ー 1954 12月 ー
2010.12.25 ジュン |
おかっぱ頭で蒼い目の少女はあれっと首を傾げた。
先ほどもあの男の子を見たような気がしたからだ。
両方の袖のところにあてものがされているのが目に留まっていたのである。
もちろんこの頃のことだから革のあてものなどではなく単に肘のところが薄くなってきているのを布で補強したものだがそれは珍しいものではない。
むしろつぎのあたったセーターを着ていることも珍しくもなかったが、少年の姿が目を引いたのはその色だった。
赤い色のセーターに緑色のひじあて。
明らかに女の子向きといえる色合いである。
そういう取り合わせの色のセーターを着ていた女の子を見た様な気もする。
ただしそれも別におかしなこととは言い切れない。
何故ならば子沢山の時代の名残はまだ残っていたので、よほどの金持ちの家でない限りはお下がりの服というものはごく普通なのである。
ましてセーターには男女の区別がないので、少年には年上の姉がいるのだろう。
少女は自分の着ている赤いカーディガンを見下ろす。
おそらくまだ3歳の弟もいずれはこのお気に入りのカーディガンを着ることになるだろう。
もっとも少年とは違い、皮膚の色が白く髪の色が金色の彼にはこの赤色も似合うに違いない。
だが、同じ色白には見える少年だが少女の目にはあまり似合っていないように見える。
同じ年恰好だからまだ小学生だろうが、それほど派手な色が似合うような感じの男の子ではない。
まあ、ああいう感じの子の方がアタシは好きだけどな…。
惣流アスカは心の中で呟いた。
彼女ももう11歳になっている。
今月のはじめに誕生日を迎えたばかりだった。
父親は欧州戦線で戦死しているが、その自分の父の顔を彼女は写真でしか知らない。
昭和18年に日本にいた彼が潜水艦でドイツ本国へと送られたときはまだ彼女は母親のお腹の中にいたからである。
写真の父親については可哀相だと思うのだがそれほどの感慨を抱けない自分にアスカは少しだけ腹立ちを覚えていた。
どうしても母親に対してのような、所謂肉親への愛情を抱けないのである。
その理由はわかっていた。
彼女にとっては義理の父親に当たる男を実の父親のように慕っているからだ。
物心がついた頃から近くにいる上、可愛くて仕方がない弟の父親が彼なのだからアスカの父親という概念はほとんど彼に向けられても当然だろう。
その父親に当たる男は生粋の日本人で、彼も出征していたのだが運良く生還でき身寄りがなかったので元々勤めていたアスカの家が営む洋菓子店に戻
ってきたのだ。
そして未亡人となったアスカの母親と結婚し惣流家の入り婿となったのだが、アスカは彼と初めて逢ったときのことを忘れないでいる。
まだ3歳になったばかりの頃、稼業の洋菓子店もほぼ開店休業状態だった昭和21年12月25日。
店の前で地面に棒で絵を書いていたアスカは土のキャンバスが急に翳ったので顔を上げた。
そこには復員兵が立っていた。
黒ぶち丸眼鏡をかけたその男はアスカを見下ろしてきょとんとした顔をしている。
アスカの方もはじめて見る男の顔を見上げて首を傾げた。
やがて、男は「ああ…」と笑みをこぼし、アスカの前に蹲った。
「もしかしてキョウコさんの…。あ、君のお母さんはキョウコさん?」
母親の名前が何というのか教えられたことはなかったが、祖父が母をキョウコと呼んでいることは承知しているのでアスカはこくんと頷く。
すると男はにっこりと笑い、アスカの頭を撫でた。
その感触は優しく、幼女は思わずにっこりと笑顔になった。
「日向さん!」
