エヴァンゲリオン掌話集

短   冊


 2008.07.07        ジュン

 
 


「何よ、この葉っぱは」

 惣流・アスカ・ラングレーはテーブルの上に乗せられたその物体を胡散臭げに人差し指でつついた。

「あらぁン、天才のアスカでも知らないものがあるのねぇ」

「知ってるわよ。笹でしょ、笹。イネ科タケ属。ドイツ人だからって馬鹿にしないでもらいたいわよ」

「へぇ、笹って稲なの?全然知らなかった」

 隣に座る少年の一言で、アスカの顎の角度が少しばかり、いやかなり上がった。
 そんなことを少年、碇シンジはまるで気づかずに、笹を土産に持って帰ってきた妙齢の家主を見る。

「どこで手に入れたんですか?」

「酒屋。帰りにビール買いに寄ったら、サービスだってくれたの。サービスって本当にいい言葉よねぇ」

「で、どうしてこれがサービスなのよ」

 アスカの口調はいささか不機嫌さを含んでいる。
 それは話題が自分から離れたからに他ならない。
 
「えっとね…、面倒くさいから、シンちゃん説明してあげてよ」

 ぐびりと缶を傾ける葛城ミサトはビールを喉に流し込む。
 明らかに少年少女の会話を酒の肴にして杯を重ねようという魂胆だ。
 もっとも彼女の場合、杯ではなく缶なのだが。

「ぼ、僕ですか?困ったなぁ、うまく説明できるかなぁ」

「ふんっ、そんなにややこしい話ぃ?それじゃ馬鹿シンジには無理よね」

「う、うぅ〜ん、7月7日にこの笹にお願い事を書いた短冊をかけると祈りが叶うんだ」

「はぁ?7月7日って今日じゃない。で、何?短冊って何よ。はんっ、何だか知んないけど、そんなので祈りが叶うなんて馬鹿らしぃ〜わね」

 ミサトは缶越しの少女の表情を見て、アスカが食いついた、と心の中でにやつく。
 この素直でなく、天邪鬼を絵に描いたような少女は実に面白い。
 そして、その少女に翻弄される、素直で、そしてかなり内罰的な少年もそうだ。
 どうしてこの二人を見ているとこんなに和むのだろうか。

「短冊って言うのはね、えっと、縦に長い色紙みたいなもので…。家に色紙あったかなぁ」

 “家”という響きにミサトははっとした。
 この少年はここを家だと思ってくれているのか。

「アスカ、持ってる?」

「ないわ」

 きっぱりと言い切った彼女は、当然といった口調ですぐに命令する。

「ないんだったら、買ってきなさいよ。その、短冊とかいうものを」

「えっ、今から?」

 シンジは窓の外を見る。
 深夜とまではいかないが、それでももう9時ごろである。
 コンビニに短冊など置いてあるのだろうか。
 そんなことを思っていると、ミサトがにんまりと笑った。

「ふふん!作戦部長に抜かりはないわよ!じゃじゃぁ〜ん!」

 缶ビールがたんまりと入ったビニール袋からミサトは七夕セットを取り出した。
 酒屋で笹をもらったその足で、閉店間際の文房具店に飛び込んだのである。
 店先に青いルノーが急停車した時は、何が起こったのかと店主が飛び出してきたほどだ。
 そこで購入した七夕セットは明らかに幼児向けのものである。
 しかし、大人向けの七夕セットなど存在するものかどうか。
 封を開けて中の物を取り出すと、アスカは興味津々でそれらを覗き込む。
 
