ドイツ語訳 Adler様 (ありがとうございます!) |
− V −
「じゃ、ずっとドイツ語で通すのかい?」
「そういうこと。レイの前でもね」
「うう〜ん、何だかそれって寂しいような」
「いいじゃない。こうして二人だけの時は好きなだけ日本語で喋ればいいんだから」
「痛っ」
さすがにこんな本能的な叫びは日本語になってしまう。
そのうちに自分も「Aua !
」と口走るようになるのだろうか。
彼女に肩口を噛みつかれた青年はふとそんなことを思った。
「声が大きいわよ、馬鹿シンジ」
叫びを上げさせた張本人に真顔でたしなめられ、青年は膨れた。
リビングの大きなソファーに彼女のベッドから毛布を引っ剥がしてきて、二人してその中に包まっている。
外は氷点下になっているが、人肌の温かさでまったく寒くはない。
ここには部屋が二つしかない。
キッチンとリビング、そして寝室だ。
その寝室には親子それぞれの大きなものと小さなベッドが並んでいる。
さすがにそのような状況で抱きあえるような二人ではない。
レイをしっかり寝かしつけてから、リビングの方で互いの気持ちを確かめ合ったのだ。
会話も何もなかった。
ただお互いの名前を呼び合うだけ。
“アスカ”、“シンジ”と。
その後ですっかり逞しくなったシンジの胸に頬を寄せて、アスカは全てを語った。
レイは確かに二人の子供だ。
あの夜、アスカはシンジの子を孕んだ。
おそらくそうなるだろうと思い、その彼女の期待通りにEUの施設で妊娠が発覚した。
もちろん、彼女は産むことを主張し、時満ちて幼子が誕生する。
そして、彼女は名前を変えてミュンヘンの街に住むことになったのだ。
住まいと就職口を紹介されて。
そこで過ごすことでEUに情報が筒抜けになることは承知していた。
そういった対応がアスカとシンジで似通っていたことに、二人は笑い合いそして喜んだ。
じたばたする方が不利になる。
利巧にならざるを得なかった子供の身を守る知恵だったのだろう。
いずれは会える。
自分を探しに来てくれるとアスカは信じていたのだ。
例え彼が姿を見せなくても、きっとそれは最善を尽くしてのことだと決めていた。
その場合はシンジには悪いが自分は生きていける。
自分には子供がいるからだ。
EUとの約束で彼女は出国できない。
パスポートが発行されないのだ。
だから彼女は待つことしかできなかったのである。
「ねぇ、シンジ。アタシの名前当ててみて?」
「えっ、やっぱりアスカじゃないの?」
「当たり前じゃない。ま、名前の方は平凡なものにしろって言われちゃってさ。
でも、姓の方はがんばったのよ」
「姓かぁ。僕の方は姓は“鈴木”、“佐藤”、“田中”のみっつから選べって強制されてね」
「で、田中にしたわけね。田中シンジねぇ。冴えない感じ」
「そう言わないでよ。仕方がなかったんだから」
「ま、いっか。少なくともシンジって名前だけは守れたんだから」
「まあ、平凡な名前だったから」
「アタシのアスカはねぇ、白人の名前じゃないものね」
「で、何にしたの?」
「アンタねぇ、質問したのはこっちでしょうが。まあいいわ。名前の方は。
あのね、ゾフィーっていうの。ラテン語読みでソフィアね」
「ああ、えっと、確か…」
「うんうん?」
「その言葉の語源は…」
「うんうん?」
「ええっと」
「ねえ、噛み付く準備していい?間違えたらガブリ」
悪戯っぽい眼でアスカが見上げた。
間違えたらと言いながら、もうその気は満々のようで唇を大きく開けて歯を見せている。
「思い出した!知恵じゃなかったっけ。確か」
言ってしまってからどう見ても猫科の彼女を恐る恐る見ると、不機嫌そうに唇を尖らせていた。
「ちぇっ、歯形が残るくらい噛み付いてやろうって思ってたのに」
「助かった」
「まあいいわ。姓の方で勝負。当たらなきゃ、噛み付く」
「ええっ。ヒントは!」
「なしっ」
アスカはにっこりと笑った。
「そんな…わかるわけないじゃないか」
「じゃ、あきらめて降参って言いなさいよ」
「だって、アスカの歯って食いちぎられそうで…」
「失礼ねっ。ああ、でも素敵。アスカって呼ばれるのって」
「みんなからは、その…ゾフィーって?」
「ううん、えっとね、その…、つまり、姓の方で呼んでもらってるの」
そう答えた途端、彼女は顔に朱を走らせた。
それはもう紅葉の如く見事に。
この答えは青年を途惑わせた。
何故姓で呼んでもらって恥らうのか。
「わかる?ねぇ、何て呼んでもらってるのか」
青年はどぎまぎしてしまった。
こんな表情は殆ど見た事がなかったのだ。
瞳を潤ませて、頬を赤らめて。
しかも毛布からはみ出している肩口の白い肌は刺激的で眩暈がしそうなほどだ。
「ああ、困ったなぁ。噛み付かれるのはいやだし。ヒントがないなんて酷いよ」
「うっさいわね。4年も離れ離れになっていた奥さんにそんなこと言う?」
「お、奥さんって。アスカ」
「あっ、今笑ったっ。あのねっ、アタシは結婚するつもりであの時アンタに穢れのない身体を捧げたのよ。
ってことは、アンタはただの遊びでこのアタシをっ」
「ち、ちょっと待ってよ!ぼ、僕は」
「うんうん、僕は?」
シンジはどぎまぎした。
あの使徒戦が終わってからの日々。
二人の心は触れあい、その気持ちを確かめ合うことはできた。
その時にもあまり見ることができなかった表情である。
キラキラした目で自分の言葉を待っている。
あの頃はもっと大人びていたような感じだった。
それがどうしてかは、寝物語の中でだいたいわかった。
サードインパクトの後、アスカは入院という名目の拘束をされ、シンジは監視付きで中学に通わされた。
ただ共に同じ街の施設であったから、会うことだけは可能でお見舞が毎日行われたのである。
国立病院の敷地に隔離された施設があり、要人が入院するようになっていたのだが、
そこに惣流・アスカ・ラングレーは収容されたのだ。
