」

「だね。あれは事故だって散々宣伝したもの」

「そうよ。もう誰もアタシが本気で渡しただなんて思ってないわよ」

 その通り。
 あの翌日、2月15日の朝から早速アスカは事態の収拾に努めていた。




 話は1ヶ月前に遡る。
 アスカは日本式のバレンタインデーの風習などまったく知らなかったことを周りに触れ回ったのだ。
 ヒカリたちを相手に声高に喋ったかと思うと、終礼の時に手を上げて発言したのである。
 こんな風に。

「今日は何か日本で特別な日でしょうか?というのは昨日アタシはそんな風習があるとはまったく知らずに」

 まったく、を強調したアスカは迷惑そうな表情いっぱいにして言葉を続けた。

「レイへのお見舞いのため、そのお兄さんにチョコレートを渡した…いや、配達を依頼しただけなんです。
どうやら誤解されちゃったみたいで、アタシ迷惑してるんです」

 それだけ言うと、アスカは着席した。
 お兄さんの名前はシンジだと知っているが、わざと名前を出さなかったのだ。
 二人には深い関係はないということを周囲に知らしめるために。
 最初は「今日は何の日?」だったのに、完全に昨日の説明に終始している。
 それが誰にもわかっただけに、くすくす笑う声があちこちに聞こえた。
 それを耳にしたアスカは憤然として周囲を見渡す。

「よしよし、何だか昨日行き違いがあったようだが…。まず、惣流。今日は普通の2月15日だ。
別に何の行事もないぞ。それから、学校にチョコレートを持ってきていたとはけしからん!」

 教壇に立つ青葉シゲル先生はアスカをわざとらしく睨みつけた。

「まあ、バレンタインのプレゼントなら目を瞑ってもいいが、ただのおやつとして持ち歩いていたのは…」

 おやつではなくレイへのお礼のものだとアスカが抗議しようとしたその時だった。
 お調子者の神田君が口を挟んだのは。

「先生!自分が貰ったものだから、バレンタインのチョコだけはOKなんですね!」

「な、何だと!」

 叫ぶ青葉はこれは拙いことになったと神田君の口をふさごうとしたがもう遅い。
 男女問わず教室のあちこちから、神田君に事情の説明を求める声が一斉に上がったのだ。
 もちろん彼は喋る気満々で口を出したのだからたまらない。
 「お前ら黙れ!」と叫んでいる間に、青葉先生が伊吹マヤ先生にチョコレートを貰ったことは暴露されてしまった。
 ひゅうひゅうと囃し立てる声が溢れ、中には「結婚はいつですか?」と気の早い質問まで飛び出す。
 教室中が喧騒に満たされ、隣の教室から抗議に来たのが伊吹先生だから事態はさらに悪化した。
 もっとも青葉先生にとってみれば制止しようとしているものの、内心はもっと騒げと囃し立てていたのだ。
 これを期に二人の仲を既成事実にしてしまおうという魂胆である。
 結果的には彼の目論見は功を奏し、来年の夏に結婚という流れまでいくのだがそれは余談。
 そんな騒ぎの中でアスカだけが苦虫を噛み潰したような表情で腕を組んでいた。
 せっかくの事情説明がこれでは消し飛んでしまったではないか、と。
 まさか明日も「今日は何の日ですか?実は…」とやるわけにはいかない。
 ま、仕方ないか、と溜息を吐き、彼女は苦笑しながら頬を染めた先生たちに周囲と同じように拍手を贈ったのだった。

 その翌日、2日間病欠したレイが登校してきた。
 彼女はアスカの顔を見ると何とくすくすと笑ったのだ。
 それを見てアスカが頭にきたのは言うまでもない。
 
「ちょっとレイっ、アンタその態度何っ?」

「ごめんなさい。でも、アスカが変な顔していたから」

「アタシの顔?どこがっ」

「複雑な表情してた。何から言おうかって」

 確かにそうだった。
 レイが14日に欠席しなければ、そもそもこういう事態に陥ってはいなかったのだ。
 だから文句の一つも言ってやりたいのだが、別に彼女はアスカを困らせようと休んだわけではない。
 病欠だから仕方がないのはわかるけれども、それでも何か言ってやりたい。
 その戸惑いが顔に出たわけだ。
 それを承知しているだけにアスカは膨れっ面で黙るしかない。

「ごめんね、馬鹿なお兄ちゃんで」

「いいわよ、もう」

 全然いいわけではないが、こういうのは外交辞令であろう。
 それよりも先に言わねばならないことがある。

「で、もういいの?大丈夫?」

「ありがとう。いつものことだから」

 気遣ってくれたアスカに心から微笑み、レイは自分の席についた。
 そして、バレンタインデーのことを謝った。

「ごめんね、すっかり話は広まっちゃったみたい」

「ん…、えっ、そうなの?」

 クラス内で消火活動に勤しんでいたアスカだったが、あの話題が広まっているということに落胆する。
 しかも休んでいたレイが知っているという事は、兄の口から聞いたという事なのだろう。
 そこまで察したものの当事者だけに訊かない訳にはいかない。

「昨日、お兄ちゃんが登校したら凄い騒ぎになったんだって。違うクラスからも見物が来たりして」

「見物?」

「ええ。いったい誰が金髪美人転校生からチョコレートを貰ったのかって」

「あちゃあ…」

 シンジの在籍する9組は違う階にある。
 だからアスカが様子を見に行きたくても簡単にはいかないのだ。
 何故ならば彼女がシンジの近くに寄ればそれだけで噂はさらに広まってしまうことが容易に想像できたからである。

「私も聞いたわよ。そのこと」

 二人の会話に割り込んできた友人が身を乗り出してくる。
 彼女は9組にいる小学校時代の友人から話を聞いたようだ。

「2年生に廊下に呼び出されてね、レイのお兄さん。で、訊かれたのよ。お前がチョコを貰ったのか?って」

「まさか胸倉掴まれて、とか?」

 質問したのはレイである。
 その目つきがかなり怖かったので、彼女は嘘をついた。

「ん〜と、違うみたい。普通に会話したらしいよ」

 2年生に胸倉を掴まれたシンジは文章で喋ることはできなかった。
 怖いというよりも、肉体的にカラーが喉に食い込んで言葉にならなかったのである。
 彼としてはきちんと説明してあれは誤解だということをみんなに知らせたかった。
 しかし、その時の彼にできたのは肯定の意味に取られてしまう「ぐ、ぐぅ」という呻き声を出すことだけだった。
 その上、彼の援軍に出てきた男がそれを上塗りしてしまったのだ。

「こら、離さんかい。2年や思うて何すんねん。わしの親友にそれ以上手ぇ出したら…」

 胸倉を掴んだ2年生は残念ながら不良ではなかった。
 いささかお調子者のサッカー部員で仲間にけしかけられ蛮行に及んだのだ。
 何しろ呼ばれて出てきたのが胸を突いても泣き出しそうなシンジだったから調子にのっただけのことである。
 この中学校で関西弁を喋るのは鈴原トウジだけだ。
 実は引っ越してきてからもう5年になるので、いささかイントネーションなどが怪しくなってきているのだが、
そんなことは周囲の標準語に慣れた連中にはわかるわけがない。
 関西弁イコール乱暴な言葉という認識のある彼らはトウジの口調だけで少し腰が引けてしまう。
 もっとも喧嘩も弱くないことをトウジの名誉のために付け加えておこう。
 そのトウジに凄まれて、2年生は慌ててシンジから手を引いた。
 情けなくもげほげほ咳き込む友人の代わりに、トウジは胸を張って言ったのだ。

「あの惣流っちゅう転校生からチョコを貰ったんは確かにこの碇シンジや。
間違いないで。昨日、スキップしながら帰っていったさかいな。わしは見た」

 見たのは、鞄を胸に抱えて廊下を突っ走り下校していったシンジの姿のことだ。
 それをスキップと演出したのは関西人の血の性か、それとも友人の心の奥まで見抜いていたからか。
 しかしいずれにしても、彼の発言は別のことに結び付けられてしまう。
 当然それは“バレンタインデーに金髪美人転校生からチョコを貰ったのは碇シンジ”ということを揺るぎようもない事実として認定したことになってしまった。
 群集心理とはそういうものだ。
 一番結び付けたい話題の方から優先して関連付けてしまうのである。
 こうして2月15日、1年9組において“惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジを好き”だという事実が構築されてしまったのだ。
 アスカのあずかり知らぬところで。
 自分の身の回りの消火活動に励んでいたその頃には、別のフロアで手の施しようがないほどに炎上していたのである。
 その話を聞いて、アスカはがっくりと肩を落とした。
 そしてヒカリを恨めしげに見つめたのだ。

「あの関西弁が火元なんですってね。ヒカリ、アンタが責任とってくれる?」

「えっ、わ、私が?」

「だって…。アンタ、アイツの彼女でしょうが」

「ち、ち、違うわよ。私、まだ…」

 顔を真っ赤にして否定するヒカリを友人たちは寄ってたかって尋問した。
 その結果判明したのはバレンタインのチョコレートは受け取ってもらえたが、ただそれだけだということだ。
 カップルが成立してはいないらしい。
 アスカは呆気に取られたが、他の女子はそれはもっともだと頷いたのである。

「そりゃあ、その場で返事っていうのはねぇ」

「うんうん。やっぱり、チョコの返事はマシュマロじゃないと」

「そうそう。マシュマロを貰ってこそ、交際成立よねぇ」

 レイを含めてみな「ねぇ〜」と同意しあっている。
 尋問の的になっているヒカリでさえ、うんうんと首を縦に振っているのだ。
 アスカだけが明らかに蚊帳の外になっている。
 こういう場合すぐに問い質さないと拙いことになってしまう。
 バレンタインデーのことでそれが身に沁みているアスカはすぐに質問した。
 マシュマロとはあのマシュマロのことか?
 それが何かバレンタインデーに関係しているのか?
 そして、彼女は知ったのだ。
 日本独自の祝日の存在を。
 ホワイトデー。
 白の日って、何よそれ!
 でもって、どうしてマシュマロ?
 彼女の頭は混乱してしまった。
 チョコレートとマシュマロがペアになっているのはいったいどういうわけだ。
 日本人はわからない…。

