彼方からの手紙
(7) 〜 (8)
(7) 2016年8月
「海っ!」
車の窓からその光景を見たアスカは心からの叫びを発した。
この日のために一生懸命に選んだ水着。
シンジはきれいだと思ってくれるだろうか。
だが、その日は雨だった。
ママ、私って運が悪いの?
せっかくの海が…。
ずっと雨。雨。雨。雨。雨!
しかも集中豪雨。
こんなことは何十年かぶりだって民宿のおばさんが私たちを慰めてくれたわ。
夏期休暇をとって私たちを海に連れて行ってくれた、青葉さんとマヤさんも苦笑するしかなかったの。
二人も独身最後のバカンスを楽しむつもりだったんだもんね。
海水浴場の周りに室内プールなんてあるわけないし。
せっかくこの日のために新しい水着を買ってきたっていうのに。
シンジなんか頭にきちゃって、どうせ濡れるんだから一緒だと大雨の中を海に出ようとして。
私は必死になって止めたわよ。
死んだらどうするの?危ないから止めなさいって。
ごめんなさい。
止めたのはシンジの方。
アスカったら。
まるで子供ね。
でも、まだ15歳になってないのだから、子供でもいいのかしら。
あなたは一生懸命にがんばってきたのですからね。
私はそんなあなたを見てみたい。
大人の真似をしていない本当のあなたを。
ドイツでの日々とは違うあなたを。
で、次は山なんですって?
可哀相なあなたたちのためにネルフの方が準備してくださったんですから、
よくお礼を申し上げるんですよ。
それからご迷惑をかけない様に。
ホームステイになるのでしょう?ホテルではなく。
楽しさのあまり暴れまわっちゃダメよ。
さて、その山である。
長野と岐阜との県境にある温泉地だ。
今回の引率者は日向マコトだった。
そして彼らの宿泊先は、マコトの伯父さんの家。
遥かドイツからマリアに言われるまでもなく、子供たちは緊張この上なかった。
何しろ家庭的な雰囲気には無縁に暮らしてきた三人だ。
ところがこの日向家にはとてつもなく家庭的な雰囲気が漂いに漂っていた。
まず、曽祖父に曾祖母、祖父に祖母、父親に母親、息子二人に娘が一人。
上が78歳で一番下がまだ2歳。
因みにマコトの伯父さんは、このまるで見本のような続柄リストの中で祖父に当たる。
父親というのは彼の一人息子。
幸いにも78歳の曽祖父はボケも知らず、矍鑠たるもので毎日畑に出ているほどだ。
従って、家族の見本市のようなこの一家には、さすがのレイでさえ唖然としたくらいだ。
その上、家が広い。
元は旧本陣の屋敷だとか。
但し、子供たち三人は浅学にして本陣という意味がわからない。
参勤交代と言われても時代劇など殆ど見てこなかった彼らだ。
ましてドイツで教育を受けてきたアスカにはまったくわけがわからない。
マコトが説明することを神妙に聴いていた三人だったが、まずアスカが脱落した。
正座をしていたのが拙かった。
日頃は畳の部屋では生活しておらず、海の民宿では人目がないときは胡坐をかいていた彼女だ。
無論その人目の中にシンジが含まれていないというのはいかばかりの事か。
本来なら恋しい人の目こそ気にするものではないだろうか。
それなのに、彼の目の前では彼女はあまりに無防備。
しかしながら、あの日の頃のように、挑発的な態度と服装はさすがに控えている。
彼女の恋心はそういう方面の恥じらいは覚えたようだ。
少し脱線した。
彼らが通されたのは、その旧本陣のお屋敷。
そこを旅館にせずに温泉地の中心で、日向本家は別の建物で旅館を経営している。
旧街道から少し外れた場所に鉄道の駅ができ、そこが温泉街の中心となったからだ。
しかも由緒ある建物だけに商売に利用しようという発想が日向家の先祖にはでてこなかったらしい。
話は戦国時代から始まり、マコトの伯父さんと伯母さん、それに小さな孫たちが同席しているのだから、当然子供たちはかしこまる。
アスカの限界は8分30秒足らずだった。
「ごめんなさい!」
謝罪の言葉がすぐに出てきたのはアスカにしては殊勝であろう。
しかし、脚を崩そうとした途端に体勢が崩れた。
崩れた先は彼女の右隣で涼しい顔をして正座しているレイの肩先。
その肩にすがったアスカだったが、すがった先は堅固ではなかった。
レイは小さな悲鳴を上げた。
そして、彼女の身体もまた右に傾く。
レイの右隣には何もなし。
本間の畳が一帖分。
我慢強いレイは正座開始3分過ぎから必死に脚の痺れと闘ってきたのだ。
二人の少女がすってんこ。
因みにシンジは松代での生活で正座には慣れていた。
アスカもすがるなら左隣にすればよかった。
そうすればシンジの頼れる姿を見ることができたのだが、生憎と痺れたのは右足。
彼女とすればみっともない姿をシンジに見せただけの結果となった。
「これ、マコト。お前の話が長いのだ」
「そうよ。可哀相に」
年寄り二人は庇ってくれるが、幼児たちは容赦がない。
正座に慣れているから二人の惨状にくすくすあははは。
もっとも痺れに苦しむアスカの耳には笑い声は入ってこない。
「大丈夫、アスカ?」
「何よっ、ど〜してアンタだけっ、あつつつっ!」
「ごめん」
アスカに絡まれるのは日常茶飯事だが、レイにまで睨まれるのは慣れてない。
シンジはいささか居心地の悪さを感じながら、頭を掻いた。
もう一人、マコトも頭を掻いていた。
痺れる足をさする少女二人。
外から蝉の声が聴こえてきた。
私も一度日本風の旅館に泊まった事があったの。
秘守義務ってヤツだから、詳しいことは言っちゃダメなの。
でも、これくらいいいよね。うん、言っちゃう。
別に読後焼却なんかしなくていいわ。
つまりね。あのね。ああ、恥ずかしい!
その日、私はシンジに命を救われたの。
詳しいことは言えないけど、灼熱の地獄から助けてくれたのよ。
ああ、全部喋ってしまいたい。
今度確かめておくわ。どこまでなら喋っていいか。
で、和室の雰囲気は知っていたつもりだったけど、
この家の様子は、本当に“日本!”って感じ。
まあ写真を送るね。
ママたちが日本に遊びに来た時は、日本情緒たっぷりの場所を用意してあげる。
ありがとう、アスカ。
私達が日本に行くときはあなたの結婚式?
相手はもちろん彼よね。
そしてハネムーンはドイツ。
お願いだからそうして頂戴。
こっちでも盛大にお祝いしたいの。
ああ、ここに泊まれだなんて野暮なことは言わないから安心してね。
ママの意地悪!
