「アスカ、帰る?」
「あ、職員室行ってから図書館に寄るのよ」
「そうか、感想文ね。返却方法わかる?」
「大丈夫!借り方もわかるから」
胸を張る惣流・アスカ・ラングレーに洞木ヒカリはにっこり微笑んだ。
彼女は今朝顔を合わすなりいきなりアスカに言われたのだ。
腹心の友っていいわよね、と。
アスカと付き合いだしてもう数ヶ月、ヒカリはアスカ語をかなり解釈できるようになっている。
彼女が借りたのは『赤毛のアン』で、腹心の友というのはアンがダイアナに対して言う言葉である。
ということは彼女は自分を腹心の友と見ているのではないだろうか?
自分がダイアナであるということにヒカリは異論はない。
寧ろアンの役を振り分けられる方が困ってしまう。
常識人の(と自分で思っている)ヒカリにあのぶっ飛んだアンは合わない。
逆にあのアンの友達をしているダイアナこそ適任だろう。
何故ならば、クラスメートたちに言われているからだ。
「ねぇ、洞木さん。惣流さんと付き合っていて困ったりしない?」
ちょくちょく言われる要らぬお節介だ。
こういう時は軽く受け流すことにヒカリはしている。
嫌いだということに理由はつけられるが、好きだというのは感覚的なものではないか。
だって鈴原君のこと好きなのに理由はないもん…。
もしその秘めたる想いまでを同級生たちに知られたら、なんだ洞木さんってゲテモノ好きだったんだなどと言われておしまいだったかもしれないが。
さて、そのヒカリは今日は家事当番だから先に帰るねとアスカに告げた。
すると聞き慣れない言葉が返ってきて一瞬戸惑ってしまった。
「うん、今日はアタシじゃないのよね、当番。明日は一緒にスーパー行く?」
「え…?」
「あ、そっか。明日はヒカリの方が当番じゃないのよね。そっちも日替わり?」
そっちもということは、アスカのところは日替わりで当番を交代しているということか。
その当番というのは、家事なのだろうか。
スーパーに行くというのだから家事に違いないだろう。
まさか食べたいものを買って帰り、それを同居人が料理するなどということは考えにくい。
それならばおそらくあの少年がメモを片手に買出しに行く筈だ。
いあいや、それよりも彼女たちの食事はインスタントか出来合いだと聞いている。
いったい彼女たちに何が起きているのだろうか?
ま、まさか……?
ヒカリは顔を赤らめた。
彼女とて14歳、そういう想像をしてもおかしくはない。
何といっても思春期の男女が同じ家で寝食をともにしているのだから。
ヒカリは首を横に振った。
何と言う想像をしてしまったんだ、この私が!
「どしたの?顔赤いわよ」
「う、ううん。じゃ、私、先に帰るね。今日は唐揚げなのよ」
バイバイと手を振るヒカリにアスカは「また明日ね」と手を振り返す。
教室から友人が姿を消すと、アスカは自分の席で待機していた碇シンジをひしと睨みつけた。
「じゃ、行くわよ、馬鹿シンジ」
「う、うん。職員室が先だよね」
「とぉ〜ぜん!あ、ヒカリんとこは今日唐揚げなんだってさ」
それだけ言い残すと、アスカは鞄を肩に引っ掛け廊下へ出て行く。
シンジは慌てて自分の鞄を持つと彼女の背中を追う。
肩で風を切りながら歩いていくアスカの後を歩きながら、シンジは一生懸命に考えた。
あれは唐揚げを食べたいという意思表示なのだろうか?
ずっと同居しているくせにアスカ語の解釈についてはまだまだのシンジだった。
「へぇ、みんな期限内に書いたのね。優秀優秀」
国語の女性教師はニコニコと笑って3つの読書感想文を受け取った。
そう、3つ。
アスカとシンジの後にもう一人ついてきていたのだ。
先頭を切って歩いていたアスカなどは教師の机のところで初めて綾波レイがついてきているのを見つけてびっくりしたくらいだ。
アスカはシンジに囁いた。
「ちょっと、ど〜してファーストがいるのよ」
「知らないよ。いつの間にか後にいたんだよ」
アスカはちらりと横目でレイを見たが、彼女はいつもの無表情で何を考えているかまるでわからない。
シンジを挟んで反対側に立つレイはアスカの声が聞こえているはずだが、教師に原稿用紙を渡すと黙って立っている。
「ちょっと待ってね。ざくっと読むから」
「えっ、今読むのっ?」
代表してアスカが叫んだが、それはレイも含めて三人とも同じ思いだったようだ。
「ざくって言ったでしょ。あまりに変だったら書き直ししてもらわないといけないし」
「へ、変じゃないわよ」
そう主張したものの自信があるわけではない。
アスカなどは自分の感想文が盗み読みしたシンジのようなものではないことをよく承知している。
まさか、自分が書き直し?
ファーストのいる場でそんな屈辱を受けるのかと息を飲んでしまった。
大学の試験の方がよほど自信がある。
いや、待て。
今ファーストもかなり動揺していなかったか?
というか、コイツに動揺するような機能ついてたっけ?
「うん、碇君のはOK。前みたいなのとは違うわね」
こら、馬鹿シンジ。
そんな馬鹿でかい溜息吐くな。
身体全体でほっとした思いを表現できるって、ある意味才能よね。
わっ、次、私?
教師が読んでいる間、アスカは心臓が早鐘のように鳴っているのがわかった。
「うぅ〜ん…」
唸るな、こら!
そんな失礼なことを心の中で叫んでいると、先生は読みながら問いかけてきた。
「惣流さん、ドイツではこういう風に書くの?」
「はい、流行です」
アスカは大嘘を吐いた。
感想文など生まれて初めてなのだ。
ドイツであろうが、日本であろうが、感想文の流行どころかフォーマットすら知らない。
「そう…。まあ、いいわ。かなり面白いから」
教師はアスカの感想文を机の上でとんとんと音を立てて整え、シンジの原稿用紙の上に置いた。
よしっ!
で、かなり面白いって何よ、それ!
安心した途端に、先ほどまでのびくびく振りは消え去りいつものアスカに戻っている。
「綾波さんのは…あら、示し合わせたの?」
先生はレイとアスカの顔を交互に見た。
しかし二人とも質問の意味がわからなかった。
まさか同じ小説を読んだとは思いも寄らなかったからだ。
「二人とも『赤毛のアン』ね、まあ、女子としてはポピュラーな選択だけど」
アスカは身を乗り出してレイを睨みつけた。
「アンタ、『源氏物語』だったじゃない」
「変えたの。命令だから」
「誰の?」
「司令」
教師が読んでいる間に二人は不毛なやり取りをした。
その間に立っているシンジは正直生きた心地がしなかったが、それでも何となく奇妙に思った。
アスカの調子がいつもほど鮮烈ではないのはやはり先生の前だからだろう。
でも、レイの方は絶対にいつもと全然違う。
口にしている言葉はいつもと似た感じだが、口調が違って聞こえるのだ。
シンジはちらりと横目でレイを見た。
笑ってる?
