彼方からの手紙

(4) 〜 (6)


(4) 2016年5月




 ママ、母の日、おめでとう。
 間に合ったかしら。お店は大丈夫って言ってたけどね。
 こういうのに遅れるのってイヤでしょう?でも、早すぎても感じが出ないし。
 もし、遅れてたらごめんなさい。
 ええっと、花は贈ってません。造花は気分が出ないし、生きてるのは難しいでしょ。
 だから、絵で我慢してね。3種類あるけど、誰が描いたかわかる?
 私と、シンジと、レイの3人で描いたのよ。全問正解なら賞品をあげる。


 アスカ、ありがとう。間に合ったわよ。金曜日の夜に届いたからぴったりのタイミングだったわ。
 でも、変なデザインのエプロンね。日本の母親はこういうのをみんな着るの?
 割烹着って漢字で書かれてもねぇ。発音すらできないわ。
 ハインツは珍妙な顔で見るし、シュレーダーは大笑いしてくれるの。
 だからハインツが彼の頭をごつんと叩いたわ。
 お姉さんがせっかく日本の文化を教えてくれてるのに笑うとは何事だって。
 自分だって笑いたいくせにね。あ、一緒に入っていた櫛と手鏡はいかにも日本って感じね。
 本当にありがとう。嬉しかったわ。


 わあ、ごめんなさい。メインのプレゼントは櫛と手鏡なのよ!
 それだけで送ったら鏡が割れそうな気がしたから、冗談半分で詰め物感覚で入れたの。
 レイが真顔で割烹着は日本の文化の象徴だって言ったから。
 あいつを信じた私が馬鹿だったわ。本当にごめんなさい。
 当然、私は烈火のごとく怒ったわ。




 マリアからの手紙が届くかなり前。
 母の日の前日である土曜日のお昼の3時。
 そろそろシンジと楽しいおやつでも楽しもうかとあれこれと作戦を練っていたアスカである。
 その時、電話が鳴った。
 ドイツ時間の朝の7時に電話をしてきたのはマリアだった。
 電話で話をするのならわざわざ手紙をしたためる事などないではないかという考えは寂しい。
 手紙は後々まで残る素晴らしいコミュニケーションの方法なのだ。
 
 アスカはその時点で割烹着の件を知った。

 その45分後、アスカはいつものように仁王立ちしていた。
 その前には正座をしているシンジとレイ。
 レイは碇家から緊急招集されたのである。
 これがシンジだけならまだわかる。
 週に一度くらいはそんな情景がこの家では見られるからだ。
 ところが今回はレイまでがシンジの隣にちょこんと座っている。
 何しろ今回の事件の実行犯は彼女なのだから仕方がないことともいえるのだが。

「あのねっ!悪戯にも程があるわよ!しかも、お祝いの席に悪戯なんてど〜ゆ〜ことよ!
 そんなの目茶苦茶失礼じゃない!人間のすることじゃないわ!
 それに、アタシならともかくママにってどういうことよ!」

「あ、あのさ、レイは悪戯のつもりじゃなかったんだと思うよ」

 よく考えてみると、この裁きの場にシンジが座る謂れはまったくなかった。
 シンジはアスカのドイツ行きの荷物に何が入っていたのか全然知らなかったのだから。
 彼が手伝ったのは家から郵便局までの荷物運びだけである。
 では、どうして白州に座らされているかというと、連座である。
 妹となったレイの罪は兄であるシンジの罪でもあるという論理なのだ。
 このアスカの告発にシンジ本人は唯々諾々と従ったが、レイは不満でいっぱいだった。
 その理由は、自分はともかくシンジには告発される理由がないからだ。
 だからこそ彼女は不満顔で座っているのだ。
 しかももともと悪戯したという意識がまるでないということも大きな不満に繋がっている。
 実は割烹着を贈り物にとレイにこっそり耳打ちしたのは、誰あろうお腹の大きな葛城ミサトである。
 海外の女性に、しかも奥さんであれば、日本の女性が台所で使う“ジャパニーズエプロン”を贈ると喜ばれる。
 ただしアスカにこのことを伝えてはならない。
 何故なら彼女は日本古来の風習に通じていないから反対するかもしれない。
 こっそりと詰め物のような形で荷物に入れておけばいい。
 レイはすこぶる素直な娘だ。
 元上司に真顔で言われれば即座に「了解」と返してしまう。
 新聞をとっていないから詰め物に困っていたアスカは、大きな紙袋にクッションになるようなものを入れて現れたレイを歓迎したのだ。
 元作戦部長の計算どおりである。
 平和は何ものにも変えがたいのではあるが、その才能を悪戯には使ってほしくはないものである。
 したがってこの場合、罪に問われるのは葛城ミサトであるべきだ。
 ところがアスカはミサトには電話で「いい加減にしてよ!」と悪態をついただけなのだ。
 レイが不満たらたらになるのは仕方がない。
 
「うっさいわねっ、ど〜してアンタが弁護人役になんのよ!アンタは告訴されてんの。犯罪者なのっ」

 アスカはつま先に体重をずぃっとかけてシンジに食ってかかる。
 彼は苦笑して頭を掻いた。
 
「ええっと、じゃ、僕が悪いってことでいいよ」

「何よ、それっ!いいよって、ど〜ゆ〜ことよっ!まるで、無実の罪をひっかぶっているみたいじゃない!」

「あはは、そうだね」

 あはは、ではなかろう。
 まさに無実の罪なのだから。
 レイがいささか冷ややかな目付きで隣のシンジを見やった。
 
「何、笑ってんのよ!罪びとの癖にっ。ああっ、どうしてくれようかしら!」

「どうしてくれてもいいよ。えっと、自己申告していい?」

 アスカは眉を顰めた。
 この要望は想定外だ。
 だが、聞いてみたい。
 是非、何を言い出すのか聞いてみたい。
 そこで彼女はわくわくする気持ちを必死で抑えて、努めて非情に言葉を発したのである。

「そ、そうね。ま、まあ、聞いてあげてもいいけど?」

「あのさ、まず、今晩のおかずなんだけど、煮込みハンバーグにしようかなって思うんだけどそれでいい?」

「いいわっ」

 即答で答えてしまい、内心焦ったアスカである。
 
 やるわね、シンジ。アタシの好物でジャブを打ってくるなんてさ。危うくKOされるとこだったじゃないよ。

 ジャブでノックアウトとはなかなかに打たれ弱いアスカであった。

「あわ、で、でもさ、それのどこが贖罪になるのよ」

「うん。アスカのは二個にしようかって。
 それと上手く作れるかどうかわからないけど、マッシュポテトっていうのも挑戦してみようかと思ってるんだ」

「Ganz gut!(とってもいいわ!)」

 思わず、ドイツ語で叫びガッツポーズ。
 動いてしまってから、またしまったと思う。
 叫んだのはドイツ語だからまだよかったとして、問題は振り上げたその拳を振り下ろす場所だ。
 しかし上げっぱなしではいけない。
 仕方なしにその拳をぐるぐると振り回す。

「はんっ!ザウワークラウトもつけなさいよ!マッシュポテトごときで騙されやしないんだからっ」

「えっ、ど、どうやって作るの、それって?」

「アンタ馬鹿ぁ?あんな一般的な食べ物を知らないなんてっ」

「ごめん」

「知らない。ザウワークラウトって何?」

「まったく、どいつもこいつもダメねぇ。って、よく考えたら、あれってすぐできないじゃない!
 ちょっと馬鹿シンジ!どうしてくれんのよ!」

「ご、ごめん。ダメなの?簡単にできないような凝った料理なの?」

 碇シンジは不正解。
 手間はかからないが日数がかかるのである。
 世界に冠たるドイツ人の常食的付合なのだが、名前で言われては日本人にわかるわけがない。
 アスカが作り方を教えるとシンジはなるほどと頷いた。

「ああ、簡単なんだ。でも、今日は食べられないんだね」

「あったり前よっ。乳酸醗酵させないといけないんだもん。アンタ、わかる?乳酸醗酵」

 照れ笑いで首を横に振るシンジ。
 その隣のレイが乳酸醗酵とは何であるかを発言しようかと口を開きかけた時、
 アスカが慌てて口を挟んだ。
 己の幸福を最優先したのである。

「仕方がないわね。乳酸醗酵が何か、このアスカ様が直々に教えてあげるわよ。
 煮込みハンバーグを作るときに、キッチンでね」

「うん、ありがとう、アスカ」

「はっ、使えない同居人を持つと苦労するわ。あ、食材を買いに行くときに、ディルとベイリーフを買ってくんのよ。
 唐辛子はあるわよね、確か」

「あるよ。ディルってのと、ベイリーフだよね」

「ちょっと馬鹿シンジ。アンタ、その二つが何だかわかってんでしょうね」

 彼女の内心に満ち溢れた期待に応えて、シンジはまたもや照れ笑いで知らないと答えたのである。

「しっかたないわねぇ。じゃ、アスカ様がついて行ってあげるわよ。
 あ、もちろん、アンタのためにわざわざ言ってあげるんですからね。当然、アンタが運転手するのよ!」

「え、二人乗りは捕まっちゃうよ」

「うっさいわね。捕まらなきゃいいのよ、捕まらなきゃ」

「三人乗りは無理?」

 すかさず口を挟んだレイにアスカは顎をつんと上げた。

「馬鹿ね。捕まったらどうすんのよ。却下」

 実に理不尽である。

「そう、ダメなのね。もう」

 ここで明らかにしておくが、レイに二人についていく気はさらさらない。
 近頃頓に感情の起伏が大きくなった…と言っても普通の女の子に比べるとまだまだ起伏は平坦だが…そのレイだ。
 この場合も冗談なのである。
 ただし、わかりにくい。非常にわかりにくい。
 だから、この時も哀しげな微笑を浮かべた…もちろん演技…レイにアスカは少し後悔したのである。
 少し邪険にしすぎたのではないかと。
 
「そ、そうね。もし、よければ、ここで待っとけば?
 アンタもシンジの料理を食べてけばいいじゃない」

「了解。待ってる」

 レイからすれば、まさに棚から牡丹餅。
 冗談は言ってみるものだ、と彼女は認識した。
 さて、アスカの方は楽しいシンジとの食事の時間を闖入者とともにしないとならないことに臍をかんだ。
 だが、その分を買出しの間に楽しめばいいではないかと気持ちを切り替えた。
 何しろレイは特別なのだ。
 シンジの妹なのだから。
 心の中で“妹”の部分に大きくアクセントをつけながらアスカは自分を納得させたのである。
 実はシンジも同様だった。
 急にできた妹ではあるが彼の求めて已まなかった家族の一人なのである。
 食事の一度くらい一緒にしてもいいではないか。
 買出しと、そして調理の時間を精一杯楽しめばいい。
 彼もそう自分を納得させたのである。
 方向性と目的はまったく同じなのに、二人の心は肝心なところで大きく食い違っている。
 楽しむという行為が己の独りよがりだと思い込んでいるために。
 


 ねぇ、ママ。
 私は最近レイに甘いのかもしれない。
 シンジの妹だから…(妹になったのは極最近だけどね!)…かな?
 それもあるとは思うけど、やっぱり彼女は特別なのよ。
 言うなれば、友人よりももっと深い部分で繋がっている。
 そうね、戦友ってヤツなのかも。
 生死をともにしたから、平和になった今、レイといがみ合う必要がなくなったんだと思うわ。


 なるほどね。
 でも、ママは思うの。
 やっぱりアスカが彼女に甘くなったのはシンジ君の恋愛対象ではなくなったからじゃない?
 あなたの性格なら例え戦友であっても彼を奪う人間なら全身で戦うと思うわ。
 ごめんなさい。今のは3%くらいは冗談。
 よかったわね、彼女が恋愛対象でなくなって。
 あなたにとっても、そしてシンジ君にとっても。


 どうして?どうして私だけじゃなくて、シンジにもなの?
 わからないわ。まあ、私があいつにとって唯一無二の女性であることは確か…って言いたいわよね。
 そんなことを明言できる日が来ないかなぁ。



 碇シンジは特に家事のエキスパートというわけではない。
 その年頃の男子としては少しばかり家事ができるわけで、
 万人の舌を唸らせるほどの料理の腕を持っているわけでも、熟練した家政婦のようにてきぱきと家事をこなしているのでもなかった。
 おそらくはアスカの方が家事については彼よりも上手くなるだろう。
 だろう、ということは現時点においてはアスカには能力がないということになる。
 それはそうだろう。
 幼少から調練や勉学に明け暮れてきて、誰も家事など教えてくれなかったのだから。
 しかし、彼女本人は自負があった。
 世界に冠たるドイツ人の血をその身体に3/4も受け継いでいるのだ。
 家事能力については世界に誇るドイツ女性の。
 間違えないでいただきたい。
 ドイツ料理が世界一美味いとかそういう意味ではない。
 家事を如何に合理的に無駄なくこなし、そして自他共に満足のいく結果を残すこと。
 そういう意味である。
 で、その意味においてアスカはどうなのであろう。
 アスカは家事をシンジに任せている。
 掃除や洗濯でさえも。
 部屋の中は散らかっているし、食べた後の食器もそのままだ。
 実にいい加減であり、シンジも溜息一杯なのだ。
 だが、もしその彼がもっと人生経験が豊富ならばどうだろう。
 例えば、加持…もとい、葛城リョウジならばアスカのことをどう評価しているだろうか?
 