(註)アスカはこの一言だけを書いてポストカードをドイツに送っている。
因みにその写真には、浴衣を着てにっこり笑っているアスカと照れ笑いを浮かべる日本人の少年が並んで写っていた。
マコトは今回の旅行の日程を現地の夏祭りに合わせていた。
そして、アスカとレイには黙って、二人の浴衣を用意していたのである。
サービス満点だ。
もちろん、彼の背後には碇ゲンドウという不気味な影(ビジュアル的に)があったのは間違いない。
ゲンドウはマコトにこっそりと頼んでいる。
喜ぶレイの写真を撮ってきてくれと。
ただし、用意したのが誰かは絶対に黙っておく様にと釘を刺したのである。
だが、アスカが釘抜きを持っていた。
真新しい浴衣をマコトの伯母さんが二人の少女に着せていく。
彼女たちに任せていたら、きちんと着ることなどできるはずがない。
一人は外国育ちで和服など着たこともない。
もう一人は日本で育ったが、使徒戦の間はプラグスーツと制服で通した猛者だ。
アスカの方はおしゃれは好きだし、着物に対して憧れを持っている。
そしてレイの方もほんの少しずつではあるが、ファッションに興味…、
とまではいかないまでも翌日の服装を考えるくらいには成長しているのだ。
マコトの伯母さんとしてもこの二人に着付けをするのは楽しい。
素材がいいからだ。
「まあ、こっちのお嬢ちゃんはさすがに外人さん…あら、ごめんなさい、外国人さんね。
すらっとしててきれいなスタイルだこと」
「ありがとっ!」
「あら、でも少し丈が短いわね。脚が長いのと、お尻がきゅっと持ち上がってる所為ね、きっと。
これは日本人には真似できないわ。羨ましい。」
そう言われると嬉しいものだ。
日本人になりたい…理由は明記しなくてもいいだろう…アスカだから外国人扱いされるといささか気分を害するのが普通だったが、
この場合は笑顔を隠せずに、心うきうき。
「まあ、このお嬢ちゃんの方はまるであつらえたみたいにピッタリだわ」
丈だけではない。
襟元から袖、裾、すべてにわたってレイの身体にフィットしている。
百合の花をあしらった紺の浴衣に濃い桃色の帯。
アスカは自分の浴衣と見比べた。
彼女の柄は桃色の地に紫色のヤグルマソウ。
嬉しいことに、ドイツの国花である。
そのことから考えてもアスカのためにしつらえたことは明らかだ。
だが、マコトの伯母さんが指摘したようにレイに比べて自分の脚の方が7〜8cm剥き出しになっている。
もちろんアスカに和服の裾の適正などわかるはずもないが、着付けができる人間が言っているのだから間違いはなかろう。
アスカの灰色の脳細胞はあっさりと正解を導いたのである。
「レイ?アンタ、最近採寸されたことあるんじゃないの?」
「ないわ」
「あ、そっか。採寸じゃなくて、身体検査。リツコにチェックされなかった?」
レイはこくんと頷く。
1ヶ月ほど前に微に入り細にわたるがごとき、綿密な身体測定をされた。
相手がリツコなだけに素直なレイは何の疑問も持たずに、
バストウエストヒップ股上肩首周りその他モロモロの寸法を取られたのだ。
さすがは鉄仮面リツコ。
何のための採寸かをまったく気取られずに情報を入手したようだ。
きっとわざわざ白衣を着たに違いない。そうアスカは想像した。
となれば、黒幕はまさに黒幕がお似合いの彼しかいない。
着付けが終わり男性陣にお披露目した後、アスカはレイの携帯電話を借りた。
「シンジのパパの直通は?」
「これ」
極秘のはずのゲンドウの携帯番号をレイはあっさりと曝露した。
「ありがと」とその番号をプッシュするアスカの表情に、あの邪悪な笑みが広がっていく。
ああ、こういう時はアスカはすぐに子供みたいになっちゃうな。
シンジは苦笑し、それでも誰に電話をしているかは気付かない。
そこのところは相も変わらずのシンジである。
「うむ、私だ」
威厳たっぷりの言葉が聞こえてきた。
当然であろう。
ディスプレイに出た通知番号はレイのもの。
ほとんどかけてくることがない彼女からの電話だけに、内心の嬉しさを一生懸命に抑えての威厳である。
「アスカです!こんにちは!浴衣、ありがとうございました!物凄く嬉しいです!」
実に普通の日本語である。
だからこそ違和感たっぷり。
「レイも嬉しいって言ってます。シンジは…」
彼はジーパンのままであった。
「あっ、ごめんなさい!間に合わなかったんですね!」
間に合うも何も、ゲンドウの感覚では男に浴衣をしつらえるなど論外である。
当然、シンジには何も準備されていなかった。
「う…、あ、そ、むぅ…」
油汗がぽたりぽたり。
アスカにはその音が聞こえるような気がした。
相手はシンジのお父さんなのだ。
苛めるのはこれくらいにしておこう。
「来年はよろしくお願いしますっ!シンジは全然っ、拗ねてなんかいませんから」
最後も明るく言い放った。
「う、うむ、問題ない。来年は、あいつのも、その、なんだ、任せておけ」
「はいっ、ありがとうございます!」
心の中で大きくガッツポーズ。
シンジの浴衣ゲット!
アタシが頑張ったんだからねっ。
本当はシンジに褒めてもらいたいものだが、今の状況ではそこまで自己主張できない。
わがままについては充分自己主張できるのだが。
彼のために何かをするということが恥ずかしくてたまらない。
だから、今回も浴衣の件は秘密にしておくつもりだ。
「はい、レイ。パパにお礼を言いなさいよ」
にっこり笑って、アスカは携帯電話を差し出す。
手の中の電話がゲンドウの動揺でぶるぶる震えているような気がした。
ゲンドウは息子のことを邪険に思っていたわけではなかった。
ただ浴衣を用意する気にならなかっただけ。
彼はマコトに言いつけていた。
息子を祭奉行にするようにと。
その夜は、夏祭りだった。
山腹にある神社の長い緩やかな石段にぎっしりと屋台が並んでいる。
アスカはもちろんそんな光景は初体験だった。
計画都市である第3新東京市にはお寺や神社といった類のものは中心地にはまるでなく、
盆踊りや祭りといった伝統行事も見受けられなかったのである。
もっとも平時ではなく、使徒戦途上であったことも大きな要因であったのは事実だが。
ともあれ、アスカにとってお祭りは初めてであることは確かだ。
念のために付け加えておくと、レイも同様である。
無表情であるかのように見えるが、レイもアスカと同じく心躍らせている。
そんな二人の少女を監督するのが祭奉行であるシンジの役目だった。
シンジは松代にいた時にお祭りに行ったことが何度もある。
あの引っ込み思案の彼をしても、美味しそうなものを食べ、面白そうなものを買ってしまう。
そんな誘蛾灯のような魅惑の屋台を彼は知っているのだ。
レイはともかく、あのアスカが屋台に魅了されないわけがない。
彼は確信していた。
確信は現実へと変化した。
石段の一番下。
つまり、最初の屋台。
ただ、団扇を売っているだけの屋台に、もうアスカは引っかかってしまった。
因みにレイも。
「シンジっ、これ欲しいっ!」
早速来たかと祭奉行は苦笑する。
まだ一段も上がっていないというのに…。
これでは先が思いやられる。
ただ、これが欲しいと叫んだ金髪の浴衣娘はまだ目当ての団扇がないようだ。
子供向けの団扇であろうがなかろうがまったく頓着せずに上から順番に見ていっている。
片やレイはといえば、もうすでに一本の団扇をしっかりと握りしめている。
「レイはそれにするの?」
いつものこくんではなく、大きく頷く妹が微笑ましい。
シンジは財布から300円を出した。
さて、アスカは。
未だに検討中だった。
シンジは、はぁと溜息一つ。
アスカがこれをはじめるととんでもなく時間がかかるのだ。
決めるときには瞬時に決めてしまうのに、悩みだすと止まらない。
それはショッピングの荷物持ちにつき合わされてるから彼はよく知っている。
余談ではあるが、その買い物のことを彼らはそれぞれ自分の頭の中ではデートという魅惑的な言葉に変換している。
傍目から見てもそれはデートに他ならないのだが。
「アスカ、まだ?」
「まだまだ」
レイは既に自分の所有物になったうさぎの団扇を嬉しそうに眺めている。
言い忘れたが、祭奉行の一行は計3人。
助けはいない。
シンジが一人で解決しないといけないのだ。
時間はまだ5時30分を過ぎたばかりだが、最初の第一歩で躓いてるようで何とも嘆かわしい。
そんなシンジの苛立ちにアスカはまったく無頓着だ。
その時、彼はマコトの言葉を思い出した。
祭奉行ってどういうことをすればいいのかと質問した時のことだ。
鍋奉行と同じでスムーズに物事が運ぶように、あるときは命令したり決定権を行使したりすることが必要だと。
シンジは大きく頷いた。
僕は祭奉行なんだ。
僕がやらないといけないんだ。
彼は手を何度も握りしめて、そしてついに言葉を発した。
「こ、これにすれば?」
指差したのは花火の絵の団扇。
別にそれが素晴らしいと思ったわけでもなく、指差しやすい場所にあっただけのこと。
ところがそんないい加減な提案があっさりと可決されたのだ。
「OK。お奉行様には逆らえないわよねぇ。じゃ、それにしたげる」
「え、いいの?」
お奉行ともあろうものがかなりの弱腰である。
その上、すっと差し出された白い手にどきりと驚いていては世話がない。
「お金。300円だって」
「あ、うん。ちょっと待って」
慌ててアスカの掌に銀貨を3枚載せる。
「どうも、お奉行様」
嫌味たらしく言うアスカだったが、内心はうきうきが止まらない。
この祭奉行システムは素晴らしいではないか。
こういう風にシンジに決めさせていけば、アスカの宝物がどんどん増えていく。
お金はシンジの手元から出て、決めるのもシンジ。
となれば、これは彼からのプレゼントだと認識してもいいではないか。
これは凄い。
アスカは決意した。
碇ゲンドウにお土産を買って帰る。
さすがは司令官だ。
シンジのパパは素晴らしい男だったのだ。
アスカは夏祭りを堪能していた。
浴衣という着物に不自由さは感じていたが、何も格闘をするわけではない。
先走る気持ちを少し抑えないといけないだけだ。
シンジからのプレゼントゲットで宝物うはうは大作戦。
食べ物だと胃袋に消えてしまう。
あれもこれもというわけにはいかず、アスカは物に執着せざるを得なかった。
「次はあれっ」
「あれって、お面だよ。アスカ、あんなのがいるの?」
「はっ、日本の文化研究よ。ドイツにはあんなのないもんね」
特撮やアニメの主人公のお面が、遥かドイツにあるわけがない。
シンジはアスカがまるで子供みたいだと苦笑する。
まるで自分がずいぶん大人になったような錯覚さえしてくるぐらいだ。
その余裕が慢心を産む。
「じゃあさ、あれは?」
指差したのは、昔に流行った怪獣のお面。
その名がバルタン星人というなどとは、ドイツの大学卒業生にもわからない。
流石にアスカは眉をひそめた。
こいつ、アタシを女だと思ってない?
