二人の男はもう10分以上無言のまま対峙していた。
ネルフ日本支部司令は顎杖とでも形容すればよいのだろか、いつものポーズで机に向かっており、ネルフ日本支部副司令の方はその2mほど前に後ろ手をして立っている。
サングラスの下に隠されている目を司令は微妙に動いていた。
彼が机の上に置かれたプリントを何度も読み返しているということは副司令にはすぐに見て取れていた。
但し、それで彼が何を思っているのかまでは読み取れない。
おそらく……と、冬月ゴウゾウは思った。
碇ゲンドウの心は大きく揺れているに違いない。
彼の、いや我々の計画は大きく揺れ動いているのだ。
計画を立てた当初から恐れていたことが今事実として我々に突きつけられている。
もし、彼があの場にいたならどうしただろうか。
黙って聞いているようなことはせず、息子の朗読を止めさせていたかもしれない。
もしかすると激情のままに息子を殴りつけていたやもしれぬ。
しかし、そのようなことをしていたら、彼女は…綾波レイはどういう反応を示しただろうか。
冬月は食堂での出来事を思い出していた。
「先生、何を笑ってるのだ?」
「ん?笑っておったか。なるほど、そうか」
ようやく会話がなされたが、その二人の言葉は部屋の隅に吸収されたかのように消えていく。
部屋中を照らし出すことを目的としていない間接照明は机の周囲だけを照らしている。
「ああ、笑っていた。わしがおかしいか」
「いや、君のことじゃない。彼女のことだ。君に見せたかったよ」
「そのことはもう聞いた。照れながら、誇らしげに、微笑んでいた…だと、ふん…」
ゲンドウは鼻で笑ったが、その勢いは弱く、彼の心の動揺を指し示している。
綾波レイが“心”を持ち始めている。
それはここ数日、彼らと赤木リツコを含めて三人で何度も交わされてきた議題だった。
ゲンドウはかなり追い込まれてきている、と冬月は感じている。
そして、冬月は既に計画を放棄しようと考えていた。
何故ならば、碇ユイはもう復活しているからだ。
いや、復活し始めているといった方が正しい。
綾波レイというクローン人間の身体の中で彼女の意識は深層心理下に存在している。
そして、その復活が遂げられた時には、綾波レイは一個の人間として確立され、碇ユイは彼女を知る者の記憶の中にしか存在しなくなるだろう。
つまりレイが“心”を持った時点で彼女はユイのダミーではなくなるわけだ。
命令や深層心理に盲動的に従うこともなく、彼女は自分の心で行動するだろう。
それが普通の人間である。
そうなればユイの意識の入り込む隙間はなくなってしまうであろう。
いや、無意識に潜在意識としてレイを動かすことはあるかもしれないが、それはあくまでレイ個人のパーソナリティーというものである。
なんのことはない。
冬月自身がサルベージのための入れ物としてユイのクローンを創った事が、即ち彼女のサルベージを実行していたことに他ならなかったわけだ。
但しこの場合、サルベージが完了した瞬間に碇ユイという個体が再生する可能性は零となるわけだが。
冬月はそれでよいと思うようになった。
そもそも彼には碇ユイの完全サルベージを狙うというゲンドウの計画に乗せられてしまった感が強かったのである。
もっともゼーレの目的である人類補完計画になど冬月もゲンドウも興味はなかった。
ただ素知らぬ顔をして彼らに賛同しているわけだ。
使徒戦に勝利するにはゼーレの力が必要であり、そしてユイの個体の復活にはサードインパクトが不可欠である。
そのためのネルフなのだ。
彼ら二人にとっては。
碇ユイのサルベージという目的までは知らないが、補完計画については承知している数少ない人間の一人、赤木リツコがゲンドウの執務室を訪れたのはそれから30分ほど過ぎていた。
今日は帰宅しようと市街地へのリニアに乗っている時に戻って来いと指令を受けたのだ。
これで補完計画を知る者はすべてこの部屋に揃ったことになる。
リツコは冬月に渡されたプリントに目を通した。
そして黙りこくっているゲンドウに代わって冬月に意見を求められたのだ。
彼女は一時も躊躇せずに言葉を発した。
「立派な感想文だと思います。レイの、ものは。アスカのも読みますか?」
「いや。そっちはいい」
このメンバーでの会合ということは確認するまでもなく綾波レイについてに違いない。
「何故だ?」
サングラス越しにずっと睨みつけられていることはリツコにはよくわかっていた。
そしてその眼差しの中に少なからず憎悪の類が含まれていることも。
「何がでしょうか?」
二人きりならばもう少し砕けた調子で返すのだが、今は冬月も同席している。
リツコは丁寧な言葉遣いで言葉を返した。
「何故、その本を渡した」
「『赤毛のアン』ですか?あえて言うなら偶々です」
「偶々。偶然というわけかね」
冬月に頷いてから、リツコは葛城ミサトがその本を持っているのを見て、単純にそれならばよかろうと選んだと話した。
その説明に冬月は納得し、ゲンドウはふんと鼻を鳴らした。
「拙かったのでしょうか」
「ああ、そうらしい。もっとも、それは君の責任ではないがな」
冬月は彼の責任だと言わんばかりにゲンドウを見下ろした。
その態度が腹立たしかったのだろうか、彼は吐き捨てるように命じた。
「もういい。レイからその本を取り上げろ」
「命令なら。でも…」
リツコは笑うつもりはなかったのだが、自然に微笑みを浮かべてしまった。
「取り上げても、また買うでしょう。その度に取り上げますか?」
「ふん、レイに伝えろ。もう本は読むなと」
その言葉を聞き、冬月は長く細く息を吸った。
リツコは薄い笑みを残したまま、サングラスの中の瞳をじっと見つめる。
「理由は?」
「問題ない。とにかく、命じればよい」
「無理ね。今のレイならば、必ず、理由を要求します。例え命令であっても」
ゲンドウは黙り込んでしまった。
嫌な癖だと、リツコは思う。
都合が悪くなると殻の中に閉じこもろうとする。
こういうところは親子で似るのだろう。
息子である碇シンジにはその癖が顕著に見られるが、ゲンドウもこういう風になる時があるのをリツコは知っていた。
おそらく、サングラスを取り、髭を剃ってしまえば、親子の容貌の相似性がかなり明らかになるのではないだろうか。
「ゲンドウ、無理ではないかね。ならば、いずれ彼女に学校へ通わせることも禁止せねばならんぞ」
冬月の指摘にゲンドウは髭の奥で唇を噛んだ。
まさしくその通りだった。
どうして自分は綾波レイを中学校に通わせる気になったのか。
その発端を思い起こすと、彼は忸怩たる気持ちとなってしまう。
ひとつには肉体的に成長したレイを自分のそばに置きたくなかったのだ。
彼は自分でもレイに対する心情がわからなくなってきている。
愛する妻のクローンなのだから、女に対する愛情を抱いていてもおかしくはない。
しかし、時にはレイに対し、別の感情も持ってしまう。
それは幼児の折にシンジへ抱いたものと酷似していた。
あのシンクロテストの事故の折、真っ先に飛び出して火傷や怪我を顧みずにレイを助けようとしたのは…。
公園のジャングルジムから、しかもそこはたった2段目くらいだったが、そこから手を滑らせて落ちた幼いシンジの元に突っ走った時と同じではないか。
あの時、ユイはずっと彼をからかい続けていた。
あんなに敏捷にあなたが動くなんて知らなかった、と。
朗らかに笑う妻にその日のゲンドウはそっぽを向いて無愛想を装っていた。
だが、その内心は自分にもこういう感情が生じたのだと驚いていたのだ。
子供に対する愛情というものが。
レイを学校に行かせたのは、そしてあの集合住宅に住まわせたのは、間違いなく自分から遠ざけるためであった。
もしかすると、妻にそっくりな、しかも若々しい肉体に欲情を覚えてしまうのではないかという不安。
それはずっと彼の心を責め続けていた。
仮に開き直って彼女を手にかけても、レイは反抗はしないだろう。
唯々諾々とゲンドウに従うに違いないと思っていた。
その上で、自分の目的を果たすように動くことも可能だった。
しかし、彼にはそんなことは到底できない。
そのようなことをすれば、絶対に妻は帰ってこないだろう。
理由はわからないが、彼はそう確信していたのだ。
しかし、男の本能が疼くことは時にある。
もし、本能的にうら若き娘を襲ってしまったら?
