あの頃、どこかの街で

- Somewhere in those days -

(7) 〜 (9)



(7) 昭和42年4月13〜14日 木曜日〜金曜日・その壱



「ほう、そんなに面白かったのかい?」

「うん、物凄く面白かったよ。でね、今日はシンジと赤影ごっこするの」

 クリスティーネのベッドに登っていきそうないきおいでアスカが熱心に喋る。
 よほど、昨日の夜に見た特撮テレビ時代劇がお気に召したようだ。

「アスカが悪者をするのかい?」

「はん!アタシは赤影に決まってるの。だってアタシは赤が大好きなんだもん!」

「おやおや、じゃシンジちゃんが悪者かい?」

 アスカは唇を尖らせた。

「そんなのダメ!シンジは青影なの。アタシの仲間なんだからっ。勝手に悪者にしないでよ」

「ははは、じゃ悪者無しで忍者ごっこをするつもりなのかい?こりゃお笑いだ」

「グランマの意地悪!」

 アスカはユイを振り返って見た。期待を込めて。
 ユイはにっこりと微笑んで、しかし拒絶した。

「ごめんね。おばさんはチャンバラはちょっと…」

「ぐふぅ…」

「ははは、それじゃ正義の忍者たちは訓練しかできないね」

 アスカはつまらなさそうに身を起こしたが、ぱっと顔を輝かせた。

「ねえねえ、悪者にしていい?」

 誰を…が抜けているが、もちろんユイには察しが付いた。

「おじさんを?構わないわよ。蝦蟇法師でも幻妖斉でも好きなようにして頂戴」

 アスカがぽかんと口を開けた。

「あれ?どうしたの、そんな顔して」

「だって、詳しいもん。昨日一緒に見てなかったのに」

「あ、はは」

 ユイはばれたかというような顔でぽりぽりと頬を掻いた。

「先週見たからよ。新番組の時に」

「あ、そっか。でも、凄いよ。覚えてるんだ」

「はは、実はシンジちゃんよりも熱中して見てたりしてね」

 クリスティーネの揶揄にユイは顔を赤らめた。
 文学や歴史が好きな彼女にとって、あの番組はツボを突いていたのだ。
 始まった途端のナレーションで引き込まれてしまったのだ。
 『豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃……』という語りは、ほほぅそうきたかとユイに思わせた。
 その上、ちゃんと木下藤吉郎や竹中半兵衛まで出てきた。
 番組が終わった後に、シンジに説明をしてしまったほどだ。

「くわっ!それでシンジがあんなにいろいろ知ってたのね!」

 ユイは吹きだしてしまった。
 きっとアスカにいいところを見せようと思ったのだろう。
 シンジは母の受け売りの知識を披露したのに違いない。

「へぇ、それはなかなか面白そうだねぇ。あ、そうだ」

 クリスティーネは傍らの財布から500円札を出した。

「ユイさんや、文具店に行って折り紙を買ってきてくれないかい?」

「ええ、いいですよ」

 ユイは差し出された500円札を受け取るまいとしたが、クリスティーネの微笑には負ける。
 仕方なしに受け取ったお札を折って、小さながま口に入れた。

「アスカも行くっ!」

「じゃ、一緒に行きましょうか」

「やった!」

 この年頃の子供は自分だけでお店に入ることがなかなかできない。
 したがって、こういう機会に大人にくっついてお店に入るのは願ってもないチャンスなのだ。

「ああ、ユイさん。アスカがあれが欲しいこれが欲しいって駄々をこねても買っちゃいけませんよ」

「えええっ!グランマのウルトラいじわる!」

「それからシンジちゃんにお土産なんて言われても相手にしちゃいけないからね。
 この子は欲しいと思ったら何がなんでもって感じになっちゃうんだから」

 アスカは火星人か明石の蛸かと思わんばかりに、唇を突き出した。
 そんな彼女の表情が面白く、ユイとクリスティーネは大笑いしてしまった。



 笑われたアスカはしっかり復讐した。
 右手に折り紙、そして左手にはノートが2冊。
 ウルトラマンとバルタン星人が戦っている絵柄のものと、東宝の怪獣映画の写真が表紙のノートだ。

「おや、買っちゃったのかい。ダメだねぇ、甘いよ、ユイさん」

「すみません。おばあちゃんにお手紙書くからって」

「いつも顔を合わせてるじゃないか」

「ドイツに行ってから書くんですって」

「向こうにもノートは売ってるじゃないか。しかもどうして2冊なのさ」

「へへへ。いっぱいお手紙書くの」

 にんまり笑うアスカはしてやったりという表情。
 
「どうせ、ノートの表紙が目当てなんだろ。この悪ガキが」

「ふふん、シンジにもひとつあげんの」

 厳格なことを言いながらも、やはり孫には甘くなってしまうクリスティーネは仕方がないという表情で首を振った。
 そして、アスカから折り紙を受け取る。

「何つくるの?グランマ」

「ん?ちょっと待ってな」

 クリスティーネは器用に紙を折る。
 そして、完成したのは…。

「わっ!手裏剣!」

「どうだい。これはいいだろ」

「うんうん!凄い凄い!」

「へぇ、こんなのができるんだ」

「おや、ユイさんは折り紙はしなかったのかい?」

「してましたよ。でも、手裏剣なんかつくったことありませんでした」

「なるほど、鶴とかお人形とかかい?うちはよく作らされたよ。キョウコのヤツにさ」

「キョウコに?」

「ああ、すこぶるつきのお転婆だったからねぇ。
 何しろ身体が周りの子よりも一回り大きかったから、すっかりガキ大将さ。
 近所の子を引っ張りまわしてチャンバラや草野球。
 生傷の絶えない子だったねぇ。膝小僧はいつも赤チンが塗られていたよ」

 想像できる。
 近所の空き地で暴れまわっているキョウコの姿が。
 でも、そうやって遊びながらもきっと勉強もしっかりしていたのだろう。
 毎日が遊びに勉強に凄く忙しかったのではないかと思う。
 そんな時分に出会っていたら、友達になれたかな?
 多分、友達になっていたら私もお転婆の仲間入りをしていたかもしれない。
 そんなことを思いながら、ユイはクリスティーネに手裏剣作りの講習を受けていた。
 手裏剣を10個作り、残りの折り紙で鶴を折る。
 アスカにも折り方を教えたが、なかなか鶴にはなってくれない。
 一生懸命に折り続けて、ようやく少しくたびれた鶴の完成。
 4羽の美しい鶴と、1羽の不恰好な鶴がベッドサイドの台の上に並んだ。

「くぅぅ。悔しいよぉ。私ももっと綺麗に折りたいっ」

「ははは、アスカは初めてだからね」

「練習すればすぐに上手になるわよ」

「ホント?じゃ、練習する!だから…」

「帰りに折り紙を買ってくれと。ダメだよ、ユイさん」

「はい、わかってます。家に帰って、新聞紙を切って作ります」

「ああ、それがいいよ。アスカ、しばらくはそれで練習だ。綺麗に折れるようになったら本物の折り紙を買ってやるよ」

「ぐふぅ、わかったわよ。練習する」

 シンジにもさせてみよう。
 そう思ったユイだったが、ある予感に顔を綻ばせた。
 もしかすると、シンジの方が上手いかもしれない。
 そうだったなら、アスカちゃんはムキになるだろうなぁと。



 アスカはムキになった。
 新聞紙で練習しているから手はもう真っ黒。
 お昼ごはんが終わってから、まずは手裏剣を使って忍者ごっこ。
 近くの空き地でひとしきり暴れてきてから、お昼寝。
 そのあとに、折り紙の練習となったのだが、シンジはすぐに鶴を折れるようになった。
 アスカはまだまだ綺麗に折ることはできない。
 ユイに言われて何度も石鹸で手を洗ってくるのだが、真っ白だった石鹸の方もすっかり黒ずんできた。
 半ばべそを掻きながらそれでもアスカはやめない。
 この根性は凄いわ、きっと母親譲りなのね。
 こうなれば付き合うしかないわねとユイは覚悟を決めた。
 そして午後4時前になって、ようやく形になってきた。
 折り続けること2時間。
 これはうちのシンジには真似できないわね。凄い粘りと根性だわ。
 感心したユイがアスカを見ると、満足げ上げたアスカの顔は真っ黒。
 インクの色がついた指で顔を触ったのだろう。
 ユイはアスカを流しに連行し、タオルと石鹸でごしごし洗う。
 痛いよぉと悲鳴を上げるがお構いなし。
 綺麗になったアスカにユイはご褒美をあげることにした。
 厚紙を切って、それに輪ゴムを2つ付ける。
 その厚紙をアスカに赤いクレヨンで塗らせる。
 できあがったのは、赤い仮面。
 輪ゴムを耳に引っ掛けてアスカは得意満面。
 腕を組んで、すっくと立つ。
 そしてにやりと笑うと、高らかに叫んだ。

「赤影参上っ!」

 赤い仮面の下に見える、青い瞳はとても綺麗だった。
 そう思ったのはユイだけではなかった様だ。
 シンジも少しぼけっとアスカを見つめ、その後幼児本来の欲求に目覚めた。

「いいなぁ、アスカ。僕も赤影したい」

「はん!アンタは青影なの。それとも蝦蟇法師する?」

「そんなのやだよ」

「じゃ、白影は?凧に乗れるよ」

「やだよ。僕あんなおじいさんじゃないもん」

 その時、アスカの知らない声がした。

「邪魔するよ」

「あら、伯父さま」

 玄関の扉を開けてきたのは、白髪の冬月だった。
 その彼を見た途端にアスカが叫ぶ。

「あ!白影さん発見っ!」

 見慣れない幼女に指を指されて冬月は眉間に皺を寄せた。
 この白影は仲間になってもらえなかったので、小さな赤影と青影は再び空き地へと手を繋いで向かった。
 残った冬月はあの金髪の幼女がシンジの婚約者だと聞いて笑みを漏らす。

「ふふ、これじゃユイよりも早いな。結婚相手を見つけたのが。ん?」

「そういえばそうですね。誰に似たんだか」

「お前じゃないか、それは。あいつの方は放っておいたら一生結婚などできんぞ」

 ユイは首を捻った。

「そこがわからないんですよね。世間の人ってどうして目がないんだろう?」

 冗談抜きで真剣にそう考えているユイに冬月は苦笑する。

「そうか、惣流医院の孫娘か。なるほど、あのお転婆娘の面影があるわい」

「まあ、伯父さまはキョウコをご存知なのですか?」

「ああ、知っとるよ。うちの工場の廃材を盗みに来たことが何度もあるぞ、あいつは」

「あらま」

「空き地に秘密基地をつくるんだとかなんとかで、あちこちの工場のゴミを集めておったんじゃ」

「でもゴミなんだから盗みじゃないじゃありません?」

「ああ、それはそうだがな。だが、あんな場所に子供にうろつかれると、危なくて仕方がない。
 今ほどダンプやトレーラーが走っていたわけではないが」

 少し懐かしげにその頃を思い出している冬月だった。

「ところでな、あいつのことだが」

「ふふ、ぼけっとしていたんじゃありません?」

「ああ、仕事中はいつものように一心不乱だったが、昼休みに弁当を食べた後、ぼうっと空を見つめておったわ」

「空を」

「それがまた似合わない姿でな」

「酷い!伯父さまったら」

 まったくどうしてこの姪っ子は心底あの男に惚れ抜いているのだろうか。
 まあ、悪い男ではないことはこの2年でよくわかったが。
 何よりあの無愛想な面体がすべてをぶち壊している。
 ところが意外に他の工員たちからの評判はいい。
 仕事以外の付き合いをまったくしていないにも関わらずだ。
 あのパチンコ屋での行動も誰かが耳にして笑い話になった。
 それも本人の前でだ。
 正直冬月はハラハラしてその成り行きを見守ったものだ。
 案の定、ゲンドウは鼻でふんと笑った。
 するとどうだろう。
 みんなよりいっそう笑い出したのだ。
 無愛想というのも度を越すと逆に可愛げが出てくるのかもしれない。
 まあ、それも下町ならではというところだろう。
 そういう意味ではユイが私を頼ってきたのは間違いではなかった。
 いや、もしかすればこの聡明な姪っ子はそこまで読んでいたのかも知れぬが。

「で、伯父さまはあの人を笑いものにしにわざわざ来たんですか?」

「ふふ、まさか。それほど暇ではない。実はドイツの大きな会社と契約話が持ち上がってな…」

 冬月はユイに事情を説明した。
 ゼーレというドイツの医療機器会社が冬月の造っている精密機器の性能に目をつけたのだ。
 この話がまとまれば、今の何十倍の規模で会社が大きくなる。
 その上、既にその用地の見当もつけているのだ。
 この街より30km北方の田園地区。
 県が工業団地を作ろうとしている場所で、高速道路にも近い。

「まあ、それは素晴らしいお話。で、この私に何を?」

「ユイ。碇をわしにくれんか。あいつなら外人とでも平気で喋れる。後にも退かん。
 副社長になって前よりも大きな家に住んで、暮らしも前以上になる。
 きっとあいつはわしの片腕になって…。いずれはわしの後を継がせても」

 その時、ユイが卓袱台からすっと下がって、畳に頭をつけた。

「ごめんなさい!伯父さま、それは許してくださいっ!」

 ユイのその姿に冬月は大きく息を吐いた。
 もしかしたらと淡い期待を抱いてやってきたのだが、やはり無理だったようだ。

「あいつは絶対にいい経営者になるぞ」

 冬月の声にはさっきのような張りはもうなかった。
 
「あの人はお医者さまが天職なんです。夢の仕事なんです。
 たとえそのお仕事で偉くなっても、一生後悔するはずです」

「あいつに確かめたのか?どちらかを選べと訊けば…」

 顔を上げたユイはにっこり微笑む。

「間違いなく、そのお仕事を選ぶと思いますよ。絶対に」

「何と。それはどういうことだ?」

「だって、逃げられるんですもの。辛く苦しい道から。
 医者に戻る方があの人にとれば何十倍も苦しむんですよ。
 暮らし向きがよくなるのであれば、私たちへの言い訳にもなる。
 今、心が揺れ動きだしたあの人からすれば絶好の逃げ道になるんですよ。
 選ばないほうがおかしい」

