【作者註】

この作品では既存の小説に関する描写があります。
 もしその小説が未読でネタバレ回避されたいと思う方はお読みにならないでください。




本を読む娘たち

 


ジュン





「馬鹿シンジ!アンタ、自分の親なんだから、はっきり言いなさいよ!」

「ぼ、僕が?」

 アスカがゲンドウへの抗議の特使として指名された少年は情けないことに2歩ほどあとずさった。

「む、無理だよ、そんな。父さんにそんなこと言えるわけないじゃないか」

「けっ、アンタそれでも男ぉ?司令がなんだってんのよ」

 司令は怖い。
 それはアスカとて同様だ。
 あえて言うならば、ゲンドウを一番恐れていないのはレイであろう。
 シンジや同世代の人間、そしてミサトのような親しい大人にならばアスカもいつも通りの彼女を出すことができる。
 しかし、ゲンドウや冬月のような年上の人間に罵詈雑言などとんでもない話だ。
 褒められたい、という気持ちを無意識に潜ませている彼女としては司令に逆らうなど到底できない相談である。
 どれほど憤りを覚えていてもやはり怖いものは怖いのだ。
 もっとも彼女の名誉のために記しておくが、もしここにシンジという存在がいなければ彼女も自分で動いていたかもしれない。
 だが、今彼女の傍には格好の人材がいるのだ。

「ぼ、僕の言うことなんて聞いてくれるわけないじゃないか」

「アンタ、やってみたぁ?やってもみないのに、簡単に無理だなんて言うんじゃないわよ」

 アスカの言っていることは正しい。
 それはギャラリーの統一見解だった。
 碇ゲンドウという男がほとんど表舞台に出てきていない以上、彼らがゲンドウの姿をありのままに思い描くことなど不可能に近い。
 ネルフという組織の長だから威厳はあるはずなのだが、実物を見たことがないのでイメージが難しい。
 彼らがイメージできるのは、シンジという優柔不断な少年から想像した姿であろう。
 本質はともかくとして、少なくとも外見や威厳というものに関してはシンジからかなりかけ離れているのだが、彼らにそれがわかるわけがない。
 だから、同級生たちは煮え切らないシンジにブーイングを送りたい気持ちだった。
 この教室の中でアスカが自分のやりたくないことをシンジに押し付けようとしていることを正しく把握しているのは、当事者である二人だけだった。
 レイでさえDNAの影響だろうか、シンジを過大評価してしまっているので、彼が適任だと思いながらこのやり取りを傍観しているのだから。
 昼休みは既に半ばが過ぎ、弁当を広げている生徒はもういない。
 教室に残っている生徒たちは校内放送には耳をとめずに、この日常化されている寸劇を楽しんでいた。
 しかし普通ならばアスカに押し切られるシンジが今日は頑強に拒んでいる。
 それだからこそ余計にみんなの注目を集めているわけだ。
 さあ、もうすぐ惣流が荒れ狂うぞ。
 そんな予感が教室に満ち溢れそうになったとき、関西弁の少年が口を挟んできたのだ。
 その理由は友人と父親との関係を少しは知っているのでシンジを庇おうとしたのだが、関西人ならではの事態を面白おかしくしてやろうという意識も含まれていたことは否めない。
 人生というものはこういう些細な口出しで大きく変化するものである。
 そんなことはまったく考えもせず、鈴原トウジは面白おかしげな口調で声をかけた。

「そりゃあ、センセがかわいそうやろ」

「アンタは黙ってなさいよっ」

「そんなわけにはいかへんで。センセのおとんっちゅうたらごっつい怖いそうやんけ。ホンマは惣流が怖いからセンセに押し付けとんのと違うか?」

 喧嘩を売ることにかけては天才的なトウジだった。
 そして、喧嘩を買うことについては誰よりも素早い、好戦的なアスカである。
 しかもこのトウジの発言は彼女の本音を見事に突いていた。
 怖くなんかない、ということをギャラリーに示すためにもアスカは戦わねばならなかった。

「はんっ!ばっからしい!アタシが司令を怖いですってぇ?あんなのちょちょいのちょいよ!たかが馬鹿シンジの父親でしょうが!」

 腰に手をやり胸を張るアスカだったが、意外なところから反対意見が出てきた。
 自分の席を立ったレイはつかつかとアスカの前まで進むと彼女を睨みつけたのである。

「司令の悪口はやめて」

 おいおい、アンタのためにこっちは動いてるんじゃないのよ。
 アスカは怒るより先に呆れてしまった。
 
「アンタねぇ…」

 そこでアスカは声を潜めた。
 
「作戦よ、作戦。アンタの本を取り返すためにお芝居してるんでしょうが。ちょっと黙っておいてくれる?」

 アスカとしては最大限の忍耐力を駆使してレイにだけ聞こえるように囁く。
 するとレイはあっさりと引き下がったのだ。

「了解」

 すたすたと席に戻る彼女の後姿を見て、アスカは溜息を吐いた。
 わかりやすいというか、扱いやすいというか。
 これまでどうしてあんなのが自分は苦手だったのだろう。
 アスカは内心苦笑しながら、シンジに向き直った。

「で、決心はついた?馬鹿シンジ」

「いやだ。トウジが言う通りだよ。アスカが言えばいいじゃないか」

「なんですってぇ!」

 レイが口を挟んだその短い間にシンジは戦闘体勢を整えていた。
 彼のような性格の少年にとって、友人の後押しというものほど力強いものはない。
 しかもトウジはクラスで唯一アスカと対等に口喧嘩ができる生徒なのだ。

「アンタ、アタシの…」

 命令と言おうとして、アスカはその単語を喉の奥に押し込んだ。
 ここは戦術を変えてやる。

「アタシのお願いを聞けないって言うのね。ふぅ〜ん、そうなんだ。それじゃ…」

 今のコイツの弱点は何だ?
 アスカはフル回転で脳細胞を駆使した。
 そして思い出した。
 どういう理由かわからないが、家事当番に固執していたではないか。
 そのために昨日の夜、ミサトの車の中で言い争いをしたのだ。
 アスカはにんまりと笑った。

「それじゃ、今晩のカレーはパスね」

 アスカはシンジの出方を窺った。
 自分がパスなのか、シンジがパスなのか、こちらで決める必要はない。
 シンジ自身が反応してくれるに違いない。
 彼とは違い、アスカはドイツで対使徒戦に対する講義をイヤというほど受けている。
 戦術講義で相手の出方を窺うということも教わっていた。
 もっともわけのわからない反応をする使徒にたいしてはほとんど役に立っていなかったが、シンジに対しては有効だろう。
 ともあれ、この時ばかりは戦術講義のいかつい軍服姿の講師にアスカは感謝した。
 彼の名前はすっかり忘れてしまっていたが。

「そ、そんな!一緒に作るって約束したじゃないか。アスカは約束を破るのっ?」

 おやおや、そうきたか。
 流石に馬鹿シンジ。
 二者選択のつもりだったのに、違う答を出してくるとはさすがにわけのわからない男だ。
 闘争心に燃えるアスカはにんまりと笑みを漏らした。
 
「まさか!このアタシは約束を破ったことなど生まれてこの方一度もないわっ」

 胸を張るアスカを見て、彼女はいったいいつ頃産まれたのだろうかとシンジはあきれてしまった。
 昨日?それとも今朝?もしかしてついさっき?
 はっきりとした記憶はないが些細な約束を破る常習犯のような気がする。
 例えば…、例えば…、あれ?
 シンジは腕組みをした。
 罵詈雑言に唯我独尊。そんなアスカが約束を破るなど容易いことではないか。
 しかし、約束を破ったという具体例が思いつかない。

「ちょっとアンタ。何考え込んでんのよ」

「う、うん。そういや、そのような…」

「ふんっ、アタシがアンタなんかと約束すると思う?1000万年早いわね」

 ああ、そうだった。
 約束を破ったということが思いつかないのも道理。
 約束自体をしたことがほとんどないのではないか。

「じ、じゃ、カレーを作るって約束は破らないって事だよね」

「当然でしょ。だけど、作るのと食べるのは違うわよ。一緒に食べるだなんて約束してないもんね」

 へっへっへという笑い声が聞こえてきそうなほどに悪辣な表情をアスカは浮かべた。
 もっともそれは悪辣というよりも子供っぽいという感じだったが。
 ここでアスカは様子伺いの最初に状況を強引に戻した。
 そして、今度はあっさりとシンジは出方を明示したのである。

「そ、そんなの、酷いよ。作らせるだけ作らせておいて、僕に食べちゃ駄目なんて」

 ふふん、やっぱりそうきたか。
 さすが被害妄想の塊の馬鹿シンジね。
 
「食べちゃ駄目なんて言ってないでしょ。アンタが司令に陳情すればそれでいいだけじゃない」

「で、でも…」

 口ごもるシンジを見て、トウジがまたも助け舟を出した。
 例えシンジが言い負けるにしても、もっと面白おかしくしてやればいい。
 アスカが困るような条件を出してやるのだ。

「さよか。ほな、それが惣流からセンセへのお願いってわけやな」

「ふんっ、お願いだなんてアタシは言ってないわよ」

 勢いでそう返事をしてしまってからアスカはしまったと思った。
 アタシからのお願い云々と言ってしまっているではないか。
 当然、ギャラリーの中でざわめきが走る。
 トウジもニヤリと笑った。

「言うてないわけないやろ。みんなちゃんと聞いとるで。ま、物忘れっちゅうのは誰にもあるこっちゃ。
せやけど、お願いする限りは見返りがないとおかしいわな」

 失言を周知されてしまったアスカは即座に反応できなかった。
 口喧嘩上手のトウジはその隙を与えなかったのである。

「例えばやな、ひひひ」

 思わず漏れたそのいやらしげな笑みをヒカリは見なかったことにしようと決めた。
 痘痕も笑窪とは言うが、今のは痘痕以下だ。
 
「センセにキスしたるってのはどうや?」

 おおおおおっ!きゃあああああ!
 アスカの反応よりも早く、ギャラリーが一斉に反応した。
 一瞬遅れたアスカは鼻息も荒く反攻に転じた。

「アンタ馬鹿ぁっ!どぉ〜して、このアタシが馬鹿シンジにキスしないといけないのよ!」

「そりゃあ仕事には報酬がついて回るもんや。なあ、センセ、その条件やったらどうや?」

「え、えっと、ぼ、ぼ、僕…」

 キス!
 してもらいたい!
 でも父さんは怖い!
 でもアスカとキスしたい!
 
「ちょっと待ちなさいよ勝手に話進めないでくれるっ?」! 

「アホ言え。話は進めるほうがええに決まっとるやんけ。状況はようわからんけど、綾波が本を読めるようにしたるんやろ?それやったら早よした方が綾波のためでもあるんとちゃうか」

 教室でみんなが見ている前でレイは泣いているのである。
 トウジの詭弁にギャラリーは納得してしまった。
 弱きを助けるというのは日本人の美意識に大きく訴えるものがあるからだ。
 レイを助ける=シンジの陳情=アスカがキスする、というルートがおかしいという風には思えなくなってしまうのだから人間の心というものは奇妙なものだ。
 そして、今その心を育みだしている少女もまた彼の言葉に乗せられてしまった。

「あなたが嫌なら、私が、するわ」

 レイが一歩踏み出してそう宣言すると、またもや当事者よりも先にギャラリーが反応した。
 大きく湧く教室の中、ただシンジは明らかに狼狽していた。

「い、いや、あの、それは、まずいよ、うん」

「わかったわよ!はんっ!何よ、キスくらい!
まっ、馬鹿シンジが司令に陳情してOKもらうなんて絶対に無理でしょうからね!」

 何故、咄嗟に反応してしまったのか。
 アスカは一瞬驚いてしまった。
 そして、すぐに自分を納得させた。
 もしここでレイにキスをさせるということに決めてしまったならば、間違いなくトウジは鬼の首を取ったかのように、逃げた、と決め付けるだろう。
 それを避けるために自分がシンジにキスをすることにしたのだ。
 しかし、敵もさるもの、鬼の首はあきらめ、彼女の言葉尻を見事に掴んだのだ。

「はっはぁ〜ん、わかったで。今、ハードルを高くしたやろ。陳情しただけでも何か報酬ないとあかんわな」

「ふんっ、誰がそんな真似したってぇの?OKもらったらご褒美で特別に唇にキスしてあげようかしらって言おうとしたのよ」

 アスカは頬を真っ赤に染めて怒鳴った。
 畜生!
 こいつさえ突っ込まなければ誰も気がつかなかったのに!