赤木ナオコの時は明らかに計画的に意図して起こした行為だった。
碇ユイについても、その始まりはその意図を持って接触していたが結局は合意の上での行為となった。
しかし、赤木リツコについては…。
ゲンドウはリツコを見据えた。
何故、彼女と関係を持ったのか。
結果的にはそれは彼らの計画を遂行する上で最高の選択となったのだが、その時の彼にはそういう目的はまったくなかったのだ。
ただ本能的に、衝動的に、打算的な部分を度外視してゲンドウはリツコを抱いたのだ。
そういう自分の本能を恐れ、彼はレイを遠ざけた。
さらにそれはレイに“心”を持たせないための処置でもあったはずだ。
しかし、それならば、学校へ行かせることはなかったのである。
冬月やリツコは、そこの矛盾点がゲンドウの父親の部分を示しているのだと確信している。
もちろんそのことを言葉にしても彼は否定するだろう。
子を持ったことがない冬月にも、父の記憶がないリツコにも、何故かしらそれを父性の表れと断言できた。
「とにかく、本を取り上げろ」
「それを司令の命令とレイに伝えてよろしいんですね」
リツコは真っ向からゲンドウを見据えた。
返事次第では彼の命令を拒否するつもりであった。
が、しかし、彼は力なく頷いたのである。
それを見て、冬月はわずかに溜息を吐いた。
「もう!ここはおねぇ〜さんの奢りだから、お金なんか出さなくていいのよ」
「でも、私、お年玉がまだあるから」
「アンタ馬鹿ぁ?」
アスカが発言した途端にさっと反応したのはシンジであった。
しかし、彼女が顔を向けていたのは逆サイドに座っているレイに対してである。
彼はアスカがレイの事を「アンタ馬鹿」と言ったことがあったっけ?としばし悩んだ。
「これはね、ミサトのお年玉代わりなのよ。自分でお金出したら意味ないじゃない!」
「でも、葛城一佐はお金がないから。赤木博士は一万円くれたもの」
はっきりと指摘され、ミサトは引きつった笑みを浮かべた。
そこは屋台のラーメン屋であった。
木製の屋台の隣に外車を乗りつけた割には、現金を持っていない客である。
屋台の親父にこっそりと「カード使える?」とネルフカードを見せたミサトだったが、きっぱりと断られ財布の中身と相談したほどだ。
「だ、か、ら。一人一万円じゃなくて、一人ラーメン一杯で我慢してあげてんじゃないのよ。
それとも、レイ?アンタ、意地でも一万円を要求するわけぇ?まっ、それならそれでアタシたちだって…」
今すぐにでもレイに同調しかねないアスカに怯えたミサトは快活に作り笑いをした。
「もう!レイったら冗談が好きなのね。はい、親父さん、これでお釣りある?」
財布からすべてのお札を出し、彼女は親父に渡すと心の中で足りてくださいと願った。
ダッシュボードの中に小銭が入っているはずだが、それを取りに戻るような真似はしたくない。
「60円のおつりだぁね。どうする、お姉ちゃん?」
親父の視線の先には屋台の隅に置かれた募金箱。
使徒災害で苦しむ子供たちへお釣りをこちらへお願いします、と書かれた箱を見て、ミサトの顔が引きつる。
60円あれば、食堂でコーヒーが一杯飲める。
さすがに自動販売機までにはカード対応はされていないのだ。
しかし、ミサトは見栄を張った。
「いいわぁ。募金しておいて」
「ありがとよ。お姉ちゃん、美人だねぇ」
「は、はは、ありがとう」
親父の手で募金箱の中に茶色の貨幣が6枚入るのを見て、ミサトは内心がっくりときた。
仕方がない、明日はマコトにでもコーヒーを奢ってもらおう。
……というか、ここんとこ毎日ご馳走してもらってるような気がするけど。
苦笑する彼女の目の前で募金箱に次々と銀色の貨幣が放り込まれる。
真っ先に100円を入れたのがアスカで、慌ててシンジが同じ100円玉を続けて入れ、そして最後にレイがなんと500円玉を入れたのである。
それを見て、ミサトは顔を強張らせた。
こいつら、今度死ぬような作戦立てたろかい!
「くわっ、ちょっとファースト!アンタ、入れ過ぎでしょうがっ!」
「気持ち、だから」
「ちょっとシンジ、アンタ、1000円入れなさいよ」
「えっ、僕?」
「仕方ないでしょ!アタシ、もう100円玉ないんだもん」
「で、でも…」
「家に帰ったら、即行で返すわよ!負けてたまるもんですか!」
「仕方ないなぁ」
もはやアスカには積極的に逆らう気などないシンジは、寧ろここは男ぶりを見せようと止める親父さんを振り切って箱の中に1000円札を入れた。
「おいおい、嬢ちゃんたち、そこまで…。よっしゃ、まだ食べれるよな、みんな」
親父さんは今度は俺のおごりだと、みなにチャーシューメンを作りはじめた。
「そっちの嬢ちゃんはチャーシュー抜きだよな。その分、ねぎとにんにくを大盛りにしてやらぁ」
「ありがとう」
ぼそりと礼を言い、微笑むレイ。
そんな表情は普通の娘となんら変るところがない。
ミサトまでがラーメンを店主に奢ってもらい、彼女は得をしたのか損をしたのかよくわからなかったがとりあえず2杯目のラーメンに舌鼓を打った。
その後、ミサトの車でレイを団地まで送り届け、そこからマンションに向かう途中で言い争いが始まった。
最初は今日の家事当番をずらすかどうかという事であった。
アスカは当然といった口調でこう言ったのだ。
「明日は、ハンバーグを作るからね。ミサトはちゃんと帰ってくる?」
「さあね、使徒にでも聞いてくれる?」
「はぁ?あのね、使徒が出たらアタシだってのんびりご飯なんか作ってられないじゃない」
「はははっ、そりゃそうね」
助手席のアスカとミサトが笑いあうと、後部座席から暗い声がした。
「ちょっと待ってよ。明日は僕の当番じゃないか」
「はんっ、今日はラーメン食べたんだから、スライドして明日はアタシ」
「そんなの駄目だよ。決まったとおりにしなきゃ」
「アンタ馬鹿ぁ?どうしてそ〜ゆ〜風になんのよ。臨機応変って言葉知らないの?」
「だって、今日のお弁当、アスカが作ってくれたじゃないか。だからスライドするなんておかしいよ」
「あったま固い!はっはぁ〜ん、アンタ、アタシの料理が食べたくないってことぉ?」
「ち、違うよ!ただ、明日は僕が親子丼っていうのをつくろうかなって」
「はぁ?親子って何よ」
「へ?親子って…えっと、中には鶏肉とたまねぎが入ってて、それで卵を…」
横で聞いてるとまるで漫才である。
快活に笑ったミサトは親子丼の説明をする。
卵と鶏肉で親子だというネーミングに、言い出したシンジでさえ「へぇ〜」と感心する。
「アンタね、日本人の癖にそんなことも知らなかったの?」
「うっ、だ、だって、考えたこともなかったから」
「はっ、アンタらしいわねっ。まっ、その親子丼とやらは明後日にして、明日はこのアタシの作る…」
アスカが何を言ったか、シンジにはまるで聞き取れなかった。
おそらく、ドイツ語。きっと、料理の名前。わざと、早口。
「おっ、いいわね、それ!ドイツのビアガーデン、思い出すわねぇ」
「9歳の子供連れて、ビアガーデンに行く誰かさんはもりもり食べてたわよね。あれ」
「白ソーセージ、食べたいわねぇ。日本のじゃなくて、ドイツの作りたてのを」
「さすがにあれはアタシには作れないわよ。レシピがあっても無理。材料がないもん」
「だよね。ああ、考えてたら、食べたくなってきたわン」
アクセルを踏むミサトは滑る様にルノーを走らせる。
彼女にしては安全運転だが、それでも制限時速を少しオーバーしていた。
「よし!明日はこの私が特製カレーを作っちゃう!」
ミサトには学習機能がついていないのだろうか。
以前そのおぞましいカレーらしきものを作った時、彼女以外の誰も食べることができなかったのを記憶していないようだ。
もちろんその記憶が今も生々しいシンジは血相を変えた。
「だ、駄目です!」
「だって、二人とも自分が作るって喧嘩してるし。それに私、カレーが食べたいのよねン」
「さ、さっきは白ウィンナーって」
「だって、作れないし、売ってないもん。だから、カレー」
きっぱりと言うミサトはカーブに合わせてゆったりとハンドルをきる。
シンジの様子を見て、何かあると察知したアスカは首を伸ばして小声で彼に問い質した。
「ちょっと、ミサトのカレーって問題あるの?」
「あるよ、ある。ものすごくある。僕、死にたくない」
あのシンジがこれほどに言うのだ。
紛れもなくそのカレーはとんでもない代物なのだろう。
「明日はカレー!それっきゃ、ない!」
「わかったわ、ミサト。アタシとシンジでカレーを作る。それなら、問題ないでしょっ」
「ん?いいわよ、私はカレーが食べられたらそれでいいのン」
あっさりと自分が作ることを放棄したミサトは心の中で呟いた。
はいはい、不味いカレーで悪うございましたわねってんだ。あの美味しさが何故わからないのよぉ。
ふふん、まっ、これで他愛のない喧嘩はおしまい。見事でしょ、私の作戦は。
でもこの喧嘩って…姉弟喧嘩じゃないわよね、。
アスカの方が誕生日は遅い筈だけどどう見てもアスカがお姉さん…って、もしかして夫婦喧嘩?あらららら…。
ミサトは横目でちらりとアスカを見た。
助手席の彼女は窓枠に肘を置き欠伸をしている。
その仕草はどちらかといえば子供っぽく、ドイツで初めて出逢った時よりも幼く見えた。
あの頃のアスカは9歳にもかかわらず、精一杯背伸びをしていた。
ミサトが舌をまくほどの専門知識を持ち、エヴァンゲリオンのパイロットであることを誇りにしていたのだ。
子供の癖にそんな態度で可愛げがない彼女とは最初は馴染めなかったのだが、彼女の家庭環境を知りやがて姉のような気持ちで接するようになった。
彼女はやがてあの歳で大学に進んだので交際期間は短いものであったが、それでもそれなりに仲良くできたと思っている。
だからこそアスカが来日した時に自ら迎えに行ったわけで、その時にはすでに彼女も同居させられればいいなと考えていたのだ。
既に彼女の家にはアスカと同い年の少年が住んでいたのだが、男性という危険物としてはシンジを認識していなかった証拠だろう。
ミサトにとってシンジはあくまで弟のような存在であり、もし彼が女性に対してけしからぬ行動にでるような少年だったならアスカを住まわせることなどなかった。
だが…、自分に対しては何も仕掛けてこなかったシンジがアスカにキスを仕掛けようとしたことを彼女は知っている。
その寸前にアスカに気づかれて未遂に終わったので、ミサトが行動を起こす必要はなく、そのまま少し悔しい気持ちで眠ったのだが。
どうしてこんなナイスバディのお姉さんにはこれまで目もくれずに、金髪碧眼の生意気な小娘の方にいきなり?