 ユイはきっぱりと言い切った。
 その言葉の辛らつさに冬月は舌を巻いた。
 
「それがわかっていて、お前は亭主に辛い道を歩ませようと…」

「はい」

 ユイに躊躇いはまるでない。
 しかも微笑みながら言ってのけているのだ。

「あいつもお前みたいな妻を娶って幸せなんだかどうかわからんな」

「あら、どうして?絶対に幸せですよ。あの人には私が必要なんです」

「凄い自信だな。まったく」

「ええ、自信なら凄くあります。だから、あの人は逃がしません。
 ここで医者をしてもらいます。だって、もう外堀は埋まっているんですもの。
 今、あの人が逃げる手伝いを誰かがするのなら、
 それが例え伯父さまであっても許しはしません」

 冬月は苦笑した。
 どうやら会社のことは自分で何とかせねばならないようだ。
 仕方がない。
 お前が考えている通りにやってみなさいとだけ言い残して、冬月は部屋を出た。
 ゆっくりと階段を降り、そして工場のある南の方へ歩いていこうとした時だ。

「ああっ、酷いよ、アスカ。僕だって赤影したいよぉ」

「うっさいわねっ。赤はアタシの色だって何べん言ったら気が済むのよっ」

 二人の声が聞こえてくる。
 冬月はその声に誘われるように足の向きを変えた。
 アパートと長屋の間の路地を進むと、すぐ近くに資材置き場崩れの空き地がある。
 二人はそこで遊んでいるようだ。
 隣のアパートの角を過ぎるとすぐに子供たちの姿が見えた。
 少し山になっているその頂に、赤い仮面をつけたアスカが腕を組んで立っている。
 冬月には子供がいない。
 早くに妻を亡くし、そのまま独身を通してきたのだ。
 精神的にはユイを実の娘のように考えていたようなところもあったと、自ら認めている。
 だからこそ子供が遊ぶ姿というのは彼にとって感傷的なものでさえあった。

「あ、危ないっ!悪者の忍者が来たわよ!」

「え?どこどこ?」

 まわりをきょろきょろするシンジにかまわず、アスカは手にした手裏剣を投げる。
 そのひとつがシンジに当たる。

「あ、何すんだよ。僕に当たっちゃったじゃないか」

「そんなのすっと避けなさいよ。アタシは透明忍者を狙って投げてんのよ。アンタも青影なんでしょうが」

「やっぱりちゃんと敵がいないとダメだよ。お父さんが帰ってきてから二人でやっつけちゃおうよ」

 仮面のアスカはう〜んと腕組みする。
 
「じゃ、今は何して遊ぶのよ」

「えっと、手裏剣を投げる練習とか」

「やだやだ、そんなのつまんないよぉ」

 アスカは山からぴょんと飛び降りる。
 
「それより、喉渇いちゃった。お水飲みに帰ろ」

「あ、僕も…」

 即座に合意に達した二人がアパートに帰ろうとした時、冬月が目の前に出てきた。

「あっ、白影さん」

「違うってば、おじさんだよ。えっと、それでお父さんの行ってる工場の社長さんだって。それに凧に乗ってないだろ」

「だってぇ、髪の毛が白いんだもん」

「それにさ、お父さんを蝦蟇法師にするんなら、小父さんは幻妖斉になっちゃうもん」

 二人の会話は冬月にはまるで理解できない。
 そこで共通の言葉を彼は用いた。

「喉が渇いたのなら、アイスキャンデーでも食べるか?」

 二人は大きく頷いた。

「こっちこっち、一番近いのは文房具屋さんだよ」

「おじさん、早く早く!」

 それぞれの手を二人に引っ張られて、冬月は唇の端に笑みを浮かべて普段より早い歩みで進む。
 空き地の奥の身体ひとつがやっとの広さの路地を何度か曲がって抜けると、表通りに出る。
 ほう、こんなところに。
 塀を乗り越えさせられたり、破れを潜ったりさせられなかっただけでもましというものか。
 街中の獣道というような道を通ってきた冬月の素直な感想だった。
 そんなことを思って抜けてきた路地の奥を見ていると、
 子供たちはもう既にアイスクリームのボックスにしがみついていた。

「アスカ、何する?」

「アタシ、ミルクキャンデーっ」

「じゃ、僕も」

「おじさんはどれ?」

 アスカが振り返って微笑む。
 ああ、可愛いな。そう思った冬月は「同じでいいよ」と言って、
 ボックスの横に出てきていたでっぷり太ったおばさんに代金を支払う。
 さあ、ではどこかで…と言おうと振り返った冬月だったが、
 すでに二人は紙を破ってアイスキャンデーを舐め始めていた。
 しかたあるまい。子供なんだ。
 すでに老域に差し掛かっている冬月は子供たちの隣でアイスを舐める羽目になった。

「やったっ!あたりよっ!」

 舐め終わった棒にあたりのマークが入っているのを見て、アスカが躍り上がって喜ぶ。

「えっ!凄い!僕も…」

 急いで食べるシンジだったが、彼の棒にはあたりマークはない。

「ちぇっ、はずれだ」

「へっへぇ〜ん、アタシ凄いでしょ!」

 まるでオリンピックで金メダルを取ったかのように得意満面のアスカ。
 
「ふふ、わしのもはずれだ」

 冬月の言葉を聞いて、アスカは「残念でした」と笑いかける。
 そしてぺこりと頭を下げて、「ごちそうさまでした」と大声で言う。
 慌ててシンジも続いた。
 いささか面映ゆい。あまり子供に接することがない彼だから。

「どうするの、あたりは?すぐ食べるの」 

「ううん、これはね。蝦蟇法師にあげる。悪者になってもらうんだから」

「あ、そうか。お父さん、きっと喜ぶよ」

「じゃあねぇ、おじさん、これシンジのパパに渡してくれる?」

 アスカは冬月に向ってあたりの棒を突き出した。

「ああ、いいよ、ちゃんと渡しておく。で、蝦蟇法師とは何だ?」

 好奇心で訊いた冬月だったが、
 その結果はその場でアスカとシンジに『仮面の忍者赤影』の第一話を再現させることになった。
 止めるに止められず、文房具屋の隣でずっと見なければならない羽目と相成ったわけだ。
 もっともそれは少しも不快ではなかったのだが。

 工場に帰る道すがら、冬月はこみ上げてくる温かいものに心が和んでいた。
 あいつも覚悟を決めて医者にとっとと戻ればいい。
 まあ、私からは何も言うまい。
 ユイに任せておこう。
 冬月はポケットからあたりの棒を取り出して眺めた。
 これを渡した時にあいつはどんな顔をするのだか。
 そして、あの文具屋でどんな顔をして食べるのか見てみたい。
 きちんと食べて帰り自分の棒が当たりか外れだったかを教えてやらんと、
 子供たちががっくりするぞとも言っておかんとな。
 しかしまあ、あいつがその蝦蟇法師とかになって二人に斬られる真似などできるのか?
 どうも想像ができん、と冬月はくすくす笑いながら、
 黒いスモッグが重く圧し掛かっている臨海工業地区へ歩いていった。



 その翌朝。
 シンジは幼稚園に。
 ゲンドウは工場に。
 ユイはアスカと一緒に洗濯と掃除をしていた。 
 花嫁修業だから手伝うんだとアスカは、待っていてねというユイの言葉を聞かない。
 一人でした方がぱっぱと早く済むんだけどなぁ、
 とは思いながらもこれが姑の責務かとユイはアスカにあれこれ指示していた。
 碇家には掃除機はないから、箒と塵取が主役。
 身に余る大きさのその二つを両手で何とか抱えながら、アスカはゴミを掃き取っていく。
 何度も失敗しゴミを広げる結果になるのだが、姑たるもの手出しはしてはならない。
 その間にユイは洗濯物を干さねばならない。
 留守に見えては泥棒に入られるかもしれないという言い訳で、惣流家の物干し台を拝借する。
 もちろんクリスティーネの許可は得てある。
 元の碇家は平屋だったので、裏庭に洗濯物を干していた。
 だから、彼女にとってこの物干し台というものは言わば憧れの場所だった。
 空に少しでも近くなるというのは、心が軽くなるような気がする。
 それに今日はこの場所にお似合いのものを洗濯していた。
 あの押入れの中の旅行鞄から出してきたもの。
 もうすぐ使うようになるのだから、綺麗に洗濯しておかないと。
 アイロンだってきっちりかけちゃうんだから…。
 だから、これを使うようになってよね…。
 ユイは風にはためく洗濯物を見上げた。
 診療所の物干し台には白衣が似合う。
 彼女は大きく頷いた。
 もうすぐこの白衣をあの頑固者に着させてあげるんだから、と。

 洗濯物を干していると、自宅の窓の向こうにアスカの姿が見える。
 大きな箒を抱えて一生懸命に畳の上を掃いているアスカ。
 ああいう姿を見てると意地悪はできっこないわねぇ。
 
「おぉ〜い、アスカちゃぁ〜ん!」

 思わず声をかけてしまった。
 びっくりして、箒を畳に落としてしまうアスカ。
 おまけにその箒は塵取の上に落ちてくれたので、アスカのせっかくの苦労は無となった。
 あちゃぁ、まずいことをしちゃった!
 半ば泣きべそをかきながら振り返ったアスカに、ユイは手を合わせて謝る。

「ごめん!ごめんねっ!」

 アスカはこくんと頷く。
 きっと声にもならないくらいショックだったのだろう。

「おばさんすぐに戻るから、お掃除はしなくていいわよ」

 責任を感じたユイの言葉にアスカははっきりと首を横に振った。
 そして泣きべそのまままた箒を手にする。
 ユイは慌てた。
 ああいう顔をされてしまうと堪らない。
 手早く洗濯物を干すと、アパートに戻った。
 それでもアスカは箒を手放さない。
 ユイは困り果ててしまった。
 その反面、クリスティーネとキョウコに通じる頑固さとか強情さが凄く微笑ましく思える。
 結局、ユイは自責の念からアスカを買収することにした。
 


 クリスティーネの病室に現れた時、アスカは満面の笑みでその手に黄緑色の袋を持っている。

「ん?何だいそれは。駄菓子屋の袋みたいだけど」

「ふっふぅ〜ん、見て見てぇ」

 その袋をさかさまにすると、中から流れ落ちてきたのはたくさんの派手な色をした包みのお菓子。
 シスコのウルトラマンチョコレートである。
 しかも10枚も。

「こら、アスカ!」

「ち、違うもん。え、選んだのはアタシだけど。お母さんが買ってくれたんだもん」

「アンタが駄々を捏ねたんでしょう!」

「違うってばっ。お母さんが何がいいかって言うから…」

「ユイさんっ」

 アスカを睨みつけたその形相そのままにクリスティーネが顔の角度を変える。
 こ、怖い!
 ユイもまるで母に叱られるが如き有様になってしまった。

「あ、あの、それがですね、お宅の物干しを借りて洗濯物を干していたら、うちの窓にアスカちゃんが見えたので…」

 いつもに似ず、くどくどと喋る。
 ああ完全に言い訳だ。
 それでも、ユイは懐かしくて涙が出てきそうになった。
 お母さんに最後に叱られたのはいつだったっけ。
 こんな感じで言い訳するのはミッションスクールの高等部の時先生に叱られて以来?
 そんなことを考えながら言葉を発しているうちに、ユイはだんだん可笑しくなってきた。

「これ、何を笑ってるの。私は怒ってるんだよ」

「ご、ごめんなさい。つい、懐かしくて」

「何言ってんだよ、もう。この子ったら」

「あれ?涙まで出てきちゃった。変ですよね。はは」

 ごしごしと手の甲で目を拭うユイを見て、アスカは首を捻った。

「ねぇ、グランマ。どうしてお母さんは泣いてるの?怒られて悲しいの?」

「ははは、アスカはそう思うのかい?どうだろうかねぇ」

 クリスティーネにはユイの涙のわけはわかっている。
 ユイは十代前半で母親を失っているのだから。
 それにその涙はクリスティーネ自身も少しほろりとさせたのである。
 違う民族のこの自分をまるで母親のように感じてくれているのだから。

「本当にごめんなさい」

「いいえ、許しませんよ。これは一ついくらなんだい?え」

「えっと、20円だよっ」

「てことは、こんなものに200円も使ったのかい。馬鹿じゃない?それで晩御飯のおかずが仕立てられるでしょうに」

「そ、そうですよね。何考えてたんだろ、私」

「グランマったら、もう許してあげてよ。お母さんが可哀相だよ」

 いけしゃあしゃあとアスカが言う。
 クリスティーネがすぐさまアスカの頭をこつんと叩いた。

「調子がいいよ、この子は。いくらウルトラマンとかが好きでもそんなに買う子がいますか」

「でもでも、流星バッチが欲しいんだもん!」

「何だよ、それは」

「あたりが入ってたら、流星バッチがもらえるんだよっ」

 ああ、懸賞つきのお菓子か。
 まったく、そんなものに乗せられて…。
 
「いっぱいあるからって次々と食べるんじゃないよ。虫歯になって痛い目に遭うよ」

「うん、1日5個でいい?」

「馬鹿。1日1個だよ」

「ええっ!そんなのヤダ」

「じゃあ、これはユイさんに頼んで返してきてもらうよ」

「ぐわっ!グランマのウルトラ意地悪!」

 しかし、アスカは納得せざるを得ない。
 それでも、今日の一枚をもう食べようとしている。
 慎重にウルトラマンと怪獣が描かれている包装紙を破いていくアスカ。

「こら、おやつまで待ちなさい」

 祖母の制止をまるで聞かず、アスカは赤い包装紙をきれいに取り去った。
 そして…。

「あ、え、ええええっ!」

 病室にアスカの絶叫が響き渡った。

「静かにせんか、アスカ」

「アスカちゃん、病院ですよ」

「あたっちゃった……」

 呆然とした顔でアスカが中に入っていたカードを二人に示す。
 その小さなカードにユイとクリスティーネは顔を近づけた。
 確かにそこには、流星バッチがあたったことが書かれている。
 そして15円切手を同封して、シスコに送れとも。

「おやまぁ」

「あたっちゃいましたね」

「へ、へへ、へへへへへ、あ、あたった、あたった、あたったぁっ!」

 昨日のアイスのあたりとはレベルが違う。
 アスカも東京でずっと買い続けてきたが、一度もあたったことはなかった。
 ユイもシンジに時々買い与えていたが、もちろんあたりはまったくない。
 アスカがはしゃぎまわるもの無理はなかった。
 そのあとは、三世代の女たちは目の色を変えてチョコレートの包装紙を開いた。
 もちろん、食べるのは一日一個として、あたりの有無を確かめたわけだ。
 結果は最初の一つだけがあたり。
 アスカは病室を踊りまわって喜んだ。

