あの頃、どこかの街で
- Somewhere in those days -
(4) 〜 (6)
(4) 昭和42年4月12日 水曜日・その壱
その夜。
いや、もう日付はとっくに翌日になっている。
アスカは目を覚ましていた。
何故かというと、おしっこ。
尿意を覚えているのだが、今日は怖くて一階のトイレまで一人で行けない。
いつもはさっさと言っているのだが、
あの暗闇に一人ぼっちになった恐怖心のためか布団から出ることができなかった。
でも、このままではおねしょということになってしまう。
それはダメだ。
おねしょなどすれば、シンジの部屋の窓の真ん前にその布団を干さねばならない。
いくらなんでもグランマがしたと嘘をついても誰も信じてくれないだろう。
アスカは決意した。
グランマを起こしてトイレに着いてきてもらおう。
弱虫と笑われるかもしれないが、おねしょよりはましだ。
そう決めたアスカは布団から抜け出した。
半開きになっている祖母の部屋との間の襖。
何かあったらと寝る時にはいつも少し開けているのだ。
そこに足を踏み出したアスカの耳に変な声が聞こえた。
お、オバケ…?
恐る恐る襖に近づいたアスカはその声がクリスティーネの口から漏れていることを知った。
どんどんどんどんどんっ!
連打される扉に真っ先に飛び起きたのはゲンドウ。
扉を開けると泣きじゃくるアスカがそこにいた。
「どうした?」
「ぐ、ぐ、グランマが…変なの…苦しいって」
やっとのことで言葉を出したアスカを押しのけるようにしてゲンドウは飛び出した。
素足のままで階段を駆け下りていく。
少し遅れて起き出したユイがアスカを抱き上げた。
「くりさんが…おばあちゃんが?」
うんうんと頷くアスカ。
「シンジ!」
母の声にシンジは目を擦りながらようやく布団の上に座り込んだ。
「こらっ、さっさと目を覚ます。アスカちゃんが大変なの!」
「えっ」
その言葉にシンジは一気に目覚めたようだ。
ユイはそんな息子の横にアスカを降ろした。
「いい?ここにいなさい。おじさんとおばさんが何とかするから!いいわね!」
顔をゆがめながらも頷くアスカ。
「シンジ!アスカちゃんを頼むわよ!」
言うが早いか、ユイも夫の後を追った。
もちろん素足のままで。
階段を降りて、裏通りから表通りへ。
まだ真っ暗な道をユイは駆けた。
花の小道を抜けて、開け放されている格子戸をくぐる。
ユイもここから先はわからない。
「あなたっ!どこっ!」
「こっちだ!急げっ!」
夫の声が二階からする。
もつれる足を必死に動かして階段を駆け上がる。
蛍光灯がついている部屋に飛び込むと、
ゲンドウがクリスティーネにかがみこんでいた。
そして、彼女の胸をはだけさせて、じかに心臓マッサージをしている。
「ユイ!救急車だ。おそらく心臓発作。まだ間に合う!」
「はいっ!」
ユイは周りを見渡した。
電話、電話、電話!
ここならどこかにあるはず。
電話は隣の部屋の居間にあった。
119をまわす。
ゆっくりと戻っていく9のダイヤルがもどかしい。
そして、出てきた相手に住所と症状を手短に伝える。
「お願い!急いでくださいっ!」
最後にそう叫んで電話を切ると、ユイは急いで部屋に戻った。
「あなた!」
「騒ぐな。脈を診てくれ」
ゲンドウは人工呼吸に切り替えていた。
脈が復活したのだろう。
夫のこんな姿は久しぶりだった。
落ち着いて最善の方法を選び対処する。
あの頃の夫の姿がそのまま。
「何をしておる。早くせんか」
「はいっ!」
腕時計などしていないから、自分で見当をつけるしかない。
そのためには落ち着かないと。
深く深呼吸をしてユイはクリスティーネの手首を取った。
よかった。脈はある。
「脈はあるわ。でも少し弱い」
「よし、では担架が入ってこられるように玄関からここまでの通路を確保」
「はい!」
ユイは新しくできた年上の友人の命を夫に預けた。
あの人なら大丈夫。
絶対に助けてくれる。
そう呟きながら、ユイは身体を動かした。
通路を確保すると、彼女はまた素足のままでアパートへ駆け戻る。
扉が開けられたままの部屋。
シンジは抱きついて泣きじゃくっているアスカの背中を撫でていた。
「シンジ!」
ユイの叫びにアスカがはっと顔を上げる。
「アスカちゃん、おばあちゃんは大丈夫だから。ね?あの人…おじさんはお医者様なの。
だから、絶対に大丈夫よ。死なせたりするもんですか」
最後の一言は自分に向けて言ったような気もする。
この騒動で顔を出した隣人の奥さんに事情を簡単に説明して、子供たちのことを頼んでいると、
救急車のサイレンが聞こえてきた。
「お願いします!」と頭を下げて再びユイは駆ける。
「もうすぐ来るわ」
「うむ、何とかなりそうだ。自己呼吸も始まった」
ゲンドウは確固たる調子で言い切った。
夫が言うなら間違いない。
もう少しで足の力が抜けてしまいそうになるのを必死にくいとめながら、ユイは階段を降りた。
救急隊を案内しないといけない。
数分後、クリスティーネは救急車で運ばれていった。
ゲンドウはそれに同行した。
寝巻きと素足のままで。
電報でどこの病院に行ったか知らせてもらうことにした。
それがわかればそこに服や靴を持っていかないといけない。
くりさんの服もいるわよね。
あの人ったら、くりさんの寝巻きを引き裂いちゃってた。
それがどこかおかしかった。
ユイは少し笑うと、二階へ上がろうとした。
その時、扉が目に入った。
シンジから聞いた、アスカが閉じ込められてしまった部屋。
好奇心の強いユイはその扉を開いた。
真っ暗な部屋。
ユイは扉の近くにあるはずの電灯のスイッチを手探りで探す。
あ…あった。
ぱちっ。
デジャヴではない。
電灯に照らし出されたその部屋はユイの目に涙を溢れ出させた。
シンジが言っていた。
「何のお部屋かわからなかったけど、凄く懐かしかったよ」
息子の言うとおりだ。
懐かしい。懐かしい我が家を思い出させる。
そこは診療室。
使われなくなって何年も経って、開業している医院とは雰囲気は違うが、
確かにここは病院の診療室だ。
クリスティーネの死んだ夫は医者だったのだ。
そして、碇ゲンドウもまた医者だった。
ユイは部屋の中へ歩き、そして患者用の椅子に腰掛けた。
ここも…うちと同じだったのだろうか?
内科、小児科、それに簡単な外科も。
いわゆる街の診療所。
そんな感じがする。
くりさんはお医者様の奥さんだったんだ。
ユイは天井を見つめた。
すっと涙が頬を伝う。
何に対しての涙だったのだろうか?
くりさんが助かりそうだという安堵の涙?
それとも過去の懐かしい暮らしへの涙?
よくわからなかった。
ただ一つだけはわかる。
ゲンドウはやはり医師として生きていかないといけない。
これまでずっと、それを思って暮らしてきたユイだった。
今回の出来事はそれを再認識させてくれた。
だって、あの人の姿。とってもかっこよかったじゃない。
ユイは涙を乱暴に拭った。
「あっ!」
突然、思い出す。
子供たちだ。
隣の人にお願いしてても、一度顔を出さないと。
ユイは玄関に出た。
素足で三和土に降り立つ。
「痛ぁい」
何度も素足で往復したのに、急に足の裏に痛みを覚えた。
きっと安堵した所為だろう。
「くりさん、つっかけ借りますね…って、大きい!」
ぶかぶかのサンダルを引っ掛けてユイは玄関から出た。
格子戸を閉めて、鍵は持っていないからとりあえず無視。
子供の様子を見てすぐに戻るつもりだから。
あ…でも幼稚園は…。って、私が病院に行ったらアスカちゃんは一人になっちゃうよね。
でも連れて行ったらいいのか。
さて、どうしましょ。
幾分ループ思考に入りかけていたユイの頭は部屋の扉を開けた途端にはっきりした。
隣の奥さんが大慌てで布団にタオルを押し当てている。
何が起こったかということはその動きと泣きながら立っているアスカがシンジのズボンを履いている事でわかった。
彼女はお漏らしをしたようだ。
ユイは泣いているアスカを安心させ、それから隣の奥さんに何度も頭を下げて事情を説明した。
いいのよ、困った時はお互い様と隣家の奥さんは笑って帰っていった。
そして、シンジとアスカはほっとしたのか、一つの布団で眠ってしまった。
ユイはふっと息を吐いた。
「問題は…これよね」
彼女が見下ろした先。
アスカが地図を描いたのは、ゲンドウの布団だった。
午前5時前に、電報が配達された。
クリスティーネが入院したのは県立病院だった。
その時点で子供を起こし、三人揃って惣流家に移動。
やや寝ぼけ頭のアスカに鍵の位置や母親の連絡先を聞き出す。
アスカが寝ていた布団で子供たちはあっさりとまた眠りについた。
パンツを自分のに着替えるかとアスカに聞いたが彼女はこのままでいいと首を振る。
6時を過ぎた頃に「くりさん、ごめん。貸してね」と電話を借りて、
冬月にゲンドウが仕事に遅れるか休むかどちらかになると伝えた。
そういうことなら休むといいと言ってはくれたが、ゲンドウのことだからきっと遅れても出勤することだろう。
ああ、忙しい!
お日様が出るから干さなきゃっ。
ユイはまたアパートに戻り、通路側の手摺を雑巾で拭くとそこにゲンドウの布団を干す。
隣の奥さんもがんばってくれたけど…う〜ん、北海道…いや四国って感じかしら。
シミで残らなきゃいいけどな。
そして、午前7時になったところで、ユイは緊張した手でダイヤルを回した。
初めて話す相手に驚くようなことを伝えなければならない。
「Hellow…」
「あの…キョウコ様でしょうか?」
「そうですが…どなた?」
警戒するような声が受話器を通ってくる。
いきなりファーストネームはまずかったかもしれない。
「いきなりすみません。私、●●市に住んでいる碇と申します。
惣流さんの裏手のアパートに住んでいます」
「ああ、あそこの。で、何かしら?」
「突然なのですが、お母さんが倒れられたんです」
ユイの言葉に受話器の向こうは沈黙した。
「もしもし…?」
「ママは大丈夫?」
物凄く冷静な声。
一歩間違うと冷淡と捉えられそうな語感。
しかし、ユイにはわかった。
伊達に医者の女房を…そして、娘を何年もこなしてきたのではない。
キョウコの内部でかなりの葛藤があって、それを必死に抑えているのだ。
「はい。県立有岡病院に入院してますけど、病状は安定しています」
「心臓?」
「ええ、心臓麻痺だったんです。発見が早かったので」
「そう。アスカ…娘は?」
「アスカちゃんは今眠ってます。私が責任を持って…」
「ごめんなさい。大丈夫なら今日だけお願いできませんか?」
「お母さんを?それともアスカちゃん?」
「両方です」
うわっ!言いにくいことをはっきり言うじゃない。
本来ならむっと来てもおかしくないやりとりなのに、何故か不快感はなかった。
「今日は私でないとできない取材があります。それを終えて、引継ぎしたら…。
新幹線に間に合わなければ、夜行でも、いやタクシーでも」
最後の方は母を思う娘の感情が少しだけ出ていた。
このキョウコさんって人に弱みを見せるのがいやな人なのね。
ユイはことさらに明るく言った。
相手に不安感を抱かさないように。
「任せといてください。お母さんの方もアスカちゃんの方も」
「あの…アスカは人見知りする方なので…」
今度は母親の声。
「大丈夫です。うちの息子と仲がいいので…。あの…」
「はい?」
言っちゃおう。それでかなり気が休まるはず。
「うちにお嫁に来てくれるそうですよ」
「まあっ!」
一声叫ぶと、キョウコはくすくすと笑い出した。
「ごめんなさい。アスカがそんなに…。あら、笑っちゃダメよね。こんな時に」
「いえ、こんな時ですから、笑ってください」
受話器からほっと溜息が聞こえた。
「あなたって良い方ね。では二人まとめてお願いします」
明るく了解したユイはまさかの時の連絡先を聞き、そして電話を切った。
大きく息を吐く。
どんな感じの人だろう?
もちろん私より年上よね。
アスカちゃんがそのまま大きくなったような感じ?