ふぅ〜ん、シンちゃんって金髪好きなんだ。
でも、リツコにはなぁ〜んにも感じてないみたいだけどね…ってことは、白人好きとか?
ま、男には何の興味も持たないリツコだし。
加持にちょっかいかけられても全然平気なんだもんね。
あいつったら、ずっと独り身でいるつもりかしらねぇ。
私は…。
ま、いっか。
ミサトは直面しないといけない問題から目を背け、最後のカーブをゆったりと曲がった。
リツコは苦々しげな表情でコーヒーを啜った。
いささかぬるくなってしまったが、それはいつもの彼女に似ず電話をかけるのを躊躇っていたからである。
明日、持っている本を全部ジオフロントの司令に提出しろと指示するだけのことだった。
それが部屋に戻り、レイの携帯に連絡するまでに10分かかってしまったのだ。
コーヒーを飲んでからと思って、しばらくして淹れたものに口もつけず机の上に置いたまま。
カップからわずかに立ち上る湯気を見つめ、彼女はふっと笑った。
何を躊躇う。
その結論は今更考えるまでもなかった。
これまではただ機械的に指示を与え、その指示に彼女は「了解」とだけ応え、きちんと履行する。
しかし、もうそうではない、筈だ。
それが容易に推測できるからこそ、リツコは躊躇していたのである。
司令を悪者にすれば簡単だ。
彼の命令で小説を読むことが禁止されたといえば自分には傷はつかない。
しかし、愛する男を悪く思われたくはない。
それに、もし自分がそう伝えたことをゲンドウが知れば、さらに彼は悪い感情を彼女に持つだろう。
愛情の欠片くらいは持っているかもしれないが、彼が自分を抱くのは、欲望と計画遂行のため。
つまり亡き母親と同じ扱いをされているというわけだ。
そして、もうひとつ。
レイにも悪く思われたくはない。
その思いがリツコには不思議でならなかった。
あんなものはいくらでも替えがある。
再生不能となれば処理をし、次の綾波レイを出せばいいだけのことだ。
幸いにも今まで彼女はそれをすることはなかった。
生きている人間に処理をする。
綾波レイは魂の入れ物に過ぎない、替えはいくらでもあると思ってはいても、人間の形態をしているのだ。
しかも、彼女は人間だ。
“心”を持たない機械人形であればまだしも、ただ“心”が他の人よりも発達していないだけ。
傷つけば血を流すし、そのうち涙も流すようになるに違いない。
そんな彼女を処理できるのか?
あの水槽にうようよしている綾波レイ予備軍ならばきっと消去ボタンを押すのに何の躊躇もなくできるだろうが。
あんなものを作った冬月副司令もリツコがその存在を知ってからはまったくあの場所に寄り付きもしない。
もしかするととんでもないものを作り出してしまったと後悔しているのかもしれない。
フランケンシュタイン博士の苦悩、だろうか。
その小説を読んだことはないが、話自体はリツコでも知っていた。
レイに生理が来ないという報告を受けたときの冬月の表情は暗かった事を思い出す。
子孫を残せない人間、いや生物を作り出すというものはどういう気持ちなのだろうか。
そういう意味ではエヴァンゲリオンとレイは同類なのかもしれない。
しかし、その二者はまるで違う。
形態のみならず、レイには可能性がある。
“心”を手に入れた彼女は、そのうちに、心が充足された後には、女になるかもしれない。
その可能性を否定はできないのだ。
そして、リツコの勘はその考えが正しいと示している。
そうなれば、ゲンドウはレイを求めるだろうか。
リツコは冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干す。
また、堂々巡りをしている。
小さく漏らした溜息はすぐに虚空に消え、リツコは受話器を手にした。
チルドレンの携帯電話の番号は短縮化されている。
ボタンを3つ押せば、すぐに繋がるはずだ。
彼女は戸惑う自分を振り切って、人差し指を素早く動かした。
応答を待つその数秒が長く感じられ、リツコは軽く唇を噛んだ。
しかし、すぐにいつもの素っ気無い声が耳に入ってくる。
「はい」
「レイ?」
こんな無味乾燥な返事をするのは彼女以外にはありえないのだが、リツコは聞き返さずにはいられなかった。
再び先ほどとまったく同じ返事が返ってくる。
そしてしばしの静寂が到来し、普通の者ならば「もしもし」と言ってくるだろうがレイはそんな真似をせずただじっと待っているだけだ。
その沈黙に耐えかね、リツコは言わずもがなの言葉を口にする。
「私。わかる?」
「はい。赤木博士」
感情が混じらないその言葉はいつものレイである。
リツコは小さく咳払いをしてからいきなり本題に入った。
「レイ。持っている本をすべてジオフロントに持ってきなさい」
いくらか早口になってしまった。
だから相手に伝わったのかどうか、リツコはすぐにわからなかった。
レイの沈黙は何を意味しているのか。
普段ならば何かを伝えればすぐに「了解」と返事がする。
たっぷり10秒ほど経過してから、リツコがもう一度宣告しようとした時だ。
レイの声が聞こえた。
「本をどうするの?」
了解、ではなかった。
疑問を返してきたのは初めてである。
だが、リツコもこの質問に対する答は用意していた。
「あなたに本は不要だと判断したの。だから処分するのよ」
「あれは、私のもの。私のお金で買ったもの」
「小説はエヴァのパイロットには…」
「誰?」
リツコのこじつけを遮って、レイは問いかけてきた。
誰?というのはそれを命じたのは誰か、ということだろう。
「私よ」
すっと言葉が出てきてしまった。
リツコは苦笑した。
やはりこうなってしまうのか。
しかし彼女にはそれがゲンドウの命令だとどうしても言えなかったのである。
頭の中で「無様ね」と自分を蔑みながらも、愛する男を悪い立場に追いやれない。
そんなリツコは自分を悪者にしようと決めたのだが、残念なことにそれはレイに伝わらなかった。
「嘘」
リツコは息を呑んだ。
「赤木博士は私が何を買うかわかっていてお年玉をくれた。だから、嘘。誰?」
どう答えよう。
後で調べると駄目だということがわかった、などという言い訳で通用するだろうか。
いや、ここは言い訳をせずに、命令をすればいいのだ。
そんな簡単なことに彼女はようやく気がついた。
「どうでもいいから、明日、本を持ってきなさい」
リツコはいきなり受話器を置いた。
あの感触では向こうにはかなり大きな音が響いたことだろう。
レイは今どうしているだろう。
これがアスカならば腹を立て携帯電話を床に叩きつけているかもしれない。
まあ、いい。
賽は投げられた、というが、もうその目まで出てしまっている。
おそらく明日からレイのリツコを見る目が違ってくるだろう。
無関心から怒りに。
これからの対応が殺伐としたものになりそうだと、リツコは深く溜息を吐いた。
明日の夕方、レイを顔を合わすのが気が重い。
リツコはコーヒーをもう一杯飲もうと立ち上がった。
その翌朝、アスカは元気一杯に教室に入ってきた。
「グゥテン・モォ〜ゲンッ!」
その声が向けられた洞木ヒカリ以外の生徒たちもびっくりして扉の方を見たほどだ。
最もその時に声がした位置に立っていたのは彼女に続いて入ってきたシンジである。
アスカ本人はさっさと親友の席を目指して駆けていってしまっていたのだ。
一斉に自分に向けられた教室中の視線を受けて、彼は少し背筋を伸ばし、どぎまぎとした愛想笑いを浮かべながら、「おはよう」と言う。
挨拶されたからには返さないと妙である。
ぱらぱらと返される「おはよう」の挨拶を受けながらシンジは自分の席に向かった。
それをちらりと目の端で捉えながらも、アスカはヒカリのすぐそばで既に世間話と分類されるべき話題を始めていた。
「ねぇ、ヒカリ?カレーの美味しい作り方知ってる?」
「え、カレー?もちろん、手作りのよね」
「あったりまえでしょっ。今日、シンジと一緒にカレー粉作りから始めようかって」
「ええっ、カレー粉からはちょっと難しいんじゃないの?私そこまでした事ないわよ」
こちらは健全なる女子中学生の会話。
至極平和である。
そして、こちらも健康な男子中学生の密やかな会話だ。
「おい、センセ。お前ら。子作りするんやって?」