「ちゅうことは、失敗してもキスするっちゅうこっちゃな」

「ふんっ、失敗してもホッペにくらいはしてやってもいいわよ、馬鹿らしい。キスなんて挨拶代わりみたいなもんよ」

 アスカは教室の天井に向かって宣言した。
 みながそこに何かがあるのかと思ったくらいに、斜め上45度の角度で顎を上げた彼女の首筋を見て、シンジは頬を少し染めた。
 白くて綺麗だ、と
 そして、少年は思った。
 もし…。
 もし、父親を説得できれば、アスカにキスしてもらえるのだ。
 そして、失敗しても頬にキス…。
 そこまで思考が進んだ時、シンジは目覚めた。

 馬鹿シンジ!お前は何を躊躇っているんだ!
 本を読んで、やる気になったはずじゃないか。
 それ何に全然変わってない。
 父さんが何だ。 
 やる気になったら出来る。
 まずは、失敗を恐れずに前に進むんだ。
 行け!馬鹿シンジ!

「あ、あのさ…。と、とにかく、行ってくるよ、うん」

 燃える決意の割には話切れの悪い台詞だったが、それでも彼は精一杯の勇気を奮い起こして言葉を発した。
 ちらりとアスカを見たが、なおも天井を見上げているので彼女の表情はつかめない。
 しかも彼の背中をトウジがどんと叩いたので、シンジは身体を前に泳がせてしまった。
 わっと小さく叫び声をあげてようやく足を踏ん張った。
 なんとも情けない決意表明である。

「センセ、しっかりしぃや」

 トウジの言葉に男女の違いなく笑い声が上がる。
 笑っていなかったのはアスカだけであった。
 シンジは愛想笑いを浮かべ、レイも微笑を零している。
 それは別に注意して見ていなくとも充分に笑顔と判断できるものだった。
 




 そして、放課後。
 アスカは同行せずにレイとスーパーマーケットに買い物に行くと言い出した。
 そして7時になっても帰ってこなければ調理を始めるとシンジに通達したのだ。
 だから彼は慌てて学校を飛び出していった。
 急がないとその時間までに帰宅できない。
 シンジは学校前から出ている駅までのバスに乗り、ジオフロントを目指した。
 早く着け、早く着け、と念じながら。
 もっとも肝心の父親にどうやって話をするかはまるで思い浮かばなかったのだが。

「さぁて、馬鹿シンジは行っちゃったし、アタシたちも行きましょうか」

 アタシたちというのはアスカとレイのほかにヒカリもいる。
 実は買出しの途中にヒカリからカレーの美味しい作り方を学ぼうと考えていたのだ。

「私、どうして、行くの?」

「ふんっ、読書しちゃいけないんだったらアンタすることないじゃない。馬鹿シンジの代わりに荷物持ちね」

「あなたが持てば、いい」

「却下。あんたのために馬鹿シンジが行っちゃってるんでしょうが。だから、アンタがするの」

「わけが、わからない」

「ふんっ、勉強不足じゃないの?世の中、ギブ・アンド・テイクなのよ。知らないのぉ?」

 からからと笑うアスカは憎まれ口を叩いているが、ヒカリの目にはかなり楽しげに見える。
 しかし、綾波レイという同級生は扱いが難しそうだが実は簡単そうにも感じた。
 そのどちらかはまだわからないが、人付き合いの下手なアスカがコミュニケーションを取れているのだから自分にも可能なのではないか。
 今後はレイとも仲良くしていく必要が…、いや自然と仲が良くなっていくだろうとヒカリは予感した。
 それに何だかレイも楽しそうに見える。
 何故だろうかと見てみると、いつもの無表情ではなく少し膨れているように感じるのだ。
 それは物凄く微妙なものだったが、はっきり違うとヒカリには言い切れた。

「あ、そうだ。アンタも食べてく?」

「お肉、嫌い」

「肉のないとこ食べたらいいだけでしょうが。ってことで、食事を振舞われる以上、アンタも荷物持ちくらいしないとねっ。はっはっは」

 実に偉そうに決め付けると、アスカはずんずんと歩いていく。
 その後ろをついていくヒカリがちらりとレイを見ると、彼女は苦笑していた。
 まさに、それは苦笑と形容すべき表情だった。
 仕方がないなぁ、と台詞をつけてもいいくらいに僅かだが苦笑していたのだ。
 そしてその表情が物語るように、レイは反抗もせずに足を進めたのである。
 その時、ヒカリはふと思った。
 彼女の呼び方は綾波さんのままじゃ駄目なんじゃないかしら、と。
 やはり名前で呼ぶべきだろう。
 レイさん、とか、レイ、とか。
 そして、また思った。
 アスカはどう呼ぶつもりなんだろうか。
 今のところは、アンタ、で済ませているようだが。




 シンジの奮起エネルギーはかなり減衰していた。
 これならばぎりぎりまでアスカに一緒にいてもらった方が良かった。
 そんな弱気な考えが彼を包んでいる。
 もっともこれまでの彼ならばそれで足を止めていたかもしれない。
 しかし、今日のシンジは違った。
 ぎりぎりのところで踏みとどまっていたのである。
 『飛ぶ教室』のウリーのように勇気を出してそれまでの自分を変えるんだ。
 傘をさして2階から飛び降りるなどということより、父親に頼みごとをする方がどれだけましか。
 そのどちらかを選択しないといけないのなら、迷わず頼みごとの方を選ぶ。
 彼はいつもの「逃げちゃ駄目だ」や誰かに助けを求めることもしなかった。
 ただ腹に力を入れ、歯を食いしばって、一歩一歩足を進めていたのである。
 そしてようやくシンジは執務室の前まで到達した。
 彼は大きく息を吸い込み、ドアをノックした。

 ゲンドウは引き出しの中に慌てて文庫本をしまった。
 もちろんその時に読んでいたページがわかるようにそこに引き出しの中にあった名刺を挟むことにも抜かりはない。
 そして彼は息子を部屋の中に招き入れ、いつものようにサングラス越しに睨みつけた。

「どうした。用があるなら、早く言え。わしは忙しい」

 そう。
 彼は早く続きを読みたかった。
 マリラがアンを乗せて馬車で進んでいるところだ。
 結局彼女はアンを引き取ることにしたはずだが、どうしてその気になったのか彼は覚えていない。
 筋だけを追って読んでいた報いであろう。
 従って今回は熟読しているので、これまでとはまったく違う感覚で読み進めていたのだ。
 こんなペラペラと口数の多い赤毛の娘など自分なら絶対に引き取りはしないと思いながら、それでも彼は引き取る理由を早く知りたいと痛感していた。
 それなのに邪魔が入った。
 しかもそれはわが息子である。
 別の者ならば即座に追い返していたところだろうが、彼はシンジを中に入れてしまった。
 そのことがゲンドウにとって大きな変化であることを彼自身が気づいていない。
 おそらくは世界中でほんの数人だけであろう。
 ゲンドウという男が実は愛情がかなり深い男だということを知っている者は。
 もちろんその範囲は極めて狭いものではあるが、だからこそ逆に深いとも言える。
 そのことを知って、彼を愛したのがユイであり、リツコだった。
 そして冬月もまたゲンドウという男の性格を知っていた。
 ただ野望のためだけに彼がゼーレと手を組んでいたとき、冬月はユイの為に手を貸していたのだ。
 決してゲンドウに同調したわけではなかった。
 知的好奇心を揺さぶられ、そしてそこにユイがいたからである。
 老いらくの、しかも決して実ることのない恋だからこそ、しんねりと粘り強い想いになったのかもしれない。
 そして彼女を失ってからは、冬月は積極的にゲンドウへ手を貸した。
 ユイをサルベージできるかどうかは科学者として疑問もあったが、ゲンドウの熱情に突き動かされてしまったのである。
 この男、これほどまでに彼女を愛していたのか。
 そんな男だと知って彼女は結婚したわけか。
 その頃からである。
 冬月もまた、ゲンドウのおかしみ、愛らしさに気がついたのだ。
 まるで出来の悪い弟のようなものだと、苦笑する時もあった。
 そしてシンジを遠ざけた理由もレイを引越しさせた理由も、ゲンドウの口からは何一つ聞いていないのだが、冬月はすべてを了解していた。
 シンジが傍にいれば深い愛情を息子に注いでしまい、その結果妻の不在を仕方のないものと受け止めてしまっていたことだろう。
 そのことは冬月には手に取るようにわかっていたから、何も言わずに彼を見守っていたのである。
 ただそこでシンジやレイたちに何がしかのフォローを入れられないという点においては、冬月もまた家庭的な性格を持っていなかったということだろう。
 
「どうした。早く言え」

 父親に睨みつけられ、シンジはかなり動揺した。
 
「ぼ、僕…」

 その後が続かない。

「忙しいと言ったはずだ。わしはお前のように暇ではない」

 シンジはごくりと唾を飲み込んだ。
 よし、言うぞ。
 ところが決意を込めて口を開こうとした時、思いもかけない言葉が父親の方から飛んできた。

「用が済んだら帰りに赤木君のところに寄れ。そこで本を受け取り、レイに渡せ」

「本?」

「本も知らんのか、お前は。文庫本が10冊ほどある」

「綾波に…渡せばいいの?」

「そうだ。いいな、任せたぞ」

「う、うん。わかった」

「よし。で、何だ、お前の用は」

 よくわからないが肩の荷はすっかり降りてしまった。
 気負いこみと緊張から解き放たれたシンジは安堵感に満ち溢れにっこりと微笑んだ。
 その微笑みは数ヶ月前に再会して以降、父親へと向けられたことがない類のものであった。
 いつも父親に何かしらの負の感情を交えて接していたために、このような心からの笑みを向けたことはなかったのである。
 そして、その笑みはゲンドウの心を打った。
 10年以上前、幼いシンジはいつもこんな邪心のない笑みを私たちに向けていたではないか。
 こいつは、肩車をしてやって喜んだことを覚えているだろうか…。
 なるほど自分の選択は正しかった。
 ゲンドウは内心大きく頷いた。
 こんな笑顔の息子と一緒に暮らしていたならば、シナリオ通りに計画を進めることは到底できなかっただろう。
 息子のために未来を掴もうとしていたに違いない。
 その選択は正しかったが、どうやら間違っていたようだ。
 もしあの世というものがあるならば、ユイにとんでもなく叱られるに違いない。
 かわいい息子を放りっぱなしにして何をしてたんですか!という声が聞こえるようだ。
 ゲンドウは苦笑した。

「ご、ごめん。えっと…」

 何か別の用件を言おうとしたが、即座に方便を思いつけるような彼ではない。
 結局はありのままに伝えるしかなかった。

「綾波が読書を禁止されたって聞いて、アスカが父さんに抗議してこいって…。あ、いや、つまり、アスカは親切から…」

 アスカが叱られるかもしれないとシンジは慌てた。
 しかし、ゲンドウはただ素っ気無く言っただけだった。

「ふん、くだらん。さっさと帰れ」

「う、うん。……」

 シンジは机の前から離れた。
 そして開いた扉から出て行く前に振り返って、父親に向かって言った。

「父さん。ありがとう」

 それだけ言うと、彼は相手も見ずに急いで廊下へ出て行った。
 扉が閉ざされると、ゲンドウはゆっくりとサングラスを外し机の上に置いた。
 扉を見つめる彼の眼差しは優しく温かく見える。

「ふん、何がありがとうだ。馬鹿め」





 意外にもレイの本の奪回は成功した。
 そのことによるシンジの喜びは彼女には申し訳ないことにアスカのキスに直結していた。
 レイがどんなに喜ぶだろうかなどという感想はその時はまるで持っていなかったシンジである。
 彼は喜び勇んでリツコの部屋に行く前にアスカに連絡をしたが、残念ながら通話中だった。
 ちぇっと彼にしては珍しく舌打ちをして、まるでアスカみたいだと一人で笑った。
 心は軽く、足取りも軽かった。
 誰もいない廊下をスキップでもしようかと思ったのだが、咄嗟にやり方を思い出せなくて結局普通に歩く。
 だが、抑え切れない歓喜は少年を駆け出させた。
 好きな女の子にキスしてもらえるという未来はとてつもなく明るい。
 早く本を手に入れ、そして家に帰るんだ。
 走らないようにという張り紙などない長く薄暗い廊下をシンジは息を弾ませながら駆け続けた。

 リツコの部屋からアスカに連絡すると、驚いたことにレイとカレーを作っているところだと聞かされた。
 約束は7時まで作らないで待っているということだったじゃないか、と突っ込みを入れようと思ったが思いとどまる。
 喧嘩などして、もうひとつの大いなる約束の方がふいになってしまっては困るからだ。
 本の返還を伝えるとアスカは喜び、すぐにレイに向けて怒鳴っている。
 レイの返事は聞こえないが、満足そうなアスカの声音で彼女も喜んでいることはわかった。
 そしてリツコが一緒に帰り、直接レイに本を渡すと言っていることを伝えると、アスカはこう返してきた。

『だいじょうぶ!カレーはたんまり作ってるから!』

 それはリツコにもカレーを振舞うという意味なのだろう。
 電話を切った後にそのことを伝えると、まさかミサトのレシピじゃないでしょうねとリツコに警戒された。
 絶対に違うとシンジが断言すると、それならご馳走になるわとにっこりと微笑み、彼女は本が入った紙袋を掴んで立ち上がった。