微かに、本当に微かだが、笑っているように見えた。
びっくりしてよく見ようとしたときに、教師が感想文を読み終えた。
「綾波さん、これ自分で書いた?」
アスカならばコンマ5秒で噴火してしまいそうなことを先生は平然とレイに訊いてきた。
それを耳にしたアスカは目をくわっと見開き、シンジはびくりと身体を震わした。
ところが当のレイは平然と答える。
「はい。自分で書きました」
「誰かに下書きしてもらってない?」
「自分で、考えました」
「あら、そう。ごめんね、あまりに前のと違うから」
「本が、違うから」
「まあ、そうなんだけどね…」
ああ、読んでみたい。
アスカは心から思う。
前のレポート調だという感想文は想像できる。
しかし今回はそれとはまったく違うようだ。
教師が別人が書いたのではと疑ったくらいなのだから。
いったいどんな感想文を書いたのだというのか。
だが読ませてもらう大義名分がない。
「じゃ、ちゃんと預かりました。これで試験の方は合格点にしておくわ」
あ、そうだった。
レイはともかくとして、アスカとシンジは二人とも何故感想文を書かねばならなかったのかを失念していた。
だから先生に言われてようやく思い出したのだ。
一生懸命になって感想文を書いたのは完全に別の理由に摩り替わっていたようである。
3人は先生に礼をして職員室を出た。
ぺたぺたぺた。
軽い足音が背後より聞こえる。
アスカは立ち止まり肩越しに後を見た。
そこには愛想笑いを浮かべ頭を掻くシンジと、そして彼の後ろを歩いてきているレイが見える。
もっともレイは二人をつけているという気持ちはないようで、まったく立ち止まらずに歩いてくる。
「ちょっとアンタ。ついてこないでよね」
仁王立ちするアスカの前でレイはようやく立ち止まる。
「私、用があるの」
「アタシに?それとも、馬鹿シンジ?」
レイはゆっくりと首を横に振った。
「図書室」
それだけを言うと、彼女はすたすたとアスカの脇をすり抜け歩いていった。
「返却かなぁ」
「馬鹿ね。『源氏物語』なんて持ってないじゃない。あんなに分厚い本なのよ」
「あ、そうか。じゃ、借りに行ったのかな。はは…」
シンジの言葉を聞き、アスカは眉をひそめた。
「借りに行った、ですって…」と呟くが早いか、彼女は廊下を駆けだした。
それはもうまさしく全力疾走。
しかし、図書室まではほんの15mほどだったので、逆にアスカはその扉から2mほど行き過ぎてしまった。
急ブレーキをかけ、レイの手によって閉ざされた扉を勢いよく引き開ける。
そして、すぐさま図書室の中に姿を消した。
廊下に取り残されたシンジは頬を赤らめその場で立ち尽くしている。
制服で全力疾走したのでスカートがばっさばさとなり、中身が丸見えだったのである。
今日はピンクだ…とシンジはいやらしくも笑い、そんな自分に気づき顔をしかめてこつんと頭を一発叩いた。
その日の図書室担当は1年生の女の子だった。
彼女はその直前までは暇を持て余し、図書室内にいるのは自習をしている数人だけなのをいいことに気だるい月曜日の放課後をうつらうつらとしていた。
あくまでうつらうつらなので、レイが入室したことはちゃんと目に入れている。
あ、チルドレンだ。こっちに来ずに本を見に行ってる…。ふわぁ…。
小さなあくびをして、また瞼を閉じようとしたその時だ。
ドタバタという音が廊下からして、扉が外れるのではないかという勢いで開けられる。
わ、またチルドレン!な、何っ?すっごい顔してる!
図書委員の目を覚まさせたことなどまったく目もくれず、アスカは『赤毛のアン』が置いてあった書架に突進した。
彼女の推理通りにそこにはレイが立っていて、今まさにその手が本に伸びているところだ。
「くわっ!アタシが先っ!」
レイの指をかわし、本の上の部分をアスカはつまんだ。
無言で自己主張している白い指と、有言で自己主張するこれも白い指が3cmほど抜き出た本の上下をそれぞれ渾身の力でつまんでいる。
その力が拮抗しているのでそれ以上前に本が出ないのだが、そうなると無言で遣り合っているわけでないので騒がしいことこの上ない。
もっとも音という点ではアスカが一人で撒き散らしているだけということになってしまう。
図書室にいた生徒たちはみな自分で注意することを最初から諦め、一様に図書委員をじっと見つめている。
私?私が行くの?私、図書委員だから?図書委員だから、あの人を止めにいかないといけないの?上級生でエヴァのパイロットでしかもあの人だよ!
スタンガンとかナイフとかピストルとかミサイルとか持ってないでしょうね…。
恐る恐る二人に近寄った1年生は勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あの、静かにしていただけませんか?」
「うっさいわねっ、アンタこそ静かにしなさいよ。ここ図書室でしょうがっ」
ああ、神様、私静かにしてますよね。
哀れな子羊をお助けください。
うち、浄土真宗だけど…。
図書委員が錯乱していると、そこにようやく助けの主が、いや主候補生がやってきた。
「あ、あのさ、困ってるよ、図書委員さん」
1年生の女の子は彼の顔を仰ぎ見た。
わあ、弱々しそうな感じであれでもパイロットってみんなで噂していたけど、やっぱりこの人凄いんだ。
そ、そりゃあそうよね、だって、あの惣流さんと同棲しているんだもの。
まだ中学生なのよ!
まあ、エヴァのパイロットだからいつ死んでしまうかって感じだもんね。
燃えるような恋でもしてないとって思うわよ、やっぱり。
だから学校ではこんなだけど、きっとエヴァに乗ったら全然違うのよ。
そうでないとあの惣流さんが身も心も捧げてないわよね!
学校で惣流さんがツンツンしてるのって、ほら、あれよ、ツンデレ!
家に帰ったらデレデレなのよ、絶対!
みんなそう言ってるもん!
「うっさいわね!馬鹿シンジは黙ってなさいよ!これはアタシとファーストの問題なの!」
「で、でも…」
「アンタはがたがた言ってないで、さっさとケストナーの次の本借りときなさいよ!」
「で、でも、僕の借りたのアスカの鞄に入ってるじゃないか。それ返さないと次の本借りられないよ」
「もう!細かいこと言ってんじゃないわよ!そんなの強引に借りたらいいだけじゃない!」
「駄目だよ、そんなの。決まりなんだから」
「決まりなんて破るためにあんのよ!」
アスカが声高にシンジとやり取りしている間、1冊の本をめぐる争いはずっと続いている。
彼女もレイも力を緩めず、真っ白な指が赤みを帯びるほどに力がこもっていた。
二人とも『赤毛のアン』の続きを読みたくてたまらないのだ。
生憎この図書室には『赤毛のアン』だけは数冊あるが、第2巻以降は1冊づつしか置いてないのである。
しかしその時、アスカは気がついた。
好敵手を打ち負かす、最高の方策を。
彼女は本から指を離した。
少しばかり身体をぐらつかせたが、レイは足を踏ん張って体勢を整える。
そして自分のものとなった本をその胸に抱きしめたのである。
ところが、アスカはあの邪悪な笑みをいっぱいに図書委員を見つめたのである。
こ、怖い…。
1年生はエヴァのパイロットに敬意を表して3歩ばかり後ずさった。
本当はもっと下がりたかったのだが、残念ながら書架があるためそれが限界だった。
「ちょっと、図書委員さん?」
「は、はいっ」
「本を借りていたら、それを返さないと次のは借りられないのよねぇ」
「はいっ、返却してから貸し出しになります!」
直立不動で彼女は答えた。
ああ、助かった。
こんな質問だったら簡単に答えられる。
「OK。アリガトね。ということで、ファ〜ストぉ?その本、アタシに渡してくれる?」
アスカはその手をぐっとレイに突き出した。
掌を上に向けて、指先をこっちこっちとうごめかしている。
「何故?この本は、私が借りるもの」
「ざぁ〜んねんでした。今の聞いてなかった?アンタ、どう見ても『源氏物語』持ってないみたいだけど?」
シンジは驚いてしまった。
レイの頬がぴくりと動いたのだ。
いや、はっきり言うと残念無念と表情を歪めたのである。
父親のことで彼女に引っ叩かれた時でもここまで表情は変わらなかった。
「どぉ〜お?あるの?持ってるのぉ?その鞄には入りそうもないけど、あの分厚さじゃぁね」
レイは悔しげにアスカを睨みつけた。
アスカは顎を上げて得意げに言葉をさらに投げつける。
「決まりは守らなきゃね。ふふん」
恨めしげな目でアスカを見て、レイは彼女らしくない言葉を口にする。
「決まりは、破るために、あるの」
「ふんっ、アンタ馬鹿ぁ?決まりを守らないと人間社会は崩壊するのよ!」
その時、図書室にいた全員が彼女には敵わないと実感した。
つい今しがた、決まりは破るためにあると豪語したのはアスカ本人ではないか。
「わかったらさっさと寄越すのね。まっ、明日『源氏物語』を持ってきた時までにアタシは読んで返しとくわよ」
さすがに気が引けるのか、アスカとしては最上級の慰めをレイに投げたつもりだった。
しかし、レイは顔を伏せて小さな声で呟く。
「私、持ってないもの」
「え?」
「赤木博士が、持っていった」
「リツコが?」
レイはこくんと頷く。
その姿を見て、アスカの心に何かが芽生えた。
それはおそらく『飛ぶ教室』を読んだためであろう。
性別は違えども、友情を描いた作品に彼女も影響を受けたわけだ。
先ほどまでは敵意丸出しであったのだが、この変化はレイを違う目で見たからだった。
しかしアスカにその自覚はなく、ただ彼女自身としては気が変わった、というだけのことにすぎない。
「やめた」
きっぱりと言い切ったアスカはくるっと踵を返す。
「アンタ、ここで読んでいきなさいよ。こら、馬鹿シンジ、何してんのよ、さっさとケストナー借りなさいよ」
「えっ、それでいいの?」
「仕方ないじゃない。だって…」
アスカは少し考えた。
だって、理由はなんだっけ?
