あの頃、どこかの街で

- Somewhere in those days -

(1) 〜 (3)



(1) 昭和42年4月9日 日曜日

 ゲンドウは一番上のチューリップをじっと睨みつけていた。
 最上段のチューリップを開くと次の段の2つのチューリップが開く。
 一番上に入れることで都合15個のチューリップが開く計算になる。
 一回で10個球が出るから、巧く入れると9×15で135個増える計算になる。
 もちろんそんな計算どおりに行く筈がないわけだが、
 それでもゲンドウの場合はかなりの配当で球を手に入れていた。
 但し、いつも大勝はしない。わずかな景品を稼ぐだけ。
 仕事帰りに銭湯に行き、その足で駅前のパチンコ屋に入る。
 そして息子が晩御飯だと呼びに来るまでの30分余り。
 それだけが彼の持ち時間だった。

 慎重に一番上のチューリップを狙い、そして上から順番に開いていく。
 狙いが決まっているだけに慎重この上なく彼は指先に集中する。
 この店の半分は既に補給皿付きの台に代わっていた。
 しかし、彼はこのひとつずつ穴に入れ弾くタイプの方が好みだったのである。
 彼の娯楽はこれだけだったが、パチンコが上手かった。
 ゲンドウは30円ほどの資金で200円ほど儲ける。
 但し、彼は必ず景品をお菓子にして、時に大勝ちしたときは缶詰をそれに加えた。
 パチンコ屋としては渋い嫌な客だっただろう。
 ここを仕切っていたチンピラヤクザが一度凄んできたことがあったが、
 サングラス越しで無言のゲンドウに「ほどほどにしとけや」と捨て台詞を吐き消えただけ。
 ゲンドウがこざっぱりした開襟シャツでなければ、どう見ても幹部クラスの大物。
 格が違うと客たちは囁きあい、この奇妙な常連客はいつしかそのパチンコ屋の名物客となったのである。
 もっともゲンドウが何千円も稼ぐプロであったなら、血を見るところまで行ったかもしれなかったが。
 何しろ、彼が稼ぐのは小銭相当である。
 その小銭を稼ぐのにあんなに真剣な表情でパチンコ台に向かっているのだから、
 店の人間も常連の連中も逆に愛嬌さえ覚えてきた。

 ましてや、彼にはとても可愛い息子がいる。
 毎日午後7時前になると、彼からするとかなり重いガラス扉を押し開けて、パチンコ屋の中に入ってくる。
 長身の上に目立つ風貌をしている父親はすぐに見つかる。
 そして、その息子は実に嬉しそうな顔をして父親の真横に立つのだ。

「お父さん、お母さんがね、帰っておいでって」

「うむ」

 重々しい言葉でパチンコ台を睨みつけたまま父親はそう答える。
 それから息子を膝の上に乗せて10球ほど弾かせる。
 稀にチューリップに入ったときに父親を見上げて喜ぶ息子の顔は、
 ゲンドウに日々の疲れを忘れさせてくれるほどの特効薬にもなっている。
 この当時、子供にそういうことをさせているのを見つけても誰も何も言わない。
 パトロールの警官でさえ見て見ぬ振りをしていた時代だ。
 むしろしかめっ面でパチンコ台に悪態をつけていたオヤジでさえ、
 この親子を微笑ましく見てしまうほどだった。
 息子が打ち終わると、二人で景品交換所に行き息子が欲しいという景品を求める。
 ガムであったり、チョコレートであったり…。
 それをその場で食べずに家まで持ち帰る、その親子の姿はこの下町には何処かそぐわない。
 弁当箱が入った新聞包みを小脇に抱え、息子と手を繋いで家路を辿るゲンドウ。
 着ている服は周囲の者とは変わりはしないが、幼児であるシンジも品がよさそうな表情をしていた。
 この一家は生まれがいいのかもしれないと、常連の連中は噂をしていたくらいだった。





 その日、シンジは珍しく父親を急かした。

「何だ、今日はしないのか」

「うん、あのね、今日はね、見たいテレビがあるの」

「ん?ああ、あれか。そうか、今日は日曜日だったな」

 妻が食事の支度を始めると、ゲンドウはすっと家を出て行く。
 休みの日でも夕方のパチンコ屋詣では欠かさない。
 生活するのがやっとで息子に辛抱をさせているという思いが彼を動かしていた。
 妻から煙草代として貰っているお金をパチンコのささやかな資金にまわしているのだ。

「あれは7時からだったな」

「うん」

 ゲンドウは店の掛け時計を見る。
 6時45分。
 彼がある理由から腕時計をしなくなってもう1年半になっていた。

「時間がないな。帰るか」

「うんっ!」

 にこやかに笑う息子は愛妻にそっくりだ。
 屈託のない笑顔。
 貧乏暮らしを強いているというのに、この母子は笑顔を絶やさない。

「シンジ、おんぶしてやろう」

「えっ、いいの?」

「その方が早く帰れる」

「あっ、そうか」

 路上に蹲るゲンドウの背中に飛びつくシンジ。

「うむ、少し重くなったな」

「本当?」

「ああ、しっかりつかまっていろよ」

 そう言うが早いか、早足で歩き始めるゲンドウ。
 コンパスが長いから周りの者とは速度が違う。
 まして今は日曜日の夕方。
 街中がのんびりとしているころだ。

「今日は子供が少ないな」

「だって、今日はウルトラマンが終わっちゃうんだもん。みんなテレビを見てるよ」

「なるほど、そういうことか」

 ゲンドウは頷くと、さらに足を速める。
 パチンコ屋からアパートまでゆっくり歩いても10分余り。
 市場や小さな商店街を抜けて、こまごまとした家が立ち並ぶ辺り。
 背後に大企業の工場とその下請けの小さな町工場が控えている。
 第二次大戦でこの辺りは焼け野原になっているので、
 どんなに古い家でもまだ20年くらいしか経ってはいない。
 しかし工場の煙などの環境でどこか古臭いような雰囲気があった。
 それに家のつくりも安普請がほとんど。
 長屋にアパート、その中に聳え立つ4階建ての県営住宅が三棟。
 その団地だけが鉄筋コンクリートで、あとはすべて木造である。
 所謂典型的な高度成長期の下町の風景だ。
 この下町にも貧富の差がある。
 まずはアパートや長屋の大家が住んでいる木造の平屋住居。
 周囲を塀に囲まれて門まであるその姿は、
 明らかにこの街に住む大半の住民とは格が違うのだぞと自己主張しているようだ。
 そして商店主の店も兼ねたモルタル2階建ての一戸建て。
 これは通りに沿って並んでいる。
 その裏手の路地に入ると、そこに長屋やアパートがぎっしりと詰まっていた。
 アスファルトで舗装してあったのは、商店街と大屋たちが住む界隈だけ。
 あとは砂埃の舞う狭い道路ばかりだった。
 父親に背中におぶさり、シンジはいつもとは違う高さで町並みを見ている。
 1m違うだけでまったく別の街を見ているような錯覚すら覚えていた。
 お風呂屋さんの大きな煙突だけはその高さからでも変わらぬ威圧感を持っていたのだが。
 父親を迎えに行った時には小走りでも時間がかかったのに、
 ゲンドウの足ならばあっという間に我が家に到着する。
 こんな些細な点でもシンジにとっては父親を敬う要因になる。

 文化住宅という種別の二階建てアパートが彼らの家だ。
 第三青葉荘なる名前からもわかるように大家の青葉ゴウゾウはあと二つのアパートを持っている。
 その3つのアパートの自慢は水洗便所と台所が各部屋にあること。
 それでいて家賃の方はほんの少し上乗せしてるだけだと。
 だからこの街一番の好物件だといつも豪語している。
 その第三青葉荘の二階の一番端が碇家の城だった。
 階段の下で父親の背中から降りると、シンジは一目散に我が家を目指した。
 かんかんかんかんっ。
 階段を上がる小気味良い音が響く。
 その後を音も立てずに上るゲンドウ。
 テレビを見たいと夢中になっている我が子の背中は彼にほんの僅かな笑みをもたらしていた。
 彼を良く知るものにしかわからない深い笑みを。

「ただいまっ!」

「おかえりなさい、シンジ」

「あのねっ、お父さんにおんぶしてもらったんだよ。
 早い早い、新幹線みたいに早かったよ。ビューンって感じ」

「まあ、もう幼稚園なのに」

「だって、ウルトラマンが始まっちゃうもん!」

 シンジは手前の六畳間に行き、テレビの電源を入れた。
 ぶぉんとテレビが唸りをあげる。

「早く、早くっ」

「叩くんじゃありませんよ。余計に画面が出るのが遅くなっちゃうわ」

「うん!」

 未だに黒い画面のブラウン管を睨みつけるシンジ。
 目を逸らすと映らないような気がするのだ。

「戻った…」

「あら、新幹線さん、おかえりなさい」

 ゲンドウは眉間に皺を寄せた。

「新幹線?俺が、か?」

「そうよ、シンジにはそれくらい早かったみたい」

「そうか」

「あ、ダメよ。癖になっちゃいますからね」

 時々おんぶしてやろうかと思った瞬間に妻に禁止される。
 表情に乏しいこの男の心の動きをユイはあっさり見抜いてしまう。
 だからゲンドウは妻に頭が上がらない。
 もっとも上げる気はさらさらないのだが。
 自分にはできすぎた妻だと彼は絶えず感謝していた。

「すぐ用意しますね」

「いや、後でいい」

「あら、どうして?」

 ゲンドウは答えずに部屋の中を顎で示した。
 ようやく砂の嵐状態になったブラウン管の前でそわそわしながら行きつ戻りつしているシンジ。
 その背中を見てユイは微笑んだ。

「そうね、あの様子じゃ何も喉を通りそうもないわね。終わるのを待ちましょうか」

「うむ」

 いつものように短く答えると、ゲンドウは息子の元に歩み寄る。
 そして、室内アンテナを検分する。
 油性のマジックで角度とかが書かれている。
 この時間のこのチャンネルに最適の角度だ。
 その位置にアンテナがきている事を確認すると、彼は丸い卓袱台の前にどかりと座る。

「シンジ、少し離れなさい。目が悪くなるわよ」

「うん!」

 50cmほど後退するシンジ。

「あ、始まるっ!」

 画面に出てきたスポンサーのCMにシンジは声を合わせた。

「タケダ、タケダァ〜」

 そしてタイトルが出、CMが終わり、主題歌が始まる頃には、もう先ほどの50cmの間隔はなくなっていた。

「もう、シンジったら…」

「あの姿を見ていると、やはり可哀相だな。オリンピックの時はカラーで見ていたのに」

「シンジは覚えてませんよ。私も忘れました。それに色は想像すればいいんです」

「君には敵わないな」

 ユイはふふふと笑う。

「その方が情操教育にいいんじゃないかしら?」



 シンジは両親が食事もせずに自分の背中を見ていることなどまったく知らなかった。
 いや、両親の存在など完全に忘れていた。
 時々ノイズの入る白黒の小さな画面に夢中だったのだ。
 科学特捜隊の基地の前にゼットンが現れ、そしてハヤタ隊員がウルトラマンに変身した時、
 ちょこんと正座していたシンジのお尻が持ち上がった。
 それからあとは膝立ち状態で画面の虜。

「おお、負けたではないか」

「黙って見てらっしゃい」

「すまん…」

 ウルトラマンがゼットンに倒された時、声をかけたゲンドウは愛妻にすげなくされた。
 ユイも卓袱台の上に握りこぶしを二つつくって画面を見ている。
 妻として母親としてよくできているくせに、時々こうして子供に戻ってしまう。
 ユイのそんな一面もゲンドウには愛しくてたまらない。

