33回転上のふたり


A面 7曲目



ー I'm Happy Just To Dance With You ー



 2011.2.19        ジュン

 
 


 


「馬鹿シンジ!」

 叫んでしまってから惣流アスカは心の中で自分自身を渾身の力で殴りつけた。
 取り返しのつかないことをしたという後悔の念と、そして愛しい彼のことを馬鹿呼ばわりしてしまったという自責の念がそうさせたのである。
 口にした本人が予期していなかったのだから周りにいた者が呆然としてしまったのは当然だろう。
 その中で言われた当の本人である碇シンジが一番ショックを受けていなかった。
 もちろんここでのショックというものは悪い意味のものであり、嬉しさという面ではとてつもなく大きな衝撃を受けている。
 何しろ憧れ度最上級クラスでその域には誰一人存在していない場所にまで高めてしまっている女子から名前を呼ばれたのだから無理もない。
 名前の前に何かおまけがついていたようだがそんなものはどうでもいいではないか。
 シンジはグリコのおまけが大好きだったのだから寧ろおまけは大歓迎であったのかどうか。
 そこのところは本人自身もわからない。
 とにかく彼は“馬鹿”も聞き逃していないのだが、自分で自分を馬鹿だといつも嘆いている上に、愛しい人からそのことを指摘されたわけで逆に「ああ、やっぱりそうであったか」と納得すらしたほどだ。
 それよりも名前である。
 いつか「碇シンジ君」とか「碇シンジさん」などと苗字つきでもいいから彼女に名前を口にしてもらいたいものだと、彼としては巨大すぎる野望を日頃ささやかに抱いていたのだ。
 その野望がこんなにも早く達成されたのだからたまらない。
 しかも「シンジ」と呼び捨てなのだ。
 これは夢ではないだろうか。
 いや夢ではない。
 これが夢ならば起きてから今までの6時間あまりの出来事がすべて夢ということになる。
 それは絶対にありえない。
 何故ならば4時間目の体育の授業で転んでしまい膝小僧に擦り傷をこさえてしまっているからだ。
 オキシドールをしこたま患部に押し当てられヨードチンキを塗られた左膝は今でも痛い。
 こんな痛さが夢で体験できるわけがなかろう。
 したがって頬を抓って確かめるということをせずに済んだシンジであった。

 その左膝のヨードチンキが「馬鹿シンジ」を呼び込んだのだから面白い。
 今日はビートルズ同好会の会合日ではなく、鈴原トウジのドラム練習日であった。
 ただし、その練習日というのは同好会会合日以外の毎日であり、つまり月火水金土の放課後は基本的にトウジはドラムを叩いていることになる。
 同好会の顧問、いや主犯である青葉シゲル先生が見つけてきた練習場所は屋上であった。
 日頃は開放されていない場所であったが、青葉先生の猛烈なる熱意と練習参加メンバーの中に洞木ヒカリがいたことが大きい。
 生徒の非行の温床になるのではないかと渋る校長を教頭先生が説得してくれたわけだ。
 扉の鍵の管理はヒカリがすること、そして練習中は屋上側から鍵を閉めること、青葉先生が一度は顔を見せることが条件だった。
 鍵の管理を先生ではなくヒカリがするところが味噌であろう。
 つまりは自分よりも生徒の方が信用できるという意味かと青葉先生がぼやくことしきり。
 青葉先生が見つけてきたドラムセットは音楽室の準備室に間借りさせてもらえ、練習のたびにえっちらおっちらと廊下と階段を運ばねばならないが屋上の真下である4階からだからそれほどの苦労でもない。
 ましてトウジなどは内心このドラムの練習で好きな女子、つまりヒカリからいい印象をもらおうと一所懸命だから少々の肉体労働など屁とも思っていなかった。
 最もその思いを素直に表現できないのは不器用な彼らしいといえよう。
 もっとも中学生の男子ならばこれが普通ではないだろうか。
 いいところを見せたい。
 しかしアピールしているとは思われたくない。
 シンジもまた同じである。
 擦り傷はひりひり痛むが我慢できないほどではないし、経験上勘弁して欲しいと痛切に感じるのはお風呂に入るときくらいだろう。
 したがってトウジと一緒にドラムを運搬することなど別に苦痛とは感じない。
 「大丈夫かいな」という一言を彼からもらってそれでOKである。
 それに自分が運ばないとトウジ一人か女子に手伝わせることになってしまうだろう。
 あの二人の女子ならば間違いなく手伝うに決まっている。
 男としてどういう事態は避けたい。
 そのことは怪我をしてからずっと考えていたので放課後になると逆にいつもより早めに音楽準備室に向かったシンジだった。
 基本的に準備室から屋上までは3往復であった。
 痛さは我慢できるもののやはり階段を上るときは足を庇ってしまう。
 少し不恰好な形で中太鼓(専門名は知らない。トウジが言うとおりにシンジは覚えている)を抱えていた彼が踊り場で一息ついたとき、下からアスカとヒカリが上がってきたのだ。

「碇君、こんにちは」

 ごく自然に挨拶したのはもちろんヒカリ。
 アスカの方はぶっきらぼうに「今日もいい天気でよかったわね」と言っただけで、目線はシンジの足元へと向けていた。
 顔など直視できるものか。
 だがこの時はそれが幸いした。
 足元を見たということは勢いシンジの怪我も目に入る。
 彼が「こ、こんにちは」と振り返りながら言った瞬間、アスカは残りの数段を駆け上った。

「あんた!怪我してるじゃない!」

「あ、うん。転んじゃって」

 名誉の負傷でもなんでもないのだから、恥ずかしいことこの上ない。
 しかしアスカにとっては彼の感情など考える余地はなかった。
 大好きな男子が怪我をしているのだ。
 ヒカリの方は冷静に痛そうだけど酷い怪我じゃなさそうねと判断したのだがアスカは違う。
 見た瞬間に全治何ヶ月かと大げさにイメージしてしまったのだ。

「何してんのよ!荷物なんかアタシが運ぶから寄越しなさいってっ!」

「だ、大丈夫だよ、これくらい」

 シンジが素直に渡さないのも当然だろう。
 この程度の怪我で好きな女子に面倒はかけたくない。
 これがあと数年もすればこういう感じのイベントで好意を持つ異性との親密度を深めるというコミュニケーション力を持っていくところだろうが、如何せん彼はまだまだ14歳。
 できることといえば「大丈夫」を連発することくらいしかない。
 当然、14歳にまだ達していないアスカの方も彼と同程度だ。
 ここは強がりを言う男子の心意気を讃えるような発言をすればよいのだが、そのような大人の台詞など彼女の頭に浮かぶはずもない。
 文字通り子供のように自分の意見を貫くだけのこと。

「何言ってんのよっ。怪我人が力仕事なんかすることないわ!アタシに寄越してってば」

「い、いいよ。大丈夫」

「うっさいわね、寄越せっ」

「大丈夫って言ってるじゃないか」

 流石のシンジでも譲れない領域がある。
 これまでにも語ったがこの少年には些細な部分でかなりの頑固者と化してしまう場合がある。
 たとえそれが大好きな女子の前であっても、いやアスカの前だからこそ余計にこだわってしまうのかもしれない。
 だから彼は「大丈夫」を繰り返す。
 そしてそれがアスカの憤懣を加速させていったのだ。

「大丈夫、大丈夫って馬鹿の一つ覚えみたいに何よっ」

「だって本当に大丈夫だから」

「馬鹿っ」

「いいだろ、別に。僕は馬鹿だから」

 自嘲を浮かべた表情がアスカは気に入らなかった。
 あんなにいい笑顔ができるのに何という情けない顔をするのだ。
 アスカは悪罵を放った。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿シンジ!」

 そう、ここで冒頭に戻る。
 思わず、連発していた馬鹿と彼の名前を連結させてしまったのだ。
 馬鹿碇ではなく、馬鹿シンジとなってしまったのは、ヒカリと連れだって教室からここまでに至る間、親友と会話をしながらある決意を固めていたからだった。
 今日こそは苗字ではなく名前で彼の事を呼ぶのだ、と。
 もっとも毎日同じ決意を固めていたのだが、やはり毎日その決意は空振りに終わってしまっていた。
 そのために今日こそはといつものように念じながらここまで歩いてきたので、名前の方が馬鹿にくっついてしまったのである。

 鈴原トウジは屋上の扉付近でこの騒動をニヤニヤ笑いながら見ていたが、馬鹿シンジ発言で「おいおい、それはあかんやろ」と真顔になった。
 しかしそれはあくまで関西人的な発想に準拠していて、彼はこう呟いたのだ。