「いいわっ。おじさん、これ頂戴!」
ニンマリ笑ってシンジに言われたとおりのお面を手にしたのは、思惑があってのこと。
そして数分後、いやがる祭奉行の頭の上にバルタン星人の顔が乗っかった。
「勘弁してよ、アスカ。こんなのいやだよ」
お奉行の威厳は台無しだ。
しかも面白がった屋台のおじさんがバルタン星人の泣き声を伝授したものだからたまらない。
アスカだけでなくレイまでが、シンジに向って「ふぉっふぉっ」とからかう。
おまけに通りすがりの少年にスペシュム光線を発射されてしまった。
もちろん、アスカの指示で「やられた〜」と演技までせざるをえない始末。
その演技があまりにぎこちないが故に笑いを誘う。
あげくの果てに少年に教えられたアスカがウルトラマンのお面を追加購入した。
第3新東京市に戻っても、しばらくはこれで遊ばれてしまう。
お奉行様は暗鬱たる気分で空を仰いだ。
境内にようやくたどり着いたときには、お奉行様は風呂敷包みを両手に持っていた。
何のために風呂敷を持たされたのか、その謎は解けた。
まさかお土産を持って帰れという意味ではなかろうと思っていたが。
もちろん風呂敷包みの中はアスカの宝物がいっぱいに入っている。
シンジが選んでシンジのお金で買った、楽しい夏のお祭りの思い出の品。
その中身が、他の者の目から見ればくだらぬおもちゃとかであっても。
お面にメンコ、びっくり箱に、金魚の形の如雨露、音の出る光線銃、その他モロモロ。
だが、それらの持ち主となった桃色の浴衣の少女は幸福感に包まれて、見るからに舞い上がっていた。
お祭り、最高!と。
そのアスカは神社の実物を見たのは初めてだった。
第3新東京市には公園はあっても神社仏閣らしきものはない。
鉄筋コンクリ造りの寺や宗教施設はあるにはあるのだが、想像していた京都奈良のイメージの建物などまるでない。
使徒と戦っている時には周囲をゆっくりと見る余裕など欠片もなかった。
あの、放心状態で彷徨していた時に実は彼女はお寺や神社のそばを通りかかっている。
思い出したくもない状況だったが、本当にどこをどう歩いたのかまるで覚えていなかったのである。
従って、ゆっくりと見ることができたのはこの神社が初めてというわけだ。
だが、彼女にとってはお寺と神社の違いはよくわからない。
超然としているレイにもその答は用意できない。
そして問われた祭奉行も当惑顔。
自分は管轄外でお寺や神社は寺社奉行の仕事だなどと、ウィットの効いた返事などシンジには不可能である。
どちらもお賽銭をあげてお祈りするのだから始末に悪い。
確か神社の方が拍手を打つんだよなと、シンジは必死に思い出していた。
しかし、明確な回答は結局不要だったのである。
がらんがらんがらんがらん!
この晴れやかな音にアスカは吸い寄せられた。
「シンジっ、あれ、何っ?」
「えっ、えっと、名前はなんていうんだろ。あの、とにかく、お参りするときに…お賽銭をあげてから…だったよね?」
訊いているのはアスカの方である。
だが、彼女はそんなシンジに文句を言わなかった。
お参りをする人の動きをじっと見ていたからだ。
見るからに頼りになりそうでない祭奉行を見限って、己の眼力で真実を見極めようとしたのだ。
その隣に同じように目を凝らしている色白の少女が立っている。
「レイ、わかった?」
「多分。でもお金がいるわ」
「そうね。ってことで、くださいな」
お奉行様の前に突き出される白い手が二本。
一本の掌はじっと動かず、もう一本は早くよこせとばかりにひらひらと動いている。
「ちょっと待って。5円玉がなくて…」
「はぁ?何けち臭いこと言ってんのよ。500円玉っ、よこしなさいよ!」
「そう。お兄ちゃんはケチ」
「ち、違うってば。こういうのってご縁がありますようにって」
「ご縁っ」
縁という言葉にすかさず反応したのはもちろんアスカ。
シンジとの縁。
なるほど、言葉遊びか。
しかし、それで願いが叶うならば素晴らしいではないか。
「じゃっ、5円玉。早く出しなさいよっ」
「そ、それが、ほら、みんな100円とか50円で5円って半端なかっただろ。だから…」
「アンタ、祭奉行なんでしょ!5円玉くらい用意しておきなさいよ!」
「職務怠慢」
レイにまで睨まれれば、シンジは走るしかなかった。
血相を変えた少年に両替を頼まれた社務所の巫女さんは笑いを堪えるのに必死だったとだけ付け加えておこう。
がらんがらんがらん!
やがて順番は回ってきた。
「私が先。だって、ファーストだもの」
「わっ、ずるい!」
くすくすと笑いながらレイは見よう見まねで賽銭箱に5円玉を投げる。
こういうときのしぐさと言うのはやはり血なのだろうか。
今日はじめて浴衣を着たというのに、所作振舞に違和感がない。
アスカとは大違いである。
そのアスカはレイを見て羨ましくて仕方がなかった。
つい大仰な動きになってしまい、裾が乱れたり、足を取られたり。
草履が脱げてしまったことも二度三度。
おしとやかな女の子になれたら、シンジも見直してくれるかな?
そんなことを考えていると、いつの間にかレイはお参りを終えていた。
「アスカの番よ」とせつかれて、急いで5円玉を賽銭箱に投げる。
がらんがらんがらんがらん。もうひとつおまけに、がらんがらん。
そして、ぽんぽんと拍手を打つ。
彼女は何を願ったのだろうか。
言わずと知れたことではあるが。
ママ、聞いてよ。
私が神様にお願いしたのは…もうわかってるわよね。
でね、寝る前にレイに訊いてみたの。
一心不乱に何をお願いしてたのかって。
そうしたら、何て言ったと思う?
