【作者註】

この作品では既存の小説に関する描写があります。
 もしその小説が未読でネタバレ回避されたいと思う方はお読みにならないでください。




本を読む娘たち

 


ジュン





 それはあの日の午後、碇シンジが人類の偉大な一歩を踏み出してから、まだほんの2分しか経過していない時だ。
 自分に革命を起こそうとしたシンジは勢い込んで、まずお昼御飯を作ろうとしたが生憎素材はほとんどなかった。
 従って彼の意気込みとは関係なく、いつものようにインスタントラーメンを作るしかなかったわけである。
 そして出来上がったラーメンを食べに来たアスカは普段とまったく変わらない様子だった。
 と、シンジの目には見えていた。
 しかしながら、彼女は腹の虫を宥める為に自分を奮い立たせ、ジェリコの壁を乗り越えてきたのだ。
 しかもラーメン伸びちゃうよと言われればどうしようもない。
 空腹の上に、伸びたラーメンなど絶対に食べたくないからだ。
 だから、あんなに固く高く分厚く見えたジェリコの壁を容易く突破してきたのである。
 食べ終わってから、アスカは愕然とした。
 ジェリコの壁は対シンジ用だったではないか。
 それが何故築いた本人の邪魔をしているのだ。
 彼女は憮然としてソファーに横になった。
 そうしているうちにあんなに思い悩んでいたことがあっさりと解消されたのだ。
 何のきっかけもありはしない。
 や〜めた、と決めただけのこと。
 シンジをギルバートに例えたのはまだ喧嘩をした時点ではないか。
 結末を知った上で言ったことではない。
 だから、もういい。
 どうしてこんな馬鹿らしいことに悩んでいたのだろうか。
 寧ろそちらの方が変だ、とアスカは考えた。
 いずれにしても、もう終わり。
 空腹が満たされると共に彼女の思春期の悩み(とは感じていなかったが)は霧散してしまった。
 それからしばらくしてのことだ。
 シンジが買い出しに行くが食べたいものはあるかと訊いてきたのだ。 
 彼としては精一杯の勇気を振り絞って質問したのだが、アスカはそれを意にも介さなかった。
 生魚以外ならOKとだけ言い、逆に今日も手作りするのかと聞き返してくる。
 少年は大きく頷いた。
 しかし、それに対する彼女の反応は、大きく欠伸をしてこう言っただけだ。

「あ、そ」

 

− 第三章 −

読 書 感 想 文

 


 その夜、葛城ミサト家の晩御飯は中身が破裂したコロッケの残骸だった。
 失敗にすっかり落胆したシンジだったが、アスカは別にこのままでいいじゃないとけろりとした顔で言ったのである。
 もっとも油の温度の判断とコロッケの上げ時を誤った事に関しては、散々論われてしまったが。
 
「アンタね、もうちょっと綺麗に切れない?このキャベツほとんど繋がってるじゃない」

「ごめん」

「まっ、天下無敵のシンジ様も料理の腕はまだまだってことよね。ふふんっ」

 アスカは上機嫌だった。
 何故機嫌が良くなったのか、自覚症状はない。
 シンジがコロッケを揚げ損ねたのを嬉しく思ったのか。
 彼はそう思い込んでかなり落胆した。
 恋する女性に対し、革命初日に早くもマイナスポイントを出してしまったのだから。
 確かにアスカはシンジの失敗を喜んでいた。
 それは未だに『赤毛のアン』の影響であることにアスカは気づいていない。
 単純に失敗が面白かっただけだと思い込んでいる。
 しかし、それはライバルであるギルバート=シンジが自分よりも料理が下手だと言うことに優越感を持ったことが根底にあった。
 だからこそ、彼女は無残なコロッケをにやにや笑いながら食べ、そしてこう言ったのだ。

「明日はアタシがすっごくおいしいオムレツ作ったげる」

「えっ、明日はミサトさんの当番だから僕が…」

「はんっ、ミサトなんか数に入れてないわよ、もう。これから家事は日替わり」

「か、家事って、料理だけじゃなくて?」

 あ、しまった、とアスカは顔を歪めた。
 しかし、彼女はすぐに澄ました顔でこう告げたのだ。

「あったり前でしょ。洗濯や裁縫に掃除なんてちょちょいのちょいよ」

「裁縫も?」

「ん?あれば、ね」

 裁縫をすることなどほとんどない日常である。
 それなのに裁縫も交えてしまったところは、アスカの気分はグリーン・ゲイブルズにあるのだろう。
 (作者註:グリーン・ゲイブルズ=アンが住む家)
 勉強だけでなく家事も充分こなすアンと自分を同一化しているのだ。
 そして彼女はシンジより優位に立とうと無意識に考えていた。
 テストだけではなく。
 もちろん、ここでのテストというのは学校のものではなく、シンクロテストのことだ。
 これまではシンクロテストで自分を上回るシンジに敵対心を燃やしていたのだが、あの本を読んで以降すべてに渡ってシンジをライバル視している。
 初めて読んだ小説の影響はかなり高かったと言えよう。
 しかもアスカは赤ん坊の時の絵本からこっち、小説と言うものを一切読んでいないのである。
 現在彼女は14歳。
 肉体は大人に向かいつつあり、学力は大学卒業レベルと発達している。
 だが、精神だけは未成熟であり、本人は認めないだろうが小学生高学年レベルと断言できよう。
 目に見えるものがすべてという風に周囲を見ていた。
 これが学問の分野であれば空想力や応用力が出てくるのだが、こと実生活においてはそういう教育がなされていないのでまだまだ子供の目線なのだ。
 そして幼少の時から背伸びをするために、必要以上に大人振るところもある。
 義母のことを憎んでいるのにわざと仲のいい親子関係という役どころを演じてきているアスカだった。
 もっともそれは周囲には露見しており、本人だけが巧く立ち回っていると錯覚していたのだが。
 そんな精神的には未成熟どころかまだまだ真っ白に近い彼女が『赤毛のアン』のような小説を読んだのだからたまらない。
 あの作品世界にぐいぐいと引き込まれてしまったのは当然だろう。
 
 そう、碇ユイでさえそうだったのだから。





 その頃、綾波レイは寝食を忘れるほどに『源氏物語』に没頭していた。
 しかし、思いの外ページは進まない。
 いつしか彼女の表情に苛立ちと判断できるものが微かに見られるようになっていた。
 そしてレイは疑問に思い出していたのだ。
 何故、この本は自分をこんなに苦しめるのか。
 いつも読んでいる本ならどんどん読める。
 教科書に書かれている文章もすらすら読める。
 それなのに、この小説を読んでいると不愉快になってしまう。
 彼女は無意識に溜息を吐いていた。
 そのことに自分でも気づかない。
 もし、彼女のそんな様子を碇ゲンドウが見たならば、戦々恐々としたことだろう。




 
「何だと、レイが…?」

 睨みつける碇ゲンドウに向かって、赤木リツコは冷たい笑顔を向けた。
 どうしてこんな風にしか笑えないのだろうか。
 もとより笑顔は苦手な自分だ。
 しかし学生時代にミサトたちと付き合っていたときはもっと自然に笑っていたような気がする。
 この男の所為なのだろうか。

「ええ、宿題らしいわ」

「ふん、宿題か。くだらん。問題ない」

「あら、そうかしら。読んでいるのは『源氏物語』よ」

 書名を言うと、リツコは男の表情を窺った。
 しかし、何の変化もない。
 もしや、知らないのか?あの有名な小説の内容を。
 いや、有り得る。
 過去のわからないこのゲンドウという男が義務教育すらきちんと受けていたのかも疑わしい。
 知識は持っているのだが、どうも胡散臭いところが見受けられるからだ。
 そもそも旧姓の六分儀というものすらあまりに大仰すぎるし、ゲンドウという名前はいったい何だ。
 とても普通の人間の感覚でつけた姓名では有り得ない。
 だが、その奇妙な名前が彼には似合っていた。
 もし、彼が鈴木タロウなどという名前だったならば、そちらの方が違和感があるではないか。
 ゲンドウという名前だから…。
 リツコは内心苦笑した。
 そんな碇ゲンドウという不可思議な男を愛してしまっているのだ。