ああ、いけない。幼稚園にも連絡しなきゃ。
ユイは玄関から飛び出すと、アパートの1階に走った。
そこの娘がシンジと同じ幼稚園の上級さんなのだ。
手短に事情を話すと、次にアパートへ走る。
ゲンドウのお弁当を作らないと。
今日は手抜きさせてもらう。
おむすびをぎゅっぎゅっと握ると、お皿の上に盛っていく。
子供たちの朝食にもしないと。
時間が惜しいから、握っている間にひとつ咥える。
ゲンドウ用に大きなおむすびを5個。
それに沢庵を3切れ付けて新聞紙で包む。
その包みを蝿避け網の中に。
子供たち用に小さめのおむすびを10個。
それを持って惣流家に戻る途中に、もう一度隣家の奥さんにお礼と状況説明。
階段をかんかんと降りていく途中で、ユイは少し大きく息を吐いた。
「忙しいっ」
ただ、イヤじゃない。
くりさんは生きているのだ。そのために身体を動かすことに少しも否応があるわけがない。
惣流家に戻ると、台所を襲う。
お茶の準備だ。
きれいに整頓されている様子を見て、
そういえばドイツ人って整理整頓が大好きだってミッションスクールで聞いたわよねとふと思った。
で、アスカちゃんは何人になるわけ?
これは本人に聞いても戸惑うでしょうねぇ。
死んだお父さんはアメリカの人だから今はアメリカ人なのかしら?
くりさんがドイツの人で…でも、ご本人にそんなこと言ったら「私は大和撫子」と怒鳴られそうな気がする。
もし、うちのシンジのお嫁さんになればまたまた日本人ってわけなのかなぁ?
さぁて、くりさんの入院の準備もしなきゃね。
10日か2週間くらいよね。
あ、でもあまり張り切ってしない方が良いかも。
娘さんに仕事を残しておかないと。
とりあえず今日明日の分だけ。
県立有岡病院まで電車で二駅。
そこから歩いて数分の距離にある。
この辺りでは一番近代的で大きな病院だ。
「グランマ、大丈夫よね」
「大丈夫だよ」
シンジがギュッとアスカの手を握りしめる。
ふふふ、これじゃ私の出番はないわね。
我が息子よ、よろしくね。
受付で病室を聞き、エレベーターで3階に上がる。
ナースセンターに行きお礼を言い、それから病室へ。
扉を開けると、ベッドに横たわっているクリスティーネとその脇に立っているゲンドウの姿が見えた。
クリスティーネは起きていた。
「グランマっ」
飛びつかんばかりにアスカが駆け寄る。
そんな孫娘にクリスティーネは目を細めた。
「おやおやアスカ。ごめんねぇ、びっくりしただろ」
ううんと大きく首を振るアスカ。
ユイは夫の傍らに歩み寄る。
「ご苦労様」
「ふん。何てことはない」
「それはそうでしょうよ。あなたなんですもの」
ユイは意味ありげに微笑みかけ、ゲンドウはその笑みから目を逸らした。
「手術は要らんそうだ。2週間も入院すればいい」
「こんなこと言うんだよ。ユイさんの亭主は。私は今日にも帰りたいくらいだよ」
「ふん。無茶を言ってはいかん。周りが迷惑する」
「もう、あなたったら…。こういう言い方しかできないんですよ」
ユイの言い訳にクリスティーネは微笑んだ。
よくわかっているとでも言いたげに。
「娘さんにも連絡しました。お仕事があるので、今晩か明日の朝にはお出でになるでしょう」
「おやおや相変わらずの合理主義者だねぇ、あの子は」
「私が大丈夫だって太鼓判を押したからですよ」
「ありがとよ、ユイさん。何から何まで」
ゲンドウが物言いたげに身をよじる。
「どうしたの?」
「後は任せていいか?遅刻だ」
「冬月の伯父様には電話しておきました。あっ、電話を勝手に借りちゃいました」
問題ないとばかりにクリスティーネは頷く。
「休みでもいいって言ってくださいましたけど」
「そんなわけにいくか。今から行く」
「そういうと思ってました。台所におむすびをつくってますからそれをお弁当にしてください。
あ、それから手摺に干しているものがありますから、乾いてたら中に入れてくださいね」
その言葉にアスカは真っ赤になってそっぽを向いた。
おねしょならまだしも、お漏らしだったのだ。
しかもゲンドウの布団の上で。
「わかった。ではな」
ゲンドウはじろりとクリスティーネを睨みつけると、大股で部屋を出て行く。
「いってらっしゃい!お父さん」
シンジの声に背中で手を振るゲンドウ。
わぁ、かっこいいとアスカとシンジは思う。
「あら、その格好で帰るのですか?」
笑みを含んだユイの言葉にゲンドウの足が止まる。
その足には病院の名前の入った緑色のスリッパ。
そして身に纏っているのはこの場所に実に違和感のない着物。
寝巻きだ。
クリスティーネに蘇生術を施しそのまま救急車に同乗したのだ。
したがって、眠っていたそのままの格好なのだ。
ゲンドウはそのままの姿勢で固まっている。
病院の入り口まではいいだろう。だが、さすがにこの格好で電車に乗る勇気はない。
「はい、持って来てますよ、着替え」
風呂敷包みを捧げ持つユイ。
ゲンドウが振り向いた。何故早く言わないかと言いたげに。言っても無駄なので言葉にはしないが。
さっさと部屋の隅で着替え、寝巻きは風呂敷に包み直し、そして片方の手にはスリッパを持つ。
「では」
「はい、いってらっしゃいませ」
丁寧なユイの言葉にゲンドウは少し悲しげに見やる。
にこりとユイが微笑む。その片側の頬に少しだけえくぼが。
それを見てゲンドウはふふんと鼻を鳴らし、そして扉に手をかけた。
その背中を見送ったアスカが祖母のベッドによじ登らんばかりに身を乗り出す。
「よかったね、グランマ」
「ああ、本当に。ユイさんとこのご亭主のおかげだよ」
「いいんです。あれが神様があの人に与えた本当の仕事なのですから」
「ほう…」
ユイの言葉の意味をクリスティーネはすべてわかっているような顔つきだった。
もともと医者の奥方だったのだから、直感的にわかるところがあるのかもしれない。
「じゃ、私は先生に話を聞いてきますから…。アスカちゃん、後はお願いできる?」
「任しといて!」
予想していたより元気な祖母の姿に、アスカは元気を取り戻していた。
僕だっているよと言いたげに唇を尖らせた息子の頭をぽんぽんと叩いてユイは病室を出て行った。
病院特有の匂いの中、ユイはゆっくりと廊下を歩いた。
これが…このことがあの人にもう一度やる気を与えてくれたのならいいのだけど。
ユイはあの日のことを思い出していた。
2年前の正月。
年末年始はさすがに碇診療所は休みだった。
ユイの父親が死んでもう2年になる。
突然の交通事故死だったが、ともかくも孫のシンジの顔だけは見せることができた。
それだけがユイの救いだった。
母親は中学にあがる時に亡くしているので、ユイもゲンドウもこれで親という存在が一切いなくなってしまったのだ。
だから正月といっても帰省や挨拶回りはしなくてもいい。
それに休みといっても急患もあれば、要注意の患者もいる。
要注意というのは、発作の危険がある患者。
正月ということで日頃の節制を忘れてしまうことがあるのだ。
したがって、ゲンドウ自身も羽目を外すことはできない。
その正月に届けられた年賀状をコタツで読んでいたときだった。
近所に住む老人が倒れたと家族が駆け込んできた。
餅が喉につまったとのことで、ゲンドウが駆けつけたときはもう手遅れだった。
何とか取り出して人工呼吸を繰り返したが、老人は息を吹き返さなかった。
家族も酔っていたのでゲンドウを呼ぶのが遅れたのがいけなかった。
老人の家族はひとつも繰言を言わなかったが、しかしゲンドウにとっては結果がすべてだ。
ただでさえ無口の彼が陰鬱な表情で杯を重ねた。
いつもより少し多めに。
それをユイは止められなかった。
そのことが彼女の悔恨のもととなったのである。
医師の妻からすれば止めるべきだった。
間の悪いことに、その時診療所のすぐそばで交通事故が起きたのだ。
目の前に診療所がある。
当然、ゲンドウはすぐに現場に飛び出してきた。
被害者は女性で見るからに手遅れの感が強い。
緊急手術をしようにも碇診療所にそこまでの施設はない。
しかし、救急車を待っていてはどうしようもない。
無理を承知でゲンドウは診療所に女性を運んだ。
ストックの血液などあるはずがない。
止血する一方で血液型を調べる。
女性の意識は既になく、脈も弱まる一方。
やっとのことで救急車が到着したが、もはや動かせる状態ではなかった。
そして、女性は碇診療所の診療室で死亡した。
内臓破裂、出血多量。
そして、非難がゲンドウへ集中する。
専門医でもないのに無理に手術を執刀した。
その上、その時酒気を帯びていたと、救急隊員の談話もその地方の新聞に掲載された。
だが、これには裏があった。
女性をはねた車はそのまま逃げた。その後発見された車は盗難車で運転していた人間は無論姿を消していた。
そのままでも記事にはなるのだが、その記者はさらにエキセントリックな記事を欲したのだ。
そこで救急隊員がぽろりと漏らした言葉を拡大解釈したのだ。
もっとも彼が話したのはあれで少しも手が震えたりしなかったのだから腕はいい先生だった、
という内容だったのだが。
しかし、記事ではあのまま救急車で総合病院に運んでいれば被害者は助かったはずだと論旨が展開されたのだ。
もちろん、解剖によりゲンドウの判断に間違いはなかったことは証明されたのだが、
彼の評判はがた落ちになった。
先代院長の人当たりの良さとは大きく異なる無愛想さ。
腕は確かなのだが、患者の評判はすこぶる悪い。
それがベースにあったのが、今回の事件。
どちらの死因もゲンドウに責任はない。
それなのに、街の噂はヤブ医者に人殺し。
年始休みが終わっても患者は殆ど来なくなってしまった。
ゲンドウはそれでも超然としていた。
だが、2ヵ月後、彼は突然ユイに言い出した。
金が要る、と。
どのくらいの金額かと問われると、ゲンドウは唇を噛み締め、そして一言だけ言った。
「できるだけ、多く」
ユイは一瞬だけ息を呑み、そして優しく微笑んだ。
「わかりました。では、ここを処分しましょう」
その明るい口調にゲンドウは黙って頭を下げた。
何に使うのかも訊かない。
別の医者が建物のまま買ってくれれば高く売れたのだが、
評判の悪くなった医院を建物ごと引き継ぐ酔狂者がいるはずがない。
取り壊すことが条件で不動産屋に安く売るしかなかった。
家財道具や衣類もすべて金に替えて、ユイはゲンドウに渡してしまった。
手元に残したのは当座の生活費だけ。
その掻き集めた大金をゲンドウはどこかに持っていった。
ユイにはその行先がどこか見当がついていたのだ。
あの交通事故で死んだ女性は母子家庭で、高校生の娘がひとりぼっちで遺されたそうだ。
そのことを新聞で読んだユイは、間違いなくその娘にお金が渡るように計らったと察した。
ゲンドウにはもちろん社会的な責任はない。
知らぬ顔をするのが当然だ。
だがユイにはわかっていた。
あの時、老人が死んだ後に自棄酒を飲んだ。
もちろん、それが原因で女性が死んだわけではない。
ただもしかするともっと手際よく施術できていたかもしれない。
それがゲンドウを苦しめているのだ。
まったく不器用というか真正直というか…。
ユイはそんな夫がたまらなく愛しかった。
それにこのままこの街で医師をしていても行き詰るのは目に見えている。
もし他の街で病院に勤めても今の気持ちではおそらく仕事にならないだろう。
ならば、ここは一度ゲンドウの思うとおりにさせてみよう。
私はどこまでも着いていく。
数日後、あれほど大きな家に住んでいたのにもかかわらず、ほんの身の回りのものだけを手にして、
碇家の三人はその街を去った。
悪意のある者はまるで夜逃げのようだったと陰口を叩いたものだ。
ところが夜逃げにしては多くの人間がその時駅に見送りに来てくれたのだ。
ゲンドウに命を救われた者、病を治してもらった者、そして古くからの知り合い。診療所の関係者。
ただユイが友人と思っていた者は殆ど来なかった。
ミッションスクールの教師がただ一人来ただけ。
「これは試練なのです。神様が与えてくださった。そうとでも思っておきなさい。気休めにはなるわ」
敬虔な信者が聞いたなら目を剥くような言葉がユイへの餞の言葉だった。
「はい、先生」
ユイは少し声を潜めた。
「泣いてくださっている方には悪いのですが、私、実は楽しみなんです。
あの人と、子供と、三人で一からはじめるって、なんだかわくわくするんです」
教師にだけそっと笑顔を向けたユイは、心底からそう思っていたようだ。
「それにこういう時にはあの無愛想な顔が役に立つとは思えませんか、先生?」
教師は見送りの者から別れの言葉を沈痛な表情で受けているユイの夫を見つめた。
なるほど、あの顔はこういう場面にはピッタリだ。ユイでは明るすぎる。
「ユイさん、あの方を支えてさしあげなさい。どうやらこの世界中であなたにしかできないような気がします」
「先生、この宇宙中で、の間違いです」
にこやかに言い返すユイを教師はぐっと抱きしめた。
この娘ならきっと…。
それは彼女は言葉にはしなかった。
医者を辞めてこの街を去っていく夫をしっかり支えていくのは間違いがないから。
彼女のような妻を持ち、そして母に持つ、この二人の男性は幸せ者だ。
教師はユイと手を繋いでいる若い方の男性の頭を優しく撫でる。
シンジはただにこにこと教師の顔を見上げていた。
そして、彼らはユイの伯父である冬月を頼ってこの街へやってきた。
医者だった人間に肉体労働ができるのかと冬月は眉を顰めたが、
不退転といった印象をゲンドウに受け自分の工場で働かせることにしたのだ。
ゲンドウは二度と医師に戻るつもりはないと言い切っている。
だが、ユイは別の日に冬月に頭を下げている。
もし、いつか主人が医師に戻りたいと思ったならばそれを応援していくつもりだ。
その時は辞めさせて下さい。都合のいい時だけお世話になるのは申し訳ないがお許しくださいと。
「頭を上げなさい。それはわかった。わかったがひとつだけ訊きたい。ユイ、あの男のどこがいいのだ?」
小さい時から可愛がってくれた母方の伯父。
その伯父にユイはあっさりと答える。
「すべてです。伯父様」
こんな答を聞けば、冬月は苦笑するしかない。
「お前が願うとおりになればいいな。そうだ、就職祝いにテレビを買ってやろう。
ああ、断るなよ。シンジちゃんが可哀相だからな」
ゲンドウが頑固に断ったので、カラーテレビは白黒テレビに化けた。
給料天引きの月賦返済だということで折り合いがついたわけだ。
それ以降、冬月は返済された金を貯金している。
将来ゲンドウが医師に戻る気になった時、必要経費にするためだ。
作業員の服で医師の仕事はできないから。
それに腕時計も医者には必要だ。
冬月は始めてゲンドウを見たときに驚いた覚えがある。
何故なら高校生のユイがべったりとくっつきかいがいしく世話をしていたのだ。
その日は妹の…ユイの母の七回忌だった。
医学大学を卒業したばかりのゲンドウが碇診療所に就職したのが一年前。
無愛想なヤツだが腕はいい、と義弟がはがきに書いてきたこともある。
その無愛想なヤツが可愛いユイのハートを射止めるとは…。
ユイはゲテモノ好きだったのか、何故しっかりと監督しなかったかと義弟に本気で詰め寄ったものだ。
ゲンドウは駅からアパートまでの道を急いでいた。
今は10時過ぎ。完全に遅刻である。
その道すがら、パチンコ屋を横目で見る。
例の高校生の時の停学事件。
パチンコ屋を見ると、その記憶が甦り、そして妻の顔が浮かぶ。
まだ高校生になったばかりのユイの顔が。
「あなた…私のことが好きだったんでしょ?」
初対面でこれだ。
しかも「好きでしょ」ではなく「好きだった」なのだ。
当然即座に返事などできるわけがない。
戸惑って立ち尽くしていると、彼女はぷぅっと膨れて見せた。
「あっ!覚えてないんだ。私ははっきり覚えているわよ。あの秋の日の夕暮れ。
あなたは駅から歩いてきて、私を見かけるとびくっと立ち止まって、
それから顔を真っ赤にしてぺこりと頭を下げると、どこかへ走って行ったわ」
ゲンドウはまったく覚えていなかった。
こんなに可愛い娘なら忘れるわけがない。
ならば向こうの人違いか?