 やがて、科学特捜隊の手でゼットンが倒され、光の国の使者が現れる。

『私の名はゾフィー…』

 愛する息子の背中は息をすることも忘れているかのようだ。
 そして、ウルトラマンは迎えの者と一緒に宇宙へと帰っていった。
 ナレーションとともに音楽が盛り上がり、シンジが熱中していた番組が放送を終了する。
 すると、シンジはすっくと立ち上がった。

「どうしたの?シンジ」

 振り返ったシンジの目は潤んでいた。

「よかったね、ウルトラマン死ななかったよ」

「そうね。よかったわね」

「僕、ウルトラマンにサヨナラしてくる!」

「え?」

 奥の4畳半に走るシンジ。
 窓を開けて、灰色がかった空を見上げる。
 そして彼のヒーローに別れを告げようとしたときのことだ。


「さよならっ!ウルトラマンっ!」


 声がした。
 周りをキョロキョロする。

「さよなら、元気でねっ!」

 女の子の声だ。
 声の方角を見ると、目の前に立っている2階建ての家。
 その屋根の上に物干し台がある。
 見上げるとそこに黄色い服が見えた。
 シンジは目を疑った。
 いままで白黒の世界にいたのに、突然カラーテレビを見たような錯覚を覚えたのだ。
 黄色いワンピースに赤い髪の毛。
 シンジに背中を見せているその少女が大きく夜空に手を振っているのだ。
 一瞬気を呑まれたシンジだったが、彼にはやらねばならないことがあった。

「あっち?」

 突然、背中から声をかけられた少女がびくんと身体を震わせた。
 そして、恐る恐る振り返る。

「あっちでいいの?」

 この時、話しかけた相手が外国人だということをシンジは気にもとめていなかった。
 寧ろ話しかけられた少女の方が警戒していた。

「アンタ、誰?」

「早く教えてよ、ウルトラマンが行っちゃうじゃないか。あっちでいいの?」

 少女は顎を上げて唇を尖らせた。
 自分と同じことをしようと思っているのを了解したからだ。
 少女はさっきまで自分が叫んでいた方角の、星も見えない空に向って真っ直ぐに指さした。

「決まってんでしょ!ウルトラマンはあっちっ!あっちが光の国なのっ!」

「ありがとっ!」

 少女の指差した方角に向かって、シンジは大きく手を降った。

「ウルトラマン!さようならっ!」

 シンジはあらん限りの声で叫んだ。
 その声に少し驚く少女。
 しかし、思い切り嬉しそうに笑うと、さっとシンジに背中を向ける。
 そして、肺が壊れてしまうのではないかと思うくらい大きく息を吸い込んだ。

「さよならっ!バイバイっ!ウルトラマァ〜ンっ!」

 ふん、勝ったわ。
 少女はくくくと笑った。
 明らかにあの男の子よりも声が大きかった。
 だが、その勝利の思いもつかの間だった。
 背後からまたも大きな声が響いたのである。

「さよならっ!さ・よ・な・ら・っ・!!!!」

 かちんっ。
 少女は負けず嫌いだったのである。
 彼女の頭の中ではもうウルトラマンへのお別れなどどうでも良くなっていたのだ。
 赤みの強い金髪を振りかざして、少女はシンジの方に向き直った。
 そして、再びこれでもかと息を吸い込むと、馬鹿声をはりあげた少年に向かって叫んだ。

「さよならっっ!ウルトラマンっっ!」

 別に少女と張り合っていたわけではなく、
 単純にスモッグの空を突き抜けて宇宙まで届けと叫び声を上げただけのシンジは彼女の奇矯な行動に驚いてしまった。
 いや、シンジだけではない。
 ゲンドウとユイも、我が家に向かっての叫びにびっくりしてしまった。

「し、シンジ。やめなさい。近所迷惑よ」

 当然、近所迷惑だ。
 子供の叫び声はそれはよく通るのだ。
 案の定、隣の部屋の窓が開いた。

「こらっ、うるさいぞ!いい加減に…」

 上半身を覗かせ怒鳴ろうとしたステテコ姿のおじさんを押しのけて、
 隣家の小学1年生と4歳児が顔を見せた。
 そして、空を見上げて叫ぶ。

「さよならぁっ!」「ばいばいっ!」

 隣だけではない。
 あちこちの家の窓が開き、子供たちが顔を覗かせた。
 そうして思い思いの別れの言葉を光の国へ帰っていくウルトラマンへ投げかけたのだ。
 あまりの騒々しさにユイがシンジの頭上に顔を出す。
 きょろきょろと周りの騒動を見回していた少女だったが、
 ユイに気付いてふっと恥じらいの表情を浮かべた。

「こんばんは」

「こ、こんばんはっ!」

 ユイの微笑には勝てるはずがない。

「あなた…惣流さんのお孫さん?」

「う、うん。あたし、お孫さん」

 鸚鵡返しに孫だと名乗った少女はじっとシンジを見下ろした。
 ユイはその表情にあるものを感じ、自分の息子に囁いた。

「シンジ、あの子にお名前は?って訊きなさい」

「うん。えっと、お名前は?」

 シンジの質問に少女は腕を組みそっぽを向く。
 そのしぐさはシンジには戸惑いを与え、ユイには可愛い!と思わせた。

「あ、あの…」

「れでぃに名前を聞くときは自分から名乗るのがれ〜ぎよ」

「お母さん、れでぃって何?わかんないや。あれ、アメリカ語?」

「ふふふ。シンジの名前を教えてって言ってるのよ」

「あ、そうか。僕、碇シンジ!君は?」

 してやったりという満足げな笑みを浮かべ、少女は腰に手をやった。

「あたし、惣流・アスカ・ラングレー!」

 シンジはもちろん即座にフルネームを覚えることができない。
 目を白黒させて、そしてようやく言った。

「アスカ…ちゃん?」

「んまっ!れでぃをいきなり名前で呼ぶっ?!」

 ユイは可笑しくて仕方がない。
 この生意気を絵に描いたような少女とおっとりした自分の息子の取り合わせが彼女の壺に嵌ったのだろう。
 すっと部屋の中に身を下げると、騒動もどこ吹く風と「オバケのQ太郎」をぼけっと見ていた夫の背中に飛びつく。

「うっ」

「くふふふふ。可笑しいっ!」

 ゲンドウの背中をぽこぽこと叩くと、胡坐をかいていたゲンドウの腿に顔を埋めうつ伏せになった。
 そして足をバタバタさせて爆笑している。
 まだ24だから仕方がないか。
 ゲンドウは生暖かい太腿の感触に戸惑いながら、そう思っていた。
 きっと涙と涎でズボンはベトベトだろうとも。



 これがシンジとアスカの出逢いだった。
 昭和42年4月9日午後7時29分のことである。

 その夜、
 二人は何を思って眠ったのでしょう。
 今日出会ったばかりの
 あの子のことを?
 とんでもない。

 シンジは
 ウルトラマンにおんぶされて
 街中を走り回る夢を。
 アスカは
 フラッシュビームで巨大化し
 ゼットンをこてんぱんに叩きのめし
 ウルトラマンとしっかり握手する夢。

 その夜、
 いったいどれくらい多くの子供たちが
 ウルトラマンの夢を見たことでしょうか…。






(2) 昭和42年4月10日 月曜日



 翌日、碇家の部屋の扉をどんどんと叩く者がいた。
  その時、部屋に残っていたのはユイだけ。
  「は〜い、どなた?」と扉を開けると目の前には人はいない。
  あれ?っと目を落とすと金色の髪の毛が。
  咄嗟に昨日の夜の子だと、ユイはすっと膝を落とした。

「こんにちは」

  アスカは顔を赤らめながら少し目を俯かせて応じる。

「こ、こんにちは」

  ユイはまた笑いがこみ上げてきた。
  うちの息子相手にはあんなに大胆不敵なのに、どうして大人相手にはこんなにしおらしいのか。
  悪いなと思いながらもついからかいたくなってしまう。

「おばさんにご用?」

  ぶるぶるぶると凄い勢いで首を振るアスカ。

「じゃ、回覧板かな?」

  また、高速で首を振る。
  ムチ打ちにならないのかしら、この子。

「それじゃ、何かしら。もしかして、シンジにご用かしら?」

  息子の名前を持ち出した途端に、アスカの顔がぱっと輝く。
  おやおや、まさか一目惚れ?
  まあ、シンジは私に似て可愛いから、当然かもね。
  かなり自惚れた考えを浮かべながら、ユイはアスカにとっては残酷な答を返した。

「ごめんね。シンジは幼稚園なのよ」

  えっと声にならない叫びをあげて、アスカはぽかんと口を開けたまま。
  彼女はシンジが留守だという状況をまったく考えてなかったのである。
  あまりに反応が凄すぎて、ユイの心はちくりと痛んだ。
  ちょっと前置きが長すぎちゃったわね。

「でも、今日はお昼までに帰ってくるから、
 お昼ごはんを食べたらシンジにおうちまで行かせましょうね?」

  ユイの渾身の微笑みに、しかしアスカは大きく首を横に振った。



「ただいまっ!」

  幼稚園の話題はウルトラマンの最終回一色。
  僕も手を振った、私もサヨナラって言ったとみんなが主張。
  まだ入園式をしたばかりで実は初めての幼稚園生活。
  幼稚園の先生たちも収拾が付かず、騒動を治めるのにてんやわんやだった。
  もっとも当の園児たちはこれで垣根がなくなり仲良くすることができたのだが。
  これは余談。
  シンジは幼稚園が楽しかったよと母親に報告しようと勢いよく階段を上がってきたのだ。

「遅かったわね、馬鹿シンジ!」

  優しい母の笑顔が待っているはずなのに、
  扉の向こうに立っていたのは赤みがかった金髪の少女。
  実に偉そうに腰に手をやり、笑顔は笑顔でも不敵なそれを浮かべている。

「えっ!」

  玄関先でシンジが硬直してしまったのは無理もない。
  夕べは暗がりだったからはっきりと見えてなかった上に、
  物干し台の方が高かったので少女の背の高さとかもよくわからなかったのだ。
  それにあの黄色いワンピースの色があまりに鮮烈だったから。
  こうして、昼間に目の前にしてみると、まず感じたのが自分と背丈がそう変わらない事。
  そして、赤みがかった金髪がとても綺麗だという事。
  一番強烈だったのが、ガキ大将のような笑みで自分を見ていた事だった。

「何ぼけっとしてんのよ。アンタの家でしょ。早く入んなさいよ」

「う、うん。おじゃまします」

「アンタ馬鹿ぁ?自分の家なんだから、ただいまっでしょうが」

「あ、うん。ただいま」

「おかえりなさいっ。遅かったじゃないの」

「え、う、うん。ごめんなさい」

  ユイは笑っちゃいけないと必死になっていた。
  流しのところに立って、まな板に握り拳をぐっとおしつける。
  それでも肩が震えるのを抑えることができない。
  見たい、実際に見てみたい。
  でも、見てしまったら畳に転がって笑い転げてしまうのは間違いないと思う。
  そんなことをすればこのプライドの高そうな少女は絶対に傷ついてしまうだろう。
  大人なんだから我慢しなきゃ。
  だけどまぁ、これっておままごとよね。
  見てみたいよぉ。
  好奇心と節度の狭間でユイは揺れていた。