 リツコは次の言葉を発する前にちらりと室内を見渡した。
 この隠し部屋はゲンドウの執務室とのみ繋がっている。
 公務以外はジオフロントから出ない司令官は日常生活を送る部屋をどこかに持っているはずだ。
 それは誰しもが確信していたが、実際の部屋を眼にしたものはリツコ以外にはいない。
 副司令の冬月ゴウゾウでさえどこが入口かも知らないのだ。
 もっとも冬月にすれば、ゲンドウの部屋など何の興味もないと言い切るだろうが。
 そしてレイもまたこの部屋のことは知らないはずだ。
 一度戯れに彼にこの部屋にはレイを入れないのかと聞いてみたところ、物凄い目で睨まれすぐに出て行けと言われたからだ。
 出て行こうにもこの姿では無理だろうとあられもない姿のリツコは鼻で笑ったのだが。
 あの目は真実を語っていた。
 となれば、まさしくこの部屋を知る者は二人だけということになる。
 まさか部屋を設計した者や実際に建設した者を抹殺するわけはないだろうから、隠し部屋という形態が確立されてからは、という意味だ。
 そしてただ一人この部屋を知らされることになったその頃のリツコは、彼の要求が終ると一秒でも早くここから出て行こうとした。
 この隠し部屋にも、彼女の部屋にもシャワーの設備はある。
 だからここで身体を洗ってもよいのだが、リツコはこの部屋にいることが不快極まりなかったのだ。
 彼女にとっては彼の求めに応じるためにしか用いられない部屋なのであった。
 ところが今のリツコは違う。
 一秒でも長くこの場所にいたいと思うようになったのだ。
 自分でもその気持ちの変化には気がついていた。
 そして、彼女は研究室で涙を流すほど笑い、ブラックコーヒーで亡き母に乾杯したのだ。
 涙に濡れた瞳でリツコは母に語りかけた。
 私も母さんと一緒になっちゃったわ…と。

 ゲンドウの最終目的である、碇ユイのサルベージには全面的に協力しているリツコだが、正直に言って彼の野望は遂げられないだろうと踏んでいる。
 仮にサルベージが成功してもそれが文字通りの成功とは言えないと知っているからだ。
 碇ユイの身体をしたモノが現れることがあってもそこに宿る“心”は不完全のはずである。
 言うなれば、惣流キョウコの悲劇の再来になるだろう。
 碇ユイの消失を教訓にして、ドイツでの実験は強制サルベージの準備が滞りなくできていた。
 そしてサルベージの結果、肉体は100%取り戻せたのだが、“心”が欠けてしまっていたのだ。
 今の技術ならばすべてをサルベージできる筈だとリツコは確信している。
 だが、それはあくまで肉体も心もすべて残っていた場合だ。
 彼女の判断では、碇ユイの“心”の幾ばくかは綾波レイに宿っている。
 つまりエヴァンゲリオン初号機のコアになっているユイは100%のユイではない。
 その推測は実は4年前にゲンドウにも伝えられている。
 しかし、彼はその意見を無視した。
 ところがその数日後にレイが住まいをジオフロント外に移されることになったのである。
 その命令をレイに伝えたのは他ならぬリツコだった。
 紛れもなくそれはゲンドウの嫌がらせであろうと彼女にもすぐに察することができた。
 まるで子供だ。
 不安に思っていることをずばり指摘されたのでその意趣返しということなのだろう。
 だが、このことでゲンドウがユイの“心”についての不安を抱いていることははっきりした。
 だからこそ彼は、ただでさえ人間らしい暮らしをさせていなかったレイをさらに劣悪な住居環境に追いやろうとしたのだ。
 レイの“心”を成長させないために。
 その命令をレイに伝えた時、彼女はリツコに対しまったく感情を示さなかった。
 わかったと頷いただけだ。
 しかし、その時リツコは憎しみの感情らしきものをレイから感じたのだ。
 ほんの一瞬、すっと背筋が凍るような感覚を覚えたのである。
 また、この娘に嫌われた。
 それもゲンドウは狙ったのだろう。
 そんな仕打ちを受けてもリツコは平気だった。
 ネルフに、いやあの男の計画に自分は必要だから。
 そして、自分以外の女をあの男が抱くとは思えないから。
 二つの目的に適う道具をゲンドウが手放すわけがない。
 そう踏んでいたからこそ、リツコも大胆な指摘をしたのであった。
 
 そんなリツコが不安になったのは、レイの生理が確認できないことだった。
 身体は大人になってもレイはオンナにならない。
 それにもかかわらず、彼女を抱くことは肉体的に可能なのだ。
 妊娠の心配がないということで、ゲンドウがその気になってしまわないだろうか。
 今彼がレイをそういう目では見ていないことはわかっている。
 しかし、それは明日もそうだろうか。1ヵ月後も?
 30歳間近になったためかもしれない。
 もしかするとあの娘に自分が取って代わられてしまうかもという不安が徐々に膨らんでいった。。
 いや、ゲンドウが望むならば、今すぐにでも彼の愛人という座が入れ替わっていたに違いない。
 以前の彼女ならば喜色を浮かべて交代を望んでいただろう。
 しかし、今はもう違う。
 誰にも彼を渡したくない。
 その望みは今のところ叶っている。
 ゲンドウは今もレイを遠ざけたままだ。
 そういう状況ではあるが、リツコはレイに嫉妬している感情を自覚していた。
 その感情は抑えることは容易ではない。
 だから、今もまたゲンドウに対してこの情報を与えたのだ。
 自分に有利になるような結果を見越して。

「源氏物語か、古典だな」

「ええ、レイは苦労してるわ。なかなか読み進めないみたい」

 で?という感じにゲンドウはリツコを睨みつけた。
 彼女はそれをこともなげに見返す。
 
「紫の上、って知っているかしら?」

 リツコはゲンドウの表情の変化を窺った。
 髭とサングラスを防御にしているが、今はサングラスがない。
 その弱々しく見える目(シンジのおどおどしたように見える目は父譲りだった)は、明らかにその名前を知らないと訴えている。
 当然、そうだろうとリツコは思っていた。
 世間で思われているほど鬼畜な男ならば、とっくの昔にあの水槽の中の一人を性欲処理用として自分のものにしているはずだ。
 しかし、幸か不幸か、ゲンドウには少女を性的に愛でる神経がなかったのだ。
 もし彼がもっと若ければ話は違ったかもしれないが、シンジの父親としても彼は世間よりも歳がいっている。
 ゲンドウの年齢ではあまりにレイは若すぎるのだ。
 これまであの二人を見てきたリツコにはそれがよくわかっている。
 レイは、実際はユイなのだが、ゲンドウはあくまで娘として考えていた。
 リツコはゲンドウとユイの間にもし産まれてきたのが女児だったならレイという名前であったということまでは知らない。
 知っていたならば、それで証明終了と言い切っていただろう。
 だからこそ余計に、ゲンドウは彼女を遠ざけているのだ。
 時々、娘を愛する父親の顔を出してしまうことがあるが。
 それがレイの感情に影響を与えてしまっていることも知らずに。
 リツコは笑みをこぼすまいと自分を戒めながら、紫の上の説明をした。
 光源氏が紫の上をどのように扱ってきたか、物語を知らないゲンドウに対し、リツコはやや誘導しがちに話をする。
 案の定、ゲンドウは瞳を彷徨わせた。
 明らかに動揺している。
 自分好みの女に仕立てるために子供の時から育てられた紫の上という小説の人物とレイの存在が彼には微妙にオーバーラップしてきたのだ。