まさか、この俺と間違えられるような変なヤツがこの街にはいるってことか?
「ひどいなぁ。本当に覚えてないの?じゃあ、あんなに顔を赤くしたのは何の所為だって言うのよ。
まさかあの夕焼けが顔に照りかかって、なぁんてこと言い出すんじゃないでしょうね」
「わ、わからん」
「わからないですって?」
女子高生は通りの真ん中で腕組みをした。
彼女は真剣に怒っている。
嫌がられたことはあるが、怒られたことは少ない。
「こっちへ来てよ」
「お、おい」
はっきり言って女性から手を繋がれたのはいつ以来か覚えもない。
医療実習等でこちらから手を伸ばしたことはあるのだが、
女性の方から、しかもこんなに可愛い娘から手を繋がれたなどゲンドウの人生で前代未聞。
もっとも繋がれたといっても引っ張られたという方が正しいのだが。
ともかく、六分儀ゲンドウは内心とんでもないパニックに襲われていたのだ。
そして、引っ張り出されたのは駅前の通り。
「ここよ。あなたは向こうから歩いてきたの。詰襟の2番目まではだけてね」
「つ、詰襟!」
いつの話だ…と頭を悩ましたゲンドウが傍らの女子高生をよく見る。
その瞬間、軽いデジャヴが彼を襲った。
「すまん、笑ってみてくれんか」
「いいわよ」
彼女は微笑んだ。
それはあの頃憧れていた診療所の看護婦さんの微笑と同じだった。
ゲンドウがこの街の診療所に職を求めたのは、あの若き日の苦い思い出と無縁ではない。
憧れだけで自爆した思い出が何故か懐かしく、あの微笑をもう一度見たいと思ったのである。
ただその看護婦さんであり、医師の妻だったその彼女は既に夭折していた。
もう二度とあの微笑みは見られないものと、そう思ってこの街に彼はやって来たのだ。
その微笑と殆ど変わらない笑顔で娘が自分を見つめている。
「どう?思い出したみたいね」
「ああ、君はあの時の…」
「そう、あなたは私を見て真っ赤な顔になって…」
「いや、違う。俺が見ていたのは…君のお母さんの方で……」
言わずもがなの言葉。
甘酸っぱい少女時代の思い出として大事にしまっていた彼女は怒った。
自分のことを…小学生の自分に見とれていたものと真剣に思い込んでいたのだ。
「じゃ、何?あなたはお母さんみたいなおばさんの方が好みってわけなの?」
「いや、それは確かに、その時は、だから」
歯切れが悪いことこの上ない。
その上、しっかりと肯定してしまっている。
当然、ミッションスクールの制服の彼女はかんかんに怒った。
「私には全然魅力がなかったということなの?はっきり言ってよっ」
「ランドセルを背負った子供には…魅力など…」
六分儀ゲンドウ、己の容姿はともかくその嗜好はノーマルである。
あの当時の母子を並べてみてどちらに魅力があるかは、ノーマルな男なら母親をチョイスするだろう。
だが、もし今のこの健康な高校生の娘とあの時の母親が並んでいたなら?
ゲンドウは悩乱し、娘は霍乱した。
「子供子供って言わないで。私はもう子供じゃないのよ」
これを見よとばかりに胸を突き出す。
ゲンドウは逃げ出したくなった。
どうしてこんなことになったのだ?
俺は別に可笑しいことは言ってないではないか。
「はっきり答えて。私に魅力はないの、あるの、どっち?」
「それは、ある」
ゲンドウは答えた。
真っ正直に。
娘はけろりとした顔でうなずいた。
「なんだ。それならそうと、はじめからそう言えばいいのに」
「おい…いい加減にしてくれんか」
「どうして?」
からかわれているのだと、ゲンドウは了解したのだ。
「俺のような男をからかっても…」
「うふ」
ペロッと舌を出し、ばれたかと笑う娘にゲンドウは言葉を継ぐことができなかった。
「ごめんなさい。だって、あなた、可愛いんだもの」
耳を疑うとはこのことかとゲンドウは思った。
しかし、疑おうにも彼女の発した言葉はゲンドウの頭の中で何度も何度もリフレインされている。
あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛
いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あ
なた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。
頬が熱い。
喉が渇く。
くらくらする。
この瞬間、ゲンドウは碇ユイをただ一人の女として恋してしまった。
ユイは、俺のことを何故……。
これはゲンドウの生涯の疑問となった。
彼女はその疑問にはただひとつの答しか喋らない。
それは高校生の時も今も同じ。
「だって好きなんだもの。理由なんかないわ」
確かに好きなものに理由など要らない。
ゲンドウが好物の秋刀魚の塩焼きを好きなことに理由を並べようと思えばいくらでも並べられる。
ただそれらの好きな理由というのは後付けだ。
根本的に好きだからというベースがあっての話だ。
それはわかる。
わかるが、その対象がこと自分であれば話が違うではないかと思う。
誰からも好かれにくい人間を好きだというには何か理由がないと納得しかねる。
容姿がいいとか、身体が凄いとか、家が金持ちとか、頭がいいとか……。
頭、か。悪くはない、な。医大に入って、免許を取ったのだから。
だが、それでも、無愛想で無骨な自分を好きになるのはおかしい。
このことを考え出すと止まらない。
止めるためには、ユイの笑顔を見るしかなかった。
それは左の頬に浮かぶえくぼの存在。
「よく見て。私はね、大好きな人にしかこのえくぼは出せないの。
これまではお父さん、お母さん、だけだった。お母さんが見つけたのよ。
お父さんがユイの嘘発見器だなんて笑ったわ。
ほら、どうしてあなたと話していると、ここにえくぼができるんでしょうね?」
確かにえくぼができていた。
その後、ユイのことを見ていたが、どんなに笑顔になっていても、
友達と喋っていても、左の頬にはえくぼは刻まれない。
それが、自分と話すときにはあっさりとそれが出てくる。
ゲンドウが勤めだして半年後、ユイの父親も爆笑して言った。
ユイが君みたいなタイプの男を好きになるとは想像もできなかったと。
「どう言い訳してもだめだぞ、証拠があるんだからな。ほら」と、父親はユイの左頬をつついた。
そこにえくぼが刻まれている以上、ゲンドウはそれを信用する他ない。
実際、ユイのえくぼはその後もゲンドウとそしてシンジにしか見せていないのだから。
伯父の冬月にも見せはしない。
先ほど、病院で別れた時もユイは自分にえくぼを見せてくれた。
ユイは俺のことをまだ愛してくれている。
ゲンドウは小さく頷くと、アパートの階段を駆け上がった。
たんたんたんたんっ。
睡眠不足のはずだが、身体も、そして心も軽い。
惣流未亡人の命を救ったからか?
ふん、未練がましい。
俺は医者を辞めたのだ。
その時、ゲンドウの足が止まった。
手すりに干されているものを目の当たりにしたからだ。
俺の…布団。
何故だ?
「2週間?それはまた長いね」
「仕方がないと思いますわ。心臓ですからね」
「ふふん、あの亭主殿は藪ではなかったと言うことか。心臓に気をつけろとよく言ってたわ」
「まあ、名医でしたのね」
外交辞令とは見えないユイの言葉にクリスティーネは鼻で笑った。
「名医なものかね。自分の病気は治せなかったのに」
「そんなこと言っちゃ、ダメですよ」
「で、アンタのとこのはどうなんだい?」
「名医ですよ。愛想はありませんけど」
くくくっと笑うユイ。
「いいんだよ、医者なんて商売してるんじゃないから愛想などなくてもね」
「そうでしょうか?」
「まあ、ないよりあった方がいいのは確かだけどね」
その一言に二人は顔を見合わせて笑った。
アスカとシンジは探検だと、病院の中をうろついているようだ。
ずっとこの部屋に閉じ込めておくのも可哀相だし、走ったらダメだと念を押して子供たちを送り出したのだ。
その間、クリスティーネは横にはなっているが、眠ろうとはしない。
そして、ユイとゲンドウの話を聞きたがった。
この街に来て、冬月以外のものにこの話をしたことはなかった。
すべてを話し終えると、クリスティーネは大きな溜息をついた。
「なんだよ、いったい。肝心の話より、二人の恋物語の方が分量がやたら多かったじゃないか。
たまらないねぇ、まったく。こっちは愛する夫に先立たれた不幸せな未亡人だっていうのに。
人様の気も知らないでよくもまあそんな惚気をしゃあしゃあと言ってくれるもんだよ。え?」
言葉とは裏腹にクリスティーネの顔は笑っていた。
その時、ユイは左の頬にある感触を覚えていた。
「あのぉ、くりさん。私の左の頬なんですけど、出てます?」
「ん?ああ、えくぼだね。片えくぼってヤツかい。でも、これまで気付かなかったねぇ」
うふふ、くりさん。あなたは5番目の人。
まだ親しくなってそんなに時間が経ってないのに。不思議ですよね。
同じ医者の妻だからでしょうか。
あの人は完全に辞めたものだと思っていますけど、誰が辞めさせるものですか。
碇ゲンドウは世界一の名医。
悪いけど今は亡き惣流先生は世界で二番目にしていただくわ。
もうお亡くなりになってるからいいでしょ、ね、くりさん。
「アスカ、怖いよ。もう帰ろうよ」
「うっさいわね。ここからが面白いのよ」
「でもさ、ここ、し〜んとしてて怖いよ」
「弱虫。ミイラ人間もラゴンもダダもここに出てくるわけないじゃない」
「そりゃあそうだけど…」
「ほら、周りを見てみなさいよ。誰もいないわよ」
「いないから怖いんじゃないか」
「ホントにシンジは臆病者ねっ」
「ねえ、ここはどこなの?」
アスカは扉の上に貼られたプレートを睨みつけた。
「わかんないわよ。ふりがな打ってないもん」
二人はプレートを見上げた。
「でも、真ん中の字はわかるわよ。安売りの安よっ」
「わぁっ、アスカって凄い」
「えへへへ」
県立有岡病院の人気のない地下一階。
霊安室の前でアスカとシンジはニコニコしながら手を繋いでいた。
「もうっ!そこは死んだ人を安置する場所なのよ。霊安室って読むの」
「ええええっ!」
「死んだ人って死んでるの?」
とぼけたことを言いながらもシンジは思い切りびびってしまっている。
アスカもそれは同じ。
そこがどんな場所か知っていれば、当然行くわけがない。
「あなたたち、幽霊なんか連れてきてないでしょうねぇ」
大仰な身振りで二人の頭越しに向こうを見るユイ。
「ああ〜ん、そんなの連れてきてないよぉ」
「お母さんの意地悪っ!」
二人とも怖くて後が見られない。
まったく何と言う場所に入り込んでしまったのかと、二人とも猛烈に後悔していた。
もっともあの後すぐに、色の白い看護婦さんにあそこから追い出されたのだが。
ここはあなたたちの来る場所じゃない、早く戻りなさいと。
つくづく長居しなくてよかったと胸を撫で下ろすシンジだった。
お昼前にはアスカとシンジは暇をもてあまし始めていた。
子供たちはとろんとした目付きになっている。
そこでユイは子供たちを連れて一旦戻ることに決めた。
クリスティーネはもう大丈夫だから来なくていいと言うが、そうもいかない。
夕方前に顔を見せると約束して3人は病室を出た。
帰りの電車の中で幼い二人は頭を寄せあって眠っている。
昼前の電車は乗客が少ない。
四両編成の各駅停車ががたごと走る。
これは帰ったらお昼を食べて、それからお昼寝ね。
私もちょっとだけその横で眠らせてもらおうかしら。
アスカちゃんは邪魔だって言うかな?