「まさか、レイ。アンタのあれは…」

「お兄ちゃんって言ってよ」

「ぐぅ…、アンタのお兄ちゃんはまさか本気にしてないでしょうね」

 言い直したアスカは窺うようにレイを見つめた。
 
「ホワイトデーにマシュマロを渡すつもりかどうかってこと?」

 アスカはぎくしゃくと頷いた。

「さあ、どうでしょう。渡したいのは山々だと思うけど」

「わっ、そうなんだ。さすがにアスカはモテモテね」

 混ぜっ返す仲間の一人にアスカはふんっと顔をそむけた。
 しかしすぐにその顔を向けて、怖々と質問する。

「あのさ、もし、万が一、恐れ多くもヤツが…」

「お兄ちゃん」

 すかさず口を挟むレイをアスカは睨みつけた。

「くっ、レイのお兄ちゃんがアタシにマシュマロを渡してきたら?」

「ホワイトデーに?」

 アスカは細かく数回頷いた。

「そりゃあ、カップル成立でしょ」

「えええっ!」

「だって、アスカはバレンタインデーにレイのお兄さんにチョコを渡したんだもの」

「そうよね、そのアスカがマシュマロを受け取らないわけにはいかないよね。ねっ、ヒカリ?」

「う、うん。チョコを渡したのにマシュマロを受け取らないのはおかしい…かな、やっぱり」

「ちょっと、待った!そんなの理不尽じゃない。アタシは知らなかったんだもん」

 目を吊り上げて抗議するアスカだが、友人たちはにべもない。

「アスカの気持ちはわかるけど、バレンタインのしきたりだもん」

「だ、か、らっ!それは日本だけなんだってば!」

「みんな言ってるよ。アスカは照れてそんな嘘を言ってるんだって」

「あのねっ、照れるような人間がみんなの目の前でチョコを渡すかってのよっ!」

「ち、ちょっと!言ってるのは私じゃないってば」

 アスカに迫られたヤスコが後退りながら弁明する。

「とにかく雑誌とかテレビかラジオで日本だけの風習だってやってくれないとみんな信じないわよ」

「うんうん、世界中で恋する乙女が愛する人に想いを打ち明ける日だと思ってるんだもの」

 腕組みをしたアスカはううむと唸り声をあげた。
 こういう状況でいくら弁明してもどうにもならないだろう。
 となると、手は一つしかない。

「よし、わかった!こうなったらこれしかないわね」

 アスカはレイに詰め寄った。
 しかし彼女は後退らずに寧ろ余裕の微笑を浮かべる。

「レイ。アンタ、アレ……うぅっ、お兄ちゃんにマシュマロなんて渡すなって伝えてよね」

「いや」

「うわっ、即答かっ」

 ミチルがレイの応対を聞いて驚きの声を上げる。
 
「あ、アンタねぇ」

「自分で伝えれば?他のものが欲しいのなら」

「欲しくない!何にも欲しくない!とにかくホワイトデーとかいう日には誤解を招くようなことをするなって」

 慌てて言い募るアスカにレイはにっこりと微笑んだ。

「わかった。それならちゃんと伝える」

「なんだ。伝えるんだ」

「こら、ミチル。あなた、揉め事を期待してたの?」

 ヒカリに窘められ、ミチルはぺろりと舌を出した。
 レイ曰く、彼女の兄は変なところで几帳面で考えすぎるところがある。
 だからマシュマロを渡すなという伝言を曲解してしまう可能性が高いというのだ。
 マシュマロ以外の何かを渡せという意味にとってしまうというレイの説明にみんな吹き出してしまった。
 そんな馬鹿なことを考えるのか?と。
 レイは真顔で答える。

「だって、お兄ちゃん、馬鹿だもの」

 その表情が何故かアスカには羨ましかった。
 好きな人を馬鹿と言えるのは好きだから、なのかもしれない。
 そう思っていると、レイはとんでもないことを言い出した。

「馬鹿シンジって言ったの、アスカなんでしょう。聞いたわよ」

「えっ、アタシ?」

 こくんと頷いたレイは兄から聞いたと言い出す。
 するとヤスコも自分も9組の女子から聞いたと横から口を出した。
 14日の放課後にアスカが誤解を晴らそうと乗り込んだとき、馬鹿シンジはいるかと吼えたのだと。
 アタシがそんなことを言ったのかとアスカは首を捻った。

「お兄ちゃん苦笑いしてた。でも、内心喜んでる、あれは」

「へぇ、好きな人に馬鹿って言われて嬉しいの?えっと、それって…?」

「マゾ!マゾなのよ、レイのお兄さん」

 ミチルが決め付けて、わぁっと他の女子が喚声を上げた。
 その中でアスカだけが複雑な表情を浮かべていた。
 マゾ云々はどうでもいい。
 ただ馬鹿シンジというネーミングはなかなかしっくり来るではないか。
 “お兄ちゃん”という恥ずかしげな呼称方法よりもこちらの方が口にしやすそうだ。
 そんな風に思ってしまったのは彼女の中に芽生えた想いの発露なのだが、もちろんアスカに気がつくわけがない。
 逆にレイに巧く乗せられてしまうのである。

「じゃ、これから馬鹿シンジでいい。アスカ、お兄ちゃんって言いにくそうだから」

「わっ、いいの?アスカ、言ってみてよ」

「えっ、今?」

 そう、今言えとみなに言われ、アスカは仕方がないわねと肩をすくめた。
 そして彼女は顎を幾分上げて、つんと澄まして口にする。

「馬鹿シンジ。いい気にならないでよね」

「おおおっ、いい感じ!」

「ねぇねぇ、そういう時はびしっと指を差したらいいんじゃない?」

「ああ、それいいかも。ねぇ、アスカやってみてよ」

「OKっ。馬鹿シンジ、いい気にならないでよね」

 ミチルとヤスコに促されて、ただし本人もかなりやる気になってジェスチャーをとる。
 足を肩幅に開き、レイの顔をめがけて人差し指をつきつけたアスカは同じ台詞を口にする。
 うんうんと頷くミチルとヤスコだったが、今まで口を開かなかったユキが首を捻った。
 
「もっと口調を激しくした方がいいよ。語尾にびっくりマークつけるくらいに」

「そう?じゃあ。もう1回。馬鹿シンジ、いい気にならないでよね!」

「うぅ〜ん、名前を呼ぶ方はちょっとゆっくり目で抑揚をつけた方がいいわ。馬鹿の間に“あ”を入れる様な感じ。それで名前の後にクェッションマークも」

「わかった」

 ユキに言われる通りにやってみたアスカは拍手喝采を受ける。

「さすが演劇部!」

「ユキって自分でするより監督の方が向いてるんじゃない?」

「はは、自分でもそう思う」

 それっぽく眼鏡を指で押し上げたユキはにやりと笑う。
 この数ヵ月後、彼女との縁で、無理矢理文化祭の舞台に上げられてしまうことなど想像もつかない彼女たちはユキの仕草を見て大笑いをした。
 
「もう一度やってみるわね。ばぁ〜かシンジぃ?あんまりいい気になんないでよねっ!」

「おおっ、凄い。ばっちりじゃない!」

 みなに囃し立てられ、アスカは少しいい気持ちになり、レイはしてやったりと大きく微笑んだ。
 今度顔を合わせたらこれを一発かましてやればいいと、レイも含めて全員の意見が一致した。
 これがバレンタインから3日後、その放課後の出来事である。



 ところがその後、アスカが直接シンジと話をすることは一度もなかった。
 クラスも違えば合同授業でも同じ教室にはいないのだから、中学校という閉鎖空間でもその気にならないと顔は合わさないものだ。
 シンジの方は明らかに避けていた。
 そして、アスカの方は…。

「アスカ、どう?あれ、試した?」

「あれってあれ?」

 ミチルに仁王立ちして指差すポーズをされて、アスカは肩をすくめた。

「全然。だって、アイツに会わないんだもん」

「呼び出してみる?何なら私が伝令しようか?」

「もうっ、ミチルったら。あなたが見たいだけなんでしょう?」

 ヒカリに窘められてミチルはぺろりと舌を出す。
 放課後になり、ユキは演劇部へ、ヤスコはテニス部、レイは生活委員会へと姿を消している。
 そして、今舌を出したばかりのミチルも水泳部へと向かった。
 その背中を見送ってアスカは苦笑した。

「この時期の水泳部って大変ね。体力づくりばっかり?」

「温水プールなんて私立の学校でもほとんどないでしょう。月に何度かは屋内プールに行ってるみたいだけど自費だから大変ね」

「相変わらず事情通ね、ヒカリは」

「委員会とかで耳に入ってくるの…って、大変!今日は私が買い出し当番だった」

 洞木家は母親が4年前に亡くなっている。
 そこで三人姉妹が家事を分担しているわけだが、末妹のノゾミはまだ小学3年生。
 従って炊事関係は長姉のコダマとヒカリの交代制となっている。
 ヒカリが年の割りにしっかり者で家事に堪能なのにはこういう理由があったのだ。
 そのことをアスカはもう耳にしている。

「そっか、手伝おうか?」

「ありがとう。でも、いいわ。慣れてるから」

「そ。今日は何にするの?」

「唐揚げ。2丁目のスーパーでもも肉が特売なの」

 にっこり笑ったヒカリとアスカは昇降口で別れた。
 自転車通学のヒカリは西門から出る方が近いのだ。
 小走りに自転車置き場に向かう彼女の背中を見送ってアスカはほっと息を吐いた。
 日々平穏、などという言葉を彼女は知らないがそれに近い感慨を受けている。
 ドイツにいた時は誰よりも優れた存在であろうと毎日が研鑽に明け暮れていた。
 もちろんドイツ人に比べて日本人が劣っているとは思わない。
 ただ、この年頃の者同士を比べると、随分と日本はおっとりとしている。
 14歳で生涯設計を決めねばならないというドイツとは大違いだ。
 どちらがいいのかはわからない。
 しかし、今のアスカは日々の暮らしを満喫している。
 それだけは確かだった。

 この街には幅30mほどの川がある。
 中学校からその川まではアスカとレイは一緒に歩く。
 そのまま橋を渡っていくのがレイで、アスカは橋の袂を右に歩く。
 実はアスカはそこまで行く必要はない。
 正門を出てすぐに右に曲がれば家には最短距離となる。
 事実、登校時はそっちのルートを使っているのだ。
 10分ほどの遠回りをする理由はレイと話をするためにすぎない。
 帰宅してから電話で話すこともできるのだが、わざわざお金を使う上に家の電話を占拠するのもお互いに拙い。
 だからほんの5分ほどの時間を友人との世間話にあてているアスカだった。
 レイの家に遊びに行くのは躊躇われた。
 何故ならそこには彼女の兄がいるからである。
 それがわかっているのでレイは自分の家には誘わない。
 その理由は簡単にしてある。
 ユキやミチルたちの前であの台詞を披露しないといけないだろう、と。
 アスカはそのレイの言葉に乗った。
 ありがたく乗らせて貰った。
 負けず嫌いの彼女としては今の状態で彼に会いたくなかったのだ。
 というのも、アスカは彼を目の前にしてあの台詞を吐く自信がなかったのである。
 いや、学校では言う自信はある。
 ただしそれはギャラリーがいる、という条件付きだ。
 1対1では…、いやレイがいてもどうだかわからない。
 気の強いアスカとしてはわざわざユキに演技指導をしてもらわなくても充分居丈高に振舞うことができる。
 元より自分よりも体格のいいドイツの同級生たちを相手に渡り合ってきたのである。
 そのために虚勢を張ることも覚えた。
 しかもはったりで終わらないようにするために、勉学も運動も人一倍頑張ってきたのだ。
 そんなアスカだからあのような台詞は普通に言える。
 ただ、碇シンジには言えそうもない、そんな気がしていた。
 どうしてかというところまではわからない。
 言えないということだけは自覚できたのである。
 そして何故かという根本的な理由は判明しないが、表面的な理由はわかっている。
 それは彼と面と向かって会いたくないからだ。
 だからレイの家には行きたくない。
 避けていても顔を合わしてしまうかもしれないではないか。
 いや避けているということ自体認めたくない。
 そこには彼女の負けず嫌いという性格が頭をもたげているわけだ。
 そのためにアスカはレイの言葉に乗っている。
 『私、アスカの家に行く。私の部屋には面白いものないから』
 面白いものなんかなくてもいい。
 そう思っているものの、今はその言葉にすがった。
 どうして彼を避けるのか。
 アスカはわからなかった。
 わからないままに出した結論は、不愉快だから、というものである。
 不愉快な相手に会えば粗相をするだろう。
 だからレイの家では会いたくないのだ。
 そんな風に結論を出したアスカであった。