世界平和。
まったく、あの娘はつかみどころが難しいわ。
でも、並べたお布団の上でね、さらっと言うのよ。
お兄ちゃんとアスカが幸せになりますようにともお願いしたわ、って。
で、ありがとうって言ってあげたら、でも二人が恋人になることが幸せに繋がらないかもしれない。
その場合は、二人は別れる運命になるのねって、真顔で言ってくれるのよ。
私、思わず枕をレイの顔に投げたわ。
彼女も私に投げ返して。
当然、私はさっと避けてレイを後から羽交い絞めにしたの。
それから腋の下とか腰とかをくすぐってやったわ。
声に出さずに爆笑するって、レイは器用な女。
逆襲された私はそんな真似できっこないから、大声で笑ってじたばた暴れたの。
ああ、何だか私たち子供みたい。
あ、念のため言っておくわ。
私もちゃんと祈ったわよ。
みんなが幸せでありますようにって。
貴女は小さいときから戦う訓練とかばかりで子供らしい生活をしていなかったでしょう?
その分、今を楽しめばいいと思う。
日本ではドイツみたいに将来をこの頃に決めてしまわないのよね。
小さい頃の時間を取り戻す意味もあるから、存分に楽しみなさい。
悔いを残さないようにね。
そうそう。
その“ジンジャ”というのは当然キリスト教じゃないわよね。
いいのかしら。異教の神にお祈りするのは。
もっとも、みんな観光で京都や奈良に行ってるか。
私って堅苦しく考えすぎ?
あ、そうそう。
シンジ君ってクリスチャンなのかしら?
二人の間で宗教戦争が勃発したりしない?
日本人って仏教徒でも平気でクリスマスを祝ったり、ジンジャにお参りするのね。
不思議だわ。
まさに東洋の神秘。
シンジ君と顔を合わしたら、そこのところをしっかりと問いつめたい気分。
アスカ、通訳してね。
いや。
通訳してあげない。
ふんだっ。
「何だ、これは。これだけか、アスカが書いてきたのは」
「ええ、そうよ。それだけ」
「私のことは何もなしか?」
たった3行だけ書かれたポストカードを眺め、見るからにがっくりした顔のハインツである。
先日、七夕の夜に数年振りに娘と言葉を交わしたのだ。
わだかまりはほとんどなくなっている…と、思う。
だが、それ以降、娘からは何も言ってこない。
だったら自分からコンタクトをとりなさいとマリアに言われるのだが、その勇気はない。
臆病者と言われても言い返せないのだ。
ポストカードの娘はそんな父の思いを知ってか知らずか、晴れやかな笑顔である。
今度の写真は浴衣姿ではない。
ホットパンツにタンクトップで、頭にはお祭りで買ったウルトラマンのお面が乗っかっている。
その隣にいる少年はおそらくシンジだろうとマリアたちは判断した。
何故なら、彼の顔は得体の知れない怪物のお面で隠されていたからだ。
それがバルタン星人であるなど、普通のドイツ人である彼らにはわかりようもなかった。
その二日後、日本から荷物が届く。
帰宅してきたハインツを待ち受けていたのはわくわく顔のシュレーダーだった。
「パパ、遅いよ!待ちくたびれちゃった」
「何だ。どうして私を待っていたんだ。ああ、キャッチボールの相手か?」
「違う違うっ。お姉ちゃんからの荷物!早く開けてよ」
「ん?マリアはいないのか?何故先に開けないんだ」
「ママはカールの相手。眠らせてるんだよ。ほら、パパ、早くっ」
「わからんな。いつもマリアが…」
「だって、パパの名前になってるから、開けちゃダメなんだって。僕、怒られちゃった」
学校から帰り、荷物を見つけて、鋏を振りかざしているところを母親に止められたらしい。
ハインツは恐る恐る荷物の伝票を見た。
確かに、ハインツ・ラングレーが受取人になっている。
こんなことはこれまでなかった。
宛名はすべてマリアの名前になっていたからだ。
心拍数が上がる。
この歳になってこんなに緊張することが連続するとは想像もしなかった。
その緊張を生んでいるのはすべてアスカが原因である。
あの七夕の電話の時も心臓が爆発してしまうのではないかと思った。
ハインツはじっと荷物を睨みつけた。
新しいエンジンが出来上がったときでもここまでの緊張はもたらしてくれなかった。
彼の描いた設計図どおりに仕上げてくれれば、問題はまったくないと自信を持っているからだ。
だが、こと娘のことになると彼の自信など霧散してしまう。
その時、妻の声が聞こえた。
「ほら、ハインツ。さっさと開けないとシュレーダーがおかしくなっちゃうわよ」
「うんっ、僕、おかしくなって、お皿ごとカツレツ食べちゃうかも」
どうやら今宵のラングレー家の晩餐はカツレツのようだ。
カールはちゃんと眠ったのだろう。
マリアは腕組みをしてリビングの入り口で佇んでいる。
救いを求めるような眼差しを送ってきた夫に、マリアはつんと尖った顎を向けた。
「孤立無援か。まさか、爆発なんかしないだろうね」
冗談のつもりだろうが、少し声が震えている夫が可笑しい。
ハインツは箱の前に蹲った。
みかん箱くらいの大きさだが、ここはドイツ。
ドイツでは何と表現したものか。
とりあえず、じゃがいも箱とさせていただこう。
そのじゃがいも箱はガムテープで封じられ、さらに紐掛けされている。
「はい、パパ。鋏」
「う、うむ、そうだな、鋏がいるな」
「シュレーダー、ママのところにいらっしゃい。危険かもしれないから」
びくんとハインツの背中が動く。
そして、酷い冗談だといわんばかりに肩越しにマリアを睨みつける。
マリアは肩をすくめて、素知らぬ顔。
「大丈夫さ、パパ。この間、仲直りしたじゃないか」
「そ、そうだな。仲直りしたものな、アスカとは」
男らしく笑ったつもりだが、その笑顔が微かにひきつっていることをマリアは見逃さない。
やっぱりこれを用意していてよかったと、彼女は隠し持っているあるものをしっかりと握りしめた。
「よし、切ったぞ。シュレーダー」
「やったね、じゃ次はテープだよ」
「よし、任せておけ」
これでは親子の次元が同じではないか。
しかも息子の方に。
マリアはおかしくて仕方がない。
こういう性格だからこの人は可愛いのだ。
さて、では場所を移動して箱を開けるときの表情が見えるように…。
「よぉし、開けるぞ、シュレーダー」
「わくわくするね、パパ」
じゃがいも箱の蓋を開けると、そこにはまた箱があった。
但し、その箱の天面は固く紐で縛られている。
「なんだ?これも切らないといけないな」
ハインツは鋏を手にした。
そして、箱に食い込まんばかりに緊縛されている紐を切った。
その瞬間である。
勢いよく箱が開いたかと思うと、中なら何かが飛び出してきた。
言葉では表現できない奇声を上げて。
「うわっ」「ふへぇっ」
ドイツ、ミュンヘン、その郊外に住まうラングレー家の父と子が揃って尻餅をついた。
あまりの驚きにマリアがコンパクトカメラのシャッターを押したことに気付きもしていない。
中から飛び出してきたのは、蛸のお面をつけた人形だった。
びっくり箱の応用で蓋を開けると飛び出してくるように仕掛けたのだ。
もちろん、その悪戯が浮かんだのは、夏祭りの屋台で買ってもらったびっくり箱に相違なかった。
「はい、アスカ。ドイツからみたいだよ」
「はぁ?みたいって何よ、みたいって」
ソファーに沈没していたアスカがまるでバネ仕掛けの人形のようにぴょんと飛び上がるや否や、早速シンジに絡みつく。
部屋の中はエアコンをぎんぎんに利かせておらず、若干涼しいかと感じる程度。
「だって、僕には英語とドイツ語の見分けつかないから…」
頭を掻きながらエアメールを差し出す。
「勉強しなさいよ、そんなんだったらドイ…海外に行った時に困るでしょうが」
そう言いながらずんずんと迫ってくるのは、もちろんエアメールを入手せんがため。
因みにシンジの秘密を教えよう。
彼はこっそりドイツ語を勉強中だ。
当然であろう。
愛する女性の母国の言葉なのだ。
いつまでも、バームクーヘンのシンジではない。
もうひとつ因むと、彼が真っ先に覚えたのは“Ich liebe Dich.”である。
毎日毎夜、アスカの部屋に向かって鸚鵡のように繰り返していることを彼女は当然知らない。
もし知っていれば、“Ich Dich viel mehr!!”と叫んでいただろうから。
「はは、でも僕パスポート持ってないし」
アスカはエアメールをつまみあげた。
「アンタ馬鹿ぁ?アタシたちみたいな未成年者は身分証明書の代わりになるからパスポートくらい持っとくのがふつ〜よ」
普通は学生証でことは足りる。
だが、アスカの真意はドイツにシンジを連れて行きお披露目することにあり、それが故にパスポートは絶対必需品となる。
「そうかぁ、じゃ、ぼ、僕もパスポートを持っておかないといけないよね」
シンジの真意も同じだ。
もしアスカがドイツへ帰ってしまったら追いかけていかないといけない。
そうなると、パスポートは絶対必需品だ。
「なぁんだ。今日のはえらく可愛げのない封筒つかっちゃって…」
アスカの言葉が止まった。
差出人の名前を見たから。
ハインツ・ラングレー。
「どうしたの?」
「シンジ、アンタが開けてよ」
「へ?」
こんなことは初めてである。
よく見るとアスカの表情が強張っている。
シンジはサードインパクトのおかげで彼女と父親との確執を知っていた。
だからこそ、鈍感な彼でも察しがついたのだ。
「もしかして、お父さんから?」
いつになく素直なアスカはこくんと頷く。
「いいの?僕が開けて」
「ど、どうせ、中は読めないでしょ」
その通りである。
「読めないけどさ、でも…」
「べ、別に、怖いとかそういうのじゃないわよ。ほ、ほら、びっくり箱を仕掛けたでしょ」
『止めようよ』というシンジを脅して仕掛け作りに協力させたのである。
だからシンジもそのことはよく承知していた。
「それの仕返しだったらどうするのよ。よくあるじゃない。カミソリを仕掛けてるとか」
「ええっ、じゃ僕にやられろってことなの!」
「ば、馬鹿ね。そんなのパパが仕掛けてるわけないじゃない!