だが、事前に彼女は国連に連絡を入れていたため日本政府だけでなく国連の監視下にも置かれることになる。
これは彼女の作戦通りの展開だ。
アスカには記憶がなかったのだが、戦略自衛隊の艦船を手当たり次第に破壊したらしい。
そこに人間がいたことを聞かされて彼女は愕然とした。
恐怖心とか使命感といったようなものに捉われていたのか。
アスカにはよくわからなかったが、その責任を取らされることは目に見えて明らかだ。
いくら未成年者と言っても外見は白人である。
異国の人間を生贄にするのは容易に想像できた。
彼女は死にたくなかった。
赤い海の畔で、ようやく彼女の居場所を見つけたのだから。
シンジの手にかかるならまだしも、何故他の人間に殺められねばならないのか。
アスカは必死に考え、そして日本を去ることを決意した。
だが、シンジが彼女の思い通りに追いかけてきてくれるだろうか。
最大の問題がそこにあった。
彼に計画の全てを話し、誓いを立てるように迫るか。
シンジは絶対に賛成してくれる。
その自信は100%あったが、しかしそれでは不安だったのだ。
焦った彼がとんでもないことを仕出かさないだろうか。
時に彼が暴走してしまいがちなことは何度もそばで見てきた。
彼女が火口に消えてしまおうとしたその時に、通常装備でマグマの中に飛び込んでくるような少年なのだ。
もし耐え切れずに脱走したりすればどうなる。
自分たちはまだ子供に過ぎないのだ。
ましてパスポートも持っていないシンジが容易に出国することなどできるわけがない。
となればどうする。
アスカは一人きりになったとき、ずっと考え続けた。
パソコンやノートは使えない。
証拠を残してはいけないので、全てを自分の頭の中で組み立てないといけないのだ。
その日から彼女の孤独な戦いがはじまった。
見舞いに来るシンジとは明るく会話をする一方、アスカは計画を進めた。
必ずどこかに仕掛けているであろう盗聴器とマジックミラーを意識しながら、
訪ねてくるEUの人間へ自分の置かれた状況を伝え保護を要求する。
そして、計画を進めると自分の過去を失わねばならないことがおぼろげにわかってきた。
自分が惣流・アスカ・ラングレーではなくなる。
彼女は笑った。
名前がなんだ、過去がなんだ。
名無しの女でいい。
彼女の望む未来が手に入るのならば。
「僕ってそんなに信用なかったの?」
彼女の前で“俺”というのは恥ずかしい。
こういう時の外国語はいいなぁと微かに彼は思った。
“I”にしても“Ich”にしても、喋り方や文意で違いが出てくるだけだからだ。
「ごめんね。信用がないっていうより、心配だったのよ」
「暴走ねぇ…。自分では意識してないんだけどなぁ」
「ふふ、だから“暴走”っていうのよ。だってさ、二度と会えなくなるなんてごめんだもん」
「僕だって」
「信じてたのよ。絶対に探しに来てくれるって。だから……っていうのがヒント」
「えええっ!」
「こらっ、レイが起きてしまうじゃない。大きな声出さないでよ」
「ごめん」
シンジは首を竦めた。
だが、今の長い話がヒントだとは酷いではないか。
彼は視線を虚空に彷徨わせた。
そんな様子を見て、アスカは楽しそうに笑った。
「カウントダウンするわよ。10、9…」
「そ、そんなっ。ちょっと待って」
「イヤよ。6、5…」
「ああっ、えっと、じゃ」
「2、1…」
「いかりっ」
考えた末の答ではなかった。
惣流ではないことは確かなのだとはいえ、ドイツの姓名がすぐに出てくるわけがない。
カウントダウンに急かされてやむを得ず発したその答が日本語で、しかも自分の姓であるとはさすがにシンジであると言えよう。
だが、ある意味で正解だった。
アスカはにっこりと微笑むと、シンジの肩口にキスをした。
顔を近づけてきたので噛まれるものとびくびくした彼は怪訝な顔になる。
「あのね。親しくなった人にはこう呼んでもらってるの」
彼女は愛する男の胸に頬を寄せ目を瞑った。
「Frau Anker…って」
「アンケ…。えっ、そ、それって」
「アンケルの奥さん。アンケルは碇のドイツ語。ふふん、苦労したわ。これを認めさせるのに」
頬を染めたアスカは目を開いてにっこりと微笑んだ。
その後の彼女の話ではこうだった。
Ankerという碇という意味そのもの姓など、当然当局は認めなかった。
これではゼーレやネルフとの繋がりを隠せないではないかと。
しかしアスカは帰国後の長い調査の間ずっと、この姓でないといやだと子供のように駄々をこねたのだ。
何しろ理屈では絶対に負ける。
ここでは子供になりきるしかない。
名前は馬鹿でも阿呆でもなんでもいいから、姓だけはAnkerにしてくれの一点張り。
そうこうしている間にアスカが待ち望んでいたものが来た。
身体の調子が変だ。
もっとも彼女には当然妊娠の経験がなかったので、これがそうなのかどうか100%の自信はない。
だが、彼女は勝負に出た。
担当の係員におはようの挨拶もそこそこに大変なことが起こったと告げた。
そして、満面の笑顔になって言った。
赤ちゃんができたみたいなの。おめでとうを言って頂戴、と。
騒ぎが起きた。
その最中でアスカはただじっと待った。
事情聴取にも包み隠さず話した。
父親は碇シンジで二人は結婚している。
ただしそれはサードインパクト直後で誰も証人はいない。
役所も教会もなかった上に、牧師どころか誰も彼も姿を消していた。
そして地球上に残された最後の二人として、夫と妻になろうと誓ったのだ。
もちろん、大嘘である。
誰も証人がいないのだから言いたい放題である。
唯一の証人であるシンジが聞けば開いた口が塞がらなかったであろう。
結婚などということまでは話していなかったのだから。
自分から日本出国を言い出したくせに、夫と妻の間をみんなで引き裂いたのだ。
ましてや今は父と子の間をも引き裂いている。