ふふふ…。
電車の窓の外を風景が流れていく。
南側を向いているから、殺風景な工場ばかりが目立つ。
もくもくもくと白や黒の煙がどんどんと空に送り込まれている。
この環境でシンジがどうなるかだけが心配だったけど、意外と病気ひとつしないのよね。
あの人に似て結構頑丈なのかしら?
あ、でも、私もこっちにきてから風邪ひいてないわよね。
なんだ、じゃシンジは健康体夫婦の産物ってわけか。
まあ、がんばれ我が息子。
環境にさえ目を瞑れば、この街の方が私は好き。
あの人だってこっちの方が合っているかも。
昔ながらの屋敷町っていうのはあの無愛想男には元から難しかったのかもしれないわね。
この街を医者をすれば…。
そこまで考えた時、ユイの顔が綻んだ。
無理かもしれない。
でも、やってみよう。
決意に燃えたあまり、ユイは電車を降り損ねた。
駅に到着して扉が開いた時に気が付いたのだが、子供たちを起こしている間に扉は無情に閉まってしまった。
と言っても下町を走る電車だけに一駅一駅の間隔は異様に短い。
国鉄の一駅の間に三つも駅があるのだから。
アスカとシンジは文句を言うどころかかえって喜んでいる。
知らない街を歩くのは旅行気分でもあり、探検気分もある。
何故なら、シンジの街の駅と次の駅の間には大きな川が流れていて、その川が市の境になっているからだ。
市が違うとすぐ隣なのに足を向けることが少ない。
日常の買い物は駅前の市場や商店街で充分間に合うし、
役所等も当然自分たちが住んでいる町の役所を使う。
したがってシンジもこの駅で降りたこと自体が初めてというわけになる。
「わぁっ、お母さん、お母さん、映画館だよ!」
シンジの叫びを待つまでもなく、改札口の真ん前に映画館が立っている。
大都市のものに比べると、小さい上にやや汚い。
「ねぇねぇ、ここでゴジラはする?」
ユイは看板を見た。
そこには夏木陽介がかっこよく笑っている。
ゴジラって東宝映画よね。
ポスターに東宝のマークが描かれているから多分大丈夫だろう。
「するんじゃないかな?同じ会社の映画館みたいよ」
「見たいなぁ、ゴジラ」
「私、見たわよ。東京で。ゴジラ対エビラ。モスラも出てきたわよっ!」
「わぁ、いいなぁ。僕、映画を見たことないんだ」
卑屈になることなく、シンジが純粋に羨ましがる。
そうなるとアスカの方は鼻高々だ。
「すっごくおっきな画面でね、それからね、眠っているゴジラを起こすの」
「エビラが?それともモスラ?」
「馬鹿ねっ、人間に決まってるでしょっ」
「えっ、人間がどうしてゴジラを起こすのさ。暴れられたら困るじゃないか」
アスカが言葉に詰まった。
一生懸命に筋を思い出そうとしている。
だが、結局思い出せなかったようだ。
「そんなことはど〜でもいいのっ。とにかくゴジラが、エビラと、それから悪もんもやっつけんのっ」
「悪者も出てくるの?見たいなぁ、僕も」
へへへと胸を張るアスカ。
「お母さん、お願い。次のゴジラを見たいの。映画館に連れてって」
「う〜ん、まあいいか。夏休みよね」
「わかんないよ」
「でしょうね。その時にはきっと忙しくなっているでしょうけど、なんとかするわ」
意味不明のユイの言葉だったが、シンジは最後の部分だけで了解した。
「ほんとっ!やった、やったぁっ!」
文字通り躍り上がって喜ぶシンジだったが、それとは対照的にアスカの表情が曇っていた。
その意味はわかっているユイだったが、わざと話題にする。
それがこの子達のためだから。
「あら、どうしたの?アスカちゃん」
「う、うん…」
喜んでいたシンジも何事かとアスカの様子を窺っている。
アスカは俯き加減に小さな声で言った。
「私、見られない。ドイツに行っちゃうから」
「あ、そうか。もうすぐお母さんとドイツに行くんだったわね。あっちではゴジラはしてないか」
ことさらに明るく言うユイは、横目で息子の様子を確かめる。
シンジは悲しげな目でアスカを見ていたが、大きく一度頷いた。
よしよし。言っちゃえ!我が息子。
そして、ユイの期待通りの言葉をシンジは発した。
「お母さん!僕、ゴジラは見ない!」
「あらま、どうしたの?」
「だって、アスカが見られないんだもん。僕も我慢する!」
シンジの言葉は落ち込んでいたアスカの表情を一気に明るくさせた。
「シンジ!それはダメよ!」
喜んでもらえると思っていたのに、アスカの予想外の返事でシンジは呆然となった。
アスカは腰に手をやると、シンジに向かって胸を張った。
「アンタはゴジラを見るの。ちゃんと見るの。
それでね、私にお手紙頂戴。どんなお話だったか教えてよ」
ほほう、そう来たか、この娘もやりおるわい。
小さな二人のやりとりを見下ろしていると、まるで神様の視点みたいだわとユイは思っていた。
神様って言うのも面白いものね。
なる気はさらさらないけど。私はあの人だけの女神さまで充分なのよ。
誰かこの惚気聞いてくれないかなぁ?
あ、そうだ。くりさんはどこにも逃げられないわよね。
入院患者を苦しめる計画をユイは素晴らしい笑顔で決定した。
「うん!わかったよ!じゃ、画用紙に絵も描くよ」
「わぁい、楽しみ!じゃ、じゃあ、私も一杯描いて送るわよね。向こうにもゴジラみたいなのがいるかもしんないから」
アスカは瞳をキラキラ輝かせた。
「うん!約束だよ!」
「と〜ぜんっ。破ったら許さないわよっ!」
「じゃ、指切りっ」
「うん、でも私は針なんか飲まないもんねっ。約束破らないもん」
アスカは顎をすっと斜め上に突き出して、小指をぐっと前に突き出した。
「僕だって、飲まないもんっ。だって僕とアスカは結婚するんだもん。ずっと仲良しでいなきゃ」
「結婚、結婚!それも、指きりっ!」
おやおや、我が息子もしっかりしているものだわ。
アスカちゃんをしっかり捕まえておくつもりね。
まあ、この年でこれじゃあ末恐ろしいのは確実よね。
美少女に成長するのは間違いないけど、この気の強さもしっかり成長しそうだわ。
未来の姑としては困りものだけど。
ま、いいか。アスカちゃんならいい戦いができそう。
私は姑にいびられた経験がないもの。あの人婿養子だし。
シンジを挟んでああだこうだってやりあおうかしら?
シンジはどっちの味方をする気かな?
駅前から線路沿いに歩く。
こちらの市はすぐそばなのに、どちらかというと住宅街。
ほんの少ししか離れていないのに、南の空が青く見える。
でも、南東を見るとスモッグだらけ。
その方向がユイたちの街。
こうして見るとよくわかる。
スモッグの向こう側には青空があるってことが。
手を繋いで歩く子供たちの後ろにユイ。
二人は大きな声でウルトラマンの唄を歌っている。
実はユイも聞こえない程度の声で一緒に歌っていることを前の二人は気付いていない。
そのうち、アスカの歌唱指導が始まる。
歌唱といっても歌詞の指導だ。
シンジは3番をよく知らなかったのだ。
テレビでは2番までしか唄われていないので、シンジは本で知っているだけなのだ。
アスカはソノシートを持っているので完璧に歌える。
片やシンジの家にはレコードプレーヤーすらない。
そうやってわいわいやっているうちに、川岸にたどり着いた。
少し南側の国道には歩道がないので、歩行者は電車の鉄橋のすぐ横にある専用の橋を渡る。
まるで鉄橋にへばりついているような感じなのでかなり揺れる上に、
電車が鉄橋を通過すると金網越しに風がびゅんびゅんと吹き付ける。
アスカは内心怖くて仕方がないのだが、シンジがけろりとしているので言葉には出せない。
但し、無理をして見せている笑顔は大いに引き攣っているのだが。
「アスカはすごいなぁ。僕なんてはじめてあそこを通った時、お母さんにしがみついて泣いちゃったんだよ」
「は、はは、あれくらい、ははは、私ってすごいでしょ」
「うん、本当に凄いや。ねぇ、お母さん」
「そうね」
これもくりさんに教えてあげよう。
たとえ可愛い孫娘であっても、きっと大笑いするだろう。
でも、笑いものにしちゃうだけなのは少し可哀相ね。
出演料を払ってあげようかしら。
「お昼にたこ焼き、買って帰ろうか?」
「えっ、本当?」
「やったっ!」
今日はちょっと贅沢。
アスカちゃんにとっても大変な日だったんだからね。
ううん、あの子がいなかったら、くりさんは死んでいたんだもん。
殊勲賞ってとこかな?たこ焼き程度じゃ悪いけど。
「お母さん、市場のたこ焼き屋さんでしょ。先に行って頼んでおいていい?」
「いいわよ。10個のを3つね」
「わかった。行くよ、アスカ」
「うん、私、焼いてるの見てるの好き!」
「僕もっ」
駅前の商店街を手を繋いで駆けていく二人。
その後姿を見やりながら、ユイは微笑んで…そして、あっと唇に手をやった。
しまった。どうして3人分頼んじゃったんだろう。
ちょっと調子に乗っちゃったか。私、残り御飯食べるつもりだったのに…。
そして、ユイはぺろりと舌を出した。
でも、たこ焼きは熱いうちに食べないとね。
ごめんね、あなた。全部食べちゃうわ。
ぐぅえっしゅっん!
奇妙なくしゃみをしたゲンドウを同僚がからかう。
「どないしたんや。けったいなくしゃみしてからに」
「うむ。風邪ではない」
「なんや。医者みたいな口ぶりやな。ゲンさんみたいな医者やったら、みんな怖がってよりつかへんのとちゃうか」
ゲンドウは鼻で笑った。
「そうだろうな。いや、そうに決まっている」
医者は俺向きの仕事ではなかったんだ。
こうやって機械を相手にしている方が向いているんだ。
ゲンドウは自嘲するまでもなく、本心からそう思っていた。
この時はユイもそう思ってくれているものと、彼はそう信じていた。
「あ、お母さん眠っちゃってる」
「静かにしなさいよ、馬鹿シンジ」
丸い卓袱台で、仲良くたこ焼きを食べていると、
いつの間にかユイの声がしなくなっていた。
母親は卓袱台に寄りかかってすやすやと寝息をたてている。
走り回った疲れが出たことくらい、幼稚園児でもわかるのは当然。
「うん、わかった。起こさないように…」
「ホントにアリガトね。グランマを助けてくれて」
(5) 昭和42年4月12日 水曜日・その弐
キョウコはまだ病院に到着していなかった。
ただ容態を尋ねる電話が数度病院に入っていると看護婦がクリスティーネに教えてくれた。
「それでいて、私と話をしたいなんて一言も言ってくれないのさ。冷たい子だよ」
「心臓麻痺を起こした人を電話口まで運ぶんですか?とんでもないですよ」
お昼寝を少しした後に、また3人は病院へ。
その途中、アスカとシンジはユイを真ん中にして手を繋いでいた。
アスカはシンジの掌とはまた少し違った感触。
ちょっぴり柔らかくて女の子って感じがする。
この子の母親ってどんな感じなんだろうか?