「せめてアホにしたれや。馬鹿はきついで」

 そうは思ったものの自分とは育った地域が違うシンジにとっては馬鹿でいいのかと思いなおす。
 そして彼は大太鼓を抱えなおし素知らぬ顔で扉を開けた。
 
 洞木ヒカリはアスカより3段下に立ち、左手でこめかみを押さえた。
 なんということを仕出かしたのだ、我が親友は。
 名前で呼びたいという願望は毎日のように耳にしていてそのたびに力づけていたのだが、実現したのは良いとしても馬鹿とはとんでもない付録をつけてしまったものだ。
 しかも彼女のことだから上手くフォローなどできるわけがない。
 絶対に火に油を注ぐに決まっている。
 アスカの背中はかちんこちんに固まっており、真っ白なカッターシャツには「言っちゃったぁ!」と黒々と乱暴な字で筆書きされているように見える。
 馬鹿と言われたシンジの方の顔はヒカリからよく見えたのだが、彼女には彼の感情はよくわからなかった。
 彼の表情としてはよく見られる、やや引きつり気味の笑い顔がそこにあるだけでアスカの発言をどう思っているのかを読み取れない。
 ここはこの私が何とかしてあげないと…。

「アスカ、あのね…」

 場の空気を和ませることはできないまでもとりあえず今の活人画状態をやわらげようとヒカリはアスカの背中に声をかけた。
 反応なし。
 声が小さすぎたのかどうか。
 しからば肉体的接触しかあるまいと、ヒカリはアスカの背中を指でつんつんと突いた。
 普通ならば「ひいいいっ」と悲鳴を上げるか、「何?」と振り向くかのどちらかだ。
 だがこの時はやっぱり無反応。
 さすがのヒカリもただいま脳細胞を超高速稼動中でアスカが肉体的には凍結状態であるなどとは見抜けなかった。
 もし怪獣図鑑にアスカが掲載されていたならば、その特長欄に“頭はいいが回りすぎたり、考え込んで身体が動かなくなることがある。その瞬間が攻撃のチャンスだ”などと書かれていたことだろう。
 ただしその凍結時間は非常に短い。
 数秒間立ち尽くしたアスカは熟考した結論に基づいて言葉を発した。

「何?文句あるぅ?アンタ馬鹿でしょ。馬鹿に馬鹿言って何が悪いのよ、馬鹿シンジ。ふふん、決めたわ。これからアタシ、アンタのことを馬鹿シンジって呼ばせてもらうからねっ」

 ヒカリはアスカの背中から階段状の吹き抜けになっている天井を仰いだ。
 簡単に言うと天を仰いだということである。
 これは拙い、拙すぎる。
 いくら優しい碇君でも絶対に怒るはずだ。
 ヒカリは恐る恐るシンジの様子を窺った。
 ところがアスカの肩越しに見えるその顔には怒りの感情は欠片も見られない。
 寧ろあれは…。

「そうだね、うん、僕、馬鹿だから…」

 肯定している!
 しかも何となくだが少し嬉しそうな感じがするのは気のせい?
 ヒカリは一瞬戸惑ったが、すぐにこれはシンジが鷹揚な性格をしている所為だと理解した。
 さすがにもう一歩踏み込んでアスカに名前を呼ばれて喜んでいるのだとまで読み取れないのは当然だろう。
 彼本人がそのことを必死に隠しているのだから仕方がない。
 にやけているところをアスカに見られ嫌われたくない。
 いや、これ以上嫌われたくないというのが本音だ。
 だからこそ無表情を装っているつもりなのだがそれはあくまで本人視点。
 もし鏡で自分を見たならば自己嫌悪に陥ること請け合いである。
 本人はスコッチ刑事を気取ったつもりでも誰の目にもそうは見えない。
 彼のことをおそらくは世界一甘く見てしまう父親であろうが絶対に格好をつけている表情には思えないだろう。
 ともあれあやふやな笑みを浮かべているシンジは心の底から熱望していた。

 馬鹿でいいから!百個でも千個でも馬鹿をつけていいから、名前で呼んでください!

 彼の願いはあっさりとかなえられる。
 たとえシンジが嫌がったとしてもアスカ自身が暴言を失言にせず自分の都合がいいように捻じ曲げてしまおうと決め付けていたのだ。
 現在、双方の利益は完全に一致していた。
 ただし、アスカもシンジも装飾物を何もつけずに名前で呼んで欲しいのが本音である。
 しかし“馬鹿シンジ”と呼称することを宣言してしまった今、余計な飾りを取り除くことはおいそれとはできやしない。
 だからアスカは身勝手にも名前を呼ぶということを優先し“馬鹿”の取り外しについては棚上げすることに決めた。
 心の中では馬鹿シンジの前に“大好きな”とつけることで赦してほしいと彼女は願った。
 そしてこの呼び名で彼に嫌われてしまわないかどうか。
 そのほうが大問題である。
 努めて冷静に彼の表情を窺おうとしたアスカではあったが、何よりもシンジの顔を直視できないのが大きな関門であった。
 したがってアスカはその言葉上でどうやらシンジがその呼び名でいいと許可したものと判断した。
 もしハードボイルドを気取ったあやふやな笑みを浮かべた表情を見たならば、次の台詞も口の中で凍り付いていたことだろう。
 ところが彼女の視線は吹き抜けとなっているコンクリートの天井に向けられている。
 そこに走る一本の細いひびを睨みつけながら、アスカは次の手を素早く考えた。
 自分の名前を彼に呼ばせるには?
 
 あれ……?

 あれれ……?

 もしかして、もしかすると、もしかする?

 この時のアスカの目力は天井のひび割れをさらに何センチか広げてしまったかもしれない。
 彼女はようやく気がついたのだ。
 自分の名前を呼ばせるにはどうしたらいいかなどと言う前にもっと大きな問題が残っていたではないか。
 アスカという名前どころか彼はこれまで一度も姓すら口にしていないのである。
 ヒカリのことは何度も洞木さんと読んでいるのを耳にしていた。
 しかし、しかし、しかし!
 惣流さんとさえ言ってくれないのにいきなり名前など絶対に無理だ。
 アスカは愕然とした。
 その挙句、親友に禁じられた顔芸を愛しい男子にさらけ出してしまったのだ。

 えっ、えっ!お、怒ってる?
 そ、そ、そ、惣流さんが物凄く怒ってる。
 ぼ、僕に?僕、なんだよね。僕しかいないもん。
 な、なんで怒ってるの?
 僕は馬鹿だから馬鹿シンジって読んでいいって言ったから?
 シンジがそう思ってしまうのは仕方がないことだろう。
 まず根本的に、大好きな女子に自分が好かれているという事実を妄想ですらできない彼の性格があった。
 自分にまったく自信がないためだが、それにしても一般的な男子中学生から考えるとそれはかなり問題だ。
 現実は無理でも妄想の世界くらいは憧れの女子にちやほやされる自分を思い描くことは彼らの特権であろう。
 その特権ですら放棄してしまうのが碇シンジという少年である。
 妄想世界であろうが夢を描けぬ少年が現実世界で巧妙に立ち回れるわけがない。
 この時も不機嫌この上ない表情をするアスカを前にして彼ができるのはただうろたえてしまうことだけだった。
 
 そして再び屋上間近の階段では活人画状態がはじまってしまった。
 アスカの背後にいるヒカリはなんとかしようと考えをめぐらせたが、そもそも2回目の活人画がいかにして発生したのかが見えていないのである。
 アスカがシンジのことを馬鹿シンジと呼称することで一件落着したのではなかったのか?
 それなのにどうして次の瞬間に二人とも黙りこくってしまったのだろうか。
 親友の表情さえ見れば文字通りに一目瞭然となるのだが、慎み深い彼女には階段を上って様子を窺うという真似ができない。
 この活人画状態Part.2は30秒ほど持続したが、突然の閃光で呪縛は解けた。
 薄暗い吹き抜けに煌いたフラッシュによって3人はともに目を瞬かせ何事かと階段の下部を見る。
 そこに立っていたのはカメラを臍の辺りで構えている相田ケンスケだった。
 アスカは彼と会話をしたことはなかったが、シンジの親友であることはよくわかっていた。

「ケンスケ……」

「何やってんだ?お前たち」

 本人はニヒルに笑ったつもりだが、残念ながら周囲の者にはにやけた笑いにしか映らない。
 そしてこの部分が喜劇的でかつ悲劇的なことながらケンスケ本人もそれを承知していた。
 どうして自分はもっといい感じの顔で生まれなかったのか。
 二枚目でなくてもいいから、山さんや立花警部補みたいな感じであればよかったと友人にこぼしていたのである。
 ここで承知しておいていただきたいのは、アスカに対してほのかな感情をケンスケも寄せていたがシンジの想いを知ってあっさりと恋愛戦線から離脱したこと。
 見た目は軽薄そうに見えるケンスケの男気を知る者はただ一人トウジだけだった。
 さて、そのケンスケ。
 もちろん神ならぬ一中学生の彼にその場の活人画の謂れなどわかるはずもない。
 だがケンスケはその謂れなどに頭をめぐらすこともなく、思いつくままに口を開いた。