人間らしい気持があるのなら、せめて姓だけでも結婚しているという証を残して欲しい。
今度は駄々をこねるのではなく、真心を込めて静かに訴えたのである。
そして、彼女は成功したのだ。
ゾフィー・アンケルは膨れた。
それはそうだろう。
「偉かったね、アスカ」と褒めてもらえるものと思っていれば、その相手は笑い転げているのだから。
しかも「死ぬ、死ぬ」と涙まで流しながら。
ここは感動すべき場面ではないか。
胸倉を掴みあげたいところだが、生憎素肌だからどうしようもない。
仕方がないから、噛んだ。
がぶり、と。
シンジは悲鳴を上げた。
赤くついた歯型をぺろぺろと舐めながらアスカは謝罪を要求した。
上目遣いのその目が怖く、シンジはとりあえず「ごめん」と言う。
「傷ついた心はその程度じゃおさまらないんだから」
と、拗ね続けるつもりのアスカであったが、話したいことは山ほどある。
彼の謝罪よりも先に話の続きをしてしまった。
結局、彼女の新しい姓は“Anker”となった。
そして、担当官の女性は苦笑しながら新しい名前をアスカに進呈したのだ。
「まったく悪知恵が働くというか。これからはお母さんになるのだから、その知恵を別のことに使いなさい」
彼女は智慧の女神ソフィアに因んだドイツ語の女性名である“Sophie”とアスカを名付けたのだ。
かくして、Sophie Ankerが誕生したわけだ。
「そうだったんだ。適当につけたんじゃなかったんだね」
シンジの言葉にアスカはじろりと睨みつける。
だが、言葉を発した後の彼の表情はあきらかにからかいの意図がありありと見える。
アスカは怒るよりも先に吹き出してしまった。
「アンタもちょっとは成長したのね。アタシをからかうなんてさ」
「4年も経ったんだから…。まあ少しわね」
「身体の方はとんでもなく成長してたけど」
「あの時のままの方がよかった?」
彼の問いにアスカは馬鹿らしいと言わんばかりに笑う。
「アタシの夢だったのよ。父親が子供を肩車して、えっと右っ側には最初の子供が手を繋いでるのもいいわね。
そして左の腕にはこのアタシが全体重をかけて縋ってんの。
あの時のアンタの身体じゃ、子供一人肩車するのもど〜だか」
「はは…、全体重?」
「そっ。全力で縋ってやるんだから。で、家族みんなでお散歩すんのよ」
「ああ、いいなぁ。みんなで散歩かぁ」
それを聞いて、逞しい身体になったことを感謝するシンジだった。
細身であってもちゃんと肉がつくべき場所には筋肉がある。
ほの暗い灯りの元でしっかりチェックしたアスカは彼の成長が本当に嬉しかったのだ。
心の方は言うまでもない。
「ねぇ、アスカ。もしも僕が…」
シンジはずっと気になっていたことをついに口にした。
もし彼がアスカを探しに来なければ…、いや探しても見つからなかったら…。
その時は彼女はどうするつもりだったのだろうか。
ライラと二人で生きて行く決意をしていたのか。
「だめ。答えないわよ、その質問には」
彼の言葉を遮って、アスカは真面目な口調で言った。
「だって、アンタはもうここにいるんだから。Shinji Ankerとしてね」
「うん、わかった」
シンジは二度とその質問はすまいと心に誓った。
おそらく彼女のことだからいろいろなパターンで考えていたに違いない。
小さな子供のこともある。
それに待つのも限界が来たかもしれない。
彼とは何の約束もしていなかったのだから。
「あ、でも、僕はまだ田中シンジだよ。入籍してないんだから」
彼女の言葉尻を捉えて、シンジは冗談っぽく言った。
ところがアスカは冗談では済まされないことを返してきたのだ。
なんと、このドイツにはすでにShinji Ankerという人間が存在している。
彼は生年月日はシンジと同じで、ミュンヘンの孤児院で育った。
そしてセカンドインパクト後の人口減少の特例として発布された法律に基づき、
Sophie Ankerは、そのShinji Schneiderという男性と結婚しているのだ。
ということになっている。
アスカの父と義母も姓をAnkerに替えて今はニュールンベルクに住んでいた。
つまり孤児のShinjiがAnker家に婿養子に入ったスタイルだ。
「ええっ、じゃ僕は…えっと、二人いるの?」
「そうよ。戸籍上はね。ま、そのうち、田中シンジの方は消えてもらうけど」
「いいの?そんなことして」
「もうっ、アンタ馬鹿ぁ?そうしないと、アタシたちの可愛いレイが私生児になっちゃうじゃない」
アスカはシンジの肩をぐっとつかんで、毛布の中から伸び上がってくる。
そして至近距離で彼をにらみつけた。
「アンタの手間を省いてあげたんじゃない。
それとも文句があるって言うの?えっ、このアタシにっ」
時に2020年12月24日午前3時。
ミュンヘンの気温は氷点下である。
3時間前には汗びっしょりで毛布など必要がないほどに身体を熱くさせていた二人だ。
だが、セントラルヒーティングのスイッチを入れているとはいえ、裸の上半身を毛布から出してはたまらない。
くっしゅん。
意外に可愛いアスカのくしゃみにシンジは胸の奥が熱くなる。
「馬鹿だなぁ、こんなに寒いのに」
「うっさいわね、馬鹿はアンタの…くっしゅんっ」
自分でも寒くなったのか、アスカはしっかりとシンジに抱きついた。
そうなると彼の鎮まっていた熱情はむくむくと頭を擡げてくる。
今晩は徹夜で語り明かそうと思っていたのだが、こういう分野においては少しも我慢強くなかったようだ。
「アスカっ」
「ち、ちょ、こらっ、もう満足だって言ってたじゃないっ。ああっ、まだ話さないことがぁ、こらぁ…」
アスカの声音が甘くなっていき、この様子では筆を置かねばならないところだったが、
その時、寝室から幼女の泣き声が響いた。
「Mutti, wo bist Du?」
(ママぁ〜、どこぉ?)
