A面 6曲目 2011.2.19 ジュン |
「2年2組、惣流・アスカ・ラングレー。この中にアタシ以上にビートルズを知っているものはいないわ!
好きなメンバーは全員!好きな曲は全部!『Revolution 9』や『You
Know My Name』でも、ふんっ!
『Everybody's Got Something To Hide Except Me And My Monkey』でも何でも来いよ!」
そこで言葉を切ったアスカは腰に手をやり実に偉そうな態度で教室中を見渡した。
「悪いっ?」
その瞬間、はっきり言って教室内の空気が冷えた。
偉そうなこと言いやがってとほとんどの人間が思ったのだ。
親友の洞木ヒカリでさえ、「うわっ」と心の中で感じたくらいだった。
同じことを言うにしても言葉を選べばいいのにとヒカリのみならず先生二人もそう思った。
鈴原トウジについては直接のかかわりが彼女とはないために他の生徒たちと変わらない感想を持った。
そう、偉そうだという悪感情だ。
ただひとり、碇シンジだけが彼らとはまったく異なる思いを抱いていた。
アスカを直視できないので彼女が僅かに視界に入る斜め上をちらちら見ることしかできない彼だったが、その発言に対しては素直に受け止めている。
本当にビートルズのことが好きなんだな。
僕程度の知識じゃ全然駄目だよ。
でも、惣流さんって本当にかっこいいなぁ…。
アスカについては確かに格好いいと思える節もあろう。
ただそれは彼女を信仰する者に対してのみの感想であり、つまり惚れている男子はそう思うだろうがその外の者は黙っていれば可愛いのになぁというのが基本的なアスカの評価である。
そして今現在、発足したばかりのビートルズ同好会では彼女に好意を持っているのは幸か不幸かシンジただ一人だった。
青葉先生が考えていた餌としてのアスカの存在はまだまだ先のことであったのだ。
同好会が活動していく上での宣伝材料というわけである。
さて、発言に満足したアスカは優雅に椅子に腰掛けた。
もっとも優雅というのは彼女の視点であり、現実的にはどすんと椅子を鳴らして座ったに過ぎない。
冷えてしまった教室の空気を和まそうと青葉先生は取って置きの人材に自己紹介を促した。
ここまでやってくれるとは思っていなかったが、アスカが何かしらの言動をとった時の保険としてヒカリを取り置きしていたのだ。
ヒカリは喋り難いなぁと思いながら席を立った。
「2年2組の洞木ヒカリです。惣流さんに誘われてこの同好会に参加することにしました。
と言っても、私は殆どビートルズの事はわからないんです。アスカと足して二人で半分くらいだっていうことにしてください」
そのあたりで数人の女子がくすくすと笑った。
少しだけ空気が和み、その変化を感じたトウジは内心鼻高々である。
さすがはいいんちょや!あんなんとは違うてええ挨拶するわ。
そしてトウジ曰くの“あんなん”もまたどうしてあんな風に喋れるんだろうと羨ましく思っていた。
「これからビートルズのことを覚えていきますのでいろいろと教えてください。
あ、それからピアノが弾けるってアスカが言いましたけど、小学校までしか習ってませんし、ビートルズの曲は1曲も弾いたことがありません。ごめんなさい」
ぺこりと一礼してヒカリは静かに椅子に座った。
期せずしてぱちぱちと拍手が起きる。
トウジも顔を真っ赤にして外見上はつまらなそうな雰囲気を自己主張しながら気のなさそうに見えるような拍手を全力で叩いていた。
「よし、洞木、いいぞ。別にピアノじゃなくてもエレクトーンでもいいんだ。ここにいる間に何曲か簡単なのを弾けるようになったらいいな」
青葉先生はにっこりと笑いながら本音を交えた。
文化祭にバンド出場をするにはギター以外の演奏者が必要なのだ。
その後の自己紹介には何の支障も発生しなかった。
あそこでアスカがやらかしてくれたおかげでみな空気を読めたのかもしれない。
そして青葉先生は1年生の中にギターを弾くことができる男子がいたことに満足な気持ちを隠せないでいた。
「ではこれから週に一度集まってだな…」
楽器の練習といいたいところだがそんなことを言えば伊吹先生が怒り狂うのは間違いないだろう。
弾かない人たちは何をするのですか?と目をまん丸にして突っかかってくるに違いない。
「何をすればいいと思う?」
「先生!」
いずれにしても伊吹先生は機会を窺っていたようだ。
冗談めかしく青葉先生が問いかけたらすぐに席を立って教壇を睨みつけた。
おお、怖ぇ…、でも、可愛いなぁ。
「何をするかも考えずに生徒たちを集めたということですか?非常識というか無責任です」
「いや、俺は生徒の自主性を考えて…。つまり、こっちの考えを押し付けるのはどうかと」
「でも!」
「惣流のようなとんでもない知識を持っているものもいれば、誰かのように全然知らずに入ってくるものもいるんですよ。だから…」
「青葉センセ、それわしのことですか?」
よし、鈴原、ナイスフォローだ。
青葉が期待したとおりにトウジが突っ込んできた。
日頃は授業を妨害する鬱陶しいヤツだと苦々しく思っていたがそんなことは今は棚上げされた。
「そうあ、お前だ。初心者のお前はどうしてほしい?」
「どうって…、レコード聴くとか、歌うとかとちゃいますの?歌うんは勘弁してほしいと思いますけど」
おう!こっちもお前の歌は勘弁してほしいぜ!
そんな言葉を返したかったがぐっと喉の奥に押し込んで、青葉先生は大きく頷いた。
「それだ、レコード…といきたいところだが、ラジカセだな。先生が家からラジカセを持ってきてやる」
すると生徒たちから一斉に非難の声が上がった。
ラジカセではあまりに格好がよくない。
「そりゃあな、ステレオといきたいところだがそんなものは音楽室にしかない。あそこは吹奏楽部が使っているから俺たちには無理なんだ」
先生が家から持ってきてくださいよと3年生から言われると青葉先生は本気で血相を変えた。
「馬鹿言え。今の下宿にはラジカセしかねぇんだ。アパート住まいじゃそれで精一杯なんだ。惣流ところの豪邸じゃあるまいし」
一言多かった。
ステレオなど実家から持ち込めば間違いなく隣近所から騒音の苦情が来る。
泣く泣くラジカセにしてエレキギターもアンプ無しで爪弾いている青葉シゲルなのだ。
4畳半一人暮らしの男の身では最近見たばかりの惣流家の佇まいは羨ましいという気持ちを超えさせていた。
だからつい一言付け加えてしまったのであろう。
それが教師としては配慮を欠いた発言となってしまったのである。
アスカの家系が由緒あるものだと知らなかった3年生の生徒が友人に尋ねたところ、返ってきた言葉に思わず大声を上げた。
「ええっ、あいつの家、城代家老の血筋だってぇ?外人じゃないか」
「混血なんだよ。あいつ」
そのやり取りを聞いて、色々な感情が教室中に満ち溢れた。
アスカは当然むっとなった。
外人という言葉もあまり気持ちのいいものではないが、混血に比べればまだましである。
しかも彼女はドイツでその言葉を蔑称として使われてきたのだ。
だが、その経験があったからこそ彼女は耐えた。
気の短いアスカだったが、耐えなければならないところは我慢するのである。
それに隣に座るヒカリがそっと手を重ねてきた。
ぐっと握った拳の上に掌を優しく置いたのだ。
アスカはヒカリの顔を見て大丈夫とばかりにぎこちなく笑う。
青葉先生はしまったと思い、そして睨みつけてくる伊吹先生の圧力にどうしようかと迷った。
叱りつけるのは簡単だが、もともと自分が水を向けたからこそのやり取りである、
彼が躊躇っているうちに、日頃おとなしい少年が爆発寸前となっていた。
シンジはあきらかに怒っていた。
憧れの人が辱められたような気がしたのだ。
何を言われても怒らないと思われている彼だが、スイッチが入ると相手が誰であろうが関係無しに暴れてしまう。
それはそう長くもない彼の半生で何度も発生してしないが、少なくともオリンピックよりは頻度は高い。
幼稚園で一度、小学校低学年で一度、高学年で二度、そして中一の時にそれは起きた。
その昨年の暴走で彼はトウジとケンスケという親友を手に入れたのだ。
もしこの事件をアスカが知ったならば惚れ直すこと請け合いだが、残念ながらこの事件を知っているのは既に卒業済みの上級生と友人二人だけだから彼女が知る由もない。