「ああ、アスカかい?
 あの娘はねぇ、そうだなぁ、言うなれば仮面を被りたがる女って感じかな。
 まあ、女って生き物は多かれ少なかれそういうところがあるからね。
 うちのアレのことだって知ってるだろう?
 ちゃらんぽらんのように見えてかなり複雑な性格してるからなぁ。
 暗い部分はとんでもなく暗いんだぜ。
 もっとも部屋の片づけができないっていうのは基本スペックだったようだ。
 ああ、大丈夫だ。
 わかってて一緒になったんだから、俺が頑張るしかないことは承知してるよ。
 生まれてくる子にはそのあたりはちゃんと躾けないといけないよな。
 おおっと、アスカの話だっけ。
 葛城…って、俺も葛城か。いかんな、癖が抜けないぜ。
 あいつからアスカの部屋が目茶苦茶に散らかっているって聞いてびっくりしたんだ。
 俺は知ってるからな。
 オーバー・ザ・レインボーのアスカの部屋がそれは見事なほどに整頓されていたのを。
 何かと理由をつけては俺を部屋に招待してくれていたからな、あの時のアスカは。
 つくづく思うよ。据え膳食わなくてよかったってね。
 まあ、子供には興味ない…なんて言ったら殴られるか。
 俺はどちらかというと年上の…って、そういう話じゃなかったな。
 つまりこういうことだ。
 アスカは気に入った人間にかまってほしい。
 それはこの俺であったり、シンジ君だったわけだが。
 で、思ったんだろうなぁ。
 あのマンションの状況でシンジ君があいつの世話をしているのは何故か。
 答はシンジ君がいささか優柔不断で揉め事になるよりは自分が我慢すればいいという性格だったから、
 ずるずると家事をしていただけのことだったんだが、そいつをアスカは誤解したってこった。
 だらしなくすれば、面倒を見てくれる、と。
 それに自分が楽だしね。
 ああ、つまるところ、アスカはやる気になればいい主婦になると思うぜ。
 あいつとは比べ物にならないくらいにね。
 聞けば、あのりっちゃんがちゃんと主婦してるそうだ。
 ああっと、早くスーパーに行かないとな。もうすぐタイムサービスなんだ。
 とある情報源から今日は鰹のたたきが半額で……(略)」

 簡単に言うと、アスカは猫を被っている。
 いや、能ある鷹が爪を隠していると表現した方がいいかもしれない。
 これもまた、彼女の考えすぎで、いまさら家事をするようになればシンジに嫌われるかもしれない。
 そんなことまで考えているのだ。
 何故嫌われると思うのか彼女に問えば、
 おそらく惚気の混じった、そして一見論理的に見えながらその実大間違いの演説を聴かされるだけだから省略する。
 
 しかし、アスカは世界に冠たるドイツ婦人を目指して、日夜学習中なのだ。
 もちろん、四六時中シンジの目が光っているので…もっともアスカが彼の傍を離れないためだが…、
 実地研修をする機会がなく、イメージトレーニングしかすることができなかった彼女である。
 因みに部屋の片付けについては、シンジに愛情のこもった「おやすみ」を言って…言葉上は「はっ、アタシは寝るからねっ」だが…、
 部屋の扉をしっかりと閉めてから徹底的に行われる。
 何しろ日中はシンジにいつ部屋の中を見られるかわかったものではないのだ。
 だから、部屋の中は乱雑を極めている。
 ベッドから半分床に垂れ下がっている掛け布団。
 床に飛び散る下着類。制服はベッドの上に投げ出されたまま。
 机の上も乱雑を極めている。
 シンジがちらりと部屋の中を見ればいつも「少しは片付けなよ、ミサトさんみたいになるよ」と苦言を漏らす。
 その時、アスカは少しも慌てず、「うっさいわねっ、ほっといてよ!」という返事を投げつける。
 内心、ああ今日もかまってもらえたという喜びに震えながら。
 彼女を批判することは容易だろう。
 間違っていることは確かなのだから。
 だが当事者である彼女は現状で満足…というよりも現状から悪化することを恐れているのだから、
 整理整頓のできる姿を見せられないのだ。
 もしそれを彼に見せたならばどんなに喜び、そして惚れ直すだろうか。
 当然、そんな結果をアスカが承知していたなら、家の隅々まで掃除をし、さらに料理にも挑戦していたのだが、
 両人にとって不幸なことに現状はこの通り。
 
 ところが今回アスカは口を滑らせた。
 ドイツ料理のことが話題になったので、勉強中のことを喋ってしまったのである。
 お国自慢をしたくなるのは人としておかしいことではない。
 愛国心とかそういう類の大仰なものではなく、単純に自分の身の周りのものを褒めてもらいたい。
 彼女とても例外ではなかったわけだ。
 アスカは「ちょっと着替えてくるから待ってなさいよっ」と捨て台詞を吐いて自室に飛び込んだ。
 残された二人は顔を見合わせたが、すぐにシンジは立ち上がった。
 彼が向ったのは洗面所。
 櫛で髪を梳き、ごしごしと歯磨き。
 そんなシンジの様子に何を思うかレイは無表情。
 小さく欠伸をすると彼女も立ち上がり、そしてよろよろよろめいた。
 足が痺れたのだ。

 アスカは隠し持っているノートを調べていた。
 ドイツ語で書いているから、例えシンジが読んでも意味不明だろう。
 そこにびっしりと書かれているのは料理や家事のあれこれ。
 但し彼女が聞くことができるのは遥か彼方のマリアだけ。
 親友のヒカリに問えばよいとは思うのだが、彼女の口からトウジに漏れ、そしてそれがシンジに伝わることを恐れた。
 もし彼に何故そういうことをするのかと質問されれば答に窮する。
 まさか彼の嫉妬心や対抗心を煽るために、他の架空の男のために精進しているのだなどという馬鹿げたことなど言えやしない。
 鈍感この上ないシンジなら文字通りに受け取ってしまうのは間違いないからだ。
 したがって、物語にありがちなそんな展開にアスカが向うわけがなかった。
 ともかく、今は秘密にする。それしかなかった。
 シンジに料理を教えるという重大イベント。
 そのためにアスカは密かに携帯電話を取り出した。
 ドイツが深夜でなくてよかった。
 ひそひそ声でザウワークラウトのレシピやコツを真剣に質問するアスカが、マリアにはこよなく愛らしかったのである。

 二人のデート…もとい、買出しについては略す。
 いつもと同様に互いの言動に内心一喜一憂し、表立っては何の進展もなかった。
 問題は、その買出しが終わり、料理が終わり、晩餐が終わり、片付けが終わったあとだった。
 アスカの1/3サイズのミニハンバーグを何とか食べることに成功したレイは、ことのほかマッシュポテトが気に召したようだ。
 お土産用にタッパーに詰めてもらいにこにことソファーで寛いでいる。
 9時頃には彼女も帰宅するので、用心棒としてシンジがレイを送る。
 その彼の用心棒として、アスカもくっついてくるのがいつものパターンだ。
 おっと、事件はその暗い夜道で起こったのではない。
 煌煌と照明が輝くリビングで、だ。

 アスカがニヤリと笑った。
 その笑みを見て、シンジは思った。
 お願いだから、あの笑い方だけはやめてほしい。
 あの人生最大の記念日である、オーバー・ザ・レインボーでアスカと初めて出逢った日。
 その甲板で彼女が見せた笑み。
 第6使徒ガギエルを目視した時に「ちゃ〜んす」と笑った。
 あの時、まだ恋心を抱いていなかった彼は精神的に3mは退却したかった。
 彼は命名している。
 “アスカ、邪悪の笑み”。
 彼の心が120%アスカに支配されている今でも、やはりあの邪悪な笑みだけは勘弁してほしいのだ。
 痘痕も靨とは言うが、あの笑みだけは恋する者のエフェクトアイでもどうにもならない。
 
「いいこと思いついた。明日の母の日は、ぱああああ〜っと盛大に祝うわよっ!」

 反応なし。
 それはそうだろう。
 この家には母と言う存在がない。
 惣流アスカ。実母死亡、義母はドイツ在住。
 碇シンジ。実母死亡。義母はまだ新婦。
 碇(綾波)レイ。実母…説明不能。義母はシンジと同一。

「ええっと、つまり、ドイツにいるアスカのお母さんのお祝いを日本でするってこと?」

 ああ、なるほど、そういう意味かと兄の聡明さに軽く頷くレイ。
 しかし、アスカの眉はきりりと上がった。

「はぁ?アンタ馬鹿ぁ?何言ってんのよ。そんなややこしいことをど〜してしないといけないわけぇ?」

「あれ、違うの?じゃ…」

 アスカは再びニヤリと笑った。



「母の日、おめでと〜ございます!リツコっ」

「あの、おめでとうございます」

「おめでとう。母だから母の日。論理的には正しいわ」

 アスカは天使の微笑み風(もちろん演技)。
 シンジはばつの悪そうな引き攣った笑顔。
 レイはいつものアルカイックスマイル。
 三人三様の笑顔を前に碇リツコは明らかに途惑っていた。
 アスカは赤いカーネーション。
 シンジは白いカーネーション。
 レイはピンクのカーネーション。
 それぞれ数本の花束が差し出されている。

「困ったわ」

 リツコの言葉にアスカはさらに笑みを深くした。
 三十路とはいえ、彼女はまだ初婚の新婦。
 義理ではあるが確かにシンジとレイは彼女の子供となる。
 だから、レイが言ったように母の日を祝ってもおかしくはない。
 おかしくはないが、気持はいいものではないだろう。
 「悪趣味だよ」となんとか搾り出したシンジの意見具申はあっさりと却下され、
 その彼もこの悪戯に巻き込まれた。
 ドイツのマリアへの割烹着の件で、祝いの日に悪戯なんて人間のすることじゃないと叫んだのはさて誰だったか。
 
 ふっふっふっ。困ってる、困ってるっ。
 鉄の女が怒るべきか悲しむべきか、どうするか困ってる。
 悪戯成功!

 その本人は、はぁと溜息まで吐いたリツコの反応に大喜びだった。
 まだまだ、子供である。

 しかし、リツコの悩みはそこではなかったようだ。

「こういう場合、誰から先に受け取ればいいのかしら?」

 その真剣な声音にシンジがぷっと吹き出した。
 意気込んでいたアスカががくんとなるのが面白い。
 恋する感情とこんな感情は別物だ。
 ただし、次の瞬間、彼の横っ腹にアスカの肘がめり込み、彼の足の甲にアスカの踵が叩き込まれた。

「痛いっ!」

「って、言ったシンジからでいいんじゃないの?長男なんだしさ」

 楽しみをそがれたアスカがつまらなさそうに言う。
 そして横目でシンジを睨みつける。

「そうね、じゃ、ありがとう」

「あ、ど、どうも、おめでとうございます」

 花束を渡しながら、「おめでとう」と言ってもよかったかなと思うシンジだった。

「次はアスカね。ありがとう」

「え…」

 自分は最後だと思っていたアスカは怪訝な顔で花束をおずおずと差し出す。

「最後はレイね。あなたもありがとう」

「はい。おめでとう、お母さん」

 さらっとリツコに言葉を発するレイである。
 その時、シンジが小さな、本当に小さな溜息を吐いたことに傍らのアスカだけが気づいた。
 
 そうか、まだ言えないんだ。リツコのことをママって。
 だったら、このアスカ様が…。

 今度のアスカの笑みには邪悪さはまるでなかった。

「なぁんだ。レイはリツコのことをお母さんって呼んでるんだ」

 レイはこくんと頷いた。
 当たり前ではないか、自分は彼女の娘になったのだから。
 できればそれを口にして欲しいものだが、そこまで無口なレイに求めるのは酷というもの。
 アスカは饒舌モードに入ることにした。

「で、馬鹿シンジは何て言うの?リツコのことをさ。
 まさか、ママ?ママはやめてよね、まるでマザコンみたいだから。
 あ、でも、アンタって、ちょっとなよってしてるから、やっぱりママ?
 まあ、海外じゃママでもな〜んにも問題ないんだけどね。
 このアタシもママのことをママって言ってるんだし。
 で、アンタはどうなのよ?ママ?それとも、お母さん?どっち?さあさあさあさあっ!」

 すぐ隣でべらべら喋られるのは、それが愛しのアスカであってもシンジには苦痛であった。
 しかも今回の場合はアスカが意図してシンジを苛立たせているのだから尚のことだ。
 
「お、おか…」

 それでもなかなか口にできない。
 もう一押しだとアスカはさらに口撃を続ける。

「お母様ぁ?アンタ、何様のつもり?それじゃ、このアタシはアンタのことをシンジ様とでも呼ばないといけないわけぇ?
 はっ、アンタもいつからそんなに偉くなったのかしら?お母様だってさ。おっかしいったらありゃしない。
 ど〜して、普通にお母さんって言えないの?ほら、言ってみなさいよっ」

「お、おかあ…さ…ん」

 最後は殆ど聞こえなかった。
 だが、リツコは軽く息を飲んで、そして優しく微笑んだ。
 この場に夫もいればさぞ喜んだ事だろう。
 生憎、明日はパリで会合がある。
 昨日から留守にしているのだ。
 しかし三時間ごとに電話が入るから、その時に驚かせてやろう。
 リツコは息子に引け目を感じているゲンドウがどんな表情をするのか確かめたく、その時はテレビ電話に切り替えさせようと決心した。

「はぁ?何ですって?何言ったの?ぜんぜ〜ん、聞こえなかったわよ。ほら、馬鹿シンジ!さっさと、はっきり言えっ!」

「お母さん!」

 明らかにアスカに背中を押してもらった。
 シンジは顔を上げられなかった。
 リツコの顔を見るのが恥ずかしい。

「どう?これでいい、リツコ?」

「ふふふ、どうもありがとう、アスカ。
 レイで慣れていてよかったわ。いきなり、シンジ君のような男の子にお母さんって呼ばれたらねぇ」

「シンジ君じゃなくて、シンジでしょ。ミサトじゃあるまいし」

「うふ、そうね。ごめんなさい」

 そんな3人のやりとりをレイは少し首を傾げて聞いていた。
 何をわけのわからない会話をしているのだろうか。
 母親のリツコを呼ぶのに“お母さん”を意味する言葉以外に何があるのだ。
 
 

 

