エヴァンゲリオン掌話集 2008.09.22 ジュン |
こつこつこつこつ。
しんと静まり返った夜の街に響いているのは自分の足音だけだ。
最初の坂をよっころよっこらと上がっていた時は、駅からタクシーにすればよかったかなぁと内心弱音を吐いていた。
だが、最初の坂さえ上りきってしまえばもうこっちのものだ。
あとはなだらかな坂を三つほど上ったり下ったりするだけでいい。
私の住むあたりがもう少し住宅が増えれば、路線バスも停留所を先に作ってくれるのだろうが。
しかし、そういう要望を思い浮かべてしまうのはこういう時だけで、いつもはこのままでいいと思っている。
自家用車が極めて少なくなったこの時代なのだから、車が走り回る住宅街には魅力は感じない。
もっとも駅前であっても車といえば、電動タクシーや軌道バスの姿がほとんどだ。
まれにトラックやダンプカーが走ることもあるが、市街地には規制されていて一日に見る台数はわずかだった。
ほんの数年前とは大きな違いだ。
いや、数年前といってもサードインパクト前じゃない。
サードインパクトの直後は政府の大号令で復興ラッシュなんてものがあった。
あの時は排気煙も凄まじくトンカチドカドンゴゥゴォと騒がしいことこの上なかった。
そういう状態だったから、私たちも身を潜めることができたわけだ。
この時分の経験で随分と身体を鍛えることができたのではないか。
日雇い仕事ならば身分証明書は要らない代わりに、それはそれは仕事が辛かった。
何しろネルフではデスクワーク専門っていってもいいくらいだったものね。
汗びっしょりでぐったりとしてアパートに帰ると、私の帰りを待っていた彼女と銭湯へ行く。
随分昔に流行ったフォークソングみたいな感じは一つもない。
周りの目を気にしてこそこそと銭湯への道を急ぐ。
二人連れの方が目立つのだが、彼女が一人になるのを怖がってね。
私が働きに出ている間はじっとアパートの部屋で息を潜めていた。
それだけ、あの時の経験が彼女の心を閉ざさせていたわけだ。
最も実は私もそうだったんだけどね。
使徒ではなく戦略自衛隊との命のやり取りだなんて、今思い出しても背筋が寒くなる。
まして赤い海から帰ってきた時の、あのネルフ本部の惨状といったら…。
あの瞬間までに生命活動を停止していた人間は赤い海には取り込まれなかった。
つまり、死体はそのままだったというわけだ。
だから、惨殺された多数の職員の姿を見、その上赤木博士の死体も目にしてしまった彼女が放心状態になったのも仕方がない。
私だって、憧れていた葛城さんの遺体を見つけた時は呆然としたものだ。
シゲルのヤツがギターケース片手に姿を消した時にはじめて、早く逃げなきゃいけないんだって気がついたくらいだ。
そして、行きがかり上というような感じで、彼女の小脇を抱えてネルフ本部から逃亡した。
あのまま彼女をあそこに放って置くわけにはいかなかったからね。
実際、私たちは指名手配されたわけだし、その時の判断は正しかったってことだ。
彼女は髪を伸ばし、私は髪を丸刈りにして無精髭を生やした。
そんな二人が男女の関係になるには時間はそうかからなかった。
ネルフにいた頃は散々「フケツ」なんて言ってた彼女だ。
実は二人で逃避行を始めてもそういうことにはならないとどこか思っていた。
ところが驚いたことに…と自分で言ってはいけないのだが、なんと初日に身を潜めた瓦礫の暗がりで男女の関係となってしまった。
現在、戸籍上も妻となっている彼女曰く、私から誘ったということらしい。
私の記憶が確かならば、絶対にそんな筈はないのだが、案外と怒ると怖い女性なのでそういうことにしておこう。
襲ったと言われないだけマシだ。
そんな私たちは子供を作れなかった。
母子手帳なんて請求できる立場じゃないので仕方がなかったからね。
それでも私たちは子供が欲しかった。
自分たちの愛情の証として。
しかし、逃亡者という状況では子供などとんでもない。
いつか赤ちゃんを作れるようになればいいねと二人で慰めあったものだ。
だから、今の私たちは幸福だった。
やがて産まれてくる我が子の名前を考えたり、どんな風に育てようかと話し合ったり。
あんなに大きく膨らんで大丈夫なんだろうかと少なからず畏怖の思いを抱きながら、
