33回転上のふたり


A面 5曲目

ー All Together Now ー



 2010.12.16        ジュン

 
 


 


 

 今回の話をはじめる前にアスカとシンジの現状を整理してみよう。
 出発点が殆ど同時だったためにビートルズの知識などについては同じ状態にあるといってもいいだろう。
 メンバー4人の名前と顔はもちろんのこととして、曲目とメロディーは二人とも諳んじる事ができるようになっていた。

 シンジの場合はその音楽的素養と母親の助けがあったために彼が危惧していたよりもかなり容易にこの状態にまで達することができたのである。
 しかも母親である碇ユイが所持しているレコードはすべて日本発売盤であったので、どの曲がどのアルバムに収録されているかということも充分に整理できていた。
 おまけにすべての曲を聴き終えたタイミングでユイが息子に与えた小冊子はシンジにとってかなり有効な武器となったのだ。
 昭和51年に発売された所謂国旗帯と呼ばれるレコードを紹介した冊子だが、これにはその時期に日本で発売されていた正規盤のレコードがすべて番号順に整理されている。
 もちろん碇家にあるレコードは帯の種類に関わらず、つまり国旗帯ではない時期に購入したものもその番号に当てはめることは容易だ。
 おかげでシンジはかなり楽にビートルズのアルバムを整理することができ、そして冊子上のビートルズ情報は基礎知識として習得できたのだ。
 息子がこの状態にまで達したことにユイは喜びを隠そうとはしなかった。
 シンジをビートルズファンに仕立て上げることは無理かと思っていれば、突然ビートルズを好きになったと宣言したのだ。
 その原因はビートルズファンの女の子に惚れたためだと鋭く推察したが、息子の恋を手助けするという意識よりもビートルズの布教のために彼女は動いたといったほうが正しいだろう。
 結果的にシンジは母親のおかげでかなり楽をして現在のレベルに達することができたわけだ。

 さて、アスカの方はどうだろう。
 彼女の母親もユイと同様にビートルズファンである。
 いや、かなりディープなビートルズマニアと言い換えた方がいいだろう。
 ジャケットが違うだけで同じ内容のレコードを平気で購入する女なのだ。
 因みに上述した国旗帯のシリーズはすべて買い直している。
 したがって、彼女、惣流キョウコはとんでもない枚数のビートルズのレコードを所持していた。
 しかもそれは日本盤だけではなく、彼女が住んでいたアメリカ盤とドイツ盤にも広がっているのだ。
 もし、彼女が日本にいればアスカにとって大いなる助けになっていたことだろう。
 ところがキョウコは現在ドイツにいる。
 その上、彼女は惣流家に置いていた日本盤のビートルズのすべてのレコードをドイツに持ち出しているのだ。
 その理由はドイツにいるビートルズファンの友達に見せびらかすためという幼稚なものだった。
 だがそのためにアスカは大いなる被害を被ってしまった。
 日本盤が家にないために祖父から貸してもらったビートルズ本に記載されていないアメリカ盤でビートルズの曲についての知識を得るしかなかったのだ。
 つまり彼女は最初からかなりのハンデを背負ってしまったというわけだ。
 それを克服したのはひとえにアスカの持つ不撓不屈の精神に他ならない。
 間違いなくシンジであれば投げ出していたことだろう。
 だが、彼女は成し遂げた。
 門外不出のアスカノートにはビートルズの情報が見事に整理されていたのだ。
 ただし、あくまでそれは彼女の持つアメリカ盤のレコードが基本になっているということを明記しておかねばならない。
 しかも母親は資料本の類は1冊も持っていなかった。
 つまり、今のアスカが持つビートルズ情報は彼女の自己学習によるものでオフィシャルなものとは言い切れないわけだ。
 だが、アメリカという大きな国のレコードを基本にしていることにアスカは不安の欠片も持っていない。

 これが現在の二人の状況だった。
 そして、もうすぐ二人の物理的距離は大きく縮まることになる。



 その発端はまたしても青葉先生だった。
 そしてその目的は生徒のためではなく、あくまで自分の欲望のためだったのである。
 話はアスカもシンジもまったく知らないところで進んだ。

 青葉シゲル先生が密かにアプローチを続けている伊吹マヤ先生は演劇部の顧問をしていた。
 そして青葉先生の方は名ばかりの写真部の顧問である。
 名ばかりというのは彼にはまったく写真の経験もなければ趣味もなかったからで、写真部が存続する上での必要な役職として彼が任命されているに過ぎない。
 実際、写真部といっても3年不在で2年の相田ケンスケたち数名しかおらず、しかもその数名の写真の知識は先生を遥かに凌駕しており、そして部活動自体も例年のスケジュール通りに運営しているのでまさしく先生の出番はなかったのだ。
 彼がチェックするのは暗室でよからぬ行為が行われていないかということくらいで、殆ど放置状態といってもよい。
 もし第壱中学校に軽音楽部というものが存在するのであれば、彼は狂喜してその部の顧問になっただろうが、高校ならまだしも中学でそのような部は普通はないのが当然だ。
 だからこそ、青葉先生はそれなりに鬱憤が溜まっていたのかもしれない。

 昼休みの時である。
 各々弁当を食べ終わった先生たちは雑談に花を咲かせていた。
 話題は2ヵ月後に迫った文化祭のことだった。
 学校での行事的には来月に体育祭が控えているが、こちらの方は体育教師たちがここぞとばかりに力を入れるので、他の教師たちは彼らに引っ張りまわされるだけとなる。
 むしろ体育祭は彼らにお任せして、自分たちは文化祭の方に集中しようと考えるのが常だった。
 そのことも手伝い、2ヶ月前ではあるものの先生たちの話題が文化祭の方に流れがちとなっているわけだ。
 2年生の担任教師たちの話の中で、今日はそれぞれが顧問をしている部活動の文化祭参加についてに雑談が向かった。
 そして彼らの中で一番大きく文化祭で活躍する部が演劇部であり、その顧問である伊吹先生への問いかけが多くなっていったのである。
 幸か不幸か、彼らの中で未婚なのは青葉先生と伊吹先生だけだ。
 だから青葉先生が他の先生たちに不快感を持つのは言わば筋違いもいいところである。
 それでも彼はジェラシーを感じた。
 何故ならば妻子持ちの先生たちは実に気兼ねなく伊吹先生に話しかけているからだ。
 彼女に惚れている青葉先生としてはその気軽さが実に腹立たしい。
 ただし、ある意味では彼の憤懣は正しいとも言えた。
 青葉先生の恋心は周囲にはまるわかりであり、そのことをやんわりとからかう気持ちを含んで先輩教師たちは接しているのだから、彼は無意識に場の空気を察していたのかもしれない。
 さて、では伊吹先生の方はどうだろう。
 彼女は事あるごとに青葉先生に噛み付いていた。
 もっとも彼のすることは時々枠から外れるので注意指導は先輩として当然とも言える。
 だが、目くじらの立て方がいささか鋭敏且つ辛辣なのだ。
 僅か1年の先輩であり、しかも浪人生活を送っていた青葉先生の方が年齢が上であろうと、伊吹先生は怯まない。
 他の先輩教師たちの間では二人の関係を青春ドラマの先生に当てはめて楽しんでいた。
 伊吹先生のヒロインは誰しもが賛成していたが、まったく熱血教師ではない青葉先生の方は主役の教師としては落第ではないか。
 むしろ彼の場合は落第している高校5年生の役柄の方が似合っているという意見が大勢である。
 ともあれ、二人は生温かい目で見守られていたのがこの時期だったのであった。