「まだ、若紫…第五帖までは読んでいないはず。だから、レイはまだその話を知らない。
もし、知れば、どう思うかしら?
紫の上はついに光源氏の子供を身ごもらなかった。
生理のこないレイがその一致をどう思うかしら?
自分を紫の上だと錯覚するかもしれないわね。
そうなれば、あなたを男として愛情を抱くのではないかしら。
そして恋する男の前に身体を投げ出せばどう?
あなたも我慢できなくなるんじゃないかし…くはっ!」

 ああ、やり過ぎた。
 饒舌を止められなかったリツコはその瞬間観念した。
 殺される、と彼女は眼前に迫ったゲンドウの顔を見て息を呑む。
 その目が尋常ではなくなっている。
 布団の上に押し倒されたリツコは自分の細い首に彼の無骨な手が伸びてきても抵抗しなかった。
 いろいろやり残してきている事は多いが、ゲンドウに殺されるならばそれでもいい。
 彼女は恐れもせずにただじっとゲンドウを見上げる。
 彼の手に力がこもってくる。
 苦しい。
 が、何故か愛しい。
 ああ、可愛い人。
 リツコは無意識に手を伸ばし、彼の顔に手を触れた。
 ごわごわとした髭と頬を撫でる。
 その感触にゲンドウは我を取り戻した。
 彼は慌ててリツコの頚から手を外すと、彼女の傍らにどうと音を立てて転がる。
 意気地なし。
 頚をさすりながらリツコはそんなことを思ったが、口から出てきたのは別の言葉だった。

「気持ち、悪い…わね」




 
 アスカは机の上に広げた原稿用紙を睨みつけていた。
 そこに書かれているのは題名と名前だけである。
 『赤毛のアン』を読んで、と記し、その横の行に自分の名前を記す。
 一行空けて、そこから感想文を書き出せばいい。
 それはシンジから教わった。
 見本を出せと彼に要求したら、シンジは顔を真っ赤にして感想文は残してないと言った。
 絶対に持ってるわよね、あの態度は…。
 アスカはもう何度目かの推理を思い浮かべた。
 何故なら感想文がまったく書けないのである。
 そこで考えがまとまらないままに、他の事を頭に思い描いてしまっているのだ。

 彼女から3メートルも離れていない場所で、シンジもまた悩んでいた。
 1枚目の原稿用紙は丸めて捨てた。
 国語の教師に駄目だと言われていた、あらすじ感想文になってしまっていたからだ。
 彼は、『飛ぶ教室』を読んで、と書き、自分の名前も書き、最初の1行と少しだけ感想を書いている。

 『僕はこの本を読んで、とても面白いと思いました。』 

 シンジはその文章を見て、また頭を抱えてしまった。
 これ以上、書く事がない。
 何もない。
 その時、扉が勢いよく開いた。





「こんばんは、レイ」

 リツコが微笑みかけたが、レイは無表情のままであった。
 入るわよ、と短く言い、リツコは室内に入る。
 殺風景を絵に描いたような部屋だ。
 これではゲンドウの隠し部屋の方がくつろげるというものである。
 レイはじっとリツコを見つめていた。
 その視線が首筋にあることをリツコは気がついている。
 化粧で誤魔化したが、それでも少し痣ができていた。
 これが冬ならば服やマフラーで隠せるのだが、常夏と化した日本ではそれが難しい。
 とりあえずこの任務が終われば、借りっ放しの自宅マンションに襟のある服を取りに行こうと決めていた。
 レイに本を渡せばいいだけだからと、先に道すがらこの集合住宅に寄ったのだ。
 しかし、何とあのレイが彼女の首筋を凝視している。
 そして自分の白い首を手で擦りだした。
 
「レイ?どうしたの…」

 リツコの声は喉に引っかかってしまった。
 これまでずっと接してきたレイにはまったく見られない姿だ。
 苦しげに顔を歪めた彼女は自分の首を己の手で締めようとするかのように見えた。
 そう感じたリツコは咄嗟にレイの手を掴みそのまま抱き寄せた。
 すると彼女の身体が小刻みに震えているのが伝わってくる。
 恐れ?首の痣を見て、何かを思い出した?もしかして一人目の綾波レイに関係がある?
 資料がすべて消失されている一人目のレイが何故消えたのかというはリツコにもまったくわからなかった。
 その時期が母親の死と前後していたということはかなり後になって気がついてはいたが、まさか母が幼いレイを手にかけたなどとは想像もできない。
 ただリツコは二人目のレイをあの殺風景な人工進化研究室3号分室で飼育成長させる職務をゲンドウから与えられた。
 そう、それは文字通りに飼育と言えた。
 知識は与えても、感情は与えないように厳命されていたのだ。
 この二人の関係はある意味かなり異様である。
 母でもなく、師でもなく、無論友でも、敵でもない。
 一人目の自分を殺害した女の娘に抱かれながら、レイは少しずつ普段の彼女を取り戻していった。
 しばらくして、レイはポツリと呟く。

「苦しい。離して」

 その声がいつも通りだったので、リツコはあっさりと身体を離す。
 レイの赤い瞳はじっとリツコを見つめていた。
 そこには何らかの感情が込められているように感じたが、リツコには、いやレイ自身にもその感情の正体はわからない。
 
「何の…用?」

 リツコはポケットから一冊の文庫本を取り出した。
 駅前の書店で購入してきたのだ。
 
「はい、これ。この本で感想文を書きなさい」

 レイは手を出さず、その胸元に本は突きつけられたままだ。
 彼女は首を横に振り、目をちらりとテーブルの方に向ける。
 そこには『源氏物語』が置かれていた。

「あれで書くから、いらない」

「碇司令の命令よ。これで書きなさいと」

 魔法の呪文の効力は凄まじい。
 レイは瞬間瞳を輝かせ、そして本を手にした。
 リツコは軽く溜息を吐くと、テーブルへ歩み寄る。
 そして『源氏物語』を手にすると、文庫本との重さの違いに微かに笑った。

「これは私が預かるわ。因みにどこまで読んだのかしら?」

 一度瞬きをしたレイは感情を表さずに事実を口にする。

「若紫。第五帖に入ったところ」

「そう。では、忘れなさい。今まで読んだことを」

「了解」

 本当に忘れるのかしら?
 リツコは疑問に思った。
 人間は簡単に忘れることができないはずだ。
 機械ならば消去すればデータを消すことができる。
 しかし、人間は…。
 綾波レイも人間なのだ。
 出自もわからず、成長速度の早さも解明されていないが、物理的には人間以外の何者でもない。
 DNAも人間と同一なのだから。
 リツコは「じゃあね」と小声で言い、扉に向かった。
 結局扉が閉められるまで、レイからの返事はなかった。
 閉まる扉の隙間から最後に見えたのは、ベッドに腰掛け文庫本を開こうとするレイの姿だった。





 勢いよく扉から入ってきたのはアスカである。
 
「馬鹿シンジっ!感想文書いた?」

 質問を言い切るより先に彼女は机の上の原稿用紙を手にしている。
 その素早さはシンジに防ぐ暇も与えなかった。
 
「はんっ!何よ、これ!たったこれだけぇ?」

「こ、これからだよ!」

「どうだか?ははははは!」

 高笑いを残して、アスカは部屋を出て行った。
 まるで突風が部屋を吹きぬけていったかのようであった。
 
「何なんだよ、いったい…」

 シンジはジェリコの壁がぴしゃりと閉まるのを呆然と見やった。
 
 部屋に戻ったアスカは机に向かうと、シャーペンを握った。
 そして丁寧に書こうとはするものの気持ちが先走り、やっぱりいつもの筆跡で文字を綴る。

 『私はこの小説を読んで、とても面白いと思いました。』

 僕を私に換えただけでシンジの書いたそのままをアスカは原稿用紙に書く。
 そしてにやりと笑うと、その続きも書き始めた。

 『主人公のアンという女の子は少しお喋りが多いけど、まわりのみんなを幸福にしていきます。』

 そこまで書くとアスカはシャーペンを机に置き、行数を素早く数えた。
 よし、4行目まで進んだ。
 彼女は得意げな表情でシンジの部屋の方を見た。
 まるで子供である。
 そして、再びにんまりと笑った。
 シャーペンを勢いよく掴んだ彼女はさらに書き加えていくのである。