「シンジ、早く帰ってこないかなぁ。きっとびっくりするわよぉ」

「そうね、凄く羨ましがるわ、きっと」

「あ、そっか。これ一つしかないんだ。うぅ〜」

 アスカはまるで仔犬のような唸り声を上げた。
 そして、きっぱりと宣言した。

「アタシ、もう一個あてる!それで、シンジとおそろいにするのっ」

 その意気込みは買うが、お金を出すのは大人たちだ。
 早速クリスティーネから小言を言われたが、アスカの気持ちは揺らがなかった。
 絶対にもう一つあててやると。



 幼稚園から帰ってきたシンジは文字通り目を丸くして、あたりのカードを見つめた。
 
「す、凄いやっ!入ってたんだ。本当に入ってたんだ。僕、あたりなんか一枚も入ってないんだって思ってたよ」

「へへへへへへへ!凄いでしょ、私っ!」

「うん、うんっ!凄いよ、アスカって。アイスはあてるし、流星バッチもあてるし、信じられないよ」

 その時のアスカの鼻はきっとピノキオよりも長く高かっただろう。
 何しろシンジからのこの賞賛を受けたくて、今を遅しと彼の帰りを待ち望んでいたのだ。
 
「ふっふぅ〜んっ」

 声にもならないほどの歓びなのであろう。
 その日の昼寝は、アスカは興奮しきってしまいまったく眠ることができなかった。
 隣ではシンジがすやすや。
 相手をしてもらえないアスカは、こっそりチョコレートを食べようとしてユイに逮捕される。
 彼女としては早くチョコレートをなくしてしまい、もう一つあてようという高尚な理由からの行動だったが。
 お尻を一発叩かれたアスカはお布団に強制連行。
 ユイに添い寝をしてもらっているうちに、いつの間にか眠ってしまった。



 アスカはまったく気付いていなかった。
 そして、周囲の大人たちは少しだけそのことを予感していた。

 アスカは彼女の人生で一番のあたりをすでに引いてしまっている事を。
 この前の日曜日の夜。
 光の国に帰っていくウルトラマンに別れを告げるために、わざわざ物干し台まで上がっていったこと。
 そのおかげでシンジと出逢えた事など、アスカはまるで認識していない。
 クリスティーネはアスカがシンジと友達になったために、心臓麻痺から蘇生できた事を知っている。
 そしてユイは逆にクリスティーネと知り合い、彼女の命を救うことで彼女の念願が叶うかもしれない事を知っていた。
 さらにゲンドウも己の生き方がぶれはじめた事をそれとなく了解していた。
 何かが大きく動き始めている。
 こんな小さな子供たちのふとした出逢いが、周囲の大人たちの人生を変えはじめていた。

 願わくは、すべてがうまく進むことを。
 ユイは願った。
 彼女にとっては神の使いのような、アスカの寝顔に。
  



 バルタン星人が出た!
 アスカは流星バッチでシンジに連絡。
 そして胸ポケットに入っているフラッシュビームを…。
 
 ない!
 あれがないと、ウルトラマンに変身出来ない。
 
 フォッフォッフォッ。
 不気味に笑うバルタン星人が、アスカの方を見下ろした。
 
 ひ、ひええええっ。怖いよぉ!
 
 その時、空から凧が飛んできてスーツ姿の冬月が
 アスカに向かってフラッシュビームを投げた。
 しかし、受け止めたそれはアイスの当たり棒。
 
 げげげげぇっ!ダメじゃないっ!

 その時、走ってきたシンジがウルトラマンに変身する……。


 目覚めたアスカは少し不愉快気に隣のシンジを睨みつけた。

 






(8) 昭和42年4月14日 金曜日・その弐



 キョウコの伝言が来た。
 病院に電話が入り、今日そっちに行くから家で待ってろとだけ。
 急ぎだからユイさんに電報を打っておいてと病床の母に頼む。
 ナースセンターに出向いたクリスティーネは、アンタが自分で打てと言い返したが、
 住所がわからないから打てない。急いでいるからお願いと。
 言いたいことだけ言って電話を切ってしまった。
 まったくあの子ったら、いつもこんなだよと、クリスティーネはひとりごちた。
 
 電報はすぐにユイの元に届いた。
 『キヨウイクカライエテ゛マツテロ。キヨウコヨリテ゛ンコ゛ン。
 ヒ゛ヨウニンヲコキツカウナンテナンテコタ゛。ワタシカ゛オコツテイタトキツクイツテオイトクレ』
 電報代をまるで考えずに、クリスティーネも言いたいことを言って来ている。
 これを受け付けた電報局の係りの人の顔を見てみたかった。
 ただ、ユイはキョウコのその短い…母親のそれよりはるかに短い伝言に手ごたえを感じていた。
 あのキョウコが自信もないのに伝言などするわけがない。
 きっと何か素晴らしい情報を手にやってきてくれるに違いないと。



 それは情報ではなかった上に、手に持てるような代物ではなかった。

「赤木リツコと申します」

 場所はあの喫茶店・黎明。
 昼下がりの喫茶店で、アスカとシンジはクリームソーダとホットケーキを相手に格闘中。
 ユイと並んだキョウコは反対側の椅子に東京から連れてきた女性を座らせた。
 たしかまだ20歳にはなっていなかったはず。
 就職しているのだろうか、それとも大学生?
 いずれにしても、その娘は背筋を伸ばし、真っ直ぐにユイを見つめていた。
 いや、この場合、睨んでいたという方が正しいかもしれない。
 意志の強そうな太い眉毛の下で、瞬きもしない目がじっと動かない。
 まるでユイを検分しているかのように。

「全部、喋っちゃったわよ。この娘に」

「え…」

 キョウコは不敵に笑いながら、コーヒーカップに唇を寄せた。

「単刀直入に申し上げます」

「あ、はい、どうぞ」

 個性的な短い髪のその娘は、まるで真剣勝負を挑むかのように紋切り型で切り出してきた。
 居住まいを正すユイ。

「貴方たちがされたことは大変迷惑です。どうしてくれるのですか?」

「え?あの、つまり、どういう意味ですか?」

 リツコは眦を上げた。
 
「これまで私が使った分のお金を返す当ては今はないんです。いつまで待っていただけるのですか?」

「ちょっと待って。つまり…」

「つまり、アンタたちが用意したお金はこの娘にとって迷惑この上ないお金ってことなのよ」

「あ、親の敵からってこと…」

 ユイが納得しかけた時、いらだたしげにリツコが口を挟んできた。

「違います。母が死んだのは車の所為で医者の所為ではありません。
 それなのに、どうして母を助けようとしてくださった方を恨まねばならないのです?」

「憎しみの対象にするとか。ひき逃げの犯人が逮捕されなかったわけですし」

「貴方のご主人が車を運転していたわけではないでしょう?
 それなのに、どうしてひき逃げ犯の代わりに恨まねばならないのです?
 理屈に合わないではないですか」

 何を馬鹿げた事を言っているのだとリツコは明らかに腹をたてている。

「でも、それが普通の気持ちの流れじゃないのかしら?それにお酒を呑んでいたのだし」

「あきれた…」

 リツコは首を横に振った。

「そんなに憎まれたいのですか?自己犠牲もいいところ。そういう自分たちに酔ってられるのではないですか?
 酔うといえば、お酒にしてもそうです。
 新聞にはそう載っていましたが、
 度を過ぎた飲酒であれば救急隊員の方が処置を任せるはずがないじゃないですか。
 馬鹿馬鹿しいったらありません」

 いやはや随分とはっきりものを言う娘だと、ユイは呆気にとられた。
 しかし、不快ではない。寧ろさっぱりしていて気持ちいいくらいだ。
 隣のキョウコはくすくすと笑っている。

「なかなかいい子でしょ。話しやすくて。でも、自分の主義主張と異なれば納得させるのは一苦労よ」

 キョウコのその批評がピッタリだとユイは思った。
 
「つまり、主人が用意したお金が邪魔だと?」

「はい。交通災害育英基金だと弁護士の方が申されましたので、素直に受け取って今まで毎月使ってきました。
 アルバイトをしようにも研究が主体の学問なので、そのお金で助かってきたのは事実です。
 つまり、学費と生活費で毎月の手当はすべて使ってしまっているということ。
 返えそうにも今は返しようがありません」

 熱っぽく語っているのだが、どこか客観的に喋っているように見える。
 まさに理系で研究者タイプの女性なのだ。

「そんな、返さなくてもいいのよ」

「何故ですか。私は貴方たちに保護を受ける謂れがありません。この方に」

 と、リツコに視線を向けられて、キョウコがにっこり笑って小さく手を上げる。

「事情は聞きましたが、それこそそちらの事情だけの話ではありませんか。
 自分の気持ちを納得するためだけにこの私を利用したとしか思えません」

「あ、確かにそれもあるけど。だけどかわいそうだって」

「可哀相なのはこの世で私だけではありません。勝手にこんなことをされた私はどうなるのですか?」

「えっと、どういうことかしら?」

「まるでマリオネットの人形。
 自分で生計を立てることができるようになっても、貴方たちに返すお金で首が回らなくなります」

「いや、ですから、返さなくてもいいって」

「だから、いただく理由がありません」

 ユイは困り果ててしまった。
 隣のキョウコをすがるように見ると、彼女はにやっと笑って「はい、平行線」と小声で言う。

「じ、じゃ…、貴女のご希望は?」

「希望?そうね、まずとっととそのような自己憐憫と卑下した生活をやめてくださらないかしら。不愉快この上ないわ」

「不愉快って、そんな…」

「はぁ…頭の周りがよくないのね。貴方たちが私のために苦しい生活をしていることが耐えられないのよ」

 碇ユイ。
 小さな時から賢い子だと言われ続けてきた。
 生まれて初めてだった。頭の周りが悪いと目の前で言われたのは。

「くくくっ、言われたわね、ユイ。確かにこの娘の言う通りよ。
 彼女の主張が基になれば、アンタたちがあんな安アパートに暮らしているのは物凄いプレッシャーになるわ。
 学生食堂で200円Aランチを食べるのでさえ、気になると思うわ。この娘なら」

「Aランチは120円です」

「はいはい、120円ね。安いわね、それ。まあいいわ。でも、やっぱり気になるでしょ」

「はい、喉が通りにくくなります。でも、栄養を取らないと学問を続けられませんし、続けるとアルバイトはできない。
 どうしてくれるのですか。身動きが取れないではありませんか」

 どこかが間違っているような気がするのだが、彼女の主張を是とすれば確かにがんじがらめ。
 頑固なこの娘にすれば、キョウコの訪問で足元の大地があっという間に崩れ去ったようなものだったのだろう。
 その理由がわかればそんなお金を使うわけにいかなくなるからだ。

「因みに新幹線代は私が貸してあげたの。もう使えないからって」

「あらら、そこまで」

「当然ではないですか。返せないものを使うわけにはいきません」

「だから返さなくてもって、また平行線ね。困っちゃったわ」

 頭を抱えたくなったユイの肩をキョウコがぱしんと叩いた。

「おやおや、アンタともあろうものが何を困ってんのよ」

「だって、キョウコ。どうしたらいいのか…」

「あはは、簡単じゃない、こんなの。だからここまで引っ張ってきたのよ」

 自信たっぷりに言うキョウコを二人は呆然と見つめる。
 
「アンタはこのユイたちのお金で生活と勉学を続けることができないわけよね。それが負担になって」

 リツコが頷く。

「要はそのお金が押し付けがましい善意だからなわけよ。はいはい、ユイの気持ちはわかるけど今はシャラップ」

 押し付けがましいとまで言われてむっとしたユイが口を開こうとしたが、キョウコに頭から押さえつけられる。

「ということは、善意じゃなければいいわけ。わかる?お二人さん」

「わからないわ」

 リツコも首を振った。

「おやまぁ、察しの悪いこと。アンタたち、契約しなさい」

「はい?契約…」

「そう、契約。アンタは…」

 キョウコはリツコを真っ向から指差した。
 その指先にまったく動じる様子もなく、リツコは眉だけを顰めた。

「もうそのお金を使っちゃってるんだから、その分を返したい上に、
 これからの学費や生活費を何とか工面しないといけないわけよね」

 はっきりと頷くリツコ。

「だったら一番簡単なのは、これまで通りにそのお金を使うことね」

「ですから、それは」

「黙ってらっしゃい。先に進まないから」

 キョウコがニヤリと笑った。

「問題はそのお金が道理に反しているってことなのよ。
 彼女にすればね。てことは、そのお金を道理に合うようにすればいいの。ほら、簡単」

「どうやって?」

「だから、ユイがこの娘に条件をつければいいのよ。ああしろこうしろって」

「はい?」

 ユイもリツコもきょとんとしている。
 キョウコは悪戯っぽい瞳を輝かせて話を続けた。

「わかんないかなぁ。分割で金返せってのでもいいし、自分の女になれって…」

「キョウコったら!」

 慌てて子供たちの方を見るユイ。
 二人はいまだホットケーキと格闘中。
 シンジの方がナイフの使い方が巧いのは何故だろうかとユイは少しだけ思ってしまった。
 ビジュアル白人のアスカは不ぞろいなサイズでホットケーキを切っている。
 我が息子の方はきれいな格子状に切りそろえている。
 よく考えればナイフの使い方は教えたことがなかったのに、こういうのって素質なのかしらと微笑んでしまった。
 顔を戻すと、リツコが考え込んでいた。

「あの…」

「なるほど、わかりました。金を返すか身体で支払えと。それならば、私は…」

「こらこら、わかってないぞ。二者選択じゃないわよ。私は例を上げただけ」

「そうだったんですか。わたしはてっきり」

 少し頬を染めて自分を見つめたリツコに少しだけ不安を感じたユイだった。
 進む方向性が見えてきた所為か、リツコに余裕ができたのかもしれない。
 ミッションスクールでそういう趣味の生徒を少なからず見てきたので、何となくわかるものがあるのだ。
 ここは話を逸らさないと。

「えっと、貴女は大学生?」

「はい。おねえ…」

「な、何を勉強しているの?」

 慌てて質問を続けるユイ。

「薬学です。おね…」

「ああ、そうなの。そうなんだ」

 ユイは隣でくすくすと笑っているキョウコを横目で睨みつけた。
 キョウコはどうやら最初から彼女の嗜好性を知っていたようだ。
 私にはミッションスクールの昔からそういう趣味はないの。あの人一筋なんだから。

「ああ、それじゃ、こういうのはどうかしら?
 しっかり勉強に励んでもらって、そして医学界の発展にっていうか、
 今は治せない患者さんを一人でも多く治せる様にがんばってもらうっていうのは。
 お金の方はもちろん返還不要ね」