時には妻のお腹に耳を当て子供の動きを確かめて笑い合ったりもする。
実に平和で、幸福な日々だ。
サードインパクト直後にはこんな日々が巡ってくるなど思いもしなかったからね。
復興と混乱の2年が過ぎ、世の中が落ち着いた頃、国民は政権の意図通りには動かなくなった。
国民だけではなく、戦自や官僚たちでさえそうだったのだ。
世界中で旧来の政権がどんどん倒れ、軍備放棄や反産業革命と呼ばれる自然回帰が行われていたことがその根底にあった。
要はサードインパクトはあの瞬間にあったのではなく、その完成にまで数年かかったというのが現在定説になっている。
セカンドインパクトが破壊を意味するのであれば、サードインパクトの意義は新生にある。
新生というのは人類という規模ではなく、地球レベルのものである。
その証拠に地軸が戻っただけではなく、オゾンホールが解消され、南極大陸が復活したではないか。
これを他にどう解釈するのか、などと問われれば確かに神のご意思としか答えようがない。
だが、その神がどの神かなどわかりようがない。
キリスト教かイスラム教か仏教かはたまた名も知らぬ新興宗教か。
あまりに奇蹟のレベルが大きすぎて、己の信じる宗教の神の仕業とは主張すればするほど逆に白々しくなってしまう。
最初は我が宗教こそがと声高々にだったのだが、そのうちに誰もその話題に触れなくなってしまった。
誰がしたか、ではなく、これからどうすべきかという方面に人々の意識が集まったからだ。
せっかくやり直すことができるのに、また地球の環境は破壊する方向へ向かうのか?
為政者たちは環境に配慮した上でセカンドインパクト以前の生活を取り戻そうと行動を起こした。
その方策に人々はついていかなかったのだ。
サードインパクトで赤い海に取り込まれたという経験がなければ、人間はまた同じ過ちを繰り返していただろう。
己の欲望や利便性に振り回されていた、あの生活に戻ろうと考えた筈だ。
しかし、あの経験を通し、いい意味で洗脳されたのではないか。
子供たちに、真の意味で豊かな明日を残したい。
そう考えた世界中の人々が、欲望塗れの政治家や権力者たちを追い落としていった。
信じられないことにそのすべてが無血クーデターだったのだ。
ここ日本でもそうだった。
そのきっかけの一つになったのが、あのシゲルのギターケースだった。
おっと、アイツの歌がって意味じゃない。断然、ない。ヤツの歌は、ひ、ど、い。
問題はギターケースの中に隠されていた、映像資料だった。
戦自がネルフで行った行為を包み隠さず残した映像記録。
ネルフの記録機器に残っていたものをシゲルが持ち去っていたわけだ。
もっともこれはヤツの発案ではなく、冬月副司令の指示だったのだが。
ともかく最初から投降し国連に拘束されていた冬月さんはその記録を基に攻勢に出て、ついに日本政府と戦自を解体に追い込んだんだ。
いや、表面的には外圧と世論に圧されて政府と戦自内部から崩壊していったんだけどね。
ちょうどその頃、笛を吹いていた欲望丸出しの連中に嫌気が差し、踊り続けることに下の連中が疑問を抱いていたことも大きい。
それを冬月さんが見計らっていた、というわけなんだけど。
ともあれこれで、ネルフ関係者の復権はなされた。
私たちは晴れて、実名を名乗り、婚姻届を出すことができたってわけだ。
それから2年余り。
ようやく妊娠したことがわかって、私たちは狂喜乱舞した。
どちらかに問題があるんじゃないかと、産婦人科に行くことも検討し始めた頃だったからね。
喜びもひとしお、ってところだった。
毎日の仕事にも身が入り、その姿を職場の連中に冷やかされる始末。
だって仕方がないじゃないか。
冷やかされても嬉しいのだから。
今日も残業だったのだが、仕事の片がついた途端に元ロン毛の同僚(逃走中に髪を切ったままのシゲルのことだ)から
「早く帰れ、この野郎」などといった友情のこもった悪罵を背に帰宅の途についた。
最終バスには間に合い、バス停に一人降りたのはもう10時15分になろうとしている。
妻には電話で先に寝ていていいよと言ったのだが、その返事は「いやよ。この薄情者」だった。
起きて待っていろって言う方が薄情者だと思うのだがどうだろう?