 久しぶりの我が家は息苦しかった。
 リツコは窓を開けると外の空気を大きく吸い込む。
 あんな殺風景な部屋でも人間一人が暮らしているとそれなりに空気が動くのだろう。
 窓が開けられたことは一度もなさそうだろうし、カーテンでさえも開かれたことがないのかもしれない。
 彩りというものがまったくないレイの部屋はまるで牢獄のように思えた。
 いや牢には小さな窓がある。
 あれでは牢獄以下ではないか。
 しかし、そんな部屋で暮らさせることで“心”を生じさせないという効果があるのだろうか。
 リツコは街の灯を眺めながらそんなことを思った。
 窓を開け放ったまま、彼女は室内を振り返る。
 小さなテーブルの上にレイのところから持ってきた本が置かれていた。
 その分厚い本を見て、リツコは苦笑した。
 そして彼女はその本を手にするとレイと同じようにベッドサイドに腰をかけた。

「澪標…だったわね、確か。須磨や明石の後くらい…」

 リツコはページをめくった。
 彼女が探し当てたのは第十四帖『澪標』である。
 そのくだりを前半飛ばし読みし、後半部分を熱心にリツコは読んだ。
 しばらくしてその巻を読み終えると、失笑し本を閉じる。

「私は秋好中宮にはならなかった。母親と同じ男を愛人にしたわけよね。無様ね、ほんと…」

 リツコはポケットからタバコを取り出すとライターで火を点ける。
 勢いよく煙を吐き出し、くすくすと笑い出した。
 それはそうだ。
 自分は秋好中宮であるわけがない。
 何故なら、碇ゲンドウが光源氏であるわけがないからだ。
 
「似ているようで全然違うわね」

 独り言をつぶやくリツコは再び本を手にした。
 似ている、と言ったのはゲンドウと光源氏のことではない。
 『源氏物語』の人間模様のことだ。
 その辺りに興味を持ったのか、今度は丹念にページをめくるリツコだった。
 
 



 レイの姿勢はまったく変わらなかった。
 しかし、読んだページはかなり速いペースで増えていっている。
 『源氏物語』とは雲泥の差だ。
 そして…。
 その表情をもしゲンドウが見ればどう思っただろう。
 しまったと思うか、それとも観念するか。
 レイは微笑んでいたのである。
 そして、アン・シャーリーがギルバートの頭を石盤で叩いたくだりに至ると、なんとくすりと笑みを漏らした。
 赤い瞳はキラキラと輝き、眠気などまったく感じていない。
 ベッドサイドの時計は午前1時過ぎを示していた。





 その時刻、明日はまだ日曜日だからとコンフォート17の葛城家に居候をしている少年と少女は未だに原稿用紙と格闘していた。
 アスカはにやにやしながら、時に憤然とした顔をしてまさに書き殴っているという形容が相応しい。
 シンジの方は丹念にシャーペンを動かし、時として消しゴムを使い、徐々に升目を埋めていっている。
 読書感想文の提出にはまだ5日あるが、この勢いでは今晩中には完成していそうなものであった。
 





 その頃、ネルフに夜勤のミサトは早くも届けられた『赤毛のアン』の文庫本を机の上にどさりと置き、その第1巻のページを開いていた。
 同じく宿直担当のマコトはそれを見て、下心と愛情をいっぱいに込めたコーヒーを彼女に淹れた。

「ありがとン。こういう本はアルコールじゃなくて、紅茶かコーヒーよね、やっぱり」

「あ、紅茶にします?淹れ直してきますよ」

「いいわよ、これで」

 気を回しすぎる部下のためにミサトはコーヒーを口に運ぶ。
 マコトは机に置かれたアンシリーズの文庫本を見て感心した風に言葉を発した。

「珍しいですね。雑誌もあまり読まないのに」

「あらン、居眠りばっかりしてるってことかなぁ?」

「いえっ、そういう意味ではないです、はいっ」

 背筋を伸ばしてマコトは答えた。

「でも本当に久しぶりなのよ。小説を読むなんて。購買部で取り寄せたら本当にすぐ来ちゃった」

「有名な小説ですからね」

「でもさ、購買部で受け取った時にリツコに見られちゃったのよぉ。で、“あら、赤毛のアン?”なんて笑うのよ。だから…」

「言い返したんですか?」

「もちろん!胸張って、“悪い?”ってね」

「何て言いました?赤木博士」

「う〜ん、拍子抜け。“全然”ってだけ。そのままさっさと帰っちゃった」

 マコトは声を上げて笑った。
 その場の情景が目に浮かぶようだ。
 彼の笑顔にミサトも笑顔になる。

「アンはね、中学1年以来なの」

「『赤毛のアン』は読んだことないですね」

「ふふ、日向クンは漫画専門?」

「いえ、読みますよ。それなりに」

「それなり、ね。どんなの?」

「ええっと…」

 何と答えれば評価が上がるだろうか。
 計算高く考えてみたもののすぐに答は出てこない。
 マコトは思いつくままに答えるしかなかった。

「推理小説、とかです」

「へぇ、そうなんだ。ロシア文学なんか読まないの?」

「とんでもない。高校の時に挫折しました。僕には難しすぎて」

 ミサトは楽しそうに笑った。

「そんなに堅物というか優等生っぽく見えます?」

「ごめんね。隣に座っているのがギター野郎だから余計にそう見えるのかも」

「あ、でも、シゲルのやつ、あんな顔して読むんですよ。純文学。この前ポケットに突っ込んでました」

「あらま、何だった?」

「それがゲーテなんですよ。『若きウェルテルの悩み』」

「えっ、嘘っ!読んだことないけどそれってマジ純文学じゃないの?」

「ですよ。で言ってやったんです。お前、ファッションで持ち歩くんじゃないよって」

「うんうん、で、どうだった?」

 ミサトは文庫本そっちのけで身を乗り出す。
 本に勝ったと気持ちのよいマコトは笑顔で答えた。

「これくらいのものを読んでないと音楽の深みが違う。なんてことを嘯くんですよ、まったく」

「うわっ、何それ。モロ芸術家じゃない」

「それなのにあの程度の曲しか作れないんですよ。どれだけ底が浅いんだか」

 あの程度の曲という点ではミサトもマコトに賛同する。
 青葉シゲルはいい声をしていて、普通の歌を歌わせると結構巧いのだが、自作の曲となるといささか困りものだ。
 
「しかし、純文学かぁ。人は見かけによらないわよね、本当に」

 ミサトの笑顔を見て、そして机の上の文庫本にマコトは目をやった。
 さすがに『赤毛のアン』を読もうとは思わないが、少なくとも机の中にマンガ本と一緒に放り込まれているライトノベルはここから持ち出そう。
 そう決心するマコトだった。
 ところがその決心はあっさり覆されるのである。

「日向クンは『赤毛のアン』は読んでないって言ってたわよね」

「ええ、話は知ってますけど」

「ふふ、もしかしてアニメで?」

「わかります?」

 少し照れたマコトをミサトは優しく見つめた。

「シンちゃんと一緒。ということはここからね。はい、『アンの青春』」

「はい?」

 差し出された文庫本を思わず受け取ってしまってから、マコトは反応に困った。
 これを読めということなのか?
 彼は少女小説は読まないし、少女漫画ですら読んだことはない。
 自分の領域を守るか否か。
 
「わかりました。お借りします。喜んで」

 マコトが未知の領域に踏み込む決意をしたのは1秒もかからなかった。
 しかし読むからにはしっかり読まねばならない。
 感想を求められた時に、いい加減なことを言えないからだ。
 しかし案外とちゃっかり者のマコトは条件をつけた。