「ち、違うってば。カレー粉だよ、カレーの」
「しかし、声だけ聞いてたらいやらしいよな。洞木だって、私した事ないだなんてさ」
「こら、ケンスケ。お前、ちょっと調子に乗りすぎや」
「何だ、トウジ。妙だな、その反応」
「な、なんや。全然妙なことあらへんで。妙なのは、センセの方や。どないしたんや、最近ラブラブやないか」
秘めたる思い人のことに話を振られてはかなわないと鈴原トウジは話の方向をシンジに切り替えた。
「ラ、ラブラブなんて、そんな…」
俯いたシンジを見て、トウジと相田ケンスケは顔を見合わせた。
なんともからかい甲斐のある友人である。
完全に彼の方はその気で一杯というのが丸わかりだ。
しかしアスカの方はよくわからない。
彼女も家事をしているらしいので、大きな変化があるのはわかるのだがどう見ても彼女の態度には変化が見えない。
以前と同様にシンジを扱き使い、悪罵を放ち、そして彼を従えて歩く。
今も何ら変わったところは見られない。
行動という面においては、だ。
しかし、口では表現できない、雰囲気という類のものが違うように思われる。
その辺りが明確にならないので、彼らとしてもただからかうしかなかったのであろう。
ただそれだけでも碇シンジという少年にはすこぶる有効だ。
だから彼らとしては実にからかい甲斐があるわけだ。
「頼むからそういうのは大きい声で言わないでよね」
「わかっとるって、ちゃぁんと聞こえんように調整しとるわい」
「やっぱり惣流に聞こえると拙いか、え?」
「そ、そりゃあ…」
嫌われたくないから、とは口にできない。
友人たちには口にしているも同然の態度なのだが、シンジの感情に留意しここは察知していない振りをする。
「まあ、せやろな。せっかく家事に協力してるんやさかいな」
「機嫌を損ねて、また毎日家事っていうのも勘弁して欲しいよな?」
「そ、そうなんだよ!」
明るく笑うシンジを見て、友人たちは思う。
なんと単純で、鈍感で、わかりやすい男だろうか。
で、そのような男をあの惣流が好みなのか?と、二人は考えた。
そもそも二人が同居しているという事実から推察されるのは二つしかない。
シンジなど男として認めていない、所謂眼中にないので居ようが居まいが構わない、という考え方。
そしてもうひとつは、好みの男だから別に同居していても苦にはならない、という恐るべき推測がある。
恐るべきというのは、性格に問題があろうが日本の男子中学生にとって白人で容姿がいいアスカはかっこうの憧れの的となるからだ。
したがって、そのアスカが同居しているシンジについてはあくまでアウトオブ男子であって欲しいのである。
それがもし好みだから同居しているということになれば、大問題が起きてしまう。
そもそもシンジやその周囲の者たちの証言で、アスカは加持という名前の大人の男性に熱を上げているはずなのだ。
だからこそ、シンジは第一の考え方に当てはまる、とそのように学校関係者は己の願望も込めて決め付けていた。
ただ一人、ヒカリを除いては。
何故ならば、あれほど毎日のようにアスカの口にのぼっていた加持という固有名詞がここ最近とんと出てこないのである。
それは彼女が家事をし始めた頃に相当する。
まさか加持と家事で代替となった?などとくだらないことまで考えてしまうのだが、結局はアスカにとって加持という存在は不要となったということなのだろう、とヒカリは断定している。
その彼女との話を終え、アスカがずんずんとシンジの方に向かってきた。
その目はじっとシンジを睨みつけ、普通の女子の1.5倍の歩幅と速度で突進してくる。
トウジとケンスケは彼女に敬意を表して道を空けた。
「馬鹿シンジ。アンタ、知らなかったでしょっ。カレーって一日置いた方が美味しくなるんですって」
あの剣幕で、この台詞?
トウジとケンスケは顔を見合わせた。
「あ、そうなんだ。知らなかったよ」
「って、ことで、今日は2日分つくるからね。帰りの買出しのときに忘れないでよ」
「2日分…って、どうして?」
「アンタ馬鹿ぁ?どう美味しくなるのかちゃんと検証しないといけないじゃない。今後のこともあるでしょうが」
「あ、そ、そうだね」
「カレーだったら、2日続いても大丈夫でしょっ」
うん、と頷いたシンジに得心したのか、アスカはニヤリと笑うと踵を返した。
そしてぼけっと立っている二人をじろりと睨みつけた。
「アンタたち邪魔っ!退きなさいよ!」
その時、二人は思った。
これは考えたくもないが、第2の推測が当たっているのかもしれないと。
そんなことを思われているとは知らないアスカは足を止めた。
窓際の席に座っているはずのレイの姿が見えなかったからだ。
いつもならば予鈴の15分前には登校し、本を読んでいる彼女の姿が見られる。
それがレイの姿どころか、どう見ても登校してきている気配そのものがまるでなかったのだ。
「シンジ、ファーストって今日ジオフロントだっけ?」
首だけを回して質問してきたアスカにシンジはあっさりと首を横に振った。
「違うはずだよ。ほら、昨日ラーメン食べてる時に、明日学校なのにそんなににんにく食べていいのかってアスカがからかってたじゃないか」
「そうよね。私無口だから大丈夫ってわけわかんないこと言ってたわよね。あの馬鹿」
「急に呼び出されたのかなぁ」
アスカは肩をすくめた。
「ま、どうだっていいけど。優等生の事なんか」
捨て台詞を残してアスカはヒカリのところへ戻っていった。
ちょうどその時に予鈴が鳴る。
8時25分。
その頃、ジオフロントではリツコとレイが対決していた。
「レイ、その本は私から司令に渡すわ。よこしなさい」
きっぱりとレイは首を横に振った。
「これは、私が、返すもの」
睨みあうかのように真っ直ぐに視線を交し合う二人に、周囲の者は息を呑んで見守っていた。
そこは食堂横の談話室である。
徹夜明けのリツコが軽い食事でもとろうかと食堂のあるフロアに上がってきたところ、向こうからレイが歩いてきていたのである。
制服姿なのはいつもの通りだが、学生鞄ではなく手にしていたのは本屋のビニール袋である。
その中に彼女が購入したアンシリーズが入っているのだ。
最初、リツコは彼女が時間を間違えたのかと軽く考えていた。
しかし、夕方でよかったのにと袋を受け取ろうとしたリツコに対し、レイはきっぱりと首を横に振ったのだ。
そして司令に直接本を渡すというレイを無理矢理近くの部屋に押し込んだのである。
それが談話室だったのが幸か不幸か。
定時前、8時30分だったから談話室にはそれなりに人影がある。
仕事前の一服と喫煙者たちが談話室に併設されている喫煙部屋に濛々とした煙とともにこもっているから、彼らも含めると相当の人数となった。
喫煙部屋と談話室はガラスと風除け室で仕切られているが、そこまらでも談話室の中は良く見える。
だから、扉近くで相対しているリツコとレイの姿はしっかりと目視できた。
さすがに音声までは届かないが、科学部長とチルドレンのただならぬ様子にみな興味津々野次馬根性丸出しで注目している。
それはシゲルたち喫煙組だけではない。
就業前のひと時を読書とコーヒーで優雅に過ごしていたマコトとマヤも同様である。
マコトの手にはしっかりとカバーされて中身が容易に見えないようにした『赤毛のアン』シリーズの4冊目が。
そしてマヤの手には可愛らしいブックカバーに覆われた『マリア様がみてる』シリーズの第33巻があった。
二人もページをめくることができず、じっと事の成り行きを見守っている。
さらにもう一人、殺風景な執務室にいるよりはとここでコーヒーを飲んでいた副司令の姿も見える。
彼だけは二人が何のために睨みあっているのかわかっていた。
頃合を見計らって出て行こうとは思っているのだが、それでも彼の好奇心がまだそれは早いと押し留めていた。
心が成長しているというレイを己の目で確認することができるからだ。
彼が知る碇ユイは、ある紹介者に案内されて彼の研究室を訪れてきた高校1年の姿がもっとも若い。
その頃はまだまだ子供だと思っていたのだが、まさかその彼女にわずか数年後異性としての好意を抱くとは想像もしなかった。
その時の彼女の姿と今のレイの姿にどれだけの違いがあるのだろうか。