まあ、今日は検診日だったからいろいろと話したいこともあるのだろうね。
順調なのは間違いないと思うから、悪い話じゃなくてああだったこうだったという、つまり世間話に違いない。
もっとも近所に歳の近い友達がいない所為で、気の置けない話をする相手は妻にとって貴重だということもいえる。
ちょっと気張っていい場所の家を選びすぎて、まわりと一世代違っているんだ。
さすがに政府のお仕事をされている方は違いますねぇと、奥様連中にからかわれてると妻は言っている。
あの逃走中の慰謝料という名目で、家一軒買えるだけの資金が手に入ってしまったんだから仕方がない。
何しろ我が家は妻と私の二人分の慰謝料だったのだから。
未来の子供のためにもと、つい張り込んでしまったんだ。
できるだけ自然が多くて、子供が伸び伸びと育つような場所ってね。
こつこつこつこつ。
あと坂が二つ。
ここを上りきれば、なだらかで長めの下り坂になる。
片側が中学校の塀が続き、反対側は緑地公園とグラウンドだ。
つまり周囲で一番寂しい場所ってことになる。
しばらくの間、周りに人家がないからね。
ただ、サードインパクト以降は犯罪発生件数が激減した所為で、そういう不安感はない。
しかし、超常現象、つまり幽霊といった類のものはやっぱり何となく…そう、怖い。
武器を持った兵隊とは違った怖さがある。
ご近所で幽霊を見たなんて話は聞いたことはないが、
こんな夜更けに一人でこんな場所を歩いていると、つい足早になってしまう。
こつこつこつ。
いささかリズムの早くなった足音を耳にしながら、坂を下っていく。
擂鉢、といってもかなり底の浅い擂鉢だが、その底に到着し、上りに備え息を整える。
はぁはぁという息遣いが我ながら情けない。
他に聞こえてくるのは、木々のざわめきに微かな虫の音…そして…。
ごろごろごろごろ。
自然音とはまったく異なる音を聞きつけ、私はその音の方向を見る。
思わず足が止まってしまった。
距離にして50mほどだろうか。
昔…といってもサードインパクト前だからまだ数年前だがかなり以前のように感じる…とは違い、街灯の数はそれほど多くない。
そこに見えたのは…。
坂の上に姿を現したのは、乳母車と、そしてその向こうにいる人影だった。
坂の天辺にある街灯を背にしているのでシルエットのように見えるが、こんな夜更けにとぎくりとしてしまった。
まさか、幽霊…!
なんてことはないか。
私は声に出して小さく笑うと、もう一度しっかりと坂の上を見た。
乳母車の音はしていない。
それもそのはず、乳母車は坂の頂で止まっているようだ。
私は目を細めた。
いくら満月が輝いていても、その煌き程度ではあまり役には立ってくれない。
どうして動かない?
まさか、私を待っている?
そんなことはなかろうと、私は意を決して足を踏み出した。
しかし、目を逸らすことはできない。
私は自分を奮い立たせて、一歩一歩足を進めた。
さっきまでよりかなり遅いペースで一足ずつをしっかりと踏みしめていく。
歩いていくうちに、最初に覚えた恐怖感は徐々に薄れていった。
そもそも、幽霊だと思ったこと自体が私の思い込みではないのか?
