惣流アスカは玄関扉をがらりと開けると、靴を脱ぐのももどかしく自室へ向かって廊下を走った。
 学校とは違い、惣流家の純和風廊下を疾走などすれば数メートルで滑って転ぶという落ちが待っている。
 そこで小走りにせざるを得ず、それでも自室の前で足を止めるときにずるっと滑りかけるが、運動神経のいい彼女は体勢を整えると素早く身体を滑り込ませると、鞄を畳に落としそして後ろ手でぴしゃりと襖を閉める。
 普通ならこの後、傷ついた乙女はベッドに倒れこむようにするものだが、残念ながら惣流家にはベットの類はない。
 さりとてわざわざ押入れから布団を出し、きちんと敷いてからそこにダイブするような精神的ゆとりは今のアスカにはまったくなかった。
 しかしながら、彼女はすぐにでも大声で泣きたかったのである。
 学校からの帰り道、必死に泣くのを我慢して走り続けたのだ。
 教室を飛び出したときも涙はこらえていて、ヒカリから鞄を受け取ったときも「ごめんね、ありがと」と作り笑いを浮かべていたほどだ。
 もちろんそれが強がりに過ぎないことがヒカリにモロバレしていることくらいアスカは承知していた。
 それでも強がらずにはいられない。それが惣流アスカという少女なのだ。
 アスカは押入れから枕だけを取り出して顔に押し当てようとしたが、力の抑制がうまくいかず結果的に掛け布団のみならず敷布団までもが雪崩のように押入れの上段から滑り落ちてきた。
 彼女は呪詛の言葉を吐き捨てると、もうかまうものかとばかりに布団の塊に向かって突進した。
 布団の隙間に顔を突っ込むや否や、アスカの感情は爆発した。
 まるで幼児のように泣き喚き足をばたばたさせたのである。

 布団による消音効果など微々たるものだ。
 帰宅した孫娘の様子がおかしいと部屋の前まで足を進めてきたトモロヲだったが、さすがに部屋の中に入り慰めようとはしなかった。
 まずは泣きたいだけ泣けばよい、その後で助けが必要ならばいくらでも力になろう。
 彼は厳しい表情でそのように決めた。
 だが、目に入れても痛くないと言われるように、孫という存在は老人にとってかけがえのないものである。
 アスカを泣かせた不届き者は刀の錆にしてくれようと、剣道有段者のトモロヲは鼻息も荒く決意したのだ。

 旧幕時代には城代家老の要職にあった惣流家。教育委員会に登録済の由緒ある日本刀が屋敷奥に三振りもあった。




33回転上のふたり


B面 2曲目



ー Your Mother Should Know ー



 2012.6.30        ジュン

 
 


 


 自分が刀の錆という対象になっているとは、碇シンジはまるで意識していなかった。
 ただでさえのんびりしたところがあり、そして自分の価値をかなり過小評価しがちな彼は、まさかアスカが教室を飛び出したのが自分に責任があるとは
思いもよらなかったのである。
 ビートルズ同好会の面々に嘘をついたと思われたことで傷ついたものだと思い込んでいたのだ。
 シンジが上級生の主張に対し素直に頷いてしまったことがアスカを追い込んだのだと知る者はヒカリだけだっただろう。
 あのときアスカが耳をふさぐ直前にシンジの方を見て顔を曇らせていたのを彼女は確認していた。
 自分の好きな相手に裏切られたような気分になるのは仕方ないだろう。
 もっとも今は恋人でもなくただの友人なのだから、シンジがあっさり頷いたのも無理なからぬところもある。
 ヒカリはそのように好意的な解釈もしていたが、トウジは違ったのである。

 シンジは幸運にも刀の錆にはされなかったものの、見事に拳骨を食らわされてしまったのだ。
 シンジを引き連れたトウジは屋上に上がろうとしたが今日は鍵がかかっている。
 いつもはヒカリが職員室で鍵を借りてくるのだから仕方がない。
 トウジは屋上の扉の前で鞄を置き、ポケットに手を入れた。
 友人の動きに見習って、シンジも鞄を床に置いたが手のほうはぶらんと下げたままだ。
 このときまでシンジはまさか友人に殴られるとは思ってもみなかったのである。
 ご近所でいい子で通ってるシンジだが生まれてこの方殴られたことがないわけがない。
 同級生との喧嘩では暗黙のルールで顔や急所への攻撃はなかったが、両親からの拳骨は何度かもらっている。
 最もここ数年、小学校3年以降はそういうことがなかったので、今回の友人からの一撃は彼にとってまさしく青天の霹靂だった。
 ただし、トウジはいきなり奇襲したわけではない。

「なぁ、センセ。歯ぁ、しっかり食いしばりや」

 じろりと見つめられた後、トウジにそう言われたシンジはとっさに意味がわからなかった。
 ただ素直なことがとりえのひとつである彼が言われるままに軽く口を閉じたその瞬間、トウジの右手がぐんと飛んできたように見えた。
 漫画のようにふっ飛ばされはしなかったが、膝ががくんとなり二三歩後によろけたシンジは打たれた頬を押さえてトウジを睨んだ。
 
「何するんだよ!」

「気付け薬っちゅうとこか。目ぇ、覚めたやろ」

 シンジは拳を握り締めた。
 中学に入ってから取っ組み合いの喧嘩などしたことがないし、トウジに勝てるとはまるで思わない。
 しかしながらぶん殴られてえへらえへら愛想笑いをするようなことはしなかった。
 
「センセもそういう目つきするんやな。ま、そんなんちゃうかって思とったけど」

「トウジ!どういうことなんだよ!」

 はぐらかすようなトウジの口調をいつもは何とはなしに聞いていたシンジだが、こういう場合では当然むっと来てしまい彼に向かって飛びかかる秒読み
状態に入った。
 しかし、百戦錬磨とはいかないまでも小学校時代でそれなりに喧嘩慣れしているトウジはシンジが動く直前にうまく精神的間合いを外すのだった。

「センセはなんで惣流の味方せえへんかったんや?」

「え?」

 前傾姿勢になりかけていたシンジが棒立ちになった。
 味方をしなかった?僕が?え…、そんなことないよ、絶対に、僕は…。

「センセ、一応確認しとくけど、惣流のこと好きなんやろ?」

 不意を衝かれたシンジはぼんやりした顔でトウジを見つめた。

「何や、こういう時は反応悪いんやなぁ。あん時もそうしとりゃ、わしにどつかれることもなかったのに、ホンマ」

 苦笑するトウジに向かってシンジはやっとの思いで言葉を発することができた。
 その頃になって、ようやく頬に痛みを感じてきて喋り難かったのだ。

「ど、どういう意味なんだよ。それって。わかんないよ、全然」

「やっぱり意識してへんかってんなぁ、あれは」

「あれってなんだよ」

 そしてシンジはトウジの語った内容を聞き愕然としたのだ。
 自分がそんなことをしていた?いや、そういえば、そんなことをしたような気がしてきた。確かに『ラバー・ソウル』のあの曲にはそんな部分はなかっ
たから…。