「今年の演劇部は何をするんですか?」

「犬神家の一族…」

 微笑みながら漏れ出した題名にみなが「えっ」と驚くのを待ってから伊吹先生は修正した。

「…は予算がかかりすぎるので、獄門島をダイジェストでしかもストーリーを変えてするんですって」

「それはまた…、大丈夫ですか?」

「赤木さんがのりのりで夏休みの間にシナリオを書いてきたんですよ。あの内容なら大丈夫です」

「赤木君か。彼女なら間違いないでしょうね、葛城君とは違って」

「いやいや、葛城君はなかなか面白いものを持っていますよ」

「面白いというよりもとんでもないといった方が正しいでしょう。去年はキスシーンを盛り込もうとしたんですからね」

「すみません」

 顧問の伊吹先生は身を小さくして謝った。
 『ロミオとジュリエット』をベースにして『ベルサイユのばら』の要素を盛り込んだシナリオは面白いものであり、そしてもちろん顧問に提出した脚本にはキスシーンなど1行もなかった。
 しかし、文化祭当日にジュリオス役の葛城ミサトはロミアン役の赤木リツコにキスをしかけたのである。
 毒を飲み息絶えたロミ(オ)アン(ドレ)の唇に毒が残っていないかとくちづけるのは原作にあるのだが、脚色したリツコは当然その場面をカットしていたのだ。
 ところがクライマックスにおいて、ジュリ(エット)オス(カル)は急に芝居を変えたのだ。
 愛しのロミアン様は私のキスで生き返らせてみせる!と大見得を切った時、舞台で横たわるリツコと舞台袖にいた伊吹先生は大いに驚いた。
 死体役のリツコが客席に聞こえないように注意をするが、ミサトは芝居をやめず蹲って顔を近づけてくるのだ。
 客席は一気に興奮の坩堝と化した。
 校内トップクラスの美少女同士のキスシーンである。
 男子も女子も大騒ぎになるのは当然だ。
 これは拙いと教師が中断させようとするがもう間に合わない。
 伊吹先生も袖にいた生徒たちに殿中でござるとばかりによってたかって乱入を止められていたのだ。
 だが、キスにまでは至らなかった。
 すんでのところで死体が甦ったのである。
 何するのよ、あなたは!と迫る恋人を突き飛ばすと、女言葉になってしまったロミアンは舞台中央で仁王立ちした。
 これで芝居は滅茶苦茶になってしまったと、罵倒の言葉を親友に浴びせかけようとした時だ。
 計画通りに改訂版の芝居が進行していったのである。
 ジュリオスは恋人が生き返ったと大喜びし、舞台上に現れた両家の親たちもそのことを祝福した。
 かくして悲劇は喜劇としてハッピーエンドを迎えたのである。
 顧問とリツコには内緒で、部長以下の全員がサプライズ演劇を行ったのだ。
 もちろん言いだしっぺはミサトその人であった。
 客席は大いに喜び、教師たちも結局キスシーンがなかったので苦笑して済ませるしかない。
 おさまらなかったのは伊吹先生とリツコである。
 ただしその性格と趣味を熟知している部員たちによってたかって甘いものを与えられ、お詫びのファンシーグッズをプレゼントされ二人は鉾を収めるしかなかったのである。
 しかしながら、その後に飛び出したミサトの発言はあっという間に校内に知れ渡り教師たちから叱責される羽目となってしまった。
 もしリツコが我に返らずに死んだままを通した場合どうしたのかと質問されたミサトはこう答えたのだ。
 もちろん、ぶちゅう!と大人のキスをしたわよ!舌も入れてそれは凄いのを!
 冗談ではなく本気でそう言っていることは誰にもわかった。
 高校生の男子と交際しているという噂(真実である)もあることで、ミサトは生徒指導室に呼び出され諄々と説諭されてしまったのだが、反省の言葉を口にしたもののそれが心からのものでないことは目に見えて明らか。
 かくして葛城ミサトは要注意人物としてピックアップされたというわけだ。

 3年生の演劇部員で、且つ校内でも有名な二人の生徒の評価は教師たちの中で二分していた。
 二人とも学業優秀であるが、真面目で融通が利かないリツコとお調子者で融通が利き過ぎるミサトが親友であるという事実が教師たちには理解できなかったのである。
 二人に一番近い伊吹先生もその友情の源はわからないものの、リツコが目を光らせている以上ミサトはこれ以上大きな問題は起こすまいと思っていた。
 ミサトの交際相手は知っているので、間違っても妊娠などの問題などが発生しないようにきつく嗜めておくという言葉の裏には、二人の関係がもうその点の心配をする程度まで進んでいるという事実が含まれているのかもしれないということに伊吹先生は後になって気がついた。
 ぞっとした伊吹先生はこっそりとミサトと会見し厳重に注意をし、口止めを徹底させたのである。
 不純異性交遊をしていることをべらべらと喋られると周囲への影響が多い。
 別れろとかそういう行為はするなと言えば言うほど彼女には逆効果であることもよくわかっている。
 それを踏まえたうえでの伊吹先生の説諭だとミサトもわかっているので、彼女は妊娠は絶対にしないように誓いますと約束したのだ。
 ミサトが約束を守る子であることは承知していたので、約束に念を押すと彼女を会見場から退出させたのだが、その後で伊吹先生は頭を抱えてしまった。
 自分よりも10歳も年下なのにそちら方面では教え子の方がとんでもなくリードしている。
 誘惑や欲望を断ち切ってきた真面目な伊吹マヤとしてはミサトが恐ろしくもあり、そして少し羨ましかったのも事実である。
 教師としてはそういう感想は抱いていなかったが。

 ミサトのそっち方面の発展振りについては他の先生はまったく知らないはずだが、それでも要注意人物であることには変わりがない。
 だが、その明るさとカリスマ性と発想の柔らかさを評価する教師も少なからずいる。
 そしてリツコの方は真面目で成績が市内でもトップであるという事実と、その言動に面白みがないということで評価が少しだが割れている。
 こういうわけで、二人の演劇部員は教師の評価を二分していたわけだ。
 だからこの二人が話題になると教師たちの舌は滑らかになる。
 『獄門島』も去年と同様にサプライズになってしまうのではないかとか、葛城ミサトが何の役をするのかという話題に伊吹先生は笑顔で答えた。
 今年はサプライズにならないように綿密に脚本を練っており、ミサトもその結末に目を輝かせて賛成していたということで絶対に大丈夫だと先生は胸を張った。
 ただしストーリーについては事前には漏らせないので当日を楽しみにしてくださいと楽しげに笑った伊吹先生が青葉先生の目には眩しかった。

 ずいぶんと横道にそれたが、問題はここの部分であった。
 青葉先生は羨ましかったのである。
 そして、好きな女性が脚光を浴びる機会に自分は何をしているのかということを考えると涙が出てきそうになる。
 文化祭当日は写真部の展示スペースに足を運んでチェックするだけ。
 地味であることこの上ない。
 これでは二人の距離はどんどん遠ざかってしまうではないか。
 軽口を叩きながらも、彼は必死に考えた。
 午後の授業に入ってもずっと考え続けた。
 そして、6時間目の授業が終わった後、職員室へと戻る途中で思いついたのである。
 
 それは、廊下で音楽の授業から戻ってくる2組の生徒たちとすれ違った時だ。
 階上の音楽室から数人の友人同士が団子状になって三々五々降りてくる。
 その中で惣流・アスカ・ラングレーは容姿の点でも、そして声高に話すという言動の点においても目立つ存在だった。
 彼女は洞木ヒカリと連れ立って歩いてきたが、放課後へと向かう開放感たっぷりのざわめきの中でもその声は一際目立った。

「どぉ〜してビートルズは教科書にないのかしらっ。絶対変っ」

 10mは離れていたものの、その言葉は青葉先生の耳に届いた。
 おうおう、その通りだぜ、と心中で生徒に同意しながらも、彼はすれ違う生徒たちから「こんにちは」と挨拶されるときちんと「おう、こんにちは」などと返事はしている。
 それくらいの器用さがないと教師は勤まりはしない。
 