突然の母の叫びを受けて男は立ち上がる。
その動きにつられてアスカは顔を上げた。
日向と呼ばれた男は真剣な顔をして敬礼をした。
「日向マコト。ただいま帰って参りました」
逆光になってその表情はよくわからなかったが、眼鏡の端に冬の陽射しがきらきら光っていた。
母が店の奥に駆け込み、祖父を呼ぶ声が聞こえる。
立ち上がったアスカは敬礼をしたままの男が呟いたのをよく覚えている。
「おやじさんも無事だったんだ。よかった…」
その呟きの意味がわかったのはもっと後になってからである。
復員してきた彼は実家のあった東京の下町が空襲で壊滅し、家族はみな死んでいたことを知ったのだ。
行くあてもなく、菓子職人をしていた店を訪れ、そこは空襲の被害を受けていなかったこと、そしておやじさんと呼んで慕っていた店主とその娘が無事でい
たことを喜んだわけだ。
しかし、太平洋戦争が始まって早々に応召した彼は店主の娘が菓子職人の同僚だったラングレーと結婚したことまでは知らず、その上その彼が戦死したこ
とを聞くとぼろぼろと涙をこぼしたのだ。
自分が身代わりになれればと本心で言う彼を店主である惣流トモロヲは叱責した。
そしてその日から彼は惣流家に寝起きすることになった。
砂糖をはじめとして洋菓子の材料は配給のため戦前のような商売ができるわけもなく、トモロヲやマコトが知恵を絞ってこの時期を切り抜けてきたのである。
こぶつきでもいいかと言うキョウコとマコトが結婚したのは昭和24年のこと。
昭和27年になってようやく砂糖と小麦粉の統制配給が廃止され、洋菓子店ルイーゼコンフェクトは満足のいくものを店頭に並べることができた。
それから2年経過したのが、冒頭の光景だった。
曇ってはいたが雪は降りそうもない。
『ホワイトクリスマス』という映画をアスカは見ていない。
父と呼ぶ惣流マコトからは公開中のその映画を母と一緒に見に行けばどうかと言われたが、あんな映画など見たくもないと彼女は言い切った。
それよりも『ゴジラ』の続きはないのかと、先月に見た怪獣映画のことをアスカは父に尋ねた。
半年後に上映される続編『ゴジラの逆襲』の存在など知らないマコトは「それは難しいなぁ。ゴジラは死んだしね」と頭をかいたが、それほどあの映画は小学
5年生になったアスカの心をわしづかみにしたのである。
しかし『ホワイトクリスマス』の歌だけはラジオで聞いたことが何度もあった。
だからこのクリスマスには雪が降らないかなぁと少しだけ願っていたのだ。
だがラジオの天気予報でも雪は北国にしか降らないと告げている。
残念だなぁと思いながら、アスカは店の隅にある椅子に座って窓越しに外を見ていたのだ。
今年からルイーゼコンフェクトでも不二家がはじめたクリスマスセールを見習ってデコレーションケーキの販売を始めていた。
どれほど売れるのかと不安だったがもう数個ほどしか残っておらず、店先にはマコトだけが立ち、キョウコとトモロヲは既に母屋の方に下がっている。
キョウコは晩御飯の支度でトモロヲは孫の相手というわけだ。
腕のいい職人の割りに愛想もよく客あしらいも上手なマコトはアスカの自慢の父親だった。
血が繋がっていないということなどどうでもいいことだ。
小学校でガキ大将に「お前のとうちゃん日本人じゃないか」と毒づかれても彼女はまったく動じない。
「アタシ、日本生まれの日本育ちの日本人よっ」
それが彼女の啖呵でもあり、お得意の言葉だった。
戦前から同じ場所で商売をしていて、しかも亡き祖母の名前を冠したルイーゼコンフェクトという洋風の名前につける前は惣流洋菓子店で、さらにその前