「なるほど、奨学金ってわけか。それならいいわね」

「少し抽象的ですね」

 小首を傾げるリツコ。

「その条件が呑めないなら、今すぐ使ったお金を返していただくってことで」

「わっ、脅迫。居直っちゃったよ、この人は」

 キョウコがおどけて見せる。

「今現在の返却が無理なんですから、選択肢はないということですね。
 なかなか酷な事を…。もしかすると、そのような趣味が」

「ありません」

 頭から言い切るユイ。

「ふふ、それじゃ、これで決まりってことで」

「待ってください。こちらからも条件があります」

 場を締めようとしたキョウコをリツコが制する。
 妙なことを言い出すのかと警戒した二人だったが、リツコの口から出てきたのはあまりにまともな要求だった。



 今日の仕事は定時に終わった。
 ゲンドウはいつものように伊吹湯に回り一日の汗を流した。
 そして県道を北に歩き、国道を越えて2本目の通りを左に曲がる。
 仕事帰りのいつもの道だ。
 すぐ隣を私鉄が走っている。
 4両編成の短い電車ががたごとと車輪を響かせながら走り去っていった。
 恒例のパチンコ屋は駅のすぐ手前にある。
 駅前では一番大きな建物になる上、
 夕方の風景にネオンサインが自己主張を始めているので遠くからでもよく見える。
 ゲンドウ本人はゆっくり足を進めているつもりでも
 コンパスの長さで周りのものには早歩きをしているかの印象を与えていた。
 シンジの大好きな小さなプラモデル屋さんを通り過ぎ、
 胃袋を大きく刺激する匂いに悩まされながら、ゲンドウは歩いていった。
 タレの香ばしい匂いが通りにあふれ出している焼き鳥屋。
 鉄板に焼けたソースの匂いがするお好み焼き屋。
 焼き魚の匂いがじわりじわりと表にたちこめている小料理屋。
 今日の晩飯は何だ?
 できれば日本料理がいい。
 どうも客人に合わせて西洋料理ばかり続いているような気がするゲンドウは、
 焼き魚であったなら言う事はないなと思った。
 もちろん、ゲンドウがユイに文句を言うわけはないのだが。

 この数日、ゲンドウはどこか心が軽かった。
 それを彼はアスカの所為だと思い込んでいた。
 確かにその発端はアスカの出現である。
 しかし、実際にはクリスティーネに施した医療行為が彼の心を満たしていた。
 そのことをユイはよく知っていた。
 わかっていないのは、いやわかろうとせずに別のことが原因だと思い込もうとしているゲンドウ本人なのだ。
 
 パチンコ屋まで後20mほど。
 勤め帰りの会社員が駅からどんどん押し寄せてくる。
 この時間帯に駅前の商店街を通る車はまずないため、車道にも人が行き来していた。
 ゲンドウは歩く早さを少し抑え、ゆっくりと足を動かす。
 そして、目の前に立っていた女性を避けて進もうとした時、その女性から声をかけられた。

「何の挨拶も無しなのかしら?」

 ゲンドウは顔を上げた。
 聞き慣れた声ではなかったので、その声が自分に向けられたものだとは最初思っていなかったのだ。
 そこに立っていたのはショートカットの若い女性。

「む。すまん」

 いったい何の粗相をしたのかまるでわからないが、とにかく謝っておいた方がいい。
 まったく視界に入っていなかった女性から睨まれたと怒られたこともあるゲンドウなのだ。

「あら、私のこと、お忘れなの?酷いわね」

 予想外の言葉。
 女性の知り合いなど、この町には数少ない。
 ゲンドウは不躾は承知でまじまじとその女性を見る。

「おやおや、本当に忘れているみたいね。私、赤木リツコです」

 リツコは腕組みをしながら名乗った。
 もちろん、その名前の女性が何者なのかはすぐにゲンドウにはわかった。
 そして、彼はもう何も話せなくなってしまったのだ。

「お久しぶりです。碇先生」

「む…。先生では、ない。もう辞めた」

 何故ここに彼女が来たのか。
 ゲンドウは想像もできなかった。
 償いはしているつもりなのだ。
 完全にできるとは露ほども思っていなかったが。

「私は、許しません」

 あの時、この娘はまだ高校生で、制服を着て通夜の席にいた。
 頭を下げて詫びる俺に彼女は何も言わなかった。
 それどころか、激昂する親戚を冷ややかに制止したくらいだ。
 死んだ者は帰らないし、母親が死んだのは交通事故で医療事故ではないのだと。
 その時の冷静な口調そのままに、彼女は俺にそう言った。

「ど、どうすればいいのだ?」

 ゲンドウは訊くしかなかった。
 リツコはゲンドウから育英基金が出ていることなど知らないはずだ。
 つまり、頭を下げ、医者を辞めただけでは駄目だと、そういうことだとゲンドウは了解した。

「お仕事を辞めたそうですね」

「む。うむ…」

 ぱしぃんっ!

 
「あちゃあっ!あの娘、手加減無しでぶったわよ!」

「その方がいいわ。小細工しない方が」

「お父さん、かわいそう」

「アタシはシンジをぶったりはしないからね」

 道路の真ん中で頬を引っ叩かれたゲンドウの親近者4名がすぐ近くに隠れていた。
 キョウコの知り合いの洋品店の中に潜んでいたのだ。
 ガラス越しで、距離も10mは離れているので声はまったく聞こえないが、大体の雰囲気はわかる。
 リツコという娘もゲンドウ同様にマイペースなので、
 街中の人通りが多い場所でこのようなやりとりをすることに何の躊躇いも恥じらいも持ってはいないようだ。
 
「シンジにアスカちゃん、このことはお父さんには秘密ですからね」

「大丈夫!アタシの口は固いのよ!」

 固いはずである。
 シンジとアスカの手にはお菓子屋さんの緑色の袋。
 どうやら口止め料にまたシスコ社のウルトラマンチョコをせしめた様だ。
 
「ちょっと、ユイ。私のアスカを恐喝の常習者にしないでよ。癖になったらどうするの」

「う〜ん、それはやっぱり母親の責任かな?あ、あの人ったら、変な顔してる」


 それはそうだろう。
 殴られたことは理解できる。
 なにしろこの娘の母親の命を救えなかったのだから。
 しかし、その後に言われた言葉はまるで理解できない。

「許しません。今すぐ医者に戻って下さい」

「何?何と言った」

「あら、聞こえなかったのかしら?貴方が医者を辞めたのは母への責任を負ったのではないのじゃないかしら。
 辞めてしまえば、逃げることができるんですから。つまり、貴方は弱い人間なわけ」

 激するわけでもなく、淡々としかし辛辣な言葉を口にする。
 別にこの話す内容をあらかじめユイたちと決めていたわけではない。
 もしリツコの言葉をユイが聞いていたなら、どれだけ驚いたことだろう。
 ゲンドウの行動の本質をリツコが見抜いていたわけだから。
 世界中で自分ひとりがゲンドウを理解できるものだと思い込んでいたのだから。
 だが、しかし、幸いにもリツコの言葉はユイには聞こえなかった。
 聞こえていなくてよかった。誰にとっても。

 ゲンドウはすぅっと息を曳いた。
 どうしてこの女は俺の心の中にずかずかと土足で入ってくるのだ。
 殴ってやろうか。
 彼が女性に対してこんな暴力的なことを考えたのはこれが最初で、そして最後であった。
 
「殴るんですか?どうぞ、お好きなように。人間は本当のことを言われると腹が立つらしいですわね」

 この時、ゲンドウの頭の中にユイの顔が浮かんだ。
 なるほど、ユイは素晴らしい。
 この娘と同じことを考えていても、ユイは口に出さない。
 もし彼女にこのようなことを言われたら、首を絞め殺しているかもしれない。
 そして自分の命も…。
 
「医者には、戻らん。いや、戻れん…」

 それだけ言うと、ゲンドウは目を伏せた。
 
「意気地なし。貴方がそんな調子では、死んだ母も浮かばれません」

 リツコはさらに言葉を重ねた。

「育英基金という名のお金が貴方から出ていることを私は最近になって知りました」

「うっ…」

 呻くゲンドウ。どこから漏れたのだ?
 
「お金のことは感謝します。もしご支援いただいてなければ、私は進学できませんでしたから。
 ただし、貴方がこういうことになっているのなら、私、貴方にお金をお返ししないといけません」

「いや、それはいかん」

「では、お医者さまに戻ってください。今すぐとは申しません。
 でも、半年経ってもまだ戻っていらっしゃらなければ、
 私はこの身体を売り払ってでも、お金をお返しするつもりですので。
 それでは、その時を楽しみにしています。碇先生」

 リツコはさっと一礼すると、すたすたと駅の方へ歩いていった。

「ま、待て」

 ゲンドウはそう声をかけたものの、彼女を追いかけようとはしなかった。
 そのまま数分ほど歩道に立ち尽くして、そしてパチンコ屋に背を向けた。
 アパートの方ではなく、河川敷の方へ向かったようだ。


「かわいそう…。あんなにしょげちゃって」

「へぇ、あれで落ち込んでるの?わかりにくい人ね」

「あら、凄くよくわかるんだけどなぁ。どうしてわからないのかしら」

 ユイが小首を傾げた時、子供たちの声が聞えた。

「ああん、はずればっかり。シンジは?」

「僕のもダメ。あたらないよ」

 背後の二人はお菓子屋の袋を開けて、流星バッジのあたりカードが入っていないか捜索中。
 いや、捜索が終わったところだった。
 さすがにチョコレートを咥えてはいないが、剥き出しのチョコレートが袋の上に散乱している。

「あっ、あなたたちっ」

「こらっ、もう開けたの?馬鹿っ」

「だって、暇だったんだもん」

 言い返すアスカに、慌てて袋の中にチョコレートを戻すシンジ。
 アスカの方は悠然ともう一度包装紙で包みなおしている。
 
「この子らったら」

「あ、そうだ。駅に行かないと。リツコさん、待ちぼうけよ」

「ああそうだった。急げっ」

 洋品店のおばさんにお礼を言って、4人は駅に向かった。
 案の定、改札口でリツコはじっと待っていた。

「ごめんねっ、待たせちゃって」

 リツコは涼しい顔をしてさらりと言う。

「引っ叩いてしまいました。いけませんでしたか?」

「いえいえ、ありがとうございます。なんだったら反対側も叩いていただいても」

「あら、キリスト教ですか」

「ええ、ミッションスクール」

「で、どうだったの?反応は?」

 のんびりとした世間話に突入しそうなユイに代わって、キョウコが結果を訊く。
 まったくユイったらのほほんとしちゃって…。
 ま、こんな調子だからこの子に惹かれる人間が多いのかもね。
 この初対面の癖に頬を少し染めている合理的娘だってそうだし、ママだって…。
 ふふ、このキョウコでさえいちころだったものねぇ。
 ホント、私が男だったらなぁ…。
 あんな不細工な男に独占なんかさせないのに!
 そっちの方の趣味がないのが残念というか、なかってよかったというべきか。

「揺さぶることはできたと思います」

 リツコは結論だけを告げた。
 半年後にゲンドウが医師に戻ってないときは、彼女が自ら身を滅ぼすと言ってのけたことを。
 詳しく話さないでよかった。
 ゲンドウの心の動きをリツコがそこまで把握していたことがわかると、
 間違いなくユイはショックを受ける。
 ところがリツコはゲンドウにまるで興味を持っていないので、
 今後彼に関わることはないだろう。
 ただ、もしゲンドウが自信あふれる姿でリツコの前に現れていたら…。
 面食いではないリツコはもしかすると、ゲンドウに惹かれていたのではないだろうか。
 出逢い方ひとつで人と人の関わり方は随分と違ってしまうのかもしれない。



 リツコは新幹線の駅までユイに送ってもらいたげではあったが、
 子供たちがいるのでと言われてしまうとこの改札口で我慢せざるを得ない。
 握手を求めるユイの手をどきどきしながら握りしめたリツコはしばらくは右手を洗えなかった。
 2日後の実験の際に泣く泣く消毒薬が入った洗面器に手を入れた彼女である。

「はい、お姉ちゃん、これあげる」

「あ、僕も僕も」

 アスカとシンジは握り締めていたお菓子の袋に手を突っ込んだ。
 
「このチョコ、美味しいよぉ」

「こら待て、アスカ。アンタ、在庫をはかそうとしてるでしょ」

「シンジまで!」

「在庫って何?わかんない」

「ああっ、つまり、今あるチョコをなくして、次のを手に入れようって思ってんでしょ!」

「そ、そんなの知んないわよ。ねぇ、シンジ!」

 いきなり話を振られて戸惑うシンジ。
 彼はアスカにつられただけで、そんな目論みはまるでなかったのだ。

「え、う、うん。おみやげ」

「そうよ、おみやげおみやげ!」

 母の疑惑通りのことを考えていたアスカはシンジの尻馬に乗ってあどけない5歳児に徹した。

「はぁ…、仕方ないわね。リツコさん、一つづつ貰ってくれます?」

「はい。では」

 その時、キョウコとユイは目を丸くした。
 リツコはアスカとシンジの持っていた袋をそのまま取り上げたのだ。
 一瞬えっとなった子供たちだったが、当然この展開は願ったりかなったり。
 ニコニコ笑いながら、はいどうぞと。

「ちょっと、リツコさん?」

「一つってチョコを一つなのよ。アンタ、そんなに」

「大丈夫です。一度で食べるわけではありませんから。研究の時に小腹が空きますので丁度いいんです」

 リツコが微笑んだ。
 それは初めて見る彼女の素直な笑顔だった。
 あら、可愛いじゃない、歳相応で。
 キョウコは腕組みしながらそう思った。

「アリガトね。ホントはママの言う通りなの。流星バッジが欲しいから」

 みんなに聞こえているのも知らず、アスカがこそこそとリツコに耳打ちする。
 
「流星?何それ?」

「ウルトラマンの。ほら、科学特捜隊のっ」

「はい?ウルトラ…何?」

 呆気にとられた二人の子供を残してリツコは東京へ帰っていった。
 ウルトラマンを知らない人間がいるなんて、アスカとシンジには信じられない。
 チョコを持って行ってくれたのはよかったのだが。



 キョウコは一旦母親の病院に向かった。
 娘に「ママと一緒のお布団で寝る?それともシンジちゃんの隣で…」と訊ねたところ、
 いともあっさりふられてしまった訳だ。
 今晩は病院の簡易ベッドでクリスティーネの横で眠り、明日の朝一番に東京へ向かうそうだ。
 身体は大丈夫かと心配するユイに、キョウコは高らかに笑った。
 アンタたちとは身体の出来が違うのよと。
 