中学1年の時の夏休みのことだった。
登校日で学校に出てきたシンジはクラスでの話の流れで午後から市民プールに行くことになった。
男子10人ほどが参加する緊急イベントで誰に誘われたかもわからないほどにばたばたと巻き込まれたかのような感じである。
その頃はまだとりたててトウジやケンスケとは仲がいいわけではなく、どちらかというと一人でぼけっとしていることが多いシンジだった。
そしてプールに赴いた後は男子数人寄れば必ず自然発生するプール内鬼ごっこがあり、みなへとへとになるまで動き回ったあと、強制休憩を挟むと何となく仲のいいグループ単位に分かれた。
そうなると流れに任せるタイプのシンジなので、その流れに乗り損ねるとぽつんと取り残されてしまうことがある。
それがその時だった。
しゃかりきになって泳ぎまくるというアクティブな性格をしていないシンジはしばらくはプールの中を歩いていたが当然すぐに飽きてしまう。
そこでプールサイドなどをひとりぶらぶらと歩くことになった。
その時である。
うどんなどを売っているコーナーの陰で同級生が知らない連中に囲まれているのを見てしまった。
その同級生がケンスケとトウジだったのである。
この時シンジは不穏な空気を感じた。
「せやから今はないって言うとるやないですか」
シンジにとっては奇妙この上ない関西弁を使うトウジの声が聞こえた。
わっ、カツアゲだ。
シンジはお巡りさんか先生はいないかと慌ててまわりを見回したが、平日の昼下がりに彼らがそのような場所で勤務をしているわけがない。
どうしようかと思っていると突然ケンスケが取り囲んでいる者の一人に首を掴まれ、脇に抱えられて締め上げられたのだ。
その瞬間、シンジのスイッチが入った。
二人とは特に仲がいいわけでもなく、どちらかというと苦手な部類に入っている。
しかし、シンジのスイッチはわけが分からない設定になっている。
幼稚園の時は「まっとのきしだたいいんってわるいよな」と言っていたガキ大将に突っかかっていったのだ。
シンジは特にMATの岸田隊員の事が好きでもなかったのだが何故かそんなことはないと反論し、もちろん言葉での応酬が難しい幼児のことだから対立する感情は取っ組み合いへと変化していく。
泣きながら喧嘩をしたシンジはどうしてここまでして自分は岸田隊員の事を庇っているのかと不思議でならなかった。
仲裁した先生もそんな馬鹿なことで喧嘩をするんじゃありませんと言われてシンジはしゅんとなったのだが…。
ともかく彼は自分の事で腹を立てたりするような性分ではなかった。
不思議なことに正義感という類の感情ではない。
何故ならば掃除をサボったりする同級生に文句を言ったり、信号を無視する生徒を悪いとなど思わないのもシンジだったからである。
自分でもどこでどういうスイッチが入って暴走するのかわからなかった。
何度も経験したものではないのでサンプル数があまりに足りない。
いずれにしてもこの時、スイッチオン。
そして、なんとこの時の暴走は文字通りの暴走になってしまったのだ。
やめてください!と飛び込んでいったシンジを羽交い絞めにしたのは驚いたことにトウジだったのである。
「な、なんや、碇やないか。どないしたんや?」
「だ、だって、君たちがか、か、かつあ…」
シンジが説明すると、トウジとケンスケは、いやその場にいたみんなが腹を抱えて笑い出した。
これはカツアゲではなく、単純に商業行為であったのだ。
ケンスケが撮影した葛城ミサトの水着写真を3年生が購入したいと申し出てきた。
しかし、もちろんプールに遊びにきているケンスケに在庫の持ち合わせなどあるわけもない。
そこで営業マンであるトウジがその旨を説明したのがシンジが誤解した発言だった。
そしてケンスケがヘッドロックをされていたのは彼が上級生にからかいの言葉をかけたからで、上級生はそれに怒ったのではなく照れてじゃれたようなものだ。
何をからかったかということについては明記しない。
つまりは用途が問題なわけだった。
しばらくして上級生とは2学期が始まったときに受け渡しをすると取り決めが整い、その場には同じクラスの3人が残された。
唖然としていたシンジだったが、彼らの商売の話を聞いて驚いた。
校内の女生徒の写真を取って販売していると知って、シンジは顔を真っ赤にした。
まさか更衣室に忍び込んだりして?と勘ぐったのだ。
それを察した二人は大笑いして、さすがにそこまでのことはしていないと断言した。
望遠レンズなどで離れた場所から撮影しているだけで、残念ながら着替えなどの写真は全然ない。
「碇も欲しいのか?壱中ナンバー1の売り上げを誇る葛城先輩の水着写真を」
「同級生やから安くしとくで。3枚セットで500円でええわ」
ニヤニヤ笑う二人にシンジはあっけらかんと答えた。
「ありがとう。だけど、いいよ」
「何照れてんねん。ミサト先輩やで!しかもその1枚は水も滴るエエ女丸出しの悩殺もんや。
これ見てどんだけの男子が…まあ、わかるやろ?にっひっひ」
咄嗟にその笑いの意味がわからなかった13歳のシンジは二人に珍獣かと思われた。
そっちの方面に深遠なる興味を抱くのが男子中学生であるとの信念を持つトウジたちはそんなシンジに関心を持った。
何しろほとんど話もしていない関係なのに数人の上級生に立ち向かおうと飛び込んできてくれたのだ。
勘違いで助けに来た理由を訊いてもその返事ははかばかしくない。
自分でもよくわからないのだから、はっきりとした言葉にならないのは当然だろう。
そのふわふわしたような雰囲気の彼と話をしているうちに二人とも面白いヤツだと考えた。
トウジとケンスケはそれからシンジとよく話をするようになったのである。
2学期が始まって二週間も経たないうちに、“碇”は“センセ”と“シンジ”という言葉に置き換えられて呼ばれるようになったのである。
さて、そのような経緯でシンジと親しくなったトウジだけにこの時拙いと思ったのは当然だろう。
また暴走するのではないだろうか。
彼を応援するのはやぶさかではないが、彼の立場ではこの場では拙い。
ここで喧嘩になれば同好会が立ち消えになるか、もしくはシンジとトウジが追放されてしまうかもしれない。
2年生になりクラスが離れて好きな女子との距離が大いに離れてしまったトウジとしてはそれは何が何でも勘弁して欲しい。
ここは消火するしかないのではないか。
消防士になりたいと書いたのは小学校1年生の作文だったか。
水もホースも持たないトウジは自分の言葉で消火しようと起立した。
「青葉センセ?聞きたいことがあるんですけど、ドラムって難しいんですか?」
早口だったが、飄々とした口ぶりはシンジの気持ちを逸らすための発言とは周りの誰にもわからなかった。
単純に突拍子もない質問をしたものだと思われたのだ。
だが、トウジよ、喜びたまえ。
君の行為は一番伝わって欲しい女子にだけはストレートに伝わった。
シンジの暴走についてはわからなくても、トウジの発言のおかげでアスカの怒りの矛先が収まりそうだ。
ヒカリはうっとりとした目でトウジの横顔を見たが、可哀相に彼は青葉先生を見たままだ。
ちらりとでも彼女を見れば瞬く間に天国へと昇ることができたであろうに。
「あん?ドラムか?そりゃあ、まあ、俺はやったことないがな、簡単ではないと思うぞ」
「あ、そうですか。ほな、わしには無理ですわ。あはははは」
よし、これで火は広がるまい。
見事な火消しだとトウジは自画自賛したが、豈図らんや火は鎮まらなかったのである。
それどころか火の粉はトウジ本人に降りかかってきたのだ。
「何を言う。無理なんて事はないぞ。よし、鈴原、お前、ドラムをやれ」
「何やて?」
被っていた猫が少し剥がれた。
意外な展開にトウジは声を上ずらせた。
「アホも休み休み言うてくださいよ。わしがドラムやて?そんなんできるわけないやんか」
「いやいやそんなことはないぞ。お前にならできる」
「できません」
きっぱりと言い切ったトウジだったが、次に放った青葉先生の二の矢が見事に彼を射抜いてしまった。
青葉先生は誰を使うか瞬時に判断した。
伊吹先生に優しく説得してもらうか?
いや、それは無理。
監視に来ている人間にそんな事を頼めるわけがない。
惣流か?
いや、それも無理。
鈴原と惣流は見るからに合いそうもない。
では、碇か?