 それは恋よ。
 
 アスカの母親は事も無げに言う。
 もちろんそんな大胆な発言をアスカの前ではしない。
 何故なら天邪鬼である娘の性格はよく承知しているからだ。
 今の状態でそんな事を露呈すれば、間違いなく自分の感情を逆方向に操作してしまうだろう。
 初恋が実るかどうかは神のみぞ知る。
 自分たちは温かい目で見守っていればいいのだと、惣流キョウコは夫と父に語った。
 ただそんな母親らしい発言も二人に面白がって見ていたいだけだろうと本音を突かれたのだったが。
 その代償としてその夜の惣流家の食事は女性と男性でかなり開きがあったようだ。

 初恋、そういう感情が芽生えてきているなどとはまったく感じていないアスカは方向性が一定しない自分に戸惑っている。
 自分では不愉快だからと決め付けている碇シンジのことを何故か遠くからでは見ることができるのだ。
 だからといって、話をしたいとは思えない。
 何なのだこれはと、彼女は苛立つ日日を送っている。

 しかし、友人相手にそんな苛立ちは見せない。
 レイとはどんどん仲良くなっていき、そうやって遠回りをしてでも話をしたいと思うようになってきている。
 何よりもレイの去り際がいい。
 「じゃあまた明日ね」と微笑み小さく手を振った後は、彼女は振り返りもせずに橋を歩いていく。
 その冷たい後姿を初めて見た時、アスカは少しがっかりしたものだ。
 ところがどうだろう。
 すたすたと橋を渡りきったところで、レイはいきなり振り返ったのである。
 そしてアスカが見ていると確認する前に手を振ったのだ。
 絶対に彼女がそこにいると確信していたかのように。
 アスカも慌てて手を振り返した。
 よかった…ここで待ってて。
 彼女は心からそう思い、表情まではわからないけれどもきっとにっこり笑っているだろうレイに大きく手を振ったのだ。
 それからはそれが毎日の恒例行事となった。
 どういう理由かわからないが、レイは橋を渡っている間は振り返らない。
 渡り切ってからアスカに手を振るのだ。
 その動きが何となく愛らしく感じて、アスカは大好きだった。
 
 今日はレイと一緒ではない。
 しかし、いつもと同じルートで下校してしまっている。
 それに気がついたのは橋への半ばあたりまで来た時だ。
 まあ、いいか。
 アスカは苦笑しながら足を進めた。
 引き返すのは馬鹿らしいし、何より彼女は後戻りするのが大嫌いだったのだ。
 バス停で15分待つよりも10分先のバス停まで歩いていきそこで5分待つ方がましだ。
 彼女はそんな性格だったのである。
 だからアスカは踵を返すということはしなかったのだ。
 そしてしばらくすると橋の袂に到着する。
 苦笑しながら袂の欄干をぽんと小さく叩く。
 それからいつも通りに右の道を歩いていこうとしたその時だ。
 アスカの足が止まった。
 橋を渡っていく学生服が目に入ったからだ。
 そこは通学路だから学生服は珍しくもなんともない。
 事実、その目に留まった学生服の少年以外にも数名の中学生が背中を見せている。
 ところが、彼女の目はその中の一人に釘付けになったのだ。

 いた!ヤツだ。

 アスカは口の中で呟く。
 碇シンジ。
 彼女の名誉を傷つけた男。
 後姿だから顔は見えなかったが、アスカには確信があった。
 彼女はその背中を睨みつけた。
 しかしそんな視線を浴びていてもまったく気もつかず彼はゆっくりと歩いていく。
 学生鞄は右手に下げ、リズムをくずさずに足を進める。
 こら!馬鹿シンジ!こっち向け!
 アスカは心の中で呼びかけるが彼は振り向きもしない。
 しっつれいなヤツね!橋から落ちてしまえ!
 悪態は酷くなっていくが、超能力者でもない彼にはその声は届かない。
 勝手な屈辱に顔を歪めたアスカだったが、突然びくりと小さく身体を震わせる。
 シンジが足を止め、川の方を見たからだ。
 欄干越しに川面を見下ろしているのである。
 その視線を追うと、そこには数羽の水鳥がいた。
 親子なのかどうか、大小さまざまの鳥がゆったりと泳いでいく。
 あいつ…笑ってる?
 表情は見えないが、アスカにはシンジの笑顔が見えたような気がした。
 あのバレンタインの夜に見た笑顔と同じものかどうか。
 アスカは思わず一歩二歩と足を前に進める。
 その瞬間、シンジはすっと顔を前に向け再び歩き始めた。
 それを見て、アスカは言いようもない思いに囚われてしまったのである。
 胸が苦しくなるような感覚。
 哀しみ?という言葉を頭に浮かべたが、すぐに彼女は思い直した。
 違う。無視されたから腹が立ったのだ。
 無視どころかシンジは彼女に気づきもしていないのだが、そんなことはもうどうでもよかった。
 あんな屈辱を与えておきながら、この私を無視するとは何という男だろう。
 シンジの背中が見えなくなるまで凝視していたアスカはそれからくるりと踵を返した。
 そして足元の小石を蹴り飛ばす。
 こつこつこつ!かんっ。
 小石は停めてあった自転車に当たる。
 アスカは首を縮めたが、幸運にも周囲に人はいない。
 ほっと息を吐いた彼女はそそくさと歩き始めた。
 くそっ、騙された!
 あの時見た笑顔でこの私は……ええっと、どう思ったのか忘れてしまったじゃない。
 アスカは小さな階段を上り堤防の上の道に出た。
 堤防の上だけに幾分冷たい風が吹き抜けていく。
 一瞬身をすくませた、そんな自分にドイツの冬はもっと寒かったじゃないと言い聞かせる。
 川面にはまだあの水鳥たちが姿を見せていた。
 ゆっくりと水面を泳ぐ姿を見ていると、アスカの顔に自然と微笑が浮かんでくる。
 そのことに気がつき、彼女は苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めた。
 彼の真似をしたように思えて不愉快になったのだ。
 あの時、彼が笑ったのは…。
 母親からの制裁を免れることができたためにキョウコへ感謝して笑ったのだが、アスカの頭ではそうインプットされていない。
 キョウコだけではなく自分にも微笑みかけたと思い込んでいる。
 だからこそ腹を立てているアスカだった。
 きっとあの夜の笑顔を誰にでも碇シンジは向けているのだ。
 彼はあんな表情を浮かべて八方美人に生きているに違いない。
 そうだ、よし!
 あの男を監視してやろう。
 面と向かうのは嫌だが、遠くから監視するには問題ない。
 その証拠にさっき橋の上の彼を見たときは悪態も吐けたではないか。
 そうやって慣れていけばいいのだ。
 こんな結論をキョウコが知れば特大の溜息を吐いただろう。
 
 あのね、面と向かえないのは恥ずかしいからでしょうが。
 遠くからでも見たいのは恋しいからでしょうが。
 素直になりなさいよ、馬鹿娘。

 しかし、キョウコは何のアドバイスもしない。
 なるようになる。

 

 なるようになろうと無意識が働いたのか、アスカは積極的に監視業務に就いた。
 人知れず、と彼女は考えていたのだが、何分金髪美人転校生は目立つ。
 中学校で黒以外の髪の毛は校長を含む教師数人の白髪を除けば、アスカただ一人が金髪なのだから。
 こっそりと動いても無理というものだ。

「おい、また見てるぞ」

「うわっ、おるおる。センセ、どないする?」

「え…って、どうするったって、僕…」

 そこは昼休みのグラウンド。
 今日は晴れている上に温度も高めである。
 となれば、男子たるもの身体を動かしたくなるのは当然だ。
 気の合う仲間同士で遊ぶもの、即席のクラス対抗でテニスボール野球大会を開催しているもの、その他諸々、日向ぼっこでお茶を濁しているものたちもいる

 シンジたちはゴムボールでキャッチボールをしていた。
 しばらくして飽きてきた頃、相田ケンスケが教室の窓から見ているアスカに気がついたのだ。
 キャッチボールを中断してシンジに声をかけると、彼は見るからにおどおどとしてしまった。
 鈴原トウジはボールを右手から左手へと繰り返し移動させながら、シンジを呆れた顔で見た。

「言うたったらええやんか。わし…やない、僕になんか用ですか?ってな」

「そ、そんなこと言えないよ」

「なんでやねん」

「怒られそうだもん」

「おいおい」

「だって、いつも睨んでるんだよ。目が合ったら」

 シンジはちらりと校舎を顧みた。
 表情はわからないが、目が合った(と思えた)その瞬間、アスカの赤金色の髪が逆立ったように見える。
 それはシンジの幻覚ではない様で、友人二人も同調した。

「おっ、なるほど」

「ほんまやのぉ。えらい怒っとるで」

「だ、だろ?」

「まるで背後霊だな」

「えらい美人の背後霊やんか。ええのぉ」

「いやだよ。そんなの。取り殺されたらどうするんだよ」

「仕方ないのぉ。禁断のチョコを食べてしもうたんやからな」

「だ、だって…」

 肩を落とすシンジを見て、ケンスケは眼鏡を指で押し上げた。

「おい、ちょっと俺外すぞ。だけど、二人はこのままキャッチボールしといてくれないか」

「なんでや?」

「いいから。じゃ、頼むぞ」

 本人はかっこよく笑ったつもりだが、友人二人はまったくそうは思えずいつものように気障な真似をしていると苦笑するだけだ。
 ケンスケはどたばたと昇降口に駆けていった。
 
「何だろ、ケンスケ」

「ええやんか。ほな、センセ、キャッチボールしよか」

「あ、うん」

 ゴムボールだから素手でのキャッチボールだ。
 ただトウジは結構速い球を投げるのでシンジは正直手が痛い。
 しかもそれほど運動神経がいいとは言えない彼だから、時折捕り損ないボールを求めてグラウンドを走らねばならなくなる。
 そうこうしていると昼休み終了の予鈴が鳴った。
 靴を履き替え教室に戻ると既にケンスケは戻ってきている。

「用は済んだんか?」

「ああ、ばっちりな。今日現像するから、明日の放課後焼付けして見せてやるぜ」

「現像?写真を撮ったの?」

「もちろん!シンジ、期待して待ってろ」

「え、僕?」

 どうして自分なのかと怪訝な顔のシンジにひきかえ、トウジの方はケンスケの用件を察したようだ。
 わしにも見せてくれるんやろなとケンスケに問い掛け、拝観料を貰うと言われ肘打ちで返した。
 ケンスケが焼付けを明日の放課後としたのは焼付けは写真部の暗室でするという意味だ。
 現像から焼付けまでずっと友人たちと狭い暗室というのは息苦しくなる。
 だから焼付けだけを公開しようとしたのだ。
 もちろんその方が効果的だと思ったからなのだが。