「邪魔だぜ、屋上に上がれないじゃないか。さっさとのぼれよな」

 こういう口調で言われてカチンとこないアスカではない。
 売られていない喧嘩まで買ってしまう厄介な性格なのだ。

「うっさいわね、アンタ誰よ。見ず知らずの男子に命令される覚えはないわ」

 相手の正体など即座に見取っていたアスカだったが、こちらから札をさらす気など毛頭ない。
 口喧嘩には自信がある。
 さすがに肉体を駆使する喧嘩はこの歳では難しいと自覚するほどには理性を持ち合わせていたアスカだった。
 それに行き止まり感が猛烈に漂うこの現状を打破するにはいい機会だと彼女の本能が耳元でそれはもう大きな声で囁いていたのだ。

「ほほう、俺が誰かだって?俺ほどの有名人を知らないとは貴様もぐりだな」

 ケンスケは大言壮語を吐き出した。
 それなりに有名人ではあるが一学年500人以上の生徒がひしめいているこの時代、出身小学校が同じでも見知らぬ同級生はごまんといる。
 しかもアスカは2年からの転校生でありもぐりの素養は充分備えていた。
 ところが恋しいシンジの親友のことなど顔も名前も所属クラブも承知していた彼女は巧妙に言葉を選んでケンスケに投げつけた。

「へぇ、アンタそんなに有名人なんだ。カメラなんかぶら下げてるところを見ると…ああ、わかった。女子の写真を撮って楽しんでるんでしょ。ふふん、図星じゃない?」

 図星である。
 大正解とはいかないまでも、女子の写真を撮るのは嫌いではないし、例の商売を抜きにしても充分に楽しんでいるといえよう。
 だが人間というものは図星を指されると腹が立つ生き物のようだ。
 ケンスケはカメラをぐっと握り締めるとにやりと笑った。

「そういえばお前はドイツ生まれだったよな。昔はドイツのレンズは凄かったけど今はたいしたことないよな。国産レンズで充分だぜ」

「なんですってぇ?」

 自分はドイツと日本とアメリカの血がまじりあってできているのだからとナショナリズムとは無縁だと思っていた。
 ところが戦闘中で気が高ぶっていたのであろう、アスカはあっさりと挑発に乗った。

「アンタ、ライカを知らないの?世界最高のレンズよ!」

「あ、ライカってケンスケがいつも欲しいって言ってるレンズじゃないか。だよね」

 予想外の場所から上ずった声がした。
 もちろんその声にアスカが反応しないわけがない。
 素早く振り向くと彼の愛想笑いが全開していた。

「あ、ご、ごめん。そうだよね、ライカって、ケンスケが欲しがってる名前だよね、ね?」

 気の弱いシンジはアスカの顔を見ることができず、首を伸ばして一番下にいるケンスケを覗き込むようにしている。
 彼としては必死の反応だった。
 惣流アスカがなぜ機嫌を悪くしているのかまったくわからないが、今以上にこの状況を悪化させるわけにはいかない。
 以前では考えられないほどの近い距離で大好きな女子といられる日々が続いているのである。
 何とかして現状を維持しようと考えるのは至極全うな考えであろう。
 だからこそシンジは飛んだ。
 彼としては精一杯の力で飛んだのだ。

「そ、そうだろ?ケンスケ!」

 こういう場合、ウィンクなり何なりのアイコンタクトくらいはしてくるものだ。
 ところが余裕のないシンジは悲壮感漂う愛想笑いを浮かべるのが関の山である。
 ケンスケとしては友人の状態が手に取るようにわかるだけに苦笑するしかなかった。

「ああ、そうだよ。その通りだ」
 
 高すぎるんだよ、ライカはよぉ…。
 ケンスケの机の一番下の引き出しに眠る、マジックでライカ基金と書かれた鳩サブレの缶にはまだまだ予定金額には程遠い数枚の紙幣とかなりの枚数の硬貨が眠っている。
 この調子では購入までにはあと3年以上かかるだろう。
 他の趣味をやめればもっと早く手に入れることはできようが、好きなものをあきらめるという選択肢はケンスケにはなかった。
 好きな女子ならばあっさりとあきらめるのに、趣味に対するこだわりが彼には強すぎるのである。
 もっともケンスケにとってみれば、もし好きな女子を手中にできるならば、またはその可能性が強いならば、何としても食い下がっていたであろうことは明白だった。
 つまりは自分も、そしてあきらめた理由であるシンジも、惣流アスカには程遠い存在であろうと判断したからこその決断であったわけだ。
 どうせふられるのは間違いないのだから、自分は先にレースからリタイアしてシンジに少しでも長く夢を見させてやろうという気持ちがあったのである。
 ただし、夏休み前には想像もしていなかった物理的な距離が縮まってきているという現実がケンスケの態度をいささかシニカルにさせているのも事実だ。
 こんなに近い場所にシンジが存在できるのであれば、自分もあきらめることはなかったのではないか。
 時折そのような後悔の念に苛まれることがあるケンスケだった。
 もし、アスカの意中の男子がシンジであるという真実を知ったならば彼はどのような反応をするだろうか。
 見た目よりも頑固でいいカッコをしたがる彼ではあるが、それならば自分でもと考えるかもしれない。
 彼のようなタイプの男子はその状況によって案外と言動が180度変わってしまうこともよくあることだ。
 ともあれ、この時においては必死な友人に敬意を表してケンスケは矛を収めることにした。

「あ、そ。何よ、アンタ、嘘吐いてたのね」

 ケンスケと違い一度出してしまった矛を収めるのは彼女にとっては至難の業である。
 しかし愛しい彼がこの場を納めようとしてくれているのだ。
 アスカはようやくのことで戦闘体勢を和らげたが急ブレーキをかけることはできず、言わずもがなの毒を少し吐いてしまう。
 それを耳にしてヒカリはまたかと頭を抱えたくなった。
 どうしてこうも攻撃的なんだろう、わが親友はと思いながら、彼女は数分前から一歩も先に進んでいない状況を改善しようとした。

「ほら、アスカ。さっさと上りなさいよ。碇君もそれくらいの怪我なら大丈夫よ、ね?ほらほら」

 ヒカリの勢いに押されるようにしてアスカは階段を上り、そして迫り来る彼女から逃れるようにシンジは慌てて屋上までの階段を駆け上がった。
 少しだけ膝がひりひりするがそれくらいのことはこの年頃の男子にとっては些細なことだ。
 あっという間に屋上へと姿を消したシンジの背中を見送ってアスカは小さく溜息を吐いた。
 結局、自分の名前を呼ばせることまでにはいたらなかった。
 チクショウ、今がチャンスなのに!

 チャンスは再びめぐってきた。
 しかもたった3分後にである。

 練習を始める前にトウジが言い出したのだ。
 
「今から写真を撮るで。記念写真っちゅうやっちゃ」

 その発言に誰が文句をつけるだろうか。
 敢えて言うならばその写真に写ることができないケンスケだろうか。
 しかし自動シャッターというものを使用すれば彼も写る事は簡単だったのだが、ケンスケはその主張をしなかった。
 まずは彼がそこに入る意味を見つけにくいということ。
 そしてそれ以上に、彼は写真が好きだということがいえるだろう。
 写るよりも写したい。
 彼がシャッターを押すことで、その場の空気や感情を切り取れれば…。
 実際問題としてカメラが趣味の人間のアルバムには本人が写っている写真が少ないのが常だ。
 その例に従ったのか、ケンスケは4人にあれこれと注文をつけながら内心かなり楽しんでいた。
 女子の気持ちまではわかるはずもないが、友人二人の欲求は重々承知している。
 だからこそケンスケはたくみに並び方を誘導した。
 
「おい、シンジ。その赤チンみっともないぞ。お前、ドラムの向こうに行って足を隠せ。
う〜ん、バランスが悪いな。洞木はトウジの横に立ってくれるか。そうそう、それから口の悪い女子は反対側だ。
そこじゃドラムが真ん中に持ってこれないんだよ。シンジの横に移動しろよ」

「うっさいわね。あれこれ注文しないでよ。ヘボカメラマン」 

 あれ?とケンスケは違和感を感じた。
 アスカが文句を言うのは承知していた。
 事実、鬱陶しげに言葉を投げてきているのだが、それでも身体は素直に移動しているのだ。
 ヒカリの隣でいいではないかと言い張るものと思っていたが、意外と従順に動いてくれたことをケンスケは訝しんだ。
 だが、彼はまだ中学2年生である。
 アスカが素直に動いた理由、そしてカメラ目線にならず少しそっぽを向いて写った理由が何なのかまで察するには残念ながら人生経験が大いに不足していた。
 このときの撮影者は「惣流のヤツ、命令されて不機嫌だな」と感じただけである。
 かくしてそのファインダーにおさまったもの全員が宝物にすることになる写真は撮影された。
 