いや、それが無理。
彼に説得を頼む説明をする方が手間がかかりそうだ。
となると…おお、名案だ、コレは。
「洞木。お前、ピアノが弾けるって言ってたよな。後で鈴原に楽器演奏の心構えというかそういうヤツを教えてやってくれんか?」
青天の霹靂とはこのことか。
ヒカリはアスカの拳に重ねていた手を知らずのうちにぐっと握りしめた。
痛い!と叫びたかったアスカだったが、急転直下の状況に叫びを喉の奥へと押し込んだ。
混血がどうのこうのなどもうどうでもいい。
こっちの方が圧倒的に面白いではないか。
相手のことはよく知らないが、あの関西弁のことを友人は好きなのだ。
これはいいチャンスではないか。
ではこの惣流・アスカ・ラングレーが背中を押してあげよう。
「それは名案ねっ。ヒカリなら適任だわっ。アタシも推薦する!」
「ち、ちょっと、アスカぁ」
恥ずかしいことこの上ないが、棚から牡丹餅であることは重々承知しているのでヒカリの語気は弱い。
しかし、ここで空気を読まない伊吹先生が立ち上がった。
「青葉先生?それはおかしいでしょう」
伊吹先生は腕を組んでじっと青葉先生を睨みつけた。
「どうしてドラムの練習にピアノが手伝わないといけないんですか?」
実にもっともな質問である。
「心構えでしたら先生が教えて差し上げればよろしいんではないでしょうか?ねぇ、碇君、君もそう思うでしょう?」
「えっ?」
どうなることかとドキドキしながらことの推移を見守っていたシンジにいきなり飛び火した。
これが伊吹先生の授業のパターンである。
生徒との対話型といえば聞こえがいいが要するにぼけっとしていると質問などをされるので気が抜けない授業なのだ。
それが癖になってしまっているので、この時もつい目に付いたシンジに声をかけてしまったのである。
授業中ならばともかくこういう場所でいきなり話をふられてきちんとした台詞が咄嗟に出てくる彼ではない。
しかし、シンジは必死に考えた。
それはトウジへの友情のためではない。
無論親友がヒカリのことを好きだと知っていれば全力で応援しただろうが、残念ながらシンジはその秘密を知らない。
ケンスケは感づいているのだがことさらにその話題を持ち出そうとはしないのだ。
自分の恋心を話題にされた場合、シンジと違ってトウジは態度を硬化させるだろうなと思ったからである。
そして強がった上に自分の気持ちに嘘をつくかもしれない。
二人と違い小学校時代に初恋を経験し、既に3人の女子への恋心を諦めてきたケンスケだ。
毎年好きな女の子を見つけてしまうのは自分でもどうかと思うが、それでももしその好きな女の子が自分を受け入れてくれれば絶対にその子しか目に入らなくなるに決まっている。
そうなった経験がないので命を賭ける自信まではないが、友人であるトウジとシンジの気持ちは大体であるがわかっていた。
二人とも馬鹿だ。
トウジは意地を張って失敗するかもしれないし、なかなか告白できないだろう。
シンジは好きな相手にはっきり振られるまではずっと想い続け、失恋すればなかなか立ち直れない。
どちらもやっかいな性格をしている。
この俺のようにさっぱり出来ないものかとケンスケは一人でいるときに苦笑することがあった。
彼は一生誰にも喋らないと自分に誓っている。
シンジから聞き出すずっと前に惣流アスカのことが好きだったということを。
ケンスケはそろそろ玉砕覚悟で告白しようかと思っていた頃にシンジの気持ちを知ったのだ。
その時、彼女への想いが昇華したに違いない。
それ以降、ファインダーの中にいる彼女の姿にトキメキを感じなくなったからだ。
その程度の想いだったのかという嘲りと、そして友人のために諦めたのだという男意気をケンスケはともに感じた。
ただしシンジのためにといっても、自分の告白が受け入れられるとは微塵も思っていない。
いや、もしかすると…と少しは思っていたのも確かだが、要するに自分が彼女のことが好きだということをシンジが知ると問題だとわかっていたからだ。
友人と同じ相手に恋していることを知れば、自分ならば彼女のことをわいわい喋りあって楽しむだろう。
だが、真面目なシンジにはそういう芸当ができないに決まっている。
あいつはそういうヤツだ。
まあ、いつかは告白してふられるか、惣流に男ができてあきらめるかのどちらかになるんだけどな。
それまでは夢を見ていればいい。
見果てぬ夢をな。
ふふふふふ。
押入れを改造した暗室で不気味に笑うケンスケであったが、もし高嶺の花であるアスカがシンジに恋焦がれているという想定外の現実を突きつけられたならば彼とてもこういう友情を保つことができようか。
おそらくは「一発殴らせろ!」とは叫ぶかもしれない。
その時の気分と状況次第ではあろうが。
ともあれ、碇シンジという少年は友人にこのような気持ちにさせるという不思議な雰囲気を持っていた。
優柔不断で情けないという面だけでなく、時に予想外の行動をとる。
この時も伊吹先生が考えていた通りの動きを彼は取らなかったのである。
声も出さずに少し頷くというのが先生の予想だったが、シンジはいきなり椅子から立ち上がった。
そして5秒ほど目を宙に彷徨わせてから唇を開いたのである。
「あ、あの、ぴ、ピアノも、ドラムも、叩くものだから似ているんじゃないでしょうか」
一瞬、教室にいた者は反応できなかった。
アスカでさえ目をぱちくりさせて言葉の意味を考えたくらいである。
冗談として捉えるのが相応しいのだろうが、彼の口からそういう類の文句が出てくるという感覚を誰もが持っていなかったのだ。
だからシンジの言葉は数秒間教室の中をふわふわと浮いた。
そしてその彼としては真面目に発した筈の台詞がみなの頭に着地した時にくすくすと笑いが漏れた。
伊吹先生でさえ苦笑を浮かべたくらいである。
アスカなどは机をバンバン叩いて笑いたいところであるが、恋しい彼にそういう姿を見られてはたまらないと必死に机の端を両手で握り締めた。
あっけにとられていたのは当のシンジだけである。
何しろ本人は冗談を言ったつもりは無かったからだ。
「うまい!座布団2枚ってところだ。まあ、そういうことですよ、伊吹先生」
「でもピアノを叩いてもドラムの練習はできないでしょう?」
反論はしているがその語気は和らいでいる。
伊吹先生はドラムは友人から中古を借り受けてくるからという青葉先生の説明に真面目に練習するんですよとトウジに念押しすることで角を引っ込めた。
ほっとしたのは席についたシンジばかりではない。
ドラマーを養成する必要がある青葉先生は後でヒカリによく練習をさせるようにと言い聞かせておこうと決めた。
2ヶ月にも満たない期間でまともな演奏ができるとは到底思えないが、形だけでもついていればそれでいい。
しかしその程度では済ますものかとトウジは鼻の穴を広げて決意していた。
恋しいヒカリに練習を見てもらうのだからきちんとした演奏ができるようになろう。
そのヒカリもまた恋しいトウジに演奏の心構えを教えねばならぬという状況に心を震わせていた。
何を教えればいいのかまったくわからないがとにかくきちんと教えねば。
そして、この物語の主人公である二人は同じ事を考えていた。
どうにかして友人を利用して大好きな相手と話ができれば!
二人の願望はあっさりと叶えられた。
次の会合が翌週の水曜日放課後と決まり教室から生徒たちが出て行ったあと、残ったのは先生二人と生徒が4人だった。
その生徒が誰であるかなど改めて書く必要もないだろう。
「おい、鈴原。ドラムはできるだけ早く手に入れてやるからな」
「頼んますわ。せやけどわしの家には持ち込めませんで。うちは団地やさかい」
「一戸建てでもあの音は難しいぜ。学校のどこかで練習できるように考えてやるからな」
「青葉先生?安請け合いはしないほうがいいですよ」
「大丈夫。先生に任せろ、な、鈴原」
何が何でもドラムは欲しい。
鈴原の力は未知数だが、ここは彼に賭けるしかない。
練習場所など何とかしてやる…他の先生に頭を下げまくって……。
青葉先生はまだ誰にも漏らしていない文化祭ビートルズ演奏計画のために全力を尽くすつもりだった。
かなり大きな溜息を残して教室を出て行く伊吹先生の背中を追うようにして青葉先生も廊下へと姿を消した。
いろいろなことが起きたが今日は何といい日であろうか。
憧れの惣流さんには嫌われたかもしれないが、こんなに近くにいることができたのだ。
この幸福を噛み締めながら友人と帰ろうと、シンジがトウジに声をかけようとしたその時である。
立ち上がったトウジがぐっと顔を近づけてきた。
その眼差しは異様に輝き、鼻の穴が大きく開いているのが親友ながらにシンジには不気味だった。
シンジはその眼光に敬意を表して5cmほど首を逸らす。
「センセ、わし、いくとこがあるさかいに先帰るわ。ほななっ」
返事も聞かぬまま、トウジは鞄を引っつかむとあっという間に教室を飛び出していった。
取り残されたシンジはその時はまだ気がついていなかったのだ。
この教室に残ったのは三人。
そのうちの一人は熱いまなざしを彼の背中に注いでいることを。
だが、突然声をかけてきたのはその女子ではなく、彼女の友人だった。
「碇君?今から用事ある?」
「はい?」
間の抜けた返事をしながら振り返ると、即座に目に入ったのはアスカの熱いまなざし。
何度も言うようだが、彼女の視線は熱くなればなるほど険しくなってしまう。
したがってシンジは色々な意味でどきんとした。
そして次の瞬間、アスカはふんとばかりにそっぽを向く。
もちろん彼女は恥ずかしがってのことだが、そんな微妙な態度の見極めができるほどシンジは女心のエキスパートではない。
ごく普通に嫌っているにちがいないと感じただけだ。
「どう?暇なら頼みたいことがあるんだ」
「えっ、あ、う、うん。べ、別に用事はないけど…」
頼みごとをしてきたのは恋しい女子の友人だ。
この教室の掃除を一人でしろと言われても即座でOKするつもりになったシンジであった。
因みにこの教室は彼のクラスでもなければヒカリのものでもなく、そして掃除は既に終わっている。
「そっか、じゃ、お願いしようかな。あのね、本屋さんにつきあって欲しいの」
「つきあうっ?」
好きな相手がいる、片思い状態の中学生に対して、“つきあう”という単語は魅惑的過ぎる。
対象物がなんであるかということは棚上げ状態にされてしまい、その動詞だけに思考が向かってしまう。
それはアスカも同じだった。
二人ともヒカリが「惣流さんとつきあって欲しいの」といった爆弾発言をしたものと一瞬誤解したのだ。
シンジの心臓は力石徹にアッパーカットをくらった矢吹ジョーの如く宙に舞い上がり、アスカの心臓は井坂重蔵に叩き切られたかのようにびくんと瞬間動きを止めた。
アスカの連想がいささか年寄り臭いのは祖父と一緒に時代劇を見ているからに相違ない。
幸か不幸か、二人の反応に気がつかなかったヒカリが詳しく説明をしたので、シンジはテンカウントを待たずに立ち上がり、アスカは峰打ちだったのかと我に帰った。
「碇君はチェロを弾けるでしょう?音楽とか楽器なんかの本をたくさん売っている本屋さんって知らないかなって思って」
ヒカリは少し頬を染めながらドラムのことを勉強したいからと付け加えた。
その言葉を聞いて、シンジはやっぱり洞木さんは優しくて頼りになるなと思った。
しかしアスカの方は内心こんなことを思っている。
ふふん!彼のために勉強してポイントを稼ごうっていうのね!ナイスアイディアだわ!