 翌日の放課後。
 写真部の暗室は理科室の準備室にある。
 写真部は毎日部活動をしているわけではなく、暗室使用をする日を部員ごとに振り分けているのだ。
 みんなで一緒にできる作業ではないので合理的に活動するしかないというわけだ。
 この日はもともとは3年生の活動日であるが卒業前だけにケンスケが使用を願っていて彼だけが使える日になっている。
 だからこの日を狙ったわけである。
 そうしないとシンジとトウジを暗室に招くことができないからだった。
 大きな暗室ではないので、3人も入ると息苦しくなる。
 慣れているケンスケはともかく他の二人は狭苦しく感じてしまう。

「しかしせっまいのぉ」

「家の押入れ暗室に比べたら大広間だぜ、ここは」

 トウジの非難などあっさり受け流し、ケンスケはさっさと焼付けの準備をしていった。
 そこいらの薬品や機械には触るなと言われているので、シンジたちは身を寄せ合って立っているしかない。
 しばらくして引き伸ばし機に映し出されたモノクロームの画像を目にしてシンジが息を飲んだ。
 まだピントが合っていない状態であったが、そのおぼろげな像が誰なのかすぐにわかったのである。

「へぇ、よくわかったな。あたりだぜ、シンジ」

「なんや、人間やいうことくらいしかわからんで。ピンボケちゃうんか、ケンスケ」

「馬鹿野郎。引き伸ばし用に操作してるんだ。この俺がピンボケなんかするか。黙って待ってろ」

「へいへい、黙って待ってるわい。って、おい、これ、あいつやんか」

「当たり前だろ。よし、ここからは俺の邪魔をするなよ。時間と手際が勝負だからな」

 ケンスケは引き伸ばし機のライトを消した。
 暗室の中は赤いセーフライトの光のみとなる。
 トウジが何か喋りそうになるが、すぐそばのシンジがしっと小さな声で注意した。
 自分にとって大事なものが写真になることを承知しているからだろう。
 いつになく真剣な様子にトウジは笑いを堪えながら、ちゃんと黙っておくからとうんうんと頷いた。
 そんな二人の様子を横目に見ながらケンスケは印画紙を取り出す。

「出血サービスだ。四つ切を使ってやるぞ。まあ、それだけ価値のあるいい写真だってことだ」

 ※四つ切サイズ(240×290mm)

 偉そうに…とトウジが口の中で小さく呟くが、またシンジに睨まれ小さく首を縦に振る。
 暗室の中のケンスケは実に生き生きとしていた。
 印画紙に焼き付け、現像液に浸し、しばらくしてから液を切って停止液に。
 シンジは覗き込みたかったが必死に我慢した。
 もし自分の所為で失敗してしまったらと思うと好奇心を抑えるしかない。
 ケンスケは鼻歌交じりに(後で聞くとこれで時間を計っていたらしい)印画紙を今度は定着液のバットに浸ける。
 まだかまだかと待っているとケンスケは「ふふん」と鼻で笑って、ピンセットでつまんだ印画紙を流しに持っていく。
 そして流水で印画紙を洗い始めた。

「もう少し待ってろよ。ああ、でも乾くまで待たなきゃいけないけどな」

「朝まで?」

「馬鹿だな、写真一枚で徹夜なんかできるかよ。外に出て待っとくんだ。野郎3人で密室にいたら息が詰まる」

「そんなこと言うて、女と入ったことないんやろ?」

「あるわけないだろ。うちの部は女人禁制だ」

「嘘つけ。入って欲しくても入ってくれへんだけやろが」

「まあな。よし、これでOK。おい、トウジ、扉開けてくれ」

「大丈夫なんか?」

「大丈夫。もう定着したからな」

 定着という意味もよくわからないが、専門家の言うことには従おうとトウジは暗幕を手繰り寄せ扉を開けた。
 屋外ではないから天井照明を切っているので少し暗めの理科準備室なのだが、それでも セーフライトに慣れた目に外の光が眩しい。
 目を細めながら3人は準備室に出てきた。
 
「おお、空気が巧いわ」

「うん。窒息しない?」

「慣れだよ、慣れ。まあ、いい匂いとは思えんけどな、ははは」

 深呼吸を繰り返す二人を見て、彼はまるで大人のような口ぶりで言う。
 ケンスケの説明では彼女の写真はやはりあの昼休みに撮影したものだ。
 自慢の望遠レンズで撮ったから撮られていることには全然気がついていないと彼は胸を張った。

「ほな、センセを見とるとこかいな」

「え…、じゃ…」

 シンジが顔を曇らせた。
 
「ああ、確かに凄い顔してる時もあったぞ」

 はぁ…と溜息を吐いたシンジはやっぱりと呟く。
 その肩をケンスケはぽんと叩いた。

「おいおい、そういう顔を撮ると思うか?お前を睨みつけている写真を引き伸ばしてどうするんだよ」

「せやな。センセを苛めるんやったら話は別やけど」

「ははは、実はそれも撮ってるぞ。まあ、どんな顔して見てるのか気になったから撮りに行ったんだしな。
何ならそれも焼くけどどうする?」

「え…」

 シンジは戸惑った。
 ケンスケの話によるとどうやら今引き伸ばしたのは睨んでいる表情ではなさそうだ。
 となると、いったい…。
 シンジには答が出ず、二人の会話には参加せずにうぅむと首を捻り続けた。
 そんな彼にはあえて言葉を掛けず、ケンスケはトウジをからかっている。
 ホワイトデーにはマシュマロを洞木さんに渡すんだろう、と。
 珍しく歯切れの悪いトウジは言葉を濁すがケンスケの追求は止まない。
 照れているトウジをからかえるなど滅多にないことだ。
 そんなチャンスを彼は生かし、散々に彼をいたぶった。
 何故なら膨れたり嘯いたりするトウジは明らかに喜んでいるから。
 俺はいつになったらトウジの立場になれるのだろうか、とケンスケは内心苦笑していた。

 シンジにはこの30分が長く感じられた。
 どんなに考えてもぐるぐると同じところを回っているだけだからだ。
 そもそもどういう表情で写っているのかわからないので判断しようがない。
 だから彼の考えは惣流家での会話に戻ってしまう。
 あの時は緊張していたので何を喋ったのかあまり覚えていないのだ。
 記憶しているのはアスカの母親が美人で映画女優だったということくらいか。
 因みにその映画女優という件はアスカからレイを通じて真実は碇家に伝わっている。
 それでもシンジにとってキョウコは充分映画女優に匹敵する美しさなので、そうなんだくらいの反応だったのだが。
 それを再びレイから聞き、アスカが腹を立てたことを彼は知らない。
 腹を立てたのは帰宅してからだったから。
 何故ならその話は友人の中で行われたので、虚栄心の強いアスカは無関心を気取っていたからである。
 ともあれシンジはアスカと交わした会話をほとんど覚えていない。
 謝ったが許してもらえなかった…はずだ。
 それすらあやふやなのである。
 そんなシンジはケンスケの声でループ思考から現実に引き戻される。

「そろそろいいぞ。待ってろ、持ってくるから」

 暗室に姿を消したケンスケはすぐに印画紙を手に戻ってきた。 
 ほらよと渡された印画紙を見て、シンジは絶句してしまった。
 横から覗き込んだトウジは「ほう…」と声を上げる。
 その彼の耳元でケンスケが小声で言った。

「どうだ?なかなかのものだろうが」

「そ、そやな。まあ、モデルがええんとちゃうか」

「言ってろ」

 トウジの悪態にケンスケはまったく動じない。
 モデルがよかろうが何であろうが、その一瞬を撮影するのはカメラマンの腕に相違ないからだ。
 それを知っているからこそである。

「最初はな、シンジを睨んでいる顔を撮ろうと思ったんだ。それがファインダー覗くと、一瞬凄くいい表情するからな」

「センセを見て、やろ?そういうことか?」

「違うか?俺もこういう顔で見てもらいたいぜ」

「無理や」

「だな。まあ、そういうことなんてシンジは絶対に信じないだろうけどな。ほら」

 ケンスケに促され、トウジがシンジを見ると彼は写真に見入っていた。
 自分のために彼女が微笑んでいるとはまったく考えていないという雰囲気が表情に顕れている。
 実にわかりやすい彼の様子を見て、二人は笑い声を漏らした。

 シンジはなおも写真のアスカを見つめていた。
 優しく微笑んでいる彼女の顔。
 レイと一緒にいるときの輝かんばかりの笑顔とは違う。
 その温かい表情は一度も見たこともないものだった。
 こういう表情もするのだと、ぐいぐい惹かれていくのが自分でもわかる。
 ようやく現実に戻ったシンジはこれが自分を見ての表情だとケンスケに言われても全然信じられない。
 そんなことがあるわけがない。
 それにシンジはこうも主張した。
 ケンスケはファインダーを覗いていたのだから、惣流さんがどこを見ていたかわからないじゃないか、と。
 確かにそう言われてしまうと身も蓋もない。
 微笑んだのは僕以外の人間を見てに決まっていると彼は断言した。
 どうせ僕なんてと伏目がちになるシンジを見て、二人は顔を見合わせて苦笑した。
 いずれにしても彼がこういう反応をすることをケンスケは承知していた。
 その上で彼はシンジにあることを頼む。
 この写真をコンクールに出したいと言われ、シンジはこれ以上ないくらいに困ってしまった。

「で、でも、それって僕には…」

「わかってるって。シンジには決められないよな。モデルじゃないんだし。許可は惣流に貰わないとな」

「そ、そうりゅ…って呼び捨て?」

 話したこともない女子を呼び捨てにする親友にシンジは驚く。
 しかし、ケンスケはたいしたことではないとばかりに鼻で笑った。

「惣流さん、か?俺の柄じゃないだろ、それ」

「そやな、わしかて呼ぶなら惣流やろ、やっぱり」

「と、トウジまで」

「センセはちゃうな。苗字を呼び捨てにするタイプとちゃうわ」
「そ、そりゃあそうだよ、うん。やっぱり、惣流さんだよ」

「まあ、それだよ、シンジ」

「それ?」

 ケンスケは格好をつけて頷いた。

「ああ、お前が惣流を名前で呼ぶようになったらだな…」

「な、名前?」

 名前というと名前ではないか。
 彼女の名前は惣流・アスカ・ラングレーで、惣流は姓だから、アスカが名前?えっと、ラングレーは何だ?
 