「あの、いきなり2巻からですから、わからないところがあったら教えてもらえますか?」

「ん?いいわよぉ。わからないこと以外は何でも答えちゃう」

「よろしくお願いします」

 軽く頭を下げたマコトは内心ガッツポーズをしていた。
 これで一歩前に進めた…のかどうだかまったくわからないが、何よりミサトと共通の話題ができたということが嬉しい。
 かくして、もう一人、熱心に本を読むものがネルフ関係者に出現したことになる。
 




 時に2015年、とある日曜日の丑三つ時。
 
 ジオフロントを離れて、コンフォート17マンションでは黒髪の少年が原稿用紙に向かいながら時々『飛ぶ教室』を読んでいる。
 彼と廊下を隔てた向かい側の部屋では、赤金色の髪の少女がまるでのりのりの作家の如き勢いで原稿用紙に向かっている。
 その傍らには『赤毛のアン』がページを開いたまま逆さに置かれ、小さな三角形を築いていた。

 そこから1kmほど離れた集合住宅では、青い髪の少女が目を輝かせて『赤毛のアン』を読んでいる。
 驚いたことに彼女はベッドにうつ伏せになって読書をしていた。
 まるで思春期の少女がするようなポーズで。

 明日は溜まった洗濯があるから早く寝ないといけないと思いながら、数年ぶりに読み返す『マリア様がみてる』シリーズに夢中になっている短い黒髪の娘もいる。
 先輩が私のスールになってくれないかしらと思いながら、なかなかきりが付かず重ねた読後の本はもう6冊。
 今読んでいる7冊目と後編のもう一冊で薔薇様たちが卒業するのでせめてそこまでは…と決めているが、そこで本当にやめることができるのか自分でも自信はない。
 それだけ本の世界に引き込まれているのだ。

 夜中にさすがにギターが弾けず、マコトにらしくないと笑われた青年が小説を読んでいる。
 もっとも今日は純文学ではなく、直木賞を取った『青春デンデケデケデケ』だった。
 エレキよりもアコギだぜと嘯きながらも、青年は音楽少年たちの話に引き込まれていた。

 困ったわねと呟きながら、古典文学を読みふける女もいる。
 気になる部分だけを読んでいたのに、結局最初に戻ってじっくりと読み始めてしまったのだ。
 受験用に読んでいた時と感想はまるで違う。
 あの頃は光源氏などという男に群がる馬鹿な女たちの話だと感じていた。
 しかし今彼女には女たちの気持ちがよくわかる。
 哀しいほどに実感できるのだ。
 女はカーテンをしていない窓越しに夜空を見つめる。
 この本と交換したものをあの娘はどんな気持ちで読んでいるのだろうか。
 たまたまジオフロントを引き上げる時に友人が持っていた本を買って持って行っただけである。
 『赤毛のアン』は中学生の女の子が読むには相応しい小説だ。
 あの娘を中学生の少女といえるかどうかはわからないが…。
 少なくとも自分は『赤毛のアン』よりも『源氏物語』の方が似つかわしい。
 男女の愛憎物語の方が。
 彼女は苦笑し、そしてどこで読むのを中断しようかと悩んだ。
 徹夜しても読みきれない分量なのだから。
 
 そして、ジオフロントでは…。
 使徒も何も現れないのをいいことに、中央作戦司令室で『赤毛のアン』を読む女と『アンの青春』を読む青年がいる。
 女はかつてその小説を読んだ日々に思いを馳せていた。
 たまに帰ってくれば必ず夫婦喧嘩になっていた父親に小学校2年の誕生日に買ってもらったのが『赤毛のアン』だった。
 2年生にふりがなも打ってない本など難しすぎると喧嘩になった両親だが、その喧嘩は微笑ましいものだったといい想い出になっている。
 どこからおかしくなってしまったのだろう、葛城家は…。
 憧れを抱いている年上の女性がそんなことを想っているとは露ほども知らず、青年もまた小説に夢中になり始めていた。
 最初はこんな小説なんてと思っていたが、結構面白い。
 青年はアニメ作品を完璧には覚えていなかった。
 だから登場人物とその関係がよくわからないところがある。
 しかし青年は年上の女に質問はしなかった。
 彼女の読書を邪魔したくなかったのだ。
 本を読む人は青年の目にはとても美しく見えた。

 サングラスを外した男は妻が遺した本を読んでいる。
 その本をあの娘に渡すことはできない。
 だから愛人に何でもいいから『源氏物語』とは違うものを本屋で買って持って行けと命じたのだ。
 他の9冊は処分したが、この第一巻だけは彼の手元に残している。
 何故ならばそれには妻の書込みがあるからだ。
 『赤毛のアン』を読んでもまったく面白くもないが、それでも彼は読み続ける。
 かつて妻が辿った文章を。
 そしてふと思った。
 新しい本を渡された娘は何を思って読んでいるのだろうか、と。
 まさかその本が、今彼の手にしている本とまったく同じだとは想像もできなかった。





          
− − − − − − − − − − −





 馬ぁ鹿シンジぃ、とっとと起きなさいよ!
 とは、アスカは怒鳴らなかった。
 彼女はそっと扉を開け、目を凝らして暗い部屋の中を検分した。
 盛り上がっているベッドのシルエットはシンジが眠っていることを意味する。
 さらに目を細めて机の上を見つめると、彼女の唇がにっと上がった。
 静かに室内に入ると物音をさせないように机の上から原稿用紙を取り上げる。
 そのままアスカは足音を忍ばせ、原稿用紙を手にシンジの部屋を去った。

「1、2…わっ、アイツ、生意気に5枚も書いてるじゃない。凄い…」

 最後の“凄い”だけは心からの賞賛だったが、もっとも自分で意識して口にした記憶はない。
 彼女の意識は“生意気”に集中していたのだ。
 アスカは机の上に置かれた彼女の感想文を見つめる。
 4時過ぎに完成したので即座にシンジへ自慢しようとしたのだが、どう見ても彼の部屋は寝静まっているようだ。
 叩き起こしてしまおうと深く息を吸い込み扉を開けようとした時に、大きなあくびが出た。
 そうだ、よく考えれば自分も眠いではないか。
 よし、少し寝て、それからシンジに自慢してやろうと、アスカはベッドにもぐりこんだのだ。
 わくわくした気持ちがあったからだろう。
 アスカは4時間ほどで目を覚ました。
 そしてシンジの部屋を急襲しようとして思いなおしたのだ。
 もし彼も感想文を仕上げていればどうなる?
 自分が笑いものになるだけではないか。
 そのために彼女は彼の部屋に忍び込んだというわけだ。
 結果的には思い直して正解だったのである。
 シンジは感想文を完成していたばかりか、何とその枚数はアスカより2枚も多い。
 アスカは彼女と彼の感想文を左右に並べ、腕組みをして見比べる。
 それだけの枚数だから違いはわかりにくいが、微妙にシンジの方が多く見える。
 うぅむと唸ったアスカは、突然顔を輝かせた。

「ふふんっ、枚数じゃないのよ。内容が伴ってないとね。馬鹿シンジのことだからつまらないことをグダグダ書いてるに決まってんじゃん」

 喜色を浮かべたアスカはシンジの感想文を手に取った。
 そしてニヤニヤ笑いながら読み進めたのだが、やがてその顔から笑みが消えていった。
 真剣な表情で読み終えると、小さく息を吐き感想文を机に静かに置く。
 椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げ今度は長く息を吐いた。
 静かに目を閉じ、腕を組む。
 頭の中でシンジの感想文のあちらこちらが思い描かれる。

「まいっちゃったな…」

 アスカは目を開け、そして再びシンジの感想文を手に取る。
 だがそれは読むためではなく、彼に知られないうちに返そうとしたのだ。
 すぐにその目的を果たして戻ってきた彼女は、外出着に着替えそっと家を出て行った。