  さて、なし崩し的におままごとに突入してしまった二人は…。

「はい。お荷物をど〜ぞ」

「あ、うん、ありがとう」

「いえいえ、ど〜いたしまして」

「えっと、どうしたらいいの?」

「突っ立ってないで座んなさいよ」

「はい」

「はいじゃないでしょ。パパはもっとカッコよくないと」

「えっ、う〜んと、何て言えばいいの?」

「馬鹿ね。アンタのパパの真似をすればいいんでしょ」

「え!父さんの?えっと…うむ」

 ぶっ!
 流しでユイが吹いた。
 慌てて口を押さえたが、間に合わない。
 恐る恐る振り返ると、金髪の少女は悲しげな目で睨んでいる。

「ごめんねっ、シンジが主人の真似したものだから、つい…」

「似てたの?」

「そっくり」

「ふ〜ん、そうなんだ。アタシはパパがいないからわかんないの」

 一瞬、ユイは息を呑んだ。
 そうだったのか。
 全然気付かなかった。
 いや、だからこそ強気と内気が彼女に内在しているのだった。
 私としたことがうかつね。
 心の中でこつんとユイは自分の頭を打った。
 だがここで同情したような顔をしてはならない。
 そのことは自分にはよくわかる。
 自分もそうだったのだから。

「あらあら、でもね、うちのパパさんは普通のパパとは違うのよ」

「そうなの?」

「ええ、凄く変わってるんだから」

「ふ〜ん、じゃシンジ、アンタ別のパパできる?」

「できないよ。知らないもん」

「なんだ。仕方ないわね。じゃ、その普通じゃないのでいいわ」

「父さんは凄いんだもん。普通じゃないもん」

「はいはい」

 少女は一人前に肩をすくめた。
 この辺りのしぐさは日本人には真似できないわね。
 ユイは微笑むと玄関に向かった。

「少しだけ出てくるからお留守番お願いね」

「任しといてっ!」

 息子より先に少女の方が返事する。
 これは我が息子はかなり振り回されそうね…。
 そう思いながら、ユイは階段を降りていった。
 彼女の行き先はすぐ近く。
 表通りの惣流家。
 裏側が面しているが、碇家の文化住宅は裏通りの未舗装道路。
 惣流家は表通りにあるのだが、なぜか玄関は通りから中に入らないといけない。
 大きな玄関が表にあるのだけれども、そこは戸板で塞がれている。
 ユイはその戸板と付近の様子を今更ながらにまじまじと見た。
 どこか懐かしいような雰囲気がそこには漂っている。
 昔は何かここでしていたのね。商店じゃなさそうだけど…。
 そこを横目に見て短い脇道に。
 ここはユイのお気に入りの場所だった。
 花壇をつくっているのは他の家にもある。
 だが、ここの花壇は外国風なのだ。
 ユイが通っていたミッションスクールの中庭に雰囲気が似ている。
 花や蔦が計算されて配列されている。
 ほんの3mほどが回りの下町の光景とは明らかに一線を画していた。
 
「で、その先がどうして純和風の格子戸になるのかな?」

 思わず口に出た。
 ここに来るのは3度目。
 前の2回は二階の窓に干していた洗濯物が惣流家の裏手に落ちたため。
 惣流家の未亡人は快く洗濯物を回収してくれ、お菓子のお土産もつけてくれた。
 「私にもお宅と同じような年頃の孫がいるんでね」と優しげに笑って。
 「それじゃ毎日落としますよ」と笑うユイの肩を彼女はぽんぽんと叩いた。
 だからその2ヵ月後にまた洗濯物を落としたときは、
 ユイは真っ赤になって「わざとじゃないですよ」と切り出したものだった。
 さて、その惣流家の未亡人は白人女性。
 ただし日本語はぺらぺらだ。
 無口なゲンドウよりも日本語は達者かもしれない。
 戦前に日本人の夫と結婚し、それからずっとここに住んでいたらしい。
 ただ白人といってもドイツ人なのでそれほど肩身は狭くなかったようだ。
 ドイツは日本の同盟国だったから。
 そして、復員してきた夫とこの街でずっと暮らしてきた。
 10年前に最愛の夫を失っても。
 ユイはこの未亡人が好きだった。
 あまり外には出ないようだが、
 毅然とした雰囲気だが、その中に温かさが隠されているのがよくわかる。
 ミッションスクールにいたアメリカ人の先生のように。
 成績優秀なユイが大学に進学せずに結婚すると宣言した時、彼女だけは賛成してくれた。
 勉学だけが人の生きる道じゃない。貴女にしかできないことをなさい、と。
 ユイは自負していた。
 世界中で、ゲンドウの妻をやりこなせるのは、この私だけだと。
 
 こんこんっ。

「はい、どなた?」

「裏のアパートの碇です」

 少し重い足音がして、格子戸が開く。
 唇に笑みを浮かべ、未亡人がユイを見下ろす。
 20cmは背が高い。
 
「どうしました?洗濯物ですか?」

「いえ、お孫さんを預かってますので、身代金を要求に参りました」

 こんなジョークが通じるのかしら?
 少し不安だったが、何となく確信があった。
 未亡人は「まあ!」と口を手で押さえた。
 そして、真剣な表情でこう言ったのである。

「お昼からハンバーグって言うのは贅沢でしょうかね」



「はい、どうぞ」

「わっ、ハンバーグっ!」

「あれ?これグランマの?」

「ぐらんまって何?お店の名前?」

「アンタ、ホントに馬鹿ね。グランマはおばあちゃんのことでしょ」

「へえ、君のおばあさんの名前はグランマっていうんだ」

 アスカはあきれた顔をした。

「アンタ馬鹿ぁ?英語でおばあさんのことをグランマっていうのに決まってんでしょ!」

「英語ってアメリカ語?」

 あああっとアスカが小さな頭を抱えてしまった。
 シンジは怪訝な顔。
 この当時の下町の幼稚園児では、シンジクラスでも末は博士か大臣かと言われていたくらいだ。
 したがってアスカのレベルが高すぎるということなのだが…。
 そのアスカは明らかにいいカッコをしてみたかったようだ。
 心持ち顎を上げると、澄ました表情で口を開いた。

「ぺらぺらぺ〜ら」

 シンジの耳にはそうとしか聞こえなかった。
 ただ素直に感心して、顔を輝かせる。

「凄いや。アメリカ語?」

 アスカはしかめっ面でシンジを睨みつける。
 そして、さらに英語でべらべら喋り続けた。
 お茶碗にご飯をよそってきたユイがその言葉に耳を傾ける。

「へぇ、そうなの。お母さんは雑誌の記者をしてるの?」

 アスカが口を閉ざした。
 意表をつかれた様な顔でユイを振り返る。

「おばさん、英語わかるの?」

「少しね」

「じゃ、ドイツ語は?アタシ、ドイツ語も喋れるのよ」

 顔はユイの方を向いてるが、意識は完全にシンジの方だ。
 明らかにシンジに自慢しているようだ。

「ふふ、ミッションスクールでは英語だけだったからなぁ。でも、うちのおじさんはドイツ語を喋れるわよ」

 その言葉にアスカよりもシンジが驚く。
 
「本当?シンジのパパってドイツ語話せるの?」

「う、うん。少しね」

「私は少しじゃないわよ。ちゃんと喋れるもん」

 まだ小さな二人は気付かなかった。
 ユイが喋りすぎたと後悔していたことを。
 
「だってね、アタシもうすぐドイツに行くのよっ」

「わっ!ドイツって外国でしょ。凄いね」

 ふふんと少女は得意そうに笑った。
 
「さあさあ、二人ともお喋りしていないでいただきなさい」

「うん、いただきます!」

「いただきまぁすっ!」

 美味しいね、当たり前でしょ、などと食べながらも二人の話は続いている。
 ユイはすっと台所に戻ると、ゲンドウ用にわけておいたハンバーグをひとつお皿に入れ、それを蝿避け網の中に置く。
 惣流未亡人からは5個いただいたのだが、子供たちに2個ずつ。
 そしてゲンドウに残りの一個。
 どうせお前はどうしたと聞かれるから、お昼に食べたと嘘をつく予定。
 シンジに変なことを言われてはいけないから、さっさとご飯に漬物でお昼を食べてしまうユイ。
 今晩のおかずは、ゲンドウに余計な気を使わせないように見た目が豪華に見えるようなものにしないと。
 


 食後、アスカはシンジのお絵かき帖を発見。
 この頃の幼児のそれとご多分に漏れず、中身は怪獣、ウルトラマン、新幹線に車。
 うつ伏せになったアスカは一枚一枚をしげしげと眺め、ふぅ〜んと声を上げる。
 見られているシンジの方は正座して、まるでまるで審判を受けているようだ。
 4畳半の方で遊んでいる二人を横目にユイは6畳間で読書。
 彼女は自分の愛読書を数冊だけ持ち出していた。
 ゲンドウには旅行鞄に詰め込んできたと言ってあるが、実際には持ってきたのはほんの数冊。
 今押し入れに入っているその旅行鞄の中に何が詰め込まれているのかは、彼女以外の誰も知らない。
 妻の鞄を隠れ見るようなゲンドウではないから。
 さて、ユイは子供の時から本に親しんできた。
 暗誦できるほど読んできたが、やはり本そのものが手元に欲しい。
 少女の時に読んで虜になった「小公女」「家なき娘」「赤毛のアン」。
 そして最後に買った「青年の樹」も持ってきていた。
 この文庫を読み終えた数日後にあの事件が起きたのだった。
 この時、ユイが読んでいたのは「赤毛のアン」。
 まさか、あのお絵かき帖で息子の頭をぶちはしないだろうが、
 アスカの髪の毛の色がユイにその本を選ばせたのだろう。
 こんな下町で赤金色の髪の毛の少女に出逢うとは。何となく不思議な感じである。
 
「アンタ、ゼットンの胸の色は黄色よ!」

 お絵かき帖の最後のページ。
 昨日の夜。あの騒動の後に描いた絵だ。
 ウルトラマンとゼットン。
 ウルトラマンはきちんと赤いクレヨンを使っているが、ゼットンは黒だけ。

「え、そうなの?」

「アンタ、昨日の観てたんでしょうが」

「うん、観てたよ」

「だったらっ」

「うちのテレビ、カラーじゃないもん」

 あっと口を開けたままのアスカ。
 ユイはこの一瞬の静寂にこの少女の優しさを覚えた。
 見た目の生意気さでは「なんだ白黒なの」という言葉が出てきてもおかしくない。
 まだ小さな子供なのだ。優越感を覚えてもいいはずなのである。
 
「そっか、そうなんだ」

「うん、色はご本で見るの」

「へぇ、どんなご本持ってるの。見せなさいよっ!」

 ユイは微笑んだ。
 屈託のない息子に対して、少女は話を逸らす。
 その無骨な話の逸らし方に好感を持ったのだ。
 そんなこともわからずに、シンジはいそいそと自分の本を持ってくる。
 月に一冊くらいは好きな本を買ってあげようとしているユイだ。
 ほとんどがウルトラマンの本になってしまっているのは仕方がないだろう。
 この時期、怪獣とウルトラマンはシンジの心の大半を占めていたかもしれない。
 
「アタシ、これ持ってない。ママが漫画嫌いなの」

「お母さんが漫画を嫌いなの?テレビも?」

 アスカは唇を尖らせた。

「1時間だけ見せてくれるの。グランマの家にお泊まりするときもね、指きりさせられたの」

 不満そうに喋っていたアスカがそこでにっと笑った。

「でも、グランマは好きなだけ見てもいいって。グランマ、大好きっ!」

 厳格そうな顔つきだけど、惣流さんも孫には甘いのね。
 ユイは本に栞を挟んだ。
 今日はここまで。
 文章や展開を読んでいるのではなく、本を読むという行為自体を楽しんでいたのだ。
 
「シンジ、母さんは買い物に行ってくるけど、どうする?」

「え…」

 即座の返事を躊躇うシンジはアスカの視線を感じた。
 ぺたんと座って漫画を読んでいた彼女だったが、シンジの返事を全身で聞いている。
 もちろん、幼児のシンジにそれを察することができるわけがない。
 ただ、その場の雰囲気でまだ一緒に遊んでいたいという気持ちにはなった。
 もっともユイもそう思えばこそ、先ほどのような問いかけをしたわけだ。