忘れてしまった、というよりも、そもそも感覚的なものだったからであろう。
彼女はまったく別の言葉を発した。
「だいたい、借りて読むこともなかったんじゃない。お小遣いがあるんだもん。本屋、行くわよ、馬鹿シンジ」
「う、うん。じゃ、返却を…」
「まだしてないの?さっさとしなさいよ…って、ちょっと図書委員さん、ここで手続きできないでしょうが」
三人の近くで動けなかった1年生は慌てて小さなカウンターに駆けていく。
何がどうなったのかわからないが、とにかく嵐は去ったようだ。
彼女はシンジとアスカの借り出した本の返却手続きをする。
「あのね、馬鹿シンジ。待ってる間にケストナーを…」
「あ、僕も買うよ。『飛ぶ教室』だってまた読みたいし」
「あ、そ。じゃ、さっさと本屋に行くわよ」
アスカとシンジが図書室を出て行くと、一斉に室内で安堵の溜息が起こった。
図書委員の1年生が一番大きな溜息を漏らしたのだが、彼女はその時次は『赤毛のアン』を読もうと考えていた。
小学校の時に児童版を読んでいたが、改めてオリジナルを読みたいと思ったのだ。
何しろチルドレン同士で諍いを起こすほどの小説なのだから。
その感想は彼女だけでなく、すぐに噂として校内を駆け巡り、やがて壱中で時ならぬ『赤毛のアン』ブームが起きるのは少し先の話だ。
綾波レイは手にした本を書架に戻した。
いつもと同じ無表情に見えたが、よく見ると唇の辺りが少し上がっている。
彼女は無意識に微笑んでいたのだ。
そしてレイは二人に少し遅れて図書室を出て行った。
その姿を見送った図書委員たちはみな同じことを思ったのである。
ああ、きっと彼女も本屋に行くつもりなんだ、と。
昇降口でレイがやってくるのを見たアスカが血相を変えた。
彼女としてはせっかく“武士の情け”をかけてやったのに、しゃあしゃあとレイがやってきたのだから当然だろう。
また喧嘩になると思ったシンジが先にレイに声をかけた。
これは彼としては非常に珍しい行動だった。
図書室内での自分のあたふた振りを恥じていた彼は、ここで自己革命を起こそうと思ったのだ。
逃げちゃ駄目、ではなく、やらなきゃ駄目、である。
「綾波?え、えっと、もしかして、これからどこか行くの?」
「ジオフロント」
レイはきっぱりと呟いた。
リツコに取り上げられた『源氏物語』を回収に行くというのだ。
しかし、それを先にしては戻ってきても図書室の開いている時間は終わってしまう。
せっかくアスカが好意を示したというのに、これでは何にもならないではないか。
シンジが拙いなと思いアスカをちらりと見ると、アスカは怒りをさらに急速充電中にしか見えない。
だから彼は慌てて、先に借りてきた方がいいと主張したのだ。
するとどうだろう。
赤い瞳の少女は首を横に振るのだ。
だが、その後に続いた言葉がアスカの噴火を一時的に抑えた。
「私も、欲しいの。自分の、本」
「ちょっと、アンタねぇ」
それでは本屋に一緒に行き自分と再び争奪戦を繰り広げるつもりかと、アスカが気色ばんだのも当然だ。
「だって、面白かったから」
彼女の主張はアスカにまっすぐに向けられていた。
そのアスカはいつものように言い返そうとしたのだが、レイの表情と言葉の内容がそれを止めた。
昨日、文房具屋で出会ったときに見た、あの時と同じ目つきをレイはしている。
その目をアスカはうまく形容できなかった。
活き活きとした目、というのが一番妥当だろう。
その形容自体はやはり思いつかなかったのだが、それ以上にレイの発した言葉の内容が彼女を驚かせたのである。
面白い?
あのファーストが「面白い」と思った?
まるで人形のように自我を持たないレイがそのような言葉を発するなど、アスカは聞いたことが一度もない。
怒りや蔑みに似たような感情をふと感じることはあった。
しかし、「面白い」である。
アスカが戸惑っていると、日頃鈍感なシンジが指摘したのだ。
「あ、あのさ、ジオフロントに先に行ってたら、アスカが先に買うから綾波は本買えないよ」
「本屋は、一軒だけじゃ、ないから」
なるほど、それはそうだ。
アスカの燃やしていた炎は一気に鎮火する。
納得した彼女はどこの本屋で本を買ったか、リツコに連絡しておくとレイに言った。
その言葉を聞いて、シンジは驚いてしまった。
つい今しがたまで喧嘩寸前までに進んでいたのだ。
あまりに好意的な発言に彼がびっくりしたのは当然だろう。
ところがレイの方はそう捉えなかったのである。
彼女は微かに唇の端を上げた。
それは微笑んだ、としかアスカにもシンジにも見えない。
「ありがとう」
その言葉を残し、レイは靴を履き替え、すたすたと校門へと向かっていく。
彼女の後姿を見送って、アスカは呆然と呟いた。
「ありがとう…だって」
「うん、微笑んでたよね」
「そうね、笑ってたみたい」
ありがとうも、笑顔も、レイから贈られたのは初めてのアスカだった。
その感触は彼女の心に新しい何ものかを芽生えさせていた。
「『赤毛のアン』を面白いって…。そんなことも言ってたわよね、アイツ…」
その呟きを聞き、シンジも確かにそうだったと思う。
これまでのレイが感情をむき出しにしたのは怒りという部分においてだけだ。
父親のことを悪し様に言い、彼女に頬をぶたれた。
その時のことは今でもはっきりと覚えている。
そしてその第5使徒戦で彼はレイの微笑を見た。
そのぎこちない笑顔を見たとき、一瞬だが彼は何かの記憶に繋がるような気がしたのだ。
ただその時は、初めて見るレイの表情に驚き、そして嬉しかったこともありそれ以上の思考には至っていなかった。
だが、今日のレイは彼に何かを思い起こさせる。
それが何かはまったく頭に浮かんでこないのだが。
「ふんっ、何ぼけっとしてんのよ、行くわよ、馬鹿シンジ」
「あ、うん」
言葉は普段通りだが、その口調は少し柔らかいように感じる。
シンジは歩き出したアスカの背中を追った。
「おかあさん、ねむくならないよぉ」
「駄目よ、ちゃんとお昼寝しないと」
「でもぉ…、あ、そうだ。おやつをたべたらねむくなるよ、うん」
「もう、シンジったら。駄目です。おやつはお昼寝の後。昼寝しないのだったらおやつはありません」
「あぁ…、おかあさんのいじわる」
「何とでも仰い」
「あ、じゃあ、ほんをよんでよ。だったらねむれるかも」
「残念でした。お母さんは今本を読んでるの」
「そのほんでいいよ。だからよんでよ」
「仕方ないわね。あなたが聞いても面白くないわよ、この本」
「いいよ、えっと…『のアン』だよね、それ」
「『赤毛のアン』よ。最初からじゃなくていいわね、今読んでいたところからよ」
母親は一人息子の傍らに横たわり、今まで読んでいた文庫本を音読する。
今日は久しぶりの休みだ。
息子の昼寝が終わったら、おやつを一緒に食べ、それから近所を散歩しよう。
今日は陽射しがそれほどきつくない。
風も気持ちよくそよぎ、窓際のカーテンレールにかけた風鈴がちりんちりんと涼やかな音を立てている。
結局その昼下がり、母親は息子に添い寝をしながら自分も眠ってしまった。
その時見た断片的な夢の中の彼女は見も知らぬモノレールのような電車にただひとり乗っていた。
そして、窓に映った己の瞳が赤く、そのことに違和感を覚えることもない彼女は手にした文庫本を読むのである。
夢の中の少女は呟いた。
「God's in his heaven, All's right with the world.……」
レイはうたた寝をしていた。
リニアの微妙な振動が、最近睡眠不足気味の彼女を夢の世界に誘ったのだろう。
夢の中の彼女は母親だった。
その彼女は3歳くらいの子供の横に添い寝していた。
眠りから覚めた母親は手にしていた文庫本を開いた。
畳を敷いた明るい部屋には窓から風が入ってきていて、何かがちりんちりんと音を立てている。
その音の方を見れば、カーテンレールに青いガラス状のものが紐でぶら下がりそこから涼しげな響きが聞こえているのだ。
ああ、風鈴が鳴っている。
そのような単語も知らない筈だったが、何故かその単語が自然に口から漏れてきた。
そして、彼女は呟く。
「God's in his heaven, All's right with the world.……」
すると傍らの男の子がうぅ〜んとうごめいた。
その男の子に彼女は呼びかけた。
ごめん、起こしちゃった?シンジ…。
目を覚ましたレイは何度か瞬きすると、傍らに置いていた文庫本を取り上げる。
今の夢の意味は何なのか。
自分の存在する物理的な意味なら知っている。
部分的にサルベージされた碇ユイの肉体。
魂を持たない、心を引き継いでいく、肉体だけの存在。
作られた人間だから、成長が早いのに生理が来ない。
生理がないということは子孫を持つことができないということに繋がる。