は惣流堂という和菓子の店だったのだ。
跡取りだったトモロヲがこれからは洋菓子だと修行にいった横浜のドイツ菓子店でそこの娘と恋仲になって結婚した。
白人の嫁さんを連れ帰ってきたと町で評判になったものだとトモロヲは懐かしく語るときもあった。
だが、関東大震災で実家の家族も店もすべて失ったことがきっかけとなったのか、病気になった彼女はその翌年に夫と一人娘を遺してあの世へと旅立っ
てしまった。
その時のキョウコはまだ1歳だった。
頑是無い幼子を残して母が逝ったことからご近所の奥さん連中からキョウコはかなり可愛がられて育っている。
だからこそ、同盟国であったドイツ人の血筋であるとはいえ鬼畜米英の風潮の中でもそして戦後でも白人の容姿をしたキョウコやアスカもご近所からは疎ま
れていない。
この地区が空襲を受けていなかったことも彼女たちには幸いしたのだろう。
それでも家族または親戚がこの戦争のために亡くなっていない家を探す方が難しい状況で、彼女たち母娘が近所から白い目で見られなかったことはトモロヲ
も胸を撫で下ろしている。
ただし、戦中の官憲や戦後の街中ではそれなりに嫌味や罵声は浴びせられたことはあることは事実だ。
この昭和29年の年末では表面上ではほとんど皆無となっている。
子供であるアスカはそれを単純に父親のおかげだと思い込んでいるむきもある。
完璧な日本人にしか見えない彼が父親であるからこそ自分は日本人でいられるのだと考えている。
とにもかくにも、アスカは父親のことが大好きだった。
だから彼が自分の前に現れたクリスマスという日の事も好きなのである。
絵本で読んだサンタクロースが彼を自分たちのところに届けてくれたのだと少し前まで信じていたのだ。
そのクリスマスは翌日の土曜日だ。
今日が終業式だったのでアスカはお昼御飯の後ずっと店にいた。
もちろん販売の手伝いもしながらではあるが、それも楽しみのひとつである。
活発な少女であるアスカは店先で大声を張り上げるのはまったく抵抗がない。
洋菓子店でそれができるのはなかなかないので、このクリスマスイヴの売り出しは彼女にとって本当に楽しみだった。
店にとってもアスカの呼び込みでご近所さんがケーキを買ってくれたので大いに助かったのだ。
そして今、アスカはほど良い疲れと満足感を感じながら窓の外を見ていた。
雪は降っていずとも曇り空だけに気温は下がっている。
そのような中に立っているセーター姿の少年は見るからに寒そうだ。
事実、彼は手をすりあわせたり足踏みなどもしていた。
さてそこで問題です。
あの男の子はいったいあそこで何をしているのでしょうか?
アスカは自分に問いかけた。
う〜んと考えた後、彼女は答を出した。
ケーキが欲しいがお金がない。
戦争が終わって9年経つが、まだまだ日本は貧しい。
そのことはアスカも自分などは幸福なのだと身に沁みてわかっている。
同級生たちや町中にも探す気になればいくらでも戦争の傷跡など容易に見受けられた。
そういうことを考えると、嗜好品を販売してそれで生活している自分の家はどうなんだろうかと思うこともある。
ケーキなど食べたくても食べられない子供だってクラスの中には大勢いるはずだ。
だからアスカはクリスマスケーキのことなど一言も喋ってはいない。
友達に惣流家はクリスチャンなのかと訊かれ、「うちは浄土真宗」と本当のことを言っただけだ。
やっぱりそうなのかなぁ。
そう考えるとアスカの胸はちくりと痛んだ。
見なきゃよかったなとも思ったが一度見てしまったのでもう引き消せない。
でも…。あの子、本当にそうなのかしら?