「Upps, sie ist wach!」
(わっ、起きたっ!)
アスカのダッシュは凄まじかった。
シンジの腕を振り払って、毛布を跳ね飛ばし、素っ裸で突っ走る。
ほんの数歩だったが。
「Es tut mir leid. Hier bin ich!」
(ごめんっ、ここよ!)
扉を開けると同時に叫ぶが早いか、娘は母の胸に。
「Mutti! Ich hab gefuerchtet, dass Du weg bist!」
(ママぁ!どっかいったとおもったのぉ!)
ライラはわんわん泣きながら母親にしっかりと抱きつく。
蹲ったアスカは寒さを忘れて、しっかりと娘を抱きしめた。
「Keine Sorge, Lay.
Mutti geht nirgendwohin.」
(大丈夫よ、レイ。ママはどこにも行きはしないじゃない)
「Aber, aber.... Du warst nicht da!」
(だって、だって。いなかったんだもんっ)
「Es
tut mir wirklich leid. Aber ich habe mit Vater gesprochen.」
(ごめんね。パパとお話してたのよ)
「Aaaaaa,
es war schrecklich!」
(あぁ〜ん、こわかったのぉ!)
シンジはさすがに下着を身につけて、この母と娘の姿を微笑ましく見ていた。
そして裸のアスカを後から毛布で包む。
抱きしめられているライラごと。
幼女は母の肩越しにシンジを見上げて、涙でぐしょぐしょになった顔で笑った。
「Vater.... Es war doch
kein Traum. Ich, ich...」
(パパ…。ゆめじゃなかった。あたし、あたし…)
夢にまで見た父親の帰還。
嬉しさ一杯で眠りについたライラだ。
ところが隣室から聞こえたくしゃみで目覚めた娘は、隣のベッドで眠っている筈の母がいないことに気がつく。
もしかすると父親に会えたことも夢ではないのか。
逆に父親と同様に母も姿を消してしまったのかもしれない。
そこまで理屈を立てて考えたわけではなかった。
ただそんなことが気持ちの奥底にあって、母の不在に物凄い寂しさを感じたのだ。
そして、泣いた。
結局、この日は親子三人ギュウギュウ詰めで眠った。
アスカのベッドでライラを真ん中にして。
ライラはすぐに夢の中に戻ったが、若き両親はまだ眠らない。
「これって本当に川の字だね」
「何よそれ。川って流れる川のこと?それともこっち?」
「痛いっ、抓まないでよ」
頬を抓まれたシンジは文字の意味ではなく文字そのものを表現しているんだと説明した。
さすがのアスカも“川の字になって眠る”という言葉はまったく知らなかった。
「へぇ、面白いわね。アルファベットじゃ難しいか」
「日本はベッドじゃなかったからね。お布団だから」
「そうね。あの旅館で初めて畳の上に敷いた布団で眠ったのよ、アタシ」
あの旅館で二人は通じる。
マグマダイバーの時に泊まった温泉旅館だ。
「よく考えたらあれが最初で最後ね。アタシの畳体験は」
「そうだったんだ」
「ヒカリの家も畳じゃなかったしね。
知ってる?あの子、どうなったか…」
「ごめん。どうせ教えてくれないと思って訊いてないんだ」
「でしょうね。まあ、変な疑いかけられちゃ、ヒカリだって可哀相よね」
その後、アスカが話した洞木ヒカリが鈴原トウジのことを好きだったと言う事実はシンジを驚かせた。
彼はまったく気がついてなかったのである。
そして、おそらくトウジも知らなかっただろうと彼は呟いた。
「あの後、逢えたかな、二人。無理かなぁ、やっぱり」
「トウジのことは少しだけ聞いたよ。教えてくれたんだ。別の街である高校に通ってるって」
「そっか、生きてたんだ。ま、それはそれでよかったってことか」
「うん。洞木さんやケンスケのことはわからないけどね」
「多分、みんな生きてる。赤い海に溶けたままとは思えないわ」
「僕もそう思う」
二人は見つめあい、微笑み合った。
そうなのだ。
赤い海から戻ってこなかったもののほとんどは大人だった。
未来に希望を持つ者は、人として生きることを望んだ。
少なくとも彼らの周りにいた友人たちは将来に絶望していなかった。
「さてと、シンジ。明日は忙しいわよ。あ、違った。もう今日か」
「えっと、何をするの?日本のとは違うんだろ?」
「アタシは日本のイヴは知らないわよ。まずは…」
「ツリーを飾る」
ドイツにやってきてはじめて知った事実だった。
日本なら12月になる前からクリスマスツリーを飾る家もあるほどだ。
ところがここドイツではツリーはイヴの日に初めて飾るのだ。
「残念でした。シャワーを浴びなきゃね。アタシは」
「僕は?」
「着替えがないでしょ。だから、アンタは下宿に戻るの」
「服を取りに?」
「そういうこと。でもどっかに消えてしまわないように、お目付け役をつけるわ」
「僕はどこにもいかないよ。ここが僕の家だから」
「はいはい、ありがと。でも、レイも一緒に連れて行ってくれる?