だが、そんなレイにとってシンジはどういう関係になるのだろう。
DNA上ではシンジはレイの身体からの遺伝情報を持つことになる。
例えレイがシンジより後に誕生していてもだ。
「卵が先か鶏が先か…。くすっ」
予期せぬ独りごとに、そして笑い声を上げたことにレイは驚いた。
独りごとを言ったのも初めてならば、思い出し笑いも、しかも声に出して笑った覚えなどこれまでない。
自分の中の何かが変わってきている。
シンジと出逢ってから、そしてアスカが現れて、ここ最近さらに変化が感じられる。
“心”が発達してきているのだと、リツコならばわかっただろう。
だが、これまで“心”を持たされなかったレイにはそこのところが明確にできない。
ただ彼女にわかるのは、これまでになく碇ユイの記憶がレイの中で膨らんできているということだけだ。
しかし、それは不快ではなかった。
自分が自分でなくなる。
シンジやアスカならば、いやレイ以外の誰しも、もしこういう状況になれば恐れおののくであろう。
ところが、レイは違う。
あの水槽の中にいる、自分の仲間、いや分身、いや自分自身たち、その彼女たちと今の自分は違う。
彼女たちには“魂”だけではなく“心”もない。
“心”も持っていなかった自分には代わりはいるだろうが、今こうして“心”を持とうとしている“私”の代わりはいない。
ここにいるのは“私”そのものなのだ。
碇ユイの身体を持ち、碇ユイの心を受け継いでいる、綾波レイは自分ひとりしかいない。
彼女の唇の端がにっと上がった。
レイは首を曲げ、窓に映る自分を横目で見た。
「あなたは…だれ?」
問いかけても答えてはくれない。
ただじっと自分を見つめ返すだけであった。
夕暮れにはまだまだ間がある。
しかし街は夕方に向かって刻一刻と寂しさを増しているように感じた。
リニアモノレールは振動もほとんどなく、滑るように走っていく。
レイは『赤毛のアン』の最後の章、その最後の一文の頁をめくった。
そして、その日本語の文を見、唇がそれを言葉として読んだ。
だが、その言葉は日本語ではなく英語だった。
もちろんレイはその原文を調べていたわけではない。
ユイの記憶が、そして夢の中の彼女が、レイにその言葉を喋らせる。
「God's in his heaven, All's right with the world.」
レイは周回するモノレールの動きにあわせて身体をずらし、窓越しに眼下の光景を見た。
そこにはネルフの本部ビルが、あの特徴的なピラミッド風の建物がある。
その建物の一面を見て、レイはにこりと微笑んだ。
大きく描かれたネルフのロゴマーク、その下部にはレイが口にした言葉が一文字の違いもなく並んでいる。
彼女はその文字を見、もう一度呟いた。
「God's in his heaven, All's right with the world.……神は天にいまし、世はすべて事もなし」
ネルフ本部を見下ろす、綾波レイは慈母の如く微笑んだ。
「ああああああっ!やっぱりそうだったのよ!」
いきなりアスカが叫び声を上げて、ペンペンと戯れていたシンジは驚いて翼を引っ張ってしまい怒ったペンギンの嘴から逃げ惑った。
平謝りに謝ってようやく許してもらえたシンジは、ソファーで端末を広げていたアスカのところにたどり着く。
「な、なにが?」
「これよ!これ!」
アスカが指差すのは端末のカバー部分に描かれたネルフのマークである。
毎日どれだけ見ているかわからないほどに目に馴染んだロゴマークを見て、シンジは首を捻った。
「ホントに、アンタって馬鹿ね。ここ、読んでみなさいよ」
彼女が指差すのはロゴマークの下部、あの英文字の部分である。
「えっ、これ?え、英語だよね」
「日本語ではないわよね。読めばわかるわよ。さっさと読む」
「え、えっと、ゴッド…ズ?イン、ヒズ、ヘアヴ…ベン…かなぁ、この字、知らないよ」
「えええっ!アンタ馬鹿ぁ?ホントに馬鹿?ヘヴンよ、ヘヴン!」
「あ、ヘブンか。そうか、なるほど…」
頷くシンジを疑わしそうに見たアスカは当然追求する。
「そのヘヴンってどういう意味ぃ?」
「え…?ヘブンは…」
シンジは目を天井に彷徨わせるが、生憎葛城家の天井には英和辞典は描かれていない。
「ごめんなさい。わかりません」
素直に無知を認めたシンジはがっくりと肩を落とす。
また株を落としてしまった。
こんなことなら中学進学と同時に英語を猛勉強しておけばよかった。
そんな後悔をするシンジはまだ“It's no use crying over spilt milk.”という慣用句を習っていないので、こういう時に頭に思い描きがちの言葉も浮かんでこない。
彼があまりに落胆しているからか、それとも話を先に進めたかったのか、アスカはすぐに正解を口にした。
「神は天にいまし、世はすべて事もなし。どう?」
ああ、どうしよう。
シンジは窮地に追い込まれてしまった。
アスカが今口にした言葉はどこかで聞いたことがある。
確かにある。
何だっけ?何だっけ?何だっけ?また、馬鹿にされちゃう!
彼が困惑したのはほんの3秒ほどだったが、アスカが判断するには充分な時間だった。
「はいはい、わかんないのね。ホント、アンタって張り合いのない相手よね、まったく」
「ごめん」
以前の謝罪とは大いに意味合いが違っているのがアスカには通じているのだろうか。
これまでは怒りをはぐらかす為に口にしていただけのこと。
いわばお茶を濁していたわけだ。
しかし今はまったく違う。
アスカときちんと会話をしたいのだが、うまくかみ合ってくれない。
これはシンジにとっては仕方がないこととも言える。
何しろ二人の歩んできた道が異なっているのだ。
お互いの持っている情報量と質があまりに違いすぎる。
ところがどうだろう。
シンジは大いに落胆しているのだが、アスカの方はいつもと反応が違う。
馬鹿にしたような内容の言葉は変わらないのだが、全体の雰囲気が大きく変化している。
別にゆっくり喋っているわけでもボディランゲージがないわけでもない。
そこには悪意がないのである。
ただそれだけのことで、雰囲気が大きく違ってきているのだ。
但し、そのことにシンジ本人が気づかない。
彼女の様子を窺う余裕がないのだった。
自分を高めようと一生懸命になりすぎて、アスカのことをじっくり眺めることなどできやしない。
もしそんなことが彼にできたならば、おそらく彼女のことをもっと好きになっていたことだろう。
アスカはその言葉が『赤毛のアン』の最後にアンが口にしたものだと説明した。
それを聞いて、シンジは一生懸命に記憶を甦らせる。
「そ、そういえば…アニメのラストで…」
アンがそういうことを言っていたような、気がするような気もするのだがはっきりしない。
相変わらずの彼の発言を聞いて、アスカは怒らなかったばかりか笑い出した。
「だからアンタは駄目なのよ。見てたんなら覚えてなさいよ。
自分がエヴァのパイロットしてるくせに、マークに使われてる言葉だって知らなかったのって恥ずかしくない?」
「そ、それは、アスカだってそうじゃないか」
「ざぁ〜んねんでした!アタシはアニメも小説もぜ〜んぜん知らなかったんだもん。アンタとは違うわよ!」
にやりと笑うアスカにシンジはすぐには言い返せない。
「だ、だって、あれ英語だし」
「ふぅ〜ん、英語は読まないんだ。じゃあ、英語の教科書も読まないのね、テストの問題も?あ、エヴァの…」
「わ、わかったよ。僕が悪かったよ」
「何が悪かったってぇ?」
「言い訳したからっ。ああ、もう…」
シンジはアスカに腹を立てたのではない。
どうして言い訳してしまうのだろうと、自分に腹を立てたのだ。
こんなことでは大好きな女の子に馬鹿にされ、そしていずれ愛想を尽かされてしまう。
少なからずがっくりしたシンジだったが、意外にもアスカは別に気にもせずに話をどんどん進めていく。
「ま、いいわ。とにかくあれは『赤毛のアン』から採ったものに違いないわ」
なるほど、アスカは自分の意見を言いたいがためにシンジの反応をさほどに追及しなかったのであろう。
「えっと、じゃ、それは『赤毛のアン』を書いた人が…」
その時、シンジはアスカにじろりと睨まれた。
あわわわ、作者の名前は何だっけ?
すぐに思い出せたのは、アスカが『赤毛のアン』シリーズ全10巻すべてを購入し、その荷物を彼が持ったからであろう。
その文庫本10冊、さらにケストナーの本も2冊買った。
ケストナーはシンジが買ったのだが通常の文庫本になく、少年文庫という小学高学年以上推奨のものしかなかったのだ。
だから彼は購入を躊躇ったのだが、アスカの一言で即座にレジに持って行き、おまけに店頭にないものも注文してしまった。
へぇ、このイラストけっこういい感じじゃない?