 ねぇ、ママ。
 私、驚いちゃった。
 悪戯のつもりで、義理の子供ばっかりのリツコに母の日のお祝いをしようって思ってたのよ。
 それがどう?
 シンジが“お母さん”って初めて言ったものだから、その話題ですっかり忘れてたの。
 リツコがみんなに母の日のお祝いをされて、全然びっくりもしなければ怒りもしなかったことに。
 その謎が判明したのは私とシンジが帰る時だったの。
 晩御飯もご馳走になって……、私、自信が出てきた。
 リツコは結婚してから家事をするようになったんだって。
 それまでは研究研究ばかりで、ご飯も炊いたことがなかったそうよ。
 最初は凄かったんだって。
 レイったら『私は実験体だったの』なんて真顔で言うし。
 正直言ってその頃にお邪魔してなくてよかったって思っちゃった。
 やっぱりわが身は可愛いものなのよ。
 でも、今は美味しいのよ。
 食卓に並んだのは全部手作り。
 『のめりこむタイプだから』って言ってたけど、それなら私だって負けないんだから。
 惣流・アスカ・ラングレーは熱しやすくて冷めにくいの。
 私にだって充分美味しい料理が作れるって自信がモリモリわいてきたわ。
 あ、脱線しちゃった。
 リツコの話だった。
 玄関のところで私たちに訊いたの。
 どうして知ったのかって。
 意味がわからなくて、当然聞き返したわ。
 そうしたらね、もうびっくり。
 リツコに赤ちゃんができてたんだって。
 それがわかったのが前日で、まだミサトにしか言ってなかったの。
 シンジのパパにだって帰国してから直接言おうとしてたみたい。
 だから、私たちの悪戯がものの見事に的を射てしまったってこと。
 それがわかってみんなで大笑い。
 その後で改めてお祝いを言って。
 シンジもレイも弟だか妹だかができるって喜んだりして。
 ああ、私も会いたくなった。
 シュレーダーは大きくなったでしょうね。
 カールにいたっては写真でしか会ったことないし。
 今年は無理かもしれないけど、来年の夏は絶対にドイツに帰るわ。
 ごめんなさい。
 もしも、夏までにシンジと…恋人になれたら、一緒に帰る。
 たぶん、無理。
 頑張ってはみるけどね。
 あ、それからね………



 今回はかなり長文の手紙を最後まで読んで、マリアはくすりと笑った。
 そして、ベビーベッドですやすや眠る赤ん坊に唇だけを動かしてキスを投げ、手紙を手にリビングを横切る。
 フランス窓を開けるとさわやかな5月の風が吹き込んできた。
 その風とともに長男のはしゃぐ声も。
 午前中に刈ったばかりの芝生の上で、ドイツでは珍しい光景が見えた。
 これがアメリカではどこででも見られるのだが、欧州でキャッチボールはあまり見られない。
 アスカからグローブとボールが贈られてきてから、シュレーダーは野球に夢中だった。
 もちろん野球といっても一人ではできない。
 ここミュンヘンに少年野球チームはないために、誰かが相手をしないといけない。
 当然、一緒に送られた大人用のグローブがハインツ・ラングレーに差し出されることになる。
 人生初めての野球道具との対面に笑顔が引き攣る彼だったが、マリアにぴしりと言われてしまった。
 「アスカがあなたの分も送ってきたことの意味も考えて。親子の絆を深めろってことよ」
 不幸な出来事が重なり親子の間がギクシャクとしてしまったアスカだ。
 そんなことは可愛い弟に体験してもらいたくない。
 そういう意味だと聞かされると、ハインツもチャレンジせずにはいられない。
 ただし、すっかり大人になってから初めて野球道具に接した彼と、子供のシュレーダーでは馴染んでいくスピードが違う。
 情けないことに今ではシュレーダーに相手をしてもらってるようにしか見えない。

「ああ!パパ、ちゃんと投げてよ。どうして、僕の胸にめがけて投げられないの?」

「すまん!この…なんというか、加減が難しいんだ。なあ、サッカーにしないか?」

「だめ!お姉ちゃんが僕とパパにってくれたんだよ!ほら、もっとパパも練習しないと!」

「おお、練習なら会社の昼休みにもしてるんだぞ。アメリカから来た若いのにな、まるであれでは特訓だ。
 きっとパパには素質がないんだ。な、わかってくれよ、シュレーダー」

「じゃ、パパは僕にひとりぼっちでキャッチボールをしろって言うの?」

 はい、今日もまたハインツの完敗。
 フランス窓から出たところで腕組みをして親子のやりとりを眺めていたマリアは楽しそうに笑った。
 
「ああ、わかった。よし、行くぞぉ」

 いささかぎこちないフォームで投じられた白球は珍しくシュレーダーの胸元へ。
 「おおっ!」と三方から歓声が一斉に上がる。

「やればできるじゃないか、パパ!」

「お、おお!」

「あなた、がんばって!」

「おおっ!」

「あ、それからアスカからの手紙に…」

 タイミングが悪かった。
 アスカという単語に気をそらしたハインツの頭に目がけて、勢い込んで投げられた息子のボールが一直線。
 幸いなことに日本から送られたボールは軟球だった。
 こ〜ん。
 頭の真ん中に当たってボールは大きく弾む。
 
「ごめんなさい!大丈夫?」

 すかさず走ってきた息子にハインツは明るく笑った。

「大丈夫だ。パパは強いからな。痛っ!」

「こぶになりそう。冷やしておきましょう」

 さすがは元医師。
 夫のおでこを触るとマリアは冷静に判断した。

「大丈夫だ、これくらい。で、アスカはなんだって?」

「もう…、パパってお姉ちゃんのことになるとこれだからなぁ」

「こら、シュレーダー。お前だって気になるだろう?」

「まあね。じゃ、キャッチボールは休憩」

「休憩ということは…またするのか?」

 さっさと手からはずしたグローブを掲げてみせる父親は苦笑い。
 当然といった感じで息子は大きく頷いた。
 ハインツは首を振り振り仕方がないなぁと頭を掻き、その指が盛り上がりはじめたこぶに当たって顔をしかめた。

「二人とも手を洗って。大切なアスカの手紙でしょう。汚れた手では読めないわ」

 「Jawohl!」と一声。二人は洗面所に駆け出した。
 その親子の後姿を見送って、マリアは手紙を広げる。
 そして、最後の方ももう一度読み返した。
 つい笑顔になってしまう。

「アスカ。私もその人に賛成よ。あら、じゃ、そのリツコさんとやらと親戚になるんだ」

 マリアは楽しそうに笑った。



 あ、それからね、どうしてリツコが私の花束を二番目に受け取ったかってこと。
 これを書くのは凄く恥ずかしいわ。
 でも、誰かに言いふらしたいの。
 自分ひとりでしまっておいたら、幸せで胸がパンクしてしまいそうなの。
 だから、書いちゃう。
 玄関を出るとき、シンジが先に出たの。
 するとレイがその背中について行って。
 あ、ただの「おやすみ」の挨拶。
 日本式だからキスもしないので私は安心なの。
 その隙にリツコがね、私に言ったの。
 「ありがとう。悪戯が本当のお祝いになったわね」って。
 で、私は訊いたのよ。ずっと気になっていたから。
 どうしてレイを最後にしたのかってね。
 彼女はシンジの妹なのに。もしかして二人の間がぎくしゃくしてるのかもって気になったのよ。
 そうしたらね。ああ、恥ずかしいよぉ!
 リツコはクスリと笑って、私の耳元に囁いたの。
 「シンジと結婚したら、あなたも私の娘になるじゃない」……だってさ!
 だめ!もう書けない!
 じゃあね!ママ、愛してる!
 パパと、シュレーダーと、カールによろしく!
 みんなにも愛してるって伝えて。
 ああ!世界がバラ色って感じ!






(5) 2016年6月

 マリアはくすりと笑った。
 いかにもアスカらしいやり方だ。
 ひねくれてて、わけがわからない。
 しかしその理由を知ってしまうと何とも愛らしくてたまらないのだ。
 彼女は読んでいた便箋を封筒に入れると、窓の近くにあるサイドテーブルに引き出しにそっとしまいこんだ。
 誰にも読まれないように。

「カール。パパやお兄ちゃんに言っちゃだめよ」

 ベビーベッドの赤ん坊は母親に呼びかけられて、きゃっきゃっと笑った。
 相手をしてもらったのが嬉しかったのか。
 何しろ二人きりですぐ近くにいたというのに、マリアは日本からの手紙に夢中になって今の今まで知らぬ顔だったのだから。

「あなたにはちょっと早いわね。プディングは」

 次男のつややかな頬を指でちょんと突付き、マリアは微笑んだ。
 必要なものは全部揃っていたかしら、と冷蔵庫の中を思い起こしながら。
 ああ、そうだ。
 プディングプルファーが要る!
 ドイツ風のプディングではアスカの書いた様にはできないだろう。
 マリアは外出の準備を始めた。
 Tengelmann(ミュンヘンのスーパーマーケット:作者註)に行けば絶対に置いてあるはずだ。
 あそこならカールをおぶってほんの10分で到着する。
 いい天気だからカールも喜ぶだろう。
 彼女は弾む心を抑えようとせず、いささか音の外れ気味の鼻歌を伴奏に準備を始めたのだ。
 その準備というのは小さなカップでコーヒーを飲むこととビスケットを2枚胃袋に収めること。
 空腹でズーパーマルクトに行くような愚かさをドイツ女性であるマリアは持ち合わせていなかったからだ。
 不要なものは買わない様にという習慣だが、プディングプルファーは何箱か買わねばならないだろう。
 上手く作られるように練習が必要だから。
 アスカがシンジに食べさせたように。



 話は今月の初めに遡る。
 惣流・アスカ・ラングレーは2月からずっと悩み続けていた。
 彼女の悩みはことすべて碇シンジに関わることなのだが、今回のそれはかなり重要度の高いものだった。
 シンジの誕生日。
 ここでポイントを上げれば、自分のことを好きになってくれるかもしれない。
 そう考えるとおろそかには絶対にできないイベントである。
 去年の誕生日はその存在すら知らなかった。
 いや、彼の誕生日のことなど聞かされても記憶しなかっただろう。
 しかし今年は違う。
 ずっとこの日の来るのを待ちかねてきたのだ。
 待ちかねすぎて、その日をどう過ごすのか、また何を贈るのか、考えすぎてしまった。
 彼女お得意の堂々巡りである。
 こと勉学や体技については的確な判断とその本能でピンポイントを突くように正鵠を射てきた彼女だ。
 ところが、それがシンジにまつわる事になっては逆に的を外しまくっている。
 咄嗟の判断で大はずれする事もあれば、考え抜いて出した結論が大間違いの事も多い。
 要はその考え方のベースが根本的に間違っているのが問題だ。
 彼女はその愛する人に好意は持たれているが愛情は持たれていないと頑強に思い込んでいる。
 その好意も例えば肉親に対するものであり、他人の異性へのそれではない。
 断じてない。
 思い込みというものは怖い。
 周囲からどんなに言われても、自分のその感覚を信じている。
 いや、信じているのではなく、希望を恐れているのだといった方が正しい。
 みんなから大丈夫だと言われれば言われるほど膨らんでいく希望。
 もしその希望に裏切られれば?
 もう生きていく気力はない。
 そこの部分は二人ともがまったく同じだった。
 アスカもシンジも愛するものに拒否されたくはない。
 その可能性を考えると無理に告白などできない。
 でも彼氏彼女の関係になりたい気持ちも抑えられない。
 だからこそ、数々の珍騒動を起こすのである。

 さて、誕生日だ。
 先ほど彼女が2月からずっと考え続けていたと述べた。
 つまり、バレンタインデーイベントに失敗してからだ。
 マリアには来年のバレンタインをと宣言したものの、もちろん1年もの長い間ぼけっとしているつもりはない。
 何かしらのイベントがあれば、それを機会に好感度をアップさせて彼の愛情を勝ち取りたい。
 アスカは燃えていた。
 
 燃えすぎた彼女は考え付いたあらゆる方策をすべて灰にしてしまった。
 どれもこれも一長一短がある。
 当然なことだ。
 完璧な方法などあるわけがないから。
 しかし、彼女はそれを追い求める。
 追い求めすぎた。
 気が付くとカレンダーは6月にめくられている。
 雨に濡れる古寺の佇まいの写真だった。
 アスカは盛大な溜息を吐いた。
 四季が戻った日本には梅雨も戻ってくるのだろうか。
 
 雨ばっかりなんて、霧のロンドンじゃあるまいし…。
 あ、でも、雨が多いんなら相合傘のチャンス!
 はっ、馬鹿アスカ。
 雨が多いんなら、いつも傘を持ってるってことじゃない。
 傘を忘れてきちゃったなんて言い訳できないわよね。
 あああっ、プレゼント!
 相合傘用の傘っていうのもあったわよね。
 Gute Idee!
 って、馬鹿。
 そ〜ゆ〜のは、相思相愛のカップルじゃないとダメじゃない。
 こっちはそれをまず目指さないといけないっていうのに。
 ああ、でもいいだろうなぁ。
 濡れるからもっとこっちに寄りなよ、なんてシンジが言ってさ。
 うん、ありがとう…ってアタシがそっと寄り添って。
 ……。
 ま、アタシのことだから、ど〜せ、仕方がないわねって言いながらだろうけど。
 あっ、プレゼント!
 もうっ、どうしてこう横道にそれちゃうんだろ。