 シンジが目覚めたのはそれから3時間以上後である。
 感想文を書き上げた満足感からか、かなり熟睡していたと自分でもわかった。
 起き上がって時計を見るともう12時前である。
 少年はぐっと背筋を伸ばし、小さく嘆声を上げた。
 実に素晴らしい目覚めである。
 感想文を仕上げ、熟睡し、寝起きもよかった。
 そして空かせたお腹に早くおいでと呼びかけるような、芳しい匂いが漂ってきているのに気がつく。
 ああ、お味噌汁の匂いだ…。
 何のお味噌汁かな?
 無邪気に笑ったシンジは部屋着に着替えをはじめ、後はズボンのベルトを締めるだけになった時、ようやく気がついた。
 いったいどこの誰がお味噌汁を?
 インスタントの味噌汁セットは買い置きしているが、あれはこんなに匂わない。
 はっきりとは覚えていない、あの幼い日々。
 母親が料理を作った時に嗅いだ事がある匂いに違いない。
 シンジは血相を変えて、部屋から飛び出した。
 リビングのテーブルには一人分の食事の用意ができていた。
 そして傍らのソファーには寝息を立てているアスカが横たわっている。
 シンジはその二つを交互に見比べ、そして他の人間がいないかどうかきょろきょろと確かめてみる。
 しかし、誰も家の中にはおらず、ただペンペンが皿の上にいっぱいに盛られた何かを食べているだけだ。
 近くによって見てみると、それは山盛りの煮干である。
 しかも煮干はしっとりと濡れ、明らかに出汁をとった後のもののようだ。

「おいしい?」

 小声で訪ねると、ペンペンは大きく首を横に振った。
 言葉を解したのではなく、おそらく不味いということを主張したかっただけなのだろう。
 シンジはペンペンの頭を撫でると、アスカのそばに歩み寄った。
 よく見ると、彼女の傍らには一冊の本がある。
 その大型本は料理の本で『我が家の日本の味大全集』とあった。
 こんな本は昨日まで家のどこにもなかったので、自分が寝ている間に誰かが買ってきたのだろう。
 そしてその誰かはアスカ以外には考えにくい。
 食卓の上のお皿を見ると、玉子焼きに芋の煮物が置いてある。
 そして台所のコンロの上にはお鍋が置かれ、お味噌汁の匂いはそこから漂ってきていた。
 シンジは目をぱちくりして事の次第を冷静に考えようとした。
 確かに今日はアスカの家事当番である。
 よく見ると、既に洗濯も終わっていてベランダには洗濯物がはためいている。
 掃除が終わったのかどうか確かめるにはどうすればいいのだろうか。
 テレビをあまり見ないシンジはドラマで姑が嫁をいびる時に用いるあの指使いを知らない。
 だから周りを見渡し首を捻ることしかできなかった。
 それでも何となく掃除も終わっているような印象がある。
 流しも洗い物はなく、水切りのところに食器が置いてあるだけだ。
 彼は珍しく腕を組んで考えた。
 これはどういうことだろうか。
 家事はまあいいとしても、料理がどうして純日本料理なのだ。
 しかもどう考えてもわざわざ本まで買って作ったとしか思えない。
 アスカがどうして?
 いくら考えてもわからない。
 そもそもこの食事は僕のためになのか?
 洗い終わった食器の様子から見ると彼女は済ませてしまっているような気がするのだが…。
 そうしていると、ソファーから物音がした。
 振り返ると、アスカが身を起こしていた。

「あ…、シンジ?」

「お、おはよう」

 今まで色々と考えていたことを恥じたため、シンジはいつものように口ごもってしまった。
 生まれ変わった、いや生まれ変わろうとしているシンジは自分の情けなさに腹立たしかった。
 ここは、にっこり笑って「おはよう、アスカ」ではないか。
 目をぱちぱちさせたアスカはシンジがそんなことを考えているとは知らず、ふんっと目をそむけた。

「うっさいわね。アタシは8時には起きてたのよ。ぜぇ〜んぶ家事を済ませて一休みしていただけじゃない。
ふんっ、何よっ。ずっと眠っていたって思ってたの?許せない!」

「ち、ち、違うよ。だ、だって、見ればわかるじゃないか。アスカ以外に誰が作るんだよ、この料理」

「はんっ、あったり前でしょうが。で、食べるの?食べないのぉっ?」

「食べます!」

「じゃ、さっさと椅子に座りなさいよ。お味噌汁、お味噌汁っ」

 コンロの方に足取りも軽く向かうアスカを呆然と見送って、シンジは自分の椅子に座る。
 今度はちゃんとしなきゃ駄目だと彼は自分を戒めた。
 感想文を書いていたときにはあんなに決意を固めていたじゃないか。
 しっかりして、受け答えもきちんとする。それから…。

「はい、お味噌汁」

「ありがとう。いただきます!」

 受け取ったお椀を一口すする。
 喉元がうっと音を出しそうになるが、精一杯堪えてすぐに御飯を食べる。

「どう?」

「うん、御飯が美味しい」

「あのねぇ、それアンタが昨日炊いたヤツでしょうが」

「ご、ごめん」

 そのままうな垂れてしまいそうな顔をシンジは一生懸命に角度を維持した。
 そして、アスカの顔を見る。
 えっと、えっと…、ああ、わかんないよ。
 彼は困ってしまった。
 相手の顔を見ても何を考えているのかわからない。
 日頃顔を見て話さないから、見ればわかると簡単に思ったのが甘かった。
 
「はっきり言いなさいよっ。お味噌汁がどうなのよ」

 じろりと睨みつけるアスカの目からシンジは必死で逃げようとする自分を押し留めた。
 そうだよ、あの決意を感想文に書いたじゃないか。
 ここが、最初の関門なんだ。
 いきなり怒ってるアスカっていうのはきついけど…。

「あ、味が…」

「味がどうだってぇ?」

「こ、こ、濃すぎる」

「ふん。あ、そ。やっぱりね」

 あれ?どうして怒らないの?
 怪訝に思ったシンジだったが、アスカは平然として喋った。

「煮干をひとつまみっていう書き方が悪いのよ。指でひとつまみなのか掌でひとつまみなのか…」

「えっ」

 シンジは目を丸くした。
 なるほどそれでペンペンのお昼御飯がああなってしまったのだろう。
 ということはとてもひとつまみが一度ではなさそうな気もする。
 いったい何回試してみたのだろう。

「掌でなんて聞いた事ないよ。指にで決まってるじゃないか」

「わかってるわよ。でも、もしかしたらって思っただけじゃない」

 少年は安心した。
 なるほど、案ずるより生むが易し、というのはこういうことなのか。
 笑顔のアスカを前にしてシンジは心底ほっとしたのだ。
 本当のことを言って怒られたらと思い、これまではいい加減なことを言ってきた彼である。
 いや、言わないことの方が多かったかもしれない。
 愛想笑いで誤魔化したりしてきたのだ。
 アスカに対してもそうだったのである。
 彼は自分の誓いが間違いなかったんだと確信した。
 よし、これからもがんばろう!

 だが、少年は気づいていなかった。
 青い瞳の少女が必死に我慢していたことを。
 そしてそれがもう少しで限界に近づいていたことも。
 シンジは味が濃すぎるお味噌汁を中和するために御飯と他のおかずをうまく交えて食事をする。
 玉子焼きはオムレツに近く、芋の煮物は中まで柔らかくなっていないが食べられない範囲ではない。
 いずれにしても自分のためにわざわざ本を買ってまでして作ってくれた日本食なのだ。
 しかもそれをしてくれたのが初恋の相手なのだから、シンジの頬が緩んでしまうのは仕方がないだろう。
 しかしその嬉しげな表情がいつもの愛想笑いに見えてしまったのは彼の不幸だ。
 アスカの心の中で小さくぴしりと音がした。
 まずい、限界点突破直前!

 がたっ!