冬月は懐かしい記憶を甦らせながら、じっとレイの様子を窺っていた。
「レイ。司令は忙しいの。それに私が預かるように命令しているのよ。だから」
レイはじっと彼女を睨みつける。
その表情はあの時の赤木ナオコを見上げた時のようなものとは違う。
冬月は、彼とゲンドウの二人だけはその場面を後になってビデオ映像で見ている。
幼いレイがナオコを嘲笑し、そのために彼女に縊り殺され、その後ナオコがその場から身を投げるまでの一部始終を二人は録画された映像で確認し、すぐにビデオを消去し焼却した。
二人の発した言葉はわからなかったが、大体の成り行きは察することができた。
冬月は幼きレイの遺骸を始末し事件はただナオコが何らかの理由で転落死したということで済ませたが、彼はゲンドウを責めた。
レイを身近に置いたがために、ナオコに対する悪罵も耳にし、そのために彼女を死に追いやった。
それにもしかするとレイはナオコに向かって自分の言葉で嘲笑したのかもしれない。
つまりゲンドウの愛人であるナオコに嫉妬したからだ。
レイの身体にユイの心の一部が宿っているからだという冬月の推測をゲンドウは認めなかった。
それはそうだろう。
もし認めてしまったなら彼らの計画は初手から躓いていることになる。
ただ、ゲンドウは二人目のレイを身近に置くことをしなかった。
その部分では冬月の意見を正しいと思ったのだ。
その後、レイはジオフロントの底深くで育つことになる。
肉体は発育していっても、心の方は育たないことに留意して。
しかし、そのレイはもう心が大きく育ちはじめている。
心のない者は憤怒の感情を持ちはしない。
冬月は、リツコに相対しているレイの表情を見、もはや彼らの計画は頓挫してしまったことを得心したのだ。
ところが彼の表情は寧ろ和やかなものであった。
「忙しいなら、時間が空くまで待つ。廊下で、待っている」
「いい加減にしなさい、レイ」
「本を欲しいのは、あなたじゃない。司令が、私から、本を奪うの」
「だから…」
完全に平行線を辿る二人の会話は終わりそうもない。
それが終結したのは、冬月が立ち上がり二人の元に歩み寄ったからだ。
彼は微笑を浮かべながらリツコに告げた。
「赤木君、もういい。彼女の好きなようにさせなさい」
「しかし…」
「いいのだ。その方が彼のためにもいい」
レイの方を顧みた冬月は優しく「行きなさい」と言った。
それに対し、レイはいつものように短く「了解」と返し、すたすたと歩いていく。
その後を追おうとしたリツコだったが、冬月に呼び止められた。
「赤木君、コーヒーをご馳走しよう。あの一番高いのを一度飲んでみたかったのだ」
冬月が見ているのは、ドリップ式の自動販売機でその中に300円という極めて高いコーヒーがある。
他のものの倍近い値段なのだが誰も飲んでいないのではないかと噂されていたものだ。
リツコは軽く息を吐き、彼女にだけ聞こえる声で冬月は囁いた。
「綾波レイの本当の意味での誕生に乾杯しようではないか」
冬月は微笑んでいるものの、幾ばくかの寂しさを瞳に宿していた。
もう碇ユイが彼らの前に姿を現すことはない。
そのことはやはりこの老人には残念なことには違いはないのだ。
彼の感情には思いもよらず、ただ自分とレイとの関わりの為だけにリツコは苦笑した。
「いただきます、副司令」
ゲンドウは狼狽していた。
監視モニタに映っているのは紛れもなくレイの姿である。
制服姿の彼女はじっと扉の前に佇んでいた。
居留守を使おうかとも考えたが、その逃げはきかないことを彼は承知していた。
碇ユイならばずっとその場で待ち続けるはずだ。
そしておそらく、綾波レイも。
それでも彼はなおも躊躇った。
扉の開閉ボタンに指が伸びるのだが、その指先に力がこもらない。
彼のこのような姿は誰も想像できないだろう。
ただ、リツコだけはゲンドウの性格にそんな弱さが含まれていることをそれとなく実感していた。
それは身体を合わせている男と女だからわかることなのかもしれない。
しかし実際には、その彼女でさえゲンドウのこんな表情を見たことはないのである。
そのまま、3分ほどが経過した。
その短い時間が彼には途方もなく長く感じ、しかも彼が中にいることを気がついているかのようにレイはじっと佇んだまま身体を動かさない。
ゲンドウはいつものポーズもとれず椅子の角度を斜めにして天井を見上げていた。
しかしちらちらと小型モニタを横目で見てしまう。
もし彼のそんな様子をシンジが見ていれば、父への親近感を増すことが出来ただろうか。
少なくとも幻滅するようなことはないはずだ。
ただ自分と似た部分を見つけても父親に擦り寄るような行動が取れるシンジではない。
そこもまた父親似であることを少年は知らない。
ともあれ、ゲンドウは遂にボタンを押した。
しかし、その直後彼はいつもの自分とは違う行動をとった。
扉が静かに開き、レイは廊下よりも照明が暗めとなっている部屋に向かって歩を進めた。
そこには司令がいる。
いつものように椅子に座って…いるはずだとレイは思っていた。
ところが、碇ゲンドウは机の向こう側で背中を向けて立っていたのだ。
それを見たレイは思わず足を止めた。
表情は変えなかったものの、彼女は2度ほど短い瞬きをする。
「何の用だ」
ゲンドウの背中が質問してきたが、レイは返答をせずに部屋の中へと入っていく。
そして、彼女は執務机のぎりぎりの位置で立ち止まった。
「本を持ってきました」
「うむ、ご苦労。そこに置いていきなさい」
平静を装いそう命じたゲンドウだったが、応答が返ってこずに無言の圧迫というものを全身で感じた。
そしてその背中に差すような眼差しを受けていることを察した。
振り返って確認したいが、レイの表情を確かめるのが恐ろしい。
もしそこにユイを思わせるものが見えたならば、冬月やリツコの主張したことを証明するような気がしたからだ。
「どうした。机の上に置いて早く出て行くんだ」
微かにレイが呼吸する音が聞こえる。
その時、ゲンドウは彼女でも息を整えるということをするのだと今更ながらに知った。
怪我をすれば血が出るし、もし致命傷を負えば命を失う。
そのことを承知しているものの、それはあくまで肉体的なものであり、感情を制御できる、いや制御しようとしている事に驚きを感じたのだ。
「レイ」
「司令が命じたのね」
ようやく出てきた言葉はそれだった。
ゲンドウは瞑目したまま答える。
「そうだ」
「了解、しました」
その言葉を聞き、ゲンドウは人知れず胸を撫で下ろした。
しかし、その直後、彼はすんでのところでびくりと肩を震わせるところだった。
何故なら、物凄い音が背後でしたからだ。
それが机の上に何かが叩きつけられた音だと了解するのに数秒かかった。
そしてその時にはレイは既に部屋の外に出て行ってしまっていたのである。
レイの軽い足音が遠ざかり、扉が開閉する音が続き、その後静寂に包まれた部屋でようやくゲンドウは振り返った。
叩きつけられ破れたビニール袋から散らばった文庫本が机の上に広がっている。
レイの示した、初めてのゲンドウへの反抗であった。
それは子が親に対して行う…、あの、反抗期によく見られるような行動であることを親を持った事のないゲンドウにはすぐにはわからなかった。
執務室を出た後のレイはわき目も振らずにジオフロントの出口に向かった。
もちろん日頃わき目をしていることなどまったくなかったのだが、それがふだんと違って見えるのは彼女の歩くスピードだろう。
いつもよりも少し速い足取りというだけで憤りを示すことができるというのは、通常のレイがそれだけ自己表現をしていないということに繋がるだろう。
今日のこの時、彼女とすれ違ったものは口を揃えて言ったものだ。
ファースト・チルドレンが怒っていた、と。
その噂はあっという間に広まり、談話室でコーヒーを飲んでいるリツコと冬月の元にもたらされた。
それほどにあの執務室での出来事は短時間の間の出来事だったのである。
リツコはすぐに自分が行くと立ち上がり、冬月は短く「頼む」とだけ言った。
冬月は二人の関係を知らない。
しかし、この場は自分が彼の相手をするよりも彼女の方が適任だと確信していた。
別に逃げているわけではない。