「今度、笛を吹くとき、『レボリューション』でも勝手に吹いてやろうかしら」

「へぇ、アスカってその曲演奏できるの?凄いわね」

「へっへっへ、『ないん』だったらなんとかなりそうなんだけどさ」

「ごめん、よくわからない」

 青葉先生にはアスカの言わんとするところがよくわかった。
 確かに前衛音楽の『レボリューション9』なら適当に笛を吹いていても誤魔化せそうな気がする。
 と、その時だ。

 女神降臨。

 青葉先生の頭の中にひらめきを司る女神が降臨してきた。
 さすがに女神とコンタクトなどとってしまうと、生徒との挨拶などできるわけがない。
 彼は廊下の真ん中に突っ立ったまま、一瞬のひらめきを整理し感謝していた。
 生徒の行きかう廊下の真ん中に障害物があり、しかもそれが教師だから通行する生徒にとっては鬱陶しいことこの上ない。

「ちょっと、先生、邪魔っ」

 こういうときにアスカは遠慮も呵責もない。
 平気で声をかけ、しかもそれが乱暴な調子なだけに、男子はニヤニヤ笑い、女子は眉を顰めた。
 ヒカリだけは仕方ないなぁという感じで苦笑するに留めていたが、アスカは周囲の視線はまるで気にしていない。

「通行妨害よっ。もう!」

 だったら真ん中を歩かなかったらいいのに、というのは女子たちの感想だった。
 男子にもてすぎて、協調性があまりない(と思われている)アスカは同性からは浮いた存在だ。
 もし彼女が昨年の文化祭でミサトが仕出かしたことをやっていたならば、拍手喝采とはいかなかっただろう。
 もっともそのミサトの行動自体はみなで示し合わせてのことであったが、アスカの場合ならば間違いなく彼女の独断専行であろう。
 直感で動いていそうな二人ではあったが、その部分で大きく性格は違う。
 簡単に言えば、ミサトは加減を知っており、アスカのほうは知らない。
 つまりミサトの方は大人というわけだ。
 
 ここで読者諸兄には明らかにしておくがミサトの不純異性交遊については伊吹マヤ先生の妄想が多分に含まれている。
 現実には彼女の経験レベルはAであり、仮に大人のキスをAとした場合はミサトのレベルはA´となる。
 交際相手の都合でレベルBに進みそうになったのだが、それは断固としてお断りをお願いしていた。
 自分は弾みがつけばとことん進んでしまうであろうという性格をよくわかっていたから自制していたのだ。
 だが、伊吹先生が明らかに誤解しているのを彼女は放置していた。
 別に誰に申告すべきものではないし、慌てている先生が可愛らしく思えたからでもある。
 それにリツコの冗談が物凄くわかりにくく、それどころか嘘が信用されてしまうことにおかしみを覚えていた。
 そういう懐の深さが大人というわけだ。
 アスカならば冗談であることをわからせようと必死になってしまい、逆に問題を起こしてしまう可能性が高い。
 そこがまだまだ子供だということになる。
 ただし、いまだレベルAどころか、好きな相手と手も繋いだことがない、いや普通に会話をしたこともないアスカだ。
 そういう意味では子供であっても仕方がなかろう。

 ともあれ、立ち往生している青葉先生の前でアスカは仁王立ちをした。

「Why Don't We Do It In The Road?」

 アスカは腰に手をやり、にやりと笑いながら先生に向かって英語で喋った。
 女神とコンタクト中の先生だったが、その時には何とか女神の神託を消化できていた。
 しかもビートルズの曲名を目の前で言われれば、反応しないわけにはいかない。

「これはまたマイナーな曲を引っ張り出したな、え?というか、その曲は…」

 青葉先生は声を潜めた。
 さすがに他の生徒に聞かれるのは拙かろうという教育的判断だ。

「そいつは女子が口にしないほうがいいぞ。まあ、知らないからこそ口にしたんだろうがな」

 アスカは一瞬判断に苦しんだ。
 どういう意味だろうかと考えている間に青葉先生は『Why Don't We Do It In The Road?』ではなく、レコードのその次の曲である『I Will』のメロディーを口ずさみながら職員室に向かった。
 廊下の真ん中に取り残されたアスカと傍らのヒカリを横目で見ながら生徒たちは自分のクラスへと足を進めた。
 とっとと終礼を済ませて各々の放課後に向かいたい。
 6時間目と終礼の間の短い時間は学生生活で一番気ぜわしい瞬間かもしれないのだ。
 お子様であるアスカは青葉先生の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
 しかしあの声の潜め方がヒントになり、ようやく思いつく。
 見る見る顔を赤くする親友へとヒカリは気遣わしげに声をかけた。
 
「アスカ?どうしたの?」

「ど、ど、どうしたって!くわっ!」

「くわ?」

 日頃から独特の奇声を上げることが多いアスカだったが、今回は中でも珍しいものだったのでヒカリは思わず鸚鵡返しにして親友の顔を覗きこんだ。
 すると彼女は赤くした頬を膨らませて、鼻息も荒く吐き捨てるように言い放った。
 
「男ってどうして!もう、信じらんない!」

「ど、どうしたの?青葉先生が変なことを言ったの?」

「言ったっ」

「何を?」

「こ、こんな場所で言えないわよ!」



 ということで、こんな場所から移動すること300m。
 終礼も終わり、委員会も何も用事もなかった二人は下校して通学路の途中にある児童公園に立ち寄った。
 真面目なヒカリだったが、これくらいの寄り道は彼女の許容範囲である。
 しかも今日は先ほどの話の続きを早く聞きたかった。
 彼女にだって好奇心はあり、日頃その意識を抑えることが多いヒカリとしては腹蔵なく話ができる親友だけにわくわく感が強かったのだ。
 そして、珍しく口が重いアスカの話を聞いてヒカリは真っ赤に頬を染めて周囲を見渡した。
 誰かに聞かれたのではないかと気になったのだが、話の内容がわかっているアスカは誰にも聞かれない場所を選んでいた。
 ブランコに腰掛けて話すアスカとヒカリに一番近いのは砂場で遊ぶ幼児三人である。
 もし彼らに聞かれても意味がわかるような年齢ではない。
 ヒカリは大きく息を吐き出し、そして空を仰いだ。

「びっくりしたなぁ。ビートルズってそんな歌もつくってたの?」

「知んないわよ、そんなの。麻薬とかそういうのはあったって本に書いてたけどさ。まさか…」

 道路の真ん中でいやらしいことをしようじゃないか、などという意味の歌だとは思いも寄らない。
 いったい道路の真ん中で何をするのだろうか?とは考えたが、それ以上の情報は歌詞にはなかったのでアスカはまあいいかとそれ以上考えなかったのだ。
 これは乙女としてはショックこの上ない。
 もしこの歌のことが1学年上のミサトの耳に入ったならば、彼女たちとは違う反応を示しただろう。
 しかしビートルズにはあまり興味のないミサトが知ることはない。
 知れば冗談のネタとして誰かにぶつけることは間違いなかろう。
 だが、アスカとヒカリにとっては冗談では済まされない内容だった。
 キスどころか想い人に気持ちさえ伝えられない二人なのだ。

「ねぇ、ヒカリ。キスしたいとか思ったことある?」

「えっ、誰と?ま、まさか、アスカとっ?」

「あのね、アタシにはそんな趣味ないわよ。ヒカリのほうは知んないけどさ」

「わ、私だって!えっと、ということは……そういうこと?」

 好きな男子とのキスだとはっきり名前を出せないところはお許しいただきたい。
 名前を出すだけでも勇気と恥じらいが必要な時期の二人なのだ。
 ヒカリに問い返されて、アスカは上気した顔で頷いた。