 晩御飯の仕度はできている。
 今日は肉じゃがとほうれん草のお浸し。それとキャベツのおみそ汁だ。
 おみそ汁のお鍋はまだコンロの上。
 ゲンドウがまだ帰ってきていないからだ。

「お母さん、お父さん遅いね」

「うん。でも、大丈夫よ。お腹が減ればちゃんと帰ってくるわ」

「ふぅん、なんだか子供みたい」

 自分が幼児の癖にませたことを言うアスカに、ユイはにっこり微笑んだ。

「あのね、男の人ってどんなに歳をとっても子供みたいなのよ」

「シンジも?」

「そうね、きっとシンジも」

「ええっ、僕は大人になったらちゃんと大人になるもん」

 少し頬を膨らませてシンジが主張する。
 
「ふふ、そうなるかな?」

「なるもん!」

 精一杯胸を張るシンジをアスカは嬉しげに見つめている。
 そうねぇ、将来アスカちゃんと結婚するなら、
 しっかりと手綱を持っておかないとどこへ走っていくかわからないものね。
 
「じゃあねぇ、アスカちゃんはどっちがいい?
 大人っぽいシンジと子供のようなシンジとだったら」

「どっちでもいいよ。だって、シンジなんでしょ、どっちも」

 即答だった。
 こいつは恐れ入りました。
 ユイはぺたんと自分のおでこを叩いた。
 ただし、どうも惣流家の女性の夫は若死にするようだ。
 シンジはそんなの真似しちゃダメよ、と母たるユイは思うのだった。

 その時、扉がすっと開いた。
 玄関側に背を向けていたユイだったが、神経はそっちに集中していた。

「おかえりなさい、あなた」

「う、うむ」

 いきなり喋りかけて来た妻の背中に、ゲンドウは精神的に数歩後退りする。
 本当に後に下がれば手すりを越えて転落してしまうので、それはできっこない。
 
「遅かったんですね。どちらにいらしたんですか?
 シンジとアスカちゃんが迎えに行ったのに、パチンコ屋さんにはいらっしゃらなかったみたいですね」

 きっとユイは微笑みながら喋っている。
 背中しか見えないが絶対にそうだ。
 
「す、すまん。少し川っぺりをあるいていた」

「お一人で?まさか、女の人と会っていたんじゃないでしょうね」

 ゲンドウは面の皮は厚くない。
 無愛想で表情に乏しいだけなのだ。

「そ、そんなことはない。待ち合わせなどしておらん」

「あ、そ。じゃ、早く食べましょう。子供たち、お腹がぺこぺこよ」

 ユイは少し溜息をついた。
 なるほど、かなり気持ちは揺れている。
 それでもまだ医者に戻るとは言えないようだ。
 戻る気があって言えないのか。
 それとも戻る気がないから言えないのか。
 外堀はこれで埋まったのだ。
 あとは、本人次第。
 自分は医者だと認めてしまえばそれでおしまい。
 ええ〜い、言ってしまえ、碇ゲンドウ!
 ユイはお味噌汁を温めなおしながら、握りこぶしに力を入れた。

 ゲンドウが卓袱台に座り、子供たちは既にお箸を構えている。
 お味噌汁を配り、そして御飯をよそう。
 
「はい、どうぞ」

 このユイの一言が晩御飯の開始の合図。
 「うむ」と一言唸るだけのゲンドウ。
 「いただきまぁ〜す!」と叫ぶシンジとアスカ。
 その後で「いただきます」と手を合わせるユイ。
 晩御飯はできるだけ家族が顔を揃える。
 これは別に碇家だけの事ではない。この当時の日本の家族はこれが普通だったのだ。
 
 随分と待たされた所為だろう。
 アスカとシンジは凄い勢いで食べ始める。

「こら、二人とも。よく噛まないとダメよ」

「ふぁ〜い!」

 口の中におじゃがが入ったまま返事をする二人。
 卓袱台の上を見ると、アスカのほうれん草はすでに全部なくなっていて、
 逆にシンジのそれは手がつけられていない。
 食前に二人が話していたところによると、二人ともほうれん草が嫌いなようだ。
 先に食べてしまうか最後に食べるか。
 こういうところにも性格が出るのね、とユイは微笑ましく思う。
 さて、目をゲンドウに向けると、当然食が進んでいない。
 単純なゲンドウは気持ちの揺れがそのまま食欲にも直結しているのだ。

「あら、あなた。肉じゃがはお嫌いでしたっけ」

「む、いや、そんなことはないが」

「ないが…なんですか?」

「うむ…」

 言うことはできない。
 言えば、ユイは必ずこの俺を医者に戻してしまうだろう。
 ユイの気持ちはよくわかっている。
 だが、ここは何か言わねばならない。
 変化球を投げられないゲンドウは咄嗟にリツコに出くわす寸前に思っていたことを口にした。

「焼き魚が食べたかった」

 その言葉を聞いた途端、ユイは目を丸くした。
 そして、口を押さえると、畳に転がって笑い出したのだ。
 どう言い訳するのかと思えば、焼き魚が食べたいだなんてっ!
 まったくもうどうしてこの人はこんなにっ!
 
「お母さん、どうしたの?」

「大丈夫?おじゃがに毒でもはいってたの?」

「アスカったら!毒なんか入ってるわけないだろ」

「わかんないわよ。笑うのが止まらない毒とかさ」

「そんなの僕たちも食べてるじゃないか」

「あ、そっか」

 家族の心配を余所にユイはその後数分笑い続けた。
 横隔膜が痛くなるまで。
 ゲンドウに心配しなくていいから食事を続けるように言われ、子供たちはまた肉じゃがと格闘する。
 焼き魚がユイのツボだったのか?
 ともかく誤魔化せてよかったと、ゲンドウはホッとして肉じゃがに箸を伸ばした。
 うむ、旨い。
 誤魔化せてあげてよかった。
 ユイはひくつく胸を押さえながらそう思っていた。
 これで明日の晩御飯のおかずは決定。
 さて、何の魚にしようかしら?





 
 

 洗濯物を干していると
 今日も窓越しにアスカの背中が見える。
 声をかけようとして、ユイは思いとどまった。
 いけないいけない、またびっくりさせちゃう。
 ん?
 あれぇ?
 何、あの子。もしかして…。
 やっぱりそうだ。ちらちらこっちを見てるもの。
 そうか。柳の下の泥鰌を狙ってるのね。
 くくくっ、可愛いっ。
 私が声をかけた途端に、びっくりしてずっこけるってわけね。
 そして泣き顔をして、またチョコを買ってもらおうと。
 ああ、どういう風にするのか見てみたいっ。
 ダメダメ。毎日お菓子を200円も買えないわ。
 ごめんね、アスカちゃん。
 ああ、でも、あの背中ったら!
 
 まだかなぁ〜、まだかなぁ〜。
 今日こそ流星バッジをもひとつあてて、シンジとお揃いにするんだから。
 う〜ん、まぁだかなぁ〜。
 早くお名前呼んでよぉ〜。

 






(9) 昭和42年4月15日 土曜日


 今日は土曜日。
 それでも、ゲンドウは一日仕事だし、シンジもやはりお昼までは幼稚園だ。
 病院のクリスティーネは今日も元気だった。
 病院食は食べ飽きた、うな丼を持ってきてくれないかと真剣に言い出し、ユイは困ってしまった。
 いくらお金を出すといわれても、あんな匂いの強烈なものを持って病院を歩けやしない。
 こっそりとお鮭の焼いたのを持ってくるからと言い含めたが、
 鰻と鮭じゃ全然違うとクリスティーネはご機嫌斜めだった。
 どうせポンコツ心臓で老い先が短いってわかったんだ。
 好きなものを食べて何が悪い。

「なぁユイさんや、全財産アンタに譲るからさ。うな丼を食べさせておくれよ」

「まあ嬉しい。お鮭は鰻の何パーセントになるのかしら?」

「アンタ、鬼ね、鬼」

 クリスティーネは肩をすくめた。

「アスカ、気をつけなさい。この人は嫁をいびるわよ。じわじわくどくどと」

「いびるって何?」

「いじめるってことよ」

「ええっ、お母さんがアタシをいじめるのぉっ?」

 驚いてユイを見上げるアスカ。

「いじめないわよ」

 笑いながら胸のところで手を振るユイ。
 クリスティーネは部屋中に聞こえるような小声でアスカに囁く。

「あの笑顔に騙されちゃあいかんぞ、アスカ。
 現にこの可哀相なばばあにうな丼を食べさせてくれんのじゃ」

「そ、そうなの?」

 混乱してきたアスカ。

「ああ、この女はな、にっこり笑いながら…」

「お鮭持ってくるのも止めましょうか?」

「な、アスカ。こういうこと。いじめてるだろ?」

 アスカにはよくわからないが、ユイの喋り方にはからかうような響きを感じた。

「もう!お母さん。グランマをいじめちゃダメぇ」

「くりさん、いい加減にしてください。アスカちゃんに先入観ができちゃうじゃないですか」

「ははは、家庭争議の元をつくることはないか」

「そうですよ。あ、本当にお鮭でいいですか?」

「ああ、何でもいいよ。少しボリュームのあるヤツで頼むよ」

「じゃ、帰りにお魚屋さんに寄りますから、その時に」

「任せたよ」

 と、財布を開こうとする彼女をユイは止めた。

「そのうちがっぽりと返していただきますから」

「ああ、そうしておくれ。楽しみだ」

「ねえねえ、チョコはダメ?」

 恐る恐る訊いてきたアスカに「ダメっ」の唱和。

「いじわるぅ」

 いくら膨れて見せても、アスカの要求が通ることはなかった。



「さぁて、アスカちゃん。何にしようか?」

「あれ!あれがいいっ」

 アスカが指差したのは尾頭付きの鯛。
 どうしてこんな下町の魚屋にこんな豪勢なものがあるのかは、魚屋の大将の宣伝戦略だ。
 なじみの料理屋に渡す前に店頭に置いて客引きと見た目をよくするためだ。
 もちろん、料理屋には広告料の分を値引きして渡している。

「あれはダメよ。目の玉飛び出るほど、高いじゃない。
 それにうちのコンロでどうやって焼くの?切り身じゃないとダメ」

「くぅ、つまんないよぉ。大きいのがいい」

「おやおや、奥さん。今日は外人さんのお嬢ちゃん連れて…って、
 この嬢ちゃん、ひょっとして惣流さんちのあのお転婆娘の子供じゃねぇのかい?」

「あら、わかりました?」

「ねぇねぇ、お転婆娘ってママのこと?」

「あいたっ、ごめんよ嬢ちゃん。今はお転婆じゃねぇよなぁ」

 今も充分お転婆だけど。
 そうは思ってもユイは口には出さない。
 
「嬢ちゃん、名前は何ていうんだ?」

「アタシ、アスカっ!」

「へぇアスカちゃんかぁ。あれ?で、どうして奥さんが連れてるんだい?」

「あまりに可愛いから誘拐しましたの」

「げげっって、悪い冗談だぜ。ああ、そういや惣流さんとこのご近所だっけか。
 そうか、くりさんが倒れたんで、アンタが預かってるわけか。偉いねぇ」

「そうか、てことは、あんたんとこのご主人かい?くりさんの命を助けたのって」
 
 魚屋のおかみさんが接客を放り出して話に加わる。
 いや、放り出された中年の主婦も興味ありげに近寄ってきた。

「私も聞いたよ。ほら、黒澤の映画でさ、三船敏郎がやっただろ。ええっと…」

「おお、赤ひげだ」

「ああ、それだ。そんな感じで救急車に乗って行ったって、神田さんとこの奥さんが喋ってた」

「神田さんってえらく遠いじゃねぇか。あそこの奥さんそんなに野次馬なのかい?」

「いいえ、ご主人の方よ。パジャマ姿で飛び出して行ったんだってさ。救急車の音聞いて」

「ははは、なるほどそりゃあいかにもってな感じだよ。今度会ったら冷やかしてやろ」

「あ。あの…」

 話が別の方向に飛び火して、世間話に突入してしまいそうだ。
 それに誇らしい気持ちもあるが、恥ずかしさもある。
 その上、ぐずぐずしているとシンジが幼稚園から帰ってきてしまう。
 おずおずと口を挟んだユイを大将だけではなく、その場の全員が注目した。
 わっ、みんなに見られちゃった。
 でも、誰の目も温かい感じ。
 
「おっとすまねぇ、買い物に来てくれたんだよな。何にする?」 

 ユイはもう一度並べてある魚を見渡した。
 大きな魚は料理できないので、切り身にしてもらわないといけない。
 財布の中身と相談すると、1キレ70円の鰆あたりが無難かもしれない。
 魚偏に春だから、それでいいよね。くりさん。

「鰆…にしようかな。切り身にしてくれませんか。5つで」

「ありがとよ。じゃ、5つで…70円にオマケだ」

 ユイは言葉を失った。
 安すぎる。
 1キレおまけというのは夕方に買い物に行った時にしてもらったことはあるが、
 これでは4キレおまけになってしまう。

「ちょっとあんたっ。そりゃあおまけしすぎだよって、奥さんごめんなさいね」

 一旦ユイに愛想笑いをしてから、おかみさんは大将に詰め寄る。

「あんたはいつもいつも美人に弱いんだから。えっ、何とか言ってごらんなさいよっ。
 いくらなんでも70円で5キレはないんじゃないかい」

「ば、馬鹿野郎。そ、そりゃあ、この奥さんはとびっきりの美人には違いねぇけどよ」

 魚屋の店先でという戸惑いはあるが、こうはっきりと人前で美人だと言われると嬉しくないわけがない。

「あらぁ、大将。そいつは聞き捨てならないわねぇ。美人にはサービスするわけぇ?」

 当然、近所の主婦たちもおかみさんの援軍となった。
 
「み、みんな、誤解だぜ。お、おいらがおまけしたのは、くりさんのためでぇ」

 少し顔色が青くなった大将が、やっとのことで言い返す。
 くりさんのためと聞いて、全員があっと口を開ける。
 そして、おかみさんがぼんと大将の肩を叩いた。

「痛えっ!」

「あんた、それならそうと最初っからはっきり言いなよ、もうっ!」
 
「ちょっと、加持鮮魚店さん?」

 どきりっ。
 主婦連中が店の名前をフルネームで呼ぶ時はいちゃもんをつけるときと相場が決まっている。
 まさか他の買い物客にも同じサービスをしろと迫られるのか?
 大将もおかみもまずいと思ったその時、