「ちょっと、外すわよ」

 それだけ言うと、アスカは自室に突進した。
 残されたシンジはわけがわからずに目をぱちくりする。
 生理現象ならばトイレに突進する筈だ。
 自分の部屋に何の急用だろう?
 いくら誓いを立てようとも基本性格が鈍感な少年には複雑なアスカの心の中身はなかなか読み取れないに決まっている。
 シンジは首を捻りながら、とにかく出されたものを全部平らげようと再び箸を使い出した。

 さて、アスカ。
 彼女はベッドに突っ伏していた。
 そして枕に顔を埋めている。
 泣いているのかと思いきや、微かに何かが聞こえてくる。
 アスカは枕を使って消音し、呪詛の言葉を喚き散らしていたのだ。

「あの馬鹿シンジ!人がせっかく優しくしてやってんのに、何よ!あの態度!えへらえへら笑っちゃって!
ちゃんとした会話をするんだって書いてたから協力してやってんのに!
何が指でに決まってるよ!そんなのドイツでは決まってないわよ!
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿シンジ!
我慢にも限界ってもんがあんのよ!あああああああああああああっ!腹が立つ!くわあああああっ!どうしてやろうっ!
何が御飯が美味しい、よ。昨日の残り物にアタシの料理が負けてるってことじゃない!
畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生っ!
シンジの馬鹿!
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿シンジぃっ!」

 枕に顔を押し付けていたために声は漏れにくいが、生憎そうなると酸素も不足する。
 息が切れたアスカは顔を上げて、10kmを全力疾走してきた者の様に青息吐息。
 ぜいぜいと息を切らせて唾液でべとべとになった枕カバーを情けなさそうな目で見た。

「こ、こ、こいつも、ば、馬鹿、シンジの、せ、せいなんだ、から、っ!」

 それほどまでして無理に喋る必要もない筈だが、彼女にとってはこれほど我慢した経験は生まれてはじめてのように感じたのだ。
 普通ならばテーブルをひっくり返すか、味噌汁をお椀ごとシンジに投げつけていたことだろう。
 もっともそこまでの暴挙は実はしていないのだが。
 ある程度のラインで自制しているのだ。
 アスカははぁはぁと喘ぎながら一生懸命に息を整えた。

 10分後、アスカが平然とした顔を装ってリビングに戻るとシンジは既に食事を終えていた。
 じろりと睨みつけると、彼はにっこり笑って「ごちそうさま」と言った。

「ふんっ、悪かったわね、味が濃くてさ」

「えっと…でも、初めてだったんだから仕方ないじゃないか。本を買ってきて作ったんだろ?」

 しまった、本を隠すのを忘れて眠っちゃったんだ。
 アスカはソファーの傍らに転がっている料理の本を横目で見た。
 ここは誰かに貰ったとか何とか言い訳をするべきだろうが、先ほど喚きすぎて言葉を考えるのが疲れる。
 だからアスカは適当に嘘を交えて答えた。

「アンタが日本食担当だから参考書を買ってきてやったのよ。で、先にアタシがテストしてみただけ」

「そうなんだ」

 そうのわけないでしょうが、この馬鹿!
 また部屋に戻りたいという気持ちを抑えて、アスカは話を逸らそうとした。
 どうも料理の話を続けると、また臨界点が見えてきそうな気がしてならない。

「そういや、ファーストを見かけたわよ」

「ここで?」

「はぁ?」

「いや、だって、今部屋に戻った時にって思ったから…」

「アンタ馬鹿ぁ?部屋に戻ってファーストがいたら悲鳴上げるわよ」

 うわぁ、完全に馬鹿にされた。
 別に笑わそうと思って言ったわけではない。
 何となく話の流れでそう考えてしまっただけだ。
 だって、いきなり話が変わるんだもん、とシンジは内心膨れた。
 いきなり話を変えることが目的だったアスカはそれに成功したにもかかわらずうんざりとしていた。
 どうしてこの馬鹿はワンテンポ遅れたりずれたりするのだろう。
 そういやチェロなんて弾いてるのに、そんなので他の楽器弾いてる人に合わせることができるんだろうか…。

「ファーストがいたのは文房具屋。ほら、本屋の隣にあるじゃない」

「うん、ある」

 今度の相槌は悪くない。
 これなら話しやすいと、アスカは言葉を続けた。

「そこにいたの。原稿用紙を買いに来たみたい」

「へぇ、珍しいね」

「そうよ、珍事だわ」

「うん、アスカが声をかけたんだろ」

 アスカはシンジの勘違いに眉を顰めた。
 
「違うわよ。あっちから」

「えええっ!」

 シンジは奇声を上げた。
 さすがに立ち上がってというところまではいかないが、腰は浮かしかけてしまった。

「あ、綾波から?」

「そうよ。びっくり」





 アスカはその時物陰から彼女の様子を窺っていたことは省略した。
 もっとも見ていたのはほんの30秒ほどだったが。
 本屋を出て次はスーパーに行こうとした時、隣の文房具屋にレイの姿を見かけたのだ。
 それが不意だったので何をしているのだろうと思い、入り口からレジにいる彼女を見ていたのだ。
 そして会計を終えたレイと目が合ってしまったのだ。
 ここで知らぬ顔をして去っていくのは逃げるようで嫌だ。
 だからアスカは戦闘体勢をとって身構えた。
 但し武器など持っていないので、足を踏ん張り腕組みをしてレイを待ったのだ。
 どうせ相手は素知らぬ顔をして通り過ぎるのだろう。
 そこでこっちは「ふん、逃げるの?」と言ってやる。
 するといつものように横目で見るだけで済まそうとするから、「自分が何様だと思ってんのかしら?」とか言ってやる。
 そうすればやっと立ち止まって「何も、思って、ないわ」などとあの調子で言い返してくるだろう。
 よし、来い、優等生。
 ところが仁王立ちするアスカを見つけたレイはどうしたことだろう、彼女の方から明らかに向かってきたのである。
 アスカの考えていた進入角度とはまったく違う。
 これでは真正面からぶつかってしまうではないか。
 逃げたもの…いや避難したものかどうか迷っているうちに、レイは目前で足を止めた。
 体当たりを考えていたわけではないことにひとまずほっとして、アスカは言葉を投げつけようとする。
 しかし用意していたのは「ふん、逃げるの?」であって、真正面から向かってきた相手にはかなり不向きな言葉に違いない。
 一瞬躊躇ったアスカに、レイから言葉が飛んできた。

「感想文、書いた?」

「へ…?」

 目が点、という形容があるが、おそらく今の自分がそうだろうとアスカは思った。
 何だ、この言葉は。
 まるで同級生の会話ではないか。
 ああ、ファーストはとりあえずクラスメートだった。
 だから同級生には違いないが、綾波レイにはまったくそぐわない言葉である。

「私、これから」

 レイは袋を軽く持ち上げて見せる。
 なるほどそこに入っているのは確かに原稿用紙だ。
 しかし、これは困った。
 二言目までが普通の日常会話である。
 そもそもアスカという少女自体が、同年齢の人間との日常会話が苦手だったのだ。
 それがシンジや洞木ヒカリとのやり取りを通じて現在に至っているのだが、思わず彼女は来日当時の自分に戻りかけてしまった。
 その記憶からだろう、時々ヒカリに言われたことをそのまま口にした。