セーターにひじあてをしていることは珍しいことではないし、それほど物欲しそうな表情をしているようには見えない。
だいたい、自分を見ても目を逸らしたりしていないではないか。
椅子の肘掛けに置いた手で頬杖をつき、アスカはもう30分近くそのままの姿勢で外を見ている。
その30分の中、一度姿を消した少年はしばらくしてまた路の向こう側に立つとこちらを眺めていた。
やはりケーキを食べたいが食べられないってことなのかなぁと思いながら、アスカは大きな欠伸をした。
その瞬間である。
少年がわっと驚いて後ろに飛び退ったのだ。
そこには木製の電柱があり、背中を勢いよく打ちつけたのか少年はうずくまってしまった。
「たいへん!」
アスカは慌てて外に飛び出していった。
それなりに人通りの多い通りだが、自動車はそれほど通らない。
彼女は自転車の存在だけを注意して通りを横切った。
以前に周りを見ずに飛び出した結果、自転車と衝突して出前中の蕎麦を通りに散乱させた前科があったからだ。
暖房機を備えていない店だったから外に出てもそれほど寒さは感じない。
しかし吐く息は白く、「だいじょうぶ?」と訊ねた言葉も少しだけ喉に引っかかった。
すると相手は背中を擦りながら、「うん」と言葉を返した後、「びっくりしたなぁ」と続けた。
「何が?」
「あ、ごめん。だって、きみのこと人形だって思ってたから…あ、えっと、日本語?」
「はんっ、アタシは日本人。日本生まれの日本育ちの正真正銘の日本人よっ」
アスカは胸を張った。
この決まり文句を言う時はお馴染みのポーズなのだが、初対面の少年はもちろんはじめて見る。
彼は目を丸くして路上で仁王立ちする少女を眺めた。
少年は実物の白人を見たことがない。
肌の白さ、目の蒼さ、髪の輝き、それらのどれもが眩しく目に映った。
こうしてすぐ近くで見ても人形のように見える。
「で、さ…」
少しだけ躊躇って、アスカは問いかけた。
「アンタ、うちの店に用…があんの?」
少年は赤い頬と同じくらいに耳を染めて小さな声で答えた。
「社長さんがケーキを買ってきなさいって…」
「は…?」
「こんな店に入ったことなくて…」
アスカはぷっと吹き出した。
よかった、それだけのことか。
お金がなくてとかそういう言葉が出てきたならどうしようかと思っていたのだ。
こういう理由ならば対応も気軽にできる。
「ばっかじゃない!さっさと入りなさいよ、ほらっ」
アスカは少年の手をとった。
彼女としてはごく自然にしただけのことだが、少年にとってはとんでもないこと。
白人どころか日本人でも同世代の女の子と手を繋いだ経験などまったくない。
生まれて初めて触れた女の子の手は冷たく、しかし柔らかかった。
薄暗がりの夕方の街角に慣れた眼には店内の照明ですら眩く見え、少年は目を細めて入り口で足を止めた。
その姿を見て「いらっしゃい」と挨拶をしたアスカの父親はすぐに目を逸らした。
明らかに緊張しているのを見てとり、娘に任せようと考えたわけだ。
小学校の友人かどうか、ただ手を繋いでいることに少しばかり不安感を覚えていたが。
その娘はまったく照れもせずにまごまごしている少年を店の奥に引っ張っていく。
「ほら、どれなの?今ならまだ3種類全部、どれでも選べるわよ」
「3種類?」
「そうよ。9cm、12cm、15cmの3つ」
少年は見本で出ているデコレーションケーキをじっと見つめた。
彼の手を離したアスカは3種類の箱が置かれた机の前で見本になっているケーキを指差す。
「それは12cmのヤツね。だからそれより小さいのか大きいのかってこと。味は同じよ。どれもおいしいのは間違いないから。アタシが太鼓判を押すわ」
アスカはちらりと父親を見る。
「アタシのパパは日本一のケーキ職人なのよっ」
おおっぴらに誉められるとさすがに照れる。
惣流マコトはちょうど入ってきた別の客の対応にいそしむ事にした。
そんな彼の姿を見た少年はなるほどお父さんは日本人なのだとすぐにわかった。
だからこの活発な女の子も日本人なのだと了解したのだ。
「あ、いくら預かってきたの?」