ただ、既にレイに対する彼らの考えは平行線を辿りつつある。
そういう状態の時に冬月が何を言っても無駄だ。
そう判断し、彼は談話室を出て行くリツコの白衣の背中を見送ったのである。
数分後、乾いた音が執務室に響き、ゲンドウの頬に赤い腫れが薄く浮き出てきた。
リツコは掌の痛みに顔をしかめながらも、乱れかけた白衣を調えた。
「珍しいな」
この期に及んでも憎まれ口を叩く愛人をリツコは冷ややかに見つめた。
確かにこれまで彼の求めに逆らったことはない。
驚いたことにそれは最初の時から一度も、であった。
彼が虚勢を張っていることをリツコは見抜いている。
そして今、彼女に拒否されて少なからず動揺していることもわかった。
しかし、不思議なことにそれで彼の事を蔑む気持ちにはなれない。
リツコは心の中で呟いた。
「碇ユイさん、あなたもこんな人のことを可愛いと思っていたのかしら」
だが、彼女の口から出た言葉はまったく違うものである。
「もう無理。レイは一個の人間として成長してるわ」
むっとくごもった声を上げたゲンドウにリツコは思い切ったことを口にする。
「私は…他のレイ…いいえ、魂の入ってないただの有機物を処置するわ…」
ただその声はまるで呟くようなもので、本当にその宣言を実行するのかどうか疑わしいものである。
だからこそ、ゲンドウはすぐに反応せずにゆっくりと彼女を見上げたのだろう。
その視線をリツコはまともに受けた。
彼女の目は微かに濡れているように見える。
真っ向からぶつかった二人の瞳は互いの心のうちを探るかのように微動だにしない。
しばらくはそのままでいたのだが、やがてゲンドウがすっと目を机の上にそらした。
本人はそのつもりだったが、誰が見ても目を伏せたという風にしか見えなかっただろう。
事実、リツコもそのように感じた。
「そんなことは許さん」
吐き捨てるように言ったゲンドウはじっと机の上に散乱したままの文庫本を見つめた。
そして漠然と本の数を数える。
1、2、3……。
全部で11冊あった。
彼が数え終えるのを待っていたかのように、リツコが口を開いた。
「わかったわ。命令を待ちます」
「ふん、そんな命令など出すものか」
言わずもがなの言葉をゲンドウは吐いた。
そういう言葉を漏らすこと自体が彼の心の揺れを示している。
「この本はどうします?」
ゲンドウはその答を用意していなかった。
レイが去っていった後、ずっと本を見つめていたにもかかわらず、それらの本をどうするか考えていなかったのだ。
「どうします?」
再度問いかけるが返事がないので、リツコは手近にあった1冊を手に取った。
机にぶちまけられた時にたまたま頁が開いてしまっていたのだ。
ゲンドウがどう望むにしても散らばったままでは拙かろうと本を片付けようとした彼女だったが、開いていた頁に目をとめそのまま見入った。
「God's in his heaven, All's right with the world.」
リツコの発した言葉にぎょっとしてゲンドウは顔を上げた。
しかし、彼女は特に意識して口にしたわけではないように見える。
ただその文庫本に書き込まれたものを読んだだけのようだ。
「ネルフのマークの言葉ね。どうしてこんなものが…」
リツコはその言葉が誰のものかを調べたことはなかった。
ロゴマーク自体が日本支部から応募されたデザインだったことすら彼女は知らない。
だから、その本に書き込まれたロゴマークの文章に首を捻ったのだ。
「よこせ」
ゲンドウは手を伸ばした。
その手に彼女は文庫本を委ねる。
すると彼はその文章を確認もせず、冷たい口調でリツコに命じた。
「さっさと出て行け。そこの本を全部持っていくんだ」
いつものように有無を言わさぬ調子を装っているが、内面の動揺は隠せない。
おそらくは自分ひとりだけでその文章を確認したいのだろう。
そう判断したリツコは何も言わずに残りの本を抱えてゲンドウの前から辞した。
「ちょっと、ファースト!アンタ、どぉ〜して遅刻したわけぇ?」
1時間目の途中に前の扉から堂々とレイは入ってきた。
社会の教師は注意しようとしたが、彼女があまりに険しい顔をしていたのでそのまま知らぬ顔で授業を進めたのだ。
怖いわけではなく、どうせ注意をしても謝るとか言い訳するといった普通の反応をしそうもないと思ったからである。
当然、そのような優遇措置(としか見えなかった)を目の当たりにしたアスカがそのままで済ませるわけがない。
休み時間に入るや否や、彼女はのしのしとレイの席まで突き進んだのである。
もちろん彼女の背中を見送って、シンジが頭を抱えたくなったのは言うまでもない。
アスカの問いにレイはぐっと唇を噛んだ。
その表情を見て、アスカは頭の中でこれは何と言う表情だったかを検索した。
相手が普通の人間であればそのような真似などせずともよいのだが、レイだけについ考えてしまったのである。
そう、これは、悔しい、だ。
「はっはぁ〜ん!アンタ、寝坊したのね。で、遅刻して悔しいってわけぇ?」
「違うわ。6時に、起きたもの」
その返事を聞き、アスカは一瞬戸惑った。
綾波レイは嘘を言わない。
彼女が朝の6時に起きたというからにはそのことに間違いはないだろう。
となれば、シナリオを変更せねばならない。
「あ、そ。じゃ、寄り道したわけね」
「したわ。不愉快だから」
「何それ。不愉快だから寄り道したって、わけわかんないわよ」
そもそもレイが不愉快という言葉を自分に当てはめること自体が面妖である。
ただこの数日の彼女の変化を見てきているアスカとしてはそれほど違和感を感じなくなってきていた。
それどころか、会話が成立しているのでアスカ自身が不快になる前に話を進めることができる。
だからこそ言葉に険があるものの、まるで友人のように二人は会話をしていた。
「嫌なことは、先に済ませた、方がいいもの」
「何よ、その嫌なことって。歯医者とか?」
「虫歯はないわ。本を取り上げられたの」
「えっ」
アスカが驚いたのはレイの言葉にではない。
その言葉を発した直後に、彼女はぼろぼろと涙をこぼしたのだ。
それを見て、アスカは驚愕してしまったのである。
涙を自分も封印していたが、何度もこぼすのを堪えてきたものだ。
しかし、レイが泣くなどイメージしたこともなかった。
驚いたのは彼女だけではない。
シンジをはじめ、居合わせたクラスメートは一様に目を見張った。
「ち、ちょっと、ファースト!」
アスカは対応に困った。
泣き出したレイはそのまま机に突っ伏してしまったのだ。
号泣しているわけではないが、鼻を啜る音は彼女が泣き続けていることを意味していた。
アスカがシンジに助けを求めようとした時、彼の数十倍頼りになる者が近づいてきた。
「綾波さん。もうすぐ授業が始まってしまうから、保健室にいこ。アスカ、手伝って」
「あ、う、うん。わかった、ヒカリ」
まるでシンジのような受け答えをしてしまったが、アスカは少なからずほっとした。
ヒカリに促されたレイは素直に立ち上がって、彼女に縋るようにして歩き出す。
二人の露払いはアスカだった。
「アンタたち、見世物じゃないわよ!ジロジロ見てんじゃないわよ、まったく!」
彼女にとってこれ以上の役どころはなかっただろう。
睨みをきかす彼女を恐れて、男子連中は慌てて視線を逸らした。
シンジは自分はどうしたらいいだろうかとあたふたしていたが、彼もまたアスカに睨まれしゅんと着席した。
保健室についていっても何もすることはできなかっただろうが、恋する女の子に役立たずの認定をされたようでがっくりときてしまったのだ。
3人が廊下に出ると、急に教室の中がざわつきだす。
「センセ、アレどうなっとんやっ」
「アレ本泣きだよな、嘘泣きなんてあいつできないよな」
「う、うん。たぶん」
友人たちの問い掛けに相槌を打ちながらも、シンジは心配そうに扉の方を見つめた。
まるで普通の女の子のように泣き出したレイに何があったのだろうか。
しかし、いくら考えても貧困な彼の想像力では父親自身が本を取り上げただなどと思いつくわけもない。
誰に本を取り上げられたのだろうかと思ったときに、すぐに浮かんだのはリツコの顔だったというのは彼女が知れば苦笑するしかなかっただろう。