 マンションに戻るまでの道のりをシンジは少し緊張して歩んだ。
 リツコと二人きりというシチュエーションはあまりなかったからだ。
 部屋の中で二人というのはあるのだが、こうして交通機関を一緒に利用しているというのはどこか違う。
 座席も離れて座るのも変なので隣に腰掛けた。
 ミサトとは電車などに一緒に乗ることはないのでこういう距離感はない。
 アスカのことが大好きなシンジだったが、やはり大人の女性の色気というものを感じてしまう。
 それで同行というレベルではないのだが、気恥ずかしいという気持ちになってしまうのだ。
 だが、リツコの方は当然のことだがシンジなどまったく意識していないので素知らぬ顔で隣に座っている。
 いたたまれない気持ちのシンジは鞄から本を取り出した。
 『赤毛のアン』はまだ読みきっていない。
 ブックカバーをアスカが拒否しているのですぐにその本が何であるか見て取れる。
 読んでいるとわかって困るような本ではないでしょうが!とのことだが、男子であるシンジはやはり抵抗があった。
 しかしこの場ではそうも言っていられない。
 読書することでお隣さんのことを意識しないといけないからだ。
 ところがその当のお隣さんが気軽に声をかけてきたのだから、シンジとしては逆効果だった。

「あら、シンジ君も読むのね。『赤毛のアン』」

「あ、は、はい。アスカのを借りて…」

 リツコ相手には砕けた調子で話をすることができない。
 とりあえず、ミサト同様に“リツコさん”とは呼んでいるもののやはりこの友達同士の二人それぞれへの接し方は違う。
 実生活で同居しているミサトとは親近感が違うのだ。
 だから緊張してしまうのだろう。

「面白い?」

「は、はい。アンがすることが物凄いから…」

「アスカとダブる?」

「え…」

 リツコは質問したものの答を求めてはいなかったようだ。
 驚いたシンジを放っておいて、腕組みをし足も組んで目を閉じた。
 眠ったわけではないだろうが、後は好きに読書しなさいという意思表示だとシンジは受け取った。
 彼は示されたとおりに読書に取り掛かったが、今の問いかけが頭に残ってしまっている。
 アスカとアンは似ているだろうか。
 アンは孤児で、アスカには母親がいるし父親も健在のようだ。
 アスカの髪は赤っぽいが赤毛とまでは言えないのではないか。
 ただ、時々アンのように素っ頓狂な言動をすることはある…。
 もしアスカがアンとすれば、自分はギルバートになれるかなぁ。
 シンジは本から目を上げて、窓の向こうを流れていく街の灯りに目をやった。
 あの時、その後の物語を知らないままに、アスカはシンジのことをギルバートだと決めつけた。
 今でもそう思ってくれてたらいいな…。
 シンジは遠くを流れる灯りを流れ星に見立ててそんな事を願った。




 リツコから本を返却されたレイは本当に嬉しそうだった。
 それを見ていた他の者がみな微笑んでしまうほどに。
 その中でシンジはどう切り出していいのやら真剣な悩みを抱えていたのである。
 学校で交わした約束では父親を説得し本を返却させることができれば唇へのキスが代償だったはずだ。
 でもそれをどう主張すればいい?
 明るく「約束だから」などと口にすることができるシンジではない。
 もしかするとそれを見越してアスカはあんなことを約束したのかもしれないではないか。
 シンジが求めなかったからしなかったので、それは約束不履行ではない、と。
 でも、自分は何もしていないのではないか?
 確かにアスカとのキスは他に比べ物がないほどにしたくてしたくてたまらない。
 何しろ大好きな少女とのキスなのだ。
 だが、もし自分が言う前に父親から言われたと知られたら?
 アスカのことだから激怒して、シンジのことを罵倒するのではないだろうか。
 しかもことはキスなのだ。
 挨拶代わりなどとは強がっていたものの、もしシンジが嘘をついてキスをさせたと知ったら、アスカは絶対に許さないに決まっている。
 最初はラッキーだと思っていたシンジである。
 何も言い出さなくても父親が勝手に話を進めてくれた。
 自分さえ何も言わなければ、そのようなことを誰も知ることはないだろう。
 あの父親がべらべら喋るとは思えないし、自分が胸を張ってちゃんと交渉したといえば済むだけの事だ。
 それだけのことがシンジを苦しめた。
 どうやって切り出そうかと考えていたことが次第に言い出すべきかどうかということに変化している。
 勝手に話を作って困る者はアスカ以外にいないのではないか。
 しかし…。
 シンジの頭にさきほどの執務室でのやり取りが掠めた。
 その結末が良かったからだろうか、父との会話に不快なものはまったく入り込んでいない。
 別に優しい言葉などかけられてもいないのだが、あの時の父はいつもと違っていたような気がする。
 そうだ、身近に感じられたのだ。
 今、ここでアスカとのキスを望むあまりに嘘を言ってしまえばどうなるか。
 あの時の二人のやり取りはなかったことになってはしまわないか。
 父の愛を求める少年としてはそれはできない相談だった。
 しかも別に頬へのキスは確定しているのだから、唇は…。
 シンジは苦笑した。
 やっぱり簡単には諦められない。
 自分にとっては最初で最後のチャンスかもしれないのだ。
 もしこのままアスカとキスすることがなく時間が過ぎていけば…。
 彼女が日本を離れて、そして別の男と……。
 そ、そ、そ、そんなこと絶対に嫌だ!
 シンジは心中に思い描いた最悪の想像に顔を歪めた。
 
「アンタ馬鹿ぁ?何突っ立ってんのよ」

 呆れ声が耳に飛び込んでくる。
 我に帰ったシンジは既にテーブルについている3人を見た。

「み、ミサトさんは?」

「はあ?何言ってんのよ。さっき話したでしょうが」

「え…」

 シンジにはまったく記憶がなかったが、同席しているレイとリツコが無表情のためにそれがアスカの冗談とかの類とは判断できない。
 だから恐る恐ると確認してみた。

「ご、ごめん。聞いてなかった」

 ここで冗談なら大笑いするところだろうが、アスカは大きな溜息を吐いた。
 
「起きながら寝てるんじゃないわよ。ミサトは松代に行ったの。帰りは明日。わかった?馬鹿シンジ」

「そうなんだ」

「そういうこと。だから今日はこの4人で晩餐。こら、ファースト。こっそり肉を除けないのっ。っていうか、まだいただきますしてないでしょうが!」

「私、言ったこと、ないから」

「くわっ、何て礼儀知らずなのっ。これまで一度もないわけぇ?」

「ないわ。だって教えてもらってないもの」

「ふんっ、そんなの常識でしょうが。わざわざ教えてもらうもんじゃないわよ」

 ああ、そういえば、アスカに「いただきます」を教えたことはなかったっけ。
 シンジはそのことを思い出して、それは万国共通の挨拶かと納得しかけた。
 しかしそれは誤解だったのだ。
 そのことがわかったのは食後のことである。
 4人はカレーを食べたそのままの位置で、食後のコーヒーを飲んでいた。
 食器の洗い物はアスカが素早く終えている。
 そのコーヒーを飲み終えれば、リツコとレイは葛城家を退出する予定だったが…。

 アスカとレイが作ったカレーは普通の出来だった。
 素晴らしく美味しいわけでもなく、不味いと感じてもいない。
 普通のレシピで作ったものだから当然の成り行きだろう。
 だが、その普通さが逆にリツコには嬉しかったのである。
 野菜がごろごろしている普通の家庭のカレーというものはここ数年食した事のない彼女だった。
 味はともかくその見た目がある種の郷愁を彼女にもたらせたのだ。
 もっともそれは母親の作ったものではなく、亡き祖母が作ってくれたカレーであったが。
 科学者で忙しい身であった母親は家庭的な部分はほとんど示してくれなかった。
 その時リツコはふと思ったのである。
 同じような境遇のアスカはどうだったのだろうか、と。
 亡き惣流キョウコは料理をアスカに作っていたのかしら。
 そもそも「いただきます」のような日本的な挨拶を彼女に教えたとすれば、それはアスカの死んだ母親ではなかったのか。
 そんな些細な好奇心をリツコが口にしたとき、彼女たちの運命はまたもや大きく変化していったのである。
 
「アスカは誰から教わったの?神様への祈りと『いただきます』はニュアンスが違うと思うけど?」

 リツコは飲み干したコーヒーカップを置き、正面に座るアスカに声をかけた。
 その口調はいつもの厳しさの欠片もなく柔らかいものであった。
 だからこそ、アスカも素直に返答したのだろう。

「ママ。ちゃんと言わないと食べさせてくれなかったもん」

「そう。まだ小さい時のことなのにずっと続けていたのね」

 アスカに何と言おうか。
 食事中は休止していたその悩みに戻ろうとしていたシンジの耳にリツコの言葉が引っかかった。
 小さい時のこと?続けて?
 アスカの母親はついこの間も電話をかけてきていたではないか。
 ドイツ語(たぶん)で挨拶されるのは電話をとった彼にしては戸惑うどころかパニックに陥ってしまう。
 挨拶も返さずに慌ててアスカに受話器を渡すのがいつものパターンだった。
 しかし、小さい時に教わったってどういう意味なのだろうか。
 ふいに浮かび上がった疑問にシンジの表情が変化した。
 もちろん彼に真実を想像することなどできはしない。
 だから彼の顔に表れたのは“疑問”という種類の表情だった。
 その表情を目に留めたのはアスカとリツコである。
 アスカは知らぬ顔をしてやり過ごそうとしたが、リツコの方は頓着しなかった。
 アスカが何故自分の家庭環境について黙っているのかなど考慮もしない。
 何故なら惣流キョウコの死亡など少し調べれば誰にでもわかることなのだから。
 ただ、これまでシンジがそのような調査などしなかっただけのことである。

「あら、シンジ君は知らなかった?アスカのお母さんは10年ほど前に亡くなっているのよ」

 その時、表情を変えなかったのはレイだけだった。
 アスカは椅子から立ち上がりリツコをぐっと睨みつけ、シンジは息を呑んで同居人の少女を見つめる。
 赤金色の髪がぱっと広がり収まるまでの間、アスカの横顔は微動だにして動かなかった。
 その横顔が綺麗だと心の隅で思いながらも、少年はずっと知らされていなかった秘密に愕然とした。
 アスカ、も、母を亡くしている…。
 その事実はシンジを打ちのめした。

 アスカに睨みつけられたリツコは寧ろ微かに笑みを浮かべていた。
 その黒い瞳は彼女から逸らさずにじっと見つめ返している。

「言ってなかったの?お母さんのこと」

 問いかけには答えず、険しい表情のままじっとアスカは睨みつけている。
 隣で見ているシンジならば思わず目を逸らしてしまいそうな力がそこにはこもっていた。
 しかし、リツコ相手にはいくら凄みをきかせようとも効果はまるでない。
 何しろ彼女はゲンドウの愛人であり、また彼との結婚を決意するほどの女傑なのだから。
 リツコは瞬きもせずアスカを見つめ返したまま、シンジに向かって言葉を発した。

「シンジ君は調べなかったの?惣流キョウコならばインターネットでも簡単に検索できるわよ」

「え…」

 シンジは絶句した。
 アスカのことに興味はある。
 何しろ好きな女の子なのだから。
 しかし、その興味が彼女の履歴書のような類の事象に向くことはなかったのだ。
 そのことにこれまで彼は疑問を挟まなかった。
 物心ついた頃からいたることに詮索をしないように性格づけられてしまっていたのだ。
 好奇心の欠如。
 そう言い切るのは極端かもしれないが、それに近いものを碇シンジは持っているに違いない。
 何しろ彼は碇ゲンドウの血を分けた息子なのだ。
 リツコはなおもアスカを見つめながら話を続けた。

「おそらく学校の同級生はそのほとんどが知っているはずよ。シンジ君の友達だって、そう。
みんなはシンジ君が当然知っているものだと思ってことさらに話題にしていないのよ。
何しろ今は片方でも親がいることで幸福だと感じるような時代なのだから」

 さばさばした調子で喋り続けていたリツコは唇を閉ざした。
 シンジは驚きのあまり口を幾度かぱくぱくと上下に動かす。
 言葉が出てこない彼の代わりに、アスカが低い声を漏らした。

「嘘ばっかり」

「あら、賭ける?」

 そこで沈黙が訪れた。
 睨むアスカに、見つめるリツコ。
 やがて、すっとアスカが視線を逸らした。

「バッカらしいっ。アタシのママが生きてようが死んでようがそんなのどうでもいいじゃないっ」

 どすんと椅子に座ったアスカは、しかしシンジの方を向きはしない。
 ちらりと隣の少女を見たシンジだったが、彼女の表情は窺い知れなかった。
 その時、突然レイが口を開いた。