 これは一例に過ぎない。
 このように彼女の考えは一向にまとまらず、最上の贈り物を求めて右往左往しているのである。

 だが、考えるには、時は今。
 今が一番なのである。
 何故かというと、現在碇シンジは外出中。
 週に二度のチェロの手習いの日なのだ。
 これを勧めたのは誰あろう、アスカである。
 第3新東京にやってきてからはシンジは先生に附いて習うということをしなかった。
 すべてが終ってからもそうである。
 何もチェロで身を立てようという思いで習っていたわけではなかったからだ。
 ところがこの5月の半ば、その話題になった時にアスカは怒りだした。
 趣味というものはそういうものではなかろう。
 例え楽しみで習っているものであろうと、途中で止めてしまうのは間違いだ。
 正論である。
 そのアスカ本人が無趣味な人間にしか見えないことは棚に置いておこう。
 もちろん、彼女曰く…ドイツのマリアにしか告げてないが…、彼女の唯一無二の趣味は“シンジ”だそうだ。
 まったく、熱いと言うべきか、一歩間違うと危ない人間だ。
 その提案にシンジはいささか腰を引きながら受諾した。
 巧く弾きたいとは思うものの、彼にとってもアスカといる時間の方が大切だったからだ。
 しかし、泣く子と地頭の方がアスカよりも遥かに処しやすいだろう。
 ましてシンジにとってはなおさらだ。
 彼は泣く泣く彼女に従った。
 実はその後、彼女も泣いた。
 週に二度もシンジと長時間離れることになる。
 無論そのことを承知でシンジに勧めたのだが、いざ了承されてしまうと実感を伴ってきた。
 ひとしきり泣いた後、彼女は決意した。

「えっ、アスカが先生を選ぶの?どうしてだよ」

「どうしてって、どうしてもよ」

 いかにも真っ当な質問だ。
 当然、アスカは目を合わせられない。

「でも、アスカは楽器は…」

「弾けないわよ!悪い?聴く方専門。聴くのが好きなのっ。アタシはそうなのっ」

 叫ぶように言ってしまってから、頬が赤くなった。
 別にシンジのことが好きだとは言ってないが、彼女的には言ったも同然なのだ。
 (シンジのチェロを)聴くのが好きなのだから。
 バツの悪さにひしと睨みつけるアスカだった。
 その迫力に抗えることができるようなシンジではない。
 かくして、チェロの先生選びはアスカが決定権を持つ事になったのである。
 
 まずインターネットで第3新東京市で音楽教室を開いていて、チェロを教えているところをピックアップ。
 一人目の候補はシンジがその名前も知っていたチェロの世界ではかなり有名な人間だった。
 ところが門外漢であるアスカが瞬時に却下した。
 彼女が美人だったから。
 もう40歳前後の筈だが、ホームページの画像を見て、背後に立っていたアスカは即座に“X”ボタンをクリックした。
 どうして?と振り返るシンジに、屁理屈を並び立てる。
 アンタは男だから女の弾くチェロとチェロが違うのだなどエトセトラエトセトラ。
 二番目は壮齢の男性。
 だが、アスカは教室紹介の小さな画像にぴくっと来た。
 生徒に女性が多い。
 そして、また屁理屈。
 1対1でないと効果がない、学習が散漫化するエトセトラエトセトラ。
 ようやく彼女が実際に見に行こうと折れたのは最後の候補だった。
 教室のホームページはなく、登録されているだけの個人教室だった。
 行ってみないと何もわからない。
 どう見ても中年以上の男の名前だったので、アスカもそこに赴いてみることに同意したのだ。

 第3新東京市の郊外。
 ニュータウンのこの町なのにもう何十年もそこにあるかのような閑静な佇まい。
 話を聞いてみると元々このあたりは小さな別荘地で周りが開発されてしまったということらしい。
 その話を聞かせてくれたのは先生の奥さん。
 しかし、彼女にアスカは嫉妬心を抱くことはなかった。
 二人が孫と同じくらいの年頃だと美味しい日本茶を出してくれた上品な老女に、さすがのアスカもそういう気持ちにはなりはしない。
 先生は痩身で背が高く、「こういう年寄りだから生徒さんが少なくてね」と笑うのを見て、
 まるで計ったかのようにシンジとアスカが頭を下げた。
 
「よろしくお願いします」

 声までピタリと合わせた二人は「綺麗にユニゾンしたね」と言われて、さっと頬を染める。
 そこを辞去した後のアスカは饒舌だった。
 
「なかなか、いい先生じゃない。ほら、MJ交響楽団のメンバーだったっていうしさ。
 ま、まあ、どんな交響楽団かアタシは知らないけど。アンタ、知ってる?
 何だ、知らないの?だめねぇ、アンタは。そうそう、最初に行く時に何かお土産持っていきなさいよ。
 アタシが出してあげるからさ。うっさいわね、アタシが出すって言ってんでしょうが。アタシが出すのっ。出させなさいっ。
 で、何がいいと思う?ああ、ダメダメっ。おまんじゅうなんて、どうせ向こうの方がよくわかってんだから、洋菓子よ、洋菓子……」

 ユニゾンという言葉が嬉しかったのだろう。
 アスカは胸の奥が温かく、じっとしていられない。
 喋りながらシンジの周りをぐるっと一回転したり、手にしたバッグを振り回したり。
 それはシンジにとっても楽しい時間だった。
 どちらが言うともなくバスを使わずに夕焼けの街を並んで歩いた。
 そう、結構長い距離を。
 
 水曜日の放課後と土曜日の昼下がりはシンジのチェロの手習いの日になった。
 最初はアスカも一緒に行こうかとも思った。
 建前ならある。
 チェロは大きい。
 あれをシンジ一人に運ばせるのは可哀相だとか何とか。
 それに手習いの間、あの奥さんと喋っているのもいいだろう。
 シンジが頑張っている間、彼の音色をBGMにして。
 だが、彼女はそれを断念した。
 何故ならば、水曜日の晩御飯の準備があったから。
 チェロの練習を終えてシンジが帰ってくるのは午後8時。
 いくらなんでもそれから彼に晩御飯を準備させるのは酷というもの。
 だから彼女は言ってしまった。

「インスタントや出来合いのものでよければ、このアタシが用意したげるわよ」

 シンジは驚いた。
 そして、内心の喜びを必死に抑えたのだ。
 例えインスタントであってもアスカの手料理が食べられる。
 抑えたあまり少しつっけんどんになってしまったかもしれない。

「うん、わかったよ。じゃ、お願いしようかな。い、インスタントでも出来合いでも。うん」

 少し、むっ。
 何よ、変な声で。
 こうなったら、やってやるから!

 アスカの目標ができた。
 水曜日の晩御飯は、インスタントに見せかけた極上の手料理を食べさせること。

 これは難しい。
 極上の手料理なら何とかする自信はあった。
 とりあえず自信だけだったが。
 しかし、問題はそれをインスタント食品に見せかけねばならない。
 何もそこまでしなくてもいいものだが、シンジの一言がアスカを燃え上がらせた。
 ただこの目標を達成するためには時間が足りない。
 練習をする時間がないのだ。
 その水曜日と土曜日のシンジが出かけている時間しかない。
 しかし、もう後には退けない。
 彼女は綿密な計画を立てた。
 ある夜に徹夜して。
 翌日の授業で睡眠不足はちゃんと解消したが。
 因みに土曜日の晩御飯についてはシンジが自分がすると宣言していた。
 もちろん、初心者のアスカに週に二度は苦しいだろうという愛情からだったが、
 彼女は馬鹿にされたように感じ、余計にファイトを燃やしたわけだ。
 
 さて、この状況は彼女の能力を飛躍的に向上させた。
 家事に関しては世界に冠たるドイツ女性であり、ずっとドイツで暮らしてきたアスカではあったが、
 幼いときからチルドレンとしての教育と鍛錬の毎日だった。
 家事に対する科目などその中にあるわけがない。
 彼女としてはその身体の中に流れる3/4のドイツ人の血液、素質に頼らざるを得なかった。
 
 素質は幸いにもあったようだ。
 まずシンジの最初の手習いになる土曜日の前日。
 先生のところに持っていく洋菓子を買いに駅前へと二人は赴いた。
 そして、シンジに候補を見繕わせている間に、アスカは走った。
 恥ずかしいが手洗いに行くと称して書店に。
 15分後に戻ってきた時には背中のバッグの中に数冊の本が。
 『ドイツ婦人の家事』、『ドイツ料理』、その他。
 彼女はその夜、全冊読みきった。
 そして、まず自分に課したのは家事の基本。
 整理整頓である。
 いくらインスタントや出来合いに見せかけても調理の痕跡を台所に残してはならない。
 ドイツの女性は調理しながら片付けていくという。
 さすがは我が母国!
 アスカは何度も大きく頷いた。
 5月の第3土曜日。
 シンジが「いってきます」と玄関から姿を消した瞬間、アスカの奮闘は始まった。
 まずは台所の用具の位置や確認。
 どんなにシンジが家事を一生懸命にしているとはいえ、いろいろチェックしていくと粗が見えてくる。
 アスカは考えた。
 もし、将来、ドイツの家族たちがこの部屋にきた場合のことを。
 絶対に自分たちの家の状態と比較するに決まっている。
 本に寄れば、シンクに自分の顔が映るくらいに磨きたてているとか。
 今のシンクは黒っぽい影が映るだけだ。
 もともとの素材もあるだろうが、これには彼女はショックを受けた。
 これでは世界中から賞賛を受けているドイツ女性の面汚しになってしまうではないか。

 この瞬間である。
 アスカがゆくゆくは碇家の家事…ああ、なんと芳しい響きだろうか…を取り仕切ろうと決意したのは。

 しかし、何事にも始まりがある。
 アスカの最初の第一歩はおやつ作りだった。
 昨夜その第一歩に選んだのはインスタントのプリンだった。
 牛乳ならいつも冷蔵庫にあるし、これならインスタントに間違いはない。
 それでも鍋は使うことになる上に、片付けの練習にもなるではないか。
 ひとしきり自画自賛した後に彼女は近くのスーパーに疾走した。
 10箱もインスタントプリンを購入し、家から持ってきた袋に入れてビニール袋は断った。
 読んだ本の中にドイツ女性のリサイクルへの心がけが書かれていたからだ。
 何事も完璧を目指さずにはいられない性格なのである。
 さて、最初の一箱は食品としては成功したが、コンロの周辺は大惨事となった。
 吹き零れたプリンの素でべたべた。
 本にあったようにすぐ拭こうとしてその熱さに飛び上がったりして、見る見るうちに汚れてしまった。
 これでは拙い。
 アスカはプリンを冷蔵庫に収納する一方で、次の箱を開封していた。

 やはり慣れや修練というものは大切なのだろう。
 5箱目くらいには手早く片づけをしながらプリンを作ることができるようになっていた。
 アスカは大きく頷いた。
 さすがはアタシ。
 やればできるじゃない。
 そう、やればできた。
 だが、問題があった。
 冷蔵庫の中にずらりと並ぶプリンの群れ。
 容器が統一されてないから余計に圧迫感が強い。
 中には湯飲みや吸い物用の茶碗にまで入っているものもある。
 こんなに作ってしまっているところをシンジに見られたくはない。
 台所は午前中よりも綺麗になっているという自信はあった。
 だが、アスカには見栄がある。
 誰よりもシンジにはブザマなところを見せたくはない。
 あれだけのプリンを作ってようやく得心の行くものになったとは思われたくないのだ。
 初めての料理だから尚更だろう。
 しかし、問題はこのプリンの大群だ。

 アスカはとっておきの手を打った。



「来たわ。ご馳走してくれるって本当?」

「ええ、美味しいわよぉ。プリン」

 綾波(本姓:碇)レイが部屋に現れたのは電話をしてから15分後。
 歩いて20分の距離をやってきたというのに、汗もかかず息も切らしていないというのはさすが神秘の女。
 アスカはそう思ったが真実を明かせば、買い物に行くリツコに送ってもらったそうだ。
 
「美味しい。さすが、お兄ちゃん」

 レイの感想を聞いて、アスカの笑みが広がった。
 作ったのは彼女だと聞いて、レイは眉を顰めた。

「アスカにできるの?冗談。私をからかってる」

「はんっ、アタシは天才だから何でもできんのよっ。ま、証明してあげるわ。見てらっしゃい!」

 アスカは手馴れた手つきで料理を開始した。
 一度綺麗に片付けたのだが苦にはならない。
 要領を覚えたから簡単に元の状態に戻す自信があったからだ。
 事実、彼女は素早く調理し、汚れた鍋もコンロの汚れも素早く掃除した。
 ついでにレイと二人で食べたプリンの容器も洗ってしまった。
 どうよ、とばかりにレイに向って顎を上げてみせるアスカである。
 そんな彼女にレイは惜しみなく拍手を送った。
 パチパチパチ。
 たった3発だけ小さな音がした。
 彼女の性格を知らない者にとっては気のない讃辞にしか見えないが、戦友であるアスカにはそれが本気であることはよくわかった。
 
「アリガト、レイ。じゃ、あとこれだけ持って帰ってくれる?」

 アスカは冷蔵庫を開き、残った10個余りのプリンを指さした。
 どうして?ときょとんとするレイに、アスカは本当のことを告げた。

「あのさ、シンジに知られたくないのよね。アタシがいろいろしてることを」

「喜ぶと思う。お兄ちゃんは」

「だめだってば。あ、そうだ。これから毎週、アンタにご馳走してあげるから来なさいよ」

「口止め。いいわ。美味しいのなら口止めされても」

「もっちろん、このアタシに失敗はないんだからっ」

 かくして、レイは毎週土曜日に人体実験ならぬお呼ばれに来訪することが決まったのである。
 


 アスカは盛大な溜息を吐いた。
 これではバレンタインデーの時と同じだ。
 悩みすぎて何もできなくなってしまう。
 アスカは唇を噛みしめた。
 よし、決めた。
 これで行こう。



 6月6日は月曜日。
 残念ながら手習いのある水曜日ではない。
 従って、アスカの動きは完全にシンジに監視されている。
 もちろん、そんなことは彼女は百も承知。
 すべては土曜日の段階に整えてしまっている。
 バースデイパーティーのご馳走をまさかシンジ本人に作らせるわけにいかない。
 放っておけば、自分ですると言い出しそうだから土曜日にデパートに行って料理とケーキを予約してきたのだ。
 それをレイとシンジに取りに行かせる。
 本当ならシンジに行かせるのも変な話だが、彼女にはある準備をする時間が必要だったのだ。
 往復に45分。
 それだけあれば充分だ。
 アスカには勝算があった。