「わしはビートルズのことをよう知らん。せやけど知らんから頷かへんかったんやないで。わかるか、センセ?」

「えっと、それって、やっぱり、その…」

「アホか、違うで、センセ。どうせ、わしが惣流のことを好きやとかしょ〜もないこと考えとんちゃうか」

 図星だった。
 単純思考のシンジは自分がアスカのことを異性として好きだからというそれだけの理由で、異性間に友情というものが存在するということを失念してい
た。
 
「はっきり言うとくけど、わしはあいつのこと女子として全然好きやない」

 トウジが胸を張っていったことで、シンジは少なからず憤懣した。
 彼としては恋敵は一人でもいないほうがいいのに決まっているのだが、しかし目の前で女としての魅力を感じないと言われてしまうと猛烈に反論したく
なってしまう。

「ま、せやけど、悪いやつやないわな。それくらいのことはこれまでのつきあいでわかる」

 トウジは最大の理由を端折った。
 アスカのことを信用する最大の理由は、ヒカリの親友だという一点に尽きるのだ。
 彼女の友達だから信じる。だが、それを明言できないのは男気のあるトウジとしてはまだまだ照れが大いに残る14歳というわけだろう。
 それに彼の名誉のためにはっきりしておくが、あの時トウジはヒカリの様子を確認していない。
 純粋にアスカを信じたわけだ。

「もしホンマにあいつが間違うとったとしてもそれは嘘で言うたり受け狙いやないことは確かや。
 身近なもんが信じてやらんでどうすんねん」

 ぐさりと胸にナイフが突き刺さった。
 まったくもってトウジの言うとおりである。
 なぜ自分はアスカの言うことを素直に信じられなかったのだろう。
 シンジは唇をかんだ。
 自分はあの曲にそういう部分がないことを知っていた。
 だが、その知識が壁になってアスカの発言を頭から違うと思い込んでいたのだ。
 確かにトウジもヒカリもビートルズの知識はあまりないが、もしシンジ並みに知っていたとしても二人ならアスカを信じたのではないだろうか。

「正直に言うたらな、もしあの同好会の場やなかったら、例えば練習しとるとことかやったら、信じてないかも知れへん」

 トウジはじっとシンジを見つめた。
 もしこの光景をヒカリが目撃していればただでさえ高くなっている好感度が頂点以上に達し沸騰していたことだろう。
 それくらいに今の彼は格好が良かった。
 もっともギャラリーが(特にヒカリが)いないので妙な演出をプラスしていないが故のカッコ良さである。
 しかし、少なくともこの場にいたシンジはいい友人を持ったと心の底から思ったものだ。

「ああいう場面で信じてやらへんでどうすんねん。センセ、惣流のアホに惚れとるんやろが。惚れとる相手くらい信じんかい!」

「トウジ!」

 シンジの目から鱗が完全にはがれた。
 
「わかったか。ほなどうすんねん」

「えっと、もう一発殴ってくれないかなぁ」

「はぁ?」

 トウジは自分の耳を疑った。
 何を言い出すんやこのあんぽんたんは。まあ、気持ちはわからんでもないけどな。

「ほな、なんやったらあと百発どついたろか。それで気が済むやろ」

「百…!う…、いいよ。殴ってよ。僕はそれでも足りないくらいの…」

「アホか、できるかい。そんなにどついたら、センセは再起不能やし、わしの手もぼろぼろになってまうし、そんなん100パー退学になるんとちゃうか?」

 トウジ特有の冗談と気づいたものの、シンジはやはり自分の犯した不始末に忸怩たる思いでやりきれない。
 その思いを自分にぶつけたいのだがそのやり方がわからず唇を噛むシンジの肩をトウジはぽんと叩いた。

「だいたいやなぁ、どつくとかそんなんしとる暇ないんとちゃうか?」

 ここで男らしい笑みを浮かべられれば、トウジが理想とする男気あふれる有様が体現できるところなのだが、残念ながらその笑いはニヤりの域を出るこ
とはなかった。
 もっともその不十分な笑いであってもシンジには充分気持ちは通じた。

「そ、そうだね!僕、やらなきゃ!調べないと」

「そやそや!その意気や。で、何をするんや?」

 ここで背中を押して「がんばれよ」とだけ言えば、素晴らしい男気のある中学生が完成したところだが、まだ未熟なトウジは好奇心に負けて質問してし
まった。

「うん、輸入盤について調べてみるよ。僕にだってできることがあるかもしれないし」

「なるほどなぁ」

 わしにはそこんとこようわからんけど…と思いながらも、トウジはいかにもわかったかのように大きく頷いた。

「そりゃそうや。青葉センセのこっちゃからちゃんと正解見つけられへんかもしれんしな」

 シンジは頷くと、「トウジ、ありがとう!」と階段を駆け下りていった。

「あんまり急いで階段踏み外すんやないで!」

 その声がわんわんと階段に響くなか、シンジの返事は聞こえなかったが快調な足音が遠ざかっていくのが何よりの返答だとトウジはうまくやれよと頷く
のだった。
 そして右手の拳を撫でると少しずきずきとした痛みがある。
 これだけ感触が残っているということはちょっときつく殴りすぎたかもしれないと頭をかくトウジだった。





 シンジは頬の痛みも忘れて駆けていた。
 小脇に抱えた鞄を放り出してしまいもっと速力を上げたいところだがそうもいかない。
 とにかく早く帰宅して、母の意見を聞きたい。
 あの母ならば必ず答を知っているに違いない。
 あんなにビートルズのことを好きなのだから。
 とにかくアスカを助けたい。
 青葉先生がちゃんと答を見つけるだろうけど、自分でも見つけないといけない。
 そして、アスカに謝罪し、自分で回答を探し当てたことを告げるのだ。
 親に頼るというのは恥ずかしい気はするが、他に方法が見つからないのだから仕方がないとシンジは自分を納得させていた。
 
 帰宅したシンジは自室に戻ることもなく、すぐに母親の姿を探した。
 この時間は台所で晩御飯の準備だろうと見当をつけたが予想はやや外れて彼女は食堂にいた。
 おまけにもう一人、妹もまた食堂に、つまり二人ともテーブルについていたのだ。
 さりとて食事でもおやつタイムでもなく、調理の真っ最中だったのである。
 因みに現在その空間に流れているのは『ヤー・ブルース』でユイの愛用するラジカセが音源なので、もはやかなりビートルズに詳しくなっているシンジ
は無意識のうちに“ホワイトアルバム”を90分テープに録音したものを聴いているんだなと思った。