「何ぼけっとしとんねや。アスカ、やないか。ほれ、言うてみいや」

「そ、そ、そんなの駄目だよ。名前で呼ぶなんて」

 泡を食って言うシンジだが、手にしたモノクロ写真のアスカの微笑を見て口をつぐんでしまう。
 いや、やっぱり無理だ。
 心の中で呼びかけるときでも“惣流さん”なのだから。
 
「わかってるって。で、そういうシンジが晴れて惣流を名前で呼ぶようになったら頼んでみてくれや。な?」

「ええっ、そんなの無理だよ。絶対に無理」

「無理でもいいって。そういうときが来たら頼んでくれって事だ。ああ、何なら今すぐ頼んでくれてもいいぞ。寧ろその方が助かる」

「だ、駄目!絶対に駄目!」

「じゃ、無理の方で頼むわ。急がないけど忘れるなよ、約束だからな」

「でも…無理なことを約束しても…ケンスケに悪いし」

「なんだ、じゃ、この写真はいらないってことか」

 伸びてきたケンスケの手を避けて、シンジは一歩どころかざざざっと窓際まで後退した。
 そんな彼の動きを見て、トウジとケンスケは声に出して笑う。

「ま、悪い条件やないやろ。そうなったらって事なんやから」

「おう、その通りだ。いい友人を持っただろ、な、シンジ?」

「う、うん」

 確かにそうだ。
 こんなに素晴らしい写真を引き伸ばしてくれたのだから。
 それにそんな実現不可能な条件は未来永劫やってくるはずがないのだから。
 こうしてシンジはとうとうケンスケの提案を受けたのである。
 

 
 カレンダーが3月になっても、彼と彼女の状態は何も変わらなかった。
 暇があればアスカはシンジを監視し、目が合えばアスカはシンジを睨みつける。
 そして、アスカはだんだん気になってきた。
 カレンダーの真ん中辺りにある、“14”の文字が。
 3月14日、その日は月曜日だ。
 あまりに気になるので、アスカは14という数字を赤いマジックで丸く囲む。
 すると少しは気も晴れた。
 何故晴れたのか、何故“14”が気になるのか。
 よくはわからないが、ホワイトデーだから、ということはわかった。
 何故なら、自分が無意識に呟いた言葉を耳にしたからだ。

 マシュマロ、くれるのかな?

 誰から貰うのかという事はしばらくしてから気がついた。
 そしてぶぅっと膨れたアスカは黒いマジックを取り出し、赤丸を黒く塗りつぶしてしまったのだ。
 その結果余計に14の場所が目立ってしまい、彼女は忸怩たる思いにとらわれたのである。
 しかも思い出したかのようにマシュマロのことを呟くようになってしまった。
 せめてもの救いはそれが人前では出ないということだ。

 

 そして、ついにその日は訪れた。
 昭和52年3月14日。
 関東地方は曇りのち晴れ。
 しかし、雲の間から太陽が顔を覗かせても、アスカの心はまったく晴れなかった。

 ヒカリはマシュマロを貰った。
 しかもそれはあの直後だった。
 アスカと登校して来たばかりのヒカリが話を始めてすぐ後のことだ。
 どたばたと足音も高くやってきたトウジが教室の中にヒカリがいることを確認すると鼻息も荒く中に入ってきたのだ。
 そしてアスカの目の前でマシュマロの受け渡しを敢行したのである。
 真っ赤に頬を染めたトウジからラッピングもされていないマシュマロの袋を突きつけられたヒカリは、
蚊の鳴くような声で「ありがとう」と言いその袋を胸に抱きしめた。
 するとトウジはくるりと背を向け教室を出て行ってしまった。
 時間にするとほんの15秒程度の出来事である。
 現場に居合わせたアスカは「おめでとう」と小さく拍手して友人を祝福したのだった。
 これが、ホワイトデーだ。
 なんという、胸がときめくイベントなのだろうか。
 いや、自分は胸をときめかせてはならない。
 渡しに来たシンジを罵倒しないといけないのだから。

 ところがシンジは一向に現れなかった。
 休み時間、昼休み、5時間目の休み時間にも。
 昼休みにはグラウンドにも姿を見せなかったのだ。
 そして時間が経つにつれて、アスカの言動も変化していった。
 異様にハイテンションになっていったのである。
 話題が途切れるのを恐れるかのように次から次へと話を持ち出し一人で喋り捲ったのだ。
 そのハイテンションは放課後になり、ヒカリの発言を持って途切れた。
 彼女はアスカの気持ちを推し量って9組まで赴いたのだ。
 恥ずかしいがトウジとの関係も考えれば自分が行かねばならないと奮起したのである。
 しかし彼女が得た情報はシンジは掃除を終えるとさっさと帰ってしまったということだった。
 トウジはケンスケと一緒にそれでいいのかと念を押したのだが暗い顔をして返事もせずに帰宅したのだという。
 そのことを聞き、アスカの表情は曇った。
 隣にいたレイも唇を噛み締める。
 そうではないかと思っていたのだが、いざ本当に兄の行動を知ると何も言えなくなってしまう。
 他のヤスコたち3人は部活動に既に向かっていた。
 放課後になって表情が強張ってしまってるアスカを見るに忍びなかったという気持ちもあったのだろう。
 それでも懸命になってドイツの笑い話を持ち出す彼女を見ていられなかったのだ。
 今、教室に残っているのはアスカとレイ、それにヒカリだけだった。
 やがて、ぽつりとアスカが言った。

「帰ろっか」



 逆方向のヒカリとは昇降口で別れ、アスカはレイといつもの下校ルートを辿った。
 今日は話すことが何もない。
 レイは友人を力づける言葉を探し出せず、アスカは別の話題を出したくとも何も浮かんでこないのである。
 まさに頭の中が真っ白、という状態だった。
 やがて橋の袂に到着しようとした時だ。
 このままアスカと別れない方がいいのではないかと、レイは今から彼女の家に言っていいかと尋ねようとした。
 するとアスカが川の方を向いて「あれ?」と声を発したのだ。
 その視線を追って欄干から覗いて見るとそこにはシンジがいた。
 いや、厳密にはシンジだけでなく、河原に老人が立っていて、そしてそのシンジは川の中へと向かっていっているところだった。

「な、何してんの、あの馬鹿」

「あのおじいさん、アスカのおじいさんじゃない?」

「あ…そうだ。行こっ、レイ」

 アスカは堤防を駆け出す。
 しばらく行くと河原に下りる小さな階段があり、転げ落ちそうになりながらも何とか下まで降り立った。
 
「おじいちゃんっ!」

 駆け寄りながらアスカが呼びかけると、トモロヲが振り向いた。
 よく見ると彼は学生服とカーディガンを腕に抱えている。

「おお、アスカ。それにレイちゃんも」

「何してんの?あれ」

 あれとは何か聞くまでもない。
 シンジはズボンを穿いたまま川の中に入っていた。
 
「あれじゃ。ほれ、中洲に箱があるじゃろう」

 トモロヲが顎で示した先には小さな中洲が顔を覗かせている。
 最近は雨も雪も降っていないので川の水は少なめだ。
 そのために中洲が出てきたのだろう。
 とはいえ、ほんの畳一帖もない小さなものであった。
 その中洲に箱が引っかかっている。
 乗りあがっているのではなく文字通りに引っかかっているのだ。
 水の流れ次第では中洲からすぐに離れるだろう。

「うん、見える」

「あれにの、犬がおる」

「犬ぅ?」

 アスカとレイは目を凝らした。
 10mほど先のその中洲の箱に確かに何かが動いている。
 
「まだ子犬じゃ。どこぞの悪餓鬼がやりよったんじゃろ。酷いことをする」

「で、アイツが見つけて?」

「いや、見つけたのはわしじゃ。それで川の中に入ろうと準備運動をしておったらあやつがの」

 アスカはシンジの背中を見た。
 ゆっくりと進んでいるように見えるが、気持ちはかなり先走っていそうだ。
 箱が流されてしまうと今度はうまく捕まえられるかどうかわからない。
 
「アスカ、お風呂借りれる?」

 いきなり隣でレイに問いかけられ、アスカはびくりとした。

「お風呂?」

「うん。お兄ちゃんのことだから絶対に転んでびしょ濡れになるから。ここからならアスカの家の方が近いもの」

「転ぶ?」

 レイの声が聞こえたのか、絶妙のタイミングでシンジが情けない叫び声をあげた。
 驚いて目を向けるとばしゃんと上がる水しぶき。
 川の中でシンジが尻餅をついてしまっていた。
 深さは50cm程度だが水しぶきの所為で髪の毛までびしょ濡れだ。

「ほら、やっぱり」

「なるほど。ま、救助した後でなくてよかったじゃない。おじいちゃん、お風呂沸かしといてくれる?」

「うむ、わかった。任せておけ」

 惣流トモロヲはニヤリと笑って堤防へと向かった。
 その手にはシンジの服を持ったままだが、びしょ濡れの上に羽織らせてもと思ったのだろう。
 学生服を洗濯するのは大変なのだ。

「それからレイは着替え。家まで持ってきてくれる?」

「了解、隊長」
 
 ぴしりと敬礼するトレイはにこりと微笑んだ。

「お兄ちゃんをよろしく」

「OK。任しといて」

 レイは中洲へ辿りつこうとするシンジを見届けてから早足で堤防へと急いだ。
 その背中を見送ったアスカは顔を川の方に向ける。
 するとシンジが箱を抱えようとしているところであった。

「ホント、アイツは馬鹿ね」

 優しく微笑むと、アスカは大きく息を吸い込んだ。

「こらぁっ、馬鹿シンジ!箱の底が抜けるでしょうがぁっ!」

 手をメガホンのようにして叫ぶと、シンジは驚いてしまいよたよたと足元をふらつかせる。
 そしておっかなびっくりと河原を振り返った。
 そこに仁王立ちしているのはアスカただ一人である。

「その犬を直に抱いて、それから転ばないように帰ってきなさいよ!今度は転ぶんじゃないわよっ!」

「あ、あのさ!」

「何よ!」

 箱の縁を持ったまま腰砕けの姿勢でシンジは大声を上げた。

「い、犬ってどうやって抱くの?噛まないかな?」

「はぁ?アンタ馬鹿ぁ!噛まれないように抱きなさいよ!」

「でも、僕、犬を抱いたことないし」

「猫は?」

「ないよ!赤ん坊だってない!抱き方がわからないよ」

 ああ!もうコイツったら!
 アスカは気が短い。
 彼女は靴を脱ぎ始めた。

「ど、どうするの?」

「アンタができないんならアタシしかいないじゃない!そこで待ってなさいよ!」

「だ、駄目だよ!やってみるから!」

 慌てたシンジはいきなり箱の中に両手を突っ込んだ。
 どこを持ったらいいか全然見当がつかないので犬の身体全体を抱えるようにして持ち上げる。

「頼むよ。騒がないでね。噛んだりしないでね。おとなしくしててよね」

 もちろんアスカの耳にはこの呼びかけは届いていない。
 しかし何事か喋りながらシンジが犬を抱き上げる様は見て取れる。
 彼女はくすりと笑いながら靴を履いた。
 子犬も命の危険を察しているのだろう、シンジの腕の中でじっとしている。
 それをいいことに彼は方向転換をして河原へと歩き始めた。