彼女の発言はただそれだけである。
しかし、今のシンジにとってアスカの発言力というものは極めて重い。
そこで数日前までは小説の類が一冊もなかった葛城家に蔵書が一気に12冊も増えたわけだ。
「モンゴメリー!だよね」
アスカはしかつめらしく頷いた。
ほっとしたシンジは発言を続ける。
「モンゴメリーが書いた言葉なの?神は…」
そこで言葉を切ったシンジは正直に言う。
「ごめん。覚え切れなかった」
「ふふ、今日は凄く正直なのね。神は天にいまし、世はすべて事もなし。覚えた?」
「待って…」
シンジは目を閉じて、頭の中で文句を繰り返す。
幸いなことに彼はそれほど記憶力が悪い方ではない。
3回暗誦して、最後にもう一度ゆっくりと繰り返し、彼は目を開けた。
真っ先に目に入ったのはアスカの悪戯っぽい笑みだった。
ああ、いいなぁと思わず見蕩れてしまいそうになる。
「さ、言ってみなさいよ」
「へ?あ、う、うん」
一瞬、彼女の笑顔にせっかく覚えた文句が飛んでいってしまいそうになった。
急いで気を引き締めたシンジは噛み締めるように言葉を発する。
「神は天にいまし、世はすべて事もなし」
あってたよね、とばかりに彼はアスカの表情を窺う。
すると、彼女は合否に対する反応はせずに更なる難問をシンジに押し付けたのだ。
「意味は?」
「え?」
「今の日本語でしょ。意味くらいわかるわよね」
「えっと…」
しまった、それならさっき考えておくべきだったとシンジは後悔した。
彼はその短い文を吟味して噛み砕いたが自信はまるでない。
だから、半信半疑の口調でアスカに言う。
「神様が天にいるから、世界は平和だってこと…かなぁ」
「うぅ〜ん、日本語だったらそうなっちゃうわよね」
「違うの?」
「世の中のことは神様の思し召しだってこと」
アスカの言葉を聞いて、シンジはすぐには意味がわからない。
そんな彼に少女は事も無げに言う。
「つまり、世の中のいいことも悪いこともすべて神様に委ねられているってこと」
「う、うぅ〜ん、全部運命って事?」
「ちょっと違うんじゃない?最終的にはそうだけど、いいことがあっても悪いことがあってもちゃんと向き合いなさいってことじゃないかしら」
「ああ…、そういうことか。凄いや、アスカ」
心底から彼女を褒め称えるとどうだろう。
アスカは苦笑したのだ。
「って、ネットで調べたら出てた」
「えっ!」
「元々はブラウニングの詩なんだってさ。ま、それは『赤毛のアン』にも注釈であったけど」
「そうだったんだ。へぇ…えっと、引用、だっけ?」
「今調べたらブラウニングの『ビップの一日』って詩なのよ」
アスカはシンジに説明した。
『赤毛のアン』はラストに結構不幸なことが重なるが、その中でアンとギルバートの間に和解がある。
悪いことばかりでなく、いいこともあるのだということで、詩が引用されたのではないか。
そういう風にネット上では解説されているとアスカは語った。
この時、シンジは説明にばかり感心していて彼女の変化については見過ごしてしまっている。
こういう場合、調べたということは伏せておいて自分の知識としてひけらかすのがアスカではなかったか。
しかし、アスカは別に自分を変えようとしているのではない。
彼女にも気がつかないままに、読書に影響を受け、そして周囲の人間に感化されているのだ。
「まっ、アタシもさ、あの文自体はわかってたけど、その意味までは気にしてなかったのよね」
神がどうのこうのと宗教臭いことを書いてあるなと思っていただけだと彼女は言う。
まさかここからの引用だとは思いも寄らなかったと彼女は鼻で笑った。
「でも、『赤毛のアン』からじゃないんじゃないかなぁ。その詩の方じゃないの?」
「否定はしないわよ。でもね、アタシの勘では間違いなく『アン』の方ね」
自信たっぷりにアスカは胸を張った。
シンジの勘はまったく働かなかったので、とりあえずアスカ説を受け入れることにした。
そんなロゴマークの下の文章など自分には関係はないと思ったからだ。
しかし、彼の推測は大いに外れていた。
あの文章と彼には大きな結びつきがあったのである。
そのことをシンジは知ることはない。
すべてはゲンドウひとりの胸の中に収められているのだから。
ジオフロントの中層部。
その階層には特別のカードが必要なので、一般職員の出入りはできない。
だから他のフロアよりも遥かに閑散とした印象がある。
その静かな廊下で唯一発生している物音は紙が擦れる音だった。
赤木リツコの研究室の傍でパイプ椅子に座った少女が文庫本を読んでいるのだ。
やがて、そのフロアは通過するばかりだったエレベーターの扉が開き白衣を羽織った女性が出てきた。
彼女は見慣れた廊下に見慣れないものを見つけて眉を顰めた。
「あら、レイ。ずっと待ってたの?」
長時間の会議から解放されたばかりのリツコは本を閉じたレイに声をかける。
「その椅子はどうしたの?」
IDカードで開錠しながらリツコが問うと、レイはにこりともせず保安部の人が持ってきてくれたと答える。
なるほどチルドレンガード担当の一人がさすがに立ちん坊のままにしてはおけなくて手近な場所から持ってきたのだろう。
もちろんその前に待つなら他の場所でと言っただろうが、レイのことだから強情に動かなかったに違いない。
そして彼女の用件の方も察しはついている。
『源氏物語』を返せというのだろう。
しかし、その理由が問題だ。
続きを読みたいというのかどうか。
だから、リツコは部屋に入りながら単刀直入にそのことを訊ねた。
ところがどうだろう。
何と図書室に返却しないと次の本が借りられないからと答えるではないか。
リツコは思わず微笑んでしまった。
「ごめんなさいね、本はないわ」
部屋に入ったリツコがそう言うと、レイは目に見えて不機嫌そうな表情になる。
その表情を見て、リツコは彼女の心の形成がかなり進んでいることを知った。
「連絡がうまく行ってなかったのね。今朝、中学校に行って先生に渡してきたのよ」
「聞いて、ない」
「間違いないから。不安だったら明日確認して。根府川という名前の少し年配の男の先生」
具体的に名前を言うからには間違いなかろうとレイは納得した。
彼女は折りたたんだパイプ椅子を手にしたまま、次の要求を口にした。
これもまたリツコを驚かせる内容だ。
「お金、欲しいの」
「カードを渡しているでしょう?」
さすがにリツコは驚きを表には出さず、平然と切りかえした。
お金というものの知識は当然レイにはある。
しかし彼女は自分でお金を使うようなことはしたことがない。
レイが何かを買物してもすべてネルフの購買カードを使用しているのだ。
それが例え数十円のものであっても彼女はカードを使ってきた。
現に先日も文房具店で原稿用紙を購入している。
もしこれまでの彼女ならば、アスカに低額の商品をカードで買うと店の人間が困ると指摘されてもまったく動じなかっただろう。
ところがこうして今レイはお金を要求していた。
リツコにはその経緯はわからない。
だが、明らかにレイの中で何かが変化してきていることはよくわかった。
理由を問われたレイが答えた内容を聞き、リツコは小さく鼻で笑う。
「わかったわ」
短く言うリツコは内心当然といえば当然のことだと思う。
しかしその当然のことにこれまでレイは疑問を挟まなかった。
その彼女がこんなことを言い出したのだから、これは大いなる変化だろう。
リツコは少し意地悪な質問をしてみた。
「いくら必要かしら?」
その問いかけにレイは返事ができない。
困ってしまっている様子を見て、さすがにリツコも意地悪が過ぎたかと反省する。
彼女は自分の財布をポケットから取り出す。
そしてその中身を見て、リツコは苦笑する。
「あら、そんなに入ってないわね」
三千円ほど渡そうとしたが、財布に入っているのは一万円札が4枚に千円札が一枚のみ。
小銭を足しても二千円少しにしかならない。