「母さん、聞きたいことがあるんだ」

「おかえりなさい」

「あのね、ビートルズのことなんだけど」

「おかえりなさい」

「えっと…」

 この時点でようやくシンジは気がついた。
 碇ユイはけっこう礼儀作法にうるさいのである。基本的に、ではあるが。
 
「ただいま」

「はい、おかえりなさい」

「おかえり、おに〜ちゃん」

 タイミングを見計らったかのように言葉を挟んだ妹をシンジは横目でじろりと睨みつけた。
 気弱な性質のシンジなのだが、さすがに血を分けた妹相手にくらいは強気になれるのだ。
 もっとも当のレイは兄に少しくらい睨まれても涼しい顔をしている。
 いや、涼しい顔というのは比喩表現であって、実際にはニコニコしていた。
 何故ならば、彼女はただいま楽しい調理中だったからだ。

「で、シンジは何個食べるの?」

「いや、あの、それはどうでもよくて」

「どうでもいいわけないでしょ。作るのも焼くのもお母さんなのよ」

「わかったよ。いつもと一緒でいいよ」

 もっと不貞腐れてやりたいことこの上ないのだが、今日はそんなことをしていられない。
 とっとと本題に入らねばならないのだ。

「一緒?そのいつもはいくつ食べているのかしら?」

 わっ、しつこい!とシンジは辟易とした。
 ここで知らないよと反抗期の最中であることを誇示して自室へ引き上げることは容易だ。
 しかし今日はそんなことは絶対にできない。
 逆に母親の機嫌をとるくらいのことをしないといけないのである。
 したがって、シンジは不平不満は喉の奥に押し込んでにこやかに笑った、つもりだが実際にはいつもの愛想笑いを浮かべたに過ぎなかった。

「あ、ごめん。15個くらいかな?」

「15?成長期の男の子が15?もっと食べなさい」

「え、じゃ、20?」

「30個。残すのじゃないわよ。残したらお弁当に入れるから」

「勘弁してよ。あんな臭いの」

「それじゃ残さず食べるのね。レイもたくさん食べるのよ」

「うん!わたしも30個」

「無理しないで食べるのよ。お腹壊しちゃ大変だからね」

「うん!」

 この差は何だ。
 ちなみにシンジが食べる餃子は具沢山の大型餃子で、レイのは具が少なめのミニ餃子だ。
 しかも最近はレイが餃子の皮を包みたがるので、男どもが食する皿にその超大型で中身がはじけそうな餃子が並べられる。
 当然シンジは文句を言うが、父親の方はそんなシンジに「問題ない。文句があるなら出て行け」とばっさりと切って捨てるのだ。
 自称反抗期のシンジではあるが、たかが餃子で勘当されたくはなく、膨れっ面で具があふれている餃子に箸をすすめるのが常だった。
 因みにあれほど大きいのにきちんと中まで火が通っているのはユイの料理の腕がよいというわけだろう。
 しかも見た目が悪いだけで味は滅法美味しいのだから始末に悪い。
 (※但しこの時期の家庭用餃子の皮は大きくはないので具沢山の30個といっても腹を空かせた男子ならば普通に食べられる数であることを注釈してお
こう)
 シンジは自分に対し必死に言い聞かせた。
 落ち着け、落ち着け、母さんのペースに巻き込まれちゃ駄目だ、
 アスカを助けないといけないんだから!

「母さん!お願いがあるんだ!」

 シンジは真っ直ぐに母を見つめた。
 母は何も言わず見返す。
 よし、ここだ、ここで!

「おに〜ちゃん、ほっぺだいじょうぶ?」

 空気を読まない幼児の一言。
 いや、発言内容は兄思いのものであるのだからどちらかといえば褒められるべき発言だ。
 ところがだんだん煮詰まってきているシンジは言葉の中身まで聞く耳を持っていない。
 当然、彼はきつい一言を妹に投げかけてしまった。

「うるさい、レイ、黙ってろよ」

 その瞬間、あんなににこにこしていたレイはあっという間に表情を変えた。
 下唇がにゅっと出て、目がぐっと細くなり、鼻の通りが突然悪くなる。
 涙がぼろぼろこぼれる1秒前、母の一撃がシンジを襲った。

「この馬鹿兄貴」

 ごつんと音がして、激しい痛みがシンジの頭頂部を急襲した。
 はっきり言うと、彼にとってはトウジに殴られたときよりも痛かった。
 さすがに母親、叩き慣れている。

「痛っ!何すんだよ」

「シンジ、心配してる妹に何てこと言うの。叩くわよ」

「もう叩いてるじゃないか」

「その腫れてる頬を叩くわよって言ってるの」

 すっと伸びてきたユイの粉まみれの指がシンジの左の頬を撫でた。
 中指で軽く触られただけなのに、シンジは文字通り飛び上がってしまった。

「うけぇっ、いたたたたっ、ひいいい」

 情けなく大声を上げたシンジをレイがぽかんとした表情で見上げる。
 母と兄が言い争っているので泣きそびれてしまっていたのだ。

「ほら、そんなに腫れてるのよ。さっさと洗面所に行って顔洗って濡れタオルで冷やしなさい」

 シンジは母の指示通りに洗面所に急いだ。
 そして鏡を見てびっくり。
 頬の辺りが赤く腫れていて、そういえば口の中も気持ちが悪いではないか。
 ぺっぺと唾をシンクに吐くが血が混じっているわけではなく、腫れた頬が口の内側に圧迫してきているのだった。
 さっきまでは緊張していた所為か気にせず喋っていたのだが、よく考えるとべらべら喋っていたわけではなかったのを思い出した。
 慌ててタオルを濡らし頬にあてると、冷たくて気持ちがいいのと腫れにあたって痛いのが同時にやってくる。
 シンジは鏡の中の自分を見つめた。
 タオルを頬にあて顔を歪ませているのが実に情けなく見える。
 あ、あ、あ、と声を出してみるが、やはり喋りにくそうだ。
 もっと腫れるのかなぁと思っていると、鏡の中に見える自分の髪が少し変だ。
 白っぽく見えたので右手で触ってみると、ちらほらと白い粉が落ちてくる。
 ああ、そうか、餃子の皮の粉が母さんの手についていたから、叩かれたときについたんだ。
 シンジは手で粉を払うと溜息を吐いた。
 本当に僕はだめだよなぁ、目の前しか見えなくて、そんなのだからあの時何も考えずに先輩に同意しちゃったりするんだよ…。
 その時、制服のズボンのベルトのあたりが引っ張られた。

「おにいちゃん、いたい?」

 傍らを見下ろすと妹と目が合い、シンジは右の頬だけで笑った。
 レイの短い髪の上に右手を置き優しく撫でる。

「だいじょうぶだよ。ありがとう。ごめんな、レイ。さっきは」

 兄に撫でてもらうのが嬉しくて、レイは少しくすぐったそうな感じで身体を揺らした。

「おかあさんがよんでるよ」

 うんと頷いたシンジはレイと手をつないで台所へ戻った。
 テーブルの上は先ほどと同じで餃子の皮を包む工程がそのままであったが、散らばっていた白い粉は綺麗に拭き取られている。
 その上で作業を再開したのか、ユイは黙々と餃子をつくっていた。
 母の姿を見たレイは兄と手を離すとよいしょとばかりに椅子によじ登り楽しげにボールに入った餃子の具にヘラを突っ込んだ。
 