 この時期、練習しているのはトウジだけではない。
 部活動は無論ではあるが、9月も半ばを過ぎるとどの学校でも体育教師は目の色を変えるものだ。
 そう、運動会が体育大会といういかにももっともらしい名前に変わって到来するのである。
 欧米で育ったアスカは昨年横浜でこの行事を経験し、当然馬鹿らしいという感想を持っていた。
 もし小学校時代であれば楽しみを感じることもできただろうが、中学の体育大会なるものは競技種目の美しい遂行が目的のように遊びの精神が少なくなっているのが常だ。
 高校の体育祭のようにクラス対抗という感覚もなく、命じられるままにプログラムを遂行していく調子の行事をアスカが楽しむわけもない。
 まして絶対的に自信を持っていた短距離走で、陸上部の女子に背中のゼッケンを見せ付けられての2位という結果に終わったことで彼女は嫌な思いをこの行事に抱いていたのだ。
 
 霧島…なんだっけ?
 あの名前を一生忘れないと心に誓ったはずなのに、1年後のアスカは下のほうを完全に忘れていた。
 それは2週間後に迫った体育大会が楽しみでならなかったからである。
 フォークダンス。
 昨年もこの種目はあり、好きでもない男子と踊らないといけないというこのプログラムをアスカは身震いがするほど嫌っていた。
 これ幸いとぐっと手を握りしめてきた男子の足をわざと踏んでやったのだがそれで気がすむわけがない。
 しかも本番一回ではなく何度も練習させられるのだからたまらない。
 そのたびにアスカだけでなく女子連中は陰でぼやいていたのだ。
 ところが今年は違う。
 男子の中に意中の人がいるのだ。
 その上、体育教師がどう気を利かせたのか(なぁにただの偶然の産物である)、アスカのクラスの女子の相手をするのはシンジのクラスのあたりになっていたのだ。
 総勢500人以上で踊るのだから、これは明らかに幸運の女神がアスカに微笑んだに相違ない。
 その女神をヒカリは恨んでいたが、こればかりは委員長権限でどうなるわけでもない。
 もっとも学年練習のときにシンジと踊っていても二人は言葉ひとつ交わすこともなかった。
 何しろ肉体的接触というとんでもない行為に及んでいるのだ。
 アスカに、そしてシンジの方にもそんな余裕があるわけがない。
 愛しい人の肉体をでき得る限り貪り食うくらいの気持ちで全身の感覚を指先に集中させる。
 その至福の時はわずか30秒そこそこにすぎない。
 その時間以外、つまりはシンジと踊っているとき以外の記憶はアスカにはなかった。
 シンジの順番になるまでは気もそぞろでまだかまだかと心はそこにはない。
 彼と踊り終えると放心状態となり、退場するまではやはり心はそこにあらず。
 ずいぶんと惚けた顔になっているのではないかと不安だったが、ヒカリに言わせるとこうだ。
 
「馬鹿なこと言わないでよ。入場前からピリピリしてて話しかけたら噛み付いてきそうな感じなのよ。
ええ、そうよ。碇君と踊ってるときだって。碇君も怖がって目を合わすことができないみたいだし。
言ったよね、アスカ。表情に気をつけなさいって…」

 云々かんぬんと説教をするのだがいちいち御もっともなのでアスカは言い返すことができなかった。
 少なくともヒカリ曰くの肉食獣の表情だけはするまいと思ってはいるものの、ポーカーフェイスなど苦手この上ないアスカである。
 ライオンから山猫程度にまで和らいだことでよしとせざるを得なかった。

 さて、本番。
 いや、体育大会当日だからといってとくにどうこうということはない。
 今日だけ長めに踊れるわけでもなく、ただ今日限り公明正大に彼の肉体に接することができなくなるという逆に言えば悲しむべき日になるだろう。
 だからこそアスカは燃えていた。
 いつもより笑顔で、そしていつもよりしっかりと手をつなごう。
 できるならば「楽しいね」などという言葉をかけてもいいではないか。
 夢想の中では無敵である。
 絶対にできそうもないことを思い描きながらアスカはフォークダンスの時間を待った。

 結果から言おう。
 アスカはこのプログラムでシンジに声をかけることはおろか彼の手をつなぐこともできなかった。
 組み合わせが変わったわけでも、シンジが病欠したわけでもない。
 思い出していただこう。
 宝物の写真を撮った日、シンジの膝には赤チンが塗られていたではないか。
 いや、そこから化膿してひどい怪我になったのではない。
 シンジという少年は運動神経は悪くないのだが、いささかドジ、いや、運が悪いところがある。
 彼は2年生男子による障害物競走に出てきたのだが、前を走っていた男子が転んでしまいそれを避けようとして彼自身が派手につまずいてしまったのだ。
 そして怪我をしたのか?
 いやいや、たたらを踏んだ彼はいつものドジさにも似合わず転倒などしなかった。
 いやいやいや、転倒したほうがまだましだったかもしれない。
 手洗い用に準備していた数個のバケツがそこにあった。
 障害物競走では定番の粉まみれの飴玉探しが最終コーナーの手前にある。
 基本的には顔を真っ白にしてゴールに進ませるものだが、粉が目に入って走るどころでなくなってしまう生徒のために緊急洗面用のバケツだった。
 シンジはそこに突っ込んでいってしまったのだ。
 哀れ、少年は濡れ鼠。
 全校生徒および教員来賓、そして父兄の笑いを一身に受けたシンジは何とかゴールを果たしたものの席には戻らず保健室へと向かった。
 実はアスカも笑ってしまった。
 愛しい人がかわいそうな目にあったというのに、まるでコメディ映画のように見事なばかりの水かぶり振りだったからだ。
 遠目だからシンジが赤面して恥じ入ってしまっているところまではわからない。
 だがそのしょんぼりとした風情は微笑まずにはいられなかった。
 その楽しげな笑顔が凍りついたのはヒカリの言葉からである。
 あんなに濡れて着替えなんかどうするんだろうね。
 確かにそのとおりである。
 体操服で通学したのだから今日は制服など誰も持っていないだろう。
 となれば体操服が乾くのを待つか、どこかから服を調達してもらうのを待つか。
 しばらくは保健室のカーテンの中でシンジは下着姿で待ちわびなければならないだろう。
 そこに考えがいたったとき、アスカの笑顔は凍りついたのだ。
 本日のメインイベント、2年生のフォークダンスはこの二つ次のプログラムである。
 そろそろ入場門に集合しないといけない時間になる。
 これではシンジは間に合わないではないか。
 まさか……不参加?
 それに例え時間的に間に合ったとしても彼が体操服を着ることができなければフォークダンスに参加できないだろう。
 本人が希望したとしてもあの頭が筋肉並みに固いゴリラのような体育教師が認めるわけがない。
 では、では…!
 
 アスカの想像は当たった。
 嫌々ながらにフォークダンスを踊る彼女の目に入ってきたのは、がらんとした2年生の席にとぼとぼと歩いてきて座ったシンジの姿だった。
 遠目なので表情まではわからないが生徒用ではないジャージを着ているのは色がまったく違うので確認できる。
 フォークダンスには間に合わなかったのだと残念に思っていると踊っている相手が悲鳴を上げた。
 どうやら足を踏んでしまったようだ。
 ここで素直にごめんと言えるようなアスカではない。
 いや、言おうとしたのだがその前に悪態の方が先に出たというほうが正しかろう。
 
「アンタが悪いんだからねっ」

 足を踏まれた男子がアスカファンだったからよかったものの、そうでなくては喧嘩になっていたところかもしれない。
 逆に照れ笑いを浮かべてしまったにきび面の少年は何も言わずに次の相手と交代する。
 アスカは不要な悪態もあいまって不機嫌この上ない表情を隠せもしなかった。
 もっともこれまでのフォークダンスの練習中も先に書いた理由から上機嫌な風情はまるでなかったので周囲の者たちは、惣流アスカはフォークダンスが嫌いなのだと思っただけだ。
 もちろんそんな彼女の態度に眉を顰める生徒もいるが、この時点ではまだ誰も口に出して文句は言わない。

 ただしここで覚えていていただきたいのは、徐々に彼女への反感が生徒間で蓄積されていっているということである。
 シンジと急接近して以降のアスカは交際の申し込むは瞬殺している。
 それまでも同様ではあったが、このところは心境の変化に伴いばっさり切捨て度が殊さらに高くなっているのだ。
 だから断られた男子の無念度も比例して高まってきていた。
 可愛さ余って憎さが百倍という言葉が次第にアスカを取り巻き始めている。
 こういう場合、何らかのきっかけでそういった感情は爆発するものである。
 しかし、今はまだ見えない場所で燻っているだけだ。
 その事にアスカも、そして周囲の者たちも気づいていない。