「ふぅ〜ん、これが短冊ってやつぅ?何だか安っぽいわね」

「はは、紙だからね」

「で、これに願い事を書くわけ?一億円欲しいとか?」

「欲しいの?アスカ」

「くれるんだったら、ありがたくもらうけど?アンタ、欲しくない?」

「そりゃあ、欲しいけど…」

 いいよ、いい!
 下手な漫才聞いているより、よっぽど面白い。
 ミサトは微笑みながら次の缶に手を伸ばした。

「普通は、えっと、何て言うんだろ、夢…かなぁ?そういうの書くんだよ」

「大金が欲しいって夢じゃない?」

「そんなに欲しいの?」

 そこでアスカは腕組みをした。
 考えること2秒。
 答えは出た。

「今はいらない。一人何個?」

「あ、待って」

 シンジは短冊の数を数えた。
 全部で20枚ある。

「えっと、一人7枚。僕は6枚でいいよ」

「何それっ!一人だけ夢をひとつ譲るっていうの?けっ、この偽善者」

「そ、そんなぁ」

「そうねぇ、じゃ一人3枚にしてさ。残りの11枚を代筆するってのはどう?」

「えっ、そ、それは…」

「おおおっ、いいねぇ、それ!私、のった!」

 すぐに反応できなかったシンジとは違い、ミサトはビール缶をテーブルに叩きつける様にして置き賛同の意を表した。

「11人かぁ。リツコに加持のヤツ、それから…」

「ひひ、ファーストのはアタシが書いてやるわ。ヒカリの夢って何かしら」

「ケンスケはもっといいカメラが欲しいって言ってたっけ。トウジは…」

「はんっ、ジャージ男は標準語が喋れるようになりますようにってでも書いとけば?」

「それは酷いよ。トウジは別にそんなこと思ってないんだし」

「じゃあさ、素敵な彼女ができますようにって書けば?あ、ミサトみたいな、とか」

「私?」

「そうよっ。アンタのこと、グラビアアイドルかなにかみたいに見てるよぉ〜だし」

「へっへっへぇ、アイドルねぇ。でも、年下の男の子はねぇ…」

 興味がないとまでは言わなかったが、明らかに言外にそう匂わせている。
 アスカはその時、二つのことを思った。
 一つは憧れの加持もまたそうなのかと。
 水着や際どい服で迫っても軽くあしらわれる。
 義務感というよりも、自分など子供と思っているからなのだろう。
 それからもう一つ。
 年下の男に興味がないから、シンジを同居させて涼しい顔をしていられるに違いない。
 もっともシンジ風情に襲われても、ミサトの腕なら再起不能にまで反撃できるだろう。
 さらに、アスカの思考は連なっていく。
 隣に座っている馬鹿はどうなのだろうか、と。
 ミサトみたいな女に性的な興味を抱かないのだろうか?
 もしかしてホモ?そんなの絶対いやっ。
 どうして嫌かというと…。
 そんなの気持ち悪いからに決まってんじゃない!
 同居しているヤツがホモで、女に全然興味持たないだなんて、そんなの絶対気持ち悪い!
 アスカはそのように結論づけたが、さて彼女の立場としてそれでいいのだろうか。
 女性に興味を持っている男子と、鍵のかかっていない扉と狭い廊下を挟んで毎夜を過ごしている事実は?
 彼女の思考はそこに結びつかずにやや逸れていく。
 ああ、そういや馬鹿シンジはアタシの身体見て顔を真っ赤にしてるわよね、いつも。
 ってことは、女に興味があるってことじゃない。
 まっ、アタシみたいな素晴らしい女の子と一緒にいるんだからとぉ〜ぜんといえば当然だけど。
 虚栄心とはまた違う、別の感情を満足させたアスカは思考を元に戻し、テーブルの上を見た。
 すると、ミサトがビール片手に短冊へ文字を書いていた。
 既に書き上げたものを見ると、“恋人が欲しい リツコ”、“胸の大きな美人と結婚したい 加持”とある。
 アスカは鼻で笑った。
 胸の大きな美人と書かずに、はっきりと自分の名前を書けばいいじゃない、と。
 そして今ミサトが書いているのは、オペレーターたちの願い事だが実にいい加減なことになっている。
 “給料を増やせ”、“休みが欲しい”などとはあまり本人たちの願いとも思えない。
 おそらく考え付かなかったのだろうと、アスカは短冊とマジックペンに手を伸ばした。
 彼女はにやりと笑うと、青い短冊にこんな風に書いた。
 “心の底から大声で笑いたい”。
 そして、その短冊に名前を書こうとしてふと戸惑う。
 ファースト?お人形?優等生?
 もしこの場に綾波レイがいたならば、アスカはためらいもなくその3つのうちの一つを書き込んでいたことだろう。
 いや彼女がいなくても、短冊がレイの目に触れる可能性があるのならば、間違いなく書くはずだ。
 悪戯をする必要がない今、そんなことをする意味が無い。
 アスカは短冊の隅に小さく、“レイ”とだけ記した。
 しかし、その時だった。
 微かに聞こえた微笑の感触。
 きっとその方向を見ると、シンジが慌てて目をそらした。
 アスカは何かしら急に腹立たしくなり、レイという字に何本も線を入れて消し、より汚い字で“バカ”と書き込んだ。
 それに満足すると別の短冊を手にする。
 そうこうして3人で短冊の代筆を続け、残ったのは1枚だけ。
 それはシンジの前にあった。