「アイスノン出しておいたからそのタオルに包んであてておきなさい。しばらく残るわよ、その調子じゃ」

 ユイは顔も上げずにシンジに命じた。
 見ればテーブルの片隅にアイスノンが置かれている。
 発熱には氷枕派である碇家でも緊急用にとひとつだけは冷凍庫に入れてあるのだ。
 頬からタオルを離しアイスノンを包む間に、シンジは母親がちらりと自分を見たのを意識した。
 これでも心配してくれてるんだと思うと、先ほどの態度を少しだけ反省するがその思いを言葉にするほどには母親に素直になれない年頃だ。
 しかも彼には何としてもやらないといけないことがある。
 しかし敵もさるもの、口を開こうとしたときに話しかけてきた。

「で、相手は?」

 誰か、なのか、どうなったのか、なのか、それとも両方か。
 鈍感と呼ばれるシンジでも二つ目だとなんとなくわかるのは14年間一緒に暮らしてきているからだろうか。
 
「無傷、だけど」

「一方的に?シンジ、やり返すこともできなかったの?あなた、それでも男の子?」

 声高に言わずに畳み掛けてくるのはいつものパターンだった。
 だがこれも慣れだろう。シンジはそれほど狼狽もせずに短く返した。

「いいんだ。さっきの母さんのゴツンみたいなものだから」

「あらそう。愛の鞭…ってことは鈴原君ね。あの子好きよ、母さん。将来いい男になるわよ」

 はいはいと諧謔気味の突込みを入れたいところだが、そして母親もそれを期待しているのだろうが、もはや寄り道はしたくない。
 シンジはユイの言葉を受け流していきなり本論に入った。

「母さん、『君はいずこへ』のイントロって輸入盤と違う?」

 喋りながらもずっと動かしてきていた指が止まり、ユイは顔を上げた。
 さすがはビートルズだなぁとシンジは変なところで感心する。

「どういうこと?」

「うちにあるのって日本のだろ。アメリカとかのレコードと違うんじゃないの?教えてよ」

「知りませんっ」

 即答だった。
 しかもいつもの母親にしては珍しく語尾に力がこもっている。
 シンジだけでなく、機嫌よく黙々と餃子作りに勤しんでいたレイも手を止めて母を仰ぎ見たほどだ。
 その時、何というタイミングか、カセットテープの曲はシンジが一番うるさくて嫌だと思っていた『へルター・スケルター』に変わったのだ。
 おそらく音楽の神様が絶好のBGMだと選んでくれたのだろう。
 ポールのシャウトががんがん響いているがシンジの頭はハードロックの曲調にかき乱されていく。
 もっとも音量はほどほどに設定してあるのでご近所迷惑クラスには達しておらず、シンジの苦手な曲だからこそ、そして今の彼の神経を逆撫でするから
いらいらしてしまうのだろう。
 
「えっと、本当?母さんが?」

「シンジ、あなた日本人でしょう?日本人なら日本盤のビートルズですべてを知りなさい」

 シンジは言葉を失った。
 母親の発言の意味がわからない。
 いや、内容の理解は充分できるのだが、どうしてこんなことを言うのかがわからないということだ。
 
「つまり、輸入盤は知らないってこと?」

「ええ、そう。知りません。知りたくもありません」

 シンジは声を失った。
 こういう展開はまったく予想していなかったのだ。
 母親のことだから簡単には教えてくれないだろうという予想はしていたのだが、まさか頭から拒否されるとは思ってもいなかった。
 びっくりし、そして焦った。
 この町に母親ほどビートルズのことを知っている人間がいるとは思えない。
 つまり、最大の拠り所にして最後の切り札だったわけだ。
 
「あのさ、じゃ、知っている人知らない?」

 シンジとすれば最大級の勇気を振り絞って口にした質問だった。
 少年のその勇気は蛮勇だったのか、母親の上目遣いの視線は殊更に冷たいものであった。
 しかしすぐにユイはふっと溜息を吐くと、息子に対して質問を投げかけたのだ。

「あなたの目的は、興味?それとも義務?」

「義務とかよくわからないけど…、うん、答が必要なんだ。絶対に」

 シンジはここぞとばかりに母の目を見返した。
 するとユイは珍しく鼻で笑うと立ち上がり、何も言わずに食堂から出て行った。
 残された妹の方は餃子作りに余念がなく騒々しいサウンドをまったく気にしていなかったが、兄はといえば心がどんどん追い込まれていきそうでラジカ
セの停止ボタンを押したくて仕方がなかった。
 だが勝手に止めると間違いなく母の機嫌が悪くなる。
 シンジは深呼吸をして我慢し、アイスノンを包んだタオルでおでこのあたりを冷やした。
 曲はいったんフェードアウトして、そしてまた騒々しいサウンドがフェードインしてきた。
 ああ、もうすぐ終わりだとシンジがほっとすると、最後に誰かが英語で叫んで『ヘルター・スケルター』は終わった。
 次の『ロング・ロング・ロング』がはじまるとやけに静かな曲のように感じたが、前の曲が騒々しかったからよけいにそう感じるのだろう。

「シンジ。さっきの誰が怒鳴っていたかわかる?」

 食堂に戻ってきながらユイが問いかける。

「さっきのって『ヘルター・スケルター』の?えっと…ジョン?」

「適当に言ったわね。リンゴよ。で、意味は?」

「わ、わかんないよ、そんなの」

 ユイは楽しげに笑った。

「シンジはそうよね。歌詞までは関係ないって感じ。日本語訳も読んだりしてないでしょう?」

 シンジは頷くしかなかった。
 確かにその通りで彼は曲は熟知しており英語の歌詞もある程度覚えていたが、その意味まではさっぱりだ。
 『Yesterday』が昨日というのは英語の授業の成果で知っているだけで、では『You've Got To Hide Your Love Away』はなんだと問えば“悲しみはぶっ
とばせ”という邦題を訳だと勘違いした答えを出すに違いない。
 
「あれはね、指にマメができちゃったよ!って叫んでるの」

 ユイはゆっくりと言った。
 その言葉を聞いて、シンジはああそうなのかという感想しか抱けない。
 そんな思いがそのまま表情に出るのがシンジで、ユイは苦笑し心の中で「まだまだね」と呟くのだった。