電話で話した感じでは確かに合理的な口調だったけど、母親を気遣う気持ちは伝わってきた。
アスカちゃんだって気は強いけど変な子じゃない。
母一人でちゃんと育てていると思う。
まあ、楽しみね。もうすぐ、ご対面できるんだから。
「で、持ってきてくれたのかい?私の愛読書」
「はい、ありましたよ。おっしゃってた場所に。それから、短波ラジオも」
袋から取り出してきた本と小型ラジオにクリスティーネの顔が綻ぶ。
「ああよかった。これで暇が潰せるよ」
「くりさんってこんな趣味があったんですね。ちょっと意外だなぁ」
「趣味だけじゃないよ、実益も兼ねてるのさ」
なるほど、無職のくりさんの生活を支えているのはこれだったのかとユイは思った。
だが、こんな先がどうなるかわからないような収入はユイの目では物凄く危ない橋に思えて仕方がない。
「ユイさんや、アンタ、こんなので金を儲けているのが気にいらないかい?」
クリスティーネは四季報をめくりながら、ユイに問いかけた。
アスカはその祖母のベッドの端でスケッチブックを広げてお絵かき中。
描いているのはゴジラと、そしてエビというよりもザリガニの怪獣。
今日話題になった怪獣映画の絵を早速描いているのだ。
そんなアスカは大人の会話には興味なし。
シンジはといえば、寝ている。
あまりお昼寝ができなかったととろんとした目をしていたので、
隣の空いているベッドを拝借しているのだ。
もちろん看護婦さんの許可を貰って。
彼は寝つきは悪いが、眠ってしまうとなかなか起きない。
「いえ、ただ驚いただけです。株で生活していたとは予想もしていなかったので」
「私も吃驚したよ。こんな才能があったとはね。もともとは亭主がしてたのよ。
で、お前もやってみろと遊び半分でしてみたら、これが大当たり。
最初は亭主もむきになって張り合っていたけど、お前には負けたってね。
実は惣流家って案外金持ち…いや、資産家なんだよ。
うちの隣の建物もうちのものだしね」
「あら、あの廃工場が?」
「あはは、中身はすっからかんさ。いつでも立て替えられるようにね。
本当は病院を大きくしようかって買ったんだけど、計画中に藪医者殿はあの世に行っちゃって。
次はキョウコが結婚したらそこに家を建てればいいと思ってたんだけど…」
後は言いよどむ。
はっきりした性格のクリスティーネにしては珍しい。
おそらくキョウコの結婚の時にいろいろあったんだろうとユイは推察した。
「うちと電気屋の間の空き地もうちのものさ。
こうなれば使いようもないんだけどね。
アンタ、要るかい?」
四季報から目を上げて、ユイを見つめる。
その目は悪戯っぽく輝いてはいるが、けっしてからかったりしている目ではない。
「ありがとうございます。いずれお願いするかもしれません」
「おや、家でも建てるのかい?」
「いえ、診療所を…」
ユイは微笑んだ。
「そう言ってくれると思ってたよ。
アンタ、あの亭主の尻を叩くつもりだね」
「はい、ぱしんと」
ユイは右手を勢いよく振り下ろす。
その仕草を見て
「だけど、難しいんじゃないのかい?
一度なくした自信はなかなか戻らないよ」
「ええ、そう思います。でも、今がチャンスですから」
「私の命を助けたからかい?私はいい出汁ってところか」
「はい、コンソメ味の」
「こら、私は鰹出汁だよ。西洋料理よりも日本料理の方がもう得意さ」
「それは失礼しました」
おどけて一礼するユイに、クリスティーネは楽しげに笑った。
「そうなれば、わざわざ診療所を建てる必要はないんじゃないかい?
うちを使えばいいのさ。綺麗なものだよ」
「はい、拝見させていただきました。よく掃除されていて」
「アンタ、なかなかの策士だよ。私がこう言うってわかってたんだろ」
ユイは微笑みで肯定した。
「まったく喰えない女だね。キョウコの方が単純で素直ないい子に思えてきたよ」
「あら、ママに褒めてもらえるなんて、いつ以来かしら?」
新来の声に扉の方を見る。
そこに立っているのは、洒落たスーツ姿の白人女性。
腕組みをして、顎を突き出しているところなどはまさしくアスカの母親。
「ママっ!」
さすがに娘。
アスカが一番反応が早かった。
クレヨンを投げ出して、母親のところに突進する。
「アスカ。元気みたいね」
「うん!アタシ、とっても元気よ。あ、そうだ。あのね、アタシ、結婚するからっ」
抱き上げた娘にいきなり結婚宣言をされて言葉を失ってしまったキョウコ。
「おむこさんはね、シンジっていうのよ。大きくなったら結婚するって指切りしたの。
えっとね、そこで…お昼寝中」
母親に紹介しようとしたが、あいにくシンジはまだ夢の中。
キョウコは少し醒めた目でそのうら若き婚約者を見下ろした。
「そうなの?まあ、随分と若い時に結婚を決めちゃうのね」
「はっ、いい気味だ。私の気持ちがわかったかい」
「ママはまたそうやって減らず口を叩く」
アスカを床に下ろしたキョウコはずんずんと母親の前へ進んでいく。
身体をベッドの後の方にずらしたユイは好奇心丸出しで成り行きを見ている。
「アスカの相手はもしかしてこの人の息子?」
「ああそうだよ。シンジちゃんはとてもいい子さ」
「うんっ。シンジはとってもいいヤツよ!」
キョウコはぐっとユイを睨みつける。
こういうときは神妙な顔をすべきなのだろうか。
きっとそうなのだろうが、ユイは笑ってしまった。
「ごめんなさい。惣流家の土地や財産を狙ってますの」
「あ、貴女ねぇ…」
何か言い訳や話を逸らしでもすれば、言葉の洪水で押し流してやると準備していたのに、
こうもあっけらかんと言われると唖然とする他ない。
「馬鹿言うんじゃないよ。アンタ、今の今までうちが資産家だなんて知らなかったじゃないか」
「いえいえ、あんな立派な診療所があるのは知ってましたよ。今朝知ったばかりですけど。
あれが一番の狙いです。建てる必要がないもの」
「だ、そうだ。キョウコ?どうしようかね」
「ママっ」
冷やかすような口調にキョウコは眉を上げる。
「そんな大声を上げると心臓に悪いねぇ」
「いい加減にしなさいよ。ママ」
「ママ、ややこしいよぉ。グランマはグランマって呼んでよ」
「あのね、アスカ。グランマはママのママなんだから、ママでいいのよ」
「じゃ、アタシのママにしてよ。シンジのママの事は“シンジのママ”ってアタシ言ってるよ」
「あのね、でも、例えばアスカとそこのわけのわからない子が結婚すれば、
アナタはそこの図太い女のことをママと呼ばないといけないのよ」
「えっ、そうなの?」
アスカがユイを見る。
いささか照れくさいが、間違ったことは言えない。
「うん、そうなるわね。私の娘って事にもなるから」
「じゃ、ママって呼んでもいいのね。ママ!」
この呼びかけは効いた。
自分が産むことのできない白人幼児からにっこり笑って「ママ」。
くらっとしそうなほどの快感を覚えた。
「こら、アスカ、やめなさい」
娘の身体をぐいっと引き寄せて、キョウコはユイを睨みつける。
「貴女、何よ。とろんとした顔しちゃってさ」
「あ、ごめんなさい。女の子にママって言われるのもいいものねぇ。
あ、そうか。うちじゃお母さんだっけ。あの、アスカちゃん?お母さんって呼んでくれる」
「おか…ぐわぅ」
言わせてなるものかとキョウコが娘の口を塞ぐ。
「これ、キョウコ。乱暴な。ああ、それじゃユイさんや、あんたは私のことをお母さんと呼んでくれるかい?」
「あら、いいんですか?それでは…お母さん」
「おお、いいもんだねぇ。キョウコはずっと“ママ”ばっかりだったから」
「ママっ、いい加減にしてっ」
本当は怒鳴り上げたいのだが、ここは病院の上に相手は昨日心臓発作を起こしたばかりの人間。
「もう、いいわ。ママが元気なことはよくわかりました。
これで心置きなくドイツに旅立てるわ」
キョウコはニヤリと笑った。
「さあ、行くわよ、アスカ。こんなところに長居は無用」
「おうちに帰るの?」
「違います。東京に帰るの。ママが入院してるんだからアスカの面倒を見る人間がいないでしょ」
「それはマ…マじゃない、お母さんがしてくれるもん」
「まだお母さんじゃありません」
咄嗟にそう言ってしまい、キョウコは天井を仰いだ。
こんなことを言ったら、まるで婚約していると認めたみたいじゃないの。
超高速で仕事片付けて飛んできたっていうのに、この三人ときたら…。
もう、ほっとしちゃったじゃない。
そうは言っても、このままには済ましてはいられないわ。
この私は負けず嫌いなのよ。
キョウコはニヤリと笑った。
「そうねぇ。よく考えたら株券とかあのままにしておくのはまずいわよねぇ。
泥棒猫がすぐ近くに…いいえ、家の中にも出入りしているんですから」
まあ、とユイの顔。
クリスティーネは見えないようにくすくす笑う。
娘の性格はよくわかっている。
これはユイをぎゃふんと言わせるまでは帰らないつもりね。
もっとも今日中にそうするつもりでしょうけど。
見られないのが残念だね。
「ふふふん。楽しいなぁ。ママとお母さんっ」
真ん中のアスカはしっかりと二人の手を握り締めている。
左手にユイ、右手にキョウコ。
キョウコはアスカには笑顔を見せるが、ユイと視線が合うとふんっとすぐに目を逸らす。
シンジがどこにいるかというと、母の背中。
まだ眠たくてキョウコへの挨拶もはっきりできなかった。
「アスカ。何度も言っているでしょう。その人はお母さんじゃないって」
「だって、シンジのママなんだもん。結婚したら、アスカのお母さんになるんだもん。ねぇ〜」
左側を見上げるアスカ。
「まあ、結婚すればね」
「じゃ、絶対に大丈夫。アスカはシンジと結婚するもん」
「あら、ありがとう」
溜息雑じりに空を仰ぐ。
ああ、この街の空だ。
東京の空がきれいだとは決して言えっこない。
それでもここよりはましだ。
海に近づくほど濃くなっていく灰色の空。
彼の元へ飛び出していくまでずっと眺めていたこの空。
大嫌いだった。
でも、懐かしい。
「アスカ、クリームソーダ飲んでいきましょうか?時間はまだあるんでしょ」
「わっ!ホント?」
歓声を上げたアスカがユイを仰ぎ見る。
「飲んでいらっしゃい。おばさんは掃除とか色々あるから。あの…」
ユイはキョウコの顔を見る。
彼女は素知らぬ顔で線路の方を見ている。
なんと呼ぼうか、その答を欲しかったユイだが、そういう対応をされては仕方がない。
「アスカちゃんはお母さんと一緒に喫茶店に行ってらっしゃい。シンジはまだ眠りそうだから」
「う〜ん、ママとお母さんとシンジと、み〜んな一緒がいいよぉ」
「わがまま言わないで行ってらっしゃいな。あの、お昼はどうされましたか?」
ユイにとってはけっこう大問題。
この2日ばかり計画外の出費が重なっている。
もちろんそのことを周囲に気取らせてはいない。
ところが、ユイは気付いている。
ゲンドウも、くりさんも知ってて知らないふりをしてくれているだけだと。
そしてこの時、もう一人その仲間が増えた。
アスカにシンジのことを病院を出る前からずっと聞かされ続けている。
住んでいるのは裏手のアパート。
父親は町工場に勤めている。
となれば、その収入はいいわけがない。
それならば喫茶店に誘ってもそれとなく断ることは当然。
しかし、わからないのは、その父親とやらは元医者らしい。
ならば収入がいいはずのその仕事を何故辞めているのか。
そこのところがはっきりしないと、戦うことができない。
キョウコはそう思っていた。
戦うならば正々堂々と真正面から。
それがキョウコの信条だった。
昔から、そして今も。
となれば、ここはこうしないことには気がすまない。
「アスカ。今は我慢しなさい」
「え?」
キョウコは至極自然に話す。
「クリームソーダはおやつにしましょう。その寝ぼすけのアスカのボーイフレンドと一緒に」
「わっ!ホント?嬉しい!じゃ、そうするっ」
アスカに不満があるわけがない。
「ということで、お昼が終わったら私たちは喫茶店。あ、私は角の来々軒で食べますからご心配なく。
その間、アスカはそちらで昼寝でもさせておいてくださる?」
これで如何と言いたげなキョウコにユイは笑いをこらえていた。
スポーツマンシップというのか直球勝負というか、こういうのは彼女の好みだった。
あの変化球が一切投げられないゲンドウを愛しているユイなのだから。
3時のおやつは喫茶店でクリームソーダ。
百貨店の大食堂でクリームソーダは食べたことがあるが、
喫茶店に入るのはシンジは生まれて初めての経験だった。
駅から商店街を抜けて、アパートに一番近い喫茶店・黎明。
オレンジ色の日除けが通りの中で眩しいほど派手で、
シンジは当然そこに大きく書かれた店名を読むことができない。
母親に聞いて、れいめいと読むことを知った。夜明けという意味ということも。
店の中に入って、夜明けという店名と少し薄暗い店内にどのような関係があるのか…
もちろん、そんなことをシンジは考えない。
彼が今一番悩んでいるのは、キョウコのことを何と呼んだらいいかということなのだ。
こんなことで悩むのはこのまだうら若き幼稚園児にとって初めてのことだった。
“おばさん”“おばあさん”“お姉さん”…。年上の女性のその殆どがこの3つに分類される。
マヤのような年頃の女性は“お姉さん”。
クリスティーネは“おばあさん”というほどではないが、アスカの“グランマ”という呼びかけに倣ってそう言っている。
近所の母親たちはすべて“おばさん”である。
で、問題は目の前に座っている女性。
見るからにアスカそっくりの容姿で、雑誌を手に少し身体を横にずらして読みふけっている。
足を組んで座っている、その姿はシンジにとってテレビでしか見たことのないような雰囲気たっぷりなのだ。
そう。“おばさん”と呼ぶにはキョウコはあまりにカッコよすぎるのである。
初めて会ったときからこの苦しみは続いている。
いや初めてのときは頭がぼけっとしていて夢うつつだった。
苦しみはお昼寝が終わって玄関先でキョウコに真上から見下ろされた時からだ。
少し無愛想に見下ろされているその人のことをすっと“おばちゃん”と言えなかった。
その第一印象がアスカの母親というよりも姉の様に思えたからだ。
だが、どこかで呼びかけないといけないときが来る。
シンジは困ってしまった。
「どうしたのよ、シンジ。飲まないの?」
ストローをクリームソーダに突き刺しもせずに、考え込んでいるボーイフレンドにアスカは眉を顰めた。
この問いかけはシンジにとって渡りに船。
すぐにアスカの耳元に口を寄せる。
「あのね、アスカのお母さんって何て呼べばいいの?」
「はい?」
まるでウルトラマンは怪獣の仲間かと訊かれでもしたかのように、アスカが呆気にとられた。
「何よ、それ。ママはママに決まってんじゃない」
「え、でも、そんなの、僕言えないよ。僕のお母さんじゃないもん」
うっ。
キョウコは口に含んだコーヒーをやっとの思いで吹き出さずにすんだ。
この子、何?