それとも封を開けたら白い粉が舞い散って、あっという間に血を吐いて倒れるとか」
「ちょっと待ってよ。アスカのお父さんってそんなことするの?」
「馬鹿っ!するわけないでしょ!」
いったいどっちなのだ。
シンジはいい加減阿呆らしくなってきた。
忍耐強く見られる彼だが、意外と気は短い。
「開ければいいんだろ、わかったよっ」
開けた。
びりっと破って。
あっさりと。
開けた瞬間にアスカは思わず一歩進んで二歩下がる。
まさか本当に何かの嫌がらせがされているとは思いもしないが。
シンジは封筒に指を入れ、中身を引っ張り出した。
「はい。中に入ってたのは、手紙と…写真?」
「写真?」
ずずいっとアスカが迫り来る。
そしてシンジに並ぶようにして、その手の中の写真を覗きこんだ。
そこに写っているのは、すってんころりと尻餅をついているハインツとシュレーダー。
その姿勢から表情までもそっくりだ。
「えっと、お父さんと弟さん?」
「うんっ。可愛いでしょ、シュレーダー」
「これって、びっくり箱を開けたときかな?誰が撮ったんだろ」
「ママに決まってんじゃん。でも、上手く撮ったわねぇ。悪戯のこと教えてなかったのに。さすがは、ママねっ」
その時、アスカは今の状況に気づいた。
二人で顔をくっつけるようにして一枚の写真を見ている。
急に恥ずかしくなった。
「アタシへの手紙なのっ」
それだけ言うと、封筒ごと引っ掴んで自分の部屋に退場した。
取り残されたシンジは少し呆気にとられ、そして破顔する。
とにもかくにも、アスカの機嫌がいいという事は素晴らしい。
おそらくはあの機嫌は持続するだろう。
シンジはよしっと自分に気合を入れて、食堂に向った。
今宵はいつもより美味しい晩御飯にしてあげようと誓いながら。
親愛なるアスカ。
こうしてお前に手紙を書く日が来るとは思いもしなかった。
私はそれを嬉しく思う。
ああ、最初に告げておかねばならない。
私は手紙が苦手だ。
いや、うまく書けないのだ。
しかも私信など何年も書いていないので、なにやらビジネス文書にしか見えないような気がする。
初めての手紙がこんな乱文乱筆のもので、本当に済まないと思う。
だが、あれには驚いた。
爆弾が入っているのではないかと冗談を言っていたので、余計に驚いたのだ。
おお、邪推しないで貰いたい。
お前を疑ったり、変な目で見たわけではないのだ。
つまり、何と言うか…、ああ、上手く文章にならない。
マリアなら上手く書いていると思う。
私はダメだ。思っていることを表現できない。
あの、びっくり箱のオバケはシュレーダーに取り上げられてしまった。
あいつはお前から送ってきたものは全部宝物のようにしている。
みんなお前のことが大好きなのだ。
そうだ。贈り物をありがとう。感謝する。
フウリンと呼ぶと書いていたな。
風の鈴。
なるほど確かにいい音がする。
私はあれをオフィスに持っていった。
だが、エアコンの風でフウリンは鳴りっぱなし。
周りから文句が来て、すまないが私は負けてしまった。
仕方がないので、風の通らないパソコンの脇に小さなスタンドを作って飾っている。
時々、自分の息でちりんと鳴らしているのだ。
これには誰も文句を言わさない。
遥か彼方の地にいる娘からのプレゼントなのだ。
愛する娘からの。
心からありがとう。
お前の父、ハインツより
追伸
あの写真は情けなく、恥ずかしいのだが、マリアはお前に送れと言って聞かない。
仕方なく同封した。
できれば、捨ててしまってくれないか。
最後にお願いがある。
お前の写真を送って欲しい。
デスクに飾りたいのだ。周りの連中に自慢をしたい。
できれば、あのキモノを着ているのがいい。
すまないが、お前ひとりで写っている写真がいい。
別に彼に含むところはない。
誓って言う。そんな気持はないのだが、できればお前一人の写真でお願いしたい。
変な手紙で申し訳ない。
我ながら下手な手紙だ。
アスカと、お前の友達たちに幸福を。
アスカは、丁寧に手紙を封筒に戻した。
そして捨てて欲しいといわれた写真を机の真正面に置く。
「誰が捨てるもんですか」
写真を見て微笑む彼女は引き出しを開けた。
そこに入っているのは温泉地で撮った写真である。
シンジが相田ケンスケから借りたカメラで撮ったものだ。
アスカ一人で写っているものは結構な数がある。
その数の多さがシンジの愛情を示しているのだが、そこの部分にはアスカの気は回っていない。
もとより、同じ数の写真がシンジの部屋に隠匿されていることも知るわけがない。
「ホントに酷いわよね、シンジと一緒の写真がダメだなんてさ。パパってすっごくエゴイストでサディストかも」
確かに父が自嘲しているように物凄く堅苦しい手紙だ。
だが、アスカにはそのことでさえ嬉しかった。
苦手な手紙を自分に書いてくれた。
よし、すぐに写真を送ろう。
彼女は引き出しの中の写真を見つめ、そしてニヤリと笑い立ち上がった。
愛するパパ。
写真を送ります。
残念ですがパパの要求通りに、一人で写っている写真にしました。
でも、選んでくれたのはシンジなの。
パパに送るから一番いい写真を選んで頂戴って頼んだら、なんと3時間よ。
部屋に篭って3時間もかけて選んでくれたの。
いいえ、眠ってたんじゃないわ。
私は廊下で立ち聞きしてたもの。
写真を選っている音や、ぶつぶつ独り言を言っている声が聞こえたの。
そして、選んでくれた写真には私も大納得。
お願い。
ちゃんとデスクに飾ってね。
パパとみんなに素晴らしい明日が来るように。
追伸
その写真の私が何を思っているかわかる?