 さて、アスカ。
 この時の彼女の落胆振りは物凄いものであったが、それを他人に見せるような性格を持っていない。
 素知らぬ顔を装い体育大会に参加はしたものの、さすがにヒカリだけは親友の気持ちを察することができた。
 しかしながら委員長職で忙しいヒカリはなかなかアスカに声をかけることができなかった。
 目が合った時に一生懸命にアイコンタクトを送るのが精一杯で、ただアスカにはその気持ちは伝わってくれたようだ。
 力ない笑顔を返して肩を少しすくめた彼女の姿を見て、ヒカリは「女子リレーの選手はがんばってね!」とみなに声をかけた。
 それを受けてアスカはふんと鼻から息を漏らして立ち上がった。
 リレーのアンカーなのだから不甲斐ない走りをするわけにはいかない。
 彼女という人間においてプライド成分がかなりの割合で構成されている。
 そしてそのプライドはアスカの心を奮い立たせた。
 いや、簡単に言うと、気持ちが切り替わったという方が正しかろう。
 何しろ同じ体操服の人間ばかりの中で違う色のジャージを着ているシンジの存在は目立つ。
 緑色のトレパンの中で紫色はひときわ目立つ。
 しかもトレーニングシャツはなかったのか、これもまた紫色のTシャツを着せられているのだからたまらない。
 無論表情まではわかるはずもないがそこに彼がいるということが一目でわかり、彼に無様なところを見せることはできない、いやいいところを見てもらうのだと入場中のアスカは鼻息を荒くした。
 待機場所に着いた彼女は髪の毛を解き、ひとつに束ねると後でくくった。
 ポニーテールにするのはこの学校に来て初めてである。
 よしっとアスカは小さく呟いた。
 今度は去年みたいな恥はさらさない。
 あの時は日本人を舐めていたのだ。
 こうやって本気モードになっていればきっとキリなんとかなんかに負けるわけない。
 そうよ!アタシは無敵!
 アスカはパンッと両手で頬を挟み込むように叩いた。
 
 シンジはアスカの姿をずっと追っていた。
 赤みがかった金髪は遠くからでもわかる。
 そして、彼は思わず息を飲んだ。
 僅かに遅れて周囲の男子たちもざわめきだす。
 
「うわっ、惣流がポニーテールになってるぜ」

「おい!望遠鏡!オペラグラスでもいい。誰か持ってないか?」

「近くで見てぇ…」

 まわりで無遠慮に交わされる会話にシンジは心の中で賛成!と大きく頷いていた。
 人間の目にはズーム機能がついていないことが残念でならない。
 シンジは目を見開いたり逆に細めたりして、少しでもアスカの姿がよく見えるように努力をしたが、一瞬よく見えるような気がするだけで何の効果もない。
 手をつないで踊るというチャンスの最終回を逃してしまっただけに彼は自分のドジさ加減を呪い、そして3日前に行われた最後のフォークダンスの練習を必死で思い出すのだった。
 こんなことになるんだったらあの日手を洗うんじゃなかったとまったく感触が残っていない手を握りしめたり離したりしながら、シンジは瞬きも忘れてトラックの向こう側で待機をしているアスカを凝視した。
 彼女はアンカーだから幸運にもコーナーの前にある2年生の席の前を通過する。
 その時をしっかりと目に焼き付けるんだ。
 シンジは固く誓ってピストル音を待った。

 アスカにとって残念なことに彼女のクラスの1位ゴールの可能性はほとんどなかった。
 1回目のバトンタッチのときに集団転倒があり、そこにしっかりと巻き込まれてしまったからだ。
 その大惨事に巻き込まれなかった二つのクラスは30m以上先を走っている。
 まず追い越すことは不可能であった。
 そうなると3位争いしかなくなる。
 第3走者の段階でアスカのクラスは第6位だった。
 後方グループの先頭からは8mほど離されている。
 その距離を保ったまま、アスカはバトンを受け取った。
 絶対に抜く!
 アスカは大地を蹴った。

 目に焼き付けることは不可能だった。
 金髪でポニーテールの少女はあっという間にシンジの前を走り去ってしまったのだ。
 物凄い勢いで駆けていった彼女は二人を抜き、そしてゴール前で3位走者に追いつきそのまま抜き去った。
 大差をつけた1位2位のゴールよりも場内が盛り上がったことは間違いない。
 競馬と違って賞金がかかっているわけでもなく名誉と紅白いずれかというアバウトな優勝だけがかかっているレースなので、盛り上がるシーンが単純にみなを興奮させるのだ。
 最後に抜かれてしまったクラスが自分のところだったのでシンジは喜ぶわけにもいかず、すごいよ惣流さんと心の中でばんざいを繰り返すのだった。



 さて、放課後。
 ただし日常の放課後とは異なり、この日はかなり様相が異なっている。
 体育大会の後片付けをしないといけないのでかわいそうに運動部の連中が残されてぶつくさ言いながらも教師の命令どおりに動いていた。
 大部分の生徒たちはすでに下校しており、大きなイベントが終わったあとの学校はどことなく淋しげな風情を醸し出していた。
 そんな空気の中でアスカは待ち伏せをしている。
 
 彼女は重要な情報を入手していたのだ。
 碇シンジが着用している紫色のトレパンとそしてトレーニングシャツも、なんと伊吹先生の私物だというのだ。
 おのれ、伊吹マヤ(敬称略)!!!!!!
 でも、貸してくれてありがとう、と一応付け加えたアスカだった。
 情報源はクラスの男子である。
 もちろん彼女に直接ご注進というわけではない。
 男子同士の会話を耳にしただけだ。
 憧れの伊吹先生の服を碇が着ている、羨ましい、なんてラッキーなんだ、くそっまさか着ていた服じゃないだろうな、あれやこれや。
 体格的に男性教師のものよりも伊吹先生の服のほうが合うのはわかる。
 だが、それを喜んで着用するとはどういうことか。
 実際にシンジが喜んだのかどうかという情報は一切なかったのだが、男子生徒どもは考慮する価値もないほどに決め付けていた。
 アスカもそう信じた。
 決め付けられるシンジからすればたまったものではないが、後日トウジとケンスケに問いつめられたところ「実は…」と白状したのだから男子たちとアスカの邪推は邪推ではなかったわけだ。
 ただし着ていた服を貸したわけでなく、体育大会で汗をかくだろうからと準備していた選択済みのものだったのでシンジ君は変態的な情欲にかられたわけではないことだけは彼の名誉のために付け加えておこう。

 そして、アスカである。
 彼女は正門横にある駐車場の物陰に身を潜めていた。
 今日は運がいいことにイベントのある日だから、あと二つある門が閉鎖されている。
 正門を押さえておけば見逃すことは絶対にないだろう。
 おまけに彼は一人で出てくるはずだ。
 一緒に帰るかもしれない友人二人は干しているジャージが乾くまで待てないと先に下校しているのを確認済みなのである。
 脱いだジャージをすぐに干さなかった伊吹先生も間が抜けているが、シンジ自身も家では全部母親に家事を任せているのが目に見える。
 洗濯物はちゃんと出しておきなさいといつも言っているでしょうなどと母親に小言を言われているのがアスカには容易に想像できた。
 彼のことだからぶつぶつと小声で言い返しながらも素直に動いていることだろう。
 残念ながら母親の姿はイメージできない。
 アスカはこれまで三回碇家の偵察を行っていた。
 ただそのどれもが買物に行ったついでという名目だったので(ついでというにはあまりに目的地と離れすぎているが)、そのどれもが彼の家の前を自転車で全力疾走で駆け抜けて言っただけに過ぎず、当然人影はおろか家の細部もまったく記憶に残っていない。
 彼の家に接近した、という事実だけで充分であり、そして不十分な気持ちも抱いてしまうというのは恋する思春期の少年少女に共通の心情だろう。
 もしこの時、シンジの顔立ちに似た幼女にぶつかりそうにでもなればこの物語も意外な展開を見せ実際とは異なる様相を呈していたかもしれないが、幸か不幸か碇レイは空気を読んだのかそのタイミングで表に飛び出すようなことはせず、アスカの赤い自転車は碇家の前を疾走していっただけであった。
 ともあれ、アスカはシンジに関してあらゆる妄想をしていたと書いてしまっても過言ではない。
 何しろここ最近は短時間ではあるが彼の近くにいることができるといってもじっくりと監察しているわけでもなく、逆に妄想は広がるばかりだ。
 寝る時はパジャマだろうか寝巻きだろうか、歯磨きはどのブランドだろうか、ズボンを履く時は右から左からか、納豆は好きか(できるなら嫌いであって欲しい)、何時に目覚ましを合わせているのだろうか、「大江戸捜査網」は見ているのか、コーヒーに砂糖は何倍入れるのか、ああきりがない。
 その疑問のひとつひとつに色々な答を勝手に用意してさらにそれに一喜一憂するのだから、恋する乙女という種族は面倒くさい、いや可愛らしい。
 もちろんシンジの家族についても妄想を逞しくしている。
 父母と妹がいるという情報は既に入手していた。
 1年の時の父兄参観日に母親が来ていた筈だがとヒカリを問いつめたのだが、真面目な彼女が授業中にセカンドランナーを気にするピッチャーのような行動をとるわけもなく、仮にそうしたとしてもどのおばさんがシンジの母親だなどわかるわけもない。
 無茶言わないでよと苦笑する友人を仕方なしに許したアスカだったが、そうなると想像するしかないではないか。
 こういう場合、近所にいる市井の人々をイメージするパターンは極めて少ない。
 当然著名人、中でも俳優か歌手をモデルにするのが普通である。
 年のころなら30代後半でシンジがあんなに優しくて可愛らしい(アスカ視点であるご容赦いただきたい)のだからと考え、あれじゃダメこれじゃダメと勝手にオーディションを進めた挙句にアスカは彼の両親役を決定した。
 お父さんは殿下をもう少し年を取らせた感じで、お母さんは吉永小百合で手を打ったのである。
 その彼女の妄想がどのように裏切られるかは賢明なる読者諸兄には簡単に想像できることと思う。
 