「えっと、こんなに…」
少年はズボンのポケットから綺麗に折りたたまれた五百円札を取り出した。
だがアスカは気がつかない。
少年は五百円札など手にしたことがなくそれをポケットに入れて歩いてきたことでも、物凄く緊張していたことなど初対面であるがゆえに察することもできな
かった。
「あ、岩倉具視か。じゃ、どれでも大丈夫よ。12cmのなら2個買えるわ。何人で食べるの?」
「えっと、社長さんところは奥さんと二人で、葛城さんが…えっと娘さんがいるから…」
少年は指を折って数えはじめる。
「葛城さん?それって堀北町の葛城さん?」
「う、うん。知ってるの?」
「うん!あそこのミサトお姉さんには随分遊んでもらったのよ……って、あ!思い出した」
アスカは少年のセーターを指差す。
「それ、そのセーターって、ミサトお姉さんのじゃないの?」
「えっ、知ってるの?これ」
「とぉ〜ぜん!一緒になってチャンバラとかして遊んだんだもん」
最後に遊んだのはもう3年前になるだろうか。
中学に進んでからは町で顔を合わすと挨拶するだけの関係となったが、葛城ミサトが小学生だった時は彼女がこの界隈での女の子グループの大将になっ
ていたのだ。
アスカの店がある商店街と葛城家のある堀北町は直線距離で見ると200メートルも離れていない。
通りと路地を縫って進まねばいけないので歩くと5分ほどかかるがアスカもよく家に上がらせてもらったものだ。
その懐かしさにアスカは浮かれた。
「へぇ、ミサトお姉さんのセーターか。うんうん、そういやこういう色の着てたわよ。乱暴だから肘が薄くなって布あてされちゃったのよね」
「そうなんだ」
少年は肘のところの緑色の布をしげしげと見る。
「僕のセーターがボロボロだったから、これを着なさいって奥さんが出してくれたんだ。娘のお下がりで悪いけどって」
「ふぅ〜ん、アンタって葛城さんの親戚か何か?あ、社長さんって、冬月さんのことよね。冬月化学の」
「うん。あ、違うよ」
一度は頷いたものの、少年はすぐに首を横に振った。
「ぼ、僕は親戚じゃなくて。その…社長さんの紹介で葛城さんのところで、つまり…」
俯く少年の顔に翳りが生じた。
だが、母親の教えを守って彼は顔を上げた。
嘘はいけない、正直に生きなさい。
少年はきちんと喋ろうと思って口を開いた。
「お母さんが冬月化学さんで仕事することになって、僕だけおじさんの家に残るわけにもいかなくて、葛城さんのところの離れでお母さんと一緒に住まわせてくれることになって、それで…」
「待って」
アスカは手を少年の前にかざして言葉の氾濫を止めた。
頭がいい彼女だったが、こんなにたくさんの情報を投げられてはたまらない。
アスカは先ほど自分が座っていた場所に少年を誘った。
小さなテーブルがあって、常連さんが座って話をしたりするような場所である。
そこでアスカは少年の話を聞いた。
理路整然としたものではなく、あっちに行ったりこっちに戻ったりというものだったが、大体の事情は理解できた。
少年とその母親はサハリンから引き揚げてきたのである。
それは昭和20年春のことで父親が軍隊に突如召集されたことを期に二人が本土へ移ったのだが、結果的には母子にはそれが幸いした。
彼らが住んでいた場所から考えると終戦直後の戦闘と混乱で命を落としていた可能性が高かったからだ。
だが、父親のゆくえはそれ以降杳としてわかっていない。
戦死したのか捕虜になっているのか。
少なくとも短期抑留者としてシベリアから帰ってきた者の中には父親の名前はない。
一兵卒である父親がその中に含まれていないということはすでに戦死しているのではないかと周囲の者は言ったのだが、母親は頑としてそれを受け付けなかった。
2年ほどの抑留で戻ってきた者の口から以前従事していた仕事などが露見するとそれが理由で一兵卒扱いされなくなってしまうと聞いたからだ。
少年の父親は樺太に渡るずっと前、警察に勤めていた。
官憲であったというだけで長期抑留される可能性があり、そのことを密告されれば言い訳も何もできない。
