サードインパクト直前。
 誰が敵かわからない状況で凄惨な戦いが繰り広げられた。
 戦後解散させられた戦略自衛隊によるネルフ職員大虐殺もそうだったが、逆に戦自側にも多数の死傷者がでた。
 エヴァンゲリオン弐号機による艦艇の破壊である。
 かつて第2次世界大戦の折、原爆を投下したエノラ・ゲイの搭乗員の名前は日本人にも知られている。
 だが、恨まれ、憎まれることはあっても、肉体的に危害を与えられることはなかった。
 戦勝国の人間であったことが大きな原因ではあったが、元より彼らの軍人としての任務であったということも事実である。
 そのことに割り切れない思いは強いが彼らを殺傷してもどうしようもない、恨みが晴らせない、となってしまうわけだ。
 それに搭乗員は一人ではなかった。
 そのことも彼らに幸いしたかもしれない。
 だが、惣流・アスカ・ラングレーの場合は違った。
 エヴァンゲリオン弐号機を操縦しているのは彼女一人。
 そのことは関係者の中であまねく知れ渡っている。
 そして彼女が、その力を用いて殺してしまった戦略自衛隊の数は…、実はわからないのだ。
 実際に戦闘で死亡したのか、赤い海から帰還しなかったのだ。
 艦艇に搭乗していた者も、ネルフ侵攻に向った者も、そしてそれを命じた者も。
 つまり、戦略自衛隊の関係者全てが今現実に存在していないのである。
 サードインパクト前に死亡していた人間が還ってこなかったことは他の場合と同様だったのだが、
 まるで選別されたかのように彼らだけが姿を現さなかった。
 その理由は誰にもわからない。
 わからないのだが、とにかくエヴァンゲリオン弐号機によって艦艇が破壊されたことだけは事実として残ったのだ。
 戦略自衛隊の隊員たちにも家族もいれば、友人や恋人もいる。
 彼らの恨みは当時の状況が明らかにされない以上、戦った相手に向けられたのは当然だ。
 その戦った相手というのはたった一人の、外国人の少女だと知ってさらに憤懣を抑えられない者も出てきたのだ。
 事実、戦後彼女が保護された病院で、面会を強要してきた人間が多数いて、
 さらに三度病室近くまで押し入られている。
 その中には凶器を持った男もいたのだ。彼は弟の仇だと取調べで悪びれずに語った。
 もし、日本政府が戦自寄りのものであればもしかすると彼女は放置され粛清されていたかもしれない。
 だが時の新政府は穏健派であった。
 サードインパクトからの復興が最大の目的であり、且つ他国との軋轢は避けねばならない状況である。
 彼女が殺害されることで、EUがどんな難癖をつけてくるかわかったものではない。
 そこで彼女を保護するとともに、EU側に引取りを要求したのは当然の成り行きだった。

 その3ヵ月後の深夜、入院していた病院から国際空港に秘密裏に護送され、
 惣流・アスカ・ラングレーという名前だった女を乗せた特別機は轟音とともに夜空に姿を消した。

 

 

Das Geschenk vom Christkind

− T −


 4年近くの月日が流れた。
 西暦2020年12月23日。
 ミュンヘンには小雪がちらついている。
 積もることはないような気がするが、何しろ初めての土地だ。
 そんな勘は当てにはならないとも思う。
 青年はコートの襟をそばだて、そのついでに顎鬚を擦った。
 その髭は父のそれよりも腰が弱く、いささか貧相だと自分でも思っていた。
 湿気を帯びるとだらしなく垂れ下がってしまいそうだ。
 