 ともあれ、この時のアスカは吉永小百合の母親に対し文句を言うシンジを妄想していたわけだ。
 こういうとき、人はつい無防備ににやけてしまうのが常である。
 彼女が潜んでいたのは駐車場だが、5台ほどの駐車スペースは体育大会の来賓用に空けていたためにこの時間に停まっていたのはオートバイが2台だけだった。
 その1台、大きな方のバイクの影にアスカは蹲っていたが、この時間に学校に残っているのは教師たちと自主的片づけを強制されている運動部の面々だけといってもよく、正門へと向かう人間はほとんどいない。
 だから彼女は男子かどうか、そしてシンジかどうかだけをチェックしていたので、油断をしてニヤニヤ笑っていたのである。
 ジャリジャリという小石を踏む音が近づいてきたことに気がついて顔を上げた時、そこに立っていた男性は眉間に皺を寄せてアスカを見下ろしていた。
 アスカは慌てて立ち上がって背筋を伸ばした。
 まるで悪戯を見つけられた子供のような反応だった。

「何をしているのかね、惣流」

「こ、こんにちは、時田先生!」

「私の愛車に悪戯していたんじゃないだろうね」

「先生の?これが?」

 アスカは傍らの中型オートバイに目をやり、そして理科の時田教師をながめた。
 どちらかというと陰気な印象な物理の先生とこのオートバイには接点がないように見られる。
 はっきり言って似合わないのだ。
 いつも白衣を纏って疲れたような表情でぼそぼそと喋っているので、廊下で挨拶をしても薄ら笑いで返されるだけの覇気のない先生だ。
 しかし、生徒に嫌われているわけではない。
 それは彼が変身するからだ。
 もちろん肉体的にヒーローに変身するわけもはなく、陰気な性格が授業中に一変するのだ。
 授業の出だしは陰気な状態であるのだが、スイッチが入ると人が変わる。
 陽気になるわけではないが、簡単に言うと目の色が変わって饒舌になるというわけだ。
 その豹変振りが面白い上に、不思議と理科嫌いの生徒も成績が少し上がるという効果も手伝い、嫌われてはいない先生ということになる。
 残念ながらお世辞にも人気があるとは言えないのだが、時田先生が満足しているのだからそれはそれでいいだろう。
 さて、アスカも別に時田先生には悪い感情を…ついでに言えば良い感情も取り立てて持っていない。
 面白い先生だと思っていた程度である。
 だから時田先生がオートバイ通勤をしているという情報はキャッチしていなかった。

「いえっ、全然していません。悪戯なんて!」

「落書きとかしてないだろうね、私のJAに」

「じぇいえい…?」

 ガソリンタンクの部分を覗き込む時田先生の視線を追うと、黒いボディにいささか個性的な書体によって“JA”と白い文字で描かれている。
 はっきり言って格好のいいデザインを台無しにした感じにしか見えない。
 ガソリンタンクの部分に太く赤いラインがありYAMAHAと金文字で記されているだけなら随分と格好がいいとオートバイに興味のないアスカでも思う。
 彼女の場合大好きな赤色が巧く活用されていればそれだけでもポイントが上がるのだが、この時田先生の愛車についてはせっかくの黒赤金色のコンビネーションを殴り書きにしか見えない白文字が台無しにしていた。
 落書きは絶対にしていないが、この“JA”という文字自体が落書きのレベルだと断言できる。
 まさかと思い首を伸ばして反対側を確かめると同じようにそこにも白く大きな殴り書きが見えた。

「落書きとか悪戯をしたらただじゃ済まさないよ。新車なのだからね」

 と、ここでスイッチが入った。
 沈んだ眼差しに輝きが灯されたかと思うと、ゆっくりとした口調にエンジンがかかり始めたのである。

「本当は白色が欲しかったんだけどね、なんと3ヶ月待ちだというじゃないか。ところがバイク屋の大将が黒なら即納だと嘯くのだよ。そこで私は考えた。3ヶ月も待っていられるか。理科教師とすれば白衣のイメージである白が欲しいところだが、そこは仕方がない。新学期からRZ250で職場に通えることを考えれば当然買いだ。そう、当然の結論だよ、そう思わないか?そうだろう、そうに決まっている」

 アスカは急いで頷いた。
 巧く調子を合わさないと肝心の待ち伏せが空振りに終わってしまう。
 ここは一刻も早くこのやり取りを終わらせないといけない。
 立て板に水のように流れる言葉の奔流の中に出てきたRZ250というのはこのオートバイの名前だろう。
 オートバイのボディにその英数字が並んでいることを見てとったアスカはそう判断すると、精一杯の笑顔を理科教師に向けた。

「はいっ!そう思います!先生のご判断に間違いありません!黒で正解です!(早く帰ってよぉっ!)」

 最後の心からの叫びはもちろん言葉にはしなかった。
 
「だろう?だから私は黒を買ったのだよ。だが、白でないのも残念だ。そこで私は白い文字でJAと書いたのだよ」

 拍手を贈ってくれたまえと言わんばかりの余韻である。
 しかし先生の背後が気になるアスカには当意即妙な返答ができるわけがない。
 
「先生、JAって何ですか?」

 オームの法則って何ですか?というような口調でアスカは尋ねた。
 スイッチが入って喋りだした時田教師を元に戻すには質問をすることだというのは壱中の常識である。
 質問にきちんと答えようと思ってヒートアップした感情を緊急制御してしまうのであろう。
 しかも時田先生は質問者にまず尋ねる。
 君はどう思うかと問い返すためにその時点で流れが遮られてしまうのだ。
 もっとも、生徒たちは質問など絶対にしない。
 そんなことをすればショータイムが終わってしまうのだから勿体無いではないか。
 いささか脱線気味の内容だが普通の授業よりも圧倒的に面白い。
 それに放っておいても10分ほどで自然に鎮火するのだから、わざわざ強制的に中断させることはないのである。
 だが、このときのアスカにはその10分が惜しい。
 だから彼女は咄嗟に質問をして流れを変えたのだ。

「惣流。君は何の略だと思う?」

 授業時と同様に先生は質問を投げ返してきた。
 時間が惜しいアスカはよく考えずに答える。

「ジェット、アローン…?」

 時田先生はアスカの答を聞いて眉をひそめた。

「なんだ、それは?適当な言葉を並べるんじゃないぞ、惣流。よく考えればわかるじゃないか」

 その通りである。
 適当に思いついた単語を並べただけなのだから当然だ。
 時田先生はそれが癖の前髪をかき上げるといくぶんか誇らしげに言葉を発した。

「ここは中学、そしてこれはバイクだ。だから、JAというのは中学とオートバイの頭文字をとったものだ」

 中学の理科の教鞭をとるためには英語の知識がそれなりに必要なはずだ。
 中学がJunior high schoolとなるのは正しい。
 しかしオートバイという英語などはない。
 アスカもそれが所謂和製英語だということを知っていた。
 オートバイは英語ではmotorcycleと表現される。
 ここは突っ込むべきなのか。
 それとも英語ではAではなくMが正しい頭文字だと教えて差し上げるべきか。
 いつものアスカならば突っ込んだ上で正しい英語の使用法を告げていただろう。
 だが今は時間が惜しい。
 説明している間にシンジが出てきてしまったらどうするのだ。
 ここはやり過ごすのが一番だと判断したアスカは、日ごろ軽蔑している日本人の得意技である愛想笑いを一生懸命に面に浮かべた。
 