「考えたことがないって言えば嘘になるけど、でも、そんなのほとんどないわよ。最近は喋ってもいないのに」

「だよねっ。うっ、最近だってぇ?羨ましい!アタシなんて全然よ、全然!」

 ごめんなさいダッシュなど喋ったという経験値に入れられてたまるものか。
 会話したことがないと力説するアスカは、そんな状況なのにキスなんか考えられないわよねぇと友人に同意を求めた。
 その説には大いに賛成したヒカリはクラスが違うと顔すら合わすことができないと嘆いた。
 うんうんと頷くアスカはあ〜あと大きく溜息をつくとブランコを揺らす。

「まずはお喋りできるような仲にならないといけないのよね、アスカは」

「そうよ!今なんてチラッと顔を見ることができただけでもウルトラスペシャルラッキーって感じなのよ」

 同じことを相手も思っていると知れば二人の関係は大きく前進するのだが、もちろんどちらも相手の感情については白紙も同然である。
 出逢いだけセッティングして、後は知らぬ顔なのだからたまらない。
 運命の神様は休憩中なのかとアスカは空を睨みつけた。



 とんでもない。
 運命の神様は絶賛営業中だった。
 青葉先生の耳もとで囁いた女神は明らかにアスカとシンジを応援しているに違いない。
 彼は職員室の自分の席でううむと腕組みをしていた。
 机の上には学年通信の藁半紙がひっくり返して広げられていた。
 そこには数名の生徒の名前が書かれていた。
 そして青葉先生はその筆頭に書かれていた惣流という文字に赤鉛筆で丸をする。

「こいつだな。こいつを取り込めばいい餌になる。女子はともかく男子は釣れるぞ」

 にひひと笑う彼の姿を見れば、伊吹先生は確実に噛み付いてきただろうが彼女は只今演劇部に顔を出していた。
 周囲に教師の姿がないのをいことに青葉先生はぶつぶつと呟きながら思案中である。

「他にはいないか?1年はよくわからんなぁ。10人も集めればいい勢力になるぞ。そうすれば…」

 青葉先生は見えないギターをかき鳴らした。
 
「名目はできる。誰かギターくらいは弾けるヤツがいるよな。ドラムは無理だろう、さすがに。ピアノ?おお、それでもいいんじゃないか。女子で弾けるヤツを探せば…」

 女子という想像でアスカの姿を一瞬思い浮かべた青葉先生だがすぐに首を横に振った。
 絶対にアイツはピアノなど弾くはずがない。
 そういうイメージがまったくないと実に失礼な決め付けを彼はしたが、残念ながらアスカは楽器は苦手であった。
 彼の直感は正しかったのである。

「他にいなかったか?ビートルズを好きなヤツで楽器を弾けるヤツ」

 青葉先生は生徒たちのデータを頭の中でひっくり返す。

「おっ、そうだった!碇が……ああ、チェロか……。チェロじゃバンドは組めないな」

 赤で丸をされた惣流の名前のすぐ下に碇と書かれていた。
 二人の名前が並んでいるところをもし見ることができたならば、アスカもシンジもどんなに幸福な気分になるだろう。
 
「よし、とにかく惣流だ、惣流。こいつを落とせば絶対に何とかなるぞ」

 大きく頷いた青葉先生は藁半紙を鞄に突っ込んだ。



 どうして担任教師でもない先生がこんな時間にやってきたのだろうか。
 
「その、つまりだな。何と言えばいいか…」

 青葉先生の歯切れが悪いのは仕方がない。
 2組の名簿でアスカの住所を調べて自転車を走らせてきたのだが、彼は惣流家がこんなに由緒ありげな屋敷であるとは思いもしていなかったのだ。
 白人の容姿をしているだけに洋館ではないかという想像をしていたくらいなのだから、いかめしい門の前に立った彼が筆書きされた惣流という表札を何度も見直したのも当然だろう。
 その上で意を決して門の脇のベルを鳴らすと、出てきたのが和服の老人である。
 家老の家柄で、元帝国軍人で、しかも初心なドイツ娘に海を越えさせるような行為を促した男性だ。
 惣流トモロヲに睨みつけられては用意していた言葉を失ってしまうのも無理なからぬところがある。
 トモロヲとしても晩御飯前の時間に一見教師には見えない若造が門前に立っていればまず何者かと誰何するのが筋というものだ。
 しかも慌てた青葉先生は自分が何者かと名乗る前に「惣流アスカを出してほしい」と呼び捨てにしたものだからたまらない。
 剣道の有段者で銃刀法申請済且つ先祖伝来の日本刀をも所持しているトモロヲは一声鋭く「馬鹿者!」と怒鳴りつけた。
 思わず条件反射的に土下座してしまいそうになった青葉先生だったが、膝と腹に力を入れて自分の身分をようやく告げることができた。
 トモロヲはまずそうやって名乗るのが筋だと嗜めてから、すっかり固くなってしまった先生を玄関に招きいれここで待つように命じ、悠々と廊下を去っていく。
 その後姿を見送って、青葉先生は背中を滝のように流れた冷や汗を気持ち悪く思うのだった。
 あれほど威厳のある男の血筋だから惣流はあんなに偉そうなのかと奇妙な感想を抱いていたが、その威厳たっぷりのトモロヲが台所へアスカを呼びにいった折り、ついでに肉団子をひとつつまみ食いをしたために孫娘に叱責され身体を小さくしたなどとはわかるわけもない。
 もうつまみ食いしちゃ駄目よと言い残してアスカは玄関に現れたのだが、歯切れの悪い青葉先生に苛立ちを隠せない。

「先生、アタシ晩御飯の準備中なの。用事があるんだったら早く言ってよ」

「おう、そうだな。つまり、ビートルズ好きだよな、お前は」

「好きよ!当たり前じゃない!」

 アスカはエプロンをつけた胸を張った。
 ほんの数日前ならば何言ってんのよとばかりに呆れていただろうが、今の彼女は違う。
 付け焼刃であるがビートルズの知識ならばそこら辺の女子中学生には負けないという自負はある。
 きっとビートルズのことならば何でも知っているであろう碇シンジ君には負けるだろうけどと、同じ境遇の彼であることは知らずに彼女は心の中で謙虚さを見せた。

「で、それが何?ビートルズのレコードは貸せないわよ」

「いらん!俺は全部持ってる!何を今さら……じゃない。つまり、お前、部活動してないよな、ん?」

「してないけど、だから何?」

「お前、入らないか?」

「はぁ?」

 青葉先生が顧問をしているのは確か写真部だ。
 何を考えて写真部に勧誘しているのだろうか。
 確かに写真部には碇シンジの友人である相田ケンスケという名前の眼鏡男子がいるのだが、そこから彼への接点を取るなどあまりに遠回りしすぎだ。
 そもそも自分は写真にはまったく興味がない。
 きっぱりはっきり断ろうと唇と開きかけた時、先生が取って置きの切札を提示した。
 もっとも彼はそれを狙ったわけではなく、自分が何に彼女を誘っているのかを言っていないことに気づいただけのこと。
 だが、それはアスカにとって最上の勧誘となったのだ。

「これだ。ビートルズ同好会」

 青葉先生は鞄からわら半紙を取り出し広げて見せる。
 大きな文字でビートルズ同好会と書かれてあり、十数名の生徒の名前が思いつくままに書かれている。
 “ラングレー”抜きで、惣流アスカと真っ先に書かれていて、そして…。
 彼女の名前の下には、碇シンジと書かれているではないか。
 アスカは息を呑んだ。
 自分の名前と彼の名前が並んでいる。
 その時、彼女の頭の中に何故か“Goodday Sunshine”のさびの部分が高らかに鳴り響いた。
 なんて素晴らしいのかしら!
 たったこれだけのことで幸福になれるのだから、恋というものは素晴らしい。