「こういう時は、まず挨拶でしょ」

「挨拶…」

「そう、こんにちは、でしょうが」

 レイはこくりと頷く。
 その反応までが思い切り新鮮だ。

「こんにちは」

 素直に言われ、アスカの方が戸惑った。

「うっ…、こ、こんにちは」

「感想文は?」

「か、書いたわよ」

「早いのね。碇君は?」

「あいつも書いてるわよ。アンタだけよ、書いてないのは」

 馬鹿にしようと思うのだが、どうも口調がそうならない。
 こうも普通に接してこられると対応に困ってしまう。

「了解。今日中に仕上げる」

 きっぱりと言うレイの表情がどこか違う。
 そう感じたアスカはまじまじと相手の顔を見た。





「どんな感じだったの?」

 シンジに問われて腕組みをしたアスカはう〜んと唸った。
 
「何ていうんだろ。嬉しそう…?楽しそうっていうか、そんな感じ」

「綾波が?」

「はっきりとはわかんないわよ。何となくそう思ったの」

「何となく…」

「うぅ〜ん、そうよっ、わかった!」

 アスカはテーブルを叩いた。
 
「目よ、目っ!」

「目?」

「そう!目つきが…、ええっと、何て言うの?喧嘩売ってないっていうか…」

 目が笑っているとか、優しげという感じではない。
 形容に困ったアスカを助けるように、シンジがあれこれと形容詞を出すがなかなかしっくり来るものがないようだ。
 




 レイは原稿用紙に向かっていた。
 セカンドチルドレンに宣言したのだから、何としても今日中に仕上げるのだ。
 彼女はシャープペンシルを手にした。
 そして、『「赤毛のアン」を読んで』と表題を記し、自分の名前を書く。
 その時、一瞬だけだが、綾の糸偏を書く際にペン先が逡巡する。
 ただ一度ぱちっと瞬きをしたレイは、あとはすらすらとシャーペンを走らせた。
 自分が何者か、彼女は知っている。
 だから今書きかけた名前が何なのかも承知していた。
 しかしそれをレイは気にしない。
 気にしていないからこそ、そのことを報告していないのだ。
 リツコも、そしてゲンドウは余計にレイに向かって問いただせなかった。
 碇ユイの記憶があるかどうか。
 彼女の“心”の一部がレイに宿っているのかどうか。
 もしほんの一部でもそこに存在するのであれば、ユイのサルベージは例え物理的に成功しても惣流・キョウコ・ツェッペリンの悲劇を再現することになる。
 リツコはそれを確信し、ゲンドウは恐れている。
 ところがレイは彼らの言う“心”というものがよくわからない。
 碇ユイの心とは何なのか。
 2人目である自分、綾波レイの心とは何なのか。
 まるでわかりようがないので、例え質問されても答えようがなかっただろう。
 そして今、レイはふと顔を上げ、椅子から立ち上がる。
 それからつかつかと窓へ向かって歩いていく。
 そこで彼女がしたことは、表情を変えずにただカーテンを引いただけだ。
 さっと眩い陽光が窓から差し込む。
 レイが引っ越してきて以来、一度も開けられたことのないカーテンが大きく開かれ、一度も日の光に包まれたことのない室内が明るくなった。
 太陽と蛍光灯では勝負にならない。
 効力を失った照明のスイッチを切ると、彼女は元の場所に戻る。
 ファーストチルドレン・綾波レイはこの年頃の少女に相応しい、活き活きとした眼差しで原稿用紙に向かおうとした。





 アスカはベッドに横たわり、本を読んでいた。
 その本は小説だったが、『赤毛のアン』ではない。
 『飛ぶ教室』だった。
 彼女はシンジの読書感想文を読んで、この小説を読みたくなったのである。
 午後8時を過ぎて夜の帳が降りつつある頃、チェロの調べが耳に心地よい。
 これはアスカのリクエストではなく、言わばシンジのサービスだった。
 チェロの練習をしていいかと訊ねるとアスカはそれがいい伴奏になるのではないかと考えた。
 そしてシンジの希望通りに、「うまく弾くのよ。下手糞だったら許さないからねっ」とのお言葉を賜ることができたのだ。
 だから彼は心を込めて弾いた。
 好きになった女の子のために。
 しかし、残念ながらその音色は彼女の耳に届いていない。
 アスカは本に夢中になっていたのだ。
 ドイツが舞台というのも気に入った。
 ギムナジウムに通ったこともない。
 寄宿舎もアスカのいたところとは大きく違っている。
 男の子たちの戦争ごっこのような戦いも微笑ましかった。
 自分たち、アスカやシンジたちが直面している、本物の戦争、使徒との戦いとは大違いだ。
 だが、それがいい。
 この程度でいいではないか。
 使徒戦のみならず、戦争などない方がいい。
 彼女はそんなことを思いながら読み進めていった。
 そして、アスカは涙をこぼした。
 第8章の終わり、子供の一人がクリスマスに帰省できなくなったところまで読んだ時である。
 しばらくは涙を流していることに気がつかなかった。
 本の上にぽとりと滴が零れ落ちてはじめて知ったのだ。
 アスカは暫し読むのをやめた。
 拳で乱暴に涙を拭い、それからようやく思い当たった。
 母の葬儀以来、泣くものかと誓った筈だったのに、まさか読書して涙を零すことになるとは…。
 アスカは苦笑した。
 それから、シンジの書いた感想文を思い出した。
 小説のこれからの展開は彼の感想文を読んで承知している。
 だが、それでも続きを読むのが楽しみでならない。
 あんなに情けない少年だったシンジが感想文に自分の決意を書くなんて信じられなかった。
 それがよもや自分への恋心が後押しした結果だとアスカにわかる筈もない。
 セカンドチルドレン・惣流・アスカ・ラングレーは、目を輝かせて第9章を読み始めた。





 「飛ぶ教室」を読んで       碇シンジ

 僕はこの小説を読んで、とても面白いと思いました。
 途中の戦争をするところは少し怖いなと感じましたが、後はとても心が温かくなりました。
 (中略)
 弱虫だったウーリが勇気を示そうと傘をさして飛び降りるところはとてもどきどきしました。
 どうしてそこまでしないといけないんだろうかとも最初は思いました。
 でも僕にはウーリの気持ちがよくわかります。
 なぜなら僕も弱虫だからです。
 だけど弱虫のままじゃ駄目なんです。
 だから彼は傘をさしてみんなの前で飛び降りたのだと思います。
 僕も勇気を出さないといけないと思いました。
 (中略)
 クリスマスにはみんな実家に帰るんだと僕は初めて知りました。
 外国にはそういう習慣があるのです。
 だからマルティンが両親の元に帰れない事になって、本当に可哀相に思いました。
 あんなにお父さんやお母さんのことが好きで、両親もマルティンのことを愛しているのに。
 しかもマルティンは友だちに本当のことが言えません。
 お金がないから帰れないのだという事が恥ずかしかったのです。
 もしマルティンがそのことを正直に言ったらどうだったかなと思います。
 友だちたちはお金を出し合ってくれたのではないでしょうか。
 でもマルティンは誇り高いから言えなかったのかな?
 マルティンはずっと黙っています。
 友だちたちが帰省しはじめてもずっと黙っています。
 それでもとうとう話してしまいます。
 先生に優しくたずねられたからです。
 先生にクリスマスプレゼントだと言われて20マルクを渡された時、マルティンはどんなにうれしかったか。
 もしその時も黙っていれば、マルティンは家に帰ることができなかったのです。
 ついにたえきれなくて泣きながら事情を話したのです。
 やっぱり本当のことを話すということはたいせつなんだとよくわかりました。
 話さないと他人にはわからないのですから。
 僕もこれからは何でも本当のことを話したいと思います。
 もちろんそのことで相手が傷ついたりする時は別です。
 相手が本当のことを言うように求めている時はよく考えて話をしようと思います。
 僕はもっと強くならないといけないと思います。
 だって、この戦いのために両親と離れて暮らさないといけない人もいるのですから。
 そんな人たちのためにも僕はがんばらないといけません。
 電話や手紙だけでしか親と話ができないなんて可哀相です。
 僕はお父さんと顔を合わしたり話をすることがやろうと思えばできるのです。
 だから僕は幸福なんです。
 僕はもっとしっかり前を見て生きていこうと思いました。
 僕も流れ星を見たら願おうと思います。
 みんなの幸せを。お父さんの幸せを。ミサトさんの幸せを。綾波たちの幸せを。アスカの幸せを。僕の幸せも。





 上記はサードチルドレン・碇シンジが書いた感想文原文の抜粋である。
 提出時には最後の行は消しゴムで消され、“みんなの幸せを”だけが残されている。
 無論、アスカが読んだのは原文の方である。
 そして両親と離れて暮らしたり、電話や手紙云々というのは自分のことだと彼女は察している。
 シンジには母が死んでいて、ドイツにいるのは義母だと教えていない。
 しかし、そのことは機会があれば伝えてもよい。
 それがアスカが彼の感想文を読んだ感想である。

 

第三章 − 了 −


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