「あんたらけちけちしないで、もっとばぁ〜んとしてやんなよ」

「へ?」

「尾頭付きの鯛とかさ、舟盛りの鰹とか鮪とか、出してあげなさいよっ」

 主婦たちは予想外の要求をしてきた。

「惣流医院にはね、随分とお世話になったんだから」

「そうそう、私は結婚したばかりの時だったよ。まだこんな身体じゃなかったからさ。
 風邪ひいた時に惣流先生の前で胸を出すのが恥ずかしくて」

 でっぷりと太ったおばさんが顔を赤らめた。

「何しろ、惣流先生はハンサムだったからねぇ」

「美人薄命って言うけど、やっぱり美男子も儚いもんかねぇ」

「あの先生が死んだ時には私ゃおんおん泣いたよ」

「まあさ、あれで奥さんが私らと同じ日本人だったら多分憎まれたんだろうけどねぇ」

「外人さんの美人ときた日にゃ、もう好きにしてよってもんだ」

「あの人の胸はあんた並みでさ、ウエストがあんたくらいなんだよ。信じられるかい?」

 その主婦は胸の時に太ったおばさんを指差し、ウエストの時はがりがりの奥さんを指差した。

「ほ、本当かい!なあ、あんたなら知ってるだろ?」

 いきなり話をふられて戸惑うユイ。

「え、えっと、胸は確かに」

 大きかった。
 その胸をゲンドウが…などと考えてはいけない。
 私は医者の妻なんだ!と、必死で自分に言い聞かせるユイだった。
 つまり、ユイがそう思ってしまうほどだったというわけだ。
 しかしウエストの記憶はない。

「ねぇねぇ、ウエストって何?」

 アスカがユイのスカートを引っ張る。
 
「あ、うん。あのね、ここのこと」

 自分の腰を指差すユイ。
 なぁんだとアスカは得心顔。

「グランマのここはママと変わんなかったよ」

 耳をそばだたせる主婦たち。

「ママはね、お母さんよりちょっとだけ大きいかな?」

 主婦たちはユイの腰を見て一様に驚き顔。
 そして、その中の一人が気がついた。

「あれ?今、お嬢ちゃん、この人のことをお母さんって言わなかったかい?」

「うん、言ったよ。だって、お母さんだもん」

 アスカは胸を張った。
 そして、事の成り行きにユイは暗然となる。
 これは行くところまで行かないと止まらないかもしれないと。

「どうしてお母さんなんだい。お嬢ちゃんの…」

「アスカだよ」

「ああ、ごめんね。アスカちゃんのお母さんは惣流さんとこの娘なんだろ?」

「そうだよ。ママはママ。でね、お母さんはお母さんなの」

 は、はは。笑っておくしかない。
 魚を楽しみにしている二人のことがなかったら、アスカを引っ担いで雲を霞と逃げ出しているところだ。

「どうして?」

 ああ、言う。言うわ。絶対に言う。

「だって、アタシはシンジと結婚するんだもん。だからシンジのママはアタシのお母さんなの」

 いい笑顔ね。
 そう言って頭を撫でてあげたくなるような笑顔だった。
 その満足気な顔に、一同は最初呆気にとられ、やがて顔を見合すと爆笑した。
 次々とアスカの頭を撫でて「おめでとう」「よかったねぇ」とお祝いの言葉を与える。
 そうなると、アスカはもう得意の絶頂。
 
「あんたも大変だね、こんなに小さなお嫁さんじゃ」

「え、ええ、まあ」

「こら、加持鮮魚店。これだけ祝いが重なってるんだよ。そこの大漁旗が泣いてるわよ」

 景気付けに壁に貼ってある大漁旗が指差される。

「ああっ、もう仕方ねえや。鯛でも持ってくかい?」

 破れかぶれの大将が叫んだ。
 ユイは慌てて手を横に振る。

「あ、あの、嬉しいんですけど、けっこうですよ。そんな大きな魚、うちで料理できませんし」

「いいよ、何ならうちで焼いて持っていってやるよ」

 大将よりも度量が大きいおかみさんが仕方ないねぇと笑う。

「あ、で、でも、あ、そうだ。もし、いただけるのなら、くりさんの退院祝いの時にっていうのは如何ですか?」

 ユイのその提案は圧倒的な好意を持って受け入れられた。
 
「加持鮮魚店?わたしらが証人だよ。ちゃんと特大の鯛をしつらえるんだよ」

「お、おう。任せとけ。清水の舞台から飛び降りてやらい」

「へぇ、今日は随分と男ぶりがいいよ、大将。まるで裕次郎みたい」

「そ、そうかい?へっへっへ」

「あ、あの…それで、鰆なんですけど…」

 ユイが50円玉一枚と10円玉二枚を掌に乗せ差し出す。

「いいよ、お代は」

「いえ、払います」

 そして、ユイはにっこりと笑った。

「その代わり、少し分厚めに。って言ったら怒られますか?」

 この発言も笑いを誘った。
 おかみさんは「任しときな」と鰆の片身を手に奥へ。
 こんな買い物は初めてだった。
 店の人とはけっこう喋るが、こういう場で出くわした主婦たちと話したことはない。
 こういう買い物ってけっこう病みつきになるかも。
 ユイはそう予感した。

「お〜い、ごめんよ。中に入れないんだけどさ」

 通りの方から若い男の声。

「ちょっと、開けてやんな。加持鮮魚店の次男坊のお帰りだよ」

 詰襟の一番上を開けた高校生が主婦連中を掻き分けるように入ってきた。

「ただいま」

「おう、おかえり。上で美人が待ってるぜ」

 肩に引っ掛けた鞄を下ろしかけたところで、その動きが止まった。
 
「待ってるって、まさか…」

「そのまさかのミッちゃんさ。リョウジ、おめえ、ミサトちゃん放り出して逃げ出したんだって?」

「に、逃げたんじゃねぇぜ。ダチと…」

「嘘つけ。伊吹湯の看板娘に声かけてよ。それでほっぺた引っ叩かれたんだって?
 ミサトちゃんが教えてくれたぞ。ん?往復ビンタだったのか?両方赤いぞ」

「もう片方は葛城がやったんだよ」

 つまらないぜと言いたげな高校生の表情を見て、ユイは可笑しくて仕方がなかった。
 それに変なところで知り合いの名前が登場したものだし。
 今日、お風呂に行ったらマヤちゃんをたっぷりひやかしてやろっと。
 そこへ奥からおかみさんが息子を突き除けるように出てきた。

「へい、お待ちどう。分厚めに切っといたよ」

「ありがとうございます」

 ユイのお礼を軽く受け流し、おかみさんは息子の尻をばちんと叩く。

「こら、逃げるんじゃないよ。ミサトちゃん、あんたの部屋でコーラの自棄飲みしてるんだから。早く行きな」

 鮮魚店の息子の退路はおかみさんによって絶たれている。
 彼は大きく溜息を吐くと、全然幸せそうもない調子で「幸せだなぁ…」と
 加山雄三の『君といつまでも』を口ずさみながら奥へ歩いていった。



「ねぇねぇ、あのお兄ちゃんどうしたの?」

「う〜ん、多分浮気がばれた。違うかな?」

「浮気って何?」

 魚屋からアパートまでの短い距離。
 その間にアスカが質問してきた。
 この返事は簡単なようで難しい。
 恋愛についてどこまでわかっているのか見当もつかないからだ。

「えっとね、アスカちゃんとシンジが結婚したとするでしょ」

「やった、結婚結婚!」

 言葉だけでそこまで喜ばなくてもと思うくらいの喜びを身体中で表すアスカ。

「それなのに、シンジがアスカちゃんとは違う女の子を好きになっちゃうの」

「げっ!」

 アスカが手にしていたお出かけバックをぼとんと落とした。

「嘘!シンジ、アタシのほかに好きな子いるのぉっ?!」

「ち、違うわよ。これは説明のために」

「やだやだ、シンジがそんなのヤダっ!」

「う〜ん、じゃあ…」

「そうだ。お母さんとお父さんで説明して。髭のお父さんがほかの…」

「駄目っ!」

「ひっ!」

 開けてはならない扉がある。
 そのことをアスカは知った。
 あのお母さんがあんな目をするなんて。あんな声を出すなんて。
 きっとお父さんのことを好きで好きでたまらないのだろう。
 そして、アスカは自分に誓った。
 お母さんがお父さんを好きなくらい、自分もシンジを好きになろうと。
 ただし、どうやってこれ以上好きになればいいのかまるでわからないのだが。
 だが、浮気のことは何となくわかった。
 別の人間を好きになること。
 確かにそれは許せない。



 シンジはアパートの階段にぽつんと座っていた。
 やはり魚屋さんでの騒動で少し遅くなったのだ。

「あ、お母さん!アスカ!ただいまぁ!」

 最上段で立ち上がって手を振るシンジ。
 そのシンジに向って、アスカは大きく手を振った。

「おかえり!シンジっ!」

 あなたたち、その挨拶は逆だってば。
 そうは思いながらも、階段を駆け上がっていくアスカの後姿がとてもきれいに見えた。
 危なっかしげに足を大きく上げて、よいしょよいしょと一段ずつ上っていく。
 少しでも早くシンジのところに到達したいという気持ちが全身からほとばしっている。
 羨ましいなぁ。私はあんなに身体中で愛情を表現できないから。
 ユイ自身はそう思ってはいたが、それは誤解。
 彼女のゲンドウへの愛情は誰が見てもわかる。
 もしこれで彼女が自覚できるほどの愛情表現をしていたら、近所迷惑この上なかっただろう。

「遅かったね、待ってたんだよ」

「奥さんにはいろいろあんのよ。魚屋さんで晩御飯選んでたの」

「今日はお魚か。どんなお魚かなぁ?」

「んっと、さわらって言ってたよ」

「さわら?佐原健二ってウルトラQの人だよね」

「馬鹿シンジ。あの人はお魚じゃないでしょ。お魚の人間はラゴンじゃない」

「えっ、じゃラゴンを食べるの?」

「さわらって言ってるでしょ。ラゴンじゃないわよ」

 まったくこの馬鹿はと言いたげにアスカは肩をすくめた。
 その時、背後にユイの影が。

「お〜い、通行妨害ですよ。おうちのほうに進む」

 は〜いとばたばた駆けていく二人。
 鍵を開けて中に入り、まずは鰆の切り身を冷蔵庫の上の段に。
 ちらっと包みの中を見ると、確かに大きい。
 一切れが普段の倍くらいの大きさだ。
 これはもう浮気できないわね、加持鮮魚店さんからは。
 お昼御飯は惣流家の冷蔵庫から徴発してきたハムを使ってハムエッグ。
 冷蔵庫の中のものを腐らせてはいけないと、クリスティーネから処理を頼まれているのだ。
 
「いただきまぁ〜す!」

 手を合わせて、子供たちがお箸を掴んだ。
 そして、シンジが醤油を手にお皿の方へ動かすと…。

「ちょっと待ちなさいよ。アンタ、ハムエッグにお醤油かけんの?」

「はい?かけるよ」

「私、ソース。ウスターソースよ」

「あ、そうなんだ。ちょっと待っててね」

 ユイが水屋からウスターソースを出してくる。
 受け取ったアスカはふふふんと笑いながら、ハムエッグの上に丸く黒色の輪を描く。

「それ、おいしいの?」

 疑わしげに訊ねるシンジに、アスカは何も言わずにさっとシンジのお皿にも同じ輪を描いた。

「あああっ。何するんだよ〜」

「うっさいわね。私と同じもの食べなさいよ」

「お母さん…」

 悲惨な顔で母親を見やるシンジを無視して、ユイは自分の分に醤油をかける。

「あ、自分だけずるい」

「シンジ。あなた、アスカちゃんと結婚するんだから、アスカちゃんに合わせなさい」

 優しい母親がきっぱりと宣言した。
 シンジは泣きそうな顔でお皿を見下ろす。
 色はそんなに変わらないが、匂いがまるで違う。

「アンタ、食べられないの?浮気するって言うの?」

「う、浮気ってなんだよ」

 ぼそりと言うシンジ。
 こういう時は父親似になってしまうのは、
 やはりその肉体にゲンドウの遺伝子がしっかり受け継がれているという証明か。
 
「んまっ、しらばっくれて。アンタはお醤油をかける女の子が好きなのねっ!」

 疑心暗鬼の奥さんは白でも黒だと思い込む。
 こんな調子で夫婦喧嘩をされては食事が進まないので、ユイは断を下す。
 二人ともぐずぐず言ってないで、早く食べなさい、と。
 世にも情けなさそうな顔で、シンジがハムエッグの皿に箸を伸ばした。



「どぅお?美味しかったでしょ」

「う、まずくはなかった」

 素直な発言は当然アスカを怒らせる。

「んまっ、酷い。お母さん、シンジったら酷いよぉ」

 顔を真っ赤にして地団太を踏むアスカに、ユイは優しく微笑みかけた。

「アスカちゃん、大丈夫よ。こういうのは慣れと、そして愛情だから」

「愛情って好きってこと?」

「そうよ」

「やったっ!じゃ、絶対だいじょ〜ぶ。シンジはアタシの事が大好きだもんねっ」

「う、うん…」

 歯切れの悪いその声に、アスカの顔が少し歪む。
 あらら、もう破局なの。この二人は。
 無理矢理くっつけようとは思わないけど、こういうのってまわりで見てるのはいやなものね。

「で、でも…僕やっぱり…」

「やっぱり、何よ!もう私のことなんか!」

「だって、お刺身にソースなんていやだよっ!」

 その時、時間は止まった。
 シンジの心からの叫び。
 アスカはぽけっと口を開け、ユイは頬の筋肉がつりそうになった。
 なんだ、そういうことか。

「アンタ、馬鹿?お刺身にどうしてソースをかけんのよ」

「だって、さっきアスカが…」

「はぁ?アタシ、お刺身にソースなんかかけないわよ」 

「でも、お醤油じゃなくて、ウスターソースを使うって…」

 もう限界だった。
 ユイは横倒しになりバンバンと畳を叩いて笑い出した。
 シンジはすべての食品において醤油をソースに代えて食べないといけないのだと思い込んだらしい。
 まだわけがわかっていない二人の誤解を解くのにはしばらく時間がかかってしまった。
 ユイの笑いが治まるまで。



「よかったぁ。ハムエッグならいいけど、お刺身とかいか天にソースはいやだよ」

「そんなのアタシだってイヤよ。アンタ、じょ〜しきで考えなさいよ」

 ユイは思った。
 アスカは常識という意味をわからずに使っていると。
 きっとキョウコがその言葉をよく使っているのだろう。
 これ以上笑うと身体によくなさそうなので、ここは我慢。
 
「あ、そうだ。僕ちょっと行ってくる」

「どこへ?アスカも行くっ」

「え?でも、アスカの知らない人のとこだよ」

「誰んとこ?」

「あのね、幼稚園で一緒のヒカリちゃんの…」

 ぱんっ!