「どうだ?ビートルズ同好会だぞ。凄いと思わんか?」

「はい、とっても凄いと思います」

 凄いの意味がまったく違う。
 あまりの幸福感に直訳の日本語のような言葉を発してしまったアスカだったが、やがて名前が並んでいるだけでは何の役にも立たないことに気がついた。

「で、これって、もうできてるんですか?」

「ああ、それはまだだ。何しろつい今しがた考えついたところだからな」

 ということはまだ誰も集まっていないのではないか。
 アスカは軽く溜息を吐く。
 
「じゃ、アタシを最初に勧誘したわけ?」

「ああ、そうだ。名誉なことだぞ。お前を学校一のビートルズファンだと見込んでだな…」

「ふん、残念ね。アタシよりえっと、誰だっけ?名前を忘れてしまったわ。確か、同じ2年の男子で…」

 アスカは忘れるはずもない名前を白々しくも度忘れした振りをした。
 作戦半分、照れ半分である。

「変な名前のヤツ」

 ごめんなさい、シンジ君!
 アスカは心の中で彼に詫びた。

「そいつの方がビートルズの知識とか上じゃないの?アタシ、そういうのははっきりしてないと気が済まない性格だから」

 アスカはわざとらしくそっぽを向いた。
 青葉先生はいい先生だけど単純だから絶対に計画に乗ってくれるに違いない。
 彼女は失礼にも教師を手駒に使おうとしていた。

「だからなんだ?」

「そいつが入るんだったら、考えてやってもいいわ。アタシの方が上だって教えてやるわっ」

「はは、で、そいつって誰だ?」

 鈍い!鈍すぎる!
 アスカは教師に対して悪態を吐きたくなったがすんでのところで押し止めた。
 それは先生に対する畏敬の念が為したものではない。
 どこかで聞き耳を立てているであろうトモロヲに配慮したのだ。
 いままでのやりとりだけでも説教される可能性が高い。
 晩御飯が終わり、片づけが終わった時を見計らって、仏間に呼び出される。
 孫娘に甘い彼でも社会常識や規律には煩い。
 時には黒光りする仏壇の前にアスカを正座させ諄々と説諭することもあるのだ。
 その足が痺れる時間を少しでも短くするために彼女は言葉遣いを改めた。

「決まっているでしょう、先生。アタシは名前も知らないんだけど、ほら、6組か、7組か、8組の…」

 6と8は早口で7組だけをはっきり言うアスカの意図は分かりすぎるほどわかる。
 
「バイオリンだっけ?そういうのを弾く男子がいるでしょ。ビートルズの大ファンの」

「ああ、なんだ。碇か」

 その口調を聞いてアスカはカチンときた。
 彼を軽視しているにもほどがある。
 もっとも青葉先生がそういう口調だったのは、彼が弾く楽器ではバンドのメンバーにはできないからでそれ以上の意味はなかった。

「へ、へぇ、そういう名前なんだ。まあ、とにかく、そいつ次第ってことね」

「お前の対抗心も物凄いな。まあ、いい。碇なら俺の言うことに逆らわないだろう」

 その言い方を聞いて、アスカはさらにカチンときた。
 彼を馬鹿にするのもほどがある。
 もっとも青葉先生は日頃の彼の言動から見て、彼が積極的に教師に逆らう姿など想像もできなかっただけのことである。

「そ、そうなんだ。ふぅ〜ん、それじゃ、明日の朝には同好会に入るかどうか、決めてあげてもいいわ。はんっ」

 あまりの憤激に仮初めの畏敬の念はどこかへ飛んで入ってしまった。
 追い出すように先生を帰らせたアスカが1時間後に仏間に呼ばれたことは改めて書くまでのこともないだろう。





「あ、ト、トウジ?僕。わかる?」

 その名乗りを聞いて、鈴原トウジは苦笑した。
 電話を最初にとった母親に碇シンジだと名乗っているにもかかわらず、この切り出しようはいかにも彼の親友らしいとは思う。
 だが、もう少しきりっとしても何の問題はない。
 そう考えて、ケンスケとともに碇シンジ強化計画を目論んでいるのだがなにぶん行き当たりばったりなだけに殆ど効果は出ていない。

「おう、センセやろ。なんや?珍しいな」

 なるほどシンジから電話というのは珍しいことである。
 自転車で10分ほどの距離だから電話をするよりも直接家に行くほうが面倒ではないというのがいつものシンジだ。
 もっとも時間的にもう9時だから夜遊びなど絶対にしない彼ならば電話しかなかったのであろう。

「うん。あのね、実は…」

 何か頼みがあることはこの時点でわかった。
 だがその頼みを切り出すのにどれほど時間がかかるのかわからないぞとトウジは覚悟した。
 煮え切らないのは碇シンジの基本装備だからだ。
 ところが今日のシンジはいつもと違った。

「トウジにしてほしいことがあるんだ。うん、絶対にしてほしいんだ。お願いだよ。僕と一緒にビートルズ同好会に入ってよ」

 予想よりも本題が飛び出してきたことも手伝って、トウジは少し戸惑ってしまった。
 そして彼の言ったことをもう一度頭の中で繰り返してみる。
 つまり、ビートルズ同好会に一緒に入れとお願いしてきたわけだ。
 なるほど、なるほど…。

「なんやて!なんでわしがそないなもん入らんといかんのや!冗談も休み休み言うてんか」

「ご、ごめん。でも冗談じゃないんだよ。それにもう青葉先生に言っちゃったし。だからもう変えられないんだ。お願いだよ。一生のお願い」

 男気溢れることを人生の指針にしている鈴原トウジにとって、一生のお願いをされるというのはかなり琴線に触れる。
 だが、依頼内容があまりに彼の守備範囲から外れるではないか。

「ちょっと待ち。あんな、ビートルズってあのビートルズやろ?」

「うん、あのビートルズだよ」

 ずうとるびやないわな、と冗談を挟みたいところだがトウジは必死にそれを堪えた。

「わしはな、センセには申し訳ないけどビートルズは聴かんのや。あんなん聴くくらいなら演歌や民謡の方がマシや」

「えっ、トウジってそういうのが好きだったの?」

 何を聞いとんや、センセは…。
 今出したジャンルは比較ではないかとトウジは呆れた。
 しかしその一方でこっちの言うことが頭に入りきらないということはかなり差し迫っているということか。
 懐の大きな男になりたいと人生の目標にしている鈴原トウジは、シンジを優しく受け止めてやろうと考えた。

「まあ、どうでもええわ。せやから、言うてみ?なんでわしがビートルズの同好会に入らなあかんねや?」

「えっとね…」

 一気に歯切れが悪くなったシンジを「早く言わなかったら電話切るで」と優しく最後通告を突きつけ、その理由を引き出したトウジは頭がくらくらとなった。
 同好会への加入を誘いに来た青葉先生に、鈴原君と二人で入りますと答えたと彼は言ったのだ。

「ちょい待てや。わしの気持ちは関係なしかいな!」

「ごめん。ホントにごめんね、トウジ」

「わしが絶対に入らんって言うたらどうするつもりやねん」

「えっと、お願いだよ、トウジ。一生のお願いだから」

「一生であろうと二生であろうと勘弁してくれるか。そもそもわしは英語は嫌いやねん」

「だって…」

 一言漏らした後、シンジの声はしなくなった。
 受話器の向こうの音が聞こえなくなってしまい、トウジは少なからず慌てた。
 まさか泣き出したりはしないだろうが、落ち込んでしまったのではないだろうか。
 気分の上下の幅が大きいのは思春期の中学生にはありがちだが、この友人については上方面の気分はあまり上がることを見ていない。
 その逆に下方面への動きは素早く、そして深い。
 2年生になって親しい人間がクラスにいないとがっかりしていたシンジがその後なかなか復旧しなかったのは記憶に新しい。
 もっとも3日も経たずに平気な顔をして登校していたのだが、その後もクラス内では特に親しい友人はつくらなかったシンジだった。
 それほど人付き合いに関しては障壁の高いシンジに親友として見られているということは、自分もケンスケもなかなかの男ではないのだろうかとトウジは自負している。