ポイントを稼ぐという面ではシンジも同じである。
洞木ヒカリを本屋に案内するのはかなり恥ずかしいが、それでアスカへのポイントが上がるのではないだろうか。
かなり嫌われているようだから少しでもいいところを見せたい。
本屋の名前を教えるだけでもいいのではないかとは思ったが、案内する方が点数が高いのではないか。
「う、うん。わかった。駅前の方だけどいい?」
「ありがとう!いいよね、アスカ?」
「へっ?」
笑顔で振り向くヒカリはパチッとウィンクをして見せた。
その瞬間、天才を自称するアスカはヒカリの目論見にようやく気がついたのだ。
「あ、あ、アタシもっ?」
「うん。いいわよね。それくらいの時間はあるわよね。今日は同好会があるからっておじいさんに晩御飯をお願いしてきたって言ってたわよね。ついてきてくれるわよね」
喜んで!
そう叫びたいところだが、当然アスカは「まあ、いいけど…」とぼそりと言うことしかできない。
その返事を聞いて、今度のシンジは身体に水素ガスを注入されたような気がした。
あんなに重い怪獣でも空に浮くのだ。
今の自分だったら宇宙まで一瞬で飛んでいけそうだ。
小学生時代に見ていたアニメや特撮の再放送をシンジが連想してしまうのはケンスケの影響かもしれない。
あの多趣味の友人は色々とのめりこんでいるものの対象は変わるが集めてきたものは何であろうが捨てないという性格をしている。
だから彼の部屋はそれは壮絶なもので一日いても飽きないのだが、押入れから漂ってくる写真用の薬品の匂いがシンジとトウジには苦痛である。
もっともそれさえ我慢をすればいいのだから窓を開けられない冬場以外はいたって居心地のいい場所なのだ。
そこでみた漫画や本の影響はかなり強い。
特にシンジは自分であまりそういった類のものを買わないだけ余計に面白がって読んでいたから知らずのうちに影響されていたのだろう。
「あ、忘れてた」
ヒカリは白々しく話題を切り替えた。
そして、シンジを形容するべきものがないくらいの高みに打ち上げたのである。
「紹介するね。あ、自己紹介したから名前は…」
割愛しようとしたヒカリだったが思い直した。
こういう部分を端折ってどうする?
こんな素晴らしい同好会に誘ってくれたのだから、アスカにはお返しをしないといけないではないか。
きっと二人はお似合いのカップルになるはずだから、こういうイベントをしっかりじっくりと消化しないといけない。
ヒカリは微笑みながら、アスカに声をかけた。
「ほら、アスカ。碇君に自分の名前言いなさいよ」
「えっ」
危うく「ぐえっ」という発音になりそうなところを女の子という尊厳をかけて何とか踏みとどまったアスカだが、ヒカリの要求には簡単に応える事ができない。
そんなの無理無理無理ぃっ!
こんなに近くにいるだけでも奇跡みたいなのに話をするなんてとんでもない!
でも話したい!話せない!話したいけど話せない!
「そ、惣流アスカ……よっ、はんっ」
そっぽを向いたままならまだしも、余計な一言、いや鼻息がくっついてしまった。
どうして名前だけで止められなかったか。
自分らしくもなくか細い声で名前をいったのは寧ろいい効果を与えられたのではないかというのに、何故わざわざ「よっ」と大きな声で付け加える必要がある?
その上、あの鼻息。
いつも祖父から窘められていたのはこういう時に出てくるのを防ぐためではないのか?
絶対に下品な女の子だと思われた。
アスカの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!
「あ…っと、ふふ、碇君も…ね?」
「あ、う、うん。い、碇シンジです。7組です。あ…」
名前を言ったついでにわざわざクラス名を付け加える必要がどこにあろうか。
顔を上げずに小さな声で言ったシンジは後悔でさらに顔を伏せた。
絶対に馬鹿な男子だと思われた。
もっともっと嫌われたに違いない。
僕の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。
せっかくの対面での名乗りにもかかわらず、二人とも全然相手の顔を見ることができない。
内気なシンジならばこれは想定内だが、勝気なアスカまでもがこんなになってしまうとはとヒカリは頭を抱えたくなった。
自分もトウジの前に立つと心にもないことを口走ってしまうことなど完全に棚上げした彼女は苦笑して話を進めることにした。
「アスカは私の親友なの。すっごくいい子だから、仲良くしてあげてね」
どきゅんっ!
シンジは大きく目を見開き、頭の中に“仲良く”というフレーズが響き渡った。
「アスカ?碇君はすごく優しいから、何かあったら相談すれば?きっと力になってくれるわよ」
どきゅんっ!
アスカは大きく目を見開き、頭の中に“好きですって相談しちゃ駄目?”という願望が駆け巡った。
そこで見つめ合えるようならば世話はないのだが、二人はまったく相手の顔を見ていない。
シンジは彼女の立つすぐ傍らの机の上をじっと見つめている。
アスカの方は彼の頭上斜め右80cmほどの空間を凝視していた。
その二人の間に立つヒカリは勘弁してくれとばかりに小さく溜息を吐いた。
面倒見切れない…と放り出してしまうわけにはいかない。
彼女は鞄を持ち直すとことさらに明るい声で二人に「じゃ、行きましょう」と促すのであった。
駅前の本屋は街中で一番大きく、ショッピングセンターの3階にあった。
このショッピングセンターは昭和48年に所謂駅前再開発によってできたものだ。
かつて祖父の元へ遊びに来たときの記憶が残っていたアスカにとって駅前の様相が一変していたことにかなり驚いたのだが、何よりもショッピングセンターの存在には目を見張ったものだ。
幼い頃の思い出がすべて消されてしまったような気がしてちょっぴり哀しくなったのである。
おもちゃ屋さん、本屋さん、ケーキ屋さんにレコード屋さんといった幼児ならではの店ばかりをかすかに記憶していたのだ。
一番最後に来たのは4歳の時、大阪万博に行くついでにこの町にも寄ったのだが、生憎万博の方もほとんど覚えていなかった。
ただ人が多かったことと蚊取り線香の豚に似たガスパビリオンの建物だけしか頭に残っていない。
この街の駅前の様子についてもおおまかな店構えが記憶の輪郭にすぎず、祖父の持つ写真を見てようやくああこういう感じだったと思う程度である。
その店のどれかで祖父か誰かに買ってもらったシールをアスカはずっと大事にしていた。
台紙には5枚のシールがあり、そのどれにもウルトラセブンという名前らしい赤い身体のヒーローがポーズを取っていた。
もともと赤色が大好きなアスカではあったが、いつもの彼女ならばあっという間に使ってしまうところを一枚ずつ大切に貼ったのはよほど気に入ったのだろうと両親は陰で話していたほどだ。
まずアスカは最初の一枚を色鉛筆のケースに貼った。
そして二枚目をペンシルケースに使い、さらに買い換えた新しいケースに三枚目を使った。
横浜に来た時、四枚目を貼った日本で購入した筆箱を同級生に見られ大笑いされてしまい、そのキャラクターが怪獣モノと呼ばれる子供向け番組の主人公だということをアスカは初めて知ったのだ。
プライドの高い彼女としては笑われたことに腹が立ち、その筆箱に5枚目が残ったままのシール台紙を挟んで机の奥へと放り込んだのである。
だから今使っているペンケースには当然シールは貼られていない。
もちろんそのケースは布製だから貼ること自体が無理なのだが、真っ赤な色をしているのはやはり彼女のラッキーカラーがその色だからだ。
因みにウルトラセブンが日本では有名な特撮番組のヒーローと知って、その後継シリーズである『ウルトラマン80』を見てみたアスカではあったが碇家の長女とは違い子供っぽいとすぐに見るのをやめてしまっていた。
ともあれ、そのお気に入りだったシールを駅前の商店街で入手していたことは確からしいので、ショッピングセンターへと様変わりした光景に哀愁を覚えたわけである。
しかしながらそこは若いアスカだ。
すぐにそういう感傷は忘れてしまっていた。
ヒカリともそこに遊びに行くこともあり、何より街一番大きな本屋というものは魅力だった。
ビートルズのファンになろうと決意してからその本屋に行って関連書籍を買おうかと思っていたのだが、その機会がなかなかなかったのである。
何しろあれ以来の時間は信じられないくらいに早足で訪れてきていた。
夏前から恋焦がれてきていたというのに、ビートルズの話が出てきてからのこの展開はどういうことだろうか。
まさしくとんとん拍子である。
正式に紹介しあっただけでなく、今こうして一緒にショッピングへと向かっているのだ。
アスカは音楽の神様に感謝していた。
ただし、神様への感謝をいくらしても結局は自分の言動をコントロールするのは自分自身だ。
その点、アスカは自分をコントロールするのが苦手だった。
考えて行動しないといけないときには本能的に動いてしまう。
素直に動けばいいときには逆に考え込んでしまう。
それが毎度のことではなく、肝心の時に限ってそうなるのだからたまらない。
肝心の時、つまり今である。
アスカはへの字に口を結んだまま歩いていた。
隣を歩くヒカリが何か話しかけても頷くだけで言葉が出てこない。
その様子を見て友人がどのような状態にあるのかヒカリには痛いほどにわかった。
もし自分がこういう状況ならば普通の心理状態でいられる自信はない。
しかし、アスカには申し訳ないがヒカリはやっぱり笑いを堪えずにはいられなかった。
それほどにアスカの仏頂面が面白かったのだ。
誰がどう見ても不機嫌この上ないものだと思うことだろう。
ところが彼女の心の中はパラダイスなのだ。
もし彼女以外の人間が周囲にいなければ思い切り相好を崩しているに違いない。