「急がないで!ゆっくり歩きなさいよ。足の裏で石の感触を…」

「靴履いてるからわからないよ!」

「はぁ?」

 なるほど河原には彼の靴は見えない。
 おいおい靴のまま入ったのか?とアスカは呆れてしまった。
 それなら歩きにくいのは当たり前だろう。

「だって、底に何かあったら怪我するじゃないか」

 非難の眼差しで見られているのがわかったのか、言わずもがなの弁解をする。

「はいはい。いいから、転ばずに来るのよ。もし転んでも子犬は落とすんじゃないわよ」

「わかってるって…」

「喋らずに歩くのに集中しなさいよ!ほら、イチニ!イチニ!」

「だ、駄目だよ。そんなに早く歩けないってば。静かにしてよ」

「うっさいわね!人が親切にしてやってんのにその態度は何っ?アンタ、さいてぇ〜っ!」

 いやはや実にかしましい。
 そうこうしているうちに慎重なシンジもようやく岸辺へたどり着く。

「ほら、アタシに寄越しなさいよ。可哀相に」

「で、でも、濡れてるし、汚れてるよ」

「うっさいって何べん言えばいいわけ?アタシに逆らうなんて500万年早いわよ」
 
 言い募るアスカにシンジはおずおずと子犬を差し出した。
 彼女は手を差し伸べ慣れた手つきでその汚れた子犬を抱き取る。

「ホント下手っぴいな抱き方ね」

「だって飼ったことないもん。すぐ鳴かれるし」

「おどおどしてるからよ。コイツにだったら勝てると思って鳴かれるんだわ。首輪ないわね」

「あ、箱に書いてあったよ。どうぞ貰ってくださいって」

「えっ!飼い主に流されたってことぉ!?」

 目を剥いたアスカにシンジは首を振った。
 
「違うと思うよ。たぶん、箱を見た誰かが悪さをしたんだ」

「はんっ、酷いことをするヤツもいるもんね!死刑にされたらいいんだわ」

 可哀相にと子犬を抱き寄せるアスカを見て、シンジは微笑もうとしたがその前にくしゃみが出た。

「あ、ごめん!着いてきて!お風呂準備してるから」

「いいよ。家に帰ってから…」

「残念でした。アンタの上着とかはおじいちゃんが持って帰ってるから無理。さ、来なさいよっ」

 くるりと背を向けアスカは歩き出した。
 すると後から複雑怪奇な足音がついてくる。
 その音を聞いて、アスカはほっとしたように微笑む。

 じゅぼじゅぼべちゃべちゃぐちゅぐちゅ。

「靴脱いで歩いたら?気持ち悪いでしょうが」

 振り返らずにアスカは喋る。
 鼻を啜ってシンジは答えた。

「だって、裸足で歩いたら痛いじゃないか」

「はんっ、軟弱者ね。ホントに臆病なんだから」

「仕方ないだろ。性格だもん」

「その割りに川には入るんだ」

 アスカは彼女なりに最大級の褒め言葉のつもりで言う。
 もちろんそれは彼には伝わらず、シンジはぶつくさと返してきた。

「仕方ないじゃないか。おじいさんに川に入らせるわけにいかないだろ」

「ま、それにはお礼を言っとくわ。おじいちゃんが風邪ひいたら可哀相だし」

「え…、あ、そうか。どこかで見たと思ったら、惣流さんのおじいさんだったんだ」

「あきれた。気がついてなかったの?」

「うん、全然」

「アンタってホントに馬鹿ね」

 シンジはアスカの背中を見た。
 少し肩がすぼまって背が丸みを帯びているようだ。
 それは子犬を抱いているからなのかどうか。
 いずれにせよ、それは悪態を吐いている割にはどことなく優しさを感じさせてくれた。

 じゅぼじゅぼべちゃべちゃぐちゅぐちゅ。

 自分でも情けないなぁと思ってしまう足音を立ててシンジは歩いた。
 ううっ、寒い。
 確かにこの状態でお風呂はありがたいし、何よりも恥ずかしさがかなり軽くなっているはずなのでシンジとしては大いに助かっていた。
 もし一人で濡れ鼠の状態で家路を辿っていたとしたら、恥ずかしくてたまらなかっただろう。
 今こうして前をアスカが濡れ鼠ならぬ濡れ子犬を抱いて歩いてくれているから、行き違う通行人にこんな姿を見られても何のことはない。
 目を合わす事はできないが、胸を張って歩いていける。
 足音は情けないけれども。

 じゅぼじゅぼべちゃべちゃぐちゅぐちゅ。

 

 玄関先でびしょ濡れの靴と靴下を脱ぎ、足の裏を雑巾でよく拭き、シンジはアスカに命令されたとおりに廊下を駆けた。
 ゆっくり歩くと滴が落ちると言われたからだ。
 そのアスカは玄関先で母親と言い争っていた。
 キョウコがシンジの身体を洗ってあげましょうか?などと冗談を言ったので、アスカが吼えている訳である。
 お風呂にはトモロヲが待っていて濡れたものは全部この籠に入れろと示される。
 当然真っ裸になったシンジは浴室に入り、お湯が張られた木の浴槽から手酌でお湯をすくい頭から被った。
 ううっ、気持ちいい!
 そのまま浴槽に入りたかったが、他人の家のお風呂に川の水で汚れた身体をいきなり浸けるのは躊躇われた。
 使えと言われていたタオルと石鹸を使い身体を洗ってから浴槽へ。
 肩まで浸かると、思わず大きな溜息が出た。
 それを見計らったかのようにガラス戸の向こうにトモロヲが現れる。
 犬を洗うのにお湯を貰うぞと中に入ってきた彼は大きな金属製のバケツの中にお湯を入れろとシンジに命じた。
 シンジは手酌で浴槽のお湯をバケツに入れていく。

「すまなかったのう。わしが入ればよかったんじゃが」

「いえっ。僕は若いんですから。それにまだ3月ですし、けっこう冷たかったですよ」

「そうじゃの。まあ、助かった」

 ゆっくり温まりなさいと言い残してトモロヲは重いバケツを引っさげて浴室から出て行った。
 言葉通りにお湯に充分浸かって、それからシンジは髪の毛も洗う。
 シャンプーを使いたかったが、女性用のものを使いたくなる気持ちを抑えるために石鹸を泡立てることにした。
 彼は『太陽にほえろ!』のテーマを口ずさみながら無心になることを自分に課した。
 何しろこのお風呂にアスカも入るのだと考えてしまうと、よからぬ思いにとらわれてしまうからだ。
 髪を洗い終わり、もう一度浴槽に入ると今度はレイの声がした。

「籠の中にお兄ちゃんの着替え置いておくから」

「あ、うん。ありがとう。濡れた服はそこにあるから」

「残念でした。もう洗濯機の中よ」

「えっ、いつの間に?」

「さあ?知らない」

 素っ気なく言い残して、レイは出て行った。
 浴室から出ると、真っ更のバスタオルと籠の中にシンジの服がある。
 身体を拭いて下着を着けたシンジはTシャツを手にとって苦笑した。
 あいつ、わざとこれを選んできたな、と。

 お腹のところに大きく“平常心”と書かれたTシャツを腕で隠すようにしてシンジは廊下に出た。
 ズボンと靴下はあるのにカッターシャツがないのはどういう訳だ。
 きっとレイのヤツが母親がセールで買ってきたこの珍妙なTシャツを笑いものにしようというのだろう。
 勘弁して欲しい。
 
 レイの目論見通り、“平常心”Tシャツは惣流家の人々には大うけだった。
 ドライヤーは今子犬の方で使っているからしばらく待って欲しいと言われ、シンジは渇きがいい方なので大丈夫ですと答える。
 居間に案内された彼は縁側にいるアスカに声をかけたかったが言葉が見つからない。
 横顔を見せている彼女は熱心に子犬を乾かしていた。
 周りを見ると、誰も居間にはいなかった。
 レイも一緒に歩いていたはずなのに、部屋に入ったのは彼だけだったのである。
 今更ながらにそれに気づいたシンジはかなりどぎまぎしてしまった。
 彼が入ってきたことをアスカは知っている。
 それなのに彼女は何も話しかけてこなかった。
 真剣な表情でドライヤーとタオルを使っているのだ。
 子犬は気持ちがいいのか鳴き声もあげずに彼女に身体を委ねている。
 その子犬を見て、シンジは無意識に言葉を発した。

「白かったんだ。その犬」

「そうよ。随分汚れてたけど、真っ白なの。可愛いっ」

「そうだね。可愛いね」

 ああ、馬鹿なシンジ。
 惣流さんが言うように自分は馬鹿だとシンジは痛感した。
 気の利いたことが何故言えない?
 しかし何を言えばいいのだ。
 君の方がずっとずっと可愛くて綺麗だ、など口が裂けても言える彼ではない。
 どんなに心の底からそう思っていても。
 すると、アスカがえへんと小さく息を吐き、いくらか改まった口調でこんなことを言い出した。

「アンタ、この犬どうするつもり?」

「え!僕?どうして、僕なの?」

「アンタが助けたんでしょう。だからアンタが責任持たないと」

「で、でも、僕ん家は犬は…」

「わかった。無理なのね」

 随分と素早くアスカは結論を出し、シンジは慌てた。
 犬は飼えないが彼女に嫌われたくはない。

「い、いや、えっと、誰か飼ってくれる人を探すよ、うん、僕が探す」

「あ、そ。じゃ、頼んでみれば?」

「誰に?」

「この部屋にいる人間によ」

 シンジは周囲を見渡した。
 生物は自分と彼女と子犬だけ。
 そのうち人間は自分と彼女だけ。
 となると、頼む相手は一人しかいない。
 でも、それでいいのか?
 戸惑うシンジだが、アスカはじっと彼の言葉を待っている。

「え、えっと、惣流さんの家では犬は飼えますか?」

「さあ?」

 さあって、何だよ!
 つっけんどんに答を返され、シンジは一瞬むくれた。
 いやいや待てよ。
 頼み方が悪いのかも。
 シンジは言い方を変えた。

「あの…、この子犬を貰ってくれませんか?」

「どの?」

「えっ?そ、その、君が乾かしている、白い子犬」

「ああ、この白くて可愛くてちょっとぷにぷにしてる子犬のこと?
 そうね。アンタがどうしてもアタシに貰って欲しいって言うなら喜んでもらってあげるけど」

「あ、そうなの?じゃ、お願いします。貰ってください」

 あっさりと言い放ったシンジはついでにぺこりと頭も下げた。
 どういう段取りか意味不明だがアスカに貰ってもらえるならば寧ろ嬉しい。

「そうまで言われちゃ仕方がないわね。あ、名前はアタシがつけるからね」

「あ、うん。どうぞ」

「今、つける」

「はい」

 自分でもそれはなかろうと思うくらいに素直にシンジは返事をしてしまった。

「決めた」

 早いな、と思ったシンジはアスカの発表を待った。

「この子の名前はMaeusespeck」

「はい?」

 聞き慣れない、いや聞いたこともない言葉が彼女の唇から飛び出しシンジは大いに戸惑った。
 別に太郎とかポチを期待していたわけではないが、あまりに想定外の名前である。

「もうっ。仕方ないわね。ゆっくり言ってあげる。Maeusespeck」

 ゆっくり言われてもシンジには頭の“モ”と最後の“ペック”しか覚えられない。
 まったくと呆れながらアスカはカタカナを読むような発音で繰り返した。

「モイゼシュペック。モイゼシュペックよ。ほら言ってみなさいよ」

「モイ…ゼシュ…ペック?」

「すらすら言えないの?もう一度」

「モイゼ…シュペック」

「ほら、もう少し」

「モイゼシュペック」

「まあまあね。でも文章の中で出てきてもつかえない様に言えなきゃね。
そうね。例文は…僕のモイゼシュペックを貰ってくれませんか?まあ、こんんはものでいいかしら。ほら、言ってみなさいよ」