「えっと、お留守番してる。いい?」

「いいわよ。その代わり、お外に出ちゃダメよ」

「任しといてっ!」

 またも返事はアスカだった。
 しかも、畳の上に立ち上がり、腰に手をやり足を踏ん張って。
 息子の方はにこにこと笑いながらそんなアスカを見ている。

「じゃ、よろしくね」

 そう言い残し、ユイは買い物籠をぶら下げて外へ。
 市場の方に向おうとすると、丁度惣流家の未亡人が玄関前の花壇に水をやっている。
 金属のバケツの水を柄杓ですくって水を撒く。
 如雨露を使った方が外国人っぽいけど、この人にはこういう姿は似合うわね。
 その時ふっと彼女の頭に浮かんだのは“麗しの花の小道”という言葉。
 ふっ、アンじゃあるまいし。それにセンスがないってアンに滅茶苦茶言われちゃいそうだわ。
 
「こんにちは」

「おや、買い物?」

「はい。お孫さんはうちの息子とお留守番をすると」

「ほう、えらく気に入ったみたいだね。シンジちゃんのことを」

 未亡人はシンジの名前を知っていた。
 話したことはなかったはずなのにと、怪訝な顔のユイに未亡人は優しく微笑みかけた。

「アスカがね、夕べ嬉しそうに教えてくれたのさ。お友達ってね」

「ああ、それで」

「今日はね、繁田さんでメンチカツが安かったよ。5つで4つ分の値段さ」

「あ、数がピッタリ。それ、いいですわね」

 ぽんと手を叩くユイに老女というにはまだ若すぎる彼女は目を細めた。
 なるほど、さっきのハンバーグは子供たちに2つと、亭主の晩御飯に1つか。
 自分は食べてないわけだ。5つしかなくて悪いことをしたわねぇ。
 しかしまぁ、良妻を絵に描いたような子ね。
 賢母の方もなかなかのようだし。
 うちのキョウコもこういう子に育っていれば…。

 クリスティーネは密かに思い、そしてそんな自分を恥じた。
 育てたのは他ならぬ自分ではないか。
 それに別にキョウコの夫は悪人ではなかった。
 アメリカ人でその上軍人だっただけ。
 ただこの街で空襲を受け、命辛々逃げ惑った記憶は消えはしない。
 B29の爆弾で家を失い知り合いを失い、グラマンの機銃掃射で幼い子供までが殺されるのをこの目で見た。
 日本軍もドイツ軍もそれに類したことはしていただろう。
 それが戦争。
 されど自分の身体で体験したことだ。
 アメリカの軍人と聞くと、どうしても身構えてしまう。
 それで強く反対してしまった。
 その結果、キョウコは家を飛び出してしまった。
 “くりさん”は結局彼女の結婚式にも出なかった。
 その次に彼女が娘と会ったときは、既にアスカは2歳を過ぎていたのである。
 喪服の娘は何も言わずに母親の胸で泣き崩れ、
 その横でアスカは見慣れぬ女性をただじっと見つめていただけだった。
 ラングレー少尉は昭和38年年末に南ベトナムへと異動し、昭和40年2月に戦死。
 アスカは写真でしか父親の顔を知らなかった。

 無理矢理にでも一緒にさせない方が良かったのだろうか?
 クリスティーネは眠れぬ夜に時々思う。
 そして、その度にアスカの写真を見て思い直す。
 この幼い子供の存在を消すような考えはいけないと。
 その後、彼女は折にふれてアスカの面倒を見に東京に出向いた。
 雑誌社で働くようになった娘の負担を減らすためという意味もあった。
 それよりも保育園で母を待つというアスカが可哀相だという思いも強かったのだ。
 しかし、このままここで暮らして欲しいという娘の訴えには首を横に振ってしまった。
 孫娘には悪いが、あの街に骨を埋めたい。
 その思いが強かった。
 それに娘にドイツ人の恋人ができたことを知った所為もある。
 その男はアスカのことも疎んじてはいない。
 新しい家庭を持つには自分のようなものはいない方が良いと判断したわけだ。
 
「あと一週間か。しばらくはアスカの顔を見ることもできないねぇ」

 蹲ったクリスティーネは掌に掬った水を静かにチューリップの葉に滴らせた。
 葉の上に浮いた水滴が集まり、葉元から茎を伝っていく。
 5月にはキョウコたちはドイツへ旅立つ。
 彼の赴任が終わり、母国へ帰るのだ。
 その時にキョウコは籍を入れ、アスカともどもハンブルグへ。
 ミュンヘン生まれのクリスティーネとしてはあんな煤臭い街と思ってしまうのだが、
 それは今住んでいるこの下町も同じこと。
 毎日が工場のスモッグに覆われた空を見上げて暮らしているのだから。
 人間はつくづく自分中心なのだと、クリスティーネは苦笑する。
 ドイツへ行かれてしまっては、もう東京にいた時のように孫や娘と会うことはできない。
 せめてアスカが結婚する時までは生きていたい。
 20年後か、もう少し後か…。
 あと20年としてその時自分は69歳。
 死んだ亭主はお前は心臓が悪くなりそうだから気をつけろと言っていたが、まだまだ大丈夫。
 早く結婚して正解だったわと彼女はしみじみと思った。
 まさか39歳で亭主と死別するとは想像もしていなかったが。
 さすがに親切なご近所も外国人への再婚の世話までは躊躇ってくれていた。
 それはクリスティーネには助かっている。
 断るに決まっているからだ。
 自分の男はあの亭主だけで充分。
 その点、娘とは考え方が違うと彼女は溜息をついた。
 どちらが正しいということは言えないと思う。
 それでもクリスティーネは自分の考えを貫く。そういう性質なのだから仕方がないと。

「よいしょっと」

 立ち上がった彼女は孫娘が新しいボーイフレンドと遊んでいるはずの部屋の窓を見上げた。
 アスカはどっちに似ているのかねぇ。
 とにかく幸せになってくれれば良いが。
 


 その孫娘はお昼寝をしていた。
 ユイが「ただいま」と帰ってくると、部屋の中は静まり返っている。
 一瞬、どきりとして首を伸ばすと、奥の4畳半に二人が寝転がっている。
 慌てて奥へ進むと、座布団を枕にして気持ちよさそうに寝息をたてていた。
 
「あらあら、お手手まで繋いじゃって。シンジも結構手が早いのかな?」

 薄い布団を二人のお腹にかけようとすると、しっかりと握っているのは金髪の少女の方の手。
 ユイはふふふと声に出して笑った。

「白人の方が積極性が強いのかもね。ああ、でも可愛い。女の子も欲しいなぁ」

 そう呟くとユイは溜息をついた。
 今の暮らしでは無理。三人が精一杯だ。
 子供が二人になると自分も働きに出ないと暮らしていけない。
 我慢しよう。
 彼女はつまらなそうに頷いて、そして買い物籠を台所へ運ぶ。
 揚げたてのメンチカツはハンバーグと一緒に蝿避け網の中に。
 それから保存がきくお菓子を水屋の中に。
 隠れてお菓子を食べるようなシンジではないが、しまい込んでしまうのは母親の習性なのだろうか。
 今日のアスカではないが、幼稚園に行き始めたのだから友達が遊びに来るかもしれない。
 そのためにお菓子を買っておいたのだ。
 


「おい、碇」

 ゲンドウが振り向く。
 社長が雑誌を手に立っていた。
 
「済まんが、ここを訳してくれんか。どうしても意味が通じん」

「あと20分待ってもらえませんか。この行程が…」

「ええで。わしが見とくさかいに」

 関西弁の同僚がにやっと笑う。
 この町工場では大学などというとんでもない学歴を持っているのが二人いる。
 社長の冬月とゲンドウ。
 一年半ほど前にいきなり入ってきた無口な男がそんな学歴を持っているとは誰も気付かなかった。
 酒も呑まず、付き合いも悪い。仕事が終わるとさっさと服を着替え帰ってしまう。
 最初はそんなゲンドウをみんな嫌っていた。
 社長が工場長にゲンドウの学歴のことをふと漏らしたこともみなの目を白くしていた。
 だが、そういう偏見はやがて消えた。
 学歴が高いので見下しているのではなく、ただ無愛想なだけだということがわかったからだ。
 その上、仕事は間違いがない。
 繊細さと粘りが要求される部署だったが、それこそ無駄口も叩かずに一心不乱に仕事をする。
 残業も厭わないし、判断にも間違いがない。
 所謂職人肌のタイプなのだと、みなが了解したわけだ。
 町工場にはそんな職人肌のオヤジが少なからずいる。
 逆にそれがわかってしまえば、そんなゲンドウの無愛想面も面白みが出てきた。
 先ほどの関西出身の男などは休憩時間などに何度もゲンドウを笑わせようとする。
 そして「今笑ったやろ?」などと茶々を入れ、場が和むほどになった。
 彼を笑わせることは難しいが、彼がいても別に変な空気にはならない。
 
 それがゲンドウには不思議だった。
 職場に溶け込んでいる自分が。
 学校にいたときは彼は異端児だった。
 小学校も大学もそうだった。
 無愛想な表情が嫌われていたわけだ。
 そのようなゲンドウでも恋はする。
 小学校5年生の時に初恋をした。
 副委員長で勉強もでき面倒見のいい女の子だった。
 ある日彼はその子に消しゴムを借りた。
 その次の日、彼はお礼だと新しい消しゴムを渡し、彼女は笑顔でお礼を言い受け取った。
 ゲンドウ少年は幸福だった。
 2日ばかりは。
 その消しゴムを同じクラスの嫌われ者が使っているのを見るまでは。

「へっ、貸してなんかやらねぇぜ。○○からもらったんだからな。へっへっへ!」

 ゴミ箱に捨てられなかっただけまし……なのか?本当にそうなのか?
 少年は自問自答し、そして自嘲した。
 もう人を好きになどなるものかと。

 そういう類の誓いは簡単に破られるものである。
 中学生になった彼は1年先輩の図書委員に恋をした。
 ただ、今度はゲンドウは何もしなかった。
 彼女を見ているだけでいい。それだけでいいと思っていた。
 ところが、ゲンドウは殴られた。
 その子のボーイフレンドに。
 もし、その相手が格好のいい男だったなら、ゲンドウも殴り返していたかもしれない。
 その頃ゲンドウは既に175cmを超えていた。
 横幅はなかったが威圧感はたっぷりのゲンドウに、そのボーイフレンドは眦を吊り上げて向ってきた。
 彼の足が震えていた。
 怖かったのだ。下級生だが明らかに自分より強そうなゲンドウに向っていくことが。
 2発殴られて、ゲンドウは体育倉庫の裏で青空を見上げていた。
 「二度と彼女に近づくな」と決め台詞を言われたような気もする。
 殴られたのに、憧れていた彼女にふられたのに、今回は自嘲癖が出なかった。
 何故か羨ましかったのだ。
 あんな風に必死になって向ってきた彼が。
 仰向けになって流れていく白い雲を見つめ、ゲンドウはできないと思った。
 憧れの彼女のためにあんな風に戦うことが。
 異性を好きになるというのはどういうことなんだろうと自問自答する。
 恥も外聞もなく、どんな相手であっても戦って獲たいということか?
 それは嫌われていても強引に…。
 ここに至ってゲンドウは自嘲した。
 結局は身体が目的ということか?
 まったく何て醜い性根のヤツなんだ、俺は。
 もう二度と恋などすまい。
 