「センセ?だって、何やねん。はっきり言うてみ。事と次第によっては考えてやってもええんやで」

「本当?よかったぁ、やっぱりトウジだよ」

 まだ考えると言っただけではないかとトウジは苦笑した。
 しかしシンジのほっとした笑顔が目に浮かんでくると、こいつはいけない、彼のペースには待ってしまうと思いながらも仕方ないなぁという気になってくる。
 それが碇シンジの強みだとトウジたちは知っていた。
 放っておけないという気持ちになってしまうのがこの世の全員であれば、碇シンジは彼の王国を築き上げることができるのであるが幸か不幸かそれはある特定の波長を持った者に限られるようだ。
 
「そやから理由を言うてみ?だって、の後は何やねん」

「う、うん。一人じゃ心細いっていうか、つまり、無様なところを見せてしまわないかって気になって…」

「ん?誰にやねん…って、ああ、そういうことか」

 見かけよりも繊細なトウジは察しがついた。
 友人3人の中ではシンジが惣流アスカに恋をしていることはもはや常識である。
 彼女がビートルズのファンであることもシンジの口から聞いていた。
 なるほど恋する彼女と同じ同好会に入ればその距離も縮まるだろうが、付け焼刃の知識でそのようなつわものたちの中にはおいそれと飛び込んではいけない。
 そういうことで付き添いの人間がほしいということか。
 まるで女子みたいやの!とトウジは思った。
 だが…。
 悪くはないのではないかと彼は思いなおした。
 美人度校内一二だと噂の金髪美少女にはそれほどの興味はない。
 もちろん彼とても思春期真っ盛りの男子であるからには彼女が水着になったりヌードなんてことになれば話は別であろうが、それならば彼の趣味的には葛城先輩の方がそそられる。
 いや、そういう問題ではなく、その惣流アスカには親友と呼ばれる女子がいる。
 その女子がトウジがずっと思いを寄せている洞木ヒカリなのだ。
 2年生になってクラスが離れてしまったので会話を交わすことすらままならないのである。
 まさか唯我独尊で自信満々という噂の惣流アスカが付き添いつきで同好会に現れるわけはないだろうが、もしかすると彼女の口からヒカリへと自分のことが伝わるかもしれない。
 自分にも友人のために力を尽くすことがあるのだという美談が話の中に出てくれば結構なことではないか。
 
「よぉし!わかった。ほな、センセとの友情のためや。付き添いの1回や2回骨おったるわ」

「本当?」

「ああ、嘘でも冗談でもないで。あ、その代わり、ビートルズの基礎知識を教えたってんか。さすがに誰がどれやとか知らんのは拙いやろ」

「そう?興味があるからでもいいんじゃないの?」

「アホか。あの青葉やろ?アイツ、ひやかしやったら帰れみたいなことわしには絶対に言うで」

「そうかなぁ」

「まあええから、明日にでも教えてんか」

 トウジはその甘い目論見のためにシンジの話に乗った。
 そもそもこういう場合の甘い目論見というものは悲惨な末路を辿ることが多い。
 ところが今回については運命の神様は彼に微笑んだのである。



 その3日後のことである。
 放課後の集合時間5分前になってもなおアスカはヒカリに懇願していた。
 6時間目に入るまでは自信満々で集合場所の2年5組の教室に一人で向かうつもりだったアスカである。
 しかし退屈な英語の授業を受けているうちにどんどん不安になってきたのであった。
 もし彼にビートルズの知識が付け焼刃だと知られたらどうしようか。
 いやそれよりも彼の前で普通に喋ることができないのではないか。
 そもそも喋るどころか普通に振舞うことができるのか?
 マイナスに考え出すと止まらないのは人の常であろう。
 どんどん不安になってきたアスカは終礼が終わるとヒカリの袖をしっかりと掴んだのである。
 一生のお願いだから一緒にビートルズ同好会に入ってほしいという親友の頼みにヒカリは全力で首を横に振った。
 洋楽には興味がない上に自分は委員会などで忙しい。
 絶対に嫌だと拒否するものの、掴んだものは絶対に離さないと自覚があるアスカが相手である。
 それにアスカは目的を果たすためにはあらゆる手段を考えるという、ある意味では物凄く困った性格をしていた。
 むんずとばかりに彼女の左手を掴み半ば引きずるように廊下を移動させてきたアスカだが、彼女にとって幸運、ヒカリにとって不運だったのは、今日の放課後には委員会等の行事がなくヒカリが逃げ出すことができなかったのだ。
 だが、これも結果的にヒカリは運が良かったのである。
 5組の教室の扉近くで小さな声で「お願い」を繰り返すアスカに対して、ヒカリは心を鬼にして断るべきだと決意していた。
 その瞬間である。

「おっ、なんや、いいんちょも入るんか?」

 そのお声は鈴原トウジ君!
 脳内言語では実に丁寧且つハートマークまでつきそうな口調であった。
 しかし、現実に出てきたのは素っ気無さが多分に混じった言葉である。
 振り返ったヒカリはシンジを従えるように立っているトウジの姿を確認した。

「鈴原!まさか、鈴原がビートルズ同好会に入るんじゃないでしょうね」

「はぁ?悪いんか?まあ、深くは知らんけど、ちょっとくらいはええ曲歌っとるみたいやしな。別にセンセなみの知識がなかったらあかんってわけやないしな。はっはっは」

 渡りに船とはこのことだ。
 アスカ、ありがとうと心の中で呟いて、ヒカリは毒を放った。

「ふぅ〜ん、鈴原にビートルズなんて…」

 似合わないとかおかしいなどという言葉は流石に口にはできない。
 ぎりぎりのラインで踏みとどまることができるところはしっかり者の面目躍如たるところだろう。

「お願いだから煩くしないでね。私たちの邪魔にならないように。ほら、アスカ、鈴原なんかに構ってないでさっさと中に入りましょう」

 ヒカリはアスカの手を引っ張って教室の中へ入った。
 そう、いつの間にかヒカリの方がアスカの手を掴んでいたのである。
 何故かというと、彼女は思いもかけない距離で好きな男子に出くわしてしまったので軽い凍結状態に入ってしまっていたからだ。
 もっとも心の中では思考はフル回転でまわっていた。
 
 わっわっわっわっ!ど、ど、ど、ど、ど、どうしよっ!わわわわわわわっ!どどどどどどっ!