「帰って、いい?本を読みたいから」

 それは誰に向かってというような感じではなく、寧ろテーブル上のコーヒーカップに向かって投げかけられていた。
 何とコーヒーが初体験だったレイは一口ずつ唇へと運びながらミルクと砂糖をふんだんに追加していきようやく好みの味にしつらえていたのだった。
 そのコーヒーも飲み干されていて、おかわりを求めることもなくレイはただじっと黙っていたのである。
 リツコが横目で窺ったが、今の緊迫したやり取りをどのように感じていたのか、その変化のない表情からは何もわからなかった。
 
「勝手にしなさいよ」

「了解。勝手にする」

 吐き捨てるように告げたアスカに対し、レイはさっさと席を立った。
 隣に座るリツコは軽く肩をすくめると、彼女もまた立ち上がった。

「それじゃ私も帰るわ。アスカ…?」

 リツコの呼びかけを受けてもアスカは微動だにしない。
 憤りがその身動きしない身体から溢れてきている。
 一瞬、リツコはこの後二人きりにして大丈夫だろうかと思った。
 しかし、すぐに思い直す。
 ここで世話を焼きすぎるとかえって彼らのためにならない。
 ただ、一言だけ残していこうと彼女は決めた。

「アスカ、あなたは何故お母さんが死んでいることをシンジ君に隠したのかしら…」

 それは質問ではなかった。
 言うならば、問題提起、といった類の言葉であろう。
 そして、そのリツコの思惑はアスカとシンジに通じた。
 二人はそれぞれの心の中で彼女の言葉を反芻した。

 何故……。

 考え込んだ二人はいつの間にリツコとレイが姿を消したのか気がつかなかった。
 それほど一生懸命に考えてこんでしまったのだ。
 特にアスカは簡単に出した最初の答を打ち消してしまっている。
 いや、次々に出してくる答をもう一人の自分が否定しているのである。

 同情されたくない。

 アンタみたいな情けないヤツと一緒にしてもらいたくない。

 アンタには関係ない。

 ……。

 どれもこれも当たっているようで、どうもしっくりこない。
 それらすべてが微妙に重なり合っているのだと、結論を出そうとも思った。
 しかし、それを否定する自分がいた。
 アスカは気がついていなかったが、もしこの質問を1週間前にされていたならば簡単に答を出していただろう。
 それはその時の気分次第で、あれこれと変っていたであろうが。
 そもそも彼女はシンジの感想文を盗み読んだ時に、機会があれば自分の家庭環境のことを話してもよいと考えていた。
 そのことを思い出したものの、それまで黙っていた理由を考えるとすんなりと答を導き出せないのだ。
 何故ならば、この数日でアスカ自身の心に変化が訪れてきているので、以前の自分の気持ちを量りかねているわけである。
 ただそのことに彼女自身が気がついていないからこそ、答が出てこない。

 シンジの方は例によって堂々巡りをしている。
 しかもその思考は結局自分を彼女がどう評価しているかという見当違いの方向を向いていた。

 自分などどうでもいいからそんな大切なことを話していなかった。

 そうだよね、アスカにとっては僕なんか…。

 でも、僕と一緒に暮らしているって事は…。
 
 違う違う、やっぱり僕なんか男とも思ってないんだ。

 だけど、時々挑発してくるのは?

 違うってば。あれは挑発じゃなくて僕が勝手にそう感じているだけで、アスカは気にしてないから…。

 彼の思考はきりがない。
 くるくると回る円形の鉄道路線のようなものである。
 しかもそれは大都市を巡る環状線ではなく、子供の玩具レベルの円周軌道のようなものだ。
 彼の思考はそれほどに大きく広がってはいないが、ただしもちろんシンジにとっては物凄く重要なことに決まっている。
 そして、その堂々巡りの中心がアスカであることに少年は当然気がついていた。
 彼女に好かれたい。
 その一心で自分の評価を上げたり下げたりしているだけのこと。
 
 そして、碇シンジの方が先に唇を開いた。
 それは質問に対する答ではなく、彼女に好かれたいという思いから発せられた言葉だったのである。
 椅子から立ち上がったシンジは隣のアスカに向き直った。

「ご、ごめん。き、き、キスはいいから。だって、あれは父さんから言い出したんだ」

 アスカの瞳が動いた。
 唇を噛み、腕を組んで、じっと虚空を睨みつけていた、その蒼い瞳がさっとシンジの方に動く。
 しかし、彼女は唇を開かなかった。
 それはいきなりのシンジの発言を咄嗟に咀嚼できなかったためなのだが、彼はそう受け取れない。
 それはそうだろう。
 誰しも重要な告白をした後は時間が数十倍の速度で流れるものである。
 シンジにとってはその数秒が何分にも感じられてしまったのだ。
 となれば当然、彼としては言い訳を連発せざるを得ない。

「あ、あのさ、つまり、僕は言わなかったんだ。あ、いや、言うつもりだったんだよ、うん。
父さんの顔を見たらすぐに言うつもりだったんだけど…」

 言い訳というものはやたら誇張してしまうものである。
 すぐに言えずにいたということを糊塗しようとしてシンジは泥沼に足を踏み入れた。

「す、するとね、父さんの方から。うん、僕より先に父さんがいきなり…。えっと、僕から何も言えないくらい素早くて…」

 喋りながらシンジは背中に冷や汗をかいた。
 自分で言っておきながら、その場の光景がまったく浮かんでこない。
 それはアスカも同様だった。
 言った言わないということだけをシンジが連発しているのだが、最初にキスという単語が出てきたところを見ると明らかにレイの本の件だろう。
 しかし、シンジが語るその内容で考えると、どうしてもそこにいるのはシンジとゲンドウの父子ではない。
 シンジが力説すればするほど、アスカがイメージするのはじっと黙りこくっている二人の姿だ。
 睨みあうわけでもなく、父親の視線を避けてどこか…そう、机の上あたりを見つめている姿がシンジには似つかわしい。
 そう思うのだが、しかしどうだろう。
 今のシンジはじっとアスカを見ていた。
 それは暗に一生懸命に言い訳しているためで、もし自分が彼女を見つめながら話をしていることに気がついた途端にシンジは目を逸らしてしまうに違いない。
 
「で、さ…」

 シンジの言い訳の隙間を見つけ、アスカは言葉を強引に挟んだ。
 だがそれはゆっくりとした口調で乱暴さなどまるでなかった。
 だからこそ余計にシンジは口を噤んでしまったのであろう。
 まるでサーブ権が相手に渡った時のようにシンジは固唾を呑んで彼女の次の言葉を待った。
 アスカは唇の端を邪悪に歪めながら、馬鹿らしいことこの上ないという感じで「はっ」と息を吐いた。

「アンタ馬鹿ぁ?アタシがママのことを黙っていたこととレイの本のことがどうして関係あんのよ」

「へ?」

「何だか物凄く重要なことを喋っているみたいだけどさ。結局、その話とアタシに何の関係があるのよ」

「だ、だから、それは、キ、キス…」

「だ、か、ら、ぁっ!ママのこととキスには関係ないでしょうがっ」

「あ…」

 少年は間の抜けた表情を見せた。
 なるほどその通り。
 彼の頭の中ではその二者は確かに繋がっていたからこそ最前の発言に至ったわけである。
 しかしながらその分岐点をシンジは既に見失っていた。
 従ってアスカに指摘されて関連を言葉にしたくてもできず、さらには彼女が何故黙っていたかということを自分が考えていたのかでさえ危うい気持ちになる。
 だからこその間抜け顔であり、その表情を見てアスカは苦笑せざるを得なくなってしまった。
 ああ、馬鹿。
 少女は同居人のことをそう思いながらも、その時気持ちがふっと軽くなったことに気がついた。
 少年の方は同じ馬鹿という単語を心の中で自分に連発していた。
 
「座んなさいよ、馬鹿シンジ」

「あ、うん」

「馬鹿、違うわよ。あっち」

 アスカが顎でこなしたのは彼女の真向かいの席。
 先ほどまでリツコとレイが座っていた側だ。
 怪訝な顔をしたシンジにアスカは並んでたら話しにくいでしょと素っ気無く言う。
 その言葉を聞いてシンジは素直にテーブルの反対側に向かった。

「さて、と」

 椅子に座ったシンジを見て、アスカはニヤリと笑った。
 そして、彼女はうんとばかりに一度大きく頷いた。
 対人的なものについてはすこぶる勘が鈍い…と自他共に認める少年は彼女の動きの意味がつかめない。
 そのことを承知していたアスカだったが、言動の説明には何も触れずにすぐに話を切り出した。
 いささか早口でシンジに質問の余裕など与えないほどに彼女は言葉を急いだ。
 
 シンジにとっては驚く以外には反応ができない内容である。
 母親が死に、父親は再婚し、その相手との間に男の子もいる。
 つまりアスカには母親の違う弟がいるということだ。
 それらの事実に愕然としたシンジだったが、その後の話には声を失ってしまった。
 アスカの実の母はエヴァンゲリオンの起動実験中に事故にあっている。
 そして精神を犯された母親にアスカは首を絞められた。
 挙句にアスカは首をくくった母親の姿を見てしまった…。

 さすがにそれらのことを話すにはかなりの勇気が必要だったアスカは母親の死に関することは話の最後に持ってきている。
 それは無意識にしたことだが、シンジの心に訴える効果は絶大だった。
 また、アスカは途中からシンジの顔を見ずに喋っている。
 見られない。
 彼がこの話をどう思うか、確認しながら話すなどできっこない。
 露悪趣味もなければ、彼女にそこまでの心の強さはない。
 だからこそ目線を逸らし、そして事実を包み隠さずに話したのである。
 
 アスカは不思議だった。
 確かにこの話は誰にもしたくないと心に決めていた。
 同情されたくないし、人に弱みなど見せたくはなかったからだ。
 ところがどうだろう。
 話しにくいのは事実だし、早口で喋っているにもかかわらず、彼女が予想していたような心の曇りは発生しなかったのである。
 きっと暴れたくなるような気分になるに違いない。
 気分が悪くなってしまうだろう。
 それが予測できたからこそ話を急いだというのもあった。
 そして話し終えたとき、彼女は心の中で「よしっ」と呟いた。
 涙もこぼしていないし、感情的にもなっていない。
 ところがシンジの方が大いに感情的になってしまったのだ。

 見る見る彼の顔が歪む。
 それは話を終えて、数秒ほどの静寂が訪れた時だった。
 くしゃくしゃっと鼻を中心にその表情が乱れた。
 アスカは息を呑んだ。
 知っている。
 この表情は…。

 あの時、鏡の中に映った5歳の彼女自身のものと相違ない。
 散々泣いてから、二度と泣かないと誓ったのだ。
 そして、彼女の読みは当たった。
 さすがに声を出しはしなかったが、シンジはぼろぼろと涙をこぼしたのである。

「アンタ、アタシに同情してるわけぇっ?馬鹿にするんじゃないわよ!」

 アスカはそう叫ぶつもりだった。
 しかし、その言葉はついに彼女の唇から発することがなかったのである。
 それは彼女が叫ぶ寸前に、シンジが先に声を出したからだった。
 鼻水を啜りながらなので最初は何を言っているのかわからなかった。
 よくよく聞いてみると、どうやら謝罪のようだ。
 ところどころに「ごめんよ」が挟まっているのでそうと知れたわけである。
 すぐに謝るのはシンジの悪い性格だと常々思っていたアスカだったから、彼女はそれで不愉快になっただろうか。
 否。
 アスカは胸の辺りがぎゅっと締め付けられたように感じていた。
 なんとも表現が難しい気持ちだったが、けっして不快ではなく、寧ろ温かいものが心にあふれてきたようだった。

 何故ならば、シンジが本気で謝っているのがわかったからなのである。
 いつもの口癖のように何となく謝罪の言葉を出しているのではなく、涙を流しながらのものは初めて見た。
 それはシンジに限った話ではない。
 年上の者ばかりしか知らないアスカはこんなに全力で謝る人間など見た事がなかった。
 悔し涙を浮かべる者を見たことはあるが、あとは街中で見かける子供くらいなものだ。
 そう、まるで幼い子供のようにシンジは泣いている。
 アスカは唇を噛み締めた。
 自分の鼻からすぅっと息が長く漏れていくのが聞こえる。
 それに目の周りが熱くなってきているがわかった。
 アスカは必死にその熱いものを堪えた。

 アタシは泣かないっ。

 泣いてたまるものか。
 こんな子供のように無様に泣く姿を誰にも見られたくはない。
 自分がこれまでそんな姿を見せたのは…。
 声をあげて泣いたことは確かにあった。
 しかしそれはいつも…。
 そうだ、ママとパパ!
 アスカは息を呑んだ。
 