そういった実情を聴き少年の母は愕然としたが逆に希望も抱くようになったのである。
しかし母子での暮らしは苦しい。
本土帰国後しばらくは母親の実家に身を寄せたが結局は親戚の家を点々とすることになってしまった。
そして少年は毎年のように転校を繰り返したとのことだ。
彼の話を聞き、アスカは目頭が熱くなった。
取り立てて彼が特別というわけではない。
周囲の誰もが大なり小なり戦争の被害を受けている。
あの優しい父も兵隊として何年も戦ってきたのだ。
そして戦争の話はほとんどしない。
どこそこの連隊にいたなどの話題を軽くする程度である。
どのような戦闘をしてきたとかどういう日々であったかなど、例え水を向けようとも絶対に語らないであろうということはアスカも察している。
ただ、淡々と話す少年の様子が胸を打ったのだ。
生まれてからずっとこの家で暮らしているアスカには彼の暮らしが想像もできない。
だが彼がこのことを話して同情してもらおうとは思っていないことは伝わってきた。
話せと言われたから話しただけのことだ。
「でも、すごく運がよかったんだよ。尋ね人の時間って知ってる?」
アスカはうんと頷いた。
ラジオで放送している『尋ね人』という番組だ。
そこに手紙を出し、父親の行方を世間に尋ねたわけである。
放送してもらっただけでも幸運だったのに反応があったのだ。
「えっ、じゃお父さんの?」
「ううん。お父さんがどうなったのかはわからないままだったんだけど、昔の知り合いだった人がお母さんを訪ねてきてくれたんだ」
「えっと、もしかして、それが…社長さん」
「うん。社長さん」
少年は微笑んだ。
その微笑みから逆にそれまでの暮らしの辛さが垣間見えてアスカは唇を噛んだ。
「サハリンに行く前にお世話になっていた人だったんだって。
でね、自分のところで働かないかって言ってくれたんだ。
住むところも重役さんの家の離れが空いているから大丈夫だって」
「離れってあのボロ小屋っ?」
思わず言ってしまってからアスカは口を手で押さえた。
葛城家に遊びに行った時に見たことがある場所なのだ。
「たぶん、そこだけど、ちゃんと掃除してくれてたんだよ。ミサトお姉さんが一生懸命にしたんだって言ってたよ」
「でも、あそこってかなり小さいよね」
「そんなことないよ。畳も敷いてくれたし、お布団だってちゃんと並べて敷けるし、ミサトお姉さんは自分の机もあげるって言ってくれたんだよ」
「机?」
少年は楽しげに笑った。
「ご両親に叱られてね。自分はどこで勉強するんだって。だけど、葛城さんの書斎にあった机を貸してもらったんだ」
その机にもアスカは見覚えがあった。
かなり立派な机である。
あれならばそちらを娘に渡して、娘の小さな平机を少年に貸すのが普通だろう。
暖かい雰囲気の葛城家のことを思い出してアスカも安堵したように微笑む。
「よかったわね」
「うん、本当によかったよ」
心の底からの微笑を見て、アスカは必死に耐えた。
ここで涙をこぼせば彼はひけ目に思うことだろう。
だから彼女は強引に話の方向を変えた。
「で、社長さんはどういう風に言ったの?ケーキのことは」
「あ、うん、これでクリスマスケーキを買って食べなさいって」
「は?それって…」
アスカは腕組みをした。
そしてうぅ〜んと首を傾げた。
「もしかしてさ、アンタとお母さんの二人で食べなさいって意味じゃないの?」
返事はなかった。
少年はぽかんとした表情で少女が何を言っているか全然理解できていない様子だ。
ずっと遠慮して母子が肩を寄せ合い暮らしてきたのである。
そのような善意は夢のようで信じる信じないというレベルですらない。
アスカはすっと立ち上がり、父親の方に歩み寄った。
客を送り出した父親はアスカの説明を聞くと優しく微笑んだ。
「それは君、アスカの言うとおりだと思うよ」
「で、でも…」
立ち上がった少年は上気した顔でうろたえてしまっている。
少女はともかく、大人にまで言われてしまうと本当のことだと思わざるを得ない。
「その買ったケーキをどこに持って行くようにって言われたかい?」
「えっと、どうだっけ…」