最初に会ったときから、何かを一生懸命に考えているかと思っていたら…。
「いいのよ、ママで。だって、アンタ、アタシと結婚すんでしょ。そしたらアンタのママになるんじゃない」
「え…、そうなの?」
よかった。
今度は口に入れていたら間違いなく吹き出していたわ。
この子、天然?
いや違うわね。この年頃でアスカの様にませている方がおかしいのよ。
結婚すれば母親とか父親とか兄弟が急に増えることを知らないのは当然。
ここで、キョウコは少しだけ自嘲した。
増えない場合もあるけどね。
戦死したラングレー少尉と結婚はしたものの、結局彼の両親には認めてはもらえなかった。
会ったのは一度だけ。彼の遺骨を奪い取りにきた時。
法的にも認められている妻と娘の下に、あの人たちは夫であり父親でもある彼の遺骨を残そうとはしなかった。
キョウコは孫の顔を見れば…などと少し期待していたのだが、彼らはそんなことに頓着しない。
アスカも彼らを見た途端に泣き出してしまったのだし。
その上、ジャップとナチの混血児だなどと毒づかれ、キョウコは彼の母親を平手打ちしてしまった。
結局短い結婚生活で残されたのは、数少ない遺品とそしてアスカだけ。
いや、それと思い出か。
後悔はしていない。少しも。
……。
さて、この子はどうするのかな?
意識を前の子供たちに戻したキョウコは内心わくわくしていた。
「じゃ、お母さんって言うの?」
「当たり前じゃない」
「で、でもさ、お母さんって感じじゃないもん」
「んま!何よそれ。アタシのママに向ってっ。これでもちゃんとお料理もお洗濯もできんのよっ」
あとでアスカを折檻しよう。
キョウコは即決した。
あまりに口の利き方が悪すぎる。お尻を三発くらいは叩いてやらないと。
もちろん、小声で喋っているつもりの二人は、
雑誌を読んでいるキョウコがすべて聴いているとは夢にも思っていなかった。
「ち、違うよ。えっと、あのね。だって、アスカのお姉ちゃんみたいなんだもん」
「んま!ママに向ってお姉ちゃんって何よ。ママはおばさんよ。それだったらシンジのママの方がお姉ちゃんって感じよ」
アスカの尻叩き、後五発追加。
雑誌を持つキョウコの手が少し強くなってページが破れそうになったことを二人は見ていない。
「えぇっ、そうかなぁ。お母さんはおばちゃんだよ。うん」
子供にとって自分の親は親でしかない。客観的に見られるものではないのだ。
ユイなどは未婚だと主張しなくてもそう見える。
シンジやゲンドウと一緒にいるから所帯持ちだと認識されているだけだ。
「そんなことないわよ。アンタ、変なんじゃない?」
「アスカこそ変だよ。おかしいなぁ」
会話は平行線。
キョウコは自分が単純な人間だということを再認識していた。
この幼児に好感を持ち始めているのだ。
それも自分がアスカの姉のように見えると、思ってくれていることがわかっただけで。
本当に虚栄心の塊ね、私って。
「シンジちゃん」
「はい!」
いきなり声をかけられて、シンジは起立した。
まあ、可愛い。
一度好感を持ってしまうと、雪崩現象だった。
「早く飲まないと、ぬるくなってしまうわよ」
「はいっ、ごめんなさい」
慌てて座って、クリームソーダにいきなりストローを突っ込む。
当然、炭酸が弾けみるみる泡が上がってくる。
「わわっ!」
さらに慌てたシンジが咄嗟に動けないでいると、キョウコがすっと顔を近づけてきた。
そして、クリームソーダのグラスの端にそっと口をつけると、その泡をすすすと吸い込む。
「ふふ、いけないわよ、いきなりは」
ぼけっとその仕草を見ていたシンジは我に返って言った。
「ごめんなさい。お姉ちゃ…痛いっ」
「あ、ごめんね!わざとじゃないわよっ」
明らかにわざとシンジの足を踏みつけたアスカである。
惜しかった。もう少しでお姉ちゃんと言って貰えたのになぁ。
そんなキョウコの虚栄心いっぱいの心はその数十秒後に粉砕された。
「ほら、ママにママって言いなさいよ」
対抗心で満ち溢れているアスカはいきなりシンジに強要した。
脈絡も何もあったものじゃない。
「で、でも…」
「言わないと、結婚してあげないわよっ!」
「ええっ!そんなの酷いよ」
「うっさいわね。早く言いなさい!」
シンジは内心泣き出したくなりそうな気持ちで、キョウコを見上げた。
この人をお母さんというのは違うような気がする。
だって、お母さんってもっと大人の人に言う感じだから。
そこで、生まれて初めての言葉を口にした。
「ま、ま、ま、……ママ……」
言ったきり俯いてしまうシンジを見て、キョウコは胸が一杯になった。
こ、この感情はいったい何?
もしかすると、この子の母親がアスカに“お母さん”って言われて蕩けた顔になってしまうのはこのこと?
まさか、私もあんな顔を…!
あんな無様なにやけた顔を?
この惣流キョウコともあろうものがっ!
「はん!ほら御覧なさいよ。ママったらすっかり喜んじゃってるじゃない」
ああ、やっぱりそうなんだ。
う〜ん、男の子にママって言われるのもいいものね。
彼との子供は男の子がいいなぁ。
「う、うん。でもやっぱり恥ずかしいよ、僕」
「そんなことは気にしなくていいのよ、シンジちゃん」
考えるより先に言葉が出た。
「おばさんはこういう外人の顔だから、ママって言葉の方が似合うのよ。だから…」
そこまで言ってから、キョウコは心の中で溜息を大きくついた。
何をこんなに必死になってるんだろう。
まあ、いいわ。別に悪いことじゃないし。
自己完結したキョウコは、ひとまず愛娘の結婚問題については棚置きとすることに決めた。
次の問題は、母親の財産問題。
この子の母親がうちの財産を狙っている件。
これはただでは済ましておかないわ。
このおやつが終わったら、決戦よっ!
そして、決戦の場。
子供たちは惣流家に隔離。
おそらく二人はお絵かきか読書か鬼ごっこか。
遊ぶ種には困らない。何しろ二人は子供なのだから。
その母親同士はアパートの2階、丸い卓袱台を挟んで対峙していた。
とはいえ、ユイの方は余裕いっぱい。微笑を絶やさない。
キョウコも対抗して自分では微笑を浮かべているはずだが、そこのところは自信がない。
となれば無理に相手に合わせることはない。
彼女は笑顔を引っ込めて真剣な表情で相対した。
「さぁて、じゃ話してもらいましょうか。一部始終をね」
「そうですね、どこから話せばいいのか…」
「簡単でしょ。最初から初めて終わりで終わればいいのよ」
「あら。アリスですか?」
「なんだ。知ってるの」
「はい。アリスは持って来ませんでしたけど」
ユイはそれとなく整理ダンスの上に並べている10冊程度のの本を見やった。
随分と読み込んでいることがわかるその装丁の崩れ。
「本が好きなの?」
「はい」
「なるほど、ね」
何がなるほどなのかをユイは訊ねてはみなかった。
おそらくキョウコはいろいろと推察したものと見える。
「じゃ、そうね、貴女とご主人の出逢いくらいからはじめてもらいましょうか」
「そんなに前から?恥ずかしいわ」
「前っていつ?」
「小学校4年生」
「このマセガキ」
「はい?」
「別に?さ、まあ、面白そうだからその恥ずかしいところからにしなさいよ」
表情は硬いが目が笑っているような気がする。
ユイは口を開いた。
「あれは、母と肩を並べて駅前に向かって歩いていた時でした…」
その一時間後。
ユイの左頬にはあの片えくぼが浮かんでいた。
「オ〜ケイ、そういう話ならこの私も協力してあげる」
キョウコはニヤリと笑った。
「あんな場所でよければ使えばいいのよ。あのままにしておいても仕方ないしね
但し、病院の名前だけは惣流の名前を使ってくれる?