「早く書いてしまいなさいよ、馬鹿シンジ」

「う、うん。どうしようかなぁ」

 何も書かれていない黄色の短冊を前に彼は首を捻っている。
 誰のものを書くのかは既に決まっている。
 碇ゲンドウ司令。
 実の父親の短冊を書くのにシンジは大いに緊張しているのだ。
 
「ああっ、じれったいわねぇ、まず名前を書いてしまいなさいよ。それだったらできるでしょうが」

 短気なアスカに迫られ、シンジは父親の名前を短冊の隅に書く。
 しかし、父親の夢が思いつかない。
 ここは素直に使徒殲滅とでも書けばいいのだろうか。
 いや、本当は別のことをシンジは書きたいのだ。
 そんな願いを父親が抱いている筈がないことを充分承知していながら。
 だからこそ躊躇してしまう彼だった。
 どうするのかと7本目の缶ビールを楽しみながら見ていたミサトだったが、アスカの方には気をそらすものが何もない。
 そのためかアスカの我慢は30秒ももたなかったのだ。

「もうっ、アタシが書いてあげるわよ!」

「えっ、ま、待って」

「うっさい!こう…へっへっへ、どぉお?」

 さらさらとまではいかないまでも、シンジに邪魔されまいと急いで書いたものだから、金釘流にさらに磨きがかかった文字をアスカは偉そうに見せびらかす。
 彼女としてはシンジに文句を言われるものと思っていた。
 その代償として自分の短冊を一枚返すつもりだったのだ。
 そこまで計算した上での悪戯だったのだが、その結果は想像とは違ってしまった。
 アスカのイメージでは拗ねたシンジがぶつぶつと文句を言い、その態度に腹を立てた(振りをした)彼女が手持ちの一枚を渋々差し出す。
 そうするつもりだったのに、シンジはアスカの書いた短冊を黙って受け取ったのだ。
 あれ?と思ったのは、アスカだけではなくミサトも同様であった。
 しかし、シンジの手元にある短冊を見てなるほどと微笑む。
 “シンジといっしょに遊園地にいきたい”。

「あらぁ、アスカ、遊園地って漢字よく書けたわね」

「はんっ、こんなもん、お茶の子さいさいよ!アタシは天才なんだもんっ」

 アスカとしてはシンジを茶化しただけのつもりだった。
 幼児のように親と遊園地へ行くというイベントを願い事にすれば、馬鹿にするなと怒ってくるに違いないと踏んだわけだ。
 ところが、彼は短冊を大事そうに手にしている。
 アスカは何とも言えない感情を持て余し、そっと視線を天井へと彷徨わせた。
 もしかして、こいつ…。
 父親と遊園地に行ったことが…ううん、その記憶がないのかも…。
 ふっ、アタシと同じ?