「会社にとか、葛城さんにとか、言われてないでしょ」
「は、はい」
「最後に何て言ってたかな?」
「あ…、めりーくりすますって、確かそう言ってました。めりーって何ですか?」
アスカは腕組みをして右足でぽんぽんと床を蹴る。
「アンタ馬鹿?クリスマスおめでとうって意味でしょうが。いてっ」
頭を抱えたアスカは拳を落とした父親を恨めしげに見た。
「ごめんね、君。この子は口が悪くてね。馬鹿って言っても本当に馬鹿になんかしていないんだよ」
「あ、いえ。僕、確かに馬鹿ですから」
「ほらね、本人も馬鹿だって言ってるんだから。あ、ごめんなさい!」
もう一度降ってきた拳を避けたアスカは舌を出して笑った。
結局、少年は一番小さいケーキを買い、もうすぐ帰宅する母親によく聞いてみると答えた。
店を出る少年の後を追ってアスカも外へ出た。
昨日この町に着たばかりだと聞いて、道案内をすると申し出たのだ。
寄り道しないですぐに帰ってきなさいと父親にきつく言われて彼女は扉を閉めた。
冬の夜は早い。
午後6時にはすっかり暗くなっており、父親の言いつけどおりアスカは少年を葛城家の前まで送るとすぐに帰宅した。
売れ残ったケーキはもう3個だけだった。
「3個残っちゃったね」
「ちょうどいいよ。ちょっと出かけてくるからね」
「どこ行くの?出前?」
ケーキの箱を2個持ちジャンパーを着込んだ父親は笑って質問に答えずに店から出て行く。
帰りは家のほうだから店の戸締りをよろしくとの言いつけどおりに鍵を閉めていたアスカの背中に声がかけられた。
「マコトは行ったか?」
「うん。どこ行ったの、お父さんは?」
母親似の孫をおんぶした惣流トモロヲは少し離れたところにある教会の名前を告げた。
出前かと聞くと、プレゼントに行ったのだとトモロヲはそっけなく言う。
さきほどの少年とのやり取りで感化されたようで、売れ残りをそこに持っていっていいかと聴いてきたらしい。
もちろん妻も舅も反対するわけがない。
「3個もケーキは食べられんしの。腐らせてももったいないだけじゃ」
「おじいちゃんったら口が悪いんだから」
「アスカのじいさまだからな。はっはっは」
その笑い声に目覚めた背中の幼児にトモロヲはもうすぐごはんだと言いながら奥へと引っ込んでいく。
その背中を見送り、アスカはあることを思い出した。
道すがら少年からいろいろなことを聞き出している。
同じ5年生で同じ校区だから3学期から同じ組になるかもしれないこと。
見たことのない父親は凄く背が高く、見た目が怖くて無愛想らしいが、実は物凄く優しい人だということ。
実はケーキは一度も食べたことがないのだけど食べ方に決まりがあるのかと、真剣な表情で聞かれたときはアスカは大笑いしてしまった。
すぐに「笑ってごめん」と真っ赤になって謝ると、少年はいいよと明るく笑った。
凄く美味しいんだからね、でも涼しいところに置いていても明日の朝までが限界よとアスカは言い残した。
決め付けるのは悪いが氷式の冷蔵庫など持っていないだろうから。
さんざん手を振ってから走って帰ったのだが、アスカは全然気がついていなかったのだ。
自分は名乗りもしていないし、向こうの名前も訊いていない事を。
その事に今思い当たり、アスカは無性におかしくなった。
そして、彼女は決めた。
冬休みは2週間もあるのだ。
3学期が始まる前に一度葛城家を訪ねてみよう。
ミサトお姉さんにも久しぶりに話をしたいしね…。
たぶん、そうすれば、アイツにも会えるだろう。
名前などその時に訊けばいい。
明日、様子を見に行ってもいいのだ。
その時はうちの店自慢のバームクーヘンを持っていってやろう。
おそらくアイツはその名前すら知らないに決まっている。
ケーキだけでなくほかのものも全部おいしいんだってわからせてやるんだから。
ふふふ、アタシが人形に見えたんだってさ。
髪の毛伸ばしてみようかしら…。
その夜、布団の中のアスカは何故か満ち足りたような気持ちでこんなことを考えながらいつしか眠りについた。
両親が用意した赤い髪留めが枕元に置かれたことも知らず、彼女はぐっすりと眠ったのである。