それでもいいかとは思ったが、初めてお金を渡すのに彼女の掌にジャラジャラと小銭を落とすのも気が引ける。
リツコは一万円札を一枚取り出した。
「領収書や明細は要らないから」
「どうして?」
「だってこれはポケットマネーだから。お小遣いということね」
その説明を聞き、レイは真っ直ぐにリツコを見返した。
いや、睨みつけたといった方が正しいかもしれない。
「不満かしら?」
「あなたにもらう、理由がないもの」
「あるわよ。私は大人で、あなたは子供。子供は大人にお小遣いをもらうものよ」
きっぱりと言い切ったリツコは余裕の微笑でレイを見つめる。
その理屈にレイは戸惑った。
彼女は自分の感情を説明し切れなかったのだ。
もし自己分析ができるならば、リツコからはお金を貰いたくないという気持ちを整理できたかもしれない。
しかし現在のレイはただ説明のつかない感情に黙り込むしかなかった。
その感情については寧ろリツコの方が容易に理解できるだろう。
ところが彼女はそのことには一切触れなかった。
「いるの、いらないの?早く言って頂戴」
それはいつものように素っ気無い言葉だった。
だが、あるいはミサトならば、いやゲンドウもそうかもしれない。
その二人ならばリツコの口調の中に温かみを感じることができたかもしれない。
もちろんレイにはそういう機微はわからず、問い詰められ唇をぐっと噛み締めた。
そんな彼女をリツコはじっと見つめる。
以前のレイと違うところはあるだろうか否か。
最初はそんな目で見ていたリツコだったが、いつしかその視線は暖かいものに変わっていった。
「レイ。お年玉って知ってるかしら?」
首を横に振るレイを見て、当然その答を予期していたリツコはこれがそれだと彼女の手に一万円札を握らせた。
「本当はポチ袋に入れて渡すもので、そもそも季節外れだけど…。お年玉の意味は学校で聞きなさい」
もう他に用件はないかと言われ、ないと呟いたレイは部屋の外へと追い出された。
しかしレイに忙しいからと言っていた割には、リツコは悠然とコーヒーの準備を始める。
ブラックコーヒーを口にした彼女は溜息とともに苦笑いを浮かべた。
「心を持ち始めたものを止める事は誰にもできない。それが進化というもの、かしらね」
その独り言は先ほど会議室で別れたばかりのゲンドウに向けていた。
リツコは既に彼の思いとは違う方向にすべてが向かい始めていることをどう受け止めるべきかを考えている。
それはここ数日ずっと考え続け、そしてまったく答を見出せない命題であった。
彼女は壁に立てかけられた折りたたみパイプ椅子を見て、理由もわからないままに微笑んだ。
レイの心の成長を無意識に喜んでいるのは、研究者や対抗者としてではないこともリツコにはまだわかっていなかった。
午後9時を境に葛城家では読書タイムが始まった。
アスカはアン・シリーズ第2作を。
そしてシンジは悩んだ末に『赤毛のアン』を手にした。
ケストナーの別の本も読みたかったのだが、アスカと同じ本を読んでおきたいという気持ちの方が強かったのだ。
簡単に言うと、下心が勝ったという事かもしれない。
ただし、恋する少年とすれば当然だろう。
好きな女の子と話題を共通にしたいという思いは誰にでもあるからだ。
あのゲンドウという男でさえ、『赤毛のアン』を読んでいるのだから。
しかし父親とは違い、シンジの方はこの小説にどんどん引き込まれていったのである。
彼は漫画はほとんど読まない。
だから少女漫画と呼ばれるジャンルのものを目にしたことがない。
漠然としてそういう類のものと『赤毛のアン』という小説を同じようなものだと認識していたのだ。
だが、そういう偏見は今のシンジにはまったく消え去っている。
結末まで知っているにもかかわらず、アンがグリーン・ゲイブルズに住むまでの経緯をどきどきしながら読んでいたのである。
まさに時間を忘れて彼は読みふけった。
「こら、馬鹿シンジ。ちょっとは休憩しなさいよ」
気がつけば、いつの間にか部屋の扉が開いていた。
振り返ると、そこに立っているのはアスカで、彼女の両手にはそれぞれコーヒーカップが持たれている。
「ほら、甘ったるいコーヒー。よくこんなの飲めるわねぇ」
咄嗟に返事ができないシンジを無視してアスカは机の上にコーヒーカップをひとつ置く。
その時、少年の目にはその白い手首が眩しく見えた。
「じゃあね、どっかでキリつけて眠んなさいよ」
「あ、うん。あの…ありがとう」
ようやく感謝の言葉を口にしたのだが、それに対する彼女の反応は「ふんっ」と鼻であしらっただけ。
すぐに閉められた扉を呆然と見つめ、シンジは目をぱちくりとする。
そして机に向き直ると、彼女が淹れてくれたコーヒーを口にした。
すると彼は苦笑しながら呟いた。
「ちょっと、苦いや…」
しかし、彼はやや甘さ控えめのコーヒーを我慢して飲んだ。
それはそうだろう。
大好きな女の子が淹れてくれたコーヒーなのだ。
砂糖が少ないからといってその味を変えて飲もうとは思わない。
少しだけ顔を歪めた少年は再び本の世界に戻っていった。
次にコーヒーに口をつけたのはかなり覚めてしまってからであった。
その翌日のことだ。
アスカはシンクロテストのためにジオフロントにひとりだけ呼ばれている。
寂しいことこの上ないシンジはいつもよりもさらにぼけっとして授業を受けていた。
折りしもそれは国語の授業である。
教壇にはあの女性教師が立ち、満足気に生徒たちを見渡していた。
「じゃ、最初に挙手してもらうわよ。『赤毛のアン』を読んだ事のある人は手を上げて」
睡眠不足のシンジは反射的に手を上げた。
読み終えたのは今日の午前3時過ぎである。
だからまさしく何も考えずに挙手したのだが、驚いたのは周りの生徒である。
「おわっ、センセ。あんなん読んどるんかいな」
「えっ」
斜め後からのかなり大きな囁き声にシンジは驚いて背筋を伸ばした。
手を上げたまま周囲を見ると、男子で挙手しているのは彼一人だったのだ。
これにはシンジも面食らってしまった。
「だ、だって、いい話だよ、うん」
真っ直ぐ伸ばされていた腕はやや肘の方が曲がってしまったのはいかにもシンジらしいといえよう。
しかしそれでも腕を下ろさないところは心機一転した証か。
「こら、鈴原!『赤毛のアン』を馬鹿にするとはいい度胸ね。少なくとも女子の半分は敵にまわすわよ」
冗談めかしく言う教師の言葉を聞き、鈴原トウジはちらりとある方向を見た。
うわわわわ、こりゃあかん。
その方向には怒りに燃える想い人の眼差しがあった。
ヒカリは『赤毛のアン』が大好きだったのである。
こうなれば彼も矛先を収める方がいいと判断するのは当然だろう。
「えらいすんません」
頭を掻きながら謝罪の言葉を口にした彼はまたもちらりとヒカリを見る。
すると彼女はふんっと目を教壇の方に向けた。
あかん、えらいマイナスしてもうた…。
反省はしたものの、それでもやはり『赤毛のアン』を読もうとは思わないトウジであった。
この時、相田ケンスケは一人の少女に注目していた。
彼女がいつもとは違う。
確かに今挙手した時の腕の勢いや手の伸び方は、まるでアスカのようにピシリと音がしそうなほどの勢いがあった。
しかし、彼は着目したのはそういう見かけの部分ではない。
ケンスケは指をファインダーの形にして、綾波レイの横顔を真ん中に据えた。
どこだ?確かに違うぞ…。
彼は目を細めた。
被写体としての素材はいいのだが、あまりに無表情すぎて写真にならない。
だからケンスケも趣味としての写真の被写体としては彼女を選んでいないのだ。
レイを写すのは商売上の理由だった。
ビジュアル面の理由でレイの写真を買う生徒がいるので彼女の写真を撮っていた訳だ。
ファインダーの中のレイはいつも同じ表情をしている。
瞬きすら写真にとらえられた事はない。
そんな彼女とは違うような気がする。
ケンスケは目を凝らした。
そして、彼はついに見つけた。
笑ってる……のか?