赤ちゃんが夜泣きをしてあやすために外に出た。
今は治安がいいから、こんな夜に出歩いてもおかしくはないじゃないか。
自分の不安を打ち消すために、これは異常な体験ではないのだと自分に言い聞かせる。
歩きながら、真っ直ぐに乳母車を見つめた。
まるで彫像のようにそのシルエットは微動だにしない。
そうか…、夢。
もちろん、今が夢の中、と思っているわけではない。
まるで夢の中のように、という表現がぴったりだと感じたわけだ。
一歩ずつ歩むその動きがやけに重く感じる。
そう、夢での動きのように。
時間や空間が歪んでしまっているような、でもその中心にいるのは紛れもなく自分なのだ。
この道は本当に毎日歩いている、いつものあの通りなのか。
学生たちが走り回っている中学校の運動場は砂漠のように、そして散歩する人々の言葉が行きかう公園は墓場の如く。
いや、待て、マコト。
この時間になれば、こうなるのが当然じゃないか。
そんな風に思った途端、まるで魔法が解けたかのように身体の重さが消えた。
私はふっと軽く息を吐いた。
身体も軽い。足も軽い。
だが、あのシルエットだけは変わらない。
その部分だけは夢がまだ続いている。
そんな感じだ。
あの場所に、確かにそれは存在している。
きっとこういうことなのだろう。
夜泣きをした赤ん坊をあやすために散歩に出た。
ところがこんな夜更けに道を歩いてくる男がいる。
いくら治安がよくなっているとはいえ、やはり女性だけにあの場所で様子を見ていた。
そういうことに違いない。
さっきは私が勝手にいろいろなことを想像してしまっただけだ。
そんな風に自分へ言い聞かせて、私は坂を上った。
彼我の距離がほんの10mほどに迫った時、ようやくシルエットの女性が着物を着ていることに気がついた。
ほう…。
さすがに口笛を吹くような真似はしなかったが、それに近い思いを抱いたことは事実だ。
どういうことかわからないが、その時私は乳母車に和服はよく似合う、などということを思ったのだ。
これだけ近づくと相手の顔をじろじろ見るような非礼はできず、私が認識できたのは彼女の髪は短めでどちらかというと淡い色調だということだけだ。
表情も、いや顔立ちすら判然としない。
何しろ上り坂側の街灯の球が切れているようで…ああ、そうか。
私は苦笑した。
乳母車の女性が微動だにせず私を見つめていた理由に思い当たったのだ。
単に暗かったから、私が何者か見定めることができなかった。
それだけのことじゃないか。
事の真相がわかると私の心はもっと軽くなった。
私は微笑を浮かべると、ことさらに明るく女性に声をかけたのだ。
「こんばんは」
その挨拶に、乳母車の女性は軽く会釈で返す。
言葉で返してこないのを見て、私はしまったとばかりに苦笑した。
赤ちゃんをあやすための散歩ではないか。
大声を上げてどうする。
5歩ほどを残して立ち止まった私は、鞄を持っていない方の手で頭の後ろを掻いた。
その罰の悪さも手伝ってか、私はさらに、今度は声を落として言葉を継ぐ。
「お散歩ですか?いいお月様ですね」
今度の声の大きさでよかったのだろう。
ゆっくりと振り返った女性は星空に浮かぶ、白く光る満月を見上げた。
その瞬間、私は愕然とした。
決して月の光で彼女の容姿が確認できたのではない。
背後の街灯に照らし出されたわけなのだが、何故か私には月光でそう見えたように感じたのだ。
いや、いずれにせよ…。
乳母車の後ろに立っていたのは、綾波レイ君だった。
サードインパクトの前に姿を消した、あのファーストチルドレン。
結局は彼女は何者だったのだろう。
いや、その成り立ちは私も知っている。シゲルと冬月さんに教えられた。
ネルフの復権が成って、しばらくしてのことだ。
因みにマヤには何も言っていない。
可哀相なチルドレンたちの一人がクローン人間で尚且つ魂の入っていない大量のダミーが存在していたなどとは。
そんな事実は哀しすぎる。
だからこそ、私の胸にだけ留めておいたのだが、今ここに綾波レイ君がいる。
その彼女は微かに笑みを浮かべ立っている。
いつの間にか月から私に目を移していたのだ。
じっと私を見つめている赤い瞳に吸い寄せられる様に、一歩、また一歩と私は乳母車へと近づいていく。
私の視線は綾波レイ君に釘付けになっていた。
ああ、しかし、彼女はどうしてこんな穏やかな表情をしているのだろう。
私が記憶している綾波君はもの凄く無表情で、時にそれが故に厳しさを見受けられるときもあった。
それがどうだろう。
眼前の彼女は…そう…まるで…。
そうだ、このような表情を最近よく見ているじゃないか。
大きく膨らんだお腹を撫でている、私の妻の顔。
まさにそれだ。
つまり…、母の顔…ということか?