 高校は隣の県の男子校だった。
 相次いで両親を失っていたゲンドウはこの高校の寮に入る。
 回りは男ばかり。無骨なのからなよなよとしたのまで、すべて男。
 だがいくら女性に相手はされなくても、ゲンドウに衆道の趣味はなかった。
 ところがやはり恋はする。
 今度の想い人は年上の人。
 体育の時間に柔道をしていて左腕を折ったのだ。
 その治療のために通院した診療所の看護婦に心を奪われてしまった。
 きっかけはただ「馬鹿な真似をするんじゃないわよ」と微笑まれ、つんとおでこを突付かれたから。
 喧嘩をしたために骨折したのだと誤解されたのだ。
 彼の風貌から彼女はそう思い込まれてしまったのだが、ゲンドウは怒ったりはしない。
 彼女に一目惚れをしたのだから。
 そして、またもや恋は破れた。
 一ヵ月後の夕焼けの頃、彼女と道で出くわした。
 その彼女は子供と手を繋ぎ、赤いランドセルを背負ったその子は彼女のことを「お母さん」と呼びかけた。
 結婚していただけではなく、こんな大きな子供まで…。
 六分儀ゲンドウ、痛恨の思い違いだった。
 そして、自棄になったのか何と学生服のまま駅前のパチンコ屋に突入。
 パチンコ台のガラスを割り、弁償と停学のしっぺ返しを貰った。

 ゲンドウはパチンコ台のガラスを左手で軽く撫でた。
 このあたりに拳骨を叩きつけたのだ。
 割れ方が良かったのかその時、かすり傷ひとつ拳にはしていない。
 そのかわりパチンコ屋の店員に両方の頬を殴られ口の中は血塗れになったが。
 ゲンドウはその頬も撫でる。
 すっかりごつごつになってしまったな。
 あの時はけっこうすべすべとしていたものだが…。まあ、まだ16歳になったばかりだったからな。
 苦笑した彼は指先に集中する。
 4発目で天のチューリップが開く。
 よし、今日は調子がいいぞ。
 他人にはわからない特上の笑みを浮かべたゲンドウだったが、その時邪魔が入った。

「お父さん!」

 弾き過ぎたパチンコ玉はチューリップの遥か向こうを飛び去った。
 振り返ると、そこには愛する息子。

「シンジか。うん?」

 店内の時計を見る。
 まだ6時30分。
 
「どうした、少し早いな」

「あのね、僕ね、おうちのお風呂に入るの」

「おうちの?行水か?」

「違うよ。あのね、あれ?」

 シンジが周りを見回す。

「あれ?あれれ?」

「ふん、どうした?」

 ゲンドウの“ふん”が愛情たっぷりの鼻笑いだと家族以外の誰がわかろう。
 
「あっ、いたっ!もう、どうしてそんなところに」

 ちょこちょこと入り口の方に戻っていくシンジ。
 ガラス戸の向こう側。曇りガラスになっている下半分に小さな影が見える。

「ほら、入りなよ。怖くないよ」

「だって、ママが怒るもん。あんなのは下品だって」

「下品って何?」

「知らないわよ、そんなの。でも…」

「大丈夫だって、お父さんがいるから怖くないよ、おいでってば」

 ゲンドウは嘆息した。
 あのおっとりとしたシンジがあのように積極的に。
 その相手は昨日の夜の少女だとは声ですぐにわかった。
 そしてシンジに引っ張られて通路を恐々とやってくる金髪の少女。しかも物凄く可愛い。
 これは完全にミスマッチだった。
 油びきされた焦茶色の床のあちこちに吸殻が散り、ところどころに痰が吐かれている。
 きれいな場所ではない。
 空気も悪い。工場の煙突から吐き出されているそれに比べればかなりましだが。
 それでも時々扉を開けて中の煙った空気を入れ替えねばならないのだ。
 そんな場所をおずおずと歩いてくるアスカ。
 常連客も店員も唖然とするのは仕方がなかっただろう。
 
「ふん、友達か」

「うん、アスカって言うんだよ」

 ゲンドウはアスカを見下ろした。
 アスカは半べそ。
 そんなに怖いか、俺の顔は。

「あのね、アスカのおばあちゃんのおうちのね、お風呂に入るんだよ。
 だから早めに晩御飯を食べるから帰ってらっしゃいって」

「そうか」

 ゲンドウはちらりと残り玉を見た。
 始めたばかりだから球受けには十数個しかはいってない。
 今日はあきらめよう。

「シンジ、するか?」

「え?あ、僕はいいよ。アスカがしなよ」

「えっ!」

 アスカが素っ頓狂な声を上げた。
 ゲンドウも驚いた。

「ほら、してごらんよ。すっごく面白いよ」

「う、うん…」

 そこは子供だ。
 興味はある。
 少しおどおどとしながらパチンコ台に近づく。

「お父さん、お膝に乗せてあげてよ。いつもみたいに」

 ゲンドウ万事休す。
 ユイがこの光景を見れば腹を抱えて笑ったことだろう。
 およそ物に動じない彼が困ってしまっているのだ。
 膝の上にこんなに可愛い少女を乗せる。
 そんなことをこの俺がしてもしいのだろうか?
 しかしいつまでも戸惑ってばかりはいられない。
 ゲンドウは脚を開き、シンジの定位置である右足の膝を開放した。
 息子はといえば、父親の狼狽にはまるで気付かず。
 ここにこうやって座るんだよとアスカへこまめにアドバイス。
 そして、いつの間にかゲンドウの膝にはアスカのお尻がちょこんと乗っていた。
 やっとの思いで見下ろすと、ふと見上げたアスカの青い瞳と正面衝突する。
 ユイ、すまん。
 何がすまないのか自分でもよくわからないうちに、ゲンドウは心の中で妻に詫びていた。

「アリガト…」

 小さな声でアスカが言う。

「うむ…」

 内心の動揺とは裏腹に、いつもの如き落ち着いた返事。

「ほら、こうやって打つんだよ」

 見本を示したシンジの玉はチューリップから外れる。
 
「あ、外れちゃった。あのお花を狙うんだよ、ね」

「う、うん…」

 びゅん、ちんっ。
 思い切り弾いた玉は盤の端の鐘を空しく鳴らす。

「もっと、ゆっくり打たなきゃ」

「うん」

 びゅっ、すこん。
 緩やかに打った球は盤上に辿りつかず逆戻りで玉受けに。
 
「ダメだなぁ。もう少し、強く」

「うん」

 ゲンドウはおかしかった。
 一人前にコーチしているシンジの姿が。
 その言葉を素直に受けて玉を弾くアスカも可愛い。
 このやりとりはユイに教えてやろう。
 きっと涙を流して喜ぶだろう。

「あ、入った!」

「やった!」

 ちん、じゃらじゃら。
 最後の一球で開いていたチューリップにやっと入った。
 玉受けに出てきた10個の玉にアスカは顔を輝かせた。
 そして、ぴょんとゲンドウの膝から飛ぶと、玉受けに手を入れる。

「これ貰っていいの?」

 シンジにそう訊く。
 シンジにはわからない。
 そこで父親の顔を見上げる。
 ゲンドウはしかめっ面で軽く頷いた。

「ダメだ。だが…ひとつくらいならよかろう」

「三つはダメ?」

 期待に満ちた瞳で見上げるアスカにゲンドウは苦笑した。
 やはり頷くしかない。

「やった!」

「よかったね」

「じゃ、これシンジにあげる」

 アスカはシンジの掌にパチンコ玉をひとつ置く。
 
「大事にするのよ。きれいね、ぴかぴかで」

「うん、きれいだ」

「うふふ、で、これは私の」

 アスカは自分の左手にパチンコ玉を置く。
 それをぐっと握り締める。

「それから、これはシンジのパパにあげる」

 アスカは右手をゲンドウに突きつけた。
 親指と人差し指に挟まれた銀色の玉。
 ゲンドウは右手の拳を開いた。

「はい、プレゼント。ふふふ」

 置かれた玉がころころとくすぐったく掌の上を転がる。
 ゲンドウは拳を握ると、パチンコ玉をポケットに。
 子供二人もそれに習う。
 
「では、帰るか」



 今日は昨日と風景が違う。
 昨日はお父さんの背中でいつもと違う街を見たような気分だった。
 そのことをシンジはアスカに話す。
 ゲンドウは子供たちの後ろをゆっくりと歩いていた。
 時々、ポケットの中のパチンコ玉を指先で転がしてみる。
 女の子というのもいいかもしれない。
 俺の今の稼ぎでは無理だが。
 そんな時、シンジが言った。

「肩車も凄いよ。すっごく高いんだから」

「アタシ、そんなの知らないもん。パパいないんだから」

「あ、そうか。ごめんね」

 ああ、この子はそうなのか。
 ゲンドウは軽く目を瞑った。
 そして、彼は衝動的に動いた。

「きゃっ!」

 ふわっと身体が浮く。
 アスカは空に放り投げられたのかと思った。
 だが、すぐに自分のお尻がしっかりとした場所に納まったのを感じる。
 物凄く高い場所。
 母親や祖母にしてもらったおんぶよりも遥かに高い場所。
 そこがゲンドウの右肩だとわかるのに、数秒かかった。

「しっかりつかまってなさい」

「う、うん」

 アスカは両手でゲンドウの頭にすがりつく。

「うわぁっ!高い?」

「うんっ!すっごく高いよっ!」

「いいなぁ…」

「シンジはダメだ。二人一度にはできん」

「ちぇ…」

「ふふふ、いいでしょ、シンジ!」

 アスカは明るく笑った。
 すぐ近くで聴こえる、その笑い声がゲンドウにはくすぐったかった。
 なにやら耳元が熱くなるくらいに。
 そして、アスカは思った。
 新しいパパはこんなことをしてくれるかな、と。





 シンジはぽかんと口をあけていた。
 引っ越してくる前には碇家にも家庭風呂があった。
 タイルで覆われた丸いお風呂。それは銭湯の小型版みたいなものだった。
 そのことは微かに覚えている。
 それにテレビとかでお風呂の場面を見たこともある。
 だから、外国の人は泡ぶくぶくのお風呂に入るものと思い込んでいた。
 でも、目の前にあるのは大きな木のお風呂。
 よじ登らないといけないくらい大きい。
 それにこの匂い。
 シンジはくんくんと鼻を鳴らした。

「へへへ、いい匂いでしょ」

 先に入っていたアスカが振り返った。
 さすがに5歳児。
 何も隠そうとはしていない。
 それはシンジも同様。

「うん、すっごくいい匂い」

「アタシもグランマのとこの木のお風呂大好きなの」

「おうちのお風呂は木じゃないの?」

「違うわよ。つるつるのお風呂」

「つるつる?」

 プラスチックという言葉は二人は知らない。
 プラモデルがプラスチックモデルのことだということでさえ知らないのだから。
 シンジは銭湯の表面がタイルのお風呂しかわからない。
 片や、アスカは銭湯を知らない。
 木のお風呂に並んで腰掛けて、二人は自分の知っているお風呂のことを話した。
 まるでサイコロのように正方形の惣流家のお風呂。
 その半ばあたりに腰掛がある。
 直接熱湯が当たらないような仕掛けになっている場所の上側に蓋のようにして、幅30cmくらいの板が渡っている。
 その場所がアスカやシンジのサイズには丁度いい腰掛になるのだ。
 
「ねぇねぇ、明日はそのせんと〜に行こうよ」

「え?僕は行くと思うけど?」

 ついておいでよとは言わないシンジに、アスカはぷぅと頬を膨らませた。

「アタシは行っちゃいけないってことなのぉ?」

「だって、おばあちゃんがダメって言うんじゃないの。こんないいお風呂があるんだもん」

「行くの、行くの、行くのっ!」

「う、うん」

「でね、でねっ、アタシもそのフルーツ牛乳とリンゴジュースを飲むのっ」

「ふたつも飲んだらお腹が痛くなっちゃうよ」

「じゃ、アンタがどっちか飲みなさいよ。半分っこしよっ」

 これは名案だとばかりにアスカが笑う。
 その時、扉をこんこんとノックする音。
 
「これ、早く身体を洗いなさい。のぼせてしまうよ」

「はぁい」

 いい返事を返して、アスカは舌をぺろりと出した。
 
「ね、シンジ。洗いっこしよっ!」





 
ユイ…、その…なんだ…つまり…」

「子供はダメですよ」

 おずおずと切り出したゲンドウにユイはきっぱりと言い放つ。
 シンジはぐっすりと夢の世界。
 今日の夢はアスカと一緒に遊んでいる夢。
 暗闇に包まれた部屋の中に二人の囁き声が微かに聞こえた。