それがわかるだけに意識して顔を引き締めているのだろうがそれにしても人相が悪すぎる。
前を歩くシンジには背中に目がないのだから、愛しの彼を見つめるのにこんなに目つきを悪くする必要はなかろう。
それなのにアスカは眉間に皺を寄せているかのように険しい目で彼の背中を見つめているのだ。
だからこそヒカリは笑い出そうとする自分を必死に抑えながら平静を装い友人に話しかける。
「帰りはアスカが一番早く家に着くよね」
「うん」
「駅からは15分くらいだっけ、ね?」
「うん」
全然ヒカリの問いかけの内容は頭に入っていない。
ただ鸚鵡返しに「うん」を返しているだけだ。
それがわかっているにもかかわらず、ヒカリは言葉をアスカに投げかける。
そうしないと前を歩くシンジがふりかえるかもしれないと思ったからだ。
後ろを歩く女子が無言ならば当然気になるだろう。
するとちらりとでも後を見たいと思うのが自然である。
もし彼がそうしたならばもちろん自分を睨みつけているアスカの目と正面衝突してしまう。
その結果を考えるとヒカリはぞっとする。
シンジは間違いなくアスカのことを悪く思うか、少なくとも自分が何か拙いことをしたのだと考えてしまうだろう。
中学1年生の時に一年同じ教室にいた上、愛しの鈴原君の友人である彼のことはそれなりに見てきたヒカリだ。
おそらくそういうことになるだろうと予想がつくからこそ、こうやって張り合いのない会話もどきを続けているのである。
実に友人思いの強い少女だろうか。
もっともその気持ちを推し進めている原動力はこの幸運を呼んでくれた友人への感謝の思いというわけなのだが、いずれにしてもヒカリがいい子であることは間違いない。
さて、友人にそれほどの努力を課してるとはまったく気がついていないアスカは少なからずパニック状態となっていた。
考えがまとまらないのである。
何しろあれほど姿を追い求めていた彼の背中がすぐ目の前にあるのだ。
これほどの幸運はとんと予想もしていなかった。
同好会が催されている間、同じ空間にいられることだけでも機能までに比べて大いなる前進だというのに、なんと学校を出た後も1m以内にずっと彼は存在しているのである。
今日の目標は“見る”ことだけだったのに、これならば“お喋りする”ことも可能なのではないか。
しかしこのチャンスを生かすことが自分にできるだろうか。
この2時間ばかり、巧く立ち回ることなどまったくできていないのは自覚している。
きっとヒカリに注意されている目つきの悪さも全開しているに違いない。
アスカはシンジの背中を凝視しながら、恋する乙女モードを展開していた。
お喋り?
何を喋ればいいのよ?
好きです!
そんなこと言えるわけないじゃない!
言って拒否されたら破滅よ、破滅!
絶対にアタシみたいな乱暴な女の子は嫌いに決まってるわ。
でもでも、アタシだって本当は乱暴なだけじゃないんだから。
例えばうららかな陽射しの公園のベンチでさ、彼に膝枕してもらったりなんかしたら、アタシ、きっと天にも昇る気持ちでうとうと眠っちゃうわよ。
あ、アタシが膝枕しないといけないのよね。
うん、いいわよ、全然OK!彼なら膝枕してあげる!
ついでに耳掃除をしてあげてもいいわ。
日本の耳かきって気持ちいいもんね。
あ、でも人の耳ってしたことないし…。
今度おじいちゃんで練習しよっかな。
そうそう、練習っていえば、お弁当の方は自信あるもんね。
毎日自分の作ってるんだし、おいいちゃんもおいしいって言ってくれてるもん。
あ、でも好き嫌いあるのかな?
そうよね、初めて作ったお弁当に嫌いなものが入っていたら最低よ。
そんなことで嫌われちゃかなわないわ!
ということは、好き嫌いを事前にしておかないといけないってことよね。
OK。聞けばいいだけじゃない、そんなこと。
聞けば…。
質問するんだったらお喋りしないといけないわよね。
あ、そっか、アンケートって手もあるか。
でもでも、いきなりアンケートに協力お願いしますって絶対変!
何気なく喋るのが一番よ、うん。
で、喋るってどうやって喋るの?
もちろん日本語よね。
ああ、どうしよ。
やっぱり、呼びかけないといけないわよね、最初は。
碇シンジ君……シンジさん……シンジ様……。
うわっ、駄目駄目駄目!恥ずかしすぎ!
英語だったら“you”で済むのに、日本語は選択肢多すぎよ!
あなた…わわわわわっ、それ早すぎ!
キミ、なんて、アタシ言ったこと一度もないし、お前?
ははは、普通でいいのよ、普通で。
どうせアタシが言ったら、あなたがアンタになっちゃうんだしさ。
あ、でも、ゆっくり喋ったらアタシにだって、あなたって言えるわよ。
多分。
やっぱりアンタなんて呼ばれちゃ彼だって嫌な気持ちになっちゃうわよね。
乱暴で下品な女の子だって絶対に思われちゃうわよ。
ゆっくり、とにかくゆっくり呼びかけりゃいいのよ、うん。
でも、アタシにできるかなぁ。
そもそも私って言ってるつもりなのにアタシって聞こえてるみたいだし。
……あ〜あ、これじゃ絶対にとんでもない呼びかけしちゃうわよ、アタシは。
そういう自信だったら100%あるわ!
「アスカ?」
「へ?」
アスカが「うん」以外の返事をしたのはヒカリに手を掴まれたからである。
我に返って周りを見渡すとなんともうショッピングセンターの中、しかも書店のある3階にいた。
どこをどう歩いてきたのか全然記憶にない。
覚えていたのは彼の背中だけで、一定間隔の距離をあけて歩いていったので、横断歩道も自動扉もエスカレーターも躓くことなく認識無しにこなしてきていたのである。
ヒカリは苦笑しながらアスカをトイレに誘った。
二人が手洗いの方に向かうのをシンジは俯きながらも目で追っている。
そして彼女たちの姿が視界から消えると、彼は大きな溜息を吐き肩の力を抜いた。
物凄く神経を使って歩いてきたのであるから仕方がないだろう。
歩くスピードはこれでいいだろうか。
背中に何か変なものはついていないだろうか。
ズボンのお尻が破けてないだろうか。
手と足が一緒に出ていないだろうか。
そんな事を気にしながらも、シンジは二人は何を喋っているのだろうかと耳を澄ませていた。
ところが聞こえてくるのはヒカリの言葉ばかりで、肝心のアスカの方は「うん」というまるで唸り声のような返事だけである。
これはかなり機嫌が悪そうだとシンジは泣きたくなった。
信号を待っていた時に車の窓の反射でちらりと見えた彼女は彼のほうをじろりと睨みつけていたから尚更である。
どうすれば睨まれずに済むのだろうか。
やっぱり初対面の時にあんな変な態度を取ったのが駄目なんだ。
後悔をすることにかけては人には負けない自信のあるシンジである。
壁に背中を預けて、再び大きな溜息を漏らすのであった。
アスカとヒカリはトイレの手洗い場の前で話をしていた。
せっかくのチャンスなのに何をしているのかとヒカリに追及されていたのである。
「だ、だってさ、こっち向いてくんないんだもん」
「馬鹿ね、向いてたらそこにあるのはアスカの鬼のような形相よ。そっちの方が拙いでしょう」
「アタシ、そんな顔してないもん。鬼なんて失礼よ」
「よく言うわよ。ほら鏡見てみなさいよ」
「ふふん、アタシきれい?」
「はいはい。鏡の中に碇君が背中を向けて立っているって思いなさいよ」
「はは、そんなの考えたって別に……げっ」
鏡の中から物凄い目つきで睨みつけてきているのは紛れもなく自分自身。
先ほどのような普通のものではないことは明らかである。
彼を必死に見つめているということが睨みつけていることに相当するとようやく確認できたアスカであった。
「前から言ってるでしょ。アスカ、目つき悪い」
「ぐふぅ、おじいちゃんにも言われてる」
「だったら直す。嫌われちゃうわよ」
「やだ」
「直すのが?」
「嫌われるの」
「じゃ、直す」
ヒカリに諭されてアスカもそうしないといけないとは思ってはいるのだがどうにも自信がもてない。
そもそも惚れた男にいい印象を与えないといけないことは百も承知なのだ。
「がんばってみる」
ようやくその言葉を出してみたアスカだったが、その弱々しい口ぶりにヒカリも簡単には直らないだろうなぁと心の中で思った。
しかしそう言ってしまうとせっかくの決心にケチをつけることになるので言葉の上では励ますにとどめた。
「うん、がんばろうね。ほら、そろそろ行かないと碇君が困ってるわよ」
「ヒカリの意地悪」
鏡の前から動こうとはしないアスカは唇を尖らせて呟いた。
「何が?」
「名前。簡単に口にしてる」
「仕方ないじゃない。だって私にとっては碇君はただの男子だもん」
「アタシだって名前で呼びたい」
「一人のときは呼んでるんでしょう。言えばいいじゃない」
「言えないもん」
「名前でなくて苗字ですれば?私だって名前でなんて呼べっこないわよ」
トウジという名前で彼を呼ぶことができるならばどんなに幸福だろうか。
ヒカリもまたひとりぼっちの部屋でそっと彼の名前を呟く時があった。
恋する乙女の一人であるアスカもまた絶対に同じことをしているに決まっている。
そのような彼女の読みは大当たり。
アスカは唇を尖らすと思い悩みながら蛇口のところを指先でツンツンとつついた。
「無理よぉ、そんなの絶対無理」
「上手く話を持っていってあげるから。ね?せっかくのチャンスでしょう」
「うっ、うん。そりゃあ、チャンスよねぇ。うん、チャンスだわ」
確かにヒカリの言うとおりである。
このようなチャンスを見過ごすことはできないではないか。
言葉をかわすこともこれからできるようになるかもしれない。
それは彼との距離が急接近している今、その状態を維持若しくはさらに縮めることを考えねばならない。
そのために有効な手段は名前で呼び合うことではないのか?