 四季が戻った日本の冬を経験した青年にとっても、この欧州の地の冬の厳しさは格別だった。
 彼はほとんど下宿にはいなかった。
 下宿には眠りに戻るだけだ。
 学業以外の時間は人探しに充てている。
 そのために日本にいる間は肉体労働で稼ぎに稼いだのだ。
 しかし、その蓄えもいつかは尽きる。
 尽きれば彼も働かねばならない。
 そうなれば、彼女を探すことが難しくなってしまう。
 だからこそ、彼は足を棒にして捜し歩いた。
 何しろ、自分の眼以外に頼るものがないのだから。

 もちろん、日本にいた時に彼は手を尽くした。
 彼女がドイツのどこにいるのか。
 いや、もしかするとEUの他の場所かもしれない。
 そこまで考えてしまうと、アメリカやアフリカの可能性だってある。
 ただ、彼は断片的な情報を持っていた。
 その情報によれば、彼女はEUの、しかもドイツにいたことになっている。
 日本から送り返された時は。
 それ以降の情報はない。
 その筋の人間が極秘に調べてくれたのだが、日本政府には一切彼女の情報は入ってこないことになっている。
 それは当然だろう。
 彼女への個人的報復テロを恐れて国外退去をさせたのだから、その国に彼女の居場所を教えるはずもない。
 ましてEU内でも、ゼーレ残党による政治活動を危惧して、彼女の存在を隠すと明言していたのだから。
 事実、惣流・アスカ・ラングレーという14歳の少女は日本で病死したことになっている。
 彼女の戸籍は死亡により消されてしまったのだ。
 ということまでは日本でわかる事実だった。
 したがって、戸籍やパスポート、名前などで彼女を探すことは不可能なのだろう。
 考えたくもないが、顔ですら整形されてしまっているかもしれない。
 となれば、彼が彼女を探し当てることなど不可能であろう。
 だが、彼は誓ったのだ。
 あの朝に。

 空になったベッド。
 それだけではない。
 彼女の使っていた日用品の全てが姿を消していた。
 櫛やティッシュボックスすらでさえ。
 真っ白なシーツには皺一つなく、昨日彼女が残した痕跡など髪一本でさえ見えない。
 少年は絶叫した。
 彼女の名前を。

 その日から彼は二度と彼女の名前を口にしなかった。
 男は黙って自分の為すべきことをするだけだ。
 自分が男であると自覚した今、彼は己の力で彼女を取り戻そうと決意したのだ。
 当然、彼にも保護という名目で監視の目がついた。
 政府にあてがわれたマンションの一室に同居するのは、公安部の田中さん。
 但しその田中さんは日替わりでローテーションする。
 3人の田中さんが存在したわけだ。
 最初はエヴァンゲリオンの操縦者であったためか、それともネルフ司令の息子だったからか、胡散臭い目で、また少々の警戒心を持たれていた。
 だが、少年は彼らの存在を疎ましくも思わず、逆に申し訳ないといった謙虚な態度で応じたのだ。
 そして、一ヶ月ほどが過ぎた時、少年はその日当番の一番年長の田中さんにとんでもないことを切り出したのだ。

 高校を卒業すれば、ドイツに留学したいのだが自分にそんな自由はあるのかどうか。
 その資金を貯める為にアルバイトをしたいのだが、許可されるのかどうか。
 その最終目的は彼女を探すためである。