「そうか……」

「気持ちはよぉくわかりますけどね」

 本当は私も欲しいんですよ…。
 その言葉はユイの心の中だけで発せられた。






(3) 昭和42年4月11日 火曜日



 次の日、アスカは物干し台に上がっていた。
 背後ではクリスティーネが洗濯物を干している。
 アスカはつまらなそうな表情で手すりに寄りかかっていた。

「仕方がないわよ、シンジちゃんは幼稚園なんだから」

「ぷぅ、アスカも幼稚園行きたい」

「ハンブルグに行ったら似たようなものがあるわよ」

「グランマのいじわる。そこにはシンジはいないもん」

「おやまぁ、よほど気に入ったようだね」

「うん、結婚してあげてもいいわよ」

「おやおや。シンジちゃんは困るでしょうねぇ」

「どうしてよ」

「こんな何もできないお嫁さんじゃあねぇ」

 アスカはすっと洗濯籠からタオルを拾い、ばたばたと振ってそれから祖母に差し出す。

「はい、どうぞ」

「洗濯干しの手伝いくらいはできます、か。じゃ、洗って干すのはシンジちゃんの役かい?」

 からかうクリスティーネにアスカは膨れてぷいっと横を向いた。

「グランマのウルトラいじわるっ!」

 横を向いた先には碇家の窓。
 その窓が開いた。
 ぱっと輝いたアスカの顔は期待外れにふて腐れる。

「あら、アスカちゃん、おはよう!」

「オハヨ…」

「惣流さん、おはようございます」

「碇の奥さん、おはようさん」

「あの…できれば、名前で呼んでいただけませんか?」

 クリスティーネは手を止めてユイを見下ろした。
 彼女はニコニコ笑いながら、こう言った。

「だって、いつも怒ってるような感じじゃないですか」

「はは、そうだね。じゃ…」

「ユイ、です」

「そうか、じゃユイさん。それなら私のことも名前で呼んでほしいものだね」

 ユイは緊張した。
 舌を噛まないような名前だったらいいんだけど…。

「クリスティーネ。言いにくければ、くりさんでいいよ。古くからの知り合いはそう呼んでる」

「えぇっと、クリス、ティーネ、さん…」

 ユイはにっこり微笑んだ。

「やっぱり、くりさんにします。おはようございます、くりさん」

「はい、おはようさん、ユイさん」

 そのあと、二人の女は微笑みあった。
 名前で呼び合うと、随分と親しくなったような気がする。
 そんな二人を見てアスカは思った。
 大人って変だ。あたしとシンジは最初から名前で呼んでいるのに、と。


 
 そのシンジは幼稚園から帰りお昼を食べてから、惣流家を訪問した。
 玄関先に座って出迎えたアスカは少しご機嫌斜めだった。

「遅かったわね…」

 三和土に届かない足をぶらぶらさせながら、アスカは頬を膨らませて見せた。
 お昼をシンジと一緒にと言うアスカの希望はクリスティーネにはねつけられた。
 碇家の暮らしぶりは彼女には予想できる。
 毎日のようにアスカが押しかけるのはよくない。
 しかしそれをアスカに説明などできるわけがない。
 それにシンジを呼んで食事を振舞うのもユイの気持ちがいいわけがない。
 いきおい、ダメと言ったらダメという言い方しかできなくなる。
 それでアスカはご機嫌斜めだったというわけだ。

「ごめんね。待った?」

「待ったわよ。100万年も待ったわよ」

「100万ってどれくらいなの?」

 アスカはうっとつまった。
 わかるわけがない。

「とにかく、目茶苦茶長い間なのっ」

「ごめんね」

 シンジに他の言葉があるはずがない。
 
「仕方がないわね、上がんなさいよ」

「おじゃましま〜すっ」

 明るく言って靴を脱ぐシンジ。
 きちんとそれを揃えていくのはユイのしつけの賜物だ。
 アスカに続いて階段をとんとんと上がると、惣流家の居間や台所などがある。
 常識をまだ知らないシンジは一階にはトイレとお風呂しかない、この家のつくりを特に変だとは思ってなかった。
 
「おや、いらっしゃい、シンジちゃん」

「あ、おじゃまします」

 きちんと頭を下げるシンジに、クリスティーネは目じりを下げた。

「偉いねぇ。ちゃんと挨拶ができてるよ。アスカはどうなんだい?シンジちゃんところに行ったら挨拶できてるかい?」

「してるわよっ!ねっ、シンジ」

「えっと…」

 正直に考えてしまうシンジにクリスティーネは笑みを漏らした。
 その後、二人はかくれんぼうをはじめた。
 シンジの家と違い、惣流家には隠れるところがいっぱいだ。
 ルールは隠れていいのは一階と二階だけ。外と物干し台は禁止というわけだ。
 
「もういいか〜い」

「もういいわよっ!探せるもんなら探してみなさいよっ」

 アスカの声が一階から響く。
 おやおや、どこにいるのかこれじゃもろわかりだよ。
 クリスティーネは新聞の株式欄を見ながら鼻で笑った。
 
「えっと、どこかなぁ。下の方で聞こえたような…」

 シンジがゆっくりと歩いていく。
 アスカは探してもらえるまで我慢できるだろうか?
 きっと自分から見つけてもらえるように色々するのに決まっている。
 短気な上に独占欲の強い孫娘のことを彼女はよくわかっていた。

 案の定、アスカは餌を撒いていた。
 彼女が隠れたのは一階の使われていない部屋。
 そこへの入り口を少し開いておいたのだ。
 それにはもうひとつ理由がある。
 その部屋の窓は雨戸で遮られているから、扉を開けていないと何も見えないのだった。
 シンジは一階に降りると周りを見渡した。

「どこかなぁ…?」

 その声を聞いてアスカはほくそ笑む。
 
「うん、お風呂かも…」

 見当違いの場所を決め込んだシンジはその方角へ進む。
 そして、その途中にあった少し開いていた扉を何の気なしに閉じてしまった。
 げげっ!
 一瞬にして回りは真っ暗闇。
 アスカは予想もしなかった展開に声も出なかった。
 彼女が隠れていたのはその部屋の真ん中辺りにある金属製のベッドの下。
 まったく使われていない部屋なのだが、クリスティーネがまめに掃除をしているから埃は殆どない。
 だからこそ、アスカがその下にもぐりこんだのだが…。
 最初はアスカにも我慢ができた。
 暗い部屋。誰もいない部屋。ここは死んだグランパが仕事をしていた部屋。その仕事は…。
 そこまで考えてしまうと、急にアスカは怖くなってしまった。
 こ、ここで、グランパはきっと…。

「うぎゃあっ!」
 
 アスカは一声とんでもない大声を上げると立ち上がろうとした。
 もちろん、ベッドの下にもぐりこんでいるのだから、立てるわけがない。
 すぐに頭をベッドに打ち付けてべちゃっと顔と手から床に倒される。
 それがアスカには怪物か幽霊かに押さえつけられたように思えた。

「うぎ、うげ、ぐぎゃあああっ!」

 何とかその化け物から逃げようと這って逃げようとするのだがうまく身体は動かない。
 叫び声を上げ続けながら、アスカは必死に逃げた。
 広いといっても日本の家。
 アスカの叫びはシンジにもクリスティーネにも聞こえた。
 ただ勝手のわからないシンジは右往左往するだけ。
 お嫁さんにする予定のアスカがあんなに凄い声で泣き叫んでいるのだ。
 僕が助けないと、とは思ってようやく声がする先を特定した。
 クリスティーネも階段を降りてきた時、シンジは扉を開いた。

「うわわあああぁ〜んっ」

 その瞬間、シンジは中から飛び出してきた金色のオバケに飛びつかれてしまった。
 廊下に押し倒されるシンジ。
 その上でアスカは狂ったように泣き叫びシンジの胸をぽんぽんと叩く。

「怖かったよぉぉ〜。どうして閉めたのよぉ。シンジのいじわるぅ!」

「これ、アスカ、止めなさい」

 アスカの脇に手をいれひょいと抱き上げるクリスティーネ。

「あ〜ん、グランマ、グランマぁ」

 祖母の胸に顔を伏せ泣くアスカ。
 その姿をきょとんとした顔で見上げているシンジに、クリスティーネは優しく微笑んだ。

「馬鹿だね、この子は」

 口ではそんなことを言いながらも手は優しくアスカの背中を撫でている。
 祖母や祖父を知らないシンジにとって、その姿はどこか羨ましく見えた。
 でも自分には母さんや父さんがいる。
 アスカにはお父さんがいないんだもん。
 そう思ったシンジは立ち上がると、アスカが飛び出してきた部屋を恐る恐る覗き込んだ。
 しかし暗くてよく見えない。
 ぱちっ。
 明かりが点いた。
 アスカを抱き上げているクリスティーネが壁のスイッチを入れたのだ。
 そこに見えたのは…。 



 その日の夕方のことである。
 碇家のお風呂は午後5時半に部屋を出るときから始まる。
 行先は徒歩7分の伊吹湯。
 県道の方に出て信号を渡って一つ目の角を曲がったところにある。
 その伊吹湯の煙突はシンジの部屋からもよく見える。
 家や商店が立ち並ぶ界隈では抜き出て高いものだ。
 それから南へ目を移すと、もくもくと白や灰色の煙を吐き出す煙突が何本も見える。
 その煙突たちは伊吹湯のそれよりも遥かに高く、そして太い。
 そこから吐き出される煙は雨の日でも衰えを見せない。
 一番海に近いところに大企業の工場がある。
 そこに立つ煙突が一番太く高く大きい。
 その手前に関連企業の工場。
 そこの煙突は大企業に遠慮をしているかのように、一段低くなっているように見える。
 遠慮知らずなのは一番町に近い工場街にある煙突たち。
 決して高くはない。
 ここの煙突は細めで低いが、何しろ数が多い。
 下請企業の町工場の煙突たちだ。
 その数が多い煙突が立ち並ぶ界隈でゲンドウは毎日汗に塗れていた。
 ある程度の企業ともなると、その工場の敷地の中に汗を流す場所がある。
 当然、冬月精密機械製作所にはそんな施設はない。
 だから彼は工場からパチンコ屋に向う途中でこの銭湯に寄る。
 それが5時半過ぎ。
 運がよければ伊吹湯の前で家族が出くわすこともある。
 そんな時もシンジはゲンドウと一緒の暖簾はくぐらない。
 それは日曜日だけ。
 あとの6日間はシンジは女湯。
 アスカも同行している今日も、もちろん女湯。

「いい?アスカ、気をつけるんだよ。ここの信号は青になっても危ないんだよ」

「嘘っ!」

「本当だよ。この前も小学生のお兄ちゃんが轢かれて死んじゃったんだよ。ねえ、お母さん」

「ええ、かわいそうに…。車には充分気をつけなさいよ」

「うんっ!」

 明るく答えるシンジとは裏腹に、アスカは緊張した。
 信号を信用してはいけないなんて大変だ。
 目の前の信号が青になったのを確認すると、アスカは左右を順番にきっと睨みつける。
 そして、車がちゃんと停まっているのを見て頷くと、「行くわよ、シンジ!」と手を引っ張る。
 ああ、可愛いなぁ。もう。
 ゲンドウの申し出を断ったもののやはり自分でも女の子が欲しいユイだった。