アスカ、シンジとはいささか気が早すぎるにしても、惣流さん、碇君と苗字を呼び合うだけで昨日までとは大違いだ。
今を逃すと次にチャンスが巡ってきそうなのはまた来週になる。
しかも次の同好会でこんな絶好の機会があるとは限らない。
となれば、今だ、今しかない。
もしかすると天が与えてくれた、またとないタイミングかもしれないのだ。
数秒で悩みを自己完結したアスカは心の中で「チャ〜ンス」と呟いた。
「アスカ?その顔、酷いわよ。物凄く悪い顔」
呆れた口調のヒカリの言葉に促されるように鏡の中の自分の顔をアスカはあらためて眺める。
なるほどこれは酷い。
目つきが悪いだけでなく、醜悪に広がった唇はどうだろうか。
これでは美少女などとはとても言えまい。
それどころか…。
「がまがえる…」
「うん、ぴったり」
「あぁん、ヒカリぃ、そこは違うって言ってよぉ」
鏡に映っていたがまがえるフェイスはあっという間に崩れて、そこに見えるのはがっくりとした少女の顔。
「ごめん。でもあんまりぴったりだったから」
「ぐふぅ」
アスカが肩を落としたとき、買物袋を持ったおばさんが入ってきて手洗いの前に陣取っている制服姿の二人を一瞥した。
トイレには誰もいなかったのをいいことに長時間の作戦会議をしていた二人はなんとなく軽くお辞儀をしてそそくさとトイレから出て行く。
「いい、アスカ?最初は私からうまく話をもっていくからいきなり変なこと喋ったりしたらだめよ」
アスカの肩に手を置いたヒカリは親友を落ち着かせようとことさらにゆっくり言葉を発した。
「それからね、碇君ってああいう感じで自分からてきぱき行動しないから、アスカが会話を引っ張っていくのよ。まあ、アスカが引っ張られるってことはないだろうけどね」
鼻の穴を膨らませてアスカは大きく息を吸った。
変なことを喋らず、自分から会話をリードする。
簡単なことではないか。
そうだ、簡単なことなのだから自分にはできる。
自分なら何でもできる、できるのだ。
自己催眠にかける様にアスカは心の中で言い聞かせた。
ただし、緊張のあまりか何かひとつ聞き漏らしていたことがあったようだ。
そのことにアスカは気がつかず、もちろんヒカリにもそれがわかるわけがない。
「うん、がんばってみる。アリガトね」
「どういたしまして。私だって今日は凄くいい日になったんだからね」
にっこり微笑む友人に力づけられて、アスカはぎこちなくはあったが大きく頷いた。
女子のトイレタイムを計測したことなど一度もなかったので、シンジには彼女たちが姿を消してからの時間が妥当なものかどうかはわからない。
しかし彼にとってこの待ち時間は相当堪えた。
恋しい彼女が戻ってきた後に自分はどうすればいいのか、どういう行動をとれば好感度が上がるのだろうかと考えたのだがまったく方針はまとまらない。
それどころか彼の心の中はいつものように後悔の繰り返しに戻ってしまう。
どうして図書室であんな行動をとってしまったのか。
あそこで逃げ出したりせずに普通に話をしていたら…。
いや、いっそのことこういう風に言ったらどうだっただろうか。
今、僕は『And I Love Her』を弾いていたんだよ。君はビートルズが好きかい?
シンジは力なく笑った。
はは、こんな気障な台詞をこの情けない僕に吐けるわけがない。
でも、もしその時に彼女がビートルズを好きだということさえわかっていれば…。
ダメだよ、わかってても僕に何ができるっていうんだよ。
だが少なくとも逃げ出すことはなかったのではないか。
違うってば、ビートルズを好きかどうかじゃなくて、単純にびっくりしたから逃げ出したわけで…。
こういう後悔ばかりを自己問答していては先に進むわけがない。
堂々巡りの彼が立っていたのはトイレの前ではなく、そこから20mも離れた場所にある大きなポスターの前である。
トイレへの通路は遮るものがなく見通せるので二人とはぐれることはまずないのだが、それにしてもどうしてこんなに距離を開けてしまったのか。
それが碇シンジの碇シンジたる所以である。
まずシンジはトイレの通路の真横に立った。
しかし、そこで彼は考えた。
こんなにすぐ近くで待っているのはあまりに品がないのではないだろうか。
そう考えてしまったことは責められない。
恋する少年としては嫌われたくないと気を廻すのが自然だ。
女子トイレのすぐ近くで待っているなどエッチでスケベで変態と思われてしまうのではないかとシンジは考え3mほど移動した。
逆側は従業員以外立ち入り禁止の看板がかかる扉があるだけなので、彼が移動できるのはいきおい店頭方向となる。
ところがそこにはちょうど階段があったので、ぼけっと立っているシンジには軽く目で追う店員たちが気になって仕方がない。
そこで彼はさらに店側に3m進んだ。
ほっと一息ついたシンジだったが、彼はすぐにまた移動する。
そこは喫煙スペースになっていたので、煙草の苦手なシンジはその臭いを避けたのだ。
動いた先は飲料の自動販売機が並んでいたのだが、小心者の彼はその文字通りの休憩スペースに留まることができない。
缶ジュースを買わないのにそこに立っていることができなかったのだ。
そしてまた数歩、考え込みながら移動するとそこはもうショッピングゾーンになっていた。
ただし片側は壁面なのでシンジはその壁面に背を預けて立ち、ほっと溜息をつく。
だがそこもまた彼の安息の地ではない。
ふと目を上げると通路を挟んだ店の奥、そこのカウンターの向こうに立っている中年のおばさんに睨まれた。
そこで売られているのは和装履物でしかも小さな構えの店には客が誰一人いない。
暇だからこそ余計に明らかに客層とは異なる中学生の男子が目障りだったのかどうか。
ともかく商売の邪魔だと言われているような気がしたシンジはおばさんに敬意を表して目を俯かせ蟹のように横歩きで壁伝いに移動した。
しかしその隣の店もまた暇を持て余したようで、カウンターに頬杖をついているおじいさんにしんねりとした目線を送られ少年は再び蟹へと化す。
和装履物店、仏具店に続くは、呉服店だったがここは店構えが大きくさらにシンジにとっては運がいいことに来客がいて店員はその相手をしている。
今度こそ安息の地を得たのだとばかりに彼は大きく溜息を漏らして壁面に寄りかかるが、違和感を感じてちらりと背後を見た少年はさっと頬を染め慌てて3mほどさらにトイレから遠ざかった。
壁に貼られていたのはもう秋になるというのに水着姿の女の子がにっこりと微笑む化粧品の宣伝ポスターだったのだ。
ようやくシンジが落ち着けたのはカップうどんのポスターの前で、リュックが当たると笑顔を振りまいているのは山城新伍と川谷拓三である。
やっとのことで居場所を見つけたシンジはじっくりと後悔を繰り返したのだった。
そうして彼は幾度同じ後悔をループさせたことか。
後悔の繰り返しを強制終了させたのはアスカだった。
恋するものの本能、直感というものは時に凄まじく機能する。
いつも機能してくれないのは誰にとっても同じなのだが、この時のシンジにはまさしくナイスタイミングだった。
ちらりとトイレの方を見た瞬間にヒカリとそして一歩遅れてアスカの姿が見えたのだ。
何度もリピートされた後悔は瞬時に霧散し、彼の背中は即座にしゃんと伸びた。
その反応の速さは功を奏した。
何故ならばまるで走ったかのようなスピードでアスカが彼に向かってきたからだ。
シンジは慌てた。
いや、それ以上にヒカリが慌てた。
アスカはいったい何を聞いて何を了解したのだ。
いい空気を作ってからアスカ登場だったではないか。
それなのにまるで猪のようにアスカはずんずんと進んでいく。
待ってと声をかける暇もなかった。
彼がいた場所が思ったよりも離れていたことがまずかったのだ。
どこにいるかとほんの短い時間だが回りを見渡した。
その隙にアスカは恋する乙女の直感、いや猟犬の如き嗅覚か、すかさずシンジがいる場所を特定していたのである。
アスカは親友のアドバイスを実行しようと心に決めていた。
シンジとの距離は約20m。
その移動に費やした数秒間、彼女は心の中で唱え続けた。
自分から先に、そしてフレンドリーに。
場の空気をヒカリが和ませてからという部分はすっぽりと抜け落ちていた。
アスカはあっという間にシンジの前まで突き進むとぴしりと人差し指を彼に突きつけた。
「アンタ、どうしてこんなに離れて待ってんのよっ!」
よし、できた。
やればできる。
ちゃんとヒカリのアドバイスどおりにできたではないか。
自分からフレンドリーに。
「ご、ごめん」
「ふんっ、言い訳なんか聞きたくないわ。ははぁ〜ん、アンタ、どん兵衛が好きなの?」
ふふん!ほら、ちゃぁんとユーモアも盛り込んだわよ。
どぉお、ヒカリ?