あの時、シンジがシャッターを押した時、私はちょうど彼のことを思ってたの。
大好きよって。ああ、恥ずかしい。
ということは写真の私が微笑んでいるのは、シンジに向ってってことになるの。
もし、そんな写真がいやなら別のを送ります。
ただし、その写真は浴衣でもなく、あっかんべ〜と顔を歪めているものになるはずです。
でもそれはまぎれもなく、パパに向けられているのよ。
こっちにする?
どうする、パパ?
あなたのアスカより
(8) 2016年9月
ママ、日本人って不思議。
月を見て楽しむんですって。
“Otukimi”って言うの。
意味は“Die Mondlicht-Gesellschaft”。
わかる?ちょっと意訳しちゃった。
つまりね、何をするかというと…。
愛するアスカ。
日本人って本当に不思議。
月を見て楽しむのですって?
私には理解できません。
それに月の模様が“Reiskuchen stampfende Hasen”ですって?
ウサギはわかるけど、“餅”ってよくわからないわ。
ライスを団子にした、あの“おにぎり”という代物とも違うのでしょう?
インターネットでの画像を見るとマシュマロのように見えるけど…。
ごめんなさい。食べてみたいとも思えないの。
なんでもチャレンジしたがるシュレーダーは食べてみたいって言ってたけどね。
そうそう、月の模様についても調べてみました。
本当に模様が違うのね。
びっくりしました。
早速、シュレーダーは自由研究の題材にするって目を輝かせていたわ。
最近のあの子は“東洋の神秘”って題目の自由課題ばっかり。
まあ、向学心の役には立っているみたいね。
もっとも、あの子の本心は愛するお姉さまの住む日本のことをもっと知りたいってだけかもしれないけど。
やっぱり、そのお餅というものを送ってもらえるかしら?
親バカのマリアより
その手紙を読んだとき、アスカはすぐさまお餅の発送について取り掛かった。
正直言って食べたことはあるが…、いや、けっこう彼女はお餅が好きだ。
ことに焦げる寸前までかりかりに焼いた餅を砂糖醤油で食べるのが…。
いや、ぷにゅっと柔らかになった餅をぜんざいに入れて…。
しやそれよりも…。
ともかくお餅はアスカの好物となった。
「あまり食べ過ぎるとお餅みたいになっちゃうよ」
などとシンジに言われてもどこ吹く風。
いや、言われたその場は。
シンジの目が届かない場所に移動した途端に、アスカは大騒ぎを始めた。
洗面所に入るとまず扉に突っ支い棒をする。
そして洗面台の横にさりげなく置いている体重計を床にでんと据える。
その後、大きく深呼吸を二度三度。
そろりと左足を体重計の上に置く。
続いて右足をその横にそろえた。
次に顔を俯かせる。
もう一度深呼吸。
そしてようやく薄目を開ける。
当然、薄目でメーターは確認できない。
再度、深呼吸。
くわっと目を開いた。
声なき絶叫がぴしぴしとバスルームのくもりガラスを震わせた。
まずいまずいまずい、これはまずい。
ルパン三世も顔負けのスピードでアスカは真っ裸になる。
そしてもう一度、体重計に乗った。
息をも忘れてデジタルの数字を確認する。
5秒後、彼女はオールヌードのままで体重計に腰を降ろしていた。
頭を抱えて。
そうよ!アタシは成長期なのよ!
喜色を浮かべ拳を天井に突き上げる。
だが、アスカは唇を尖らせて自分の胸を見下ろした。
穢れを知らぬ純白の山の頂に(以下略)。
その乳房を両の掌で押さえてみる。
アスカゴッドハンドセンサーはここ数日の数値に増減がないことを確認。
このセンサーは超アナログではあるが、かなり精度がいい。
そのセンサーの数値と体重計の増減した値を(減ってはいないことは確かだ)比較してみる…までもない。
ゆっくりと立ち上がった彼女はアスカゴッドハンドセンサーを恐る恐る腰に。
再び、声なき絶叫。
太った。
間違いない。
成長して欲しい部分ではなく、逆に引き締めたい部分に肉がつく。
最低…。
絶望と悔恨の最中、最悪のタイミングでのほほんとした声。
「アスカ、お風呂まだ上がってない?」
般若の如き形相で扉を睨みつけ、呪詛の言葉をなげかける。
こういう時のボキャブラリーはまだ日本語では物足りないのか。
心の中の叫びは全てドイツ語であった。
そう、いまだアスカは声を出していない。
これが無声映画であったなら、画面いっぱいに読みきれないほどの分量で悪罵が書き連ねられていただろう。
彼女は音をさせないようにバスルームにそろりと裸身を移動させる。
慎重に蓋を開け、慎重に湯を桶にすくい、慎重に床にぶちまける。
白い湯気が浴室に少しずつ湧き上がり、アスカはほっと溜息を吐く。
そして、シャワーを勢いよく迸らせた。
当然、水温はまだ水に近いからその飛沫には身を任せたりしない。
バスタブに腰を下ろして、アスカゴッドハンドセンサーで腰の辺りや太腿をチェックしている。
ぶつぶつとひとりごとを言いながら。
内容的には成長期なのだから許容範囲内だとかそういった類のこと。
「おお〜い、アスカぁ。手を洗いたいんだけど…」
アスカは眉を顰めた。
口実にしても馬鹿らしすぎる。
手なら台所でも洗えるではないか。
「お〜い、いませんかぁ?眠ってるのかなぁ。入るよ。覗いたりしないから…。あれ?」
突っ支い棒のおかげで扉はガタガタと音を立てるだけ。
アスカはすぅっと息を吸い込む。
何故かわからないが、シンジを相手にするならばハイテンションでなければならない。
それが自然なのだ。
彼女は自分とシンジを隔てている2枚の扉も砕けよとばかりに大声を張り上げた。
「アンタ馬鹿ぁ?!洗うんだったら台所ですればいいでしょっ!それとも覗きが目的ぃ?
えっち!すけべ!ちかん!へんたいっ!」
「ち、違うよ。そんなんじゃないってば…」
ばたばたばたと足音が遠ざかっていく。
もちろん、シンジに風呂覗きをするという勇気はなかった。
ただし、はっきり言おう。
覗きはしないものの裸のアスカの少しでも近くに行きたかったという意志は絶対に否定できない。
だからこそアスカの罵声を背に慌てて逃げていったのである。
彼女は別の種類の溜息を吐いた。
そして、ドイツ語で呟いたのであった。
「Du Angsthase. Du kannst mich fangen. Ich wuerde mich nicht allzu stark
erwehren. Idiot...」
いくじなし。 襲ってもいいのに。 必要以上の抵抗はしないわよ、馬鹿。
シャワーを止め、その場でアスカは力なく仁王立ちした。
さて、改めてシャワーを浴びるべきか、それとも湯船に身体を沈めるべきか。
しばらくその姿勢でいると、アスカゴッドハンドセンサーが機能し始める。
センサーが位置するのは腰。
ぷにょぷにょぷにょ。
微妙に分厚くなっている…ように感じる。
さらに、ぷにょぷにょぷにょ。
そこでアスカはふと考えた。
どうして人に触られるとこそばゆいのに、自分で触るとまったくどうってことがない。
不思議なものだ。
その時、何か遠い記憶がふいに甦ってくる。
胸の奥が温かくなるような感覚。
同時に男の声が。
おそらくつい先日、数年ぶりに会話をしたからだろ。
サードインパクトまではその声音は冷たく、彼女にとっては思い出したくもない声だった。
だが、今は違う。
双方ともにぎこちなくはあるが、誤解は解け、実の父と娘としての関係を修復中なのだ。
その父の声が甦ってきたのである。
「Asuka. Du liebst das huh?」
父はいつもそう彼女に言っていた。
Asuka. Du liebst das huh? アスカはこれが好きだなぁ。
そうだった。
アスカはこれを父にしてもらうのが大好きだったのだ。
180cmを優に越える身長の父に持ち上げてもらう。
するとその父の頭を越えて、その向こうに知らない景色が広がる。
いつもの自分の目の高さとはまったく違う景色がそこにはあった。
まるで赤ちゃんねと母は笑っていたことも思い出した。
その頃のキョウコはまだ余裕があったのだろう。
常冬の国ドイツでもたまに陽がさんさんと降り注ぐ日もあった。
そんな時、近くの公園に親子でピクニックに赴いた。
まだ3つにもならないアスカは芝の上を走り回り、そして両親にじゃれついた。
「Kannst Du bitte mich hochheben?」
たかいたかいして!