 アスカが卓袱台を叩いたが、手が小さいので可愛い音しか出ない。

「浮気っ!」

「何、それ?」

 シンジはけろりとした顔で聞き返した。
 さっきの会話の中では浮気の説明はされていなかったのである。
 
「浮気っていうのは他の女の子を好きになるってことよっ!」

「あ、そうなんだ」

 にこにこと頷くシンジ。
 それに引き換え、アスカの疑わしそうな顔といったら物凄い。
 この顔はニセウルトラマンが出てきたときに、テレビを睨んでいた時の表情と同じだった。
 
「じゃ、僕は違うよ。僕はアスカが好きなんだもん」

 聞いている母親の方が照れてしまうようなストレートな物言いである。
 だが、言っているシンジも告白を受けたアスカもまだそういう恥じらいを知らない。

「ふん。信じられますかっていうのよ。アタシもついてく。
 アンタが浮気をしてないかこの目で確かめてやるわっ」

 やる気満々のアスカを先頭に真ん中にシンジ、
 そして先方に迷惑をかけてはまずいので最後尾にユイも控えている。

「あ、違うよ。アスカ。そこ、左」

「わかってるわよ!知らなかっただけよっ」

 アパートから徒歩1分。
 ほんのすぐ近くの六軒長屋の一番奥が目的地だった。
 インターホンや呼び出しベルなどあるわけもなく、
 アスカは格子戸をごんごんと叩いた。
 ガラスがびりびりと震える。
 
「はぁ〜い」

 がらがらっと扉を開けたのは小学校高学年の女の子。
 長い髪をきゅっとくくった活発そうな美少女だ。
 そう、彼女が綺麗であることはアスカにもわかった。

「どちらさま?」

「アンタがシンジをゆ〜わくしたのねっ!」

 完全に場違いなビジュアルの白人幼女にいきなりまっこうから指さされて、
 洞木コダマは対応に困ってしまった。
 もとより、外人と喋ったこともない。
 その相手が日本語を使っていることすら気が付かないくらいだ。

「え、えっと、あの…お母さんいないの。困っちゃったな」

「ああっ、やっぱり困ってるっ。アタシはシンジの奥さんなのよ!」

「わっ、どうしよう」

「こら、シンジ。こいつの名前は何ていうのよ!」

「僕知らない」

「んまっ、名前も知らないのに好きになったのっ?信じらんない!」

 目の前で幼児に夫婦喧嘩をされてコダマはさらにうろたえる。
 ああ、やっぱり着いてきて良かったと、ユイは思った。

「アスカちゃん、いい加減にしなさい。ごめんなさいね、いきなりで」

 優しそうな大人に声をかけられて、コダマは一安心。
 
「い、いえ、そんなことないですよ。はい」

 現在、洞木家を精神的に支えている彼女だ。
 落ち着いてしまえば、同年代の少女よりも遥かに大人である。

「アスカちゃん、シンジのことを好きなのだったら、シンジを信用しなさい。
 あんまり疑いすぎると、嫌われちゃうかもしれないわよ」

 ユイの真剣な言葉にアスカの肩がびくんと震えた。

「ほ、ホント?」

「うん。本当よ。そうやって別れてしまった夫婦も多いわ」

 ユイはほんの少しだけ言葉を省略した。
 映画や小説では、という言葉を。
 浮気して別れた夫婦のことは少しは聞いたことはあるが、愛しすぎて鬱陶しがられたなんて物語の世界だけ。
 もちろんそういう例も世の中にはあるのだろうが、残念ながらユイの周りでそういう夫婦はいない。
 それにここのところはアスカにそこまで教える必要はないわけだ。
 
「げっ!」

 ユイの言葉は効果覿面。
 アスカは恐る恐るシンジを振り返った。

「し、シンジ?アタシのこと嫌い?」

 その返事は実にあっさりとしたものだった。

「ううん、大好きだよ。だってアスカは僕のお嫁さんだもん」

「えへっ」

 六軒長屋の洞木家の玄関先。
 突然現れた幼稚園児に夫婦喧嘩と仲直りを見せられ、コダマは困ってしまった。
 そして助けを求めるようにユイを見上げる。

「ふふ、ごめんなさい。人様の玄関先で」

「あ、あの、ご用件は…?」

 当然である。
 
「あら、そうね。シンジ、あなたでしょう?」

「うん。あのね、ヒカリちゃんにこれをって」

 シンジは手にしていた封筒を差し出した。

「はい?」

「えっと、幼稚園の先生からです」

「あ、なんだ。じゃ、ヒカリ呼んでくるね」

 コダマは身を翻して、中に入っていった。

「あ、あのさ、それってもしかして、ら、ラブレター?」

「へ?らぶれた〜って何?」

「そんなことも知らないの?えっとね、アンタの事が好きってお手紙に書くの」

「それがらぶれた〜なの?それじゃ違うと思うけど」

 幼稚園の先生に頼まれたのだと、シンジは説明する。
 もちろんユイにはわかっていたが、最初からアスカにちゃんと説明しないのは彼女の悪い癖。
 好奇心が強いのと面白がる性格は少し傍迷惑かもしれない。
 ただ面白がって見物するだけのためについてきたのではないことだけはわかるが。
 ラブレターについての二人のやりとりを微笑んで見ていた、ユイの耳に家の奥の方でこんこんと咳の音が聞こえてきた。
 そしてミシミシという階段がきしむ音。
 まだ何やら言いあいをしている二人に「こらもう止めなさい」と注意する。
 やがて奥から出てきたのは髪をお下げにした少女。
 彼女を見てユイはあれっと思った。
 病気だと思ったのに、パジャマでも寝巻きでもなく普段着なのだ。
 その少女の後ろにコダマも続いて出てくる。
 やはり姉らしく妹が心配なのだ。何しろちょっと意味不明の幼児カップルが相手なのだ。

「あ、えっと、シンジちゃんだったっけ?」

「うん、僕、シンジだよ。えっとね、これ先生からお手紙なの」

「ありがとう」

 シンジよりも健康そうな手で手紙を受け取る。

「ねぇ、シンジ。紹介しなさいよ」

「あ、うん。あのね、なんとかヒカリちゃん」

 シンジにはヒカリやコダマの姓が読めなかった。

「洞木、よ。こほん…」

 ふふふ、と笑うヒカリ。
 その後、少し顔を背けてこんこんと咳をする。
 アスカとしてはシンジがこの女の子の苗字を知らないことに嬉しさを隠せなかった。

「アタシ、惣流・アスカ・ラングレー!アスカって呼んでいいわよ!」

 シンジを押しのけるようにして自己紹介する。
 少し偉そうな態度なのは仕方がないとして、
 アスカが初対面の人間に自分から名乗りを上げるのは珍しい。
 
「私、洞木ヒカリ。あの…アスカちゃんって、幼稚園にいなかったよね」

 アスカのような容姿の園児がいれば目に付くはずだ。
 でも、ヒカリはまだ2日しか通園していない。
 だから自信がなかったのだ。

「うん、アタシはもうすぐドイツに行くの。だから幼稚園には行ってないの」

「あ、そうなの?ドイツってどこだっけ?アメリカのお隣?」

「違うわよ。フランスの隣。ヨーロッパよ」

 その時、コダマがとんとんと快活な足音を立てて階段を上っていった。
 そしてすぐに降りてきた時には、手に地球儀を持っている。

「ねぇ、これで見てごらんよ」

 玄関先に地球儀が置かれ、みんなが顔を寄せ合う。

「見て見て、ドイツはここよ」

 さすがに小学校高学年。
 コダマがすぐにドイツを指差す。

「うんうん、ドイツはここなのよ」

「へぇ、遠いんだ。ここに行くの、あなた?」

「そうよ、ここの……」
 
 目を皿のようにしてドイツを見るアスカ。

「あれ?どこどこ?ハンブルグがないよ。この辺なんだけど」

「え、アスカって地図に載ってないところに行くの?」

「違うわよ、ハンブルグはドイツなの。西ドイツよ」

「でもこっちのドイツにないよ。お隣のドイツじゃないの?」

「そっちは同じドイツでも行けないドイツなの」

「どうして?」

「そんなの知んないわよ。ど〜せ、大人の勝手でしょっ」

 確かにそうだ。
 ドイツが戦後東西に分かれたのは大人の都合。
 朝鮮半島だってそう。ベトナムだって。
 この子供たちにそんな大人の理屈がわかるわけがないし、わかって欲しくもない。
 この子たちが二度とあんな戦争を経験しないで済みますように…。
 子供たちを見ていて、そう願わずにはいられないユイだった。
 終戦はユイが2歳の時。
 ユイは覚えている。
 母の背におぶられ見た光景。
 まるで夕焼けのように山向こうの夜空が真っ赤に染まっていた。
 その時、その町に住んでいたユイの親戚は一家全員死んでいる。
 おぼろげな記憶の中の遊んでくれた従姉妹もその中にいた。まだ国民学校に入ったばかりの双子だったが。
 防空壕が直撃されたのだと、数年後母親に聞いた。
 丁度彼女たちと同じ年頃になっていたユイはショックを受け泣き明かした。
 はっきりとした記憶がなかったので、その遊んでくれた双子の女の子が実在していたのかも知らなかったのだ。
 母親が彼女たちが写っていた写真を見ていたのを横から見て思い出したわけだ。
 ベトナム戦争が続き、ソ連とアメリカが睨みあうこの時代。
 絶対に戦争は起こしたくない。
 ユイはそう思わずにはいられなかった。
 この子供たちのためにも。

 ハンブルグの一件は、コダマが地図帳を出してきてくれたので解決した。
 
「ほらね、おっきな港町だってママが言ってたもん」

 危うく地図に存在しない町に引っ越すものだと思いかけていたアスカが気を取り直した。

「凄く遠いところに行くのね。こんこん…ごめんなさい」

 また咳をするヒカリ。

「まだ病気治ってないの?」

「ううん、熱はなくなってるの。でも、咳が止まらなくて…」

 咳をしているヒカリの代わりにコダマが答える。

「うちね、今お母さんが入院してるから…」

「まあ、どこか悪いの?」

 つい口を挟んでしまったユイに、コダマとヒカリはよく似た微笑を浮かべた。

「ううん、妹ができたの。それでまだ入院してるんです」

「あ、そうなの。おめでとう」

「おめでとっ!」

「えっと、おめでとう」

「ありがとうございます!」

 コダマに続いて礼を言おうとしたヒカリだったが、また咳き込んでしまう。

「大丈夫?」

「うん、すぐにおさまる…こんっ…」

「お医者様には?」

「行ってないの。お金が…」

 ユイの質問にコダマが答えにくそうに小さな声で言った。
 
「お父様は?」

「お父さんは仕事。今、日雇いなの」

 どういう事情かわからないが、洞木家は経済的に困っているようだ。
 
「お薬は?」

「ただの風邪だから大丈夫だってお父さんが」

「飲んでないの?」

 おせっかいだとは思う。
 でも、医者の妻だったユイなのだ。
 放ってはおけない。

「とにかく風邪薬を…」

 そう言いかけて、ユイは口をつぐんだ。
 ただの風邪でいいんだろうか。
 もし間違えていたら。いや、風邪じゃなかったら?
 これは予感なのかもしれない。いや、もしかすると手前勝手な願望なのかも。
 そうは思いながらも、ユイは言わずにはいられなかった。

「今晩はうちでお食事しない?おばさんが風邪に負けないものつくるから」



 ユイは再び魚屋へ。
 二人分、増えたから。
 しかも病中の人間が食べるのだから、精のつくものが良い。
 加持鮮魚店のおかみは鰈を安くしてくれた。
 煮付けにしよう。
 4枚買って、1枚はくりさんにも持っていこう。
 
 コダマは恐縮していたが、食欲には勝てない。
 この数日、彼女が作れるものと父親が買ってくるものしか食べていない。
 母親の料理から遠ざかっているのだ。
 それにコダマはまだ良い。
 彼女には給食があるのだから。
 幼稚園を休んでいるヒカリのお昼には、コダマが作ったおむすびとお漬物だけ。
 これじゃ身体がよくなるわけがない。
 今日会ったばかりの人の世話になるのは少し恥ずかしいが、別に気後れはしない。
 このあたりは下町育ちの良さだろう。
 ユイのつくった鰈の煮つけを卓袱台の蝿除け網の中に入れ、置手紙を書く。
 第3青葉荘の碇さんのところで晩御飯を食べてます、と。

 今日はゲンドウの迎えにはシンジとアスカは行かさない。
 それではヒカリとコダマの居心地が悪くなってしまうから。
 それに一番大きな理由は、事前にシンジたちに喋られてしまうとゲンドウに警戒をさせてしまうから。
 ゲンドウには突然ヒカリちゃんと出逢ってもらう。
 ヒカリちゃんには悪いけど、あなたには武器になってもらいますね。

 ユイは勝負をかけていた。
 父親が失業し日雇い状態で収入が不安定。
 母親は出産で入院し、しかも重いお産だったので入院が長引くそうだ。
 出産と入院の費用を捻出しようと父親は必死になって働いているのだが…。
 コダマに聞いた話ではヒカリの病気のことを詳しく言ってないらしい。
 だから父親は熱が下がったことでもう大丈夫だと思い込んでいる。
 そんな父親に二人は病院に行く費用のことが気になって言い出せないのだ。
 幼い姉妹の健気さにユイは胸が詰まる想いだった。
 そのためにゲンドウにヒカリを診させようと思ったのだが、
 素直に頼んだだけでは逃げられてしまうかもしれない。
 いや、何とか逃げようとするだろう。
 ユイにはわかっていた。
 本当にゲンドウが医師を辞める気でいるならば、
 逆にヒカリを気軽に診てくれるだろう。
 心が揺れているからこそ逃げるのだ。
 ならば、逃げられないようにするまで。
 これでも、逃げようとするならば、私が身体を張る。
 どうすればいいかはよくわからないけどね。