「よぉしっ!次は自分のお願いよン。最初は…」

「もっとビールを飲みたい、でしょ」

「おっ、いいねぇ、それ!よし、毎日美味しくビールを飲みたい、ミ、サ、ト、と。はい、一枚目出来上がり」

「単純でいいわね、ミサトは」

「願い事なんて単純な方がいいのよ。それか、逆に叶いそうもないことかね」

 ミサトは優しく微笑みながら言った。
 その笑みを見て、アスカとシンジは同時にある願いを思いついた。
 しかし、アスカの方は素直にその願いを書けなかったのだ。

「叶いそうもないことか…」

 シンジはゲンドウ名義アスカ代筆の黄色い短冊を見つめた。
 そして、小さく笑った。
 七夕のお祭りなのだから、絶対に無理なお願いでも書いていいような気がする。
 彼はペンを手にした。
 横目で覗き込むアスカは、彼の願い事を見て胸の奥の方で何かが暴れるのを感じる。
 その感情に突き動かされて、彼女もペンを持った。
 ミサトの位置からは位置が逆さまになるので読みにくいが、それでも何とか二人の願いを読み取った。
 あらぁ…、こいつはお姉さんには無理な願い事ね。
 でも、アスカったら、本当に素直じゃないんだから…。
 ドイツ語で書いたって、この私には読まれちゃうくらいわかってるでしょうに。
 でも、突っ込まないようにしよう、とミサトは決めた。
 ドイツ語で書いたら七夕の神様は読めないんじゃない?などと言ったなら、
 この天邪鬼で短気な妹は短冊をびりびりに破いてしまいそうだ。
 2枚目の短冊を前にした仮初めの弟と妹の前には、1枚目の短冊が大事そうに置かれている。
 まったく同じ内容のシンジとアスカの願い事は、それぞれ日本語とドイツ語で書かれていた。
 “お母さんに会いたい”、と。

 絶対に不可能な願い事の反動だろうか、二つ目の短冊は神様も微笑んでしまいそうな内容になった。
 シンジは“使徒がもうでてきませんように”。
 アスカの方は“使徒を全部やっつけられますように”と、今度は日本語で綴った。
 それぞれの性格がよく出た内容だが、言わんとすることは同じだ。
 そのようにミサトは感じた。
 それを証明するために、彼女は少しばかりの計略を企んだのである。

「さぁて、最後の一枚かぁ。何を書こうかなぁ」

「ふん、素直に加持さんと結婚したいとでも書けば?」

 嫌味たらしくアスカが言うが、ミサトはその言葉を素直に受け取った。
 
「そうねぇ、よしっ、それ、いただき!」

「えっ、ホントに書くの?」

 アスカは目を丸くしてからかった相手を見るが、その彼女は耳の先まで赤くなってペンを走らせている。
 どうやらその赤みはアルコールだけの影響ではなさそうだ。
 やけにゆっくりと文章を書くミサトは、己の企みも忘れてはいない。
 彼女は顔を上げずにアスカへ話しかけた。

「アスカも書く?七夕の神様がどっちのお願いを聞き届けてくれるか、面白いと思わない?」

 負けず嫌いのアスカのことだ。
 こんな調子で挑発すれば、すぐに乗ってくる筈である。
 しかし、ミサトは乗ってこない方に賭けていた。
 以前のアスカならばいざ知らず、この夜の彼女ならば…きっと。
 
「ふんっ、馬鹿らしい。貴重な最後の一枚をどぉ〜して、ミサトとの勝負に使わないといけないわけぇ?アタシ、パスっ!」

「あ、そ。シンちゃんは決めた?」

 決めているわけがない。
 最後の一枚をさっさと書ける様な彼でないことは、この数ヶ月の付き合いでよくわかっている。

「まだです。何にしようかなぁ」

「使徒戦のことはお願いしたんだから、その後のことにすれば?」

 ミサトは尚も顔を上げない。
 無意識に綴る文字に願いを込めているからでもあるのだが、できる限り二人を誘導したくなかったからだ。
 彼女は自分の意思で短冊に願いを書いて欲しかったのである。