 いや、高速回転しているとはいっても、“わ”と“ど”がぐるぐる回っているだけのこと。
 別に“和”と“独”をひっかけているわけでもない。
 驚きのあまり、アスカはじっと彼を見つめていたが、その視線に愛情がこもっているなど、本人以外にわかるはずもない。
 現実にシンジは睨みつけられたと思い込んでしまった。
 彼にとっても図書室での初めての出逢いの時に逃げ出したということで絶対に彼女から嫌われていると考えていたのだ。

 あああああああ……、やっぱりだ……、すごく怒ってる……、あああああああ……。

 目つきが悪いということについてはヒカリが何度も注意しているのだが、なかなか改まらない。
 しかもアスカの場合の目つきというのは目だけではなく全体の態度も合わさってのイメージだから改善が難しいのだ。
 偉そうな態度というのはアスカの身体から簡単には出て行ってくれない。
 アメリカでもドイツでも白人としては小柄な彼女は見くびられないために胸を張ったり顎を上げたりするというような身体の動きが見に染み付いてしまっていた。
 そして、彼女にとってかわいそうなことに、碇シンジは幼児の頃からそういう態度の人間には非常に弱かったのである。
 いや、人間だけではない。
 小さな犬でもこいつ(シンジ)には勝てると思われれば吼えつけられ追いかけられるという行為を受けていたのがシンジだった。
 したがって公式における2回目の対面もまた、二人にとってはロマンスの花など咲く気配など微塵もない。
 ましてや、アスカは照れてしまったヒカリに教室の中へと強制連行されてしまった。
 廊下に残された男子二人は両極端の心理状態に陥っていた。
 想いをかけている女子と同じ同好会に入ることができる模様でナチュラルハイのトウジ。
 それにひきかえ、シンジの方は泥沼の底に自分から潜り込みかねないほど後悔していた。
 最初の出逢いの時に逃げ出すんじゃなかった、ということだけが頭の中でぐるぐる回っている。
 そして彼もまた友人に腕を掴まれて教室の中に引きずり込まれた。

「おっと、けっこうおるんやな。おっ、センセ、ここに座ろか」

「えっ!」

 泥沼の中のオアシスか。
 トウジが彼を押しやった席の隣には赤みがかった金髪の少女が座っていた。
 しかしオアシスに住むという妖精さんはこれでもかというくらいに彼とは反対側に身体を捻じ曲げた。
 
「ひ、ヒカリ?あんたピアノ弾けるのよね。楽器が弾けるなんて凄いわねっ」

 アスカの意図はよくわかっている。
 チェロを弾くシンジを間接的に褒め称えようというものだ。
 だが残念ながら、その言葉に食いついたのはシンジではなく、別の人間だった。
 彼はアスカが身体ごと自分から目を逸らしたように感じた方にインパクトを感じてしまっていたからだ。
 だからアスカのせっかくの台詞も額面通りにしか受け取ることができなかった。
 洞木ヒカリさんはピアノを上手に弾くことができるという情報だけを受け取ったのだ。
 そしてその情報はシンジの隣の机の上に座ったトウジにも伝わり、そしてそのトウジを注意しようと頭をごつんと叩いた青葉先生にも伝わってしまった。

「ほう、洞木はピアノを弾くのか。そうか、ピアノをな、うん、それはいいぞ」

 この時、彼が何を考えたのか生徒たちには知る由もない。
 青葉先生はトウジに椅子に座れと促し、教壇へと向かった。

「よし、よく集まったな。おお、けっこう来てくれたじゃないか。感心感心……えっ、伊吹先生?」

 驚く青葉先生の視線を追うと、教室の前の扉のところに伊吹マヤ先生が憮然とした表情で立っていた。
 伊吹先生も参加するのかと特に男子が喜色を浮かべたが、彼女の言葉は辛辣なものだった。

「言ってきますけど、私はこんな同好会には参加しません。監視に来たんです」

「大丈夫ですって。変な集まりにはしませんから。みなさん、ロックに偏見があるから…」

「だから、監視に来たんですって言ってるでしょう」

 ここでも歯車がかみ合っていない。
 ビートルズ同好会の設立を教頭に申し出た青葉先生は不良の集まりにしないことや周りの迷惑にならないようにするなどという注意を受けたが、それは別に彼の行動を妨げるものではない。
 ただその情報を耳にした伊吹先生が横から口を出してきて、話がややこしくなってしまったのは否めない。
 異性への好意を自覚していない者が本能的にその異性の近くに擦り寄っていくという場合、たいていはからかったり苛めたり反対する立場に立ってしまうのは何故だろうか。
 ともあれ、伊吹マヤ先生は今日もまた青葉先生を執拗に追いかけていた。
 ちなみに彼女のその行動を恋愛的なものであると認識しているのは教師仲間のおじさんおばさんだけで、生徒たちからは表面上の言動を素直に受け取られて、二人の先生は性格が合わないんだと思われていた。
 そして人生経験の浅い青葉先生もまた生徒たちと同じ感覚を持っている。
 しかしながら彼の恋物語の場合は、伊吹先生にその感情を認識させればすべてがスムーズに動くことは間違いないので、アスカとシンジのケースとは大きく違う。
 この二人の場合は、まずはまともに会話をするところからはじめないといけないのだ。

「なんや、青葉センセ。この同好会は看守つきですか?」

 トウジのおどけた発言に生徒たちのほとんどが笑った。
 笑っていないのは、これからどうしようかと思いつめているアスカとシンジ、そして当の伊吹先生だけだ。
 
「鈴原君、冗談じゃないわよ。みんなのことは信用してるけど、この先生はどうも、ね」

「おいおい、勘弁してくださいよ」

 伊吹先生は青葉先生をじろりと一瞥してから一番後ろの席に座った。
 大きく溜息を吐いた青葉先生はこれくらいでめげてなるものかとことさらに明るく声を張り上げた。

「よしっ、とにかくだ。今日、この場所から、第壱中学校のビートルズ同好会を発足する。みんなはその栄えある初期メンバーだ」

 どっとまではいかないまでも、みなそれぞれに手をぱちぱちと叩いた。
 その数は13名。
 内訳は女子が6人に男子が7人だ。
 このうち7人に青葉先生が直接声をかけ、残りの6人はそれぞれトウジやヒカリのように付き添いのような形で参加している。
 先生は3年生から順番に自己紹介をさせていき、それぞれが名前とクラス、そして好きなビートルズメンバーと歌を語った。
 その間、この物語の主役たちは何を話せばいいのか迷いに迷っていた。
 だが、考える時間はそれほどない。
 しかもここには出席番号などないから青葉先生の指名順となっているために、心の準備はそううまくいかなかった。
 青葉先生は日頃の復讐の意味も少しだけ込めて、2年生は真っ先にトウジを指名した。

「ええっと、鈴原トウジです。好きな食べ物はリンゴで、歌は『いえすたでい』でいいですわ」

「ちょっと待て、鈴原。『イエスタデイ』にも言いたいことはあるが、リンゴとは冗談か?」

「いや、今んとこ誰もあの鼻の大きな兄ちゃんの名前言うてへんし、まあ、食べ物っていうんは冗談やけど」

「お前な。冗談でここに来たのか?冷やかしなら…」

 はっはっは、その通りや。
 と、トウジはそう言ってしまいたかった。
 どうも関西人ののりは他の地域では理解してくれない。
 もしシンジの依頼だけでここに来ただけならば、この冗談をもって退場のしるしにしてしまいたかったのだが、ヒカリのいるこの同好会から今はもう出て行く気はない。
 それならばそれでもっときちんと挨拶すればいいものをつい受けを狙ってしまうのはまさしく関西人の性。
 しかし、トウジ以上に慌てたのがシンジだった。
 ここからトウジがいなくなってしまうと非常に困る。
 そう思いつめた彼は暴走した。
 急に立ち上がった彼は、トウジの弁護を始めたのである。

「ご、ごめんなさい。トウジは本当に4人の中ならドラム…だから、リンゴだって言ってたんです。
ドラムをばしばし叩くのは気持ち良さそうって。
それに『イエスタデイ』はお母さんの好きな歌でだからよく知ってるんですよ。
えっと、だから、別に馬鹿にしているわけじゃなくて…、えっと…」

 燃料が切れた。
 最初の勢いはどんどん減っていき、最後はしどろもどろになってしまった。
 シンジとしてはその段階で立ち上がったことを悔み、そして喋りきれなかったことに失望していた。
 だが、しかし。
 彼の左側わずか50cmのところにいる蒼い目の少女はシンジの発言に胸をときめかしていた。
 友人のために弁護をするなんて素晴らしい。
 痘痕も笑窪。
 ところが、そのような浮ついた気持ちでいるにもかかわらず、横目でしか彼を見ることができないためにその姿はどう見ても「馬鹿らしい」と考えているようにしか周囲の眼には映らない。
 せめて頬杖くらいつかなければいいのにと、その隣に座るヒカリは思った。
 そして、鈴原君のお母さんが好きなのは『イエスタデイ』という重大な情報を心にインプットしたのだった。
 