 一瞬でアスカの記憶が甦った。
 エヴァンゲリオンなどまったく関係のない記憶。
 まだ3歳になっていない、幼い彼女は父親の本に落書きをした。
 厳密に言うと、アスカは塗り絵をしたつもりだった。
 うまいねと誉めてもらえる。
 いや、ありがとうと父親に喜んでもらえるものと思ったのだ。
 父親の本棚の中にあった黄色い本。
 他の本は地味な色をしていたのにその本だけがあざやかな黄色い背表紙をしていたのである。
 その本を彼女はずっと気にしていた。
 両親のどちらかに尋ねればすぐに答は返ってきただろう。
 しかしアスカは自分の力であれが何かを見たかったのだ。
 そして、いい機会が来た。
 母親と二人だけでいたある昼下がり。
 夏だというのに外は吹雪いていたが、家の中はセントラルヒーティングのおかげでぽかぽかとしている。
 研究に疲れていたのか、惣流キョウコは娘のベッドによりかかるようにしてうたた寝をしていた。
 昼寝から目覚めたアスカは母親がぐっすり眠っていることを知ると、チャンス到来とこっそり寝室から抜け出す。
 おそらくその時、幼き娘の表情にはさぞかし邪悪な笑みが浮かんでいたことであろう。
 その原色が鮮やかに見える背表紙の本をしっかりと彼女は目に捉える。
 椅子を引っ張ってきてその上に乗ったアスカは本をようやく取り出した。
 その本の表紙の文字を読むより先に表紙絵の方に目を惹かれた。
 わおっ!
 思わず漏らしてしまった声を押さえ込むように手で口に蓋をして、寝室の方をおっかなびっくりで窺う。
 だが彼女が恐れていた物音は聞こえてこない。
 よかった、母親は目を覚まさなかったようだ。 
 黄色の表紙にはこういうものが描かれていた。
 町の通りを歩く大人の後姿。
 その服はすべて緑色で、頭には黒い山高帽が乗っかっている。
 そして、彼から離れた後には白い大きな柱に二人の子供が隠れていた。
 歩いている緑の男を見張っているようだ。
 手前に柱と子供、向こうに緑の男がいてその横には商店が並んでいる。
 絵としては簡単なものだが、そこにはなんとも不思議な空間が見て取れた。
 おそらくは男と柱から伸びる黒い影がその効果をあげているのだろう。
 しかしアスカにそんなことがわかるわけもなく、彼女はただその不思議な絵に心を奪われていたのだった。
 見ているだけで何だかわくわくする気分になる。
 頭が良いアスカはすでにあれこれと単語を覚えていたが、作者名や題名を読み解くよりも先に他にも絵がないのかページをめくってみた。
 しばらくは文字ばかりで彼女は唇を尖らせたがそのうちに挿絵が出てきた。
 しかもそれは10ページも続いたのである。
 アスカはにんまりと笑ったが、その絵を見ているうちに不満を覚えてしまった。
 何故ならば、その絵には色がついていなかったのだ。
 鮮やかな黄色の表紙と緑色の服の男に真っ白な柱、そして黒く伸びた影。
 それらの色のとりなす表紙があまりに印象深かったわけだ。
 そして、アスカは思いついた。
 本の中にある挿絵には当然色がついていない。
 よし、ならばこの自分が色を塗ってやろうではないか。
 得意まんまんの彼女は意気揚々とクレヨンを手にした。

 30分後、アスカは大声で泣いていた。
 嘘泣きではない。
 声も枯れんばかりに、本気で泣いていたのだ。
 うたたねから覚めたキョウコが娘を発見した時には、その本のありとあらゆる挿絵に色が塗られていたのである。
 もっともいくら頭が良かろうが、まだ3歳にもなっていないアスカにうまく色を塗れるわけがない。
 落書きとしか見えないようなその惨状を見て、キョウコは娘を怒鳴りつけた。
 てっきりお褒めの言葉を頂戴できるかと思っていたアスカは瞬間何が起こったのか理解できない。
 しかしその本が父親の大事にしていたもので、亡くなった父親から買ってもらったものだと教えられ、しかも悪戯書きだと決め付けられたことでアスカの涙腺は決壊した。
 母に叱られ、父親が帰宅するまでは部屋から出てはいけませんと子供部屋に閉じ込められたアスカは声が枯れるまで泣き続けた。
 「ごめんなさい」を連呼しながら。
 両親に許してもらえないと、もう絶望しか残っていない。
 アスカはひたすら泣くしかなかった。
 父親が帰宅した時、アスカは泣きつかれて子供部屋の床で丸くなって眠っていた。
 真っ暗な闇の世界に足を引っ張られ、助けてと泣き叫んでも母も父も知らぬ顔をしている。
 そんな悪夢を見ていたアスカは母に起こされ、泣き寝入りをした前の状態に戻った。
 別に母親が怖い顔をしていたわけではない。
 叱りつけたときの様な眦を吊り上げた表情はもうしていなかったが、それでもアスカにとっては母親の様子を窺うような余裕がない。
 見る見る顔を歪めると涙を溢れさせた。
 眠ったために涙と泣き声の補充ができたのだろう。
 大声で泣き出したアスカに母親は父親が帰ってきたので謝りなさいと言い残し部屋を出て行った。
 父親に叱られる!
 アスカはこれまで父親に叩かれたり大声で叱られたことはない。
 母親からは時々頭をぽかりと叩かれたり頬をつねられたりということはあった。
 そんなお転婆のアスカだったが、父親からの叱責はほとんど経験がない。
 だからこそ、彼女は恐れた。
 どんな風に怒られるのだろう。
 父親に叩かれたなら死んでしまうのではないか。
 そんなことを思うとさらに涙が溢れてくる。
 アスカはぺたんとお尻を床につけてわあわあと泣いた。
 すると、その頭にそっと誰かの掌が置かれた。
 いや、誰かではない。
 この大きな手は父親のものに違いない。
 アスカは事情を説明しようとした。
 しかし言葉にならない。
 父親の顔すら見上げることができなかった。
 彼の掌は優しげにぽんぽんと小さくアスカの髪の毛を叩く。
 心配しなくていいよとの父親からの声なき思いはすぐに伝わった。
 だから彼女は顔を上げたのだ。
 父親は膝を曲げて自分の前にいる。
 アスカは何とか言葉を出そうとした。
 「ごめんなさい」とようやく口にすると、父親は黙ってアスカの両脇に手を差し入れ彼女を立たせた。
 すると父と娘の顔の位置がほぼ同じになる。
 父親は微笑んでいた。

 結局、父親からの叱責はなかったが、安堵したために幼い娘はまた泣き出した。
 母親の方は娘を叱らなかった夫に苦笑していたのもアスカは芋蔓式に記憶の古池から引っ張りあげた。
 そしてその日の晩御飯は彼女が落ち着くまで待たねばならなかったのである。
 アスカはその日のことを思い出した。
 3歳前のことだからすべて思い出すことは不可能だったが。
 それでも何故こんな思い出を忘れてしまっていたのだろうか。
 母の自殺、父の再婚、エヴァのパイロットとしての日々の鍛錬、その他諸々の事どもが彼女の記憶を封印していたのか。
 アスカは違うと思った。
 これは特別なことではなかったのだ。
 この頃のアスカの家では家族の平穏な暮らしというものが日常だった。
 だからこそ特別な出来事として記憶していなかっただけのことだ。
 それが今思い出したのは号泣しているシンジを見たからであり、そしてその記憶はアスカの身体を動かした。




 シンジの目は涙で曇っている。
 だからアスカの顔も見えないのだが、その一方で彼女の様子を見ようとも思っていないのは確かだ。
 胸が苦しく、喉も痛い。
 泣くことはこんなに身体に負担をかけるものなのか。
 涙ぐむことはあっても号泣した記憶はここ最近ではないことだ。
 いや、こんなに泣いたのはあれ以来ではないか。
 5歳のとき、父親に置き去りにされたプラットホームでのこと。
 あの時も全力で泣いた覚えがある。
 それは母親の葬式の時よりももっと切実に悲しかったのだ。
 母の遺体を見ていないので実感がなかったのである。
 いくら言葉で説明されても幼い子供にわかるわけがない。
 しかし、がらんとした駅のプラットホームで父親が姿を消してしまったという現実の方は幼児にはおおいに実感できる。
 父親に捨てられたと思った幼いシンジは大声で泣きじゃくっていた。
 そのような大声ではないものの、今の身体の状態はあの時を彷彿させる。
 その時、頭に手を置かれた。
 父が戻ったのかと思い顔を上げたが、その時に見えたのは見も知らぬ中年男の顔だった。
 それが"先生"との出逢いだった…ということにまでシンジの意識が遡った時、あの時と同じような感触があった。
 髪の毛に触れるかどうかという微かな感じが一瞬して、そして思い切ったかのように頭の上にぐっと掌が落ちてくる。
 まさしく同じだ。
 ただ違うのは、目を開けたシンジの前には見知らぬ中年男ではなく、よく見知っている少女の姿がそこにあったということである。
 椅子から腰を上げてテーブル越しに上体を伸ばしていた少女は顔を歪ませて無理矢理に笑みを浮かべると悪態を吐いた。
 但しそれはいつもの調子ではない。
 喉に引っかかったかのように声が震えていたのだが、それがアスカの精一杯だった。

「泣くんじゃないわよ、馬鹿シンジ。みっともないったらありゃしないわ」

 彼女の思いは耳と目と掌を通して充分に伝わった。
 だからこそシンジは泣くのをやめねばと必死にがんばろうとするが、号泣停止スイッチなどというものが人間には備わっていない。
 彼はひくひくと出来損ないのしゃっくりのようなものをあげながら、それでも何とか涙を止めることには成功した。
 そして、ようやく「うん」とだけ言葉を出すことができたのだ。
 それを見てアスカは鼻を鳴らすと偉そうに頷く。
 本人としてはいつものように「はん!」と威勢良くいきたいところだったのだが、これも彼女の精一杯の虚勢である。
 アスカは壁の時計をちらりと見てさっと考えた。
 時差を考えると向こうは昼間。
 ちょうど義母が家にいるだろう。
 こういうのは勢いだ。
 今なら質問をぶつけることができる。

「アタシ、ちょっと電話してくるっ」

 それこそまさに宣言だった。
 アスカはシンジに向かって大きく頷くと、椅子をがたこと音を立てて動かし、電話機に向かう。
 子機を取り上げボタンをプッシュする彼女の姿をシンジは椅子に腰掛けながらぼんやりと眺めていた。
 彼にとっては何が何だかわからない。
 泣きむせいでいた自分を慰めてくれたのは確かだ。
 それは多分許してくれるということなのだろう。
 もっとも許すも何もシンジが号泣した原因がうまくアスカに伝わっていたのかどうかもよくわからない。
 しかし、彼には自信があった。
 伝わっているし、許してくれた、と。
 ただその自信を数値で示せと問われたならば彼のことだから低い数値を提示しただろうが。
 
 しかし、何故電話なのだろうか。
 シンジは首を捻った。
 アスカの行動パターンがまったく理解できない。
 泣いている自分を慰めてくれたかと思うと急に電話?
 だが、不愉快ではなかった。
 いかにもそういうところがアスカらしいような気がして、自然に微笑を浮かべてしまうシンジであった。

 たっぷり5分もの間、彼はアスカの後姿を見つめていた。
 涙も乾き、そのおかげで頬がひりひりし喉もからからだが、何事かドイツ語で喋っている愛しい娘をじっと眺めていられる幸福をシンジは噛み締めていたのだ。
 そして彼は数分後に迫る大きな運命の変化に気づきもしていない。
 それは使徒来襲よりも天変地異よりも、恋する少年にとっては大きな、物凄く大きな事件である。
 アスカが子機を電話機に置いた。
 そのあと数秒間、彼女は背中を見せて佇んでいた。
 どうしたのだろうかとシンジが怪訝に思い始めたその時、アスカはくるっと身体を回転させこちらを向いた。
 視力のいい少年は少女の表情が歪んでいることに気づく。
 それは怒りとか不満を示すものではない。
 鈍いと自他共に認めるシンジであったが、それだけは見ただけでわかった。
 ほんの3mほど向こう、壁際で佇む赤金色の髪をした少女の瞳は揺れて見える。
 どうして揺れて見えるのか、それは…。
 シンジが直感的に考えたその答を吟味する暇はなかった。
 何故ならば、吟味する必要がなくなったからである。
 この短い距離を彼女はどうやって全力疾走できたのだろうか。
 あっという間に迫ってきたアスカの瞳は濡れていた。
 目の前3cm。
 近すぎてピントが合いにくい距離で、シンジは呆然とアスカの顔を見つめていた。
 いや、顔以外は彼の視界に見えない。
 そのアスカの顔はじっとしておらず、めまぐるしく小刻みに位置を変えている。
 そして、少年は自分の顔に、厳密に言うと唇とその周辺に柔らかいものが押し当てられていることに気がついた。
 やはり彼は鈍いのであろう。
 アスカにキスされていることを認識したのは、なんと彼女が身体を離してからのことだ。
 キラキラした瞳でアスカが叫んだ。