「その後?」

「そうよ。例えば、一年後の七夕の夜に何をしたいかとか。どう?」

「どう…って?」

 尋ね返してきたのはアスカの方だった。
 魚は餌を見つけたな、と思いながら、ミサトは気のないそぶりで言葉を発する。

「そうねぇ、盛大に友達を呼んで七夕パーティーをするとか」

 ミサトの言葉を受けて、シンジとアスカはそれぞれパーティーをイメージしてみた。
 確かにみんなで騒ぐのは楽しいだろう。
 だけど、それが七夕の夜である必要があるのだろうか?
 この夜に感じた、そして通い合った想いに突き動かされるように、二人は同時に首を横に振った。
 ちらりとそのユニゾンする動きを目の端に止めたミサトは次の段階に進む。

「それじゃ、シンちゃんの演奏会なんてどう?七夕演奏会なんてロマンティックよ、きっと」

 当然、シンジはさっと頬を赤らめ照れてしまう。
 そんな彼を横目で見て、アスカは胡散臭げな表情を浮かべる。

「ちょっと待ちなさいよ。演奏って、チェロでしょ。馬鹿シンジの演奏で、ロマンティックになれるわけないじゃん」

 魚は餌に食いついた。
 餌には針がついていることなど知らずに。

「アスカは…聴いたことあるの?シンちゃんのチェロ」

「ないわっ。全然」

 アスカの顔には太いマジックで、テストしてあげるから弾いてみなさいよと書かれている。
 ただし、そんなわかりやすいものであっても、シンジに読み取れる筈もない。
 それが碇シンジという少年なのだ。
 だからこそ、お姉さんが助けてあげないといけないのよね、とミサトは釣竿を微妙に操作する。

「だったら、どう?今、聴いてみたら?私、酒の肴にシンちゃんのチェロ聴きたいわン」

 釣り人は酔っ払いを装う。
 最後の短冊に書く願い事のことなど忘れてしまった風に、ミサトはチェロを弾くようにせがんだ。
 しかしながら、シンジはその性格上、はいそうですかとチェロを弾くような少年ではない。
 弾くことは嫌ではないのだが、人に聴かせるという事で照れてしまう。
 だから逡巡してしまう、その彼の隣に座る少女は当然業を煮やした。

「ああっ、イライラするわねぇっ!さっさとそのチェロだかバイオリンだか知らないけど、ここに持ってきなさいよ!馬鹿シンジ!」

「う、うんっ。わかった」

 少年は腰を上げた。
 部屋に置いてあるチェロを取りに行くその後姿を見送って、ミサトは最後の仕上げに入る。

「アスカ、あとお願いね」

「お願いって何よ」

「七夕の笹を飾るの。私、多分眠っちゃうからさ。クラシックなんて格好の睡眠薬なのよねぇ」

「アンタねぇ、自分で頼んでおいて普通寝る?」

「私は普通じゃないの」

「あ、そ。でも、アタシ、飾り方なんて知んないわよ」

「シンちゃんが知ってるわよ。ま、よろしくねン」

 ミサトは笹や短冊の邪魔にならないように場所を選んで、テーブルに突っ伏して目を閉じる。
 この酔っ払いが!とアスカが悪態を吐くが、ミサトは心の中で「その通り、私は酔っ払ってますよぉ」と返事をした。
 酔っ払っていたからこんなことをしたのかどうか。
 彼女はしばらく自問自答してみた。
 随分、昔。
 父が家を出る、もっと前。
 小さな我が家で七夕の笹を飾った。
 父も母も、短冊に何かしら書き込んでいた記憶がある。
 次第に沈澱していく意識の中、ミサトはチェロのメロディーを微かに聴いた。