 参加者はアスカとシンジ、それにレイ。
 だけではなかった。
 シンジの友人である鈴原トウジと相田ケンスケも参加を表明すれば、アスカとしても洞木ヒカリを呼ばざるをえない。
 さらに予想していたことだが葛城ミサトと碇リツコも顔を出すという。
 まさに千客万来。
 平日の夜だけに碇ゲンドウも定時で抜けて息子の誕生日に…とはどういう顔をして言えばいいのか困った挙句断念している。
 もっとも彼はお祝いに現金一封とそれにカードを添えてきた。
 それには…やはり散々悩んだのだろう…大きく、“祝”とだけ筆で書かれていたのだ。
 その一文字を書くのに10枚以上のカードを反古にしたことは、あっさりとレイにばらされてしまっていた。
 相変わらず無器用で微笑ましい男である。
 平和な世の中では。

 パーティーは盛り上がった。
 時々シンジが泣き出しそうにしていたことをアスカはしっかりと確認している。
 おそらく彼はその誕生日でこんなにお祝いをしてもらったことがなかったのだろう。
 アスカは心の中で「よかったね、シンジ」と何度呟いたことだろうか。

 さて、親友であるヒカリはアスカの豹変振りに驚いていたことも付け加えておこう。
 シンジをはじめ男連中たちは気がつかなかったようだが、汚れた食器や飲み物のグラスを手際よく片付けていたのはアスカその人だった。
 実はその方面に頼りになりそうなメンバーがいないと考え、自分がその役をしようと意気込んでいたヒカリだった。
 
「ねぇ、アスカ。悪いけど正直言ってびっくりした」

「ふふ、でしょっ。実はアタシも自分で驚いてんの。やっぱりドイツ人の血ってヤツかしら?」

 嬉しげに笑うアスカにヒカリは声に出さずに言った。
 さすがにこんな台詞は中学生には似合わないかと思って。

 それは愛の力よ、アスカ……。



 アスカの仕掛けた事件は9時を過ぎた頃に炸裂した。
 そろそろお開きという前にアスカが冷蔵庫からプリンを出してきたのだ。
 努めて平静な表情を崩さずに彼女は各々にプリンの容器とお皿、それにスプーンを渡していく。
 
「なんや、プリンか。こんなんわざわざ皿に移さんでもええやんか」

「だな。面倒くさいぜ」

 トウジとケンスケがそのままプリンを食べようとした。
 このままでは二人に挟まれたシンジまで同じように食べるだろう。
 それではアスカの計画…いや、悪戯だが…は失敗に終わってしまう。
 しかしアスカはここでまったく焦らず騒がず、ただヒカリに目配せをしただけだった。

「鈴原ぁ。こういう席なんだから行儀よくして。お願いだから」

 お願いというには凄みがある声だ。
 もっともそれほど凄まなくてもヒカリの“お願い”はトウジにはかなり有効だ。
 この時も少しばかり耳を赤くさせながら、「しゃあないな」と呟いて容器を逆さにして皿に移そうとする。
 もちろん逆様にしただけでプリンが落ちてくるわけがない。
 その動きを見てケンスケは鼻で笑った。

「馬鹿だな。こうやるんだ。空気を入れたら簡単だ」

 彼は容器の隙間にスプーンの先を少し滑らせて、プリンをぷるんとお皿に着地させた。

「わかっとるわい、それくらい」

「へぇ、カラメルもちゃんと入れてたのか。シンジ、お前が作ったのか?」

「えっ、いや、僕じゃないよ、うん」

 言いながらアスカを見ると、彼女はどんなもんよと顎を上げる。
 この場合恥じらいや照れよりも悪戯の結果の方が楽しみでならないのだ。
 
「へえ、アスカがつくったの、これ。あんたって家事できたっけか?」

「うっさいわね、少なくともミサト。アンタよりはできるわよ」

「あっ、最近の私を知らないわね。最近は…」

「悪阻が酷いからって、旦那さんに全部押し付けてるって聞いてるけど」

 すかさず突っ込みを入れる呼吸の良さはさすがリツコというべきか。
 事実を言われ言葉を失ったミサトは素知らぬ顔でプリンをお皿に。

「わおっ、綺麗に茶色いのがついてるじゃない」

「カラメル。本当にあなた、主婦してる?生まれてくる子供が可哀相よ」

「ふふ〜ん、最近急に主婦らしくなったリツコさんには負けますけどね」

 少し目立ち始めたお腹をさすりながらミサトは茶化すように言う。
 しかしリツコはいちいち彼女の売り言葉を買う気はないようだ。

「あら、本当。ねぇ、アスカ。これは…ああ、そうね。プリンの素よりもカラメルの方が比重が…」

「当たり。あったかいうちにカラメルを落としたら底に溜まるの。私も知らなかったんだけどね。箱に書いてあったのよ」

 そんな会話をしながらもアスカの目はシンジの挙動に釘付け。
 彼はようやくプリンをお皿にあけようとしていた。
 そして、ぷるるんと着地したそのクリーム色の山の頂は、やはり同じクリーム色だった。
 
「あれ?」

 みんなのプリンと違うその様子にシンジは途惑った。
 
「なんやセンセ。なんでのってへんねん。センセのだけ」

「不良品じゃないのか?」

「失礼ねっ!でも、おかしいわねぇ、一緒に作ったのにさ」

「どうせアスカのことだからひとつだけ入れるの忘れたんでしょ」

 ミサトがにやにや笑いながら言う。
 いかにもこういう風に突っ込んで欲しいんでしょうと言いたげに。
 
「そうかもね。ま、そ〜ゆ〜のに当たるのが馬鹿シンジらしいってことかも」

「はは、僕、運が悪いから」

 シンジは左手で頬を掻いた。
 まずは、悪戯の第一段階は成功。
 アスカはさらに彼が第二段階に進むのが待ち遠しくてならない。
 別にサディストというわけではない。
 もしシンジが悲しくて泣き出すような展開になるのなら絶対にそんな悪戯はしないだろう。
 そして、シンジは彼女の望み通りにスプーンをプリンに押し当てた。
 彼のプリンの食べ方をアスカは熟知している。
 この間もそれをじっくり観察していたのだ。
 上の方から均等に食べていく。
 まるで山崩れが起きはしないかと恐れるかのように。

「うん、美味しいわねっ。インスタントの割には」

「くっ!うっさいわね!ミサトは作れないでしょ。例えインスタントでも」

「作れなくてもいいのン。出来合いの買ってくるから」

「子供が可哀相ね」

 またまた見事な突っ込み。
 妊娠してからのリツコはさらに家庭婦人への道を突き進んでいるようだ。
 もちろん、それでいて研究開発の方も手を抜いていないところが彼女らしいのだが。
 そんなやり取りをしながらシンジのチェックも欠かさない。
 もうすぐ、もうすぐで…。

「あれっ」

 来たっ!
 小さいながらも素っ頓狂な声を上げたシンジにみんなが注目した。
 そのスプーンの先を見ると、プリンの中に茶色の塊が。
 
「どうして、真ん中にあるの?」

 ああ、だめだ。
 笑いを抑えられない。
 あの変な顔といったら…。
 アスカが笑い転げようとした時だった。

「おおっ。シンちゃんラッキーじゃない!」

 ミサトが大声を上げた。
 
「え…」

「アスカ、あんたなかなか粋なことするわねぇっ。お姉さん、見直しちゃったわン」

「もう、おばさんね」

「うるさいわねっ、まだ産まれてないんだからおね〜さんでいいのっ」

 素早い突込みへ素早く返し、ミサトは身を乗り出して怪訝な顔のアスカの額をちょんと突いた。
 怪訝なのは仕方なかろう。
 何しろこれはただの悪戯で粋も何もないからだ。

「ミサト、何が粋なの?わからないわ」

「もう、リツコったら。家事の方はそれなりにこなしてるみたいだけど、相変わらず一般知識には疎いわね」

「悪かったわね。で、何なの?教えて頂戴」

「ヨーロッパではね、ほらクリスマスなんかのケーキの中にちょっとした贈り物を仕掛けたりするのよ。
 中には、婚約指輪を入れておいてプロポーズがわりにしたりして」

「わっ、ロマンチック!」

 この場で一番乙女チックな少女が合いの手を思わず入れてしまった。
 それが誰かということは書くまでもないだろう。
 レイはきょとんとした表情のままで、アスカは次第に頬を赤くさせている。

「ちょっと、シンちゃん。中に指輪とか入ってない?」

「は、入ってないっ!か、か、カラメルだけよっ!」

「あらン、そりゃ残念ねぇ。じゃ、幸運の方か」

「わかるように説明してくれる?」

「まったく…。あのね……」

 大袈裟に肩をすくめてミサトは話し始めた。
 たくさんのケーキの中にひとつだけ胡桃とかを仕掛けておいて、そのケーキに当たった人が幸運の持ち主だという遊びである。
 その人に素敵なプレゼントを上げるというイベントをしたり、ゲームの勝者にするという場合もある。
 
「ふふん、アスカも本当に粋なことするわね。でもプリンの中に仕掛けるのって難しくなかった?」

「ああ、それは簡単よ。先に…」

「こら、リツコっ。種明かしするんじゃないの。気が利かないんだから」

「悪かったわね。気が利かなくて」

 二人のやり取りがおかしくて、レイでさえ声に出して笑い出した。
 シンジも嬉しそうに笑って、そして彼はこの場でただ一人頬を緩めていない少女を見た。
 彼女は頬を染め唇を尖らせて、その蒼い瞳はじっと自分のプリンを見ている。

「じ、じゃ、いただきます!」

 シンジは声を励まして、少し流れ出し始めているカラメルをスプーンで掬った。

「あ、わしにも幸運ちょっとわけてぇな」

「ごめんよ」

 シンジは慌ててぱくぱくと食べだした。
 もちろん、トウジが本気で言うはずもなくそんな彼を温かい目でみんなが見ていた。
 蒼い瞳を除いて。



 さてさて、アスカがマリアに書いた手紙を披露する前に、
 その誕生日の夜のとある車の中のことを書かねばなるまい。
 
「ああっ、こういう日にはぷぁ〜っとビールを飲みたいわねぇ」

「静かにして。レイが眠ってるの」

「あ、ごみん。そっか、もう11時だもんね。レイちゃんは早寝早起きだし」

「早寝遅起きよ、この子は」

 助手席で微かに寝息をたてているレイをリツコはちらりと見た。
 確かによく眠る娘だ。
 もしかすると大勢の人の中に入ると何もしなくても気疲れしてしまうのかもしれない。
 それはそのうち慣れていくだろうが。

「ふふん、それはそうと、リツコ」

「なぁに?」

「ナイスぼけ。ご苦労様」

「何のことかしら?」

「もうっ、すっとぼけちゃって。幸運のプリンのことよ」

「ああ、あれ。シンジ君よりもアスカの方がびっくりしてたわね」

「へっへっへ、どうせあの子のことだから、あんな習慣のことを忘れてただの悪戯でしたんでしょうけど」

「ドイツにもあったのかしら?イギリスの風習だと思ったけど」

「さあね、あるんじゃないの。同じヨーロッパなんだしさ」

「いい加減ね」

「うふ、そうよ。いい加減だから、私は。だから、随分あの子達を苦しめちゃったと思ってさ」

「あら、罪滅ぼし?」

「みたいなものかもね。あんな子供たちを戦わせてたんだもん。しかも最後には自分のことで手一杯になっちゃって放り出した」

「あなただけの責任じゃないわ。私も…うちの人もね」

「うちの人かぁ。まあね、みんな自分のことしか考えてなかったのよ。
 未来を…子供たちのことを考えていたのはコアの中の母親だけだったってことかも」

「今は?」

「今?と〜ぜん、バラ色の未来をつくらなきゃね。この子たちの為に」

 ミサトは優しくお腹を撫でた。

「変わったわね、あなた」

「へっへっへ!でしょ!あれからビールとかまったく飲んでないのよ!うちのなんていつまで続くかなんて言ってくれてるけどさ」

「酔っ払いの赤ちゃんが産まれてきたら大変だものね」

「哺乳瓶にビール入れろって泣き喚くの?あはは、そりゃやばいわね」

 車がゆっくりと左に曲がった。
 制限時速通りに進む車にミサトはいらだちもしない。
 変われば変わるものである。
 彼女は優しげに言葉を漏らした。

「あんただって…変わったわよ」

「そうかしら?」

「そうよ。冷酷非情のマッドサイエンティストが血の繋がらない子供に無器用な愛情を注いでるじゃない」

「無器用だけ余計よ」

「ふふ。お腹の子のこと調べた?男か女か」

「いいえ」

「へぇ、リツコならすぐに調べるかと思ったわ」

「どっちでもいいじゃない。ただ健康に産まれてきてくれればそれでいいの」
 
「そうね。それが一番」

 そんな温かい会話が聞こえているのか、レイは微かに微笑みを浮かべて少しだけ身じろぎした。
 その笑みは未来のためにその身を捧げた碇ユイのものにそっくりだった。



 ねぇ、ママ。
 聞いてよ。どうしてこうなっちゃたんだろ。
 ただの悪戯だったのにさ。
 おかげでその日はシンジの顔が見られなくなっちゃたの。
 本当にあの年増の二人は…。
 うん、感謝してる。
 感謝はしてるんだけどね。

 それで困っちゃったのよ。
 たいしたプレゼントじゃないんだけどさ、彼に渡しにくくなっちゃって。
 だってね、シンジったらあの悪戯にすごく感謝しちゃって。
 何度もお礼言うのよ。
 でも、何とか間に合わせたわ。
 その日のうちに渡すことができたの。
 誕生日プレゼントを。
 あ、渡すって言葉は間違ってるかも…。