「アンタっ!エーミールを寄越しなさいよ!」

 エーミール…?
 その名前が何を意味するのかを考えるより先に、シンジはアスカの言葉が出てきた場所を見つめた。
 薄い桃色をした唇。
 その時やっと彼女のその唇が自分の顔に押し当てられていたことがわかったのだ。
 彼は喜んだだろうか。
 いやいや、喜ぶよりも先にシンジは慌てふためいてしまった。
 何か言おうとするがただ唇がパクパクと小刻みに動くだけでまったく言葉にならない。
 胸の奥がかぁっと熱くなり、心臓の鼓動が破裂しそうなほどに音を立てている。

「馬鹿シンジ!アンタ、買ったんでしょうが!エーミール!」

 シンジはエーミールどころではない。
 それが何かなどもう考えることなどできるわけがない。
 好きな女の子にキスされたのだ。
 冷静に振舞うなどありえない。
 少年は無意識に立ち上がろうとした。
 自分が座っていたことさえ度忘れして、テーブルの縁に身体をぶつけよたよたとよろける。
 そして無様にもぺたんと床に尻餅をついてしまった。
 さすがにそこまでの過剰反応をされてしまうと、アスカも訝しげになろうというもの。

「アンタ馬鹿ぁ?何してんのよ」

 その居丈高な問いかけに対するシンジの答は簡単なものだった。
 彼は質問には答えず、ただこう呟いただけだ。

「……キス……?」

 シンジにキスをした覚えはアスカには大いにあった。
 ただし、それは恋愛感情の表現としてのキスではなく、感謝の印、いや嬉しさのあまりに特別サービスをしただけのことだった。
 あくまでシンジが与えられた任務を果たし、そしてその代償としてキスをするということが決まっていたからに他ならない。
 正直言って回避できるならば回避したいと思っていたアスカだったが、そんな意識はもう吹き飛んでしまっていた。
 彼女がずっと思い込んでいたことがたった一本の電話で間違いだと判明したからだ。
 温かい家庭は母親と父親が揃っていた十数年前にしかないという思い込み。
 父親は入院した母親を見捨てて別の女性を選び、自分もまた捨てられた…。
 実はその思い込みが幼い自分が作り上げた虚構ではないかと、アスカは徐々に考え始めていた。
 義理の母であるマリアと接していると、とてもそんな悪い女性とは思えない。
 そして父親のことをアスカは極力避けていた。
 彼女は私生活のほとんどの時間を宿舎で過ごし、父親が面会に来ても絶対に会おうとしない。
 保護者のサイン等が必要なことがあるので、義母とは顔を合わさざるを得なくなった。
 義母と顔を合わす回数が重なるごとに自分の敵意が薄れていくのをアスカは感じた。
 ただそれを表明することは彼女にはできなかったし、父親への憤りの方はあからさまにしたままで済ましたのである。
 義母を送って宿舎の駐車場まで父親が来ていることを知ったときも、アスカは会うとは口が裂けても言えなかった。
 もし自分のことを愛しているのならば、素直に姿を見せるはずだ。
 それをしないということは自分のことを疎ましく思っているということである。
 駐車場まで来ているのはあくまでポーズであり、あと30mほどの距離を歩み寄ってこないのがその悪意の何よりの証明であろう。
 まさか疎ましいと睨みつけてくる実の娘が怖くて顔を合わせることができないだなど、アスカに想像できるわけがない。
 父親は逞しく、強く、そして…優しかったのだから。
 しかし、アスカは父親が優しかったという事実を心の中に封印してしまっていた。
 父を憎むことが即ち彼女の強さのベースだったとも言えよう。
 アスカは父親を誤解したまま、10年近くの時間を過ごしたのである。
 
 それが、急に確かめたくなった。
 自分が本に落書きしたことを責めなかった父親。
 そのことを思い出したとき、知りたくて知りたくて仕方がなくなってしまったのである。
 あの黄色い背表紙の本はどうなったのか。
 義母に尋ねて知らないと答えられたならばそれはそれで現状と何も変らない。
 しかし、もし…。
 自分のために号泣してくれたシンジ。
 その姿が彼女を一歩踏み出させたのだ。
 それは14歳の少年であってもまだまだ子供だということをその泣き方で示してくれたからだ。
 小さな子供のように泣きじゃくっていたシンジとアスカは同い年である。
 自分だってまだ子供なのだ。
 だから間違えて判断する事だってある。
 そして、自分はシンジと違って大人なのだ。
 だから冷静沈着で、尚且つ余裕のある対応だってできる。
 そんな矛盾したことを同時に考えたアスカは、まずシンジを泣きやませることにした。
 そのような行為は彼女の知る限り生まれて初めてである。
 しかし、思いの外簡単にできたではないか。
 やっぱりアタシは天才!と自分を奮い立たせ、そして彼女は国際電話に取り掛かったのであった。

 義母の返した言葉はアスカの予想を大きく超えていた。
 あの落書きされた本を父親は宝物のように大事にしている。
 折に触れてページを開いては、優しい表情になり、時には涙ぐむ時もある。
 そうした姿を目撃している上に、実際に言葉で聞いた事もあった。
 そして何度も色を塗りたくったページを自慢げに見せられたと、義母は笑いながら話した。
 アスカはその言葉をただ聞くことしかできなかったのである。
 相槌すら打てずに息を呑んで、父親の姿をイメージした。
 それは意外と簡単なことであった。
 頭の中の父親は優しげな顔であの黄色い本を読んでいる。

 そうだ、これがアタシのパパだ…っ!

 その瞬間、アスカの心にあった隔壁は砂の城のように崩れ去ったのである。
 そしてさらに重大な情報が彼女にもたらされた。
 アスカが落書きをした本はケストナーの『エーミールと探偵たち』だったのだ。

 だから、彼女はシンジに『エーミールと探偵たち』はどこにあるかと尋ねたのだ。
 もっとも、興奮のあまり題名の一部しか叫んでいないので、シンジにはまるで伝わっていなかったのはご愛嬌であろう。
 その上、彼はアスカにキスされたことで驚き、尻餅までついてしまったのである。
 当然、彼女は怒った。
 自分のキスがまるで汚らわしいものとして受け取られたかのように誤解したのだ。

「アンタ、コロスわよ。そんなにアタシのキスが気持ち悪かったわけぇ?」

 返答次第では、いや返答する前にもう廻し蹴りを食らわそうと身体を捻ったアスカである。
 しかし、その脚はついにシンジの身体に触れることはなかった。
 彼の返答がまったく想定外のものだったからである。
 恍惚とした表情を浮かべた少年は質問者の顔も見ず、ただぽつりと「最高…」とだけ呟いた。
 いつものぼけっとした顔だったならばそのまま脚が飛んでいったことだろう。
 ところが、あの内省的なシンジがここまで素晴らしい笑顔になるかと思うくらいの晴れ晴れとした表情なのだ。
 いくらなんでもそんな顔をした人間に廻し蹴りができるわけがない。
 アスカはゆっくりと脚を下ろすと、シンジの前に蹲った。
 彼はなおも至福の笑みを浮かべている。
 その表情を眺めて、アスカは戸惑ってしまった。
 同居人の少年はたまに感じの良い笑顔を浮かべることはあるが、ここまで晴れ晴れとした笑みなど見たことがない。
 悪いものでも食ったかと言いたくなるくらいであったが、自分のキスを悪いもの認定などできっこない。
 となれば、シンジにとってそんなに“最高”のものだったのだろうか、自分のキスが。
 アスカは目を彷徨わせた。
 シンジから視線を外し、部屋の天井あたりを見上げる。
 先ほどまでの不愉快さは消えていた。
 今感じているのは…。
 そう、戸惑いと、そして恥ずかしさだ。
 耳の後ろあたりがむずむずとする。
 この感覚は何なのだろうか。
 ママやパパに褒められた時の…、いや違う、あんなのとはちょっと違う、もっと…もっと…。
 結論は出なかった。
 アスカは1分ほど、彼女にとっては信じられないほどの長い間考えたのだが、よくわからなかったのだ。
 何はともあれ、悪い気はしていない。
 それだけは確かだ。
 それに自分のキスを最高を評してくれたのであるし、しかもいまだに笑顔を浮かべているのだから、シンジに乱暴狼藉を働くのはやめておこう。
 とりあえず、今は。
 彼女は拳を握った。

「いてっ」

 頭を軽く叩いて反応があったのは1秒ほどの誤差があった。

「ふんっ、アタシの質問に答をしないアンタが悪いのよ」

 尻餅をついたままのシンジが見上げると、それは偉そうに腰に手をやり仁王立ちするアスカがじっと彼を見下ろしている。
 その表情には特にいつもと変わりはない。
 いつもと変わりがないというのは、このポーズをとっているときの高慢な感じということだ。

「えっと…」

 恋する女にキスされて舞い上がっていた彼が現実世界に着地した時、当の相手はキスのことなどまったく知らぬ顔で自分に対している。
 寧ろ、怒っている……?

「だからっ!質問に答えなさいって言ってるんでしょうがっ」

「質問って?」

「アンタ馬鹿ぁ?『エーミールと探偵たち』はどこかって何度言えばいいのよっ!」

 もしシンジがカウントしていたのならば“1度”と答えていただろう。
 アスカはそれまで『エーミール』としか言っていなかったのだから、それで本の題名とはすぐにわかるわけがない。
 しかし記憶が乱れているシンジは思わず「ごめん」と返してしまった。
 それは口癖でもあったのだが、質問に対する返答でもあった。
 何故ならば彼はまだ『エーミールと探偵たち』を購入していなかったのである。

「取り寄せなんだよ、『エーミール』は。『ふたりのロッテ』と『点子ちゃんとアントン』だったらだめ?」

 シンジは今日購入した2冊の本の題名を挙げた。
 しかし、当然アスカは納得するわけがない。
 アスカが見たいのは、あの懐かしい『エーミールと探偵たち』なのだ。
 その上、シンジが彼女に見せた本はアスカの記憶を揺さぶる装丁をしていた。
 少年文庫となっているので、彼女の覚えている大きさよりもかなり小さく見える。
 色も黄色ではないのだが、その表紙のイラストは何となく『エーミールと探偵たち』に描かれていたものを髣髴させた。
 そうなれば一刻も早く確かめてみたいのが人情だろう。
 見る見る不機嫌モードに入っていきそうなアスカにシンジは慌てて声をかけた。
 在庫があれば明日には入荷すると本屋の店員が言っていたと告げると、アスカはじろりと彼を睨みつけた。

「命賭ける?」

「えっ…」

 自分の命と1冊の本を天秤にかけられるわけがない。
 口よどんでしまうのは当然だろう。
 
「はんっ、決まり。もし明日『エーミール』が手に入れられなかったら…」

「ち、ちょっと待ってよ。勘弁してよ。僕死にたくないよ」

「アンタ馬鹿ぁ?誰がアンタに死ねって言ったのよ」

 それはあなたです、とは言い返せないシンジである。
 どうせ言ったとしても、そうは言ってないと返されるのが落ちだ。
 事実、アスカはそのように言葉を継いだ。

「命を賭けるかどうかって聞いただけでしょうが。そうねぇ、もし駄目だったら…」

 シンジはごくりと喉を鳴らした。
 その音を聞いたアスカは目を細める。

「当分、料理当番から外れてもらうわ」

「えええっ」

「本の1冊も手に入れられない不甲斐ない男の料理なんて食べられますかってぇの」

「そ、そんなぁ…」

「まあ、明日は美味しいって評判の2日目のカレーだし。明日の夜に『エーミール』がアタシの手に届かなかったら明後日からは…」

 冷静に考えると、それはアスカにとって仕事が増えるだけの話ではないか。
 それが自分でもおかしいなとも思っていた。
 しかし、どうにもこの同居人はここ最近料理を作りたがっている。
 そこを取引の道具に使うなんてアタシは天才!と彼女は心の中で自画自賛していた。
 実際、シンジは慌てふためいた。
 せっかくアスカといい関係になっているのに、それでは一歩下がることになるじゃないか。
 もしそうなったとしても関係が悪くなるわけではないのだが、思考回路がショートしてしまっているシンジにはもう冷静な判断などできるわけがない。
 彼は約束した。
 絶対に手に入れる、と。
 明日本屋さんに連絡して入荷しそうになかったら町中の本屋をしらみつぶしにする。
 そこまでの決意を秘めて、彼は約束したのだ。
 その表情があまりにおかしく、アスカはけらけらと笑った。
 そして、つい言ってしまった。

「もし、手に入れることができたら、今度こそキスしてあげてもいいわ」

 