 くりさんも一緒にいきませんかと誘ったのだが、彼女は笑顔で断った。
 私は家庭風呂のほうがいいのだと。
 その気持ちはユイには少しわかるような気がした。
 銭湯に肌の色が違うものがいたら、気になるに決まっている。
 これまでの銭湯人生…といってもまだ2年にもならないが、その中で人種の違う裸体を見たことはない。
 数回、墨を背負っている女性を見たことはあるのだが。
 その時は怖いというよりも触ってみたい、近くで見てみたいと持ち前の好奇心を抑えるのに必死だった覚えがある。
 今日は日系だけど白人にしか見えないアスカが一緒なのだ。
 きれいに洗ってあげようと、少しわくわくしている。

「まあっ、可愛いっ!」

 女湯側に入って、周りをきょろきょろしていたアスカはいきなり黄色い声を浴びせられた。
 声の方角を見ると、体操服の上に半纏を着た高校生くらいの娘が立っていた。
 胸のところできれいに畳まれたタオルをたくさん抱えて、にこにこしながらアスカを見下ろしている。
 可愛いといわれて意表をつく表情を見せられるほどアスカは大きくない。
 もちろん、にこっと笑って、どうだとばかりにシンジに向って顎を上げる。

「でしょう?マヤちゃん。すっごく可愛いでしょ」

「ええ、本当に。こんにちは、ユイさん」

 マヤはタオルを番台の母に届けると、すぐに三人のところに戻ってきた。
 そして膝を抱えるように身をかがめると、アスカのすぐ前でにこにこ笑う。

「こんにちは、お名前は?」

 シンジの時は「アンタが先に名乗りなさい」と言わんばかりのアスカだったが、
 アスカにとっては立派に大人なマヤに向ってそんな口が聞けるわけがない。

「あ、アスカ…」

 消え入らんばかりの声で名前を言うのだが、それがまたマヤのハートを直撃した。

「か、可愛いっ!」

 その大声にアスカはすっとシンジの背中に隠れた。
 といっても、隠れられるほどシンジが大きいわけではない。
 
「あ、こんにちは、マヤお姉ちゃん」

「こんにちは、シンジちゃん。今日はすっごく可愛いガールフレンドと一緒ね」

「うんっ!」

 元気に答えるシンジに気分を良くしたアスカがニコニコ笑いながらその横に立つ。

「シンジ、この人誰?」

「うん、このお風呂屋さんのお姉ちゃんでね。大人になったら僕と結婚してくれるんだって」

 わっ、言ったぞ、我が息子。
 ユイはブラウスのボタンを外す手を止めた。
 こいつはおもしろそう。

「うふふ、そうよねぇ。シンジちゃんだったら、マヤお嫁さんになってあげるわよ」

 アスカの目がくわっと開いた。

「んまっ!信じらんない!アタシの方が美人じゃないのっ。髪の毛の色だってアタシの方が金色よ!」

「あらら、私、日本人だからなぁ。そんなきれいな色にはなれないわ」

「ふふん!アタシの勝ちね」

 アスカは可愛らしく仁王立ちして顎を上げた。
 
「じゃあアタシの勝ちだから、アタシがシンジのお嫁さんになるのよ!」

 ユイの頬が緩む。
 言った、言った、言ってくれました。
 ブラウスの胸をはだけたまま、息子の対応をわくわくしながら見守っている。

「えっと…じゃ、僕がアスカのおむこさんになるの?」

「と〜ぜん!あたり前田のクラッカーよ」

「えっと、どうしようかな…?」

 真剣に悩む息子の姿がユイには面白くて仕方がない。
 しかしながら、もしアスカがマヤと同じ年頃であれば当然男ならば悩むところだと思う。
 ショートカットで明るくて優しそうな美人のマヤ。
 長い金髪で気は強くてやはり美人のアスカ。
 どっちを選んだにしても折に触れて自分の選択に間違いはなかったのかと振り返ることだろう。
 ただし、今はマヤが高校生で、アスカとシンジは幼児。
 シンジの選択基準は何なのか、それがユイの知りたいところだ。

「アンタ、何悩んでんのよ。アタシが結婚してあげるって言ってんだから、結婚しなさいよ!」

「で、でも、最初に約束したのはマヤお姉ちゃんだし…。困っちゃったな…」

 碇シンジ。
 5歳にして真剣に恋ではなく、結婚に悩んでいた。
 マヤもやはりこんな可愛い二人をからかってみたいのだろう。
 茶々を入れてしまった。

「そうよ、私の方は1年前から約束してるの。ごめんね、あきらめてくれる?」

 その言葉がきっかけとなって、幼児の最大の武器が出た。
 泣く子と地頭には勝てない。
 涙が溢れてきたかと思うと、あっという間にアスカの顔が歪んでいった。
 ありゃま、これはまずいわ。
 さすがに母親歴5年。このあと、どのような騒ぎになるかユイにはよくわかった。
 でも、ここまで来れば誰にも止めることはできない。
 それに当事者の母親だけに逃げ出すわけにもいかないのだ。

 アスカは泣き出した。
 大粒の涙をボロボロ零して、天にも届けとばかりに大声で。

「こら、マヤっ!あんた、何してるの!」

 番台から娘を怒鳴る母親にマヤはただうろたえるのみ。
 自分の一言でここまで泣くとは思ってもみなかったのだろう。
 周囲の全裸、半裸、着衣の女性陣は何事かと注目し、
 すぐに人垣が形成された。

「ち、ちょっと、えっと、アスカちゃん?ごめんなさい。あのね…」

「うわぁ〜んっ!」

 聞く耳を持たないというのはこのこと。
 マヤが言葉を発するたびにさらに声を張り上げてしまう。
 
「ゆ、ユイさん!助けてください!」

「ごめんね、こうなったらもう無理よ」

「ええっ!そんな…」

「うふ、シンジ。こら、シンジっ!」

 アスカの真横で両耳を手で塞いでいる息子の手をユイは引っ剥がした。

「わぁっ。お母さん、助けて」

「馬鹿。シンジがちゃんとしないからこうなったのよ。
 さっさと覚悟を決めてアスカちゃんをお嫁さんにしなさい」

「で、でも…」

 シンジは先約のマヤの顔を仰ぎ見た。
 マヤは大きく手を振って、それからシンジを拝んだ。

「ごめん!私、あきらめるから、シンジちゃんはこの子と結婚してあげて。お願い」

「あ、うん」

 晴れやかな顔になったシンジはそれでも顔をしかめながら、騒音の元凶の耳元に顔を近づけた。

「あのね、僕!アスカと結婚するよっ!」

 ぴたり。
 騒音が一気に止んだ。
 そこに響くのは男湯からの物音と、テレビの声、そして扇風機のがたことという音だけ。
 アスカは顔を上げた。
 真っ赤にはれた目。そしてまだひくひくしている胸。

「ホント…?」

 やっとのことで出した声。

「うん、僕はアスカをお嫁さんにする」

 アスカはマヤを見上げた。
 慌ててうんうんと頷くマヤ。

「負けたわ。私、シンジちゃんをあきらめる。幸せになってね」

「ホント?絶対にホント?」

「本当よ。じゃ、そうね、本当だって証拠にフルーツ牛乳奢ってあげる」

「シンジのも?」

「はいはい。二人に奢ってあげるわよ。結婚祝いでね」

 マヤがにっこり笑った。

「やった!」

「よかったね!」

「じゃ、シンジはりんごジュースの方にしなさいよ」

「うん、半分っこだったよね」

 見る見る機嫌が直っていくその様子にマヤは胸を撫で下ろした。

「あの、マヤちゃん、私の分は?」

「ありません。お姑さんは自分で払ってください」

「あらら。ごめんね、騒がしちゃって」

 素に戻って謝るユイにマヤは微笑んだ。
 
「いえいえ。ちょっとからかいすぎちゃいましたね。えへへ」

 こつんと頭を叩いたマヤは、その後番台に呼ばれて母親からごつんと一撃を貰った。
 その間に子供たちは真っ裸に。
 ユイに先に入ってるねと言い残して、二人は大きなガラス戸の前に立つ。
 
「あのね、滑るから走っちゃダメだよ」

「うんっ。わかった」

「じゃ、開けるね」

 がらがらがら。
 むわっと熱気があふれてくる。
 そして、アスカの眼前に初めて見る光景が広がった。
 
「すっごぉ〜いっ!」

 タイルが敷かれた広い床。
 わんわんと音が反響する空間に、大きな浴槽。
 それにそこを動き回っている裸の人たち。
 当然、アスカはこんなに大勢の裸の人間を見るのは初めてだった。
 子供から老婆まで。年齢層は幅広いが、もちろん男は子供が数人だけ。
 
「行っていいのっ?」

「うん、でも…」

 もう一度念を押そうとしたシンジだったが、もう遅かった。
 わっと駆け出したアスカは四歩目でつるっと滑る。
 それほど勢いがついてなかったので、ぺたんと尻餅をつくだけですんだ。

「いったぁ〜いっ」

 アスカの声がわんわんと響く。
 その自分の声にアスカはビックリしてきょろきょろ。

「もう、だから言ったのに。走ると滑るよって」

 手を差し伸べたシンジにすがってアスカが立ち上がる。

「だってぇ…」

「危ないから、僕の言うとおりにしてよ、ねっ」

「うん、わかった。シンジの言うとおりにする」

「じゃ、そこの桶をひとつ取って」

 アスカはシンジの指差す方向を見る。
 入り口の横には積み上げられた風呂桶が。

「どれでもいいの?」

「うん、好きなのを」

「じゃ、アタシ赤っ!」

 アスカがさっと赤い桶を手にする。
 黄色の桶を手にしたシンジがゆっくりと浴槽へ歩いていく。
 滑らないように用心しながらアスカもその後に続く。
 そんな二人の姿を扉のところで口を押さえながらユイが見ていた。
 この様子はくりさんに全部教えなきゃねぇ。



 慣れというのはやはり凄いものだ。
 ユイが初めてこの銭湯に来た時のこと。
 シンジを連れて暖簾をくぐったまではよかった。
 家庭風呂で育ったユイは集団で風呂に入るのは学校での旅行ぐらいだった。
 しかもそれは友達たちと一緒。少しだけ恥ずかしかっただけだ。
 だが、この街の銭湯に知り合いは一人もいない。
 その日は引っ越してきたその当日。
 ゲンドウは心配そうに言ったものだ。

「大丈夫か。俺は一緒に行ってやれないが…」

 その真面目な一言でユイの緊張は少し解けた。

「大丈夫よ。あなたが女湯に入ってきたらすぐに警察行きよ。
 それにシンジだって一緒だし。別に中に男の人がいるわけないでしょう?」

 当然だ、冗談じゃないとばかりに睨みつけるゲンドウ。
 自分以外の男にユイの裸を見られるくらいなら彼女の命を奪ってしまいかねない。
 そんなゲンドウの表情にユイは微笑んだ。
 
「シンジ…」

 母親に手をつながれたシンジの前に膝を折る。
 それでも長身のゲンドウは見下ろす形になる。
 シンジの頭に手を置くとじっと真面目な目で見つめた。

「ユイを…母さんを頼むぞ」 
 
「うん」

 まだ3歳のシンジは、それでもしっかりと頷いた。
 ユイは吹き出しそうになるのを耐えた。
 ここで笑うと親子ともに拗ねてしまいそうだ。

「よろしくね、シンジ。じゃ、行きましょうか」

 それが引越しの荷物がまだ片付け切れてない、あの部屋での出来事。
 そうして余裕を持って伊吹湯に赴いたユイだったが、
 やはり一糸纏わぬ姿になってみると急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
 周りの女性を見てみても、みんなけろりとして素っ裸で歩いている。
 十代の女の子がさりげなくタオルを垂らして前を隠していたが、胸はそのまま。
 ああダメダメ。恥ずかしがっていちゃ。
 そうは思うものの脚が動かない。
 脱衣籠に下着まで入れて、シンジのパンツも全部入った。
 その脱衣籠を棚に入れて札を取ればそれで準備は終わる。
 