 
午後11時にはアスカはすっかり焦っていた。
 あと1時間で6月7日になってしまう。
 せっかく準備したプレゼントを渡せずに終わってしまうではないか。
 しかし面と向って「おめでとう」と手渡しできる状況ではない。
 もっとも碇シンジ的にはまったく問題はないのだが、アスカ自身が自主規制をかけてしまっているのだ。
 ここに彼女の弱さがあった。
 自分で立てた計画に狂いが生じると…という意味ではない。
 照れてしまったのだ。
 あの悪戯の時に「ありがとう」を言われ、ちらりと彼を見てしまった。
 その瞬間、背筋にびゅんと快感というか感動というか、呼吸を止めてしまうような何かが全速力で走った。
 アスカはシンジの笑顔にすこぶる弱いのである。
 しかも今回は明らかに自分に向けられたもので、その上何かわけのわからないものが加わっていた。
 ずばり、愛情である。
 もし彼女たちが恋人同士なら、シンジの笑顔に思い切り愛情が込められているのがわかっただろう。
 しかし、今現在はアスカには察しがつかない。
 残念ながら。
 従って、彼女はシンジを早く眠らそうと努めていた。
 顔を見ずに渡すには暗闇しかない。
 そこでアスカは彼女の持てる最大の能力を発揮して、後片付けに専念した。
 手伝おうかと言うシンジをバスルームに追いやり、とっとと風呂に入って寝なさいと喚きたてた。
 その言動で彼の評価がどう下がろうがかまわない。
 今は危急存亡の危機なのだ。
 だが、実は評価はまるで下がっていなかったのである。
 逆に上がっていた。
 誕生日に家事をさせないという気配りだと誤解したのである。
 まあ、痘痕も靨と言うではないか。
 恋は盲目なのである。

 シンジが自室に入ったのは11時48分。
 早く寝ろと何度も言ったのだが、彼はぐずぐずしていたのでアスカは無理矢理に部屋に押し込んだ。
 可哀相だが、アスカはこれでシンジの一世一代の勇気をくじいたことになる。
 そうなのだ。
 彼はアスカに告白しようとしていたのだ。
 誕生日パーティーの歓びの勢いで、好きだと言おうとお風呂の中で決意していたのである。
 それがそんなこととは露知らず、彼女はシンジを「この愚図!」と罵って部屋へと追い立てたのだ。
 この事実を知ったならアスカは血の涙を滝のように流しただろうが、幸いにもこのことはシンジの胸ひとつに収められた。
 僕ってやっぱりダメだなぁと苦笑しながら、彼は素直にベッドに向ったのである。

 午後11時55分。

「寝た?」

「あ、うん。寝てるよ」

「……起きてるじゃない」

「ベッドに寝てるって意味だよ」

 がつん!
 アスカは扉を蹴飛ばした。

「アンタ、アタシを舐めてんの!早く寝ろって何べん言ったら気が済むのよっ。明日も学校があるのよ!」

「ご、ごめん。寝るからそんなに怒らないでよ」

「はんっ、あと30秒以内に寝なさいよ!」

 午後11時58分。
 もう、待てない。

「寝た?」

「ご、ごめん」

 アスカは天を仰いだ。
 彼女は大きく溜息を吐くと、先程からずっと握り締めていた小さな袋を顔の高さに持ち上げる。
 土曜日に町中を駆け巡ってようやく探し当てたものだ。
 値段は高くはなかったが、その姿形は彼女にとってはまさに宝物そのもの。
 アスカの望み通りにその店のお姉さんは可愛くラッピングしてくれた。
 もう一度、溜息を。
 そして、次に深呼吸をする。
 時計を見るともう59分になっていた。

 いきなり扉ががばっと開いた。
 シンジは暗闇の中でじっと天井を見ていたから、廊下からの明るさに目が眩んでしまった。
 もちろん、扉のところで仁王立ちしている人間も逆光で表情も何もわからない。
 彼としては当然寝てないことを叱られるものだと思っても仕方がない。

「ごめん!すぐ寝るから…」

「ふん!ありがたく受け取んなさいよ!」

 声とともに飛んできたものが胸の辺りで小さく弾んだ。

「えっ」

「おやすみ!馬鹿シンジ!」

 言うが早いか、扉が閉ざされた。
 一瞬の光芒に本来の暗闇がより深くなる。
 シンジは身体を起こすと照明を灯すよりも先に、何が投げられたのかベッドの上を手探りする。
 指が触れて、がさごそと袋の音。
 その小さな袋を掴み上げ、暗闇にかざす。
 そして立ち上がると照明のスイッチを押そうと足を踏み出した。

 アスカはシンジの反応を待たなかった。
 扉を閉めると同時に彼女は自分の部屋に飛び込んだ。
 照明を暗くすると着ていたワンピースをさっと脱ぐ。
 そのまま脱ぎ散らかすかと思えば軽く畳んで、ベッドにきちんと置かれているパジャマを素早く着る。
 読者サービスも対応できないほどのスピードだ。
 そして、ベッドにダイビング。
 受け取ったシンジがどんなリアクションをしたのか当然興味はある。
 できれば喜んでくれた方がいいに決まっているが。
 だが、今はそれどころではない。
 プレゼントを渡したという行為だけでもう胸が一杯なのだ。
 結果を確認する余裕などありはしない。
 ひとしきりベッドの上を左右にごろごろ転がった後、うつ伏せになった彼女は枕の下に右手を差し入れた。
 そこにあったものを摘み上げ、ごろんと仰向けになる。
 室内は薄暗かった。
 月はなくとも、何かしらの灯りがレースのカーテン越しに差し込んでいる。
 アスカの指からぶら下がっているのは小さなキーホルダーだった。
 チェロの形をした。

「お揃い…、うふっ」

 溢れ出した幸福感に耐え切れず、アスカはまるで胎児のように身体を丸めた。
 そして、シンジとお揃いになるキーホルダーを胸にぐっと抱きしめたのである。



 彼の誕生日の話はこれでおしまい。
 でも、翌朝の私は緊張で喉がからからだったわ。
 シンジが何て言ってくれるのか気になって。
 もちろん、アイツは「ありがとう。大切にするよ」って言ってくれた。
 それからキーホルダーをチェロのケースにつけてくれたの。
 うん、まあまあの選択よね。
 以上、報告は終わり。
 幸せ一杯のアスカから。

 みんなにも幸福が一杯訪れますように。 

 
 

 よかったわね、アスカ。
 こうなるとあなたの誕生日が楽しみね。
 そうそう、あなたに触発されて私も作ってみたわ。
 幸福のプリン。
 こつをつかむまでにかなり作りすぎちゃったけど、
 我が家にはあなたのレイちゃんがいないから少し困ったわ。
 そして土曜日に、ハインツとシュレーダーに食べさせたの。
 もちろん、私のカラメルが上に乗った見本を先に見せてね。
 なかなかの見ものだったわよ。
 しゅんとなったり、びっくりしたり。
 で、アスカが教えてくれたって言ったら二人とも騒いじゃって。
 悪戯にも程があるって。
 男の人って単純ね。
 あ、ハインツが最後に言ってたわ。
 アスカの手料理を食べてみたいってね。
 もしよければ、彼の好きなもののレシピを送るけど?




 さらに数日後、アスカの手紙が日本から届いた。
 マリアの問いかけに対する返事はその末尾にさりげなく書かれていた。
 『レシピ、よろしく』と。

 






(6) 2016年7月



「なんだ、これは!」

「ママ、これは何なの?僕、見たことないよ」

「うう〜ん、竹かしら?自信ないわ」

「ああ、なるほど。竹の一種なのか」

「ねぇ、竹ってなに?ドイツにはないの?めずらしいからお姉ちゃんが送ってきたの?ねぇねぇ!」

 蒼い瞳をくりくりさせて、疑問を連発するシュレーダー・ラングレー。
 ここミュンヘンはやや郊外のラングレー家には、時折珍妙な届け物がある。
 無論、発送元は遥か極東の地日本の、惣流・アスカ・ラングレー。
 何が入っているのか送ってくるたびに皆興味津々なのだ。
 しかも今回はその梱包からして驚かされた。
 中に冷蔵庫でも入っているのかと思ったが、意外と軽いようで運送業者は一人で玄関まで運び入れた。
 その箱にはアスカの字でドイツ語の注意書きが書き殴られている。
 どうやら書いているうちに気持ちが入っていったようだ。
 『こわれもの』『慎重にお願い』『大事なもの』『他のものを上に乗せないで』
 『こっちが上!』『横にするな!』『つぶすな!』『投げるな!』『上に乗るな!』
 『ちゃんと届けないと地獄に落ちるわよ!』
 この最後の一文はご丁寧にもドイツ語以外に英語と日本語でも書かれている。
 「ちゃんと届けましたよ。地獄には落ちたくないですからね」と配送業者のおじさんはおかしそうに笑い、
 苦笑するマリアはいつもの倍以上のチップを彼に渡した。
 『地獄』云々とはキリスト教圏では気軽に書くものではない。
 それほどの気合を入れて送ってきたものは何かと中を見れば、
 プラスチックのケースに入った植物だったのだ。



 さて、その頃日本では。
 7月7日木曜日午前3時。
 リビングの電話が鳴り響く…その前にアスカが受話器をとった。
 ずっと電話の前で待機していたのだ。
 時ならぬ電話の音にシンジを起こしてはならない。
 そんな可愛らしい乙女心ではあったのだが、その実彼女には大切な用件があったためでもある。
 そうなのだ。
 まず、肝心の7月7日にドイツへ笹飾りが届いてないとどうにもならない。
 ここのところは配送業者に何度も念を押して確認した。
 確実にその日に届けられることと笹が目茶苦茶になってしまわないこと。
 笹についてはリツコが全面的に協力してくれた。
 湿度を維持し笹を枯らさないようにするなど、彼女にしてみれば子供騙しのような装置だ。
 その代償はアスカが碇リツコの料理の試食をすること。
 肉嫌いの綾波(本姓:碇)レイでは味覚の判定がやや困難な部分があったのだ。
 アスカは覚悟を決めてリツコの条件を飲み、先週の土曜日に碇家に赴いたのだ。
 この部分は語れば長くなるので割愛。
 少なくとも料理が不味くはなかったことだけはリツコの栄誉のために明言しておこう。
 ともあれ笹飾りはそのようにして、無事ドイツへ送られることははっきりした。
 少しばかり高くついた送料の方は素知らぬ顔でリツコが払っていたのである。
 これにはアスカはただ感謝するしかなかった。
 何しろ現在の彼女は働いているわけではない。
 ただの学生である。
 彼女には収入はないのだ。
 そんな彼女がどうやって暮らしているかというと、過去の資産に他ならない。
 使徒戦を展開していた時の給与に相当するもの。
 もっともゼーレもネルフも企業ではなく一種の法人にすぎない。
 命がけの任務ではあったものの目の玉が飛び出るような保証があったわけもなく、
 彼女たちが一生を遊んで暮らせる金額を手にしたのではなかった。
 ただ、シンジとアスカが住んでいるマンションは賃貸ではない。
 碇ゲンドウが所有している部屋にその子供が別居しているという状況にある。
 もっともその環境化においてはアスカがそこに住む謂れは何もないわけだが…。
 その点については誰も何も言わない。
 まさに暗黙の了解である。
 誰もがそのことを突っ込んだ時のアスカの自爆を恐れていたのだ。
 素直に真実を言うことができずに、逆に『ドイツに帰ればいいんでしょうが!』と発作的に叫んでしまう。
 いかにも彼女にありがちのシチュエーションだけにみんな口をつぐんでしまったのだ。
 当事者であるシンジでさえも。

 さてさて、電話の相手はもちろんマリア。
 笹飾りの箱に入っていた手紙にすぐ電話してくれと書かれていたからだ。
 こっちの時間は気にしなくていいから、とにかく電話してくれと。
 彼女がそう言うからにはそれなりの理由があるのだとマリアは躊躇なく受話器を取ったのだ。
 当然、二人の会話はドイツ語。
 実は狸寝入りのシンジ君はアスカのドイツ語を聴いて苦笑した。
 何のために起きているのかわからなかったが、どうやらドイツの実家との電話のようだ。
 どんな話をしているのか物凄く興味があったが、何しろ会話はドイツ語だ。
 部分的にも何もまったくわからない。
 しばらくしてアスカの声音を子守唄に彼は眠ってしまった。
 聴き慣れない言葉で喋る彼女の声もまた魅力的だと思いながら。
 恋する少年は幸福に夢路を辿る。
 但し、この夜の夢は愛しいアスカの喋る言葉がすべてドイツ語らしき意味不明の言葉であり、彼はパニックに陥るといういささか悪夢に近いものであったが。
 もちろん、その夢のドイツ語はアスカが聞いてもやはり意味不明だっただろう。
 夢の主にドイツ語の理解能力が皆無なのだから。

 夜が明けた。
 7月7日、七夕の日。
 織姫と牽牛の一年に一度の逢瀬といっても、政府や教育委員会には何の効力もない。
 従って、本日はカレンダー通りに中学校では木曜日の授業が淡々と進んでいた。
 これが幼稚園であれば楽しく七夕の飾りをわいわいとしていることであろうが、数学英語音楽理科お昼体育社会。
 放課後になっても誰も七夕のことは話題にしない。
 中学生にもなって七夕の祭でもなかろうということだろうか。
 ただ一人。
 アスカだけは間違いなく今夜を楽しみにしていた。
 表面上は別として。
 ドイツは日本より8時間遅れ。
 ミュンヘンのラングレー家で執り行われる異国の祭り。
 彼女はその祭りに賭けていたのだ。