 田中さんは呆気にとられた。
 彼は返事はすぐにできないと告げて、他の田中さんに相談する。
 呼び出された二人の田中さんと部屋に篭って密談をする中、少年はただじっとベッドで天井を見つめていたという。
 結局、田中さんたちは上長に報告し、その上長も自分で結論が出せず、さらに上の判断を仰ぐ。
 最終的な判断は外務省であったらしい。
 黙認しろ、と。
 支援も妨害もしない。
 18歳までは保護するが、その後国外に出るのなら却って好都合ではないか。
 少年がどこで野垂れ死にしようが、自分の意思で出国するのだから問題はない。
 サードインパクト後、エヴァンゲリオンを研究していた機関も少年にはもう何の利用価値もないと明言している。
 となれば、政府としては勿怪の幸いだ。
 保護監視のための経費も削減できるではないか。
 しかも彼は自分で渡航費用を稼ぐというのだ。
 その結論は年長の田中さんから少年にもたらされた。
 彼はその決定にただ丁寧にお辞儀をしただけだった。
 田中さんは同僚に「まさか、あの子供がここまで読んでいたとは思えんが…」と呟いたが、
 実のところ少年も驚いていたのだ。
 だが、驚き、喜んでいるだけでは何も進まない。
 少年は政府に指定された高校に進み、放課後はアルバイトに明け暮れ、帰宅すればドイツ語を必死に学んだ。
 いつも音楽を聴いていた彼のヘッドフォンから漏れてくるのはドイツ語だった。
 チェロを弾こうとも音楽で心を癒そうとも思わなかった。
 そんな暇があれば、ドイツ行きの準備に当てなければならない。
 それに彼にはそんな贅沢が許されなかったわけでもあったが。
 何しろ彼には生活費すら与えられていない。
 学費も食費も田中さんたちが手配していたのだ。
 田中さんたちは彼の行動がいつまで続くか賭けをしていた。
 1年ももてばいい方ではないかと思っていたが、少年の日々は判で押したように続いていく。
 きゃしゃな身体も肉体労働に鍛えられ、背もぐんぐんと伸びた。
 体格のいい田中さんたちとも遜色がないほどに。
 少年が青年と呼んでも差支えがないようになった頃、彼は高校を卒業した。
 ついに学校では一人の友人も作らなかったが、既に田中さんたちとは奇妙な友情が生まれていたのである。
 長身でエリート風の田中さんはドイツ語ができた。
 青年のドイツ語の先生は結局彼であった。
 そのためにその田中さんが余暇を見つけてこっそりと外国語教室に通いドイツ語の腕を磨いていたことは
 他の田中さんは知らぬ顔をしていて青年には一言も漏らさなかった。
 角刈りで体育会系の田中さんは自分の当番のたびに青年の貯金箱に500円玉を放り込んでいた。
 そのために彼は禁煙をせざるを得なかったが、そのことで奥さんには喜ばれたという。
 年長の田中さんはまるで青年が自分の息子のように話し相手になっていた。
 資料を読むと青年は実に幸薄い生い立ちではないか。
 幼児の折に母に死なれ、その後まさに父に捨てられたと言ってもよい。
 そしてようやくその父に呼び出されたときには戦うことを要求された。
 その上、愛する人との仲を引き裂かれたのだ。
 セカンドインパクトの時に妻と子供を失った彼は、青年に家族を重ねてしまったのかもしれない。

 青年が旅立つ時、3人の田中さんは一人ずつ握手をし、がんばれよと肩を叩いた。

 日本を離れた時、青年は彼らのためだけに涙を零した。
 他には何の思いも祖国に残していなかったのである。



 さて、青年は朝からずっとマリエン広場の石段に陣取りまるで彫像のように動かなかった。
 腰を上げるのは、トイレと食物の調達だけだ。
 じっとしているのは寒いのだが、着込めるだけ着込んでいるし逆に動き回ると腹が減る。
 彼の頭の中には田中さんからのアドバイスがリフレインしていた。
 「張り込みっていうのはなひたすら我慢するんだ。動き回ってもまず結果はでない。
 ここだと決めた場所で何日かがんばる。それで駄目なら別の場所に移動するんだ」
 青年はその通りに実行していた。
 ミュンヘンにやってきて、その翌日から場所を決めて彼女の姿をひたすら待ち続けていた。
 もちろん、それだけではなく他の手も試してみたのだが、どれも絶望的だったのだ。