その方があの子も喜ぶからね」
「話ができるかなぁ」
シンジはすやすやと眠るライラを愛しげに見た。
自分とアスカの子供とわかったから、こんなにも可愛く見えるのだろう。
そのことを知らずに、街中でこの子を見かけても今のような感情を抱くわけがない。
言葉も交わさず、視線を合わせることもなく、すれ違っていたはずだ。
「ドイツ語。喋れるんでしょ」
「一応」
「自信ないのねぇ」
「アスカみたいに天才じゃないもん」
「ふふん、拗ねてる。まるで中学生みたい」
どうしてだろうか。
彼女を見つけ出したら、今度は自分が守る。
そのつもりだったのに、これではあの頃と少しも変わっていないではないか。
だが…。
シンジは思った。
こうしたい、ああしたい、という気持ちよりも、まず目の前のことだ。
「えっと、レイちゃんの…」
「自分の子供に“ちゃん”なんかつけないで。キモチワルイ」
「そうなの?」
「当たり前でしょ。甘やかしてどうすんのよ。“レイ”、または“ライラ”って呼び捨てにしてよね」
「はは、練習しなきゃ」
「何が練習よ。アタシのこと、アスカって呼ぶのはそんなに困ってなかったじゃない」
「そうだっけ?」
アスカは首を捻ってシンジから顔を見えなくした。
よく考えれば不思議なことだった。
どうして彼にファーストネームで呼ばれてもいいと思ったのだろうか。
元々、日本に来る途上ではどうやってサードチルドレンの鼻っ柱を折ってやろうかと考えていたくらいなのに。
彼女はあっさりと答を出し、その答で満足した。
そう、これは運命。
神様のお導きってこと。
イヴの前日にめぐり逢わせてくれたのもそうに決まっている。
ということで、明日はしっかり神様に感謝しないと。
アスカは無理矢理捻じ曲げていた首を元に戻し、シンジにドイツのクリスマスイヴの講釈をはじめるのだった。
徹夜にはならなかったが、二人がうとうとと眠ったのはほんの1時間くらいであった。
夜が明けた。
一番元気なのはライラだった。
まだ7時前ではあったが、今の状況では着替えのないシンジはシャワーを浴びることもできない。
あの頃であったらそれほど体格が変わらなかったから、アスカのシャツを借りることもできただろうが、
今となってはどうにもならない。
そこで朝食前にシンジは一度下宿に戻る事になり、そのお供をしてもいいと聞いてライラは大喜びした。
しっかりと父親の手を握って、さあ行こうと急かすほどだ。
彼女はシンジからすると信じられないくらいに、人見知りをしなかった。
話すことは山ほどあるようで、歩く間はシンジにほとんど口を挟ませない。
白い息を弾ませ、厚手のジャンバーが邪魔な感じで身振り手振りもふんだんに喋り続ける。
その内容はアスカとの、つまり母との生活のことばかりだ。
それはシンジにとって、聞いていて楽しく、そして胸が熱くなった。
下宿につくとライラはその狭い部屋をぐるりと見渡した。
そして、たった一言。
「Vater, es ist grausam... Mutti wird sich bestimmt aergern.」
(パパ、きたない。ママにしかられちゃうよ)
「Hahaha,
das wird wohl sein... Ab demnaechst... werde ich alles in
Ordnung bringen. Dann verzeihst Du mir?」
(はは、そうだね。これからは…ちゃんと片付けるから許してくれるかな?)
「Hmmmm,
wie soll ich machen? Err? Moment...」
(うぅ〜ん、どうしよっかなぁ。あ、あれ?あれれ?)
ライラは腕組みをして首をかしげた。
それがまるでアスカがそのまま小さくなったような感じに見えて、シンジはつい微笑んでしまう。
「Du, Vater?」
(ねぇ、パパ)
「Was denn?」
(なんだい)
「Warum
hast Du hier gewohnt? Du hast ja doch zuhause.」
(どうしてここにすんでたの?おうちがあるのに)
ぎくりっ。
ライラが気がついたのも道理だ。
日本に仕事に行っていたから、父はずっと不在だったのだ。
それなのに、どうしてここで父は生活していたのか。
昨日から舞い上がっているシンジはそんな当たり前のことに頭が回っていなかったのである。
「Das... Das ist...」
(そ、それは…)
「Ach, verstanden!」
(あ、わかった!)
言い訳を必死で考えようとしていたシンジなのに、ライラはあっという間に自己解決したようだ。
「Hehehe, Vater. Ich
hab verstanden.」
(へへへ、パパ。わかったよぉ)
にやりと笑ったその顔はアスカにそれはそっくりで。
「Mutti! Wir sind wieder da!」
(ママっ!ただいま!)
「Schoen,
dass Ihr wieder da seid. Fruehstueck ist schon bereit. Geht
schnell Haende waschen!」
(おかえりなさい。朝食はできているから、さっさと手を洗ってきなさい)
「Mutti!
Weisst Du? Weisst Du?」
(ママ!あのね、あのね!)
ドアを開けた途端に美味しそうな匂いがシンジの鼻を直撃した。
だが、ライラは食欲よりも父親の秘密を母に披露したくてたまらないらしい。
「Was ist da los? Hat
Vater gelutscht und den Po geschlagen?」
(なに?パパが滑って転んでお尻でも打った?)
「Das
war leider ich. Aber es ist noch groesser. Vater war ganze
Zeit trotz Erwachsenen verloren!!」
(それはアタシ。えっとね、あのね、パパってね、おとななのにまいごだったんだよっ!)
「? Was
meinst Du?」
(へ?どういうこと?)
アスカは娘の言っていることが飲み込めない。
下宿からここまでの間で道に迷ったというのだろうか。
彼女もシンジの部屋があるという矛盾に気がついてなかったようだ。
それから物凄い秘密を暴いた幼女が大声で騒ぎながら説明した内容を聞いて、
アスカは腹を抱えて笑い出した。
ライラが見抜いた秘密に依ると、シンジは日本から帰ってきたというのに
自分の家を忘れてしまって仕方がないので部屋を借りて自分達を探していたということだ。
大まかな部分では正しい。
確かに下宿してアスカを探していたのだから。
「Hahaha, wirklich? Dein Vater hat den Weg verloren? Das ist
ja witzig! Hahaha」
(はははっ、パパって駄目ねぇ。そうなの?迷子だったの?きゃはははははっ)
「Lach
mich nicht so aus...」
(そんなに笑わなくてもいいじゃないか)
両手に大きなバッグを提げたシンジは唇を尖らせた。
あまりに情けない理由だが、ライラの発想は渡りに舟だ。
すぐに飛びついたものの、やはり誰に聞かれても笑われるに決まってる。
「Lay, Du bist ja eine
Genie. Wie hast Du das bemerkt?」
(レイは偉いわねぇ。よく気がついたわ)
母に頭を撫でられて、ライラは得意の絶頂。
「Aber sag den Anderen nicht weiter. Dein Vater verliert sein Gesicht. Es ist ja nicht
schoen fuer ihn.」
(でも誰にも言っちゃだめよ。パパが笑われちゃうから、かわいそうだもの)
「Jawohl! Einverstanden! Das ist dann ein Geheimnis unter uns.」
(うん!わかった!じゃ、アタシとママだけのひみつっ)
「Haha,
gut. Geh mal schnell Haende waschen.」
(ふふふ、ほら、手を洗ってきて)
母の対応に満足したのか、ライラは足取りも軽く洗面所へ。
逆にシンジは荷物を床に置いて、がっくりときている。
「ほら、アンタも手を…おっと、ドイツ語よね」
アスカはニンマリと笑った。
「Du auch, geh bitte schnell
Haende waschen. Du bist ja der Gluecklichste, der mein
Selbstgekochtes essen darf!」
(あなたも手を洗ってきて。私の手料理が食べられるなんて、世界一の幸せものよ!)