「わかったわかった。すまんな、鈴原。また、茶化されたのかと思った。では、次は…」

 指名されたシンジはしどろもどろに名前と好きなメンバーと歌は特になく、強いてあげるなら…と前置きしたことにアスカは焦った。
 想定外である。
 好きなメンバーも歌も全部という基本路線で構わないと思っていたのに、その基本のさらにベースになっている当のシンジが実に問題的な発言をしようとしているのだ。
 アスカの横目はさらに険しくなった。
 そして、その視線をちらりと見てしまったシンジはしどろもどろに拍車がかかってしまった。

「あ、あの、1番っていうわけじゃないんですけど、あの…、有名な曲で申し訳ないんですけど…」

 散々気を持たせた挙句に出てきた曲名を聞いてアスカは愕然とした。
 『Let It Be』だってぇ?
 よりによってあの曲をですってぇ?
 『Let It Be』はビートルズの歌の中でもかなりポピュラーなものだ。
 これを好きだといっても誰にも変だとは思われない類の名曲であろう。
 だが、アスカは噛み付きたくなった。
 それは彼女の性格的な問題である。

 話は少しだけ横道にそれる。
 ちょうど今教壇に立っている青葉先生の授業のときだ。
 授業中におなじみの余談コーナーに入った。
 その時、先生がこんな警句を知っているかと生徒たちに尋ねた。
 教室の半分以上が知っていたが、アスカは初耳であり、その喩えを物凄く面白く感じたのである。
 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。鳴かせてみようホトトギス。殺してしまえホトトギス。
 戦国時代の三英雄、家康・秀吉・信長の性格を表したおなじみの警句だ。
 この時、アスカは自分ならばどれだろうかと考えた。
 そして結論が出たのは、最初に信長で結果は秀吉だということだった。
 つまり、かっとなって殺してしまおうかと思うかもしれないが最終的には何とか鳴かせようとするだろうということ。
 もしかすると脅迫してでも鳴かせようとするかもしれないので、少しは信長寄りかもしれないと自覚していたのである。
 つまりここで言いたいのは、アスカが暴力的であるということではなく、自分の力で何とかしようという性格をしているということである。
 もちろん自力では無理なことならば他人を使ってということでも考えるし、とにかく目的のためならば何とかしようと思うのが彼女なのだ。
 だからどうにもならないと自分で壁を感じたときはどうしようもなく落ち込んでしまうのだが、それは現段階ではまだかかわってこない。
 ここで重要なのは彼女の考え方という部分なのだ。
 アスカの辞書には神頼みと言う言葉はない。
 やることはやったので後は運任せというのは許せないのだ。
 天才を自負しているが、その実はとんでもない努力型の秀才であるという事実を知っているのは家族以外ではヒカリだけだろう。
 したがってアスカは「なるようになるだろう」という言葉は大嫌いなのである。
 もっとも『Let It Be』を和訳するとそうなるからという安直なものではない。
 歌詞をすべて聴いた上で、やっぱり「投げたらダメでしょうが!」と思ったわけである。
 それでもやっぱりがんばってみようとか書けないのかとアスカは不満だったのだ。

 ここで碇シンジはどのように思っていたのかを記しておこう。
 結論から言うと、彼は『Let It Be』を日本語訳しろと言われても愛想笑いしかできないだろう。
 前文ではなく題名だけといわれても同様である。
 つまり彼は『Let It Be』というタイトルの意味すらまったく知らなかったのだ。
 
 整理するとこういうことになる。
 日本語、英語、ドイツ語を駆使するアスカはビートルズの曲の歌詞の意味がわかっている。
 もちろんスラングや比喩の類になると意味不明の部分もあるが、一般的な日本の中学生と比べると段違いにわかっていると言い切れる。
 だから彼女はメロディーだけでなく歌詞も含めて、曲の良し悪しの判断材料となっているのだ。
 ところがシンジは歌詞の意味などまったく考えていなかった。
 曲のタイトルすら日本語に訳していなかったのである。
 もちろんそれなりの学力を有している彼だから、『Yesterday』が“昨日”であることは承知しているし、『A Hard Day's Night』を訳すと“ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!”には絶対にならないことくらいはすぐにわかる。
 だが、彼は考えようとしなかったのである。
 面倒とかそういうことではなく、彼は単純にメロディーを重視するタイプだっただけのことだった。
 
 ただし、シンジが『Let It Be』の意味を聞いても“ああ、そうなんだ”という程度の感想しか持たなかったに違いない。
 チェロを弾くことはできるシンジだが、日本語の歌でもそれほど歌詞の内容を深く考える性格ではなかったのだ。
 それにシンジの性格では神頼みをしても仕方ないのじゃないのかなぁという感想を持ちかねない。
 彼ならば、鳴かぬなら鳴かなくてもいいんじゃないかなホトトギスとなるだろう。
 かなり字余り。

 ともあれ、二人にはこんな違いがあったのである。
 二人が親しければ、アスカはあっという間に噛み付いていただろう。
 だが殆ど会話をしたことがない上に、彼は事もあろうに初恋の相手なのだ。
 噛み付けるわけがない。
 まだ痘痕が笑窪に見えているのである。

 その鬱憤は彼女の中に溜まった。

 シンジの後の自己紹介はアスカではなかった。
 3人ほどの生徒が挟まってから、青葉先生は彼女を指名したのだ。
 そのわずかなものではあるが与えられた冷却期間は彼女の攻撃的な熱を冷ましたか?
 もしこれが試験ならば、いいえに丸をつけなければならない。
 立ち上がったアスカは喋りだした。

「2年2組、惣流・アスカ・ラングレー。この中にアタシ以上にビートルズを知っているものはいないわ!
好きなメンバーは全員!好きな曲は全部!『Revolution 9』や『You Know My Name』でも、ふんっ!
『Everybody's Got Something To Hide Except Me And My Monkey』でも何でも来いよ!」

 そこで言葉を切ったアスカは腰に手をやり実に偉そうな態度で教室中を見渡した。

「悪いっ?」

 さてさてこのような挑発的な自己紹介はどのように受け止められたことか。 
 はっきり言えるのは好感を持ったのはただ一人、シンジだけだったという事実だけは先に記しておくことにしよう。
 
 



− 6曲目へ続く −


 


− 『33回転上のふたり』メインページへ −


第5回目のためのあとがき

第5回を掲載いたしました。
う〜ん、やっぱり長い(笑)。

ええっと、ここでひとつだけ明かしておきましょう。
当初の話ではこの回の後半部、つまり同好会発足から始まる予定だったのです。
ということは前4回プラス今回のほとんどは…。

所謂、前振り、ですね(笑)。

まあ、このような長い長い前振りを書くのは私くらいなもので(汗)。
どうしてもここに至るまでの二人を書いておかないと、
この続きが書けないのですよ。
いつもと同じ人々が出演されているといっても、
世界や時間が変わると性格や趣味は少しずつ変わっていないとおかしい。
それを前もって書いておかないと気がすまない…。
つまり、自己満足ってことですか(滝汗)。

因みに最後のアスカの啖呵ですが、
あの長いタイトルの歌はビートルズで一番長い題名になります。
ですので、あれを知っているかどうかということが
どれほどのビートルズファンであるかの試金石でもあったということですね。
今の時代は知りませんけど(笑)。

次回からついに二人が(きちんと)会話をします。


ジュン

 

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