保健室ではアスカの取調べにレイがすらすらと自供していた。
何しろ嘘を吐くというところまで心が育っていない上に、いつものような黙秘権を行使する気がレイにはない。
腹立たしく、哀しくてやりきれない、今の気持ちを誰かに喋るということで自分の中で何かがすっと柔らかく、胸の中のもやもやとしたものを包んでいることがわかった。
それはレイにとって物凄く心地良いことである。
だから彼女は問われるがままにすべてを話したのだ。
しかも嬉しいことに、話した相手は彼女に賛同してくれた。
「くわっ、信じらんない!司令って何様のつもりっ」
「司令は司令」
「わかってるわよ、そんなことは!でも、読書するなって何よ!」
「アスカ、保健室だからあまり大声出さない方が…」
「大丈夫よっ。休んでいる生徒どころか保健の先生もいないじゃない!ここはもうアタシたちの天下なのよっ」
力むアスカの姿にヒカリは苦笑した。
落ち着いたレイをベッドサイドに座らせて、その前でアスカは仁王立ち。
そんな二人をすぐ傍で見て、この二人っていつの間にこんなに仲良くなったのかしらとヒカリは思った。
しかしもしそのことを口にしたならば友は絶対にこう言うだろう。
アタシにはそんな気はない、全然仲良くなんかない、と。
シンジとの仲を見るからに、そういう発言をするだろうし、本人も自覚していないのだろう。
まあ、放っておこう。
彼女はそう決めていた。
騒ぎ立てるよりも温かく見守る方がいいに決まっている。
みなより少し大人のヒカリはそんな判断ができる女の子だった。
「OK。事情はよぉ〜くわかったわ。ファ〜ストっ!アンタ、本を取り返すか、また買いなおすかどっちかしなさいよっ」
レイの鼻先にぴしりと音がするくらいの勢いでアスカは指を突きつけた。
その指先をじっと見つめるレイの表情にヒカリは思わず微笑んでしまった。
指があまりに近すぎて目が真ん中に寄ってしまっているのだ。
綾波さんってこんな顔もするんだ…。
いつも無表情なレイばかりを見てきたヒカリは新たな発見にその微笑をさらに深くする。
いや、にこにこしながら二人を見ていたと形容する方が似つかわしいだろう。
そして、ヒカリはさらに思った。
綾波レイという同級生は本当は凄く心が温かい女の子なのだ、と。
何しろ、あんなに素晴らしい感想文を書くのだから。
ヒカリは彼女の感想文を思い出し、ついでにアスカのものも思い出した。
ああ、やっぱりアスカのも良かったなぁ、と彼女はくすりと笑う。
その音が聞こえたのかアスカに横目で睨まれて、ヒカリは小さく首を竦めた。
するとその時、レイがきっぱりと言葉を発した。
「駄目。命令だから」
指先に向かって呟くように言い切ったレイに、アスカはその指先をぐっと前に進めた。
もとよりかなり接近していたのだから、当然指はレイの額に押し付けられる。
勢いあまって彼女の頭は後ろに大きく揺らぐ。
普通ならば、何をするのかと怒り出すべきところなのだろうが、この時のレイはむっとした表情を浮かべただけである。
「ちょっとアスカ」
「む…、ごめん」
但し、アスカが謝ったのはヒカリに対してであり、レイには何の謝罪の文句もない。
何だかなぁとヒカリは思ったが、こういうところもアスカらしいといえばアスカらしいともいえる。
「だからアンタはお人形だっていうのよ。命令って、ははんっ、バッカじゃないっ。作戦ならともかく、どぉ〜して個人の趣味にまで命令されなきゃいけないわけぇ?」
腰を手にやり機関銃のようにまくし立てるアスカだったが、その彼女をレイはただじっと見つめるだけであった。
「本を読んじゃいけないですってぇ。信じらんない!あの本買ったのってアンタのお金でしょうが!司令から貰ったもんなら文句も言えるかもしれないけどさ。アンタが貰ったお小遣いで何買おうがあんたの勝手じゃない!」
「お小遣い、じゃない。お年玉なの」
「お年玉?」
思わずヒカリが口を挟んでしまった。
それほどに経緯を知らない者としては突拍子もない単語が飛び出してきたのである。
「そうよ、お年玉。レイは1万円貰って、アタシたちはラーメン一杯。ずいぶんと差があるわよね、まったくっ」
「ラーメンは、私も…」
「はいはい、アンタもご馳走してもらってるわよね。ちっ、不公平ってこういう時に使うべき言葉ってことよっ」
アスカが説明してくれているようだが、ヒカリには彼女たちがお年玉のようなものを貰ったらしいということくらいしかわからない。
しかし今それを追及することは憚られた。
好奇心は満たしたいものの今はその時ではないと判断して、二人のやり取りを見守ることにしたのだ。
「理不尽な命令には反抗する権利くらいあるわよ」
「ないわ」
即答されたアスカは眦を吊り上げた。
「アンタ馬鹿ぁ?たかが読書じゃない。戦闘の時とは違うわよっ。そんなの、本を読んだだけで人類の歴史が変わるわけないわっ!」
胸を張って力説するアスカの言葉は間違っていないようにヒカリには思えた。
詳しい事情はわからないが、確かに読書を禁じるなどとは理解不能だ。
だが、しかし。
この時ばかりは違った。
綾波レイに読書をさせることは、彼女の心をどんどん成長させていっているのである。
人類の歴史はともかくとして、ゲンドウたちの計画は変わってしまうことは間違いがなかったのである。
ゲンドウはじっと机の上を見つめていた。
そこに乗っているのは、2冊の文庫本であった。
1冊は真新しく、もう1冊は随分とくたびれている。
彼はもう一度新しい方の本を手にした。
裏表紙をめくったところ、つまり最後のページに当たるところに出版社や版数の情報が記載されている。
その余白の部分、詳しく言うと上方よりやや下の左隅からやや斜め上に向けて英文が走り書きされていた。
いちいち綴りを確かめる必要もない。
紛れもなくそれはブラウニングの詩の一節である。
よく考えればレイが書いた文字をゲンドウは見たことがなかった。
いや、報告書などの書類で目にしていたはずだが記憶に残っていなかったのだ。
ただそれがユイの筆跡とは異なるということだけを彼は承知していたに過ぎない。
いくらDNAが同一であってもすべてがコピーされてるわけではないと認識しただけだ。
今改めてレイの文字を見てみたが、やはりユイのそれとはまるで違う。
しかし…。
ゲンドウは碇ユイの『赤毛のアン』を手に取った。
その最後のページ、やはり情報が記載されたページの、まったく同じ箇所に英文が記されている。
レイの文字とは違っていささか気取ったような筆記体で、しかし左隅から斜め上へと同様の配置で書かれていた。
ブロック体で一字一次丁寧に綴られたレイの文字は、まるで記憶を確かめているかのようにしっかりと時間をかけて書かれたものの様にゲンドウには思えた。
彼は本を机の上に置き、そして額に指を当てた。
心の中の葛藤はその外面からは窺えないが、冷静に判断しようとする理性を本能的な部分がかき乱している。
レイの中にユイが生きていることを認めてはならないとばかりに思考の邪魔をしているのだ。
ゲンドウは拳で机を叩いた。
二度三度、呻くような息を漏らしながら、彼は拳を叩きつける。
その時、電話が鳴った。
小さなディスプレイにはそれがリツコからのものであると示している。
無視するか、受話器を投げつけて壊すか。
そんなデスペレートな考えが一瞬彼の頭に浮かんだが、ゲンドウが取った行動はまったく違うものだった。
「どうした」
受話器をとった彼はいつもと変らぬ様な声音になるように苦心して声を出す。
電話の向こうの彼女はそんな彼の苦労を知ってか知らずか、普段通りの口調でリツコは言葉を発した。
「私の部屋にレイを引き取りたいのですが、ご許可をいただけませんか?」
ゲンドウは息を呑んだ。
しかし憤激を呼び起こさないのは何故だろう。
即座に怒鳴りつけなかった自分を彼は不思議に思った。
そんなことを客観的に考えている自分がいることをゲンドウは自覚していた。
つまり、それは…。
自分でも既にユイのサルベージが不可能だと了解しているということではないのか?
それを認めたくないがばかりに必死に自分を押さえつけ、今日のようにレイへ辛く当たってしまった。
こんな俺のことをユイはなんと思うだろうか?