「Asuka. Du liebst das huh?」
アスカはこれが好きだなぁ
「Ja,ich liebe es total!!」
アタシ、たかいたかいだ〜いすきっ!
何よ…。
アスカはぐっと天井を見上げた。
幸せを絵に描いたような家族だったんじゃないさ。
馬鹿…、馬鹿アスカ。
こんな素晴らしい思い出を忘れちゃって。
ホントに馬鹿。
彼女の頬を一筋の雫が伝った。
それがアスカには不服だった。
自分は泣き虫ではない。
決して、ない。
だから、この涙を隠そう。
彼女はシャワーのコックを捻った。
翌日。
アスカとシンジはドイツに送るお餅のことで喧々囂々。
クール特急便はドイツまで何日かかるか。
いや、そもそもクールにしたらいけないのではないか?
ではどんな餅を選べばいいのか。
真空パック?それとも搗きたて?
「アンタ日本人なんだからちゃんと知っていなさいよ!」
「そ、そんなぁ、そんなの無茶だよ。アスカだってソーセージのつくりかたとか知らないだろ」
「はっ、甘いわね、馬鹿シンジ。い〜い?ソーセージと言ってもね、その種類は…」
ソーセージで切り返えした自分が浅はかだった。
アスカは実に碩学である。
シンジはそう信じた。
何しろアスカは大学を卒業しているのだから。
だが彼は知らなかった。
大学では何から何まで、すべてを学ぶものではないということを。
工学部とか経済学部といった名前は知ってはいたのだが、漠然と中学の延長線上でしか考えてなかったのだ。
現在家事について猛勉強中のアスカが自国の代名詞の一つであるソーセージについて学習していたのは当然だろう。
そして、覚えたことを自慢したかった、それも当然。
その薀蓄を碩学と誤解したわけだが、アスカは珍しく彼の間違いを正した。
いつもならシンジに褒め称えられたことでいい気持になるだけで済ましている。
それが何故?
彼女には目論見があったのだ。
「そうなんだ。大学ってあれこれ勉強するんじゃないんだ」
「あったり前じゃない。専門的なことだけ。広く浅くじゃ意味ないのよ」
「ふぅ〜ん、じゃ、アスカってどんな勉強を…」
違う違う違う。そっちじゃないわよ、馬鹿。
「聞きたいの?絶対に眠くなるわよ。それでもいい?」
「あは、じゃ止めとく。でも、本当に凄いんだなぁ、アスカは」
むずむずむず。
天狗の鼻がどんどん伸びていきそうになるのを彼女は必死で押し止めた。
アタシはピノキオなんかじゃないわよっ!
「はっ、何を今さら。でも、案外専門的な事の方が簡単な場合もあんのよ」
「えっと…。どういう意味?」
無理矢理に話を自分の望む方向に捻じ曲げる。
何しろ彼女には大いなる目的があったのだから。
「そうねぇ、例えば語学なんてどおっ?」
さりげなく喋ったつもりだったが、語尾に力が入ってしまったのはご愛嬌。
だが、問われた方のシンジもあの父と母の間に生まれた子供にしては面の皮が薄い。
「え、え、えっ、語学ってドイツ語?」
そこまではアスカは突っ込んでいない。
無論、彼女の目的はそこに話を展開していくことにあったのだから、彼の返答は渡りに舟。
だから、シンジがいきなりドイツ語かと先走ってしまった理由について考えることはなかった。
「そ、そうね、ドイツ語の会話を例にしても全然問題ないわっ」
今回は思いのほかスムーズに話が進んでいる。
いつも、いつも、いつも、予想外の方向に話が展開していき、期待通りの終結にはなっていないのだ。
だが今日はどうも巧くいきそうな予感がする。
「知らない語学の勉強をするのって大変なのよ。
電子物理学とか量子構造学とかそんなのの方がよっぽど簡単なのよ!」
「えっ、そんなに難しいのっ」
シンジの顔色が変わった。
「ま、バームクーヘン程度のアンタにはわかりにくいかもしれないけどさ」
「酷いや、そんなの。ずっと前の話じゃないか」
「ふぅ〜ん、じゃ、今は?」
シンジは慌てて口をつぐんだ。
真っ先に飛び出してきそうになったのが、“Ich liebe dich.”。
毎日毎晩アスカの部屋に向かって囁いているのだ。
彼としてはバームクーヘン以上の大事なドイツ語なのである。
危うく誘導尋問にのせられて口走りそうになった。
ダメだ。まだ、早い。
こんなことを口にして嫌われたら大変だ。
アスカは僕のことなんてどうせ兄弟か何かみたいにしか考えていないんだから。
「え、えっと、ぐーてん・たぁく」
“こんにちは”程度でシンジは胸を張った。
『猿でもわかるドイツ語会話辞典』の1ページ目に書かれている言葉である。
「変な発音。Guten Tagじゃない。それにそれはバイエルンじゃ通じないわよ」
「えっ、そんな!」
シンジは『お猿でもわかるドイツ語会話辞典』を取りにいこうとし、何とか思いとどまった。
あんな本で勉強してるだなんてアスカに知られたくない。
何しろイラスト満載、それにドイツ語にはすべてカタカナでルビを振られているのだ。
アクセントも発音もあったものではない。
まずは片言でもいいから、そこからはじめようというシンジらしいその場しのぎのような考え方である。
因みにアスカは英語の時も日本語の時も、読み書き聞き取り発音、きちんと学習している。
完璧主義者の彼女らしいやり方だ。
但し、その会話の先生にしたのがいささかがらっぱち気味のおじさんだったのが、今となっては後悔して余りある。
周囲からしてみると、アスカの性格にとてもよく似合った喋り言葉なのだが、
さすがに花も恥じらう14歳、もっと美しい日本語が自分には似合うのだと確信している。
もっともおしとやかだと、そこまでは思っていない。
あくまで内心では、だが。
「バ、バイエルンって、アスカが住んでいたところだよね。えっと、ほら、あそこ。ええっと、スイスに近いところ」
「くわっ、スイスがバイエルンに近いのっ!逆さまっ!」
郷里のことを変に言われると何故か腹がたつ。
これはアスカに限ったことではない。
誰しもがそうだ。
「あ、そうなんだ。ご、ごめん」
雲行きが怪しくなってきた。
慌ててシンジは場を取り繕おうとした。
「で、でもさ、バイエルンってドイツ語じゃなかったんだね。知らなかった」
1,2,3,4…。
アスカはわざと日本語でカウントをとった。
次に、英語で10まで。
そして、ドイツ語で50まで数えた。
こいつは馬鹿シンジなのだ。
こっちを怒らせようとして、こんな馬鹿げたことを喋っているんじゃない。
その証拠にこの思い切りおろおろしている様子を見ればいい。
落ち着くのよ、アスカ。
シンジは黙り込んで自分を睨みつけているアスカに戦々恐々だった。
おそらく自分はとんでもないミスをしたに違いない。
バイエルンはドイツ語ではないという一言。
でもドイツ語の“ぐうてん・たぁく”が通じないって言うんだから…。
「あのね、馬鹿シンジ」
「は、はいっ」
ようやく出てきたその言葉が物凄い低音。
シンジが姿勢を正したのは当然だった。
「鈴原のヤツが礼を言う時何て言う?」
「お、おおきに…?」
恐る恐る言った答にアスカは何の反応も示さない。
ただじっとシンジを見つめるだけ。
その視線にたじたじとなりながらも、シンジは考えた。
答自体は間違っていないはず。
ということは…。
「あ、わかった。方言なんだねっ」
その瞬間、アスカの眉がくいっと上がった。
これがシンジの悪いところだ。
素直というか、考えなしに言葉を発する。
しかし、この答は間違ってはいない。
言い方が悪いだけだ。
アスカは露骨に盛大な溜息を吐いた。
「正解。けっ、ど〜せ、方言よ、ふんっ」