腰に手をやり、得意気にシンジを見上げる。
なるほど、アスカの手料理というものは日本にいた時は食べていない。
したがってこれが初体験ということになる。
シンジは頷いて、洗面所へ向う。
そして、一生懸命に手を洗っている娘にこっそりと聞いたのだ。
「Kocht Mutti gut?」
(ママの料理は美味しい?)
「Ja, natuerlich! Sie kocht am besten auf der Welt. Ausgenommen
die Paprikas.」
(と〜ぜんっ!せかいいちおいしいのっ。ピーマンいがいはね)
母のピーマン料理がまずい訳ではなく、単にライラが嫌いなだけ。
少し距離が短くなったような父と子の、洗面所に見えるその後姿にアスカは目尻を下げた。
いつもよりも豪勢な食事にライラはご機嫌だった。
「Vater, bitte komm jeden Tag zurueck nach Hause.」
(ねぇ、パパ。まいにちかえってきてよ)
「Lay,
er wohnt ab heute zusammen mit uns.」
(あら、今日からずっと一緒に住むのよ)
「Ach, ja. Hehehe」
(あっ、そうか。へへへ)
「Wenn
wir fertig gegessen haben, dann schmucken wir den Weihnachtsbaum.
Lay, Vater hat komische Geschmack, also bitte haltest Du die Augen darauf.」
(食べ終わったらツリーの飾りつけよ。レイ、パパはセンスが悪いから、しっかり手伝ってあげてね)
「Einverstanden!」
(りょ〜かい!)
「Das
ist ja gemein.」
(ひどいなぁ)
苦笑するつもりが普通に笑ってしまうシンジだった。
この日。
2020年のクリスマスイヴ。
Anker家は幸せ一杯だった。
ツリーを飾った後は、3人でお墓参りに向った。
惣流キョウコの墓である。
ただし、墓碑銘は Karoline Anker となっている。
道理でシンジが必死に探しても見つからないはずだ。
彼女の命日にここの墓地も彼は訪れている。
このお墓に花が供えられていたのは彼も覚えていた。
名前が違うから違うと思ったのだ。
その時は“Anker”と“碇”の関連など考えもしなかった。
勤めに出る前にお参りをしたからね、とアスカは微笑んだ。
クリスマスイヴにはお墓の掃除をするのもドイツの習慣である。
お墓参りを終えて、家に戻る途中でシンジは残念そうな顔をした。
「Schade, die Laden ist nicht offen... Du, denkst Du dass die Laden am Montag auf hat?」
(ああ、やっぱり開いてないなぁ。ねぇ、月曜日にはお店が開くの?)
「Du
Idiot. Keine Laden wird um diese Zeit am Vorweihnachten oeffnen. Was hast Du hier zu
tun?」
(馬鹿ね。イヴに商売してる店なんかないわよ。アンタ、ここに用事?)
アスカはシンジの視線の先にある、写真屋を不思議そうに見た。
「Wolltest Du was entwickeln?」
(現像とか?)
「Nein,
ich habe kein Photoapparat. Mit Lay... habe ich verabredet.」
(違うよ。カメラなんか持ってないもの。レイと…約束したんだ)
「Ja, verabredet!」
(うんっ、やくそく!)
「Was
sagt Ihr? Ihr habt mir nichts davon erzaehlt. Wollt Ihr
mich draussen?」
(何よ、アンタたち、アタシには何も言ってなかったじゃない。このアタシを除け者にしようって言うわけぇ?)
腕組みをしたアスカは大きく顔を上下させて、父と子をゆっくりと睨みつける。
「Nein, Mutti. Mutti
ist nicht draussen. Du bist auch dabei.」
(ちがうよ、ママ。ママはのけものじゃなくて、いっしょなの)
「Was?」
(はぁ?)
「Wir
alle machen ein Photo. Ein Familienphoto.」
(みんなで撮るんだよ。家族の写真を)
アスカの反応は早かった。
ぽんと手を叩いて、彼女はライラを抱き上げる。
「Schoen! Das ist eine
gute Idee! Ausgerechnet Du?」
(わっ、いい考え!やるじゃない!アンタにしちゃあ)
「Haha,
eigentlich war es Lays Idee.」
(はは、レイに言われてね)
「Achem,
ich war das.」
(えへん、アタシがいったの)
誇らしげに胸を張るライラはもうすっかりシンジに順応したようだ。
ようやく彼女を愛称の“レイ”と呼ぶことはできるようになった父親よりも精神的な距離はかなり近寄っている。
家族写真を撮ることになった発端はシンジの下宿の部屋に飾ってあったアスカの写真である。
病室で撮影したものだから、寝間着なのだがアスカはにっこりと微笑んでいる。
彼女が日本を去った後にシンジに残されたのはこの写真だけだった。
没収されると思い一枚だけを隠して田中さんに提出したのだが、さすがに笑って返却された。
アスカが日本にいることが問題なのであって存在したことは隠しようがないからだ。
しかし元ネルフ、または中学の友人との接触を禁じられていたシンジにとっては、
彼女の写真を所持しているはずの相田ケンスケから他の写真を入手することもできない。
いきおい、この病院での写真数枚だけがアスカの残像となっていたのである。
その写真を彼はミュンヘンに来てももちろん飾っていたのだが、
それを目ざとく見つけたライラが不満をぶつけてきたのだ。
何故、ママのだけで自分の写真をパパは飾ってくれていないのか、と。
そんなことを言われても昨日までその存在すら知らなかったのに写真なんてあるわけがないじゃないか。
などといったことを今のシンジが言うわけがない。
彼も19歳になっているのだ。
ここは巧く切り抜けた。
別のもっと楽しくなるような話題を持ち出して。
写真屋さんで家族全員の写真を撮ろう、と。
ライラはバンザイをして大賛成した。
「Kennst Du, Asu....
nein, Sophie einen guten Photoladen?」
(アス…じゃない、ゾフィーはいい写真屋さん、知ってる?)