「おかあさん、どうしたの?」

 手におもちゃのアヒルを持ってシンジがあどけない笑顔で見上げる。
 
「え、うん。何てことないわよ」

 何てことないことはない。
 脱衣場に向けている裸の背中が熱い。
 みんなが自分を見ているような感じがしてたまらない。
 お尻の辺りがむずむずするのだ。

「あのぉ…」

「ひぃっ!」

 全身で驚いてしまった。
 恐る恐る振り向くと、そこには女の子が立っていた。
 そのお下げ髪の彼女はにこにことユイを見つめている。
 
「あの、すみません」

「は、はいっ?」

 声が裏返ってしまっている母親にシンジが首を捻っている。
 そのシンジの頭を優しく撫でた少女が少しだけ頬を赤らめて言う。

「もしかしたら…初めてですか?」

「わ、わかりますか……?」

 消え入らんばかりの声でユイが答える。
 
「はい、私ここの娘なんです。だから初めての人ってよくわかるんですよ」

「そ、そうなんですか?」

「ええ。でも、綺麗」

 マヤはうふふと笑った。
 その視線はユイの身体を見ている。

「まだ、結婚されてないみたいに見えますよ。とてもお母さんって感じじゃなくて」

「おかあさんだよ。ぼくの」

 不平を漏らすシンジにマヤは「ごめんね」と笑った。

「さて、じゃ行きましょうか」

「え…」

「だって、そんなになって固まってちゃ目立つだけですよ。さっさと中に入らないと」

「あ、そ、そうなんですか」

「うふ、じゃ私も一緒に。お母さぁん!」

 マヤは番台の母に叫んだ。
 
「私、お風呂入ってくるねっ」

 言うが早いか、マヤはぱっぱと着ているものを脱ぎ捨てた。
 そして服を脱衣籠に放り込むと、シンジに「じゃ、行こうか?」と呼びかける。
 ガラスの向こうが何なのか興味津々のシンジは父親の頼みも忘れてあっさりとマヤに応じた。
 
「うんっ!」

「あ、シンジ…」

 止める間もなく、マヤとシンジは入り口の方へ。
 そして、二人はから〜んと桶の音が鳴り響く浴室へ入っていってしまった。
 残されたのはユイ一人。
 いつまでも裸で立ち尽くしているわけにはいかない。
 ユイは大きく頷くと、扉へ向ってゆっくりと歩き出した。
 右手と右足が一緒に出てるのではないかと思うくらい、ギクシャクした動きで。


 
 子供っていいわねぇ。
 私は最初あんなに勇気が要ったのに、あの子ったら全然平気。
 あの日の自分を思い出して、ユイは微笑まずにはいられなかった。

「あのね、入る前にはしっかりと前と足を洗うんだよ」

「アタシ、汚くないもん」

「ダメ!それが礼儀なんだよ。ほらこうやって」

 浴槽に桶を入れてお湯を掬い、それを自分の前にかける。
 そしてまた掬ったお湯で足の裏を交互に濯ぐ。
 文句を言っていたアスカもシンジの真似をする。

「どぉお?」

「うん、よくできました」

「へへんっ」

 アスカが得意げに胸を張る。

「じゃ、入るよ」

 よいしょと浴槽の縁に手をかけ跨ごうとするシンジ。

「ねえ、あっちの大きい方じゃないの?」

「あっちは大人のお風呂だよ。僕たちはこっち」

「でも、小さいのもいるよ」

 アスカが自分たちと変わらない子供を見つけて言った。

「あ、あれはお母さんと一緒だから。それじゃ、大きい方はあとでね。今はこっちだよ」

 ざぷん。
 シンジが子供用の浴槽に入る。
 丁度股の辺りまでしかお湯はない。
 座っても首が充分出る高さだ。
 
「アスカもお出でよ」

「うん」

 ざっぷん。
 勢い込んで入ったアスカは、すぐに喜色を浮かべた。

「ひっろぉ〜いっ」

 足をいっぱいに伸ばして、ばしゃばしゃさせる。
 
「プールみたいっ!」

「そうだよね」

「アスカちゃん、気に入った?」

 いつの間にかユイが近くに来て、かかり湯をしている。
 アスカは振り返ると、大きく二回頷いた。

「シンジ、泳ごっ」

「ああ、ダメだよ。怒られちゃうよ」

「ええっ、泳いじゃいけないの?そんなの、つまんないっ」

 膨れるアスカにシンジはにっこりと笑いかけた。

「ほら、アスカ、これ見て」

 シンジは手にしたタオルを左手の握り拳の上に置いた。
 そして、水面にタオルを静かに置くと拳を抜く。
 拳の後に空気が残っているので、その周りをシンジは絞るようにまとめていった。
 アスカはこの先どうなるのか、まるでわからずにじっとタオルを見ている。
 タオルがまとめられるにつれて、空気の入った部分がだんだん照る照る坊主の頭のようになっていく。

「わぁ…」

 アスカが目を見張る。
 シンジは得意げに張りつめたその頭をお湯の中へ沈めた。
 すると、タオルの生地の隙間から小さな泡がぶつぶつと湧き出てきた。
 そして、ぎゅっとタオルと絞るとぼこんと大きな泡が出る。

「あたしがする。あたしがっ!」

「うん、やってみて」

 簡単なようではじめての者には少し難しい。
 それでも何度目かのチャレンジで小さな頭ができた。

「やったっ」

 えへへと笑うアスカ。
 頭を沈めると、ぶくぶくと小さな泡。
 そして小さな手でお湯の中の頭を握る。
 ぶほんっという感じで残った空気が昇ってきた。

「おもしろ〜い」

「でもね、身体を洗ったあとのタオルで遊んだらダメだよ。怒られるからね」

「アスカ、汚くないもん」

 膨れながらも仕方がないわねという顔つきのアスカ。
 その後も二人はタオルで遊び続けた。

 しばらくして二人はカランの前に座った。
 コの字型の緑色の椅子を二つ並べて、そこにアスカとシンジはくっつかんばかりに座る。
 もちろんその隣には笑みを絶やさないユイが陣取っていた。

「あのね、このボタンを押すとお湯とかお水が出てくるの」

「ふ〜ん」

「でもね、気をつけないと…」

「えいっ!」

 アスカが手を伸ばしたのは、大好きな赤色のボタン。
 軽く押しても何もおこらないので、ぐいっと体重をかけて押してみた。
 それを見て、シンジもユイもわっと口を開けて止めようとしたが、間に合わない。
 ぶしゅっ!

「あつっ!熱い熱い熱い!」

 勢いよく噴出したお湯が赤い桶の底で跳ね返り、アスカの身体中に飛び散る。
 立ち上がって暴れるアスカに、シンジは咄嗟に青いボタンを押して出てきた水を桶に入れアスカにかける。

「きゃっ!冷たい冷たい冷たい!」

 熱湯の後の冷水だから効果は倍増。
 即座にアスカはユイに伴われて子供用浴槽へ。
 程よい温度に回復したアスカは、物凄い目付きで帰ってきた。
 シンジは少し背中を丸くして、「ごめんなさい」と小さな声。

「わざと?」

「違うよ、絶対に違うよ。熱いって言ってたから慌てて」

 それでもぷぅっと膨れるアスカ。
 ここでシンジは自分の身体で反省した。
 青いボタンで自分の桶に水をためると、それを自分の身体にかけた。

「ひぃっ」

 一声叫ぶと、シンジはばたばたと浴槽へ。
 中に入りほっと息をつくと、ばしゃんと隣にアスカも入ってきた。

「アンタね、アタシにもかかっちゃったじゃないの」

「あ、ご、ごめんなさい」

「でもいいわ、許したげる」

「あ、ありがとう」

「だけど、あれってどうやって使うのよ。あんな熱いのと冷たいのじゃ…」

「えっとね、混ぜるの」

「混ぜる?」

「うん、こうやるの」

 もう一度、洗い場に戻った二人。
 アスカは少し身を引き加減にシンジの実演を見守る。

「最初にねお水の方を入れるの。ぐいってしないでね」

 半押しの状態で水を1/3ほど桶に溜める。

「それからね、お湯を気をつけて入れるんだよ」

 飛び散らないように気をつけて赤いボタンを押す。
 ぶしゅっと音がして、アスカが少し足をずらす。
 だが、お湯はそれほど飛び散らず桶の中に。
 
「これでちょうどよかったらこれを使うの。
 熱かったら水を足すんだよ。ぬるかったら、しんちょ〜に赤いのを押すの」

「わ、わかった。やってみるわ」

 恐々と自分の桶を置き、そして青いボタンに手を伸ばすアスカ。
 随分と時間はかかったが、何とか桶に適温のお湯は溜まった。

「やった、やったぁ」

「やったねっ」

 喜ぶ子供たちを見て、泡だらけのユイは思った。
 あの最初の日、私もアスカちゃんと同じことをしたっけ。
 シンジと大騒ぎしたのをマヤちゃんに助けてもらって。
 あの時、あの娘がいてくれなかったら本当に困っちゃったでしょうね。
 でもまあ、この街の人なら戸惑っている人を見たら誰かが教えてくれていたと思う。
 この街はそんな街。
 環境は悪いけど、人情は厚いわ。



 湯上り。
 アスカとシンジはマヤの奢りのフルーツ牛乳とりんごジュースを半分ずつ飲んだ。
 
「あ〜あ、お小遣いから引かれちゃった」

 横目で番台の母親を見るマヤ。
 奢るといっておきながら、自分の懐は痛める気にはなっていなかったようだ。

「ごめんね、マヤちゃん」
 
「いいえ、いいんですよ。二人とも可愛いから」

 ごくごくと飲んでいる二人を温かい目で見るユイとマヤ。
 子供っていいなぁとマヤは思った。
 自分の子供を持つには結婚しないといけない。
 それには相手が要る。この人と家庭を持ちたいって思うような人が。
 私にもいつかそういう人が現れるんだろうか?
 だけど、どうしてユイさんはあんな無愛想な男の人を選んだのだろうかとマヤは笑顔の影で首を捻っていた。
 何度か風呂上りにここの前で待ち合わせをしている碇家の家族を見たことがある。
 挨拶をして「うむ」と無愛想に返事をされたことも。
 ユイさんならカッコよくてお金持ちの相手くらい簡単に見つかりそうなのに…。
 あの、髭親父のどこがいいんだろ…?



 その髭親父は、伊吹湯を出たところでじっと立っていた。
 今日はパチンコ屋に行かずに、アスカと一緒だと言っていた三人が出てくるのを待っていたのだ。
 遅いな……。
 空を見上げたゲンドウの目に一番星。
 スモッグで煙った空にぽつんと晴れ間。
 そのわずかな部分に星が煌く。
 ゲンドウはその星をじっと見つめ、家族の幸せを願った。
 そして、ふっと鼻で笑った。
 星が動いた。人工衛星だったのだ。

「あ、お父さんだっ!」

 息子の声に首を戻す。
 駆けて来る息子としっかり手を繋いでいる金髪の少女。
 そして、その向こうに愛する妻の笑顔。
 少なくとも自分は幸せだ。
 願わくは家族も自分と同じように思っていることを。




「マヤ、ケースの飲み物も勘定しておいてよ」

「はぁ〜い」

 伊吹湯の営業時間は終わり。
 少し落とした照明の下で後片付けをする母娘。

「もう髪は伸ばさないのかい」

「うん。似合ってるでしょ」

「母さんは長い方が好きだったんだけどねぇ」

 鼻歌交じりに動く彼女が何故髪を切ったのか。
 憧れのユイの真似をしたとはマヤ本人しか知らない。

 

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