「はい、これ」

 テーブルの上に置かれたのはメモで、そこには数字が書かれている。
 メモを手にしたシンジは数字を呟き、それが電話番号らしいと悟った。

「電話番号?」

「そう。そこに電話して、ばあさんに聞きゃあなたの知りたい答えを教えてくれるわ」

「ばあさん?誰の?」

 父方も母方もシンジのおばあさんに相当する人はすでに死去していた。

「ばあさんはばあさんよ。それ以外の何者でもないわ。この時間なら…無理ね。8時くらいになったら電話するといい」

 時計を見たユイは娘をけしかける。

「ほら、レイ。早くつくらないとウルトラマン見られないわよ」

「ふふふ、きょうはえいてぃなの」
 
 嬉しげに笑うレイは母からの叱咤激励にもマイペースを貫く。
 ユイの方は明らかにペースアップをしていて、間違いなくこれ以上質問をすれば物事はいいほうに転ばないとシンジは判断した。
 手にした電話番号は市外局番から書かれているがその番号はどう見てもこの近所のような気がする。
 わざわざそういう書き方をしたり、名前を教えず“ばあさん”としか言わないところを見ると…。
 だめだ、僕にはわかんないや。
 自分には推理能力が乏しいことを自覚するシンジは壁を時計を横目で見た。
 まだ、5時30分にもなっていない。
 彼は大きく溜息を吐くと床に落ちていた鞄を手にし、そして自分の部屋へと向かった。
 宿題が3科目出ているのをやってしまわなければならない。
 こんな時に宿題をしようと考えるのは、糞真面目なのか、それとも大物なのか。
 碇シンジはとぼとぼと階段を上っていった。





 同じ時刻、森閑としたお屋敷町では青葉先生が冷や汗を流していた。
 目の前に立っているのは惣流トモロヲである。
 年寄りで自分より頭ひとつほど背が低い相手なのだがこの威圧感はなんだろうか。
 刀を持ってもいないのに、真っ向から斬られるのではないかという意識にとらわれる。
 教師という職業上、お近づきになりたくもないような父兄と面談するときもあるが、これほどまでにしどろもどろになってしまう相手は初めてだ。
 初対面のときもかなりきついと思ったのだけれども、今回はひとしおである。
 その上、トモロヲはここぞとばかりに旧家の威厳というものをフルに生かしているのだ。
 「何用じゃ」はねぇだろう!時代劇じゃあるまいし!俺はおたくの孫のことを心配して来てるんだってぇの!
 心の中でいくら叫ぼうが意味はない。
 青葉先生が口にできたのはたどたどしい事情説明に過ぎなかった。

「つまりこういうことかの。ビートルズ同好会とやらでアスカが嘘を吐いたとみなから責められたと?」

「簡単に言えばそうです」

「最初から簡単に言ってもらえれば時間の無駄にはならなかったものを」

 あんたのせいだよ!あんたの!
 大久保利通は報告を受けるときにわざと目を瞑って威圧感を減らして喋りやすくしてたって知らないのか?
 いかにも社会教師らしい感想を抱きながらも、青葉先生は本題へと話を進めた。

「ですので、私としては惣流の無罪を立証したいわけで」

「アスカには会わされんの」

 きっぱり、という形容詞が実にぴったり嵌る口調だった。
 いくら無実を明かすためとはいえ、あれほどに泣き続ければ他人に合わす顔がないだろうという判断は当たり前であろう。

「しかし…」

 青葉先生が説得をしようとしたとき、傍らからヒカリが口を出した。

「あの、おじいさん。テープでいいんですけど。アスカがいつも聴いてるので『ラバー・ソウル』ってアルバムのレコードを録音したテープです。それがあ
ればいいと思います」

 ヒカリは誠実さのこもった言葉で訴えた。
 友人が今どういう状況にいるか、彼女には容易に想像がついた。
 あれほど我慢をしていたのだから一人になったときに悲しみが爆発しているに違いない。
 だから誰にも会いたくはないだろうということくらいわかるのだ。
 ここへの道すがら、輸入盤と国内盤のレコードの違いがあるかもしれないということは青葉先生から聞いていた。
 彼女の知識ではすべて理解したとはいえなかったが少なくともアスカが聴いていた音源があれば同好会の面々への立証はできる。
 ただ、それが立証できても、アスカの心は晴れないということも、ヒカリだけは知っていたのだが。

「なるほど。それならばアスカが持っているはずじゃ。わしが預かってこようて」

「はい!お願いします。あ、それと、明日の朝、私一緒に学校に行きたいなって。何時に来たらいいか聞いて下さい」

 「わかった」とヒカリに微笑みかけ、トモロヲは背を向けた。
 教師とはいえそれほど大人にはなりきっていない青葉先生は、ヒカリへの対応を見て当然のことながらおかんむりでトモロヲの背中に向かって罵詈雑言
を浴びせ続けた。
 もちろん、心の中で。

 しばらくするとトモロヲはカセットテープを手に玄関に現れた。
 テープを青葉先生に渡すと、アスカの伝言をヒカリに伝える。

「絶対に学校に行くから、一人で大丈夫、だそうじゃ。ありがとうと言っておったぞ」

 心からの感謝をトモロヲは表情と言葉に込めていた。
 なんと心の優しい女子であろうか。本当にいい友人を持ったものだ、アスカは。
 
「わしからも感謝する。これからもうちのじゃじゃ馬のことをよろしく頼みますわい」

 老人に頭を下げられて、ヒカリは真っ赤になって「とんでもないですこちらこそ」などという意味の言葉を口走った。
 この光景を傍で見ていて、青葉先生はさすがに教師ということか自分の考えを深く反省した。
 お調子者ではあるが、この男やる時はやるのである。
 しかも愛しの伊吹先生に明日の朝までと期限を切られているのだ。

「洞木、送っていきたいところなんだが…」

「大丈夫です。バスで帰りますから」

 ヒカリはにっこり笑い、トモロヲに「アスカにまた明日学校でと伝えてください」と言い残し駅前のほうへと歩いていった。
 その後姿を見送って、しみじみとした言葉がトモロヲの口から漏れた。