「そうですか、いいニックネームですね。では、先生、さようならっ!」

 勢いよく頭を下げると、時田先生は満足したのか少しだけ上ずった声で挨拶を返した。
 顔を上げたアスカはそのままここにはとどまっていられない。
 また話しかけられたなら大変なので、彼女は見張っていた対象のひとつである職員室と体育館のある棟の玄関に駆けていった。
 ここから出てくるか、それとも生徒用の昇降口のある棟から歩いてくるのか二つに一つしかありえない。
 だから両方を見渡せる場所に陣取っていたのだが、今度は少しでも身を隠す場所のある玄関に移動するべきだと判断したのだ。
 玄関脇に到着すると爆音が響き渡った。
 時田先生がオートバイにまたがりエンジンをかけたのだ。
 そして砂利をぱらぱらと散らしながら、思いのほか軽快に正門から出て行った。
 その雄姿を見送って、人は見かけによらないものだと思いながらも失礼ながらスーツでバイクは似合わないのではないかと思うアスカであった。

「あ、そ、惣流さん!」

 うげっ!
 と、声が出そうになったアスカはすんでのところで抑え込み、ちらりと肩越しに後ろを見た。
 目視確認する必要もない。
 この声はまさしく「アタシのシンジ」であった。
 慣れというものは恐ろしいものだ。
 馬鹿シンジと呼称するようになってから次第に心の中でもシンジ君とかシンジ様などという言い回しをしなくなったのである。
 もちろん馬鹿シンジと言うわけもなく、シンジ、シンジ、シンジ、きゃっ、などという脳内での悦楽に浸るアスカだった。
 したがって、このときも「シンジじゃない、偶然ね」という言葉を発するように脳は命じ、そして唇はきちんと変換して言葉を発した。

「何よ、馬鹿シンジじゃない。いきなり人の後ろに立つんじゃないわよ」

「ご、ごめん」

 アタシの馬鹿馬鹿馬鹿!
 この言語変換システムが自動的に実行されるのだから人間という生物の可能性は無限なのかもしれない。
 頭を抱え込んでしまいたい心持のアスカだったが、その反作用として彼女は胸を張った。

「で、アンタ、今頃何してんのよ。もうとっくの昔に体育大会なんて終わってんじゃない」

「えっと…知らなかった?僕…ちょっと転んじゃってね」

 一挙手一投足に至るまで目を離していません!
 目が皿になるならば中華料理店の円卓で真ん中にどんと乗せられる大皿にも負けなくくらいのサイズになるだろうと自負しているアスカである。
 視界にシンジがいて、そして彼に見られていないことが前提ならばその動きは瞬きもせずにチェックしているのだ。
 だが、そんなことはおくびにも出さず、アスカは知らぬ顔を決め込んだ。

「あ、そ。そんなの知らないわ。って、いうか、アンタ本当にドジね」

「はは…」

 見られてなくてよかったのか、寂しいのか、自分でもよくわからずにシンジは頭をかいた。
 アスカ語を理解するには彼はまだまだ修行が足りなかった。

「と、とにかく、障害物競走で転んじゃって、体操服を先生に借りてて、乾くのを待ってたんだ」

「へぇ、そんなのどうでもいいわ」

 全然どうでもいいわけがない。
 服の貸し借りのときに伊吹先生との間にどのような会話がされたのか。
 洗って返すなどという気の利いたことをいったのかどうかわからないが、荷物を見るとどうやらかさばるような衣服の影は見受けられない。
 だが、気になることはあっても、アスカは強引に無関心を装い続けた。

「えっと、惣流さんはどうしたの?」

「はぁ?アタシに質問なんてアンタ何様?」

 言葉とは裏腹にアスカは問われればすべてをさらけ出しても言いと思っていた。
 もっとも思っていただけで、仮にスリーサイズ、いや体重などを訊かれれば愛しの相手であってもすぐさま蹴りが飛んでいたであろうが。
 いずれにしても素直なシンジはアスカに睨みつけられて好奇心をすぐに引っ込めた。

「ごめん」

 しまった…とアスカは臍を食む。
 沈黙が訪れてしまった。
 アスカは自分のコミュニケーション能力の拙さに歯がゆい思いになった。
 そもそも何のためにシンジを待っていたのか。
 待つことに目的があり、その後でどうするのかを最終的に決めていなかったことで今更ながら自分にあきれた。
 最初はあれこれと考えていたのである。
 ところがいつものように思考があっちへこっちへと全力疾走で散歩をするために、待ち伏せが成功すればそこで考えたらいいと高をくくっていたのだ。
 そしてその結果がこれだ。
 シンジの方は大好きな女の子と同じ時間が過ごすことができラッキーだと思っている。
 傍目には一方的に悪罵を放たれているようにしか見えないが、彼自身はまったく気にしていない。
 寧ろ気が利かない自分のことを駄目だなぁと情けなく思っているほどだ。
 しかしそこで起死回生とばかりに場の空気を変える言葉を発っすることができるシンジではない。
 どうすればいいかと考えれば考えるほど泥沼にはまってしまう。
 存外不器用な部分は似ている二人であった。
 ところが、そういう状況に陥った場合にとる方法がまったく違う。
 この時もそうだった。
 
「アンタ、時田先生がオートバイで通ってるの、知ってる?」

「へっ?」

 空気がよどんだ時、窓を全開するのがアスカで、シンジならば少しだけ窓を開ける。
 因みにシンジがシャッフルするとトランプのカードは偏るのが常だ。
 思い切り窓を開け放ったアスカが呼び込んだ風はシンジにはすぐさま理解できない類の話題であった。
 時田先生のことはよく知っている。
 オートバイで通っていることは知らないが、それがどうして今?
 すっかり戸惑ってしまったシンジは何も喋ることができない。
 彼とは逆にアスカの方は思いついた話題を展開していくしか方法がなかった。

「それが全然似合わないオートバイなのよ!すっごくカッコいい黒い大きなオートバイで。
でも先生ったらそのオートバイにスーツで乗ってくのよ!さっきまでジャージ着てたのにわざわざスーツに着替えてっ。
普通なら革ジャンか何かじゃない?ねっ、そうでしょう?しかもせっかくのカッコいいバイクに汚い字で名前書いてんのよ」

「えっと、時田って?」

 息継ぎのために言葉を切ったのを相槌か何かを求めたものとシンジは誤解した。
 だから彼は必死に回答を探して真っ先に浮かんだものを言葉にした。
 それだけのことだったが、再び機関銃を乱射しようとしていたアスカにとっては青天の霹靂、いや棚から牡丹餅の方が正しい。
 アスカはその牡丹餅にパクリと食らいついた。

「はぁ?アンタ馬鹿ぁ?そんなの漢字で書くわけないじゃない」

「あ、だったら、アルファベットで…」

「時田じゃないんだってばっ。でもアルファベットっていうのは当たりよ。2文字。JとA。はい、そこで問題。何の頭文字かわかる?」

 後になってこの時の自分の発言を思い返しては、アスカは一人悦にいったものだ。
 優しいヒカリでさえ何度も手柄話を聞かされ最後にはもう勘弁してと手を合わせて頼み込んだほどである。
 さて、どんな頭文字かという問いかけがどうしてそんなに彼女を有頂天にしたのか。
 それはシンジの返答がすべてであった。

「Jと…A?」

 大好きな相手からの質問である。
 真剣に考えないわけがない。
 シンジはあからさまに考えています!というオーラを全身に漂わせ、そして目を宙に泳がせた。
 そのような彼の様子をアスカは内心わくわくしながら、しかし一見興味がなさそうなポーズをとってひたすら待った。
 待った、そして、待った。
 「レボリューション9」をフルサイズで聴いたくらいの間、アスカは待った。
 実際には15秒くらいだったのだが、彼女にはそれほどに感じたのだ。
 そして、我慢の限界が来た。
 
「早く言いなさいよっ!待ちくたびれちゃうじゃないっ」

「ご、ご、ごめん。ジャパンと…」

 その次が言えない。
 言えるわけがない。
 目を彷徨わせている間、彼の心の中は5文字のアルファベットが支配していたからだ。
 ASUKA、ASUKA、ASUKA…。
 Aの頭文字ではじまる単語などそれ以外にあるだろうか。
 いや、現実にあることはシンジにもわかっている。
 しかし、この時の彼の脳内辞書の“A”の項目には大好きな女子の名前しか記載されていなかったのである。
 いくらページをめくっても出てくるのはASUKAばかり。
 それなのに、その本人が早く言えと迫ってきているのだ。
 冗談交じりに言えばそれで済む話だが、シンジの性格であっさりと彼女の名前を口にできるわけがない。
 そして、シンジには後がなくなった。
 Jの答を言った今、Aを言わずに逃げ出せるわけがない。
 
「ジャパンねぇ、全然違うのよね、それが。で、Aは?」

 ニヤニヤ笑いながら、アスカはシンジに詰め寄った。
 この時、アスカ自身も自分の名前がAではじまることを失念していたのである。
 
「A…だよね、うん、A…」

 だめだ、アスカ以外出てこないよ、どうしよう、どうしよう、どうしよう!
 いやいやいや、アスカなんて呼び捨てにしたらだめだよ。
 アスカさん、じゃないか…って、そうじゃなくて、エーではじまるんだから…。
 あれ?あ、エーじゃなくて、アだった。ア、ア、ア、アイスクリーム!あ、あれってAじゃなかったよね。
 あああああ、雨?は日本語だよ!