 まずゼーレについては元々秘密組織的な部分が強く、一般市民にその存在をほとんど知られていない。
 さらにサードインパクト後の位置づけは、狂信的な政治結社とされていて、
 それに関わっていたとは口が裂けても言えないような状況となっていたのだ。
 事実、青年が親しくなった学友にゼーレに関係していた人を知らないかと尋ねてみたところ、
 その日から口を聞いてくれなくなったほどだ。
 青年は苦笑し、別の方法を取ることに決めた。
 情報を追うよりも自分の眼でと考えた彼はサングラスを入手した。
 街を行きかう人々を眼で追っているのが不審人物だと警官に職務質問されるからだ。
 
 ミュンヘンにはいないのかもしれないなぁ。

 足を細かく震わせながら、青年は少し弱気になった。
 そしてそんな自分に「アンタ馬鹿ぁ?」とそっと呟く。
 そう、まだ3ヶ月ではないか。
 自分は4年近くも待ったのだ。
 その4年間がたった3ヶ月ほどの苦労で報われるわけがない。
 
 アスカの父親と義母は既に引っ越していた。
 ちょうどアスカが日本を離れた頃らしい。
 近所の人の話では、ベルリンだ、アメリカに渡ったのだ、と噂の域を出ない。
 青年はEUの差し金だと直感した。
 頼みの糸の一つはそこで切れた。

 頼みの細き糸はまだあった。
 惣流キョウコの墓である。
 これは日本で調べがついていた。
 だが、惣流博士の墓があると明記されていたウルムのその墓地には、彼女の墓碑銘はどこにもなかったのだ。
 管理者の話では3年以上前に撤去されたとのことで、誰がそうしたのかと言う記録はまったく残っていない。
 これもまたEUの仕業だろう。
 おそらくは墓碑銘を変えて、彼女の住まう街に改葬されたに違いない。
 青年は惣流博士の命日にミュンヘン中の墓地を走り回った。
 そのとんでもない墓地の数にぼやきながら。
 花を供えてあるお墓の墓碑銘を読み、“Kyoko”や“Soryu”というスペルを探した。
 無論その結果は無駄足で終わっている。

 彼がミュンヘンに拘ったのは、彼女の残した一言だった。
 少年の胸の中で少女は呟いた。

「もしミサトがオクトーバァフェストゥに来てたら…、すっごく喜んだのになぁ」

「え…、オクトーバー…何?」

 聞き返した少年に少女は再び同じ言葉を繰り返さなかった。
 その代わりにぐっと首を近づけて、唇を押し当てたのだ。
 そうなるともう少年は言葉の意味などどうでも良くなってしまった。
 そして、彼らは再び身体を重ねた。
 
 あの夜のことを思い出し、青年は首筋を熱くさせた。
 その数時間後の別れを知らずに、少年はただ情熱の赴くままに少女を抱いたのだ。
 少女は別れを知っていた。
 知っていたからこそ少年を巧みに誘ったのである。
 それは思い出を作るためか、それとも…。

 青年は苦笑した。
 絶対に決まっている。
 あんな別れ方をすれば、いくら情けない少年でも奮起するだろう。
 彼は少女の掌上で踊らされているのか。
 それでもいい。
 例え一生彼女を追い続けることになっても…。

 やめた。
 彼は大きな欠伸をした。
 喉から肺に冷たい空気が入り込んでくる。
 俺は絶対に見つける。
 今日が駄目なら、明日があるじゃないか。
 年嵩の田中さんもそう言っていた。
 
 青年は立ち上がり、さりげなく屈伸運動をする。
 このままでは膝が固まってしまいそうだ。
 日本人と違って全体的に周囲に無関心を装うが、それでも何人かの目は青年を胡散臭げに見ている。
 182cmの長身は珍しくもない街だが、明らかに東洋人である青年はいささか目立つ。
 サングラスに髭面という風体も問題があるのだが。
 
 少女の言っていた“オクトーバァフェストゥ”が、
 ミュンヘンで10月に行われるお祭りのことだと知ったのは高校1年のときだった。
 既にドイツへ彼女を探しに行くことを決めていた少年がその目的地を決めたのもその瞬間だ。
 少女はそこにいるつもりだと匂わしたのだ。