「よくもまぁ、あんないい子を友達にできたもんじゃ」

「洞木は自慢できる生徒です」

 思わず相槌を打ってしまった青葉先生はしまったと思ったが、隣に立つ老人からのきつい一言はなかった。
 このとき、トモロヲは苦境にある孫娘に思いを馳せていたのだ。
 アスカが追い込まれた経緯はわかった。
 学校でのあれやこれやは、あの頼もしい友達と、このいささか頼りないが少しは見込みがありそうな若僧に任せても大丈夫だろうと判断した。
 だが、一番大きな問題はそこではない。
 惣流の家のものがそれごときのことで涙を流すものか。
 男だとか女だからとかいうものではない。
 誇り高き惣流家の血筋のものであるならば、他人からどう思われようが毅然とした態度で立ち向かっていくだろう。
 しかし、トモロヲは知っている。
 家訓として口伝てに伝えられてきたことがある。
 みだりに色恋の道に踏み入れることなかれ。
 いかに堅物の者であっても一度異性に心を奪われると利害や常識を度外視し猪突猛進になってしまう。
 江戸時代より身内だけに伝えられてきた悲喜劇が幾例もあるのだ。
 そんなことはあるまいと父から伝えられていて鼻で笑っていた当のトモロヲ自身が戦前に留学したドイツから白人娘を連れ帰ってきたのだから、この家
訓については身に沁みて了解している。
 娘のキョウコもそうだった。
 内心これは駄目だろうとあきらめ気分もあったのだが、それでも親として相手の意向も確かめずにアメリカへ特攻していこうとする娘を彼はきつく戒めた。
 しかし、その結果が今自分の部屋で悲嘆にくれている孫娘の誕生だ。
 好きになった相手ができればもうどうしようもない。
 相手の言動に一喜一憂しその相手を自分のものにするまでは、血に飢えた肉食獣の如き本能に支配された頭はまともな行動を指図しない。
 ただし一言だけ付け加えると、惣流家の色恋沙汰はそのほとんどがプラトニックな関係のままで推移していく。
 旧幕時代に伝わる二三の大きな事件はそれがプラトニックの域を早々に超えてしまったことが起因しているのだ。
 腹を切ったものまでいるのだから、この血筋は大変なのである。
 こういった厄介な血統であるのに戦国時代より代々重役の責務を果たしてきているのだから惣流家は侮れない。
 ともあれ、惣流家の正嫡子であるアスカがあのように身も代もなく悲しんでいるのだ。
 間違いなく、この事件には男が絡んでいる。

「さて、先生」

 トモロヲは長い時間『惣流家の人々』を回想していたのではない。
 それはほんの数秒のことで、すぐに隣に立つ教師に過大なプレッシャーをかけるのだった。

「アスカのこと、よろしく頼みましたぞ」

 そして肩を軽くぽんと叩いたのだが、青葉先生にとってはそれがとてつもなく重く感じ、手にしたカセットテープが正倉院から借り出してきた香木の如
き貴重なもので彼に重責を担わせているようにまで思えてきたのだ。
 これが市役所で有名だった惣流助役の肩叩きである。
 威圧感に追い出されるようにして表に出た青葉先生の眼前で惣流家の門が閉まり閂がかけられた。
 こうして見ると県の重要文化財になってもおかしくないほどの権高さがある。
 しばし呆然と門を見渡していた青葉先生だったが、ぶるりと身を震わせた。

「よし、まず聴かなきゃな。それから…、あちこち電話で確かめる!」

 それは伊吹先生に見せたいくらいの男気あふれた横顔だったが、生憎見ていたのは横丁を根城にしている黒猫だけだった。





 男気といえば鈴原トウジだが、その頃彼は相田ケンスケの部屋にいた。
 シンジを叱咤激励したのはいいものの、やはり友人をぶん殴ったのだから良心の呵責に苛まれてきたのである。
 で、訪れた先がもう一人の親友であるケンスケというわけだ。
 その話を聞いて最初に発したケンスケの言葉はトウジの耳を疑うようなものだった。

「カッコいいなぁ。俺にもできないかなぁ、そういうのを」

「おい、ケンスケ。わしは別にカッコつけてセンセをどついたんとちゃうで」

「わかってるって。だけどさ、いざそういう時に友人を殴れるのって簡単にはできないと思うぜ」

「そうか?」

「ああ、まず殴ったら殴りあいになっちまうわな、俺だったら」

「意味わからんわ」

 ケンスケはニヤリと笑った。

「つまりこうだ。同じ理由で俺がシンジを殴るとするだろう?すると殴られたシンジはどうする?」

「そりゃ同じやんか。反撃しようとするやろ」

「ああそうだ。そして取っ組み合いのけんかになる」

「いや、待てや。ちゃうって。けんかにならへんで。そこでずばっと言ってやってやな」

「そこだよ、トウジ。悲しいことに俺にはお前みたいな威厳がない」

「威厳?アホか。そんなんわしにこれっぽっちもあるかいな」

 トウジは右手の指で3mmほどの隙間を作って見せた。
 
「俺の場合はこうだぜ」

 その微妙な隙間をケンスケは自分の指で上下にはさんで密着させた。

「俺はゼロだ。だから理由を説明する前にシンジに殴り返されて、そうなるともう何がなんだかわからないようになるだろうな」

「いやいや、ちゃうやろ、それは」

 違わないんだぜ、トウジ。
 反論を彼は喉の奥に飲み込んだ。
 ケンスケは話を引っ張らなかった。
 どれほど説明してもトウジにはわからないだろうと彼は思っている。
 トウジは親友の思いには気がつかず、もう炭酸が抜け気味になってしまった三ツ矢サイダーを飲み干した。
 瓶についていた水滴を学生ズボンで拭うと、彼はげっぷの代わりにふっと溜息に近い息を吐く。

「まあ、ええわ。これでセンセが張り切ってくれたらええんやし」

「それは大丈夫だろ。あいつの母さん、ビートルズの鬼だっていつもシンジが言ってるんだしな」

「せやな。これでセンセが真っ先に惣流のやつに謎が解けたいうて報告したら万々歳や」

 だな、と相槌を打った後、ケンスケは意を決して語りかけた。

「実はな、トウジ。悪いけどアレはもうやめようかと思ってるんだ」

「アレ?ああ、アレかいな。わしはそりゃあ本音で言うと小遣い減るし痛いけど、まあ、かまへんで」
 
 壁に耳あり障子に目あり。
 団地の鈴原家と違って一戸建ての相田家だからいきなり襖を開けられて慌てふためくなどということはないが、それでも女子の写真を売って小遣い稼ぎ
をしていると親に知れればただでは済まないことは二人とも承知しているのでアレで通じるようにしているのだ。

「いいのか?本当に」

「ええで。ああいうのは引き際が肝心や。それこそ親にばれてしもたって連中には言うとったらええんとちゃうか」

「そうだな。まあ、最後に一枚ずつ無料でプレゼントしてやったら無茶を言うやつもいないだろうしな」

 そこでトウジがにんまりと笑った。

「で、どないしたんや。アレで金貯めて今のんよりもっと望遠がきくやつ買うんやなかったんか?」

「それだよ。結局、アレのためにアレ用のレンズを買うってことになるわけじゃないか。それに気がついたのさ」

「せやけど、レンズやったら他にも使えるやんか」

 トウジの疑問に対するケンスケの答はこうだった。
 先週の日曜日、彼は郊外にある古寺に赴いた。
 学園祭で発表する写真を撮りに行ったのだ。
 山茶花が美しいことで有名なこのお寺は山の麓から少し上がったところにあり、街を一望できることからもケンスケのお気に入りの撮影ポイントになっ
ていた。
 見かけよりもアウトドア派の彼はカメラと機材をつめたリュックを背にサイクリング車を走らせ、到着した後は食事も忘れて撮影に熱中したのだが、途
中でにわか雨に遭遇した。
 寺の外れにあるお堂で雨宿りした彼は雨がやんだ後、くっきりと空に浮かぶ虹を見たのだ。