 彼も期待していた。
 いや、好奇心で一杯だったと言い換えた方がいいだろう。
 まさかアスカが『馬鹿シンジと恋仲になれますように』などと書くわけがない。
 いや、彼女は書きたくて仕方がないが、書けないだけなのだ。
 何しろ願い事を書いて笹に飾るとそれは神様だけでなくシンジの目にも触れてしまうのだから。
 従ってアスカは当たり障りのないことを書かざるを得ない。
 そんな事情があることなどシンジは想像すらしていなかった。
 だがしかし、彼女が何を書くのか、興味を持つのは恋する少年としては普通のことである。
 もしその願いのどこかに自分への思いの欠片でも発見できたなら…。
 自爆覚悟で告白するか?
 そんなことができるわけがない。
 自爆して彼女を失うなど考えただけでも背筋が凍る。
 というわけで、彼はほんの少しの期待と、そして大きな楽しみを持って今宵の七夕に望もうとしていた。

 数時間後である。
 彼の楽しみは充足されたが、期待の方はまるで見受けられなかった。
 アスカはにこやかに次々と短冊を書いていった。
 あの独特の筆跡で。
 “世界平和”、“料理が上手になりますように”、“みんなが幸せになりますように”、
 “夏休みに海に行きたい”、“夢月庵の抹茶ソフトが食べたい”……などなど。
 シンジは苦笑し、そして首を傾げた。
 これらの願いがアスカらしいというからしくないというか。
 微妙にずれているような気がする。
 
 正解である。
 日頃の鈍感さはどこへやら。
 だが、そこからさらに一歩進んで考えるまでに到らない。
 まあ仕方がないとも言えよう。
 シンジもアスカも親の愛に育まれた子供時代は送っていない。
 その中で方向性はいささか違うが二人共に自己中心的な性格になってしまったのだ。
 だからこそ知らないうちに相手を傷つける言葉を発してしまったり、逆に優しい言葉のかけ方がわからなかったり。
 徐々にだが、そんな二人が前進している。
 そのきっかけと目的はまぎれもなく“愛”である。
 アスカはシンジの。
 シンジはアスカの。
 相手の“愛”が欲しい。
 だが、しかし。
 欲しいが、失くす方が怖い。
 すこぶる怖い。
 恐ろしい。
 考えるだけでも背筋が凍りそうだ。
 だから脅える。
 うかつなことをして、相手から嫌われることを。
 そしてそのために目が曇る。
 見え見えの(無器用な)愛情表現をそれとわからない。
 近い線まで見えても、それは自分の希望が見せている幻影だと思ってしまう。
 この時もそうだった。

 シンジはかなり近いラインまでアスカの気持ちを読み取ったのに、最後の部分で読み違え失敗してしまった。

「はは、変だよ、これ。アスカらしくないよ、この短冊」

 ベランダからのその言葉を聞いた時、アスカの胸は大きく跳ね上がった。
 無論、精神的にだが。

「な、な、な、なにがよ!」

「だって、ほら」

 ごくん。
 渇ききった喉を潤す唾は彼女の口中のどこにもない。
 そこで、ごくんではなく、うっくっむぅっという珍妙な音をさせただけ。

「世界平和じゃなくて、世界征服とかの方がアスカらしいよ」

 そこか!
 アスカの眉がぐいっと上がった。
 あっという間に喉が潤ってくる。
 世界が平和で二人の未来もバラ色って言う意味なのにぃっ!
 さあ、襲撃の雄叫びを上げようとした時だ。

「でも、料理が上手になりたいって言うのはアスカらしくないなぁ。
 はは、馬鹿シンジがもっと料理が上手くなるようにって書いた方が…」

 かちん!
 アスカの眉間にくっきりと皺が入った。
 耳の奥で神経がぴきぴきと音を立てている。
 アンタに美味しい手料理を食べさせてあげたいって言う乙女心なのにぃっ!
 さあ、悪罵の機関銃を乱射しようとした時だ。

「あっ、明日の放課後に寄ろうか、夢月庵。抹茶のソフトクリーム食べに」

 ぎぎぎぃぃぃっ!
 急ブレーキ。
 アスカは全ての攻撃的因子を抑えこんだ。
 そして、仁王立ちしたまま、短く答える。

「驕ってくれるなら」

「うん。でも、ソフトクリームだけだよ、驕るのは。他のわらび餅とかみたらし団子とか…えっと…」

「ケチ。男の癖に」

「だって、この前みたいにレイのお土産まで驕らされるのってたまらないよ」

「はんっ、兄弟愛のないやつ。じゃ、アタシの可愛い弟たちにもお土産はないのよね」

「だ、だ、だって、ドイツだろ。届けられないじゃないか」

 と、言い返してみたものの、シンジはすこぶる後悔した。
 点数を稼ぐチャンスだったのに。
 これも懐具合を気にして妹のことを蔑ろに考えた報いに違いない。
 彼は深く自分を戒めた。
 もっと度量の大きな人間にならねば。

 さて、アスカはどうしたのだろうか。
 外見上は唇を尖らせて、眉間に皺を寄せ、そして腕組みをして、
 自分は今不満この上ない状態だと精一杯のパフォーマンスをしている。
 精一杯、というのは彼女の機嫌が180度変わってしまったということだ。

 ここで彼女の名誉のためにはっきりしておこう。
 アスカが食いしん坊で食べ物に釣られたわけではない。
 
 願い事が叶ったからだ。
 
 些細な願いである。
 正直に言って、彼女は適当に書いたのだった。
 夢月庵の抹茶アイスでなくてもよかった。
 別にシャルロッテのチーズケーキでもよかったし、來來軒のとんこつ味ねぎ大盛りチャーシューメンにんにく抜きでもよかったのだ。
 短冊の数は30枚あったので半分に分けたのだが、やがてネタには詰まる。
 そこで適当に書いた、最後の方の一枚だったのだ。
 我ながら馬鹿げた願い事だとは思ったが、とにもかくにもその願い事は叶うのだ。
 こんなに目出度いことはないではないか。
 アスカは嬉しさを抑えるのに必死だった。
 何しろ彼女は幼児期を日本で送ってはいない。
 したがって家庭や幼稚園などで七夕を祝った経験はない。
 今夜が初めてなのだ。
 だからこそ、彼女のワクワク度はシンジの想像の域を遥かに超えている。
 異国の地の異教の祭り。
 一年に一度恋人同士が再会するという、とんでもなくロマンチックなシチュエーションの元での祭りの上に、
 なんと短冊に願いを書けばその願いが叶うという。
 恋する乙女真っ盛りのアスカとしては胸のドキドキが収まらないのである。

 さて、家庭的には恵まれてはいなかったが、その成長に応じて七夕を幾度も経験してきたシンジは?

 抹茶ソフトは軽い気持ちだった。
 願い事を叶えるとかそういう優しさで申し出たのではない。
 まさに、なんとなく言ってみただけなのだ。
 これが第3新東京グランドホテルのディナーとでも書かれていれば、当然知らぬ顔を決め込んでいただろう。
 お金もない上にマナーも知らないのだから、好きな女の子の前でわざわざ恥をかきたいと思うわけがない。
 また、これがシャルロッテというメルヘンチックなお店に入っていく勇気はない。
 しかもアスカと二人連れで。
 來來軒もまたシンジは訪れる気はなかった。
 休みの日のお昼ご飯に外食というのなら別だが、この年頃の男子としてはかなりささやかな胃袋を持ち合わしている彼だ。
 トウジやケンスケのように学校帰りにラーメンやお好み焼きという重量級の買い食いはできない。
 そんな彼としては学校からの帰り道にソフトクリームを食べる程度なら何の問題もない。
 
 つまり、今回はただ単に運がよかっただけだったのだ。

 ただし、もしアスカがこの事実を知ったとしても平然と言ってのけただろう。
 『運も実力のうち』だと。

 そして、七夕の効力を実感したアスカは次の攻撃に出た。
 
「馬鹿シンジ!じゃ、海はっ!」

「えっ、海?」

 その時、シンジの頭の中にあるイメージが鮮烈に蘇った。
 赤と白の横縞の水着を着た少女の姿が。
 ああ、もっとよく見ておくんだった!

「ええっと、どこの海?」

「どこだっていいわよ!海であればそれでいいのよ!」

「で、でも、泳げないといけないよね。うん。泳げる海で」

 もはや下心全開である。
 だが、願い事の二つ目が叶いそうな感触を得ているアスカは少しもそれに気がついていなかった。
 この日のシンジは運が良かった。
 
「どこだっていいって言ってんじゃない!で、連れてってくれんの?くれないの?」

 詰め寄るアスカに「ダメだ」と言えるわけがない。
 もとよりシンジも海には行きたいのだから。
 かなり不純な理由で。

「だ、誰かに頼めば行けるかも。ほ、ほら、お金の問題とかあるから」

 一瞬、アスカは音無しの舌打ちをする。
 二人きりではないのか。
 もっとも、二人きりというのは無理な注文だろう。
 まず、先立つものがない。
 それに子供だけでは宿も取れないだろう。
 日頃の鈍さはどこへやら。
 どうやらマイナス方向への心配の方にはいとも容易く気が回るようだ。
 
「で、どうすんのよ。ミサトやリツコは頼りにならないわよ。妊娠中なんだから。加持さん、じゃない、ミサトの旦那さんも。
 自分だけ夏の海に行くなんて聞いたらミサトが怒り狂うわ。で、誰に頼むのよ」

「ぼ、僕、電話してくる!」

 逃げた。
 テラス窓に立ちはだかるアスカの脇をすり抜けて、シンジは這う這うの体でリビングから廊下へ。
 あの様子では彼女が紙一重で避けてくれたことなど気がつかなかっただろう。
 
「電話って誰にすんのよ、馬鹿」

 憎まれ口を叩きながらも、彼女の顔はほがらかだった。
 この分では何と二つも願い事が叶いそうだ。
 いいや、料理については自分が頑張ればいいことである。
 アスカは小さくガッツポーズをとった。
 そして、少し考えておそらくその方向だろうと見当をつけた暗闇に、ぽんぽんと小さく拍手を打って拝む。

「本命はそっちなんだからね。お願いします!」



 拝むアスカから遥か…9395キロとちょっと西方。
 ラングレー家ではシュレーダーが目をくりくりさせながら小学校から帰ってきた。
 地軸が戻ったばかりなので、サマータイムは今年は見送られている。
 日本との時差は8時間。
 まだお昼の3時前だ。

「ママ!勝手につくってないでしょ!」

「こら、静かにしなさい。カールが眠ってるのよ」

「あ、ごめんなさい」

 彼もまた姉アスカと同様にわくわくしている。
 友達を振り切って全速力で学校から駆けてきたのだ。
 はあはあと息を弾ませて、彼はリビングの中央に立っている笹を確認した。
 まだ何の飾りもついていない。
 シュレーダーはニヤリと笑った。
 その表情がどことなく姉と似ていることを彼は知らない。
 姉もまた知らない。

「シュレーダー、おやつは?」

「いらない!ねっ、つくっていい?」

「あなたの大好きなプディングよ。アスカ式の」

「あとでいいっ!ねぇ!お願いだよ、ママ!」

「もう…騒がないで。わかったわ」

 この展開は充分読めていた。
 それがわかった上でマリアは息子との会話を楽しんでいるのだ。
 シュレーダーはハインツに似ていささか単純である。
 因みにアスカのそんな部分も父親似なのだろう。
 
「どれどれ?」

 わざとらしくアスカ手製のマニュアルを手にするとシュレーダーが慌てて奪い取る。

「僕が読むっ」

「きゃっ」

 わざと大仰な悲鳴を上げてマリアは愛する息子に紙を奪われてあげた。

「えっと、うぅ〜ん、ママ、これって“竹”のこと?」

 いきなり最初の文章で躓いている。

「辞書で調べなさい。自分でしたいんでしょう」

 マリアはちゃんと用意していた国語辞典(当然独独辞書)を差し出す。
 済ました顔でそれを受けとると、シュレーダーは急いでページをめくる。
 わからない文字のスペルを辿り、彼は彼なりに大人ぶった口調のつもりで母親に言い返した。

「意地悪ママ!いいよ、一人で調べるから。あとになって飾りたいって言ってもダメだよ」

「ふふ、がんばって」

「うんっ、がんばる!ええっと、お姉ちゃんの字読めないよ。僕の方がきれいな字を書くよ、絶対」

 ぶつぶつ言いながらも彼は楽しげだ。
 そんな息子の姿が愛らしくてたまらない。
 親バカというのはこういうことなのだろうとマリアは苦笑した。

「タンザク…って、この色紙のことかな?」

「たぶん、ね」

「あっ、ママ、先に読んだなぁっ」

「読んだだけよ。飾りの方には手をつけてないわ」

「くそぉ、大人だと思って。負けないからねっ。ああ、またわからない字だ」

 カールは寝付いたばかり。
 あと2時間くらいは眠ったままだろう。
 今夜のミニパーティーの準備も万全だ。
 しばらくの間、マリアは息子との時間を楽しむことにしていた。

「じゃ、僕の言う通りにしてよ!いい?」

「了解、隊長殿」

 おどけて敬礼する母親の前でシュレーダーは胸を張った。
 その手には書き込みだらけのマニュアルが。

「まずね、タンザクってのに願い事を書くんだよ」

「全部で何枚あるの?」

「待ってて」

 彼はテーブルの上の短冊を手にした。

「23枚。あ、でも、1、2…、3枚はもう何か書かれてるよ。読めない字で、ほら」

 息子に手渡された短冊には確かに日本語の文字が。
 もっともそのことをマリアはよく知っている。
 荷物が届いたら電話をして欲しいというアスカの頼みがそれだから。
 彼女の書いた見本の短冊もちゃんと飾って欲しいということだ。

「きっと日本語だよ。変な字」

「お姉ちゃんの願い事だからきちんと特等席に飾ってあげないとね」

「うんっ、一番いい場所をお姉ちゃんのにしてあげるよ」

 マリアはしげしげと読めない文字を眺めた。
 ここには明らかに大事なことが書かれている。
 そうでなければ、わざわざ電話連絡をして欲しいとは言ってこないだろう。
 どうせ、叶わぬ恋を成就させて欲しいといった内容だろうが…。
 日本語なら読めないと思って…。