 はっきり言ってくれればよかったのにと今でも思うが、あの時の彼女ではあれが限界だったのだろう。
 EUに送還されてから自分がどうなるのか、何もわかっていなかったはずだから。
 だから彼女は約束を求めなかった。
 少年の一生を束縛することになるから。

 青年は腰に手をやり、ぐいっと胸を後ろに反らした。
 小さく骨が鳴る。
 だめだなぁ、運動不足だ。
 オクトーバーフェストの時は町中を駆けずり回り、そしてここぞと思う場所で張り込みを繰り返した。
 時には張り込みにならず、酔いつぶれた日もあったが。
 その時、彼は思ったものだ。
 ミサトさんの肝臓って尋常じゃなかったのかも、と。
 確かにこの祭りに参加していたなら大喜びをしていただろうなぁと考えると、
 急に涙が溢れてきて青年は真っ赤な顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
 あの、酒好きの姉はやはりあの戦闘の中で命を落としたのだろうか。
 それとも赤い海から還る気がなかったのか。
 あの頃、少年と少女はよくそのことを話題にしたが、結局疑問は解決されることはなかった。
 ただわかっているのは、彼女はもうこの世にはいない。
 それだけだった。
 まだ20歳にはなっていないが、ここはドイツだ。
 ビールは16歳から解禁なのだ。
 彼女もこのビールを飲んでいるのだろうか。
 そんなことを思うとまた泣けてきた。
 自分が泣き上戸だったとは、意外というか何というか。
 あの両親のどちらかがそうだったのだろうか。
 もしかすると父親かもしれない。
 それを証明するために、一度でいいから彼と杯を交わしてみたかった。
 その連想は彼をさらに泣かせた。
 泣きながら飲む東洋人の青年に、周りのドイツの人たちは肩を叩いてもっと飲めと笑う。
 その日と、そして次の日は探し人どころではなくなってしまった。
 だが、それはそれでよかったとも思う。
 こういうのがガス抜きというものなのだ。
 体育会系の田中さんに“たまにはガス抜きしろよ”と言われたことを思い出した。
 二日酔いでがんがんする頭で。

 青年が張り込みをしているのは、ミュンヘンで一番のクリスマスマーケットである。
 マリエン広場のこのマーケットは夜の8時半まで大賑わいだ。
 観光客も多いが、何よりこれだけの人が出入りするのだ。
 彼女を見つけ出す可能性が高いというものだ。
 このマーケットができてから、彼は時間を見つけてはこの場所に来ている。
 クリスマスを祝うためのものを彼女が買いに来るかもしれない。
 ショッピングセンターという手もあるが、そっちの考えを彼は捨てた。
 こういう市場のような場所で買出しをする方が彼女に似合っているような気がしたからだ。
 だから彼はずっとこの場所で彼女を待ち続けることにしたのだ。
 しかし、間が悪いのか、この街に彼女がいないのか。
 12月23日にもなるというのに成果はまったくなかった。

 青年はごった返すマーケットを見て苦笑する。
 みんな幸福そうに見える。
 クリスマスというものが日本との捉え方がまるで違う。
 もっともこちらは本家本元で日本の場合はその表面的な部分だけをとりこんでイベント化しているのだが。
 ヨーロッパでの、少なくともドイツでのクリスマスは家族のためのものだ。
 何故なら青年はドイツ以外の国にはまだ足を踏み入れていないから比較しようがない。
 彼は同じ大学のインドからの留学生に聞いた。
 この国で、異教徒でひとりぼっちの者はクリスマスにはすこぶる疎外感と孤独を味わうことになる。
 イヴの昼以降は店という店が閉まってしまい、みんな自分の家族だけでクリスマスを過ごす。
 食料だって買いだめしておかないと大変なことになるぞと、2年目の冬を迎える彼はアドバイスしてくれた。
 だが、まだ青年は食料の買いだめをしていない。
 そんな気分になれないのだ。
 クリスマスイヴにはまだ一日あるが、彼はもう孤独感を大きく味わっている。
 特にクリスマスマーケットという、幸福を求める場所でずっと張り込み続けているからだろう。