しかし何故、綾波君が母の顔なのだ。
私の疑問に答えるように、彼女はゆっくりと顔を俯かせた。
その動きにつられて、私も視線を下げる。
するとそこには乳母車で眠る赤ちゃんが…二人!
赤ちゃんの年齢は今の私にはよくわからない。
おそらく産まれてすぐではないだろう。
性別もわからないが、一人の髪は黒く、もう一人の髪の毛の色は…赤茶けて…。
ああっ、これは!
瞬間、私は了解した。
乳母車で眠っているのは、シンジ君と惣流君じゃないか。
私は顔を上げた。
綾波君と真っ向から顔を合わせる。
もしかするとこの二人はサードインパクトからずっと眠り続けていたのか?
「この二人はずっと…」
私の問いかけを最後まで聞かず、彼女はしっかりと頷いた。
そして、ついに唇を動かす。
「この子たちを…」
よろしく。
そう、聞こえた。
確かに、聞こえた。
この子たち、と呼ばれた二人を見下ろすが、すやすやと眠る赤ん坊はしっかりと小さな手を握り合っているだけだった。
彼女の言った意味を確認しようと思ったが、なんと目の前にいた筈の綾波君の姿が見えない。
いいや、それだけではなかった。
乳母車も消えてしまったのだ。
一瞬のうちに。
私はその場に立ち尽くしてしまった。
夢とは思えない。
幻とも思えない。
確かに、今、この場に綾波レイ君の姿をした女性がいて、乳母車には二人の赤ちゃんがいた。
この時の私は何故だかすんなりとさきほどの経験を受け入れていた。
なるほどサードインパクト直後に彼ら二人が姿を現せていたならば、幸福とはいえない人生を送ることになっていただろう。
サードインパクトの責任を無理矢理負わされていたかもしれない。
その意味では、赤ちゃんの姿で眠り続けて正解だったのかも…。
いや、待て。
赤ちゃんだと?
よろしくと言われても何をどうよろしくすれば良いのだ。
ある日目覚めると、玄関の前で赤ちゃんが二人すやすやと眠っているとか、そんな童話のようなことが起きるのだろうか。
私は苦笑した。
そうなるとこの私はやがて産まれてくる我が子と合わせて3人の赤ん坊を育てないといけないということか。
ううむ、そいつは大変だぞ。
しかし、もしそうなったとするならば、がんばるしかないな。
坂の天辺に立つ私は背後を振り返る。
丘の向こうに見える街の灯りは昔と比べるとかなり少なくなっていることだろう。
遥か離れた新都心もそれと同様だ。
昔ながらの歓楽街と呼ばれる場所も存在するが、その規模はたいしたことはない。
昔…というには十年一昔という古の言葉にも満たないのだが、それでも昔と呼びたくなるほど今は状況が違っている。
もちろん、素晴らしい方向にだ。
なるほど、サードインパクト後の混乱が収まってもう大丈夫だろうと判断したのかな?
あの、乳母車を押す若すぎる母親は。
綾波君、君はこの6年、二人を見守り続けてきたのかい?
これからどうなるのかまったくわからないが、とにかく何かが起こるのだろう。
童話じみた何かが。
このあたりに竹やぶはあったかな?それとも川に大きな桃が?
我が国の御伽噺を頭に思い描きながら、私は踵を返した。
帰ろう。
マヤの待つ、いやマヤだけでなくそのお腹にいる子どもとの、その二人が待つ我が家に。
私は歩き始めた。
我が家までもう後ほんの数分だ。
今経験した出来事は本当のことなのかどうか。
時間が経つにつれて、記憶は不確かなものになってくる。
もっともどちらでもいい、と私は心から思った。
とにかくこれだけは確かだから。
子供たちに未来を。
私は歩きながら、夜空に浮かぶ満月を見上げた。
そして、その月に向かって小さく問いかけた。
「君も明日を生きるべきだよ」
月は何も応えず、ただ白い光を煌かせるだけだ。
ただその時、微かに「ありがとう」という呟きが耳に届いたような気もした。
しかし、それは風にそよぐ葉のざわめきに過ぎなかったのかもしれない。
(おわり)
<あとがき>
お読みいただきありがとうございました。
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