パパとママの思い出の場所だから。ま、多分ママは名前なんてどうでもいいって言うだろうけどね」
「名前は仰るとおりにします。でも、物凄く気前がいいのね」
「ふんっ、乗っ取られるっていうのなら徹底的に戦って、そして最後に勝つ。
その時にはアンタの勝ち目はこれっぽっちもないわ」
この人なら本当にそうするだろう。
敵にならなくてよかった。
そう思い、そして気持ちよさそうなキョウコの笑顔につられて顔を綻ばせた時だ。
左の頬にあの感覚が生まれたのは。
あら、6人目。
この人と友達になりたいなぁ。
「アンタ、誕生日いつ?」
「3月30日。18年の」
「じゃ、アンタは妹。私は14年の11月21日だから」
勝ち誇ったように笑うキョウコ。
やっぱり年上だったんだ。
でも、なんだか雰囲気が違ってきたような。
「ん?どうしたの。何がおかしいのよ」
「あ、ごめんなさい。だって、急に口調が…」
「口調がどうだって言うのよ」
「アスカちゃんそっくり」
一瞬きょとんとなるキョウコ。
そして、爆笑する。
「ははは!メッキ剥げちゃった?あのママの娘だし、アスカがあんなのよ。
こういう口調の方が自然じゃない?」
「ふふ、そうですね」
「で、そっちはどうなの?その丁寧な口調はメッキ?」
「あの…ごめんなさい」
頭を下げるユイに、キョウコは唇を尖らせる。
「なぁんだ、そっか。えらくおしとやかな妹ができたもんだ。ははは」
キョウコは豪快この上ない。
「あの…キョウコさん…って呼んでいいですか?」
「ダメ」
「え…」
予想外の返事に戸惑うユイ。
キョウコはちっちっちと舌を鳴らし、指を立てて横に振る。
「さん、なんか付けないでくれる?キョウコって言ってよ」
「でも、私年下ですし」
「うるさい。そんなの許さないわよ」
ユイは困ってしまった。
ミッションスクールでもそういう教えを受けてきた。
先輩を年上を敬え、後輩を年下を慈しめと。
そんなユイに4つも年長のキョウコを呼び捨てにすることは出来ない。
「あの…すみませんが、それだけは…」
断り続けるユイにキョウコは頭にきた。
眉を上げ、卓袱台に肘を突いて掌に顎を乗せる。
「ふ〜ん、そうなの。いいわよ〜、それでもさ。
じゃ、私はアンタのことをユイ様って呼ばせてもらうことにするわ」
「えっ」
「それとも、お姉さまとでも呼ぼうかな?どっちがいい、ねぇ、ユイ様?」
ユイはこめかみを押さえた。
この人はたちが悪い。
これまで付き合ってきた人の中には一人としていなかったタイプだ。
唯我独尊を絵に描いたような女性。
アスカがこの母親そのままに成長するなら、シンジは苦労するかもしれない。
ま、当人が納得しているのなら別に言うことはないがと、ユイは思った。
「呼び捨てします。ですから、それは止めてください」
「それって何?教えてよ、ユイ様ぁ」
しつこい。
嬉しそうに笑い続けるキョウコをユイは睨みつけた。
「いい加減にしてくださらないと、怒りますよ。キョウコ」
キョウコは自分を呼び捨てにした時点でころりと表情を変えた。
「OK。できるじゃない。でも、アンタに怒られるのは止めとく。何されるか見当もつかないし」
「それはどうも」
言葉が切れた。
見つめあった二人は、やがて堰を切ったように笑い出す。
まるで女学生の当時に戻ったかのように。
キョウコは卓袱台をバシバシ叩きながら。
ユイは仰向けになって足をバタバタさせながら。
その笑いがおさまるまでにはしばらくかかった。
「さて、ユイ。これからどうしようか。アンタの亭主って並大抵じゃ動かないでしょ」
「ええ。難しいですよ。でも、やらなきゃ」
「ああ、面白そう!ちゃんと計画つくるわよ。そうね、碇ゲンドウサルベージ計画ってのはどう?」
「あの…キョウコ?もしかして、貴女は面白そうだから協力してくれてるだけだとか…?」
「ふふ、と〜ぜんじゃないの。こういうのってわくわくするわ」
悪びれずもせずに、キョウコは言い切った。
もちろんそれだけのために力を貸してくれるのじゃないことはよくわかる。
ずいぶんと素直じゃない、少し年上の友人。
この人とは長い付き合いになりそうだ。
ユイはそう思った。いや、そう願ったのかもしれない。
「お母さん、お母さん、クリームソーダすっごくおいしかったよ」
「そう?よかったわね」
「それからね、アスカのお母さんのことをね。あのね、僕、ママって呼んだの」
「あらま、そうなの?」
「うん、恥ずかしかったけど、アスカのお母さんは喜んでくれたよ
そのあと、ホットケーキもご馳走してくれたんだ」
「まあ、ホットケーキまで!」
しくじったとユイは心底から思った。
仲良くなってから一緒に行き、私も奢ってもらうんだったと。
(6) 昭和42年4月12日 水曜日・その参
「この度は母の命をお助けいただき本当にありがとうございました」
キョウコ、やり過ぎ。
ユイは心の中で最大級の溜息をついた。
パチンコ屋にはいなかったよと、迎えに行ったシンジとアスカが報告。
今日は遅刻したので、その分を残業してきたのだ。
愚直なまでに真面目。
まずは、礼を言わねばならないというキョウコの主張はもっともなようにユイには思えた。
実の母親の心臓麻痺を蘇生術で助けたのだから、お礼を言うのは当然。
ただし、キョウコのお礼はあまりに芝居がかりすぎていた。
「う、うむ…」
立ちすくむゲンドウ。
いや、そうするしかなかったのだ。
部屋の中に入ろうと思えば、目の前で平伏している金髪女性の背中を踏みつけねばならない。
ここは自分の家だし、そこには愛する家族がいるから、まさか逃げ出すわけにもいかない。
内心パニック状態だが、外見はそうは見えないのがゲンドウのゲンドウたる所以だ。
キョウコはくどくどと大時代的な礼を言い続ける。
しかも土下座をしたままの格好だ。
いかにもプライドの高そうな彼女がそんな真似をするとはユイには予想もできていなかった。
もっともキョウコには大きな二つの理由があったから平然とそうしたまで。
ひとつはやはり母の命を助けてもらったのだ。どんなに礼を言っても言い足りるものではないから。
そして、二つ目は反応が面白そうだから。
それにキョウコが命名するところの“碇ゲンドウサルベージ計画”においては、
ゲンドウの頑なな心を揺さぶらなければならない。
そして、キョウコは続けざまにもう一撃を放った。
頭を床につけたまま、背後の娘にきつい調子で告げたのだ。
「これ、アスカ。貴女もきちんとお礼を申し上げたのですか?ここに来て御礼を言いなさい」
「うんっ」
ちょこちょこと奥の部屋から歩いてきて、母親の隣にぺたんと座る。
にっこり笑いながら、ゲンドウを見上げてこう言った。
「グランマを助けてくれてアリガト。お父様」
そしてばたんという様な凄い勢いで頭を下げる。
金髪の母娘に土下座をされてゲンドウは言葉を失い、そして助けをユイに求めた。
そのユイは思っていた。
アスカちゃんの“お父様”はまずかったわね。
パニック状態だったから聞き流してくれたけど、もしその言葉を認識していたら
もう舞い上がってしまって計画どころじゃなくなっていたものね。
まあ、どちらにしても一筋縄ではいかないはずだけど。
「いや…まあ、人として当然なことを…したまでだ」
うんうん、当然そう言うしかないわよね。
「いえいえ、普通のお方では間に合っていませんでしたわ。
もしかすると、貴方様は医療の心得があるのではございませんでしょうか?」
お前、喋ったのか!と言わんばかりにゲンドウがユイを睨みつける。
もちろんユイは慌てて首を振る。
喋ってないわよと無言でアピールし、大嘘を塗り固めた。
ユイの面の皮はかなり厚い。
「聞けば、工場にお勤めとか。それなのに、心臓麻痺の蘇生術を…」
キョウコの言葉は宙を彷徨った。
相手が姿を消してしまったからだ。
「パチンコ、だ」
それだけを言い捨ててゲンドウはあたふたと外に飛び出した。
「あ、逃げた」
「ええっ!ここまでしたのに!」
「やりすぎなのよ、キョウコ。そんなやり方じゃあの人恥ずかしがってダメよ」
「あ〜あ、土下座なんて生まれてこの方したことなかったのにぃっ」
悔しがることこの上ないキョウコだったが、
その陰でただひとつだけは確認できた。
彼女はシンジを見つめる。
つるんとして可愛い顔。
お願いだからママの方に似てよね。あんなのにならないでよ。
そう願わずにはいられないキョウコだった。
彼女は面食いだったのである。
面食いではないユイは考えた。
ゲンドウの心の重荷になっているのは、やはり交通事故で死んだ女性のことだ。
母子家庭で保険にも入っていなかった上に、ひき逃げで犯人は未逮捕。
そのために賠償金もない状態。
もちろん、ゲンドウはひき逃げでなくても償おうとは考えていたのだが。
ユイは結局その娘さんとは会えなかった。
東京の全寮制の高等学校にいるとかで、
ゲンドウも弁護士に頼んで育英金という名目で彼女に毎月の生活費と教育の費用が渡るようにしている。
家や資産を売り払って彼女が大学を卒業できるまでは面倒をみるくらいの金額にはなっていた。
その娘に力を貸してもらうわけにはいかないだろうか。
そのためにはまず彼女を探し当てないといけないわけだが。
「あの…キョウコ?お願いがあるんだけど」
行動力や組織力はユイにはない。
となれば、このできたばかりの友人に頼まざるを得ない。
「ダメよ。私にはやることがあるんだから」
新しい友はそっけなく答えた。
まだお願いとしか言っていないのに。
「私、東京に帰る。その被害者の娘を使って、あの無愛想面をぎゅって言わせてやるわ」
夫に対する暴言は聞かなかったことにしようとユイは決めた。
でも、考えていたことは同じだった。
「アスカは置いていくから。花嫁修業でもさせておいて」
「うんっ!任せといて!」
ユイが答えるより先に隣でぺたんと座り込んでいるアスカが手を上げた。
「シンジっ!アンタはお婿さんの修行をすんのよ!」
「修行て何?」
幼稚園児には当然の質問だった。
同い年の幼女にわかるように説明できるわけがない。
「修行は修行なのよ!えっと、ほら美味しい料理をつくったり、洗濯を上手にしたり…」
「アスカ、それは花嫁修業の方よ。アンタがするの」
「ええっ、やだやだ。私、食べたり、お洋服着たりする方がいい!」
「ユイ?こんなお嫁さんじゃ困るでしょ。結婚させるのはやめる?」
もちろん、ユイが答えるより先にアスカが立ち上がって抗議する。
「ぐわっ、だめだめ。私シンジのお嫁さんになるんだもん!」
「じゃ、アスカもしっかり修行しなさい」
「ぐぅ…」
唇を尖らせてアスカは母親を睨みつけた。
その母親はさっさと玄関で靴を履きはじめる。
「じゃ、私行くわね」
「まさか今から東京に?」
「と〜ぜん!タイムイズマネーでしょっ。夜行に乗って、明日の朝一番から動き回らなきゃ」
「ごめんなさい」
「何言ってんのよ。絶対に日本を離れる前に何とかするわよっ。アスカ元気でねっ。シンジちゃんよろしくねっ」
キョウコは誰の返事を待っていなかった。
言うが早いか、もう階段を駆け下りる音が聞えてくる。
かんかんかんかんっどすっ。
最後の音は足を滑らせたのかそれとも飛び降りたのか。
とりあえず飛び降りて見事に着地したことにしておこう。
そう決めたユイは膝を上げた。
「シンジにアスカちゃん、あの人を迎えに行ってきてくれる?もういないからって」
「うん、わかった」
「いないってママが?んまっ!失礼なっ。とっちめてあげるわ」
「お父さんをいじめちゃイヤだ」
アスカは少しだけ泣き出しそうなそのシンジの声に安心させるように微笑んで見せた。
「だいじょ〜ぶ。ぶったりなんかしないもん。お父様って言ったらシンジのパパが困るんだって」
「どうして?」
「そんなのわかんないわよ。ママがそう言ったんだもん」
「ふ〜ん、そうなんだ。きっと嬉しいと思うけどなぁ」
首を捻るシンジ。
彼には照れくさいというゲンドウの気持ちはまだわからない。
「じゃ、お願いね。車には気をつけて」
二人が出て行くのと入れ違いに、キョウコが飛び込んできた。
「はい、家の鍵。それから、これは金庫の鍵ね。
隠し金庫だから場所は泥棒が入っても見つけにくいと思うけど、念のため金庫と鍵の場所は分けとくわ」
「私が預かってていいの?くりさんに渡しておきましょうか?」
「いいの。病院の金庫よりアンタの方が信用できる。ま、盗みたかったら金庫を家捜ししてごらん」
「ありがとうございます。やってみます」
「どうぞどうぞ。じゃ、ね。また連絡…って電話はないのよね。う〜ん、じゃママに連絡するわ。
見舞いに行ったときにママに聞いて。どうせ毎日行ってくれるんでしょ」
「ええ、そのつもり」
「じゃ、ママと娘をよろしくね。東京の方はこのキョウコに任せておいて!」
にやりと笑いだけを残して、キョウコは姿を消した。
まるでチェシャ猫みたい。
アリス。また読んでみたいなぁ。貸し本屋さんにあるかしら?