「Leider nicht. Ich hab' bislang kein Cent fuer sowas
ausgegeben.」
(知らない。そんな贅沢してないもん)
自分の名前は“shinji”のままだが、アスカのことを人前では“ゾフィー”と呼ばねばならない。
そのことにシンジは苦笑した。
アスカは楽でいい。
彼女は二人きりの時にはアスカと呼ばれることをおそらく死ぬまで要求するだろうし、
彼もまたそうしたい。
名前など記号のようなものであるが、あの夏の日々を共に過ごした彼らにとって、
二人はいつまでも“シンジ”と“アスカ”なのである。
夜になり、Anker家の3人は教会に出かけた。
10時からミサがはじまるのだ。
シンジは初めての経験である。
どうやら碇ユイはクリスチャンだったようだが、カトリックなのかどうだかまるでわからない。
あの墓地は使徒戦で跡形もなくなくなってしまった。
元よりあそこに母の遺体はなかったのだが、おまけにゲンドウの遺体も残されていない。
シンジは小さな仏壇か位牌でも用意しようかと思ったが、ユイの墓がキリスト教を想起させたのでやめてしまったのである。
余談になるかもしれないが、惨殺されたネルフ職員のための慰霊碑などはどこにも建てられなかった。
そしてそのほとんどに家族がいない、若しくは家族が赤い海から帰ってこなかったものが多かったために、
墓すらない者が大多数である。
葛城ミサトも、赤木リツコも、冬月コウゾウもそうだ。
ジオフロントの跡地はしっかりと埋め立てられたと、シンジは聞かされた。
そしてシンジはアルバイトで得たお金で小さなロザリオを買った。
ちょうどミサトの胸にぶら下がっていたペンダントと同じような大きさだ。
彼は毎朝そのロザリオを手に祈った。
母や、父。
生死もわからないネルフの人たち…ミサト、レイ、リツコに加持……。
最後に、アスカが元気でいますように、と結んでシンジの祈りの時は終わる。
これは年長の田中さんに触発されたからだった。
待っている人がいないのに何故赤い海から帰ってきたのか。
彼は少し照れながら言った。
自分がいないと、妻や子供が生きていたことを覚えている人間がいなくなるからだ、と。
あいつたちの代わりにこの日本がどうなっていくのか、この目で見ていきたいとも思う。
それに俺はひとりぼっちじゃない。
自分でそう思ってしまえば簡単にそうなってしまうがな、と彼は笑った。
いつになく真剣なその話にシンジは感銘を受けた。
ミサトたちのことを忘れてはいけない。
大人たちの都合でとんでもない目に合わされたのだが、彼は今、生きている。
それにネルフがあったからこそ、アスカと出逢うことができたのだ。
もしそんな風に感謝されていると知ることができたなら、彼らは恥じ入ってしまうことだろう。
ともあれ、墓もない彼らの魂は、遥かドイツで元チルドレンの若い夫婦によって安息の地を与えられるのかもしれない。
何故なら、ロザリオはシンジだけでなく、アスカもまた同じようにずっと祈り続けていたのだから。
この日から、二個のロザリオはまるで寄り添うようにしてAnker家のリビングボードに置かれることになる。
さて、ラテン語によるミサは実に荘厳たるもので、シンジは圧倒されてしまった。
もちろん何を喋っているのか、まったくわからないのはライラと同レベルだったが。
帰り道にアスカはいつもより夜更かしで少し眠たげな娘に問いかけた。
両親の間で、父と母にそれぞれ手を繋がれた幼女は困ったなぁという顔をする。
「Lay, was wirst Du zu
Christkind beten?」
(クリストキントに何をお願いするの、レイ?)
「Hmmmm, was mache ich...」
(えっとね、あのね、どうしようかなぁ)
「Also,
hast Du Dich noch nicht entschieden? Das ist ja eine Ueberraschung.」
(あら、決めてないの?それはびっくり)
「Doch!
Ich hab' es entschieden.」
(きめてたのよぉ)
ぴょんぴょんと地面を蹴りながら、ライラは言う。
「Geht es jetzt nicht?」
(それじゃ駄目なの?)
「Nein,
es geht nicht. Ach vielleicht! Christkind hat den Termin verwechselt.」
(うんっ、あ、そうだ。きっと、クリストキントがまちがえたのよ)
ライラは晴れやかな声で叫んだ。
みんなミサの帰りなのだろう。
夜の街を行きかう人々はそのほとんどが家族単位だ。
Anker家の三人も周囲の者となんら変わりがない。
クリスマスイヴには家族の絆と愛を確かめあう。
昔から、そしていつまでも。
「Was meinst Du verwechselt?」
(間違えたって?)
「Ja,
Ich hab zu Christkind gebeten, an der Weihnacht den Vater mitzubringen.」
(うんっ。アタシはね、クリストキントにパパをつれてきてくださいっておねがいしたの)
ライラは左右の両親の顔を交互に見上げた。
娘の言葉に、アスカとシンジは顔を見合わせる。
「Hehehe, Christkind hat den
Termin einen Tag verwechselt. Es ist ja komisch, nicht wahr?」
(うふふっ、クリストキントなのに、いちにちまちがえちゃったのねぇ〜。おっかしいんだ)
ライラは調子に乗ってブランコのように前後に揺れた。
両親はタイミングを合わせて、娘をぐっと持ち上げる。
その高さに彼女は歓声を上げた。
そしてしばしの空中散歩後に着地したライラは、にっこりと笑ってこう言ったのだ。
「Aber, aber! Er bringt mir vielleicht noch
ein Geschenk mit?