振り返って背後にいるはずの親友に誇りたいところだが、如何せん緊張して身体はスムーズに動いてくれない。
もしアスカがちらりとでもヒカリの様子を窺うことができたならば、そこに見えたのは彼女の「やっちゃったぁ…」と溜息いっぱいの表情だっただろう。
しかしアスカには背中に目がないのでその様子を見ることはできない。
因みに目の前にいる彼の表情も確認できない。
何故ならばアスカの視線は彼の顔より斜め45度上を凝視していたからだ。
「ど、どん兵衛は…嫌いじゃないけど…」
「じゃ、何が好きなのよ」
君だよ!と叫べればどれほどいいだろうか。
しかし叫べば、それで自分の人生は終わりである。
こっぴどくふられて、ジ・エンドだ。
シンジは一生懸命に言葉を選んで返事をした。
「えっと、麺類だったら…ワンタンメンかなぁ」
「ワンタンメン?エースコックの?」
「う、うん。卵入れて食べるのが…」
このまま会話に入っていればよかったのだが、舞い上がりきっているアスカには到底無理な話だった。
何しろ今の彼女には大いなる野望があったからだ。
その目的のためにせっかくシンジが発した会話の糸口をアスカはあっさりと放棄してしまったのである。
「そんなのどうだっていいわっ。そんなことよりも、アンタっ!」
そこでアスカは気がついた。
何度かは数えていなかったが、先ほどからシンジのことを“アンタ”と呼んでしまっているではないか。
しかも恐ろしいことにかなり乱暴な口調だったに違いない。
彼女は顔面蒼白となった。
ただし、白人容姿である彼女の場合自己申告してもらわない限り周囲にはそれとはわからない。
ここで言葉もなく固まってしまえば周囲の者も何となく察することもできようが、残念ながらアスカのおつむの回転はかなり早い。
勉学の面ならばそれは歓迎すべきところであるが、今回ばかりはそれがマイナス面に作用した。
失地回復とばかりに話題を展開させようとしたのだが、その展開速度と角度がとてつもなく鋭敏すぎた。
「アタシ、アンタのことなんか…大嫌いなんだからね」
こんな言葉を吐いた瞬間の4人の反応はこうだった。
惣流アスカは、最後の一音を発した瞬間に彼から顔を逸らせ天井を睨みつけた。
アタシの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ぁっ!
洞木ヒカリは、はっと息を飲みそれから壁面のポスターの能天気に笑う山城新伍の顔をぼんやりと見た。
アスカの馬鹿ぁ、どうして正反対のこと言っちゃうのよぉ。
碇シンジは、ひきつった笑みを浮かべたまま目線を床に落とした。
ああ、やっぱり僕のこと嫌いなんだ。でも、大嫌いって…、ああ、やっぱりあの時……。
3人がそれぞれ別々の空間を見つめ活人画の如き様相を呈していたとき、四人目は考えもなしに思ったとおりの言葉を口にしていた。
「アホちゃうか、センセみたいなええヤツなかなかおらんで、見る目ないのぉ」
呪縛が解けた3人は声の方向を見た。
そこに立っているのは書店の紙袋を手にしたトウジである。
彼は袋をぶらぶらさせながら、顎を心持ち上げてアスカに対抗するような目つきでニヤニヤ笑っていた。
もちろん挑まれてそのままで済ませられるようなアスカではない。
それがたとえ恋しい男子の前であろうが、彼女の闘争本能が燃え上がるには瞬きする暇もなかったのである。
「アホ、ですってぇ?このアタシに向かって、アホ?」
「へへっ、発音がちゃうわ。語尾上げんといてくれるか。アホ、や、アホ。わかったんか、アホ」
「今、さ、三回もアホって言ったわねぇっ」
「関西では大事なことは三回言うんが当たり前だのクラッカーや」
「何言ってんのよ、全然わかんないわ。アンタ、馬鹿じゃない?」
「アホ、馬鹿言うな。わしは馬鹿ちゃうわ」
「うっさいわね、いちいちアホアホって。だいたいアンタは…」
言い募ろうとしたアスカは突然ぐっと肩をつかまれてびっくりして首だけで振り返った。
するとすぐ目と鼻の先にはヒカリの顔があり、その真剣な眼差しにアスカは少なからず怯んでしまった。
「アスカ、お願い。喧嘩しないで」
「け、け、喧嘩って、別にアタシは喧嘩なんて…」
「ううん、喧嘩よ。絶対ダメ。お願いだから」
「だって…痛いっ」
肩を掴む指が食い込み小さな悲鳴を上げるが、なんとヒカリは力を緩めようとはしない。
これが恋する乙女の馬鹿力というものか。
ヒカリはアスカの耳元で囁くように喋りだした。
「鈴原君はね、関西人なの。わかる?関西人なのよ。だから、アクセントが違うの。ううん、それだけじゃなくて、言葉の意味も違うの」
「意味?」
「関西ではね、アホは親しみがこもっているらしいの。逆に馬鹿って物凄く酷い言葉になるのよ。だから馬鹿って言っちゃダメ」
うっ、そうなると言いたい。
この無礼な男子に馬鹿を連発したい。
アスカの闘争本能はそんな欲求に苛まれたが、親友の頼みを反故にはできない。
こんな男子のどこがいいのか。
しかしアスカは知っていた。
人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られて死んでしまえと日本では戒められているとか。
数ヶ月前のアスカならば鼻で笑ってしまうような言い回しだが、今ならばよくわかる。
いや、わざわざ馬に代行してもらわなくともアスカ自身が蹴飛ばしてしまいたいくらいだ。
彼女は子供っぽい欲求を押し殺し、大人の対応をしようと心に誓った。
「ふんっ、だったらアンタには馬鹿もアホも言わないことにするわ。確か、鈴木太郎とかいったっけ、アンタ」
「アホか、最初の鈴しか合うとらんわ。ワシは…」
「はっ、外国じゃ正式に紹介されていない人とはお喋りできないの」
「何やてぇ?ほな、今までのは何やったって言うんや」
「ヒカリ?紹介してよ」
振り返ったアスカは素早くウィンクした。
ヒカリはこれでもまだマシな方かと内心苦笑いしながらも一歩前に出る。
「ええっと、3組の鈴原トウジ…君。1年の時、碇君と一緒に私と同じクラスだったの」
意中の人に紹介されて照れない男子がこの世にいようか。
硬派を気取りたいトウジだが、内心のにやけを抑えるのに必死なあまり目はあらぬ方向を見つめてしまっている。
「そ、そういうこっちゃ。隣のクラスにおるさかいに…まあ、関係あらへんか、別に」
「関係あるわけないじゃない」
大声でそう叫びたいところだが、アスカは逆ににんまりと笑った。
「アタシには関係ないけど、これからヒカリに教えてもらうんだから顔を合わすこともあるかもね。ま、よろしく」
「お、おう。いいんちょの友達やさかい、な」
それにセンセが好きな女子やから無礼は許したるわい、とトウジは心の中で呟いた。
そして彼はちらりと友人の様子を窺った。
結構長いやり取りをしていたのにシンジが何の反応もしていなかったからだ。
おそらくは大嫌いと言われたショックで落ち込んでいるのだろうと予想していると、意外にも思ったほどではなかった。
いつもの愛想笑いを微かに浮かべ弱々しい目の光を見せてはいるものの、泣き出したり逃げ出したりしそうな素振りはない。
もっとも自分の乱入がなかったらどうなっていたことかわからないがと、トウジは自分が居合わせたことを誇らしく思った。
「ところでなんでセンセはいいんちょらと一緒におったんや?」
「え、あ、うん。洞木さんがドラムの本を買いたいって…」
「えっ、ドラムの本かいな!」
慌てて持っていたものを後ろ手に隠したトウジだったが、そのような大きな素振りでは鈍感なシンジでさえもそれが何かは察しがつこうというものだ。
「あ、トウジも買いに来たの?ドラムの本」
「ま、まあな、いいんちょに迷惑かけられんし」
歯切れが悪い彼の言葉を聞いて、アスカはこれは案外と親友の恋路がいい方向に向いているのではないかと思った。
だいたいヒカリのようないい子に惚れられて嫌な気になる男子なんかいるほうがおかしいのだ。
こんな変な私とヒカリとだったら、彼はどちらを選ぶだろうか。
碇シンジ君ならばやっぱり優しい女の子の方が好きなんだろうなぁ。
そんなことを考えながらもアスカはごく普通にみなと会話を始めた。
そして、そのどこかですっかり悪くなってしまった自分の印象をよくしようと彼女は誓った。