さらにじっくりと観察してみる。
目じりがやや下がり、唇の端もほんの少しだが上がっているような気がした。
うぅ〜ん、本当に合っているのか、この観察で。
自信がなく首を捻るケンスケの頭に国語の教科書がどしんと落ちた。
「いてぇ」
「こら、相田。若い子ばかりじゃなくて、たまには中年女性も見なさい」
先生の言葉に教室中がどっと沸く。
しかし、その中でレイだけは表情を変えない。
いや、厳密に言うと、まったく笑っていなかった。
それを横目で確認して、ケンスケは思った。
なるほど、何にでも笑うってわけじゃないみたいだな。
教壇に戻りながら教師は手を叩いた。
こちらに注目しなさいという先生にありがちの仕草だ。
「今からプリントを配るけど、テストとかじゃないからね」
その言葉にほっとしながら前の席から順にプリントが配られていく。
シンジは渡されたプリントの中身を見ないままに一枚取り、残りを後ろの席に廻した。
そしておもむろにそれを見て、思わず「わっ」と声が出てしまった。
もっともそれは教室の中に起きていたざわめきの中ではそれほど注目を集めない。
プリントにはアスカとレイの書いた感想文が載っていて、その二人の名前と感想文という組み合わせにざわめきが起こったのだ。
黄燐との内容を確認したシンジは慌ててその後も見て自分の感想文はないことに安心した。
「碇君のは悪いけどのせてないわよ。二人のが力作過ぎてスペースがなくなっちゃったの。何なら次回に…」
がたんと椅子の音を立ててシンジが立ち上がった。
いつもは消極的な彼が絶体絶命の危機に自己主張をしたのだ。
「け、けっこうです!」
「あらそう?残念ね。まあ、今回は綾波さんと惣流さんの感想文を読んでもらおうかしら」
ここで教師はほんの少し苦笑した。
こういう場合は書いた本人に朗読させるものだが、この文章を綾波レイが淡々と読むのは彼女には悪いが雰囲気に合わない。
今回はタイミングよくアスカが欠席しているので他の人間に読ませる口実ができる。
だから彼女は洞木ヒカリを指名した。
ヒカリは戸惑いながらもレイの感想文を読んだ。
そしてそれを聞いた生徒たちは一様に驚いてしまった。
あの無表情な綾波レイがこんな感想文を書いたのか。
それはシンジでさえ、いやシンジだからこそ完全に驚いてしまったのだろう。
もしこの場にアスカがいれば彼女もまた同じように思うに違いないと彼は考えた。
その考えにとらわれ、少年はもっと大切なことを聞き流してしまっていた。
いや、その部分をちゃんと耳にしたのだが、彼の頭に浮かんだ光景は前日のアスカとのやり取りだった。
3歳の時、母が口にした言葉と結びつかなかったのはもしかするとレイが朗読していなかったからかもしれない。
それにシンジにはそういう感慨に思いをめぐらす余裕などなかったのである。
何故ならば、アスカの感想文を読むように指名されたのは彼だったのだから。
「え、えっと、あの、僕、ですか?」
「そうよ。碇君が読みなさい」
「そ、そ、そんな…」
いやです、と言えるようなシンジではない。
彼は覚悟を決めて、プリントを手に立ち上がった。
少なくともこの場にアスカはいない。
それだけがシンジの救いだった。
彼は大きく息を吸い込んだ。
その数時間後。
シンジはなけなしの勇気を振り絞ってジオフロントに向かっていた。
その理由は荷物持ちを命じられていたからである。
今日の家事当番はアスカだった。
もちろんジオフロントで彼女はテストだから自分が今日の当番をするとシンジは主張したのだが、アスカは承知しなかった。
決めたことは守らないといけない、などときっぱりと言い切る彼女の姿は数日前とはまったく違う。
いや、喋り口調や態度はほとんど変わっていないので、印象はそれほどの変化は見られない。
今日も家事は当番だから自分がするが食材買出しの荷物持ちはシンジがするのだと、いつもの調子で命令したのだから。
しかし、そこには悪意はまるでない。
面倒だからという理由ならば最初から家事自体を今日はシンジに任せてしまえばいいのだ。
それをシンジにジオフロントにまで来いというからには…。
その理由はアスカにも、そして当然シンジにもわかっていない。
彼女があえて理由をつけるとしたら、リニアや買出し中の退屈がまぎれるから、ということになるだろう。
一緒にいたい、などという面映い感情など今のアスカには欠片も見えない。
周囲の誰もがそのように思っていてもだ。
ミサトももちろん、アスカがシンジと一緒にいたいのだと思っていた。
「あらン、シンちゃん、どうして?」
エレベーターの扉が開いたその場所にミサトがいたのはシンジにとって予期せぬ状況だった。
もっとも彼はジオフロントに襲撃をかけたわけではないので、彼独特の心の準備ができていないというだけのことだ。
「あ、えっと、その、つまり、買出しの荷物持ちに…」
「あら、そう。なるほどね、それでか」
うんうんと仔細ありげに頷くミサトを見て、シンジは軽く溜息を吐いた。
また、わけがわからない風に了解したに決まっている。
「アスカならすっごく不機嫌そうに食堂で待ってるわよ」
「えっ、そ、そうですか」
「今見てきたところ。最初は本を読んでいたみたいだけど」
「わ、わかりました」
約束した時間よりも30分は遅れている。
シンジは慌てて約束の場所に駆けていった。
その後をゆっくりと歩いていくのはミサトだけではない。
その隣にはレイもいた。
「レイも一緒だったのね」
ミサトはとりあえず儀礼上の意味で声をかけた。
このような日常会話の場合、レイが返すのは無言で頷くだけか無視するかいずれかである。
そういう対応をされても腹は立たない。
彼女がそういう娘だと充分認識しているからだ。
しかし、その認識は崩れた。
「本屋に、行ったの」
立ち止まりこそしなかったものの、ミサトは驚愕し傍らの少女の横顔を盗み見る。
そこに微笑を見出すことまではできなかったものの、いつもと違う雰囲気は読み取れる。
返事をしたばかりか、日常会話になっている。
ミサトはさらに話を進めてみた。
「何を買ったのかな?」
「赤毛のアンを全部。重いの」
レイは学生鞄を僅かに上げてみせる。
なるほどその鞄ははちきれんばかりに膨らんでいる。
確かに重そうだ。
つい先日ネルフの購買部でミサト自身がアンシリーズを購入したばかりである。
文庫本とはいえ、10冊ともなるとそれなりに重いことは実感しているのだ。
しかし、「重いの」である。
本を買ったということも驚きだが、自分の感情を表現したことにはもっとびっくりした。
大怪我をしても「痛い」と言わないレイが「重い」と言ったのである。
これが驚かずにいられようか。
ミサトは「そう、重いのね」と小さく返し、その後は無言で歩き続けた。
二人が食堂に到着すると、アスカがいつもの調子でシンジに怒鳴っていた。
椅子に座ったままの彼女に対し、シンジはまるで教師に叱られている生徒のようにその脇で立ち尽くしている。
「言い訳しないでよね。学校終わってからすぐに向かってたらもっと早く着いてるでしょうが。
それが何?今何時?どう考えても37分24秒は遅刻してるわよっ。そんなことで使徒に勝てると思ってんの?」
そこでいつもの“アンタ馬鹿ぁ”が出てアスカは唇を閉ざした。
さあ、言い訳してくるか、それとも謝るか。
いずれにしても反撃の準備はできている。
しかしシンジは彼女の意表をついて両方をミックスしてきた。
「ごめん。綾波が本屋に寄るって言ったから、一緒に着いていった」
「な、何ですってぇっ」
準備していた言葉などもう不要だ。
眦を吊り上げたアスカはただ思ったことをすべて言葉にしていった。
「アンタは何してんのよっ。荷物持ちなんて男のすることじゃないでしょうがっ」
「も、持ってないよ。本は全部綾波が持ってるし」
だいたい自分に荷物持ちを命じたのは当のアスカだったではないか。
その言葉は流石に喉元で押し留めたシンジである。
いくら正直に喋ることをモットーにしたとはいえ、明らかな爆弾を破裂させることはない。
さすがのシンジでもその程度の判断はできるのだ。
「ふんっ、そういう問題じゃないでしょっ。アンタ馬鹿ぁ?寄り道したことを責めてんでしょうが」
そういう問題を真っ先に持ち出したのは他ならぬアスカ本人ではないか。
話を混ぜ返す勇気も洒落っ気もシンジにはない。
だから彼は素直に答を返すだけにした。
「えっと、寄り道っていっても本屋は駅前だし、ほら、アンの本はまだ残ってたからって綾波に朝伝えただろ」
昨日、アスカがシリーズ全冊を購入してもまだ店頭在庫は残っていた。
だからそのことをレイに伝えるようにシンジはアスカに命令されていたのである。
リツコには買った本屋の名前を連絡したアスカだったが、その時既にレイは彼女の元を辞していたのだ。
その時、翌日のシンクロテストのことを逆に伝えられ、アスカは登校するシンジにレイへの連絡を命じたのだった。
約束したからには破るわけにはいかない、とその時のアスカは表情も変えずに言ったのである。
「だから、何よっ。アタシが言ったのは伝えるだけで、お買い物のお手伝いをしなさいなんて一言も言ってないわよっ」
「た、確かに言ってないけどさ。つい…」
その時である。
レイとミサトが二人の近くに歩み寄ってきた。
アスカは首を曲げじろりとレイを横目で睨みつける。
敵意丸出しの視線を受けているのだが、彼女は異ともせずに微笑を浮かべていた。
そしてアスカの真正面まで進み出ると、にっこりと微笑んだのである。
「私、あなたの感想文、好き」
くわっと目を見開いたまま、アスカは言葉すら出すことができなかった。
彼女だけではない。
シンジも、ミサトも言葉を失った。
その会心の微笑だけでなく、こともあろうに“好き”である。
食堂にいたみなが唖然としてしまうのは当然だろう。
チルドレンたちがまた子供っぽい諍いを起こしていると見物していた者の中には、マコトとシゲル、そして冬月までもがいた。
彼らも含めて全員がレイの言葉に驚いてしまったのだ。
その中でアスカは一番先に復活できたのは、順番ではなく彼女の利害関係に起因する。
「ちょっとアンタっ!アタシの感想文、読んだの!」
レイは首を横に振った。
微笑をそのままに。
「な、なにっ?読んでないのにどうしてそんなこと言うのよっ」
「聞いたの。碇君が読んでいるのを」
アスカの反応はとてつもなく素早かった。
椅子をがたんと後にひっくり返し、傍らのシンジの胸倉を掴むが早いか彼を自分の方にぐいっと引き寄せたのである。
あと5cm引き寄せればキスできるくらいに。
「アンタ、これってどういうことよっ。えっ?どうして、ファーストがアタシの感想文の内容をっ。アンタが読んだんですってぇ?一体全体、アンタって何考えてんのよっ」
シンジの鼻の周りに興奮したアスカが飛ばした細かい唾がちらほらとふりかかる。
その時、彼は詰問されている内容よりも何よりも、すぐ近くでせわしなく動くピンク色の唇が気になって仕方がない。
このままいきおいでキスしてしまってはいけないだろうか。
あの柔らかそうな唇にちゅっと、いやぶちゅっと、いやとにかくどんな風でもいいからキスを!