Wenn ja, dann moechte ich gern ein Kuschelaffe.」
(あっ、でもでも!あしたのあさにももってきてくれるかもっ。
だったら、おさるさんのぬいぐるみがいいなぁ)
シンジはアスカを見た。
彼女は大丈夫とばかりに軽く頷く。
クローゼットの上の方にちゃんと隠してあるのだ。
明日の朝、ライラはツリーの根元に置かれたぬいぐるみを発見することだろう。
その時、また雪が降り出してきた。
「Ah, es schneit...」
(あ、雪…)
「wird
liegen bleiben?」
(積もる?)
「Vielleicht
ein Bisschen? Es kann sein, dass Du morgen Stiefel brauchst.」
(う〜ん、少し。長靴が要るくらいかしら)
シンジの問いにアスカは鹿爪らしく答える。
両親から手を離したライラは、舞い降りてくる雪を巻き込むように
大きく横に両手を開いてその場でくるくると回りだした。
「Vater! Machen wir morgen einen Schneemann! Ein grosser!」
(パパ!あしたはゆきだるまつくろっ。おっきいの!)
「He, Du! Wo bleibt Mutti? Hast Du Mutti vergessen?」
(こらっ、ママは?ママは仲間はずれ?)
「Hehehe,
ich hab Dich vergessen.」
(へへへ、わすれてた)
「Das ist ja gemein.
Schoen, Lay. Dann bekommst Du kein schoenes Essen morgen.」
(ひっどぉ〜いっ。じゃ、レイには明日のご馳走あげない)
「Aaaaaah,
nein, nein! Du kannst natuerlich mit uns Schneemann machen.」
(あああっ、だめだめ!ママもいっしょにゆきだるまつくっていいからぁ)
まるでじゃれあうように母と子が騒いでいる。
シンジはもう何も言えなかった。
胸が一杯で、言葉と一緒に涙も溢れ出しそうだ。
彼は空を見上げた。
真っ暗な闇の中から、白い雪が零れてきている。
言葉のわからぬミサを受けている間、彼はふと考えていた。
赤い海のほとりでふたりぼっちの数日間。
その日々にアスカと彼はお互いの存在が必要であることに目覚めた。
例え誰も帰ってこなくても二人で生きて行こうと誓ったのだ。
ところがある時間を境としてたくさんの人が戻ってきた。
最初は二人とも喜んだ。
しかし、その中に誰一人として顔見知りがいないことに気づき、そして保護という名目で政府に収容された時、
二人は本当の意味で“ふたりぼっち”になってしまったのだと意識したのだ。
この世の誰一人として彼ら二人の幸福など考えてはくれない。
そんな風に思ったからこそ、お互いを生涯の伴侶だと決め込んだ。
もちろん、それを間違った選択だなどと思ってはいない。
間違っていたのは…。
ふたりぼっちではなかったということだった。
シンジの決意を後押ししてくれた人たちもいた。
アスカだってそうだった。
赤ん坊と生きていくには周りの助けがいろいろとあったのだ。
そして、今は二人の間にライラという娘がいる。
もうふたりきりではない。
この4年近い別離の日々は二人を身体だけではなく、精神的にも成長させたのである。
アスカとライラはシンジの周りをぐるぐると追いかけっこをしている。
助けを求めた娘を彼はよいしょと高く持ち上げる。
そのまま肩の上に座らせると、ライラは未知の高さに興奮し、アスカは自分もして欲しいと本気で言い出す。
シンジは抱き上げる代わりに、彼女の身体をぐっと引き寄せた。
アスカは白い息を弾ませながら、彼の胸に顔を寄せる。
そんな家族の頭上にふわりふわりと雪が舞い降りてくる。
この雪は、彼らだけでなく、この地上に住まう全ての者に分け隔てなく降るのだ。
「Frohe Weihnachten…」
(クリスマスおめでとう)
空を見上げたまま、誰へともなくシンジはそっと呟いた。
その言葉を耳にしたライラは覚えたての歌を口ずさむのだった。
アスカも娘の歌声に和す。
シンジは思った。
チェロが欲しい。
それを口にすれば、彼女は何と言うだろうか。
もっとももう4年楽器を手にしていないのだから、この曲も弾けるかどうか。
微笑んだ彼は、母と娘の歌に参加した。
少し危なっかしげなドイツ語で。
O Tannenbaum, o Tannenbaum
Wie gruen sind deine Blaetter.
Du gruenst nicht nur zur Sommerzeit,
Nein auch im Winter wenn es schneit.
O Tannenbaum, o Tannenbaum
Wie gruen sind deine Blatter!
1番を歌い終わると、肩の上のライラがパチパチと拍手した。
「チェロってどれくらいするのかしらね…」
アスカはシンジを見上げ、日本語で囁いた。
あの夏の日々を思わせるような煌くような笑顔で。
嬉しくなった彼はさっきよりも大きな声で歌いはじめた。
負けじとライラとアスカも続く。
するとどうだろう。
周りにいた人々も歌いだしたではないか。
子供たちは元気よく、張り切って声を張り上げる髭面のおじさんもいる。
歌いだしっぺのAnker家の3人が一番驚いているようだ。
アスカとシンジは顔を見合わせた。
そして、再び歌に参加する。
ライラも両親に負けじと声を張り上げた。
2番と3番の歌詞がわからないシンジと娘のためにアスカがリードする。
最後まで「樅の木」を歌いきると、その場にいた数組の家族がが歓声を上げ拍手をした。
そして、口々に「Frohe Weihnachten!」 と言葉を交わす。
ああ、ふたりぼっちなんかじゃない。
この世は愛に包まれているのだ。
こんな未来を僕たちに見せたかったの?
ありがとう、母さん、そして…。
シンジの頬に流れた雫をアスカの白い指がそっとすくった。
<おわり>