翌朝、洋菓子店ルイーゼコンフェクトの前で竹箒を使う少女がいた。
その少女の赤金色の髪には真新しい赤い髪留めが乗っかっている。
サンタクロースというものは実在しない。
この髪留めは両親からだと承知していたが、彼女はことさらにサンタからの贈り物だと喜んで見せた。
そしてうきうきした気分で店の前を掃除していたのだ。
町は既に動き出しており、会社に向かうご近所さんにアスカは明るく挨拶をしていた。
枯葉などをちりとりに入れようと屈みこんだ彼女はあの少年の元にもサンタクロースは訪れたのかしらと案じた。
優しいお母さんらしいけど暮らしに余裕はないみたいだからプレゼントなど用意できないかもしれない。
仕方がないなぁ、このアタシがサンタになるか。
前夜に父親がケーキのプレゼントを持って教会横の孤児院に行ったことに感化されていたのかどうか。
バームクーヘンを持ち出そうかと考えていた少女の手元がさっと翳った。
それが人影だと気がついた彼女は顔を上げた。
目の前に立っていたのは物凄く背の高い男だった。
「すまんが道を教えてくれんか。堀北町というところへ行きたいんだが…」
アスカは息を呑んで立ち上がった。
かなり薄汚れた服に痩せこけた身体、もじゃもじゃの白髪交じりの髭、そして強張った表情。
ふだんならば間違いなく怖いと感じそうな相手だったが、この時ばかりはある予感に彼女の心は躍った。
しかしすぐに声が出ない。
訊ねるのが怖かったのだ。
その逡巡が男を誤解させた。
「ああ、日本語がわからんか。すまん…」
男は背嚢を担ぎなおすと小さく頭を下げ歩き出した。
慌てた少女はその背中にやっとの思いで声をかけた。
「か、葛城さんのところ?もしかして。あそこに引っ越してきた男の子のところ?」
ああ、名前を聞いておくべきだったと後悔した少女だったが、すぐにそのような暗い気分は晴れた。
男は顔を綻ばすと大きく頷いたのだ。
そして息せき切ったように言葉を発した。
「そうだ。きっと、そうだ。シンジ、碇シンジという名前の男の子だが知っているのか?」
サンタクロースって本当にいるんだ。
名前はまだ訊いていないが、シンジという名前はあの少年にとてもよく似合う。
アスカは溢れてくる涙をこらえようともせず、どうしても出てこない言葉の代わりに何度も頷いて見せた。
− 終 −
<あとがき>
私は自分でも情けなく思うほどの臆病者です。
戦争に関するものは物凄く怖いですし、本や映画を見ていてもびくびくしています。
それなのに「大脱走」などの映画や戦車のプラモデルが好きというのは矛盾しているでしょうが、
それでもやっぱり怖いのです。
今回もシベリア抑留などの資料を調べているとぞっとしました。
しかしながら、書かないといけないと思って目を通してきたのです。
実は先日NHKの「日めくりタイムトラベル」昭和33年を見ていて
シベリア抑留の引き揚げがその年まで続いていたということを初めて自覚したのです。
そして、それを記憶していなかったということを物凄く恥ずかしく思いました。
高度成長期に向かう時でもまだまだ戦後など終わっていなかったのです。
もはや戦後ではない、などという言葉をその人たちはどのような気持ちで聞いたことでしょう。
本来ならばゲンドウが応召された後、ユイと幼いシンジがどのように本土に戻ったかを書かないといけないはずです。
でも私には書けませんでした。
そこで終戦後にではなく、昭和20年の春のうちに戻らせたのです。
とにかく、戦争は駄目です。
もう二度とあのようなことが起こらないようにしたいものです。
甘すぎる幕切れですが、
私は未来への希望がどうしても欲しいのです。
作中のアスカとシンジが永遠に戦争を知らない子供たちでありますように。
話は思い切り変わりますが、
自分で書いていながら思ったのです。
おかっぱ頭のアスカって想像できません。
感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちらへ 掲示板も設置しました。掲示板はこちら |