 シンジの思考をいちいち記述していけばきりがない。
 それにアスカはまさかぼけっと考えているようにしか見えない彼の内側でこんな葛藤が生じているなど思いもよらなかった。
 だからこそ、面白いという感情も手伝ってさらにシンジに詰め寄ったのである。

「ほらほらほらっ、さっさと答えなさいよ!ふふん、あと10秒以内に答えなければ罰ゲームだからね!」

 罰ゲームの内容は何だろうか?
 そんなことをお互いに考える暇もなかった。
 発案者であるアスカ自身がいきなりカウントダウンをはじめたのだから仕方がない。
 にんまりと笑いながら「10、9,8…」と数えた彼女の笑みが凍りつくのはその3秒後だった。
 つまりアスカが「4」と口にした瞬間、とんでもない言葉が飛び出してきたからだ。

「あ、あ、あ、アスカっ……さん!」

 それ以外に思い浮かばない。
 罰ゲームは嫌だ。
 大好きな女の子に答えなさいと命令されている。
 シンジがついに「アスカ」と口にしてしまったのは、彼の性格上どうしようもなかっただろう。

 ぼふっ!
 アスカには確かに聴こえた。
 自分の身体の奥から何かが大きな音を立てて爆発したのだ。
 彼女は慌ててシンジに背を向けた。
 頬が真っ赤になっていく。
 心臓のドキドキが止まらない。
 どうすればこれが収まるのだろうか。

 生憎、といっていいのか、シンジにはまったく音が聞こえなかった。
 それに彼は彼で大いなるパニックに襲われていて、アスカの様子などまったく目に入っていなかったのである。
 名前を口走ったこともそうだが、その結果彼女に背を向けられてしまったのだから堪らない。
 生まれてこの方これほどの絶望感があっただろうか。
 いや、ない。
 かすかに肩を震わせるアスカを目の当たりにしてシンジは愕然としたが、とにかく全力で謝らないといけないと覚悟を決めた。
 
「ごめんなさい!本当にごめんなさい!な、な、名前を言っちゃって、本当にごめんなさい!」

 見られてなくてもいいからと、シンジは大きく頭を下げた。
 しかしその気配はすぐ近くにいるアスカには伝わり、彼女はちらりと肩越しにシンジの黒い髪を見た。
 わっ、なんて艶やかな髪なの?女性用のシャンプー使ってるんじゃないでしょうね。
 実際に母親のエメロンシャンプーを使っているシンジだったが、その効果が出ているのかどうかは知らない。
 ともあれ、アスカはその黒髪を眺めた時に心の余裕ができた。
 動悸もおさまりきってはいないがそれなりに落ち着いている。
 両手で頬を挟みこむと表面温度は大丈夫そうだ。
 よし、いける!
 なんとしてもこのチャンスを生かすのだ。
 アスカはゆっくりと振り返った。

「ばぁかシンジぃ?罰ゲームよ」

「はい!何でも言うことを聞きます!」

 下げたままの頭が精一杯の元気さをアピールしながら答えた。
 アスカの表情は邪悪に歪む。
 もしこの場にヒカリがいたなら、またやってるじゃない、もう…と呆れ果てたことだろう。
 しかしこの時のアスカは誰も止められなかった。
 まさしく千載一遇のチャンスなのだ。
 オートバイを英語だと思ってくれてありがとう!時田先生!

「時田先生が書いたJAっていうのは、中学校とオートバイの頭文字。
だからアンタの答えは間違い。大間違いだから罰ゲーム、いいわねっ?」

 その時のシンジの心境はまずほっとしたという点に尽きる。
 彼女の名前を口にしたということについて、アスカはまったく触れていない。
 素直なシンジはその事に安心したのだ。
 だから彼は先のことは考えずに返事をしたのである。

「うん!わかったよ」

 そして彼は頭を上げようとした。
 ところが現実には上げることができなかったのだ。

「じゃ、これからアタシのこと、アスカって名前で呼ぶこと。それじゃバイバイ!」

 驚いたシンジが顔を上げた時、既にアスカは背中を見せて正門目指して駆け出していた。
 彼ができることは口をぱくぱくさせるだけで、呼び止める言葉も出てこない。
 何ということだ。
 ただ唖然とするシンジだったが、予想外の追い討ちがきた。
 そのまま駆け去ると思ったアスカが正門を前にして急停止し、再び脱兎の如く彼の前まで戻ってきたのだ。
 もちろんシンジには目をぱちくりすることくらいしかできっこない。
 アスカは鼻息も荒くシンジを睨みつけた。

「もし名前にさんとか余計なものをつけたらコロスわよ。アスカって呼ばなきゃ許さないんだからねっ。
だいたい、アタシが馬鹿シンジって呼んでるのにアンタが惣流さんだなんて言ってるからアタシは困ってんの。
わかった?明日から、アスカよ、アスカ!この馬鹿シンジっ!」

 まさしく機関銃のように言葉を発したアスカは今度こそ正門を抜けて走り去っていった。
 そのスピードはおそらくリレーでごぼう抜きにした時よりも速かっただろう。
 砂煙も上がっていたのではないかという後姿を見送ってから、はっと息を吐いたシンジは空を仰いだ。
 ずっと呼吸をしていなかったような気がする。
 わずかだが茜色に染まりつつある天を見つめたシンジは明日を思い複雑な気分になった。
 明日からは惣流さんのことをアスカと呼ばないといけないのだ。
 つまりは自分のことを呼び捨てにしているのだから不公平だということなのだろう。
 もしかしたら先生に注意されたのかもしれないともシンジは気を廻しすぎた。
 彼の口元が自然にほころんでいく。
 この学校の男子で、おそらく彼だけに許された特権。
 彼女に面と向かって名前で呼べるなど、きっと自分に向けられる見えない圧迫は物凄いものになるだろうと簡単に予想はつく。
 しかし、だからといってせっかく与えられた特権を捨てるわけがない。
 シンジは困難に立ち向かおうと決意した。
 まずは、トウジとケンスケに電話をして成り行きを説明しておこう。
 そうすれば少しは立場がよくなるかもしれないし、などと楽観的な考えをシンジは持った。
 ときに悲観的であり、そしてときに楽観的な部分も持つ少年は輝くような笑顔をもらし、来客用の下足箱の隅に置いてあった自分の運動靴を引っ張り出しスリッパから履き替えた。
 その笑顔にアスカが惚れているなどと彼にわかるわけもない。
 ああ、素晴らしい明日になりそうだ。
 シンジは輝ける未来へと足を踏み出した。




 数歩進んだところで、シンジは足を止めた。
 そして苦笑すると、手に提げていたスポーツバックを肩に引っ掛けて再び歩き出した。
 先ほどまでの毅然とした足取りでないのは、明日が体育大会の振り替え休日だと気がついたということに他ならない。
 しかし、またしても立ち止まった少年は周囲を見渡し誰もいないことを確認すると、恐る恐る口を開いた。

「アスカ…」

 ただそれだけを声にすると、赤面した彼はどたばたと走り出した。
 アスカのように綺麗なフォームではない。
 だが、シンジは走らずにはいられなかった。
 身体を動かしていないと胸の奥の方が爆発しそうだ。
 できることなら大声で叫びながら走りたいところだが彼の性格ではそうもいかず、シンジは沸き立つ心の赴くままに駆け続けた。
 



− 8曲目へ続く −


 


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第7回目のためのあとがき

第7回を掲載いたしました。
大変遅くなり、本当に申し訳ございませんでした。
あの時にちょうど「マチコ」でセカンドインパクトを書いていたので、
余計にダメージを受けてしまいました。
本当にナーバスな自分が情けない。

さて、あとがきはこれくらいにして、
短編に取り掛かります。
間に合うかなぁ。

ごめんなさい。
次回から暗雲が……

ジュン

 

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