「で、これがその虹だよ。どう思う?」

 受け取った写真を見てトウジは素直に答えた。

「きれいやな」

「だろ?でもな、それはあの景色をちゃんと切りとれてないんだよ。俺は広角レンズを持ってないからな。街の上空にこう広がる…」

 ケンスケは両手を大きく広げた。
 確かにそれほど大きな虹であったならばこの写真では物足りないだろうとトウジは思った。

「…すっごく大きな虹を写真におさめることができなくてさ。ものすごく残念だったんだよ」

「ああ、それはようわかった。せやけど、それやったら、アレ続けてそっちのなんとかレンズ買うたらええんとちゃうか」

 至極もっともな疑問だ。
 ところがトウジの予期せぬ返答がケンスケの口から漏れた。
 それは少し照れながらの発言だったが、トウジはすっかり感心してしまったのだ。
 彼はもっとわけのわからない理由、屁理屈に近いものや好きな女子ができたからもう他の女子は撮らないとかそういう言葉が出てくるものだと思い込ん
でいたのである。
 ケンスケの説明は数枚の写真で示された。
 それはすべて葛城ミサトが被写体になっていて、全部の写真で彼女は笑顔を示しポーズをとっていた。

「さすがミサト先輩や。ごっつい美人やし、笑顔満開でまさしくサービスサービスやな」

 練習風景や舞台写真を撮る事で双方にメリットがあるため、写真部と演劇部の関係は良好である。
 そして演劇部副部長であるミサトはアレのことを知っていて、その上で彼らに協力していたのだ。
 報酬はアレが露見した去年の夏、中学のすぐ近くにあるパン屋さんの店先の冷蔵ケースで冷やされていたHI−Cオレンジ50であった。
 後にも先にもその1本きりで、彼女は文字通りサービスしてくれていたわけだ。
 もっとも演劇部用の写真をしっかり撮りなさいよと釘を指されていたのは事実だが、その実彼女も楽しんでいたのかもしれない。
 さらにもう一枚の写真をケンスケはトウジに渡した。
 それは真剣な表情のミサトを写したもので芝居の練習をしているところを捉えたものだった。

「おう、これもええなぁ。カッコええやん」

「だよな。でもこういう顔を俺の前ではしてくれないんだよな」

「してるやんか。こうやって」

「いや、これは俺に向かってじゃないだろ。いつも営業スマイルって感じでしか写ってくれないんだ」

 トウジは怪訝な顔になった。
 ケンスケの言うことがいまひとつ理解できないのだ。
 その表情を見てケンスケは詳しく説明する。
 ケンスケが言わんとしているのはこういうことだった。
 面と向かってミサトの写真を撮っているとき、どんなに言葉や状況をつくっても彼女は自分のペースでしかシャッターを押させない。
 つまりケンスケは自分の撮りたい写真を撮らせてもらえないわけなのである。
 
「なるほどなぁ。誰がシャッターを押しても一緒やってことかいな」

 頷くケンスケに対し、腕組みをしたトウジはそれでもまだ首をひねっている。

「そやけど、それでもなぁ…」

「仕方ないな、決定的なの見せてやるよ。誰にも言うなよ」

「誰にも?ヌードかっ」

「馬鹿か。いや、すまん。アホか、だな」

「ちゃうんか。つまらん。ほな、ミサト先輩のどんな写真やっちゅうねん。そら、どんなんでも…」

 トウジの言葉が途中で止まったのは、渡された写真が彼の予想を大きく裏切るものだったからだ。

「これ、リツコ先輩か?」

「ああ、そうだな」

「撮ったんはお前か」

「ああ、そうだ」

「さよか…、よう撮れたな」

 トウジはそれ以上何も問わずに写真を返した。

「Tell me what you see…かいな」

「なんだよ、それ」

「ビートルズの曲や。そんな感じやな、この写真は」

「凄ぇな、トウジ。お前、ビートルズに興味なかっただろうが」

「ああ、あらへんで。せやけど、ああやってドラム叩く羽目になってしもうたんやからな」

「それに誰かさんに協力してもらってるんだから、お前も勉強しないわけにはいかないよな」

 にやりと笑ったケンスケを睨みつけたトウジだったが、すぐに目をそらし頭をぼりぼりとかいた。

「まあ、そういうこっちゃな。カッコつかんさかいに」

 横顔を見せて嘯く彼をケンスケは羨望と嫉妬がないまぜになった表情で見た。
 これがどうしても自分に真似ができないトウジのキャラクターだった。
 自分は物事に興味がもてないと調べることもしない。
 宿題という義務をかぶせられると仕方なしに動くがそれだけのこと。
 要は情熱を傾ける分野を自分で限定しているのがケンスケだった。
 ところがトウジはやらねばならないものは食欲がわかなくとも箸を手にし不味くはないという顔で食べてしまう。
 そこがケンスケには羨ましく、そして憧れるのだ。

「おい、トウジ。そろそろ親父が帰ってくるぞ。お前のところもじゃないか」

 7時45分を示している壁の時計をケンスケは横目で促した。

「床屋は後片付けが大変なんや。シャッターがらがらって閉めたら終わりっちゅうカメラ屋さんとは違いますねん」

 おどけて語るトウジを見て、シンジを殴ったことのもやもやは大分晴れたのかなとケンスケは思った。

「だけど、親父はジャイアンツファンだぜ。今日は阪神戦だから居心地悪いんじゃないのか?」

「アホか。まだ覚えてへんのかいな、ケンスケ。わしは阪急ファンや」

「でもセリーグなら阪神と違うのか?」

「甘いわ。せやな、2番目に好きなんはけったくその悪いバッファローズで3番目がどろくっさい南海で…」

 パリーグファンの演説を拝聴しながら、ケンスケは受け取ったまま手にしていた写真を机の中にしまった。
 小学生のときに感じたカメラへの想いをふたたび甦らせてくれた、大切な写真を。





 シンジは深呼吸を繰り返していた。
 8時になったら電話をする。
 相手の名前もわからない電話をかけるなどシンジにとってはとんでもないプレッシャーだ。
 結局、プレッシャーの中で宿題はほとんど進まず、部屋の中をぐるぐるうろうろと歩き回る時間のほうが長かった。
 どういう風に話をしようかとメモにまとめたり練習をしたりしたのだが、それでも完全版が完成しないのがいかにも彼らしい。
 やはり誰に質問すればいいのかという点が彼には気がかりでならない。
 先ほども母親に誰なのかを尋ねてみたがけんもほろろの返事でばあさんはばあさんだとにべもない。
 最後に一言だけヒントになるのかならないのか、吐き捨てるようにユイは言った。
 