「おばさん、美味しい!」

「本当?」

「うん、凄く美味しいよ。ね、ヒカリ」

「うんっ。美味しい」

 ところどころに咳は混じるが、ヒカリも嬉しそうに食べている。
 そんな彼女の様子を横目で見ながらアスカとシンジも楽しそうだ。
 別に物凄いご馳走が並んでいるわけではないが、楽しく食べることが一番のご馳走。
 ゲンドウを待たずに晩御飯を食べるのは、シンジには久しぶりだった。
 前の街では診療で忙しい父親と一緒に食卓を囲むことの方が珍しかったのだ。
 それがここに引っ越してきてからは毎日晩御飯は一緒。
 ほとんど父親と会話をすることはないのだが、
 家族全員で食べる晩御飯はシンジにとって何ものにも代え難かった。
 だが、今日の晩御飯は楽しい。
 ユイはゲンドウを待っているので、卓袱台には子供たち4人。
 別にお喋りが白熱しているわけではない。
 それでも子供だけの食卓というのはどこか楽しいものだ。
 
「ねぇねぇ、妹って名前決まったの?」

「うん。ノゾミっていうの」

 嬉しそうに答えるコダマ。
 ヒカリも嬉しそうだ。

「ヒカリは妹を欲しがってたもんね。これでお姉ちゃんになれるんだもん」

「うん、わた…こほんこほんっ」

 勢い込んで喋ろうとしたヒカリだったが、咳がそれを邪魔する。
 食べ終わったアスカがちょこちょこと歩いて行き、ヒカリの背中をさする。

「痛い?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 咳を出さないためにか、小さな声で礼を言う。

「そうだっ。ね、どっち見る?悟空と黄金バット」

 コダマとヒカリは顔を見合わせた。

「遠慮しなくていいのよ。白黒だけどね」

 ユイが優しく言葉を添える。
 すると、コダマが恥ずかしげに目を落とした。

「うちはないんです。今」

 あ、しまった。ユイは臍を噛んだ。
 そこまで考えてなかった。
 今ないってことは、質に入れたのか。
 どうしよう。変に慰めなんか言わない方がいいし。

「そっか、ないのね。じゃ、悟空にしよっ。おっもしろいんだからっ!」

 アスカは空気を読んでいるのだろうか。
 それとも無意識に?
 ともあれ、助かった。
 ユイの感謝を背にアスカはテレビの前に。
 ガチャガチャとチャンネルを回し、そのままシンジの横にちょこんと座る。
 その場所は最初に座っていた場所とは違う。
 これも無意識なのかしら。
 ユイはこれから訪れるはずのクライマックスのために緊張していた気持ちが和らいだのを感じた。
 うん、将来どうなるかはわからないけど、うちの息子のためにアスカちゃんは欲しい。
 この子なら、きっとシンジがくじけても背中をどやしつけてくれるだろう。
 そう思うと、すっと笑みが広がった。
 そして、左の頬にあの感触が…。
 あ、そういえば、アスカちゃんには片えくぼがまだ出てなかったんだ。
 どうしてなんだろう?
 母親の性ってことなのかしら…。
 くりさんに話したら笑われるでしょうね、きっと。
 ユイは片えくぼを浮かべながら、小さな恋人たちの背中を見つめていた。



 こつ、こつ、こつ……。

 来た……。
 ユイは息を呑んだ。
 あの足音のリズム。
 絶対に間違えやしない。
 毎日あの足音が楽しみなんだから。
 あのリズムがシンジの軽やかな足音に雑じる、ユイにとって絶妙のアンサンブルを。
 ただし、今日はいつもとは違う。
 胸が苦しい。喉が渇く。
 お願い、あなた。
 お医者様をすることが貴方の夢なんでしょう?

 がちゃり。

 扉が開いた。

「今、帰った」

 玄関先にぬっと立つ仏頂面の髭男。
 ゲンドウを見て、コダマとヒカリがびっくりしたのは仕方がないと言える。
 ただし、ゲンドウの方も驚いたのだ。
 シンジとアスカの迎えもなく一人寂しく帰宅すれば、家の中には見慣れぬ少女が二人増えている。
 この前はいきなり金髪美人に土下座された。
 一人で帰宅するのはしばらく避けたほうがいい。
 彼が咄嗟にそんなことを考えていたなどとは、子供たちにわかるわけがない。
 
「おかえりなさい、お父さん!」

「おかえり、お父さん!」

 シンジとアスカの声が重なる。
 それを聞いてようやくお客様二人は、玄関先の大男が闖入者ではなくこの家の主人だと思い出した。
 
「あ、あの、こんばんは」

「こんばんは、こほん…」

 ヒカリが遠慮がちに咳をする。
 その時、ゲンドウがかすかに身じろぎしたのをユイは見逃さなかった。
 
「あなた、突っ立ってないで中に入りなさいよ。お客様が困っちゃうでしょ」

「ああ、うむ」

 ぎこちなく頷くと、ゲンドウは靴を脱ぎ、歩み寄ったユイに弁当の包みと汚れ物を渡す。
 その間に何度かちらりとヒカリの方を見ている。
 それを確認したユイは心の中でしっかり頷いていた。
 やっぱりこの人はお医者様。あの咳が気になるんだ。
 でも、だからといってこっちから追いやるのは駄目。
 せいぜい水を向ける程度にしなきゃ。

「お母さんはご出産で入院してて、お父さんは朝から夜遅くまで働きに出てるんだって。
 だから今晩はご招待したの」

「うむ…そうか」

 その時、コダマとヒカリが目配せをした。
 一家団欒の時間だからお邪魔をしてはいけない。ここらで帰りましょうと。
 そして、言葉を出そうとした時、アスカが先に喋った。

「ねぇ、7時30分から何か見る?」

「あ、う、ううん。もう帰らないと。それにお風呂にも行かないといけないから」

 まずい、このまま帰られちゃいけない。
 ユイは水を向けることにした。

「ああ、そうか。ヒカリちゃん、ずっと入れなかったんだものね。でも…大丈夫?」

「う、うん、大丈夫…こほっ…です」

「そう?だけど、お医者様にも診てもらってないんだから…」

 言葉はヒカリの方を向いているが、訴えているのはゲンドウへ。

「何?」

 それは意識せずに出た言葉だった。
 自分の声が聞こえて、ゲンドウはしまったと思った。
 こういう話は避けないと…。
 しかし、あの咳は…。

 3秒もかかっていなかっただろう。
 だが、そのわずかな時間の中でゲンドウは葛藤していた。
 自分はもう医者ではない。
 しかし、あの咳を見過ごしにはできない。
 このまま放置していいのか?自分が逃げるために…。

 ゲンドウは目を瞑り大きく息を吐いた。
 そして、彼はつかつかとヒカリの前に歩み寄った。
 彼女の前に膝をつくと、無愛想もいいところな顔つきで言う。

「口を開けるんだ」

「え…」

 明らかに怯えているヒカリ。
 ユイは思い通りに動いてくれた嬉しさもさることながら、相変わらずのつっけんどんさを見て軽く溜息をついた。
 これはやはりいい看護婦さんを探さないと…。
 流石に姉だ。コダマがさっと二人の間に入った。

「あの、すみません…」

「よかったねっ」

 コダマの背中でアスカの声がした。
 振り向くと、アスカがヒカリの肩をぽんぽんと叩いていた。

「あのね、シンジのパパはお医者さんなんだよ。
 アタシのグランマが死にそうだったのを助けてくれたんだよ。
 ヒカリのごほんごほんも治してくれるよ」

「えっ、お医者さんなの?」

 明らかに医者のイメージとは違うゲンドウに戸惑うコダマ。

「う、うむ」

 仕方なしに頷くゲンドウ。

「お金がないんですけど、いいですか?」

「金などいらん」

 ユイは嬉しかった。
 が、続くゲンドウの言葉でその嬉しさもかなり退いてしまったのだが。

「手遅れになっては大変だからな」

「あなたっ!」

 慌てて駆け寄るユイ。

「この咳は良くない。ぜんそくか…いや、推量はいかん」

「あ、あのっ」

 さすがにコダマの年齢ともなると、ゲンドウの言葉の意味がわかる。
 
「ユイ。懐中電灯だ。大きくてもそれでいい」

「はい、あなた」

 ユイは懐中電灯が置いてある玄関脇の戸棚ではなく、押入れの方に向かった。
 そして、押入れの襖を開けると、下の段に入っているあの旅行鞄を引っ張り出す。

「何をしている。早くし……」

 言いかけたゲンドウの口が止まる。
 ユイが開いた鞄の中身には黒い往診用の鞄がそっくり入っていた。
 その横にはアイロンがあてられ綺麗に畳まれた白衣も入っている。

「ユイ。お前は…」

「聴診器も要りますよね」

 ゲンドウは瞑目した。
 鞄の中身は本ではなかった。
 捨てる様に言ってあった医療器具だったのだ。
 それを見た途端、ユイの気持ちは痛いようにわかった。
 医者を続けさせたいという彼女の気持ちが。

「ね、ヒカリ。上を脱がないとダメよ。ほら、早く」

 コダマがヒカリを急かす。
 生活費が少ないから、大丈夫だと言う妹の頑張りに甘えてしまっていた後悔がコダマを苦しめていた。
 小児喘息がどれほど辛いものかは同級生の姿を見てよく知っている。
 工場のすぐ傍にあるこの街では呼吸器を痛める子供の数が多いのだ。
 まだ公害病という社会現象が一般化されていない時代だった。

「シンジは見ちゃダメ」

「へ?どうして」

「アンタ馬鹿ぁ?れでぃが裸になるのを見ちゃダメでしょうが」

「だって、お風呂だって…」

「だってもくそもないのっ。アンタはあっちむいてなさい」

「う、うん」

 納得できないままにシンジは背を向ける。

「あ〜、と言ってごらん」

 もはやゲンドウは目の前の患者しか見ていなかった。
 ヒカリの上着を手にしたコダマは手にじわりと汗をかいている。

「よし、もう服を着ていいぞ」

 ゲンドウは聴診器を外した。

「おじさん!あ、えっと、先生。ヒカリは?」

「ここでは詳しくはわからん。大きな病院で診てもらったほうがいい。
 今なら手遅れにならんで済むと思う」

「本当ですか!で、でも…」

 コダマは躊躇った。
 お金がない。

「父親は仕事だと言ってたな。まだ帰らんのか」

 コダマは柱時計を見た。
 8時過ぎ。
 もう帰っているはずだ。
 その旨を伝えると、ゲンドウは黙って立ち上がった。

「案内してくれんか。話をしてくる」

「はいっ」

 コダマが大声で答える。

「あなた、私も…」

「お前はここにいろ。子供たちを見ていてくれ」

「でも…」

「ふん、俺にそういう話ができるか不安なのか?」

 ゲンドウは自嘲するように口を歪めた。

「俺は医者だ。言うべきことは言う」



 30分後、ゲンドウとコダマはアパートに戻ってきた。
 左の頬を少し腫らし、少し喋りにくそうに彼は言った。

「今から社長のところに行ってくる」

「伯父さまの?」

「ああ、少しやりあって来る」
 
 にやりと笑ってゲンドウは背中を向けた。
 その背中をコダマが憧憬を込めた眼差しで見送る。

「かっこいい…」

 10歳やそこらでゲンドウのことを理解されては困る。
 自分がそうであったことなど完全に忘れ、ユイはむっとなった。
 そしてユイは好奇心と嫉妬をも併せて、コダマに何がおきたのかを訊ねた。

 洞木家の主人にゲンドウはヒカリに喘息の疑いが強いことを伝え、検査を強く勧めた。
 酒の入っていた彼はゲンドウの胸倉を掴み、いい加減なことを言うなと凄む。
 止めようとしたコダマにさらに興奮してしまった父親はゲンドウを殴ってしまうが、
 ゲンドウは蚊にでも刺されたかのような表情で粘り強く病状を説明する。
 このままでは悪くなる一方だ、娘のためにもこの町を離れる方が良いと。
 そして、金の心配をする父親に風呂に入ってきて酒を抜けと命令した。
 その上で就職を一緒に頼みに行ってやるとそっけなく言う。
 
「ははぁ、それで伯父さまのところか。なるほどね」

「何がなるほどなんですか?」

「うん。きっと自分の代わりにあなたのお父さんを雇えと要求しに行ったんだと思うわ」

「代わりって。じゃ、先生は?」

 おやおや、先生?この娘ったら、あの人を完全にお医者さまにしちゃったわね。

「今はね、あの人工場で働いてたの。でも、これからはお医者さまに戻るから」

「そうなんですか…」

 わかったようなわからないような表情で、コダマが首を捻った。
 その表情が可笑しくてユイは「ふふふ」と笑みを漏らし、それから大声を上げた。

「ああっ、いけない」

「どうしたんですか」

「ほら、見て」

 ユイの視線の先は奥の4畳半。
 すでに時計は9時を回っていて、3人の5歳児は頭をくっつけるようにして畳に寝転がっていた。

「こら、みんな歯を磨きなさいっ」

「ヒカリったら…」

「どうする?このままうちで寝かせる?」

「いいえ、お父さんが心配すると思いますから。連れて帰ります」

 ああ、いい子だ。
 本当に長女って感じで。
 結局、ユイはヒカリを背負い、六軒長屋まで歩いた。
 そして、別れ際にコダマがまたもユイを驚かせるようなことを口走ったのだ。

「おやすみなさい。本当にありがとうございました。
 あの…先生にもよろしくお願いします」

 ぴょんと頭を下げたしっかり者の小学4年生にユイは笑みを浮かべた。

「ありがとう。こっちの方がお礼を言わないといけないのよ」

「はい?」

 怪訝な顔のコダマにユイは右手を差し出した。
 わけがわからないままに、コダマはその手を握りしめた。
 少なくとも、何かすべてがうまく行きそうな気がする。
 それもこれもこの碇家の人々と知り合ったおかげ。
 ユイの方もそれとは逆のことを考えていた。
 まさかこういう形でゲンドウが医者に戻るとは思ってもいなかった。
 これは彼女たち姉妹のおかげだと。

 長屋からアパートまでの短い距離をユイは踊りながら歩きたい気分だった。
 お医者さまのあの人が帰ってくる。
 やっと、帰ってくるのだと。






 「ヒカリ、寝た?」

 「ううん、まだ起きてるよ」

 「あのね、お姉ちゃん、決めたの」

 「何を?」

 「大きくなったらね、私、看護婦さんになる」

 「へぇ、こほん…そうなの」

 「あ、ごめんね。早くおやすみなさい、ヒカリ」

 「うん、おやすみ、お姉ちゃん」

  コダマはもう一つ決めたことをヒカリに言わなかった。
  それはどこの病院の看護婦になるか。
   
  私、あの先生のところで看護婦さんになるんだよ…。

 

 

次を読む


 

携帯文庫メニューへ