その30分後のこと。
アスカはただ一人路地を歩いていた。
といっても別に他の面々と喧嘩をしたからというわけではない。
単に彼女の家が3人と方向が違うだけの話である。
結局、ヒカリはドラムの本を買わなかった。
すでにトウジが入門本を購入していたのでその本を二人で使おうということになったのだ。
そう仕向けたのはアスカである。
そのようにすれば二人の接点がより増えるのではないかと思ったからだった。
確かに同好会の時だけでは何にもならない。
毎日のように会って話をしないことには意味がなく、結局昼休みか放課後のどちらかに会見が行われることになった。
本音では二人だけといきたいところだが、現時点でのヒカリとトウジでは第三者がいてくれないことにはお互いに困る。
恥ずかしいだけではなく、うまく会話も進まないことがよくわかっていたからだ。
そこで立会いを友人に依頼したのである。
友人である、アスカとシンジにとっては渡りに船だ。
もちろん彼らのことも考えての以来だったことはそれぞれ了解していた。
まずは明日の昼休み、弁当を食べ終えてから体育館脇のコンクリ階段に集合と取り決めて、今日はとりあえずお開きということになった。
4人ともそれぞれ名残惜しい気持ちでいっぱいだったが、本心は隠し「また明日」と挨拶するしかない。
アスカを除いた残りの3人はバスで帰宅する。
新興住宅地に住むヒカリたちは川を渡り小さな丘を登らないといけないので歩いて帰るのはなかなか大変なのだ。
その点、駅前と中学を結ぶ直線上に家があるアスカは徒歩で大丈夫な距離となる。
もっともいつもは自転車を利用しているのだが、直接中学校からやってきたのでそれは不可能だ。
アスカの住む屋敷町の方角は駅前から見ると裏手となる。
城跡を基点にすると話は別だが、昭和の今、住民の視点は駅前が中心となっているのが現実だった。
従って開発は駅前から新興住宅街に向けてが中心となり、昔ながらの市街地の方はほとんど手付かずとなっている。
幸か不幸かと言われると、生活にはやや不便だが喧騒から外れている分だけ静かな日々を過ごせることは概ね幸せであろう。
現にアスカが歩いているこの道もとりあえず車道ではあるものの、酒屋の軽トラックが1台通り過ぎただけで歩行者と時折通りかかる自転車のための道路といってしまってもいい。
行きかう人々の足取りもゆったりとしたもので、そこかしこで立ち話に興じている主婦たちの姿も見かけられた。
その中をアスカはしっかりとした足取りで歩んでいた。
徒歩15分の道のりを辿る彼女の表情は幸福そのものだ。
確かにいろいろと拙い言動をしたことは自分でも認める。
しかし、彼との距離は充分に縮まった。
昨日までとは段違いだ。
あとはどうやってもっと親しくなるかである。
アスカはううむと唸った。
やはりこれは呼び方が決めてだろう。
今は「碇君」「惣流さん」だが、下の名前で呼び合うのは日本では身近な関係を象徴することになる。
こちらはいくらでも呼ぶことができる。
ヒカリに貸してもらった写真(くれなかった!一人で写ったものがなかったから)に向かって「シンジ」と呼びかけているアスカなのだ。
機会さえ与えられれば、彼を名前で呼ぶことなど容易いことである。
問題は向こうにどうやって自分の名前を呼ばせるかだ。
しかし、何とかなるだろうとアスカは楽観視した。
何故ならば、碇シンジ君は優しい男の子であるとアスカは盲信しているからに相違ない。
優しい性格をしているのだから、少しお願いをすれば絶対に名前で呼んでくれるに違いない。
「そうよっ、きっと呼んでくれるに決まってるわっ!」
教訓。
心の中の叫びを現実に音声として発する時は時と場所に気をつけよう。
目の前でにこやかに微笑むおばあさんにアスカは慌ててぴょこんと頭を下げ、傍らの小さなスーパーマーケットの中へと飛び込む。
往来の真ん中で拳をぐっと握り締めて大声をあげたことが恥ずかしかったのだ。
スーパーから出てきたばかりのおばあさんただ一人が目撃者だったことだけが救いである。
さて、店内に入ったアスカは左手に鞄、右手に赤色のカゴを握り締めていた。
さしたる考えもなしに飛び込んでしまった場所だが、おつむの回転の良さを自画自賛する彼女はすぐに大きな目的をそこに見出したのである。
アスカは小さく「ぶた、ぶた、こぶた。おなかがすいた」と呟くように歌うとラーメンコーナーに足を進めた。
ラーメン3袋は学生鞄には入らず、左手に鞄、右手にスーパーの袋を持ってアスカは家路を辿った。
さすがに夕食にインスタントラーメンなど食べられず、朝ごはんでも論外だ。
彼の好きなワンタンメンを食べることができるのは一番早くても土曜日の昼食となるだろう。
恋する乙女としてはこんな些細なことでも楽しみでならない。
あの時、彼は卵を入れて食べると言った。
もちろん自分も同じようにして食べるつもりである。
卵ならばいつでも冷蔵庫に常備しているから大丈夫だ。
だが…。
アスカは近道をした路地の途中で足を止めた。
眉を顰めた彼女は肝心の情報を自分自身が中途半端にしてしまったことに気がついたのである。
ううむと唸り声を小さく上げてから、アスカは苦笑した。
「ま、いっか」
明日、それとなく聞いてみよう。
また明日と言って別れてきたではないか。
彼の顔を見て言ってはいないが、バスの時刻表を睨みつけながら自分は確かに口にしていたはずだ。
しかももう一人の男子へ向けてではない。
ちゃんとアスカは言った。
「また、明日。碇君」と。
彼も返してくれた、はずだ。
舞い上がっていたのではっきりとは覚えていないが、確か「うん、じゃ、惣流さん」という言葉だったと思う。
これこそ普通の会話ではないか。
後は彼の顔を見て会話ができれば言うことはない。
会話をしているということは、二人はもう友達と呼称してしまっても差し支えないだろう。
日頃男子の名前を呼ぶことすらほとんどしないアスカだ。
面と向かってでは皆無といってもいい。
そんな彼女からすると、名前を呼ぶという時点で他の男子とはまったく違う関係に進んだと断言できる。
となれば、こんな世間話をしてもさしつかえないだろう。
次こそはさりげなく、自然に、フレンドリーに、話をしよう。
そしてまずこの情報を得るのだ。
卵はどの段階でラーメンに入れるのか。
「早く、明日にならないかな」
呟いた後、アスカは足を早めた。
そしてついには走り出してしまった。
明日を早く求めたいという気持ちではない。
彼のことを考えると居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
狭い路地にアスカの靴音がたったったと軽快に響いた。
第6回目のためのあとがき
第6回を掲載いたしました。
う〜ん、これまでで一番長い(汗)。
しかも随分と遅れてしまいました。
半分以上は昨年にできていたのですが、
正月以降忙しく書いては消しの連続となってしまいました。
バレンタインモノも書かないでこの冗長ぶりかと自分でも苦笑してしまいます。
今回で“馬鹿シンジ”まで進ませるつもりでしたが、
この段階でのその呼び名は不適当と判断しました。
もう少し仲良くなりませんとね(笑)。
因みにこの当時はインスタントラーメンの5袋1パックってなかったと思うのですが…。
ですので、3袋という中途半端な買物になっているのです。
私の記憶が確かならば、ね。
多分、間違いないと思います。
この当時にスーパーマーケットのアルバイトをしていて、
値札シールをラベラーという名前のハイテクマシン(嘘)で機関銃のような音を立てて打っていましたから。
バーコード読み取りレジなんてなかったんですよ、ハイ。
だから特売の時はシールをすべて打ち直し、終わればまた打ち直し。
それが今はコンピュータ入力とポップの変更で終わりですからねぇ。
労働力が減ってしまうのも当然かもしれません。
便利な時代になりましたが、どんどん拙い方向へと進んでしまっている様な気も…。
第四惑星の悪夢はすぐ近くまで来ているかもしれません。
ジュン
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