「Frohe Weihnachten ……、か…」

 青年は思わず呟き、そして溜息を吐く。

 クリスマス、おめでとう。
 俺には言う相手が誰もいないってことだ。
 もっとも、そんなことを言いたい相手はこの世界中でただ一人なんだけどな…。

 今、彼はこの世でたったの“ひとりぼっち”。
 青年にとって日本であっても異国であってもそんなに違いはなかった。
 誰も彼も自分を疎外する。
 彼はただ彼女と“ふたりぼっち”になりたいだけなのに。

 彼はぶるるっと身体を小さく震わせた。
 寂しげなことを考えた所為か、寒さが急に身に染みてきた。
 青年はマーケットの中の屋台を眺めた。
 グリューワインを売っている屋台である。
 ここに日参したことで、青年はグリューワインの味を覚えた。
 香辛料一杯の温めて飲むワインである。
 最初は不気味だったが喉に馴染むと病み付きになる。
 何より身体が温まることが嬉しいではないか。
 一気に呑まずにちびちびと陶器のカップを傾け、飲み干すと屋台に返しに行く。
 返してもらったコップ代で食べ物を買ったりする。
 この時も青年は体操を終えた後に、そのグリューワインを呑みに行こうとしていたのだ。

 一瞬、青年の時間が止まった。

 雑踏の中、まるでナイフで切り裂いていくかのようにさっさと歩いて行く女性の後姿が見えた。
 その髪は綺麗なブロンドで彼女のような赤金色ではない。
 だが、その後姿は彼の記憶に刻み込まれているものだ。
 学生鞄を肩に引っ掛けるようにして、自分の3mほど先を胸を張って歩いていた少女。
 その姿と同じだった。
 自分がその時よりも20cm以上背が伸びたために、
 彼女もそれなりに成長しているものと思い込んでいた。
 ところが、その後姿の女性はあの日の頃の姿と変わらないではないか。

 青年は咄嗟に動けなかった。
 また、いつものように人違いなのだ。
 そんなことも思ったのだが、それよりも身体が言うことをきかない。
 まるで夢の中にいるかのように、彼はぎくしゃくと足を動かした。
 このままでは見失ってしまう。
 焦れば焦るほど、先には進まない。
 そんな風には思ったが、実際には数秒しか遅れていなかった。
 そして、女性の後姿が消えた方に向って人ごみを掻き分けて行く。
 屋台で買い物をしているのか、それとも突っ切って行っただけか。
 前者だった。
 5mほど前方。
 女性はチョコレート細工屋にいたのだ。
 青年は彼女の顔が見える位置に移動した。
 その横顔が彼の目に飛び込んできた。

 いたっ!

 彼女がそこにいる。
 髪の毛の色は赤みを失ったが、表情や身体つきは変わらない。
 彼女と再会できたら、最初に何を言おうか。
 いろいろと妄想していたのだが、もう何も考えられない。
 とにかく、彼女を捕まえるんだ。
 すべてはそれからだ。

 あの少年の頃とは大違いですぐに方向性を見出した青年は足を踏み出した。
 だが、二歩進んだ時、彼の足は止まってしまったのだ。
 懐かしい彼女の言葉を聞いたために。
 感動したからか?
 違う。
 彼女がとんでもないことを店の人に喋ったからだ。

「Gib mir bitte eine mit voller Schokolade.  Meine Tochter liebt so eine」
 
(たっぷりチョコのついているのを頂戴ね。私の娘の大好物なんだから)

 娘。
 私の、娘、だって…!







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