「ねぇ、シュレーダー。もう少し一人でできる?」

「うん、大丈夫!」

「パパとママにもタンザク、残しといてね」

「じゃ、カールの分、僕が書いていい?ちゃんと赤ちゃんのお願いで書いておくからさ」

「うふ、お願いするわ、お兄ちゃん」

「任せて!」

 もう彼は一心不乱に短冊を見つめている。
 何を願うか。
 微笑むマリアはソファーから腰を上げた。
 向うは、パソコンの前。
 彼女には予感があった。
 3枚もあるのだから、きっとその中に…。



 日付が変わった。
 草木も眠る丑三つ時からさらに半時。
 アスカももう眠っていた。
 すやすやと。

 その時、電話が鳴った。

「……はい、もしもし…」

 たった一回のコールで電話をとるとはさすがアスカ。
 幼少から軍事教練を受けていただけのことはある。
 しかし、この場合は違っていた。
 彼女は受話器を枕元に置いていたのだ。
 2時近くまでもしかしたらマリアから電話があるかもしれないと待機していたのである。
 だから反応が早かったのだ。

「……」

 ところが、受話器の向こうに反応がない。
 寝転がったままでアスカは時計を見、眉を顰めた。

「間違い電話?こんな時間に…あのねっ」

 文句を言って叩き切ろうとした彼女の耳に、微かに息遣いが聴こえた。
 それだけで相手がわかったのは偶然なのかどうか。
 だが、アスカは確信していた。
 電話の相手はドイツにいる。
 
 パパ、だ。

 アスカは声を失った。
 何か言わないといけない。
 そう思うのだが、声にならない。
 いや、声にしようにも何を言えばいいのかわからない。
 実はハインツもそうだった。
 マリアに脅されて仕方なしに受話器を持たされた。
 なかなかボタンを押さない彼に痺れを切らし、その妻は覚えてしまっている遥か日本への電話番号をさっさと押す。
 心の準備も何もできなかった。
 深夜だからしばらくは出ない。
 もしかすると眠ってしまっていて電話をとらないかもしれない。
 そんな逃げ道を考える暇もなかった。
 あっさりと電話は繋がり、そこから流れてきたのは少女の声。
 日本語だったが、すぐにアスカだとわかった。
 わかった瞬間に胸が一杯になってしまった。
 もう、何も言えない。

 父と娘は微かに聴こえてくる、互いの息遣いに耳を顰めるだけ。
 懐かしさや愛しさやその他諸々の感情が心を支配している。
 もう憎しみなど微塵もない。
 ただこれまで相手を傷つけてきたという、その自責の念が言葉を失くさせているのだ。
 
 これはだめかも知れない。
 これを機会に父娘の間を取り持とうとしたマリアは唇を噛んだ。
 まだ早いのか?
 こんなに二人とも苦しんでいるのに。
 神様、まだ試練を与えようと仰るのでしょうか。
 
 だが、神様はその時天使を遣わせたのである。

「もうっ!パパったら、何か言いなよ。お姉ちゃんが困ってるよ、それじゃ」

 その少し甲高いボーイソプラノは日本まで届いた。
 そして、思わずアスカは喋った。

「シュレーダー?」

「…Ja.Ihr Bruder.,Asuka」

「Papa…」

 それだけだった。
 それ以上はまた言葉にならなかった。
 しかし今度は胸が詰まったのだ。
 アスカは嗚咽を漏らした。
 するとハインツは慌ててしまった。
 長い間言葉も交わしていなかった娘に泣き出されてしまったのだ。
 彼は言葉を尽くしてアスカを慰めた。
 まるで彼女が幼女であるかのように。
 だがそれがよかったのだろう。



 30分ほど後のことだ。
 まだ真っ暗な空の下、アスカはベランダに出ていた。
 手摺に肘をつき、形のいい顎を上げて夜空を見上げる。
 大都市ではあるが、もともとは自然の中にできた街だ。
 工業地区も周囲にない。
 だから意外に星はよく見える。
 時間も遅い所為か、うっすらと天の川も見えていた。
 アスカは織姫と牽牛の星も探したが、残念ながら星座の知識はない。
 パソコンで調べようかとも思ったけれども、何だかそれでは雰囲気が壊れてしまうような気がする。
 
「ま、いっか。きっと逢えてるわよ。こんなにお星様がキレイなんだもん」

 アスカは優しく微笑んだ。
 何年ぶりかの父の声。
 しかもそれは幼児の頃に耳にしていた、彼女をあやすような声音だった。
 まるでその当時の様に父親に抱かれているみたいな感触。
 あの時の父はとても大きかった。
 今はどうなんだろう。
 逢いたい。
 父に会って、ちゃんと詫びたい。

「ふふ、ごめんねってあれじゃダメよね」

 電話を切る間際に慌てて言った一言。
 
「Entschuldigung…」

 その一言にハインツは慌てた。
 こっちこそ悪かったと言ったものの、また最初に戻って二人ともだんまり状態。
 見るに見かねたのか向こうでシュレーダーが受話器を奪い取ったようだった。
 結局はしんみりとした電話は明るい感じで終わったのである。
 そして、アスカはもう眠れなかった。
 嬉しくて、嬉しくて。
 
「七夕って、最高よね。ホント…」

 もう何度目だろうか。
 同じ内容の独り言を呟くのは。
 アスカは大きく息を吸い込んだ。
 そして、目を閉じて、手摺に置いた掌をしっかりと握り合わせた。
 神様に感謝するかのようなその姿は闇夜にいと美しく…。
 いや、微かに手が震えている。

「ああっ、もうダメ!我慢できっこない!」

 アスカは鼻息も荒く目を開けると、くるりと背を向けて部屋の中に突入した。
 そして大股で向うは、同居人の部屋。
 何と彼女は彼の部屋の扉を蹴ったのである。
 ごん!ごん!ごん!
 3発蹴ると、「入るわよ!」と声高に宣言し扉を勢いよく開けた。
 愛しき人はベッドの中。
 完璧に熟睡していた。
 
「こらぁっ!起きろぉぉぉぉ〜っ!」

 叫ぶが早いか、アスカは眠れるシンジのパジャマの胸倉を掴み上下に揺さぶった。
 ここまでされて起きないはずがない。

「え、あに…?」

 かろうじて瞼は上げたものの、身体はまたその瞼を下げようと強制する。
 シンジもまたその身体の意見に賛成のようだ。
 微かに愛想笑いをして再び夢の世界に逃避しようとする。

「寝るなぁ!アタシの話を聞くのよっ!」

「き、きけばいいんらね。きくろ…」

「よしっ、よぉ〜く、聞きなさいよ!」

 アスカはシンジから手を離し、その場に仁王立ち。
 電話が鳴ってからのことを話し始めた。

「アタシはすぐに受話器を取ったわ。相手は誰だと思う?」

 シンジを見下ろすともはや愛想笑いのままに寝息をたてていた。

「1番、レイ。2番、ヒカリ。3番、パパ。さ、答えないさいよ」

 その時シンジは軽く息を吐き出した。

「残念、1番ははずれ!やっぱ、アンタは馬鹿シンジよね!
 正解は3番!パパだったのよ!」

 アスカはとにかく誰かに早く話したかったのだ。
 この嬉しさを訴えたかった。

「どぉ〜お?信じらんないでしょ!
 アタシ、パパと喋ったのよ。何年ぶりだと思う?
 ああっ、嬉しいよぉ!ねっ、アンタも嬉しいでしょ」

 再び夢の世界の住人となった彼は返事を返さない。
 それでも彼女は話を続けた。
 ここ最近の父親とのいきさつを喋る。
 嬉しげに、優しげに。
 いつの間にかその口調は柔らかいものになっていた。
 ずっと喋り続けていたアスカは一息つき、楽しそうに笑う。

「気の利いたことのひとつくらい言いなさいよ。ほら、よかったねって言って御覧なさいよ。
 今度は素直に“アリガト”って言ってあげるからさ」

 アスカはベッドサイドに膝をついた。
 交差させた指を支えに顎を乗せ、少し首を傾げる。
 そしてじっとシンジの寝顔を見つめ、囁くような声を出した。
 
「ホントに無警戒な顔しちゃってさ。ああ…ねっ、起きてる?」

 返事なし。
 むにゃむにゃとも言わず、微かに寝息をたてるだけ。
 アスカは疑わしそうに彼の顔をしげしげと見る。

「起きてるんでしょ、ホントは。ね、タヌキ寝入りってヤツ。違うの?」

 少し顔を近づける。
 こんなに顔を接近させたのは、あの後悔たっぷりのファーストキス以来。
 彼女はさっと頬を赤らめ、元の位置に顔を戻す。
 
「ふぅ…、危ない。危ない。ちょっと、アンタ。誘惑しないでくれる?」

 彼は眠っているだけ。
 誘惑も何もないものだ。

「キス…しちゃおうかな。これってチャンスよね」

 アスカはじっとシンジの唇を見つめた。
 知らず知らずのうちに彼女は舌の先で己の唇を湿らせていた。
 そのことに気づいて、顔をさらに赤らめそして苦笑する。

「やめた。二回目はアンタから。
 それに変なことして七夕の神様を怒らせたりしたら大変だもん」

 明日…いや、今日の夕方にはシンジと抹茶ソフトを食べに行く。
 海に遊びに行くことも一応決まった。
 そして、父親との何年ぶりかの会話。
 願い事が一気に3つも叶ったのだ。
 この調子なら他の願い事も叶うかもしれない。
 
「あ〜あ、こんなことなら書いときゃよかった」

 じっと、見つめる。
 起きているのかどうか。
 これでタヌキ寝入りならば、碇シンジはかなりの役者だ。
 100%眠っているとアスカは確信していた。

「ねぇ、寝てる?眠ってるんなら“寝てる”って言いなさいよ」

 アスカはさらに声を潜めた。
 目線はシンジの顔から少し上げて壁を眺める。

「短冊に、あ、アンタと、き、キスできますようにってさ」

 ちらりとシンジを確認。
 もちろん、ぐっすりと眠っている。

「言っちゃった、言っちゃった」

 暴れだしたいがシンジを起こしたくない。
 仕方がないので彼女は宙で拳を何度も上下させた。

「もうっ、せっかく言ったのに反応しないなんて酷いわよ、馬鹿シンジ」

 もし起きていれば彼女が望むような反応を示していたことだろう。
 しかし、今は彼は夢の世界の住人。
 そして、アスカもやがて夢の世界へと旅立った。
 残念ながら、同じ夢とはいかなかったが。
 
 その朝、いつもの時間に目覚められなかった二人は大慌て。
 学校に着いたのは9時前。
 もちろん、仲良く遅刻だった。




 ……
 ママ、聞いて。
 私、踏みつけられたの。
 気持ちよく眠っていたら、いきなり肩の辺りをぎゅって。
 眠っているシンジにパパとのことを報告して、そのまま眠っちゃったのよ。
 ベッドの下で丸くなって寝ていたらしいの。
 シンジもたぶん夜中に叩き起こされていつものリズムが狂ったみたい。
 で、目を覚ましたら8時になっていたから大慌てでベッドから飛び降りたの。
 着地したところにあったのが私の身体。
 私もびっくりしたけど、シンジも大驚き。
 まあ、顔とかお腹じゃなくてよかったわ。
 実は今でも少し痛いの、右肩の辺りが。
 ちょっとした打ち身って感じ。
 でも、痛いって顔はしないの。するもんですか。
 だけどね、シンジったら何も覚えてないのよ。
 だから教えてあげないことにしたの。
 どうして私があそこに眠っていたのか。
 おかげで彼の珍妙な表情を堪能できたわ。
 まあ、いつか教えてあげる。
 最大の願い事が叶ったら、ね。
 
 あ、それから最後にもう一度。
 本当にありがとう、ママ。
 ママの能力を見くびってたわ。
 まさか、日本語を解読されるなんて。
 ……


 
愛するアスカ。
 願い事を見ちゃってごめんなさいね。
 でも、タナバタというお祭りはみんなの前で願い事を宣言するみたいだし。
 言い訳みたいだけど、そういうことで許してね。
 アスカの三つの願い。
 一つ目は任せて。
 『ドイツのみんなが幸せで暮らせますように』
 ありがとう。嬉しいわ。
 この願い事は私たちがそれぞれの立場で頑張る。
 だから、絶対に叶うに決まっている。
 ハインツもシュレーダーもやる気満々だから。
 二つ目は、どうかしら?
 とりあえず、最初の一歩は踏み出せたでしょう?
 ハインツは最初は怖がって拒否したのよ。
 でも、私は言ってやったの。
 「あなたはアスカの願い事を踏みにじるつもりですか?」って。
 それでやっと電話をしてくれることになったの。
 『パパと仲直りできますように』
 あとは、二人でなんとかしなさい。
 そして、最後の願い事。
 これがアスカの最大の願いよね。
 『シンジと結婚できますように』
 日本の法律はわからないけど、まだ結婚はできないのでしょう?
 何年後になるか楽しみね。
 結婚式には私たち家族が揃って出席させてもらうわ。
 カールがシュレーダーくらいの歳になるのかしら?
 さあ、がんばって。
 この願いが叶うかどうかは、あなたと彼次第。
 私たちにはどうすることもできないわ。

 でも、ひとつだけ。
 私もあのタンザクにドイツ語で書いたの。
 アスカとシンジ君がずっとずっと一緒にいられますようにって。

 アスカに教えてもらった、タナバタの話みたいに二人が引き裂かれないように。
 
 追伸。
 同じ願い事をハインツとシュレーダーも書きました。
 きっと神様は叶えてくれるに違いないわ。
 何教の神様か全然わからないけどね。
 
 追伸の2
 さて、この飾りはどうすればいいの?
 枯れる前に教えて頂戴ね。


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