あ、惣流家にあるかも。
キョウコは身体ひとつで飛び出したって聞いたから。
きっと本とかは残っているわ。
よぉし、明日はお掃除ついでに家捜し家捜し。
金庫なんてどうでもいいけど、本は楽しみ。
どんなのがあるのかしら。
よほど嬉しかったのだろう。
顔を火照らせたゲンドウが両の手を子供たちにしっかり握られて帰ってきたとき、
ユイはすこぶる上機嫌だった。
あまりの機嫌の良さにゲンドウは鯨のフライを胃袋に片付けてから訊ねてみた。
すると、惣流家の蔵書を読ませてもらうのだと嬉しそうに答えてきた。
その笑顔にゲンドウは身を切られるような痛みを覚えた。
あの町を出る時に、ユイはあの蔵書から見るとわずかな数の愛読書しか持ち出さなかった。
まるで小さな図書館のようなユイの本棚に納めてあった書籍はすべて学校に寄付した。
どうしても売却するのは許して欲しいと、泣きながら頼まれたのだ。
持って行くのは少しでいいから、残りは学校とかに寄付したいと。
妻の気持ちは何となくわかるような気がした。
自分の好きなものをお金で換算されたくない。
ほとんどわがままを言わないユイの頼みだ。
ゲンドウがだめだというはずがなかった。
もとより家や資産を売ってしまうということ自体がゲンドウの言わばわがままなのだから。
だからそれから毎日、ニコニコと笑いながら本の整理をするユイを見ることがたまらなく辛かった。
そんなゲンドウの背中にユイは飛びついて、髭だらけの頬にスベスベした頬を摺り寄せる。
「そんな悲しそうな顔しないの。私今凄く楽しいのよ。
これは小学校にしようか、それとも幼稚園か。これは学園の高等部にしようとかね。
自分の好きだった本を少しでも多くの子供に読んで欲しいんだもの。
こういうのが楽しいってのは、ご本を読まないお髭のゲンちゃんにはわからないかな?」
「お、俺だって本くらい読むぞ」
「まあ、どんなのを?」
「そ、それはだな…」
「医学書とかそういうのはダメですよ」
先に決め付けられて、ゲンドウは言葉を失った。
そして、かくんと首を折った。
「すまん」
一世一代のウケを狙おうとしたゲンドウの目論見は敢無く潰えた。
そんなゲンドウの様子を見て幼女のように嬉しそうな顔で笑うユイ。
「それにね、これ見て」
ユイは足元に置かれた大きな旅行鞄を指差した。
「なんだ、これは?」
「この中にはね、私の大事なものが一杯詰まってるの。
これだけはもって行きたいの。いい?」
断れるわけがない。
きっと中にはぎっしりと本が詰まっているのだから。
ゲンドウは重々しく頷いた。感謝の気持ちを込めて。
だが、その中には本は詰まっていなかった。
中身が何かわかっていたら、ゲンドウは決して首を縦には振らなかっただろう。
それがもう2年前のこと。
「シンジっ!赤影見る?」
「当たり前だよっ!」
先週始まったばかりの特撮番組があと15分ばかりで放送される。
『仮面の忍者赤影』。
ただし、碇家の白黒テレビでは赤も青もあったものじゃなかったのだが。
それでもシンジは堪能した。
敵の忍者も面白かったし、何より赤影と大ガマの対決には手に汗を握った。
因みにこっそりユイも手に汗握っていたのだが。
「じゃあさ、うちで見ない?カラーだよ」
「え……」
白黒が当たり前と思って…いや、思うことで両親を悲しませたくないとしていたシンジだったが、
この誘惑は強烈である。
目と鼻の先にある家にカラーテレビがあり、
さらにそこの娘であるアスカに一緒に見ようとせがまれているのだ。
赤影の赤い仮面が赤で見られるのだ。
彼がつい両親の顔を見てしまったのは仕方がない。
ユイは優しく首を横に振った。
今日はキョウコが来ていたので、お風呂にまだ行っていない。
赤影を見てからにしても、隣に行ったりなどしていてはいろいろ手間がかかりすぎる。
子供たちだけで夜にあの家にいさせるのも保護者としてはよくない。たとえ30分にしても。
お風呂をやめるという手もあるが、病院にいったり何かと汗も掻いているので銭湯には行った方がいい。
惣流家のお風呂の入り方はわかるが、沸かし方がわからないかもしれない。
変に使ってガス爆発でも起こしたら大変だ。
したがって、子供たちには我慢してもらおうと考えたわけだ。
「行って来ればいい」
「でも、あなた」
「お前が一緒に行ってやればいい。風呂はそれからみんなで行こう」
「だけど、それじゃ遅くなりますよ。子供たち眠ってしまわないかしら」
「大丈夫!いっぱいお昼寝したもん」
ゲンドウは小さな咳払いをし、そしてユイに温かい目を向けた。
「行って来なさい。ついでと言ってはなんだが、本も見てくればいいではないか」
この言葉はユイを誘惑した。
明日調べてみるつもりだったが、やはり少しでも早く見てみたい。
どんな本があるのか、それを考えただけでも胸がどきどきする。
そして、彼女はあっさりとその誘惑に乗った。
「ありがとう、あなた」
卓袱台の向こう側に胡坐をかいているゲンドウのところまですすすっと膝を進めると、
髭だらけのその頬にユイは軽く唇を寄せた。
ちゅっ。
そして、鍵を手にそそくさと出て行く。
「早く来なさい。二人とも」
「あ、待ってよ、お母さん!」
「んまっ!大人の癖にちゅってしたわね。子供が見てるのに」
アスカがゲンドウを見ると、ほんの少しだけ頬が赤く見える。
彼女はにやりと笑うとゲンドウの肩をぽんぽんと叩き、シンジの背中を追う。
「ああ〜ん、待ってよぉ!」
ぽつんと残されたのはゲンドウ一人。
彼はくちづけられた頬を指の腹で撫でると、満足げに息を吐いた。
子供の見ている前でキスされるなど初めてのことだ。
なかなかいいものだが、やはり顔から火が出るほど恥ずかしいのでやめてほしい。
いないところでなら存分にしてもらって結構だが。
もしユイがいれば「いやらしそうな顔で笑うな!」とでも言われそうな微かな笑みを浮かべるゲンドウだった。
「うわぁ、凄い!」
書斎とでも言えばいいのだろうか。
片面の壁に書籍がぎっしり詰まっている。
ユイの家も小さな図書館と友達に言われていたくらいなのだが、惣流家はスケールが違う。
5mくらいの幅の壁面がすべて本なのだ。
その真ん中に応接セットが置かれていて、逆側の壁には窓と写真が貼られている。
おそらくはこの写真が一杯貼られているのはクリスティーネの外国人らしい趣味だろう。
窓の下には大きなステレオセット。スピーカーの上にはおなじみの白い犬の置物が置かれている。
ユイの家にもひとまわり小さなステレオがあり、やはりそこには白い犬が置かれていた。
ただし、ふたまわりくらい小さな。
「くそぅ、うちのニッパー君より大きいじゃない。後藤電気の大将、一番大きいのを差し上げますって…。
騙されたっ!」
言葉は悔しげに、しかし表情は嬉しげに、ユイは犬の背中を撫でた。
すべすべとした陶器特有の少し冷たい感触。
うちのはステレオと一緒に持っていかれたのかな?
冷静な風に装っていたが、実際は声を上げて泣きたかったのだ。
だがそんなことをすれば、いや少しでも悲しげな表情をすれば、ゲンドウにすぐに悟られてしまう。
そこでずっと微笑を絶やさずにあの町を出たのだ。
シンジも母親の心を察していたのか泣いたりはしなかった。
「まったく親孝行な息子だこと。もうちょっと子供っぽくてもいいのよ」
開け放たれた扉の向こうから、廊下を渡ってシンジとアスカの歌声が聞える。
「手裏剣しゅっしゅっしゅっしゅしゅうっ!」
その歌声にユイは優しげな微笑を浮かべた。
そして、ゆっくりと本棚の方を見る。
真っ先にそこを見るのはもったいないような気がして、まわりをまず見たわけだ。
ゲンドウの背よりも高い本棚。
そこにぎっしりと書籍が詰まっている。
下の方は重そうな辞典と、おそらく幼き日のキョウコが読んでいたのだろう、
たくさんの絵本がいかめしい装丁の辞典と同居しているのが微笑ましい。
真ん中辺りにはハードカバーと文庫本が並んでいる。
「へぇ…惣流家の人ってこういう趣味があったんだ」
江戸川乱歩、横溝正史、木々高太郎といった日本人から、
ポー、ドイル、クリスティ、カーなどの外国人までずらりとミステリー小説が並んでいる。
キョウコもこういう類のを読んでいたのかしら?
ジュブナイルの少年探偵団シリーズもあるところを見ると、どうやらそのようだ。
ということは、今東京へ向かっているキョウコの心中はすっかり名探偵気分なのかも。
ユイはこの手の小説は少年向けに翻案されたものしか読んでなかったので、
そのうち借りて読んでみようかと思った。
そして、首を上げると、上の方は背表紙に洋文字が。
「わっ、洋書?」
あってもおかしくはない。
クリスティーネは私は日本人だと怒るだろうが、元々ドイツ人。
その彼女と恋を語ったであろう今は亡きご亭主も語学には堪能だったに違いない。
生粋のアメリカ人と結婚したのだから、キョウコも英語やドイツ語はぺらぺらなのであろう。
アスカがその二ヶ国語を日本語と同様に喋っているのだから。
ユイはその洋書に手を伸ばそうとしたが背が届かない。
ソファーを引きずってこようかとも思ったが、そこまですることはないかと今は手の届く場所の本を見回す。
「ああ、あった。アリス」
キョウコの言葉に出てきた『不思議の国のアリス』が見つかる。
その本を取り出し、ぺらぺらとめくってみる。
最初は立って読んでいたが、だんだん本に引き込まれてしまいソファーに腰を下ろす。
何度も読んだ本だが、やはり面白い。
彼女は時間を忘れて『アリス』に没頭していた。
「おい。子供たちが眠ってしまうぞ」
ゲンドウの声にユイが顔をもたげる。
「はい?」
「もう8時を過ぎているぞ。風呂はやめるのか?」
「えっ、もうそんな時間?」
壁の時計を見ると、確かに短針は8を過ぎ長針は5のあたり。
「あらっ、いけない!」
「ふん。相変わらずだな」
ゲンドウは本の世界に飲み込まれてしまい家事を忘れることがよくあった、あの頃のユイを思い出していた。
そして、自分よりも背の高い本棚を見上げる。
「これはまた、凄いな」
「でしょ」
大切そうに本を閉じると、ユイは元の棚に戻す。
「ねぇ、上の方の洋書とってよ」
「子供たちが待っていると言ったぞ」
「ねぇ、少しだけ。お願い」
ユイにお願いされて逆らえるわけがない。
ゲンドウは中に足を踏み入れた。
「どれだ?」
「ここからじゃ題名なんか読めないわ。適当に、お願い」
「うむ」
ゲンドウは手を伸ばした。
ハードカバーを3冊ほど引き抜く。
それを手元まで降ろした時、彼は長く息を曳いた。
「どうしたの?見せて」
ゲンドウは無言でユイに本を手渡し、そして部屋を出て行った。
怪訝に思った彼女は本を開いてみる。
医学書だった。
ユイは唇をすぼめる。
「なるほどね、あの人も逃げられないってことかな?」
ユイは応接テーブルの上に3冊の本を置くと、よしっと一度大きく頷くと部屋を出た。
まずはお風呂。とにかくお風呂だ。
子供たちが睡魔に負けてしまわないうちに。
碇ユイは策士である。
ただしキョウコのようにいろいろな角度から攻めたり退いたりする様な技は持っていない。
ただ、押すだけ。
その夜も彼女は押した。
「え?じゃ、あなたは私にこの暗い夜道を歩いて行けと仰るのですか?」
「すぐそこではないか」
「もし、惣流さんのところに痴漢が潜んでいたらどうなるのですか?
私は操を守るために舌を噛んで自害しないといけないということですね」
「俺が窓から監視を…」
「それに大事なことが。私の背では届きません」
「ならば二人で」
「この子達を置いてはいけません」
ユイの視線の先には小さな洗面台に頭をくっつけるようにして歯を磨いているアスカとシンジがいる。
眠るのはやはりアパートでみんな一緒にということになったのだ。
アスカはともかくシンジの方はすでに目がとろんとなっている。
「さあ、いってらっしゃい。テーブルの上に置いたままにしてますから」
ゲンドウはまだ何か言いたげに口を動かしたが、あきらめた。
軽く溜息を吐くと無言で部屋を出て行く。
その背中を見送り、ユイは笑顔を引っ込めた。
真剣な面持ちで、ゆっくりと奥の部屋に向う。
そして、しっかりと閉められているカーテンの端をそっと握りしめた。
「お母さん、おやすみなさい」
「グンナイ、お母さん」
「おやすみなさい」
アスカの布団は夕方のうちに惣流家から運び込んでいた。
シンジの布団よりも少し大きめだが小さな4畳半でも二つはゆったりと並べることができる。
早速横になった二人の頬を順に撫でると、ユイは電灯のスイッチを捻った。
そして、6畳間の灯りを襖で遮る。
すっかりと暗くなる部屋。
ユイはその暗闇の中をもう一度窓際に向った。
カーテンの隙間を少しだけ広げて、目の前の惣流家の様子を窺う。
玄関の電球が点いている。
そして、しばらくすると二階の一室の電気も灯った。
蛍光灯の白い灯りが窓を浮き立たせている。
その部屋があの本棚のあった部屋。
お願い。消えないで、電気。
ユイは一生懸命に祈った。
10秒、20秒。
ただ本を戻すだけなら、30秒も経たずに電気は消えるはずだ。
あの人は医師の仕事が嫌いになったわけじゃない。
ただ責任を感じすぎているだけ。
それだけのはず。
だから…あの医学書には興味があってもおかしくない。
ちょっとだけでもページをめくる気持ちが起きてくれたら…。
それからきっちり4分半後。
その部屋の電気が消えた。
ユイは溢れる涙を拭って、静かに6畳間へと歩いていく。
もうすでに幼い二人は寝息をたてていた。
襖の向こう側は白い灯りに包まれ、目が痛いほど。
さてと、顔でも洗って涙を隠さなきゃ。
ばしゃばしゃと顔を濡らしながら、ユイは思う。
もし、医学書を読んでなくてニッパー君とかを触っていたのなら…ただじゃ済まさないんだから!
いかん、読んでしまった。
もう二度とあの仕事はする気はないのに。
こんなことではいかん。
つい医学書を読んでしまったゲンドウは、
自戒を込めて自らの頬を軽く拳で打つ。
そして、本を元の場所に戻した。
部屋の電気を消そうとした時、
壁に貼られた写真が目に入る。
若き日のクリスティーネとその夫。
なんと、美しい。
そう思った瞬間、心の中でユイに向って手を合わせた。
ただ、その美人の隣に立つ故惣流医師の顔を見た途端、
ゲンドウはすこぶる不愉快になった。
何故なら、彼は素晴らしい二枚目だったから。
部屋の電気は消え、かすかな溜息だけが残った。