「ええっ、えっと、モイゼシュペックを貰ってくれませんか」

「僕の、を忘れてるわよ。それが大事なのに」

「大事?」

「ああっと、つまり主語と…そ、そうね、誰に対してっていうのも要るわよね」

 アスカは微かに頬を染めた。
 こうなれば勢いである。
 すべては自分に都合がいい風に回っている。
 じゅぼじゅぼべちゃべちゃぐちゅぐちゅという奇妙な足音を背中で聞いているうちに、彼女ははっきりと自分の気持ちに目覚めたのである。
 この情けない少年を自分のものにするのだ。
 他の誰にも渡してなるものか。
 どうすればいいと考えながら、子犬を洗っている時に思いついたのだ。
 汚れが取れていくうちに真っ白な毛並みが出てきたのを見て、これだと咄嗟に計画を練ったのである。
 
「じゃ…、僕のモイゼシュペックを惣流さんは貰ってくれませんか?ん…なんか変だよ」

「アンタ馬鹿ぁ?外国語を直訳するような文章で喋る人間がいる?」

 ああ、素晴らしい。
 「アンタ馬鹿」なんて、本当に最高の呼び名じゃない。
 アスカは舞い上がってしまいそうな心を必死に地面に繋ぎとめながら、シンジになおもレクチャーする。

「こう言えばいいのよ。アスカ、僕のモイゼシュペックを貰っておくれよ、ってね」

「何だかお芝居みたいだよ、それ」

「うっさいわね、いいから言ってみなさいよ」

 実はこの時、シンジはこの時間がいつまでも続かないかと願い続けていた。
 今、自分は彼女と二人きりでいる。
 どうしてこんなことを言わされているのか全然わからないが、とにかく彼女は上機嫌ではないか。
 彼女に好かれたいと思っている彼としては実に素晴らしいシチュエーションである。
 こうなれば変な台詞でも何でも言ってやろうではないか。

「惣流さん、僕のモイゼシュペックを貰っておくれよ」

「ああっ、もう!アンタ、棒読みすぎっ!それに惣流さんなんてやめてくれる?アタシにはアスカって名前があるんですからね!」

「えっ!な、な、名前でぇっ?」

「あったり前じゃない!ほら、言いなさいよ!」

「で、で、で、で、でも、名前で呼ぶなんて、僕なんかが、そんな…」

 アンタ馬鹿!アンタだからOKなんじゃない!
 そう叫びたいところであるが、自重せねばとアスカはぐっと抑える。
 こうなれば勢いだと思ったところだが、それもこれもシンジにこの台詞を言わせないと何にもならない。
 だから彼女は心の中で10まで数えて口を開いた。
 もっともゆっくり数えたのは3までで4から後は超早口だったが。

「小さい時は女の子も名前で呼んでたんでしょう?まっ、アンタが嫌ならいいけどさ」

 アスカは博打に出た。
 彼女としてはがんがん攻めることが好きで、こういう風に駆け引きをするのは不得手なのである。
 しかし、もう時間がない。
 廊下で小さな物音がしているのをしっかり耳にしているのだ。
 おそらく母親が入るタイミングを窺うという名目で立ち聞きしているに違いない。
 座り聞きかもしれないが。
 とにかく、誰かにシンジの台詞を聞かせないと意味がないのだ。
 早く仕上げないと!
 アスカは素っ気無さを装った。

「別にアタシは惣流さんでもいいんだけどさ。アンタはレイのお兄さんだから、特別に名前でもいいかなって思っただけなのよ」

 しまった。
 素っ気無く言う筈が、“特別”に思い切り力を入れてしまったではないか。
 しかし、シンジはその巨大な餌に全身で食いついたのである。

「そ、そうか!そうだよね。ぼ、僕はレイのお兄さんだから、うん、そうだね、そうなんだ」

 その時、廊下で微かに喉を詰まらせるような音がした。
 舞い上がっているシンジは気がつかなかったが、明らかに自分のことを“お兄さん”と宣わったことにレイが反応したのだ。
 拙い拙い、早くしないと。

「はいはい、わかったなら、さっさと言ってくれる?」

「あ、うん。じゃ…」

 ぽん!
 シンジの頬が一気に赤くなった。
 さすがに動機づけをしても照れることには変わりがないからだ。

「あ、アスカさん」

「はいなんでしょう」

「僕の…えっと…」

「モイゼシュペックだってば!」

「ごめん。僕のモイゼシュペックを貰ってください」

「OK。それでいいわ」

 本来なら“アスカさん”から“さん”など取ってしまいたいのだが、そんな悠長なことはもうしていられない。
 さっさと儀式を済ませてしまわないと!

「じゃ、モイゼシュペックをそっちに一旦渡すわよ」

 アスカは膝の上に抱いていた子犬改めモイゼシュペックをシンジの膝の上に置く。

「あ、そうか。これを渡しながらじゃないとおかしいよね」

「これじゃないわよ、もう!モイゼシュペック!」

「うん。モイゼシュペック。モイゼシュペック。もう忘れないよ。じゃ…」

 シンジが身を乗り出した。
 こ、こ、こら!まだ駄目だってば!
 慌てたアスカは膝を揃え居住まいを正すとともに、実にわざとらしい咳払いをした。
 するとどうだろう。
 まるでタイミングを計ったかのように襖がこんこん、いやとんとんと鳴った。

「は、はい、どぉ〜ぞ」

「ごめんなさいね。ずっとレイちゃんとお喋りしちゃってて」

「あ、お風呂ありがとうございました」

「いいのよ。まあ、ほら真っ白になっちゃったわね、あの子犬」

「本当。可愛い」

 レイは棒読みだがいつもそれほど抑揚のある喋りではないので違和感はない。

「そ、そうなのよ。でね!アンタのお兄さんがアタシにどうしても頼みがあるんだって」

 よしこい!
 アスカはどんとこいとばかりにシンジにきっかけを与えた。
 彼は一瞬どぎまぎしたが、練習通りに台詞を口にすることができたのである。

「アスカさん。僕のモイゼシュペックを貰ってください」

「え!いいの?アリガト!へぇ、そうなんだ。この子の名前、モイゼシュペックっていうんだ。へぇ〜」

 こらそこ!
 そこの30半ばの日独ハーフのおばさん!
 笑ったら殺すわよ!

「しっかたないわね。じゃ、アンタのモイゼシュペックはこのアタシがちゃんと貰ってあげるから」

 手を伸ばすアスカにシンジは膝の上の子犬を抱き上げて渡そうとする。
 それがやっぱり危なっかしい手つきなので、彼女は急いで抱き取った。

「可愛い!大事にするね。ねっ、モイゼシュペック!今日からお前はうちの家族よ」

 勢い込んで発言するアスカだったが、子犬、いやモイゼシュペックは眠たくなってきたのか小さくわんと答えるとアスカの腕の中で目を閉じてしまった。

「今、おじいさまが犬小屋作ってるわ。ほら、音がするでしょう」

 手回しがよすぎるではないか。
 アスカは母親を睨みつけたが、キョウコはどこ吹く風。
 ハインツが帰宅すれば娘のために犬小屋を作るだろうと言えば、トモロヲはわしが作る!と宣言して物置から木切れなどを引っ張り出したのだ。
 ただし、シンジだけはそういう事情までは察しがつかないどころか、彼一人だけがこの一幕の意味をまったく知ることができなかったのである。



 シンジはレイの運動靴を履いて、妹を後に乗せて自転車を走らせていた。
 まさか兄が靴のまま川に入ったとはレイも気がついてなかったのだ。
 彼の履いて帰る靴がないことに気づき、自転車を貸すからそれで二人乗りして帰れとアスカが唆したのである。
 そして自転車は明日返しに来い、ついでにモイゼシュペックの様子も見に来い、と次の約束をさせることを目的に。
 男用のつっかけを貸せばいいだけだが、キョウコは黙っておいた。
 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまうではないか。
 シンジは何の疑問も挟まずにアスカの提案を受け入れたのだ。
 もう、日はどっぷりと暮れている。
 自分と同じくらいの体重のレイを乗せて走るのは重い筈なのに、心も身体も軽かった。

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん?」

「モイゼシュペックって何?」

「え?」

 レイはくすくす笑い、シンジは帰宅すれば英語の辞書で調べてみようと考えた。
 しかし、彼の調査は完全に行き詰ってしまうのである。
 それっぽい発音の単語が見つからなかったからだ。
 ドイツから来たのだからドイツ語なのだとまでは推理できたが、それ以上は調べる手立てがなかったのである。


 









 平成も20年を過ぎた。
 まだまだ矍鑠としているトモロヲおじいさんにはもう曾孫が三人もいる。
 その子達は両親と一緒に同居していて、惣流家は4世代同居となっていた。

「ねぇ、散歩に連れてっていい?」

 一番下の子が玄関先で奥に怒鳴った。
 既に靴を履いていて、紐をもう手にしている。
 小学校から帰ってきてから充分外で遊んで来た筈なのに、まだ身体を動かしたいようだ。
 台所の方から母親の声だけが返ってくる。
 
「どっち?Jr.?それとも三世?」

「三世!」

 モイゼシュペックJr.はもう結構な年なのだ。
 トモロヲやキョウコたちとの散歩には丁度よいが、子供たちには動きが物足りないのだろう。

「ちゃんと紐をつけるのよ!犬が好きな人ばかりじゃないんだから!」

「わかってるよ!」

 少年は母親に返事をすると玄関を出て庭の方に回った。
 そこにはもう5軒目になる犬小屋がある。
 トモロヲが作った初代の犬小屋はモイゼシュペックの、そしてハインツ作の2軒目となった犬小屋は彼の奥さんの墓標として庭の隅にその一部が見られた。
 子供たちは初代とその奥さんのことは写真でしか知らない。
 モイゼシュペック三世は首輪に紐をつけられることに不満気な唸り声を上げたが散歩に行くことには大賛成のようだ。
 人間で言うと思春期にあたる彼はこの夕方の散歩が大好きなのである。

 少年はモイゼシュペック三世と河原を歩いた。
 ここが初代が惣流家に加わったという由緒ある場所であることは少年もよく知っている。
 ただしその頃とは違い、遊歩道としてすっかり整備されているのだが。
 小春日和だった昼間の名残で夕方になってもかなり暖かい。
 その中を少年はモイゼシュペック三世に引っ張られるようにして駆けていく。
 何しろ彼らには目的がある。
 少年の方も一緒に散歩するのはモイゼシュペック三世でないといけないのだ。
 そこに向かって近づけば近づくほどに犬の方は速度を上げ、逆に少年の方はやや足が重くなっていく。
 しかしそれは照れというもので、実際には犬と同様に早くその場所に到着したいのだった。
 その場所はもう目前だった。
 もっと早く走れとばかりにモイゼシュペック三世はさらに速度を増し、少年はその希望通りに引っ張られていく飼い主という姿を見せることができた。
 誰に?というと、その場所に立っていた少女にだ。
 モイゼシュペック三世は少女と一緒にいる犬に嬉しげに近寄る。
 相手の方も喜んでわんわんと吼えた。