ゲンドウはユイが持っていた方の「赤毛のアン」を見下ろした。
幼いシンジが昼寝をしている傍でその本を読んでいたこともあった。
あの幸福だった日をもう一度手に入れたい。
そう思って何が悪い。
ユイは死んでいないのだ。
だから、俺は…。
ふと我に返ったゲンドウは電話のディスプレイを見た。
通話時間はもう5分になろうとしている。
既にリツコは通話を切っているのではないかと思ったが、念のため小さく咳払いをしてみる。
すると向こうからすぐに言葉で返ってきた。
「お決めになりましたか?」
「む…」
丁寧に喋るリツコはそのことでゲンドウをあざ笑っているわけではない。
ジオフロント内部とはいえ、こういう会話が盗聴されていないという保証はないのだ。
現に要職につけた加持リョウジという男もおそらくどこかの組織の息がかかっているに違いないとゲンドウと冬月は踏んでいた。
だからこそリツコも電話では他人行儀で、しかも重要な用件は話さないように取り決めていた筈だ。
それが口調自体はそのままなのだが、これまで電話で喋るような内容ではないことを今口にしている。
そして、ゲンドウも普通に問い返していた。
「本は…」
「捨てるのはもったいないので、私の部屋に持ち帰ります」
ゲンドウは小さく息を吐いた。
造反、とは思わなかった。
だから、彼はこんなにも心静かに言葉を発することができるのだ。
しかもそのことをゲンドウはしっかりと把握していた。
「そうか。好きにすればいい」
「ありがとうございます。では、もうひとつ」
「なんだ」
「いずれ、結婚をしたいと思います。レイのほかに子供が欲しいので」
二の句が告げないというのはこのことだろう。
唖然としたゲンドウは電話が切られたことにしばらくの間気がつかなかった。
受話器を握り締めていた彼は、耳に届く不通音に顔を歪める。
そしてことさらに大きな音で鼻で笑い、放り投げるようにして受話器を置いた。
「結婚だと。誰とするというのだ」
吐き捨てたその言葉に自分で愕然としたゲンドウだった。
レイのこと、ユイのサルベージ、そのようなことよりも先に出てきた考えがそれなのか。
彼は頭を抱えた。
そして、あのレイの感想文を読んだことを後悔した。
あれを読んだ時、すべてが終わってしまったと察知していたのだ。
だからこそ、あのような子供染みた行為に出たに違いない。
今更レイに読書を禁じてどうなるというのだ。
それならばいっそ今のレイを処理して、新しいレイを…。
そのような考えが彼の頭に掠めたことは一度ならずあった。
しかし、ゲンドウは即座に否定してきたのである。
今にして思うと、それは“心”のあるものを処理することに対する怖れもあったのではなかろうか。
そして、やはりレイに対する彼の目が普通とは違うということも大きい。
それはユイのクローンというだけの意味ではなく、レイを一人の娘、いや彼の保護下にある娘だと認識しているからに他ならない。
簡単に言うと、彼女のことを自分の娘のように思ってしまっているのだ。
そのこともまたゲンドウは恐れていたからこそ、彼女を遠ざけることに苦心していたとも言えよう。
彼は電話に手を伸ばしたが、終にはその手に受話器は握られることはなかった。
ゲンドウの手に持たれたのは文庫本だった。
ユイが買った古い文庫本を手にし、彼はページをめくった。
何度か読んだことはあったが、もともと小説という類のものに興味を覚えることができないゲンドウである。
面白いとも思えず、ただユイへの思いだけのためにページをめくっていたのだ。
だから深くは文章を読んでいなかった。
ネルフのロゴマークに、ユイの書き残した英文を使うように仕向けたのはゲンドウ自身だ。
くだらぬセンチメンタリズムだと自覚していたが、それでも愛する女が遺したメッセージをどうしても形にしたかった。
無論あの文章にそんな意味があるとは誰も気がつかず、ブラウニングの文章としてマークの一部に採用されたのである。
その時は誰もいない部屋で日頃の彼に似ず声に出して喜びの笑いを漏らしたものだ。
今のゲンドウはそんな子供じみた笑みではなく、人生に疲れた中年男の苦笑を浮かべている。
そして、彼はもうひとつユイが書き込んでいた部分に目を留めた。
それは献辞が記された場所である。
題名が書かれた頁の隅に小さく書かれている献辞。
そこには「父と母の思い出に捧ぐ」とある。
ユイはその献辞の末尾にエキスクラメーションマーク、つまりびっくりマークを3つも付け加えていたのだ。
それほど彼女にとって両親のことは素晴らしい思い出なのどうか。
ゲンドウは天井を仰いだ。
彼は両親の顔を知らない。
自分が生まれた場所は知っているが、両親の写真一枚残っていないのだ。
そもそもそこで彼が生まれたという証拠はもうない。
六分儀ゲンドウという名前自体が、彼のものではないのである。
ゲンドウという名前を若い頃に名乗るようになった男はじっと記憶を辿った。
しかしやはり両親の記憶はない。
父と母の思い出…。
最初から持っていなかったので、逆に羨望という感情はあまり感じなかった。
結婚したときはユイもその両親を失っていたから、実際に彼は義理という存在においても父や母を持つことはなかったのである。
そのためにゲンドウは親への思い出は皆無だ。
しかし、彼自身が思い出になっていることはよくわかっている。
長い年月を経て対面した息子の目には憎悪の欠片もなく、縋るような目つきで自分を見ていた。
その後息子が憤慨している時でもその目に表されている怒りは、他人に見られるものとは大きく違っている事はよくわかる。
甘え、というものなのだろうか。
これまでの人生でそんな目つきで見られたことはない。
男と女の愛情というものなら彼にも経験があった。
ユイはともかくとして、ナオコの目にそれは垣間見られた上に、今現在リツコにもはっきりと見えるときがある。
しかしそんな目とシンジの眼差しは明らかに違う。
そして彼にとって問題なことは、それがレイの目にも見られたことだった。
親を見る目というものはこういうものなのか…。
親を持っていない者でも親にはなれる、ということがゲンドウには不思議だった。
そして、その時ふと気になった。
彼は震える指先でレイの方の『赤毛のアン』の頁を開いた。
同じ献辞が書かれている場所を探し当て、ゲンドウは長く息を吸った。
ユイとレイは違う。
ユイのクローンであり、その記憶を受け継いでいるものの二人の性格は異なる。
基本は同じかもしれないが育った環境が違うので当然だ。
レイの買った本の献辞のページには些細な書込みがされていた。
文字ではない。
父と母の思い出に捧ぐ、の父の文字に○がされ、母の文字の隣に?と書き込まれている。
その文字、いや記号の示す意味は明白だ。
○がついた父というのは…。
瞬間、ゲンドウははっとした。
もしこの場に鏡があったならば、今の自分の表情を確かめることができただろう。
確かに今笑っていた。
微かにだが、その自覚はあった。
レイが自分のことを父として認識していたことがそんなに嬉しかったのか。
彼は唇を噛み締めた。
なるほどレイには母にあたる者はいない。
だからこそ、母親に?マークをつけたに違いない。
もしかすると、リツコはここに気がついたのではないだろうか。
いやこの頁を彼女はおそらく見ていない。
では、何故あんなことを言い出したのか。
似たような書込みがどこかにあったのかどうか。
ゲンドウは瞑目した。
きっと違うだろう。
リツコは自分の考えでレイを引き取ると言い出したに違いない。
確かこの小説は孤児の主人公を年老いた兄妹が引き取るという話だったはずだ。
彼女は『赤毛のアン』に感化されたのかどうか。
アニメーションで物語を知っていた息子とは違い、父親の方は愛した女が遺した本をざっくりと読んだだけである。
彼は粗筋を大まかに覚えているだけだ。
おそらく息子の方が詳しくストーリーを語ることができるだろう。
そして彼はページをめくった。
この日、使徒も、ゼーレも、日本政府も、彼の読書を邪魔しなかった。
かつてユイは『赤毛のアン』についての感想を多くは語らなかった。
もし彼女が感想文を書いたならば、その内容はレイのものと似通ったものになるのだろうか。
そのことが気にかかり、ゲンドウは小説に没頭していた。
つい先日に初めて小説というものを読んだレイがあそこまでの感想文を書けるとは思えない。
知識はあっても感性がないはずだ。
そうするために色々と手を打ってきたのだから、綾波レイにあんな文章が綴れるわけがない。
まさか、たった1冊の本を読んだだけで感性を得たということなのか。
それとも徐々に芽生えていた感性が読書をきっかけに表面に出てきたのだろうか。
結局、ヒトというものは成長をしていくものなのか。
その答が欲しくて、ゲンドウは『赤毛のアン』を初めてきちんと読もうとしたのかもしれない。
日頃小説など読まない男は丹念に文章を辿っていった。
第五章 − 了 −