 目を覚ましたとき、ミサトは自分の部屋に敷かれた万年床に仰向けになっていた。
 おそらく二人が運んでくれたのだろう。
 その時の様子は容易に想像できる。
 ミサトの上半身を担当したのはアスカに違いない。
 シンジに妙齢の女性の身体を密接に触れさせる筈がないからだ。
 酔っ払いの身体を運ぶには上半身担当者は脇に手を入れて思い切り身体をくっつけないと不可能だ。
 そんな役回りをシンジにさせるようなアスカではない。
 文句を並べ立てながら、シンジには足を持たせたに決まっている。
 そのような情景を思い浮かべながら、ミサトは喉の渇きを覚えた。
 水…。
 リビングに出るとテーブルの上は綺麗に片付けられている。
 台所も汚れ物は何一つない。
 ミサトはガラスコップに水を注ぎ、そしてごくごくと喉を潤す。
 飲み干すと同時に笹飾りのことを思い出した。
 彼女はにんまりと笑いながら、ベランダへと向かう。
 裸足のままでベランダに出ると、すぐに小さな笹飾りが目に付いた。
 ベランダの柵にくくりつけられた、その笹飾りの前にミサトは蹲った。
 夜目ではあるが、それなりに短冊の文字は読むことができる。
 そして、ミサトが見たいと思っていた短冊は直に見つかった。

 “来年はもっと巧く演奏できるようになりたい シンジ”
 さらに“来年は”の隣に“七夕で”と書き加えてあった。
 そういうところはいかにもシンジらしい。
 
 アスカの3枚目も見つかった。
 “来年の七夕は完璧な演奏を聴いてあげるからもっと練習しなさいよね アスカ” 
 おいおい。
 ミサトはアスカの短冊を指で弾いた。
 これじゃ、願い事じゃなくて、宣言じゃないの、アスカったら。

 ふふふ、結局二人とも来年の七夕も一緒にいたいってことね。
 お姉さんが推理した通りじゃない。
 使徒がこないにしても、使徒を全滅させたにしても、つまりはシンちゃんもアスカも同居したままでいたい、と…。
 ミサトはにこにこと笑いながら、自分たちの書いた短冊を一つ一つ確かめてみる。
 そして、ある短冊を読んだ時に強烈なデジャヴに襲われた。
 リビングで読んだ時にはそんな覚えはなかったはずだ。
 おそらく、きちんとベランダに飾られた状態で短冊を見た所為で記憶が甦ったのだろう。

 “おとうさんとおかあさんといっしょにゆうえんちにいきたい ミサト”

 すべてがひらがなで書かれたその短冊は、おそらく幼稚園のときに書いたものに違いない。
 ミサトは涙に濡れた顔を上げた。
 あの時、別の短冊にはこう書かれていた。

 “ミサトが幸福になりますように” “ミサトが元気で健康でありますように”

 漢字が読めないミサトに母親は優しくその短冊を読んでくれた。
 その近くで父親は照れながらビールを飲んでいたはずだ。
 両親の願いは…。
 ミサトは蹲ったまま顔を覆った。
 そのわずか数年後には、父と母の心は離れていき、そして悪夢のセカンドインパクトがやってくる。
 しばらくの間、ミサトは嗚咽を堪えながら咽び泣いた。
 そして、彼女はゆっくりと立ち上がる。
 短冊はもうない。
 だから、彼女は七夕の神様に直接祈った。

 “シンちゃんとアスカが…、いいえ、世の子供たちが幸せでありますように”

 ミサトはその胸にこの願いを刻みつけた。
 あの傷跡を包み隠すほどに、強く、思いを込めて。



(おわり)

 


 

<あとがき>
 
 お読みいただきありがとうございました。
 エヴァンゲリオン掌話の第1作でした。この作品で20KBと少しです。これが長いか短いかというのは個人差があるでしょうが、私にとってはかなり短いと感じてしまいますね。ただ、こういう掌話も書くのはいいかな?とも思います。
 この作品の場合、時期はいつくらいでしょう?マグマダイバーの後で、アスカのデートの前。その間ってところでしょうか。何とか一日で書き上げられましたので、七夕には間に合わせることができました。
 こういう掌話を書くことはこれからもあると思いますが、よろしくお願いいたします(何を?:笑)。


 

専用インデックスページはこちら

SSメニューへ

感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちら

掲示板も設置しました。掲示板はこちら