危うくシンジが暴走しかけそうになった時、本能的に身の危険を察したのかアスカが彼の胸倉を掴んでいた手を急に緩めた。
「さあ、話してもらいましょうか。どうしてこの女にアタシの感想文を読んだのよ、えっ?」
ああ、惜しかった。
思わず知らず、そんな感想を抱いたシンジだったが、すぐに直面している問題に意識が移った。
アスカは怒っているのだ。
すぐに釈明しないと立場がなくなる。
「あ、あのさ、読んだんじゃなくて読まされたんだよ、うん」
相変わらず情報量不足の発言である。
いささか先走る傾向にあるアスカがその言葉尻を捉えないわけがなかろう。
「ファーストに読まされたってことぉ?アンタね、どうして頼まれたからってほいほい読むのよっ」
「た、頼まれたんじゃなくて、当てられたんだよ。あ、えっと、指名されたって言ったらいいの?」
「はぁ?だからファーストに指名されたんでしょうがっ。それで喜んで読んだってことでしょっ」
「よ、喜んでなんかないよ。あ、それに綾波じゃないってば」
「は?」
アスカが眉を顰める。
ようやく自分が勝手に構築した図式におかしな点があることに気がついたのだ。
そもそも教師に提出した彼女の感想文をシンジが読むことができるわけがないではないか。
そこでアスカはこれまでのことは白ばっくれることに決めた。
「さてと、冗談はここまでにしましょ」
アスカは腕組みをしてシンジを見上げた。
いかにもすべてがわかってた上でシンジをからかっていたという風情を演出している。
もっともそれを額面通りに受け取っていたのはレイだけだったのだが。
「つまり先生が感想文を読めってアンタを指名したわけよね。はんっ、どぉ〜して拒否しないのよ」
「え、だ、だって、僕が読まなくても別の子が…」
アスカの瞳がちらちらっと動いた。
そのコンマ5秒くらいの間に彼女はクラスメートたちの顔を思い描いたのだ。
「はっ、僕よりも洞木さんの方がいいと思います、ってどぉ〜して言えないの?まったく気が利かないんだから、馬鹿シンジはっ」
やった、それなら切り返しができると喜んだシンジが口を開こうとする前にレイが3歩前に進んだ。
そこはもう最前線であるが、彼女はそのようなことを異ともしない。
「無理。洞木さんは、私のを読んだから」
その言葉を聞き、アスカはうっと言葉を飲み込んだ。
アンタは関係ないんだから黙ってなさいよ、と怒鳴るつもりだったのだが、思い切り関係があるではないか。
どうやらシンジが読むことになったのはどうしようもない事情があったようである。
それにヒカリが読むことができないのであれば…、他の誰よりも、まだシンジの方がマシというものだ。
となれば、このまま戦っていても形勢は我に味方せず。
瞬時にそう判断したアスカは別の戦法に切り替えることにした。
話を変えるのである。
「そっか、ヒカリがアンタのを読んだのね。じゃ、アタシにも読ませてもらえるかしら。アタシのを読んだってのに自分のを読ませないなんて不公平よねっ」
「いや。恥ずかしい、から」
アスカは目を剥いた。
恥ずかしいとはどの口から出てきたのか。
これまでの綾波レイからは考えられない変化である。
これにはシンジも驚き、先ほど変貌に気がついたばかりのミサトでさえ思わず口笛を吹きたくなりたい気分にさせられた。
そして、会話を聞いていた者たちの中で冬月一人だけは目を細め、これから後の成り行きはすべて見届けようと決めている。
その上であの男との話の題材にしようと考えたのだ。
頬を染めるとまではいかないまでも幾分目を伏せ加減というレイの面持ちを見て、アスカは呆れてしまった。
そして、いくらか意地悪をしたくなったのである。
「あ、そ。わかった。でも、却下。じゃ、シンジが読みなさいよ」
「ええっ、どうして僕がっ。読みたいなら僕の持ってるプリントを読みなよ。二人一緒に載ってるんだから」
「だ、か、ら。アンタがそのプリントを読みなさいって、アタシはそう言ってんの。アンタ、アタシのを読んだんでしょ。ついでにファーストのも読みなさいってば」
「わ、わけわかんないよ。何だよ、その変な理屈」
「アンタね、寛大にもそれで許してあげるって、このアタシが言ってんのよ。アタシの許可もなく、アタシの感想文を読んだんでしょうがっ。
先生に指名されたってことでも、アタシの腹だちは収まんないの。アタシのを読んだんでしょっ、ファーストのも読みなさいよ!」
これで一石二鳥だ。
アスカは内心ニンマリと笑った。
シンジに復讐し、レイをもて遊ぶことができる。
ふふん、馬鹿シンジをたぶらかすファーストめ。
ここが食堂でよかったわよね。
結構人がいるもん。
ここで感想文を聞かれて、恥をかくがいいわ。
…って、ファーストのヤツ、出来はいいって先生に言われてたっけ?
ま、いいわ。よくわかんないけど、読まれると恥ずかしいみたいだし。
アスカはレイが“照れくさい”の意味で“恥ずかしい”と言っているとは知らない。
「か、勘弁してよ」
「そう、碇君。読んじゃ駄目」
「ほ、ほら、綾波だって、読むなって言ってるから…」
「はんっ!却下。だいたい、アンタ、ファーストに付き合って遅刻してきたんじゃない。その罰よ、罰」
「ば、罰って…」
「読まなかったら、アタシ、もう晩御飯なんか作ってあげないから!」
その瞬間、ざわめきとも嘆息ともつかない音が食堂にあふれた。
明らかにアスカが家事をしていたということに居合わせたみんなが驚いてしまったのだ。
それほどに彼女のイメージは家事などせずにシンジに何もかも押し付けているというものだったということになる。
そういった反応にアスカは眉間に皺を寄せた。
それを間近で見たシンジは拙いと本能的に察知する。
このままではアスカが怒り狂い、本当に家事を放棄してしまいかねない。
この数日、物凄く幸福だったではないか。
今、恥をかくことにばかり気をとられて、日常の平和を逃してはいけない。
そこで彼はいつもの呪文を唱えたのだ。
逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だっ。
「よ、読むよ!僕っ!」
シンジは慌てて鞄からプリントを出すと、ご丁寧にも教室で読むときと同じ姿勢を作った。
自分の希望には目もくれず、感想文を読もうとするシンジにレイは絶望し恨みの言葉を漏らす。
「酷い。読むのね」
「ふふんっ、さすがはアタシの馬鹿シンジね。ちゃんと読むのよ」
思い通りに計画が進行し、アスカはちょっとだけ口が滑った。
いや、言葉を端折ったといった方が正しい。
アタシの言うことはよく聞く馬鹿シンジね、の中間部分を抜いただけだが、それが彼を暴走させたのだ。
彼女の所有物にされ、かっと舞い上がってしまったシンジは声を張り上げてプリントを読み出したのである。
「『赤毛のアン』を読んで。綾波レイ。この小説を読んで、私は…」
彼の声は食堂中に響き渡った。
それが人類の未来に大いなる影響を与えるとは露ほども知らず。
第四章 − 了 −