「ばあさんは用済みなの」

 それを耳にしたレイがフレーズが気に入ったのか「ば〜さんはよ〜ずみ」と呪文のように繰り返している。
 ぶどうをつまんでは口に入れる妹を横目で見ながら、シンジはあれだけ餃子を食べてよく入るものだと自分の膨らんだ胃袋を恨めしげに見た。
 アスカが大変だというのに母親怖さも手伝って口にしてしまうのだから自分が情けない。
 消化を助けようという意図はなく、ただやる気を出すために彼は廊下で屈伸運動をした。
 廊下の電話台に置かれた黒電話はかけるのなら早くしろと言わんばかりの威圧感だ。
 しかし、ここで電話をすると食堂に丸聞こえだなとシンジは鼻白む。
 もっともいざとなったら母に声をかけないといけないだろうし、そういう意味では近くにユイがいるほうがいいのだろう。
 それに聞いてないぞという風情を醸し出しておきながらしっかり電話の内容はチェックしているに違いないとシンジは珠暖簾越しに母を恨めしげに見た。
 よほど嫌いか苦手な相手なのだろう。
 ばあさんというからには母より年上の女性だと思うのだが、そういう人に彼はまったく心当たりがなかった。
 その時、柱時計が鳴った。
 同時にシンジは受話器をぐっと掴んだ。
 メモに書かれた番号を人差し指でダイヤルするが、元の位置に戻ってくるのがもどかしい。
 最後の0が戻っていく間、シンジは喉から水分がなくなってしまったのではないかというような錯覚にとらわれた。
 思わず、ごほんと咳払いをし喋ることができるのを確認する。
 だが、予想以上に早いタイミングで相手が出たのでシンジは大いにうろたえてしまった。

「はい、もしもし」

 ばあさんと呼ぶにはあまりに若々しい声である。
 そのことも手伝ってシンジは用意していた言葉をすぐに出すことができなかった。

「あ、あの…」

「往診でしょうか。それとも」

「は?」

 “おうしん”とは何だ?
 シンジはその言葉に往診という漢字を当てはめられず、間の抜けた声を漏らしてしまった。

「もしもし?間違い電話ですか?」

 張りのある声の中に少しきつめの要素を含んでくる。
 その声にシンジは何とはなしに聞き覚えがあるような気がしてきた。
 そこで彼は気がついた。
 もしかすると間違い電話かもしれない。
 シンジは慌てて「そちらは0…」とメモの数字を読み上げた。
 すると電話の相手は少しほっとしたような感じで答えてきた。

「ええ、こちらの番号で合ってます」

「あ、すみません。えっと、僕は碇シンジといいます。実は…」

 母にこの番号を教えられたのだが云々と散々自室で練習してきたフレーズを続けようとしたシンジだったが、それより先にかけられた言葉で舌が凍りつ
いたように動かなくなってしまった。

「あら、2年の碇君。お話しするのははじめてね。私に用?それとも母さんに?」

 先ほどのような余所行きの口調ではなく、きびきびとした隙のない言葉は聞いたことが何度もある。
 
「あ、あの…、もしかして、赤木先輩ですか?」

「まあ、私の家と知らずに電話してきたの?ええ、私、赤木リツコ」

 赤木リツコ先輩が“ばあさん”なのか?
 いや、いくらなんでもそれはないだろう。
 となれば、“母さん”が、赤木小児科の赤木先生がそうなのだろうか。

「あの、つまり、大事な質問があって、母さんがこの電話番号の人に答えてもらえって…」

 しどろもどろではあったが何とか説明はできたシンジだが、“ばあさん”という単語を口にせずに喋ることができてひとまずほっとした。

「まあ、そうなの?あなたのお母さんが?なるほど、じゃ私じゃなさそうね。母さんはもうすぐ家に戻ってくると思うわ。まだ診察室にいるの。用があるのなら折り返しかけま
しょうか?それとも、簡単な質問でなければ直接話せばどうかしら?歩いて10分もかからないでしょう?」

 そう。
 赤木小児科医院は春日4丁目にあり、1丁目の碇家からは程近い。
 何より、小学生低学年まではシンジのかかりつけの医者だったのだ。
 当然、赤木先生とは面識があった。
 シンジは珠暖簾越しに素知らぬ顔でいる母親を睨みつけた。
 自分とほとんど年が変わらない人をばあさん扱いするなんてどういう了見なんだろう。
 いったいどういうことなのだと思いながらも、旧知の人間であることも手伝って気が軽くなったシンジはあっさりと決断した。

「すみません。じゃ、そちらに行きます。あ、伺います。説明に時間がかかりそうですから」

 応諾の言葉をもらったシンジは食堂に行き、母に声をかけた。
 赤木医院に行ってくると言えば、ユイはどうでもいいという感じで「あ、そう。遅くならないようにね」と返してくる。
 じゃ、と出て行こうとすると母親の声が背中を襲った。

「歯磨きしていきなさいよ。その口臭は失礼だと思わない?」

 足を止めたシンジは口に手を当て息をしてみる。
 しかしながらもちろんのこと、自分で臭いがわかるわけもなくシンジは言われるがままに洗面所に向かった。
 ごしごしごしと歯ブラシを動かしながら、あの先生もビートルズのファンだったのかと意外な感じがしたが、そもそも医者が好きな子供がいるわけもな
く、注射に怯える恐怖の時間にどういう会話がなされていたかも覚えていない。
 口を濯いだ後にもう一度口の臭いを確かめてみるがやっぱりよくわからず、これでいいかなと思いながら玄関に向かうとそこに置かれていたのはスーパ
ーマーケットのビニール袋に入ったタッパーだった。
 そこにはメモが添えられていて、「すぐに冷蔵庫に入れれば明日でも可」と書かれている。
 どう見てもタッパーには餃子がつめられているようで、シンジは訝しんだ。
 いったい仲がいいのか悪いのか。
 シンジは首をひねりながらもビニール袋を手に家を出た。
 そして歩き出したがすぐに足を速め、ついには走り出すのだった。
 のんびりしているようには見えるシンジだが、何とかして謎を解きたいという思いはひとしおなのだ。

 すっかり夜も更けてきた住宅街を快活な運動靴の音が小さくなっていくのを玄関先でユイは微笑みながら聞いていた。

「頼むわよ、ばあさん」 

 彼女の呟きは秋の夜にとけこむように消えた。

 
 


− 10曲目へ続く −


 


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第9回目のためのあとがき

第9回を掲載いたしました。
アスカを早く助け出さないと…と思いながらも
どんどん書き加えていくので
アスカにとっては長い夜になってしまいそうです。

構想当初では空気な感じだったリツコが出張ってきそうです。
といいますか、やっつけでビートルズファンになった二人に対して
何か書かないといけないなという思いが強くなってきて、
そのためにトウジだけではなくケンスケとリツコにがんばってもらいます。

昔は餃子は手作りが基本だったような気がします。
出来合いのものの場合、保存に問題があったのかなぁ。
そして大ぶりの餃子は外食で、
家での餃子は小ぶりって印象があるんですが我が家だけだったかもしれません。

ジュン

 

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