 さて、物語というものは、基本的にはじめと終わりが揃って成立しているものだ。
 従って、このお話もまた物語というものの法則に従い、どこかきりのいいところで“終わり”の文字を記さねばならない。
 そしてやはりその終わりの刻に出番が与えられるのは、読書を通して人生が変わった少年少女たちであらねばならないだろう。

 その翌日のことである。

 まずは朝。

 レイは登校するとまず教室を見渡した。
 しかし、心が急きすぎたのか学校に到着したのがいささか早すぎたようだ。
 一番乗りをして誰もいない教室を見渡すと、なんと少しばかりつまらなさそうな表情を浮かべ、彼女は自席につき文庫本のページを開いた。
 昨夜から返却された本の続きに読みふけっていたのでやや睡眠不足気味である。
 熱心に文字を辿っているのだが、教室にひとりふたりと生徒が現れるたびに彼女はちらりと目だけをそちらに向ける。
 それはお目当ての人物が登校してくるまでずっと続いた。
 8時12分、その人物は3歩後に同居人の少年を従えて後部扉に姿を現した。

「ぐぅ〜てんもぉ〜げぇ〜んっ!」

 肩に鞄を引っ掛けたアスカはいつもよりも2割増しの明るい声を張り上げた。
 別に彼女のご尊顔を拝し奉るつもりのない者でも思わず彼女を見てしまう、それほどにご機嫌この上ない朝の挨拶だった。
 ここは小学校かと、ぶつくさ呟いたケンスケのわき腹をトウジが肘で小突く。
 いつもならば売っていない喧嘩まで購入しがちな彼ではあったが、今朝は事情があってそれどころではなかった。
 1時間目がはじまるまでに宿題を写してしまわないといけないのだ。
 彼の名誉のために記しておくが、思いを寄せる少女との接点を増やすためにわざと宿題を忘れたのではない。
 素である。
 宿題を見せてくれとケンスケに頼むが一度は断ならないといけないという儀式をヒカリが誤解してノートを見せてくれたわけだ。
 トウジにとってみれば、まさしく棚から牡丹餅。
 彼としては精一杯の恐縮と虚勢を見せて只今宿題を写しているところだ。
 今アスカと面倒ごとはできない。
 そこでケンスケに挑発しないように注意を促したのである。
 そちらの事情も了解している彼は苦笑して溜息を吐いた。

 さて、昨日の朝もアスカはご機嫌で登校してきたことを覚えておいでだろうか。
 その時は挨拶してすぐにヒカリの元に向かったのだが今日は違った。
 アスカがどのように動こうとしていたのか、それは彼女自身にしかわからないこととなった。
 何故ならば、アスカが挨拶後に足を進めようとしたとき、つかつかと歩み寄ってきた生徒がいたのだ。
 それは彼女の登校をずっと待ち望んでいたレイである。

「私、引っ越すの」

 朝一番、いきなりの発言だった。
 自分に向かってきたスピードもさることながら、唐突の発言を微笑みながらされてしまってはアスカも瞬時に対応できなくて当然だろう。
 一瞬、ドイツかアメリカか海外に引っ越すのかと想像した自分をアスカは蔑んだ。
 それはない。絶対にない。
 エヴァのパイロットが父親の急な転勤とかで引っ越すなどという学園ドラマの登場人物のようなことをエヴァのパイロットがするわけがないではないか。
 紛らわしい発言をするなと怒鳴りつけようとしたが、目の前の少女の笑顔を見てはそうもできない。
 アスカは苦々しさを一生懸命に押さえ込んで言葉を喉の奥から引っ張り出した。

「……まずは、挨拶でしょうが。朝、顔を合わせたら『おはよう』って言うのが常識ってもんよ」

 教室がざわざわとした、声なきざわめきに包まれた。
 あの惣流・アスカ・ラングレーが常識を語っている。
 さすがに彼女の表情はかなりひきつって見えたが、それでも仁王立ちすることなく平静を装う姿は2年A組としては既に非日常の光景といってよい。
 そのことを違和感なく受け止めたのはシンジとレイ、それにヒカリだけだった。
 レイはこくんと頷いた。

「おはよう。私、引っ越すの」

 アスカは溜息を吐いた。
 そして、ふっと笑った。
 この女、どうしても引っ越すということを伝えたいようだ。

「で、どこに?」

「赤木博士のところ」

「ふぅ〜ん」

 なるほど、そういうことか。
 昨日のふたりの様子を考えれば何となくわかるような気がする。
 アスカとシンジはともにそのように思った。
 自分たちがミサトの庇護(かどうかよくわからないところもあるが)の下にあるように、レイがリツコと一緒に暮らすことも不思議ではない。
 たった二つの台詞ではあったが、それで伝えたいことのすべてだったのだろう。
 得心したように席に戻ろうとするレイにアスカは声をかけた。

「アンタ、その赤木博士っていうのやめた方がいいんじゃない?」

 レイの足がピタリと止まった。

「赤木博士は、赤木博士」

「アタシたちはミサトって呼んでるわ。『赤毛のアン』でも…」

 アスカはにんまりと笑った。

「アンはあの二人の事を何て呼んだっけね」

 それだけ言うと、アスカはレイの傍らを通り過ぎさっさと自分の席に向かう。
 その後を追うシンジはレイを見て、「おはよう」と言いにっこりと微笑む。
 それはいつもの愛想笑いではなく祝福を意味するものであることは彼女に充分伝わった。
 ただしまだまだ“心”成長中のレイはただ「おはよう」と無表情に返しただけだった。
 何故ならば彼女の頭の中では、アンはマシューとマリラのことを何と呼んでいたかを思い出すのに夢中だったからだ。

「よっしゃ、もうちょいや」

 予鈴まであと3分弱、トウジはラストスパートに忙しくケンスケのちゃちゃに反応しなくなった。
 腕組みをした彼は挨拶をするシンジに右手を上げた。
 
「シンジ、今日ゲーセン行かないか?ここんとこ付き合い悪いぞ」

 ケンスケの目的は発言の後半にあった。
 別にとりたててゲームセンターに行きたいというわけではない。
 要はここ最近急激に“いい感じ”になってきているように見える、
 それをからかおうとしたのだが、ケンスケの目論見は外れた。
 てっきり困った表情でうろたえる友人の姿を見られるものと予想していたのだが、ケンスケは耳と目を疑った。
 さすがに凛々しいとか精悍としたとまでの表情ではなかったが、それでもこれまでのシンジとは明らかに違う。

「ごめん。今日は絶対にはずせない用があるんだ」

 文字にすると他愛もないが、実に爽やかな表情で、実に朗らかな声音なのだ。
 ケンスケはただ「そうか」としか言えず、トウジはシャーペンの手が止まってしまった。
 そんな友人たちを尻目にシンジは自分の席に向かった。
 そして、扉付近で立ち止まったままだったレイも頭の中で答を出しすいすいと窓際の席に向かう。
 その時、予鈴が鳴り、我に返ったトウジは残り3行を大慌てで書き写すのだった。



 放課後となった。
 ここが、この物語の終わりとなる。

 まず最初は、ファースト・チルドレンの話だ。

 綾波レイは同級生の誰よりも早く教室を出た。
 今日は掃除当番ではなかったのは彼女にとって何よりも幸いだった。
 何故ならば、彼女は今日引越しをするからだ。
 彼女は鞄を掴むと、さっさと廊下に出た。
 彼女の学園生活で初めてクラスの誰よりも先に教室を出たのである。
 しかし、廊下を早歩きで進んで数秒、レイは重要なことを思い出し踵を返した。
 教室に舞い戻った彼女は教室の掃除当番のためにうんざりとした顔で座っているアスカとやる気満々で立ち上がっているシンジのところに歩み寄る。
 そして、レイは言った。

「さよなら。また明日」

 早口で言うと、彼女はじっと仲間の顔を見つめた。
 一瞬戸惑ったアスカだったが、すぐにふふふと笑う。

「じゃあね、がんばんなさいよ、引越し」

「さよなら、綾波」

 うんと大きく頷き、レイは素早く扉に向かう。
 日常生活で挨拶は必須。
 まるで幼児のように彼女は普通の生活を送る術を吸収していっている。
 廊下は走るなという規則だからレイはそれを遵守していた。
 しかし、今日は早歩きで昇降口に向かっているものの、いずれ、そう遠くない時に、彼女も廊下を走るかもしれない。
 アスカほどの全力疾走はしそうもないが。

 校門を出たレイはその脇に堂々と停まっている青い外車を目視した。
 葛城ミサトの車、と認識はしたもののまさか自分を待っているとは思いもよらず、レイはそのまま歩み去ろうとした。

「レイ。乗りなさい」

 呼びかけたのはリツコの声。
 助手席の窓から顔を覗かせているのは私服姿のリツコだった。
 扉を開け道路に出て座席を前に倒した彼女はレイに乗るように促す。

「荷物はないって言ってたけど一応準備したわ。運搬車と荷物持ち兼運転手」

「こらぁ、リツコ!ルノーを運搬車扱いしないでよ!」

 運転席から身を乗り出したミサトだったが、彼女の顔は笑っていた。
 その膝には『アンの夢の家』の文庫本が乗っている。
 レイを待つ間に読んでいたのだろう。
 それを見て、レイはわずかに笑みを漏らした。
 リツコの部屋は小さく、二人で住むには少し狭いかもしれないと聞いている。
 だがいくら広くてもあの殺風景な団地よりは大きくましな筈だ。
 そう、あの部屋が殺風景だということを感じるまでには彼女の心は成長していた。
 ただしそれを如何にすれば潤いのあるものにできるかというような手法といったものまでは身に着けていないが。
 それも時間の問題だろう。
 この引越しで、レイの心にまた新たな感性が加わる筈だ。
 少なくともミサトの部屋のようにだらしなくはなく、その部屋は整理整頓されている。
 そして、わずかだが猫グッズもあれば、たまに花が飾られるときもあるのだ。
 そのような状況を想像することもなく、レイは今日身についたばかりの一般常識を実行した。

「こんにちは」

「あ…、こんにちは、レイ」

 驚いた表情でミサトが慌てて挨拶を返す。
 レイが挨拶をするなどとは考えもしていなかったので、その拍子に膝から本が落ち慌てて拾い上げる。
 そんな友人の反応を見て微笑んだリツコへ、レイは意を決して言葉を投げかけた。

「馬車じゃないのね、……リツコさん」

 リツコは瞬間息を飲んだ。
 馬車云々というのは意味がわからない。
 おそらく『赤毛のアン』もそういう描写があるのだろう。
 それよりも問題は、レイが自分のことを名前で呼んだということだ。
 一晩で何があったのか。
 彼女の心に何が加わったのか。
 アスカの一言がきっかけとは露ほども知れず、リツコはただ優しげな微笑を浮かべた。

「早く乗りなさい。それから…」

 リツコが開いているドアの傍らでレイが彼女を見つめた。

「さんは付けなくていいわ」

 レイは一度瞬きをし、そして頷く。

「了解。リツコ」

 短く返事をしたレイは身をかがめ、後部座席へと身体を滑らせた。
 リツコはそんなレイの動きを見送って、あの「了解」と言う癖はやめさせないといけないと心に誓った。
 おそらくはマリラがアンに施した躾よりは楽だろう。
 アンよりはレイは素直であるように思えるからだ。
 しかし問題は躾ける方の自分にそれほどの一般常識があるかどうかだろう。
 苦笑したリツコは助手席に座った。

「運転手さん、行っていいわ」

「かっ、いい気なもんね。わたしゃ馬か」

「御者でしょ。馬はこの車」

「へいへい、それじゃせいぜい落馬しないようにしっかりつかまってなさいよ!」

 威勢のいい言葉とは裏腹に他者のシートベルトをちらりと確認し、それから膝の上の文庫本をダッシュボードへとしっかりとしまいこむ。
 それからエンジンキーを回したミサトであった。
 その時、レイはその文庫本を読むにはあと4冊読了しないといけないと思い、そして『アンの夢の家』の話がどういうものかを考えただけでわくわくした気分になった。
 しかし、なんといい題名だろうか。
 アンの夢の家。
 そして彼女は今から引っ越すリツコの部屋に思いを馳せた。
 そこはどんな部屋だろうか。
 本棚はあるのかどうか。きっとある。あるに違いない。
 そこにはどのような本があるのか。
 今はテーブルの上に重ねて置かれているアン・シリーズの文庫本を本棚に置かせてくれるだろうか。
 そんなことを考えると、気持ちが高揚してくる。
 これからの新しい暮らし。
 これまで考えたこともなかったが、日々の生活とはかくも素晴らしいものだったのか。
 一日一日を生きるということが、その時間の中で普通に暮らせるということがいかに幸福なのか。
 ああ、その幸福を確かめるために、人は周りの者に挨拶をするのではないだろうか。
 おはよう、こんにちは、いただきます、ごちそうさま、さようなら、おやすみなさい……。
 そうだ、ありがとう、とか、ごめんなさい、という類の言葉も挨拶に入るのかもしれない。
 レイは助手席のリツコの横顔を見つめた。
 目を閉じている彼女は何を思っているのか。
 どうして自分と一緒に暮らそうと、この人は言い出したのだろうか。
 昨日からずっと考えていて、そして答の出てこない疑問をレイは再び考えた。
 マリラは…アンを何故引き取ったのだったかしら…。
 滑るように走り出した車の後部座席で、レイは聞こえるかどうかという呟きを漏らした。