「こんにちは」

「あ、う、うん。こんにちは」

「今日は暖かいわね」

 少女の微笑みは今日もまた素晴らしい。
 少年はにやけてしまいそうな表情を抑えながら返事をする。

「も、もうすぐ春だもんね」

「うん」

 早く来い、4月!
 少年は心の中で叫んだ。

「4月になったら中学校だから…、その、つまり、楽しみだよね」

「うん。あなたは部活動入る?」

「ええっと、まだ決めてない。君は?」

「そうね。私もなの」

「そうなんだ」

 少年は愛想笑いを浮かべた。
 少女と出逢ったのはほんの2週間ほど前である。
 モイゼシュペック三世と少女の連れていた犬が仲良くなったことがきっかけである。
 一目惚れというのはこのことだろう。
 長い黒髪の少し大人っぽい彼女に少年は目を奪われてしまったのだ。
 少しずつ会話が増えていき、二人は同い年で同じ中学校に春から入学するとわかったのである。
 川を挟んで向こう側は違う校区だったので、彼としては運命の出逢いと言い表したいほどの奇蹟だった。
 しかし、まだ彼は彼女の名前も聞けなかった。

「元気ね。モイゼシュペック三世くんは」

「うん。こいつそれだけがとりえだから。あ、でもシロだって凄く元気だよ」

「この子、絶対にモイゼシュペック三世くんに恋をしてるのよ。こんなに一生懸命に飛び跳ねてるのなんて珍しいもの」

「こ、恋?」

 少年の胸はどきゅんと高鳴る。

「うん。モイゼシュペック三世くんも同じみたい。相思相愛ね」

「そ、そうだね。あはは」

 ああ、どうしてこういうところだけ父親似なんだろう、僕は!
 毎回言いたいことが言えずに家に帰ると後悔ばかり。
 まずは彼女の名前を聞かないといけないのに!
 そう、二人とも自分の名前を明かしていないのだ。
 お互いが連れている犬の名前は教えあっているというのに。

「ねぇ、教えて?」

 僕の名前ですか?!と意気込んで叫びそうになり、少年は慌ててその言葉を喉の奥に押し込む。

「モイゼシュペックってどういう意味なの?お父さんやお母さんに聞いてもわからないって。英語じゃないのよね」

「あ、うん。ドイツ語」

「そうなんだ。ドイツ語か。もしかして、ドイツに住んでたの?」

「僕は日本生まれだよ。母さんがドイツ生まれ…じゃないや、生まれは日本だっけ。えっと、とにかく僕の血の…あれ?何分の一だっけ」

 少年は頭を捻った。
 姉に教えてもらったのだが、分数は苦手なのである。

「父さんが日本人で、母さんは3/4がドイツ人なんだ。だから…僕は…はは、わかんないや」

 頭が悪いと言っているようで、少年は穴があったら入りたい気持ちだった。
 
「4/4と3/4を足したらいいのかしら?ごめんなさい。私もわからないわ」

 少女が恥ずかしげに笑い、その笑顔に少年は救われた気がする。

「発音しにくいだろ。モイゼシュペックって。こんな変な名前付けてさ」

「どういう意味?」

「ネズミの脂」

「え?ネズミ?」

 少年は内心喜んだ。
 こんなことを知っている小学生など日本に何人もいるわけがない。
 少女にいいところを見せられるとばかりに、少年は知識を披露する。

「ドイツではね…」

 モイゼシュペック(Maeusespeck)、ネズミの脂という言い回しはドイツではマシュマロのことを意味する。
 そのことを少年はわかりやすく説明したが、少女は首を傾げた。

「でも、モイゼシュペック三世くんは白くないわよ」

「こいつのおじいさんが真っ白だったんだ。で、そんな名前になったわけ」

「そうか、おじいさんの名前を貰ってるんだ」

「おじいさんがどこかから連れてきたお嫁さんが茶色の雑種でさ。で、生まれた子供がお母さん似。
その子がJr.って名前で…」

「モイゼシュペックジュニア?」

「そうそう、大あたり!ジュニアのお嫁さんはもっと真っ黒で、三世は名前と全然違うんだよ」

「でもマシュマロにはチョコレート味のもあるわよ。私、食べたことあるもの」

「うん、でもやっぱりマシュマロはプレーンが一番だよ。あれを炙って食べたら…」

「炙って?炙るって火に?嘘っ」

「本当だって。ドイツではそれが普通だって言ってるよ。美味しいから試してみなよ」

「で、でも、何だか気持ち悪そう」

「そんなことないって。外が固めで中はクリームみたいになってね。味が全然違うんだよ」

「だけど難しそう」

「簡単だって。割り箸かなんかを突き刺してコンロで炙るんだ。あ、火に近づけすぎると焦げちゃうから気をつけないといけないけどね」

「ふ〜ん。やってみようかしら、今度」

「絶対美味しいって。保証するよ」

 少年は胸を張った。
 あれを美味しくないという人間など信じられない。
 兄貴の彼女だってホワイトデーはマシュマロを要求してくるらしいのだから。
 少女は微笑んだ。

「わかった。挑戦してみるね」

「うん。そ、それから…」

「あ、私、今日行くところあるの。じゃあね。ほら、シロ!行くわよ!」

 紐を引かれて白い毛の可愛い犬は非難の声を上げる。
 待ちに待ったランデブーを邪魔するなんて何と酷い飼い主だろう。
 彼女が人間なら声を大にしてそう主張した筈だ。
 最後には諦めたのか哀しげな鳴き声をあげながら、何度も振り返りながら少女とともに去っていく。
 モイゼシュペック三世もわんわんと別れの言葉をかけているのか哀しそうに見える。
 少年と黒い犬は小さくなっていく想い人(犬)の後姿をぼけっと見送っていた。
 もし、少女が急に帰った理由がマシュマロを買うためだと知ったなら少年の方は飛び上がって喜んでいたことだろうが。
 それでも犬の立場ではたまったものではない。

「行っちゃったね」

 わん!
 少年の呟きにモイゼシュペック三世はその通りだとばかりに一声吼える。

「また、名前聞けなかったよ。駄目だなぁ、僕は」

 飼い犬を見下ろすと、少年の青みがかった瞳と犬の黒い瞳が交差した。
 モイゼシュペック三世の瞳が哀しげに見えて、少年は犬の頭をごしごしと撫でた。

「よしよし、また明日な。連れてきてやるからさ。お前も神様に祈ってくれよ。明日も晴れてって」

 少年はよしと大きく頷いた。

「今日は絶対にご馳走だぞ、ホワイトデーだからな。母さんとお祖母ちゃんが腕によりかけてる。お前たちにも凄いのが出てくるぞ、きっと」

 本当かというような顔つきでモイゼシュペック三世が見上げる。

「大丈夫だって。父さんも今日は絶対に早く帰ってくるしな。恥ずかしいくらいにラブラブだからな、あの二人は」

 わんわん!
 ラブラブでいいじゃないかと言われたような気がして、少年は苦笑した。
 確かに子供としては恥ずかしいが、ずっと好きでい続けるということは素晴らしいことだと思う。
 いや、思うようになった。
 この数日で。
 
「行くぞ、三世!」

 ぐううっと黒い犬は唸り声を上げた。
 ちゃんと名前を呼べと怒っているのだ。
 少年は少女の言いぶりを思い出して頬をぼりぼりと掻いた。
 さすがに“くん”はつける気はしないが、彼女と同じように呼ぶとするか。

「行くぞ、モイゼシュペック三世!」

 わんっ!
 一声叩く犬は吼え、少年と一緒に堤防へと駆けていった。
 すると橋の方から呼びかける声がした。

「おぉ〜い!」

 続いて名前も呼ばれ、少年は急停止。
 モイゼシュペック三世の方は少年の手を振り解き、急ターンをして紐を引きずりながら全力で疾走していった。

「もう!」

 肩をすくめた少年は苦笑してから橋の袂にいる父親の元に駆ける。
 彼は片手に通勤鞄をぶら下げ、もう片方の手で大きな紙袋を抱えている。

「おかえり!それ、マシュマロ?」

「ああ。みんなの分もあるぞ」

「僕たちはついでかよ」

「ははは、仕方ないさ。今日だけは母さんを特別にしないとな」

「父さんの嘘吐き。今日だけじゃないだろ」

 少年は大人ぶって言うと父親の手から通勤鞄を取った。
 モイゼシュペック三世は父親に紐を持って欲しいと尻尾を振っている。

「ねぇ、父さん。三世はマシュマロ食べないよね」

「ああ、あまり好きじゃないみたいだ。食べたことはあったけどな。初代もJr.もそうだった」

 紐を手にした父親は家に向かって歩き出した。
 右に少年、左にモイゼシュペック三世が並んで家路を辿る。

「父さんはよく知ってたね。モイゼシュペックがマシュマロの事だってさ」

「知るわけないだろう。日本生まれの日本育ちだぞ。マシュマロを焼いて食べるのも母さんに教えてもらったんだ」

「でも初代の名前をつけたのは父さんなんだろ。母さんがそう言ってるよ」

「まあな」

 言葉を濁す父親を胡散臭そうな目つきで少年は見上げた。
 絶対に何か秘密を持っている。
 彼はできるだけ早くその秘密を知りたいと思った。
 自称平凡な中学生だった父親が公称金髪美人転校生と自称する母親とどうやって交際するようになったのか。
 もっとも家に飾ってあるパネルを見れば、相田のおっちゃんが撮ったあの写真がジュニアコンクールで入賞したのも頷ける。
 自分の母親だが確かにあの顔は反則だ。
 そんな母親がどうしてあの父親を好きになったんだ?
 その秘密を知って何としても自分の恋心に役立てたい。
 少年は父親の傍らを歩きながら考えた。
 父親の特技といえばチェロくらいのものか。
 それならば自分も習っているし、下手ではないと思う。
 しかし、母親は楽器はできないぞ。
 あ、もしかしたらあの子、ピアノとかやってないかな?
 明日、会えたなら訊いてみよう。
 次の話題を見つけ、少年は満足気に笑った。
 堤防を降りて、路地を二つ三つ抜け、旧街道に出る。
 その時、馴染み深い声が前方から響いた。

「こらっ、遅いわよ!馬鹿シンジ!」

 わんっ。

「呼ばれたのは父さんだぞ、三世」

 モイゼシュペック三世を窘め、少年は父親の手から紐を奪い取る。

「ほら、来い。僕たちは裏から入るぞ。見てられないよ、まったく」

 あ〜あと盛大にぼやきながら、少年は愛犬と裏手に回った。
 しかし少年が想像したような頬を染めるようなこと、抱き合ったり、おかえりのキスをしたりということを二人はしなかった。
 夫はマシュマロの詰まった紙袋をはいと渡し、受け取った妻はご飯できてるわよと告げただけだ。
 ただ、夫の前を歩く妻の顔は満足気に輝いていた。
 彼女は紙袋を胸に抱き寄せ、口の中で呟いた。

「やっぱりホワイトデーはマシュマロよね」




− おわり −

 


 

<あとがき>
 
 今でもホワイトデーのグッズの中にマシュマロはしっかりあったりします。
 どうやらあの当時、ホワイトデーイコールマシュマロということがほんの数年ですが定説になったのはマシュマロ販売会社の策略のようです。
 ですから、マシュマロを贈るという行為を知っているのはごく限られた世代ではないかと思います。
 
 最後にドイツのマシュマロのことをお教えいただいた、Adler様。ありがとうございました。
 
モイゼシュペックのことがわからなければ、話はまとまらなかったでしょう。
 
 炙ってマシュマロを食べたのは、今回は初めてでした。
 いやぁ、普通に食べるよりも炙る方が断然美味しかったですね。


 

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