「神は天にいまし、世はすべてこともなし…」





 少年は走っていた。
 体育の授業でもここまで真剣に走ったことはないだろう。
 シンジは駅前に向かうバスの停留所に向かって必死に駆けた。

 昼休みに、本屋に電話をしたところ、在庫がなくすぐには入荷しないと聞いている。
 だから彼は学校が終わると、市内の本屋をしらみつぶしに探すつもりだった。
 まずは一番大きな本屋に向かう。
 そこになければその周りから…。
 きっとある。
 絶対にある。
 彼は教室の掃除が終わると、アスカに「行ってくるね」とだけ言い残し、教室から飛び出していった。
 数秒後、慌てて舞い戻ってきた彼は忘れ物である鞄がアスカの手に持たれているのを見た。
 
「あ、ごめん」

 受け取ろうとさし伸ばした彼の右手に、アスカは鞄を渡さなかった。
 シンジは怪訝な表情を浮かべ、そして困ってしまった。
 こういう差し迫った時に子供っぽい冗談は勘弁して欲しい。
 彼女のための本を探しに行くのではないか。
 しかし、それは彼の早合点だった。
 アスカは素っ気無く言った。

「アンタ馬鹿?鞄なんて邪魔でしょうが。このアタシがわざわざ持って帰ってあげるんだからね。『エーミール』を手に入れられなかったらただじゃすまさないわよ」

「あ、えっと、ありがとう」

「ふん、わかったならさっさと行きなさいよ。時間がもったいないわ」

「う、うん!いってきます!」

 言うが早いか、シンジは駆け出した。
 廊下を走るななどという規則などどうでもいい。
 もし先生に見つかっても素知らぬ顔で逃げ切ってやる。
 明日叱られたらそれでいいではないか。
 彼としては前向きな、それでもそういうことを考えること自体まだまだ後ろ向きなのだが、そんなことを考えながら彼は階段を3段抜かしで飛び降りていったのだ。

 バスが来るまであと10分少し。
 足踏みを続けているシンジは時計を見て考えた。
 ここから駅前まではバスで10分足らず。
 合計20分。
 ここから走ればどれくらいかかるのだろう。
 20分?30分?
 ああ!そんなことを考えている間に走ればいいじゃないか!
 シンジは意を決して坂道を駆け下り始めた。
 もしかすると途中でバスに追い抜かれるかもしれない。
 だが、ここでじっと待っているなどできやしない。
 それに…。
 自分の力で本を手に入れたかった。

 昨日のアスカからのキスは本当にあったのかどうか、アスカに誤魔化されてシンジはとうとう自信が持てなくなってしまったのであった。
 彼にとってはまさに文字通り夢のような出来事なのだから、夢想したことと考えてしまえばそうではないかと思ってしまう。
 そもそも昨日は自分からキスをしなくていいと宣言しているではないか。
 しかし、今日中に『エーミールと探偵たち』を手に入れることができるならば、今度こそ(!)アスカがキスしてくれるという。
 どの場所にキスかまでは確認できなかったが、頬だけでも、いや手の甲でもいいではないか。
 そりゃあ唇ならば最高だけれども、そんな大きな野望を抱いたらいけない。
 とにかく!
 自分の力で本を手に入れる。
 誰にも助けてもらわなくていい。
 いや、キスして欲しいからだけじゃない。
 『エーミールと探偵たち』が手に入ったならアスカがどんなに喜ぶだろうか。
 聞けば父親との想い出の本というではないか。
 何としても手に入れないと!
 ああ、でもやっぱり、キスして欲しいよぉ!
 アスカが喜んで、僕も喜べれば、どっちもいいことになるじゃないか!
 くそぉ、もっと身体を鍛えておくんだった!
 いろいろなことを考えながら、シンジはちらほらと下校する生徒たちの間を縫うようにして走った。

 そして、彼はふと思いついた。
 今度の日曜日に本棚を買いに行こうと。
 しっかりとした、高い家具は買えないけれども、組み立て式のものならばそんなに高くないはずだ。
 きっとアスカも賛成してくれるだろう。
 その本棚に二人で買った本を並べるんだ。
 そして、それが…、その本棚が…。
 シンジの頬が赤くなる。
 それは自分の限界にまで身体を動かしていたからではなく、将来の展望が大きく彼の心に広がったからだ。
 もしかすると……。
 もしかすると…………。
 もしかすると………………!
 それにはまず本を!
 違う、違う!
 本を餌にするんじゃなくて、もっともっと自分を…。
 もっとしっかりしないと!
 ここ最近、毎日何度も決意していることを改めてシンジは心に誓った。
 その隣を駅前行きのバスが追い抜いていったが、それで脱力するどころか彼はさらに足を早めた。
 負けるもんか!
 負けてるけど、負けるもんか!





 時間を少し戻すと、とある教室の窓から蒼い目の少女がにやにや笑いながら一人の少年を見下ろしていた。
 彼は下校中の生徒たちをかきわけるようにして疾走している。
 もっとも大家の女性が運転する車のように縦横無尽に障害物を避けて走るような真似はできず、生徒にぶつかっては謝罪してまた走るということを繰り返していた。
 その光景を眺めているのはアスカひとりだった。
 掃除をしていた面々は既に教室から姿を消し、彼女一人がシンジが一生懸命に動いている姿を文字通り高みの見物をしていたのである。
 こらっ、そこの男子、シンジに道をあけなさいよっ。
 もうっ、女子連中ぺちゃくちゃお喋りしてないでさっさと歩きなさいよ、まったくっ。
 そんな悪態もまた楽しげである。
 やがて、彼女の視界からシンジの姿が消えると、アスカはふっと溜息を吐いた。
 急に寂しさが身体の周りを包んだように感じる。
 誰もいない教室を見渡すと、彼女は「帰るか」とぽっつりと呟いた。

 左手にふたつの鞄を持ち、アスカはぶらぶらと廊下を歩く。
 今日は昨日作ったカレーを食べる予定だから、買物に行かなくてもいいし…。
 でも、すぐに帰るっていうのも…。
 何故、帰宅を急がないのか自分でもよくわからなかった。
 もしシンジがすぐに本を手に入れたとすれば、家に帰ってきて自分がいないと落胆するのではないか。
 大丈夫、どんなに早く手に入れたとしてもまだ45分以上かかるはずだ。
 まさか駅前からタクシーを飛ばすなんて考えたりしないでしょうからね。
 そもそも効率よく探すのならば、電話帳で本屋さんに片っ端から電話をすればいいのではないか。
 そんな簡単なこともしないで人力に頼るなんて、ホントに馬鹿…。
 階段を降りながらそんなことを思っていたアスカはふと足を止めた。
 もし…。
 彼女はふっと息を吐いた。
 もし、シンジがそんなことをする、合理的に物事を推し進めるような少年だったならば…。
 そんな目から鼻に抜けるようなヤツと一緒に暮らしていけるもんか。
 アレはアレだから…。
 だから…、どうなんだろう。
 まだ、わからない。
 何かがわからない。
 それがわからないから、アタシは帰れないのだ。
 そのことだけはわかった。
 すぐに帰宅できない、そんな気分になっているのは、その何かを確かめたいからだと気がついたのだ。
 しかし、あまりに漠然としていてアスカにはどうしようもなかった。
 ただわかっているのは、何かのきっかけがないと帰れない、ということだけだった。
 シンジが自分のために本を探して帰ってくるというのに、当の自分が家にいないわけにはいかない。
 そのことは充分承知しているのだが、今のままでは帰宅できない。
 今の自分では彼を待っていることができないのである。
 つまり…。
 彼女の思考はそこでまたループしてしまう。
 帰りそびれている。帰らないといけないのに帰る気にならない。
 一生懸命になって走るシンジを窓から眺めていた時、何かが彼女を揺さぶったのだ。
 そのことに気がついていないからこそ、アスカは迷路に入り込んでいるのである。
 少しいらついた気持ちにとらわれたアスカは足を止めた階段を降りたところのフロアに図書室があることを思い出した。
 そこにヒントがあるのかどうかもわからないが、階段で立ち止まっているよりはよほどいいだろう。
 まだアン・シリーズの続きも読まないといけない。
 それに『エーミール』が手に入ったら、いやきっと手に入るはずだ、それを今晩は読むのだ。
 だから、とりたてて本が必要というわけではない。
 しかし次に読む本を探すことは悪くないだろう。
 何しろこれまで小説をほとんど読んだことがない彼女なのだ。
 図書室は未知の冒険に満ち溢れている場所なのである。
 彼女は図書室へと足を進めた。
 だが、その足取りはやや鈍重なものであったことは確かだった。

 図書室の扉を開けると、真っ先に目に入ったのはカウンターにいる図書委員だった。
 彼女はアスカの姿を見たとき条件反射的にびくりとしてしまった。
 どうして私の担当の日にばかり来るのよと悲鳴を上げたい気持ちだったのだ。
 しかし、独りで来たセカンド・チルドレンは前回と異なり静かだった。
 彼女は図書委員に軽く微笑むと、立ち並ぶ書架に向かう。
 2つの鞄を持っているということは誰かと待ち合わせでもしているのだろうかと、図書委員はじっとアスカを目で追っていた。
 監視しているわけではない。
 ああして静かにしていればやっぱり綺麗だなぁと、ただ目を惹かれていただけのこと。
 そんな視線を受けているとは気づかずに、アスカは本の背表紙を吟味していった。
 ただタイトルだけを見ていってもピンと来るものはない。
 左から右へ、上から下へ。
 小説の書架を眺めていったアスカが、その瞬間びくりと身体を震わせた。
 彼女は青い目を見開くと、おずおずと手をその本に伸ばす。
 しかし、彼女の白い指は遂に本に届くことはなかった。
 本に触れるかどうかというところで指はとまり、そしてほんの3秒ほど静止した。
 アスカは背表紙の題名を睨みつけた。
 指先が下がっていったのと、くすりと笑みが漏れたのは同時だ。
 その瞬間、彼女の気は晴れた。
 雲ひとつない、今日の青空の如く、アスカの気持ちは爽やかに晴れ渡ったのだ。

 海外の小説の書架、ケストナーの本が数冊並んでいる場所。
 そこに『エーミールと探偵たち』はあった。
 手にとって見てはいなかったが、アスカには確信があった。
 その本の表紙には、緑の服の男を白い柱の後ろに隠れた二人の子供が見張っている、そんな絵が描かれているだろう。
 だが、それを今見てはいけない。
 自分がその表紙絵と再会するのは、もう少しだけ先にしないといけないのだ。
 何故ならば…。
 アスカはさっと身体を反転させた。
 急いで帰らないと。
 結局彼女は何をしに来たのだろうかと訝しげな目をする図書委員には目もくれず、アスカは図書室から出て行った。
 その偉そうな姿はまさしくいつものセカンド・チルドレンそのものである。
 
 『アンの青春』で主人公アンは唐突に自分がギルバートを異性として好きだということに気がつく。
 それがアン・シリーズ第2作目のラストシーンだ。
 それに習って、この話もここで筆をとめることにしよう。

 ただし、この時アスカはまだ自分がシンジを好きだということは自覚していない。
 本を手に取らなかったのは、自分の欲求よりも、彼への信頼、いや約束を守る方を選んだだけのこと。
 しかし、この時がその自覚への第一歩であったことは間違いない。
 何故ならば、アスカはこの時、帰宅したらまず歯磨きをしようと決めていたのだから。
 汗びっしょりで息せき切って帰ってくる少年にキスをするために。
 彼の手には必ずお目当ての本が携えられているはずだ。
 そのことをアスカは確信していた。
 アスカの足取りはどんどん軽くなっていき、そして遂には彼女は廊下を走り出してしまった。
 靴を履き替えるのももどかしく、アスカは昇降口から飛び出す。
 30分ほど前とは違い、校門までの道には人影がない。
 アスカは靴の先で地面に一本の横線をすっと引いた。
 それから彼女は蹲ると、短距離走のスタート姿勢をとった。
 まず歯を磨いて、汗を拭くタオルがいるわよね、それから冷たいお茶を入れるコップも用意して…。
 ああ、やることがいっぱいじゃない。
 どうしてさっさと帰らなかったのよ、この馬鹿アスカ。
 さあ、行くわよ、アスカっ。

「どんっ!」

 未来に向って、彼女は駆け出した。





 

「本を読む娘たち」  最終章 − 了 −


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