悪態付きのジャッジにシンジはまたもやしまったという顔になる。
そう言えば、トウジは「関西弁がほんまの標準語やんけ」と言っていた。
ああ、しまった。
ど、ど、どうしよう。
「あ、あのさ、つまり…」
「もういいわよ、間違いじゃないんだし。腹立つけど」
一言多いのはアスカの証し。
その一言でシンジがさらに沈む。
落ち込んだときの癖で顔を俯けてしまう。
あちゃぁ、またやっちゃった。
でもさ、シンジが悪いんだもん。
それにアタシはそもそも方言だなんて思ってないのよっ。
それをアンタのために折れてやってんじゃないっ。
で、でも、ダメよね。このままじゃ。
「え、えっとね、バイエルンじゃGuten Tagでなくて、Gruess
Gottって言うのよ」
「そうなんだ」
答えながらも視線はまだテーブルの上。
アスカはもう一押しすることにした。
「ほら、言って御覧なさいよ」
「う、うん。ぐる…ごっ…?」
「Gruess Gottよ。ぐりゅぅすごっとぅ」
シンジが発音しやすいように、ゆっくりと、そして少しシンジ風に日本語っぽく口にした。
こいつは無器用なんだから、徐々に慣らしていくしかないのよ、うん。
「ぐ、ぐ?」
「ぐりゅぅす」
「ぐりゅ〜す?」
「ごっとぅ」
「ごっと?」
「続けて。ぐりゅぅすごっとぅ」
「ぐりゅ〜すごっと」
嬉しいことにシンジは真剣に応じてくれた。
しばらくすると、Gruess Gottとまではいかぬまでも、グリュゥスゴットゥくらいまでは進んだ。
内心、アスカはガッツポーズ。
計画の進展とは異なったが、目的以上の結果ではないか。
もともとは、シンジにドイツ語を学ぶ気があるのかどうかを確かめたかっただけだ。
もしその気がないのなら、アスカのこともそれくらいにしか考えていないということになる。
「も、もしさ、あのさ、えっとね、アンタが…その、何よ、ほら、わかるでしょ」
残念ながらそこまでの洞察力がシンジにあるわけがない。
身体もすっかり馴染んだ夫婦ではないのだから。
ツーといえばカー、などという芸当は不可能だ。
「ご、ごめん。何?」
「そ、その、つまり、ドイツ語を…」
ごくりと飲み込んだシンジの喉の音は緊張するアスカの耳には届いていない。
「教えてあげてもいいわよっ。一日ひとつくらいなら、アンタみたいなど〜しようもないヤツにもなんとかなるんじゃないの?」
どうしてこういう感じに悪態つきならすらすら出てくるんだろうか?
アスカは自分の日本語能力を呪った。
「え。ど、どうしようかなぁ?」
シンジは途惑った、ふりをした。
心の中では、躍り上がって、創作ダンスでも披露したいほどの感激を受けている。
しかし、その思いを隠さなければという気持と照れが彼を芝居に誘った。
その反応を見てアスカがかなりがっかりしたことなど彼は知る由もない。
「一日一個くらいだったら、ぼ、僕でも大丈夫だよね」
「だ、大丈夫じゃないの。で、するの?しないの?どっち?アタシはこう見えても忙しいんだからっ」
つい凄んでしまうアスカに、シンジは慌てて返事をする。
それがまるで脅されて賛成したかのように見えることなど気づかずに。
「あ、う、うん。する、するよ」
結果の割りにアスカの心は晴れない。
これでは、シンジに強要しているのではないか。
本当はシンジの気持ちを知りたかっただけなのに。
「OK。じゃ、挨拶とかそういうのを教えてあげるわ」
アスカの落胆はシンジには見えない。
もっともそんなものが洞察できる二人ならとっくの昔に恋人同士へとステップを踏んでいただろう。
自分のことで手一杯なのである。
だから、シンジはさらに駄目押しをしてしまった。
あくまで自分の照れを隠すためにだ。
「ほ、ほら、アスカの家からかかってきた電話とかで困るじゃないか。だから覚えてもいいかなって」
照れ笑いの彼に、アスカはさらに落胆する。
それだけのことかと。
だが、やはり少しは嬉しい。
彼との距離がちょっとは縮まったような気がするから。
アホか、お前らそれ以上どうやって縮まろ言うんや。
鈴原トウジがナレーションを担当していれば、必ずそうぼやいたことだろう。
周囲の目の方が正しい評価。
ただし、本人たちがそう感じない限り、二人の仲は進まない。
むしろ、逆に一気に破局へと向ってしまう可能性も否定できない。
男女の仲はシナリオ通りにはいかないものだ。
さて、お餅の件。
結果的に言うと、アスカは忘れ去ってしまったのだ。
何故なら、とんでもないことがおこったからだ。
ハインツ・ラングレー、来日。
その知らせがもたらされたのは、碇ゲンドウ宅から帰宅したときだった。
レイはもとより、ゲンドウやリツコともども晩餐を楽しんだ。
リツコとレイの手料理を。
凄く旨いとは言えないものの、間違いなく上手になってきている。
その料理を食べながら、いつしか話題はドイツに送るお餅のことに。
何を送るか、どうやって送るか。
リツコがミニ餅搗きロボットを送ればいいと提案し、みんなが賛同したところで完成は来年になるがと冗談を言う。
あのゲンドウやレイまでが「ふっ」と声に出して笑った。
それからシンジがドイツ語の会話を少しずつ学ぶことも話題になった。
やはり親子というべきか、ゲンドウも外国語が苦手なこともリツコに暴露される。
会議の場でも通訳がいなくても平然と日本語で押し通すらしい。
彼は鼻で笑っていつものように「問題ない」と嘯く。
「僕はちゃんと勉強するよ」と真っ赤な顔で息子の方は決意表明した。
そんな彼を横目で見て、アスカはいい気分になる。
結局そんなこんなで、お餅の件については結論が出ないままに、アスカとシンジは碇家を退去したのだ。
胃袋と心を満腹にして。
留守番電話機にはメッセージが入っていた。
ドイツのマリアから。
急いで連絡が欲しいとのことで、アスカは少し不安な気持で短縮ボタンを押した。
するとどうだろう。
ハインツが日本に行くとのことなのだ。
あまりのことにアスカは声を失った。
黙り込んでしまった彼女を見てシンジは怪訝な顔。
しかもその耳から離れた受話器からドイツ語が聞こえてくる。
もしかすると悪い知らせかと彼は気もそぞろで。そして大きく頷いた。
彼女を支えるのは自分だ。
あの時と同じ間違いはおかさない。
シンジは意を決して歩み出た。
彼は気がついていないが、いつもの“逃げちゃダメだ”も“掌にぎにぎ”もなかった。
それが彼の成長を物語っていたのだが、本人の自覚もない上に今回は肩透かしに終わってしまったのである。
「アスカ?」
声をかけられて、彼女は息をすぅっと吸い込んだ。
それまで呼吸も忘れていたのである。
「何かあったの?ねぇ、アスカ」
重ねて問いかけるシンジにアスカはうんうんと大きく頷く。
そして、手にした受話器からマリアの声が漏れていることに気づいた。
驚きの声を上げ、慌てて持ち直しまるでマシンガンのようにドイツ語を喋りだす。
その表情に切迫感がなかったために、シンジはひとまず安心した。
だから元の席に戻って彼女を見守った。
よくもまああんなに表情豊かに、そして息継ぎなしで喋れるものだと彼は感心していたのである。
しばらくしてアスカは受話器を置いた。
その後、彼女はシンジに状況を説明した。
父親が日本を訪れるということを。
しかも2日後に。
香港で開かれる新規プロジェクトの会議に急遽ハインツの参加が決まった。
当初は開発部長が出席するはずだったが、持病のために緊急入院することになった。
そのためピンチヒッターとしてプロジェクトの骨子の一つである新エンジンの設計者である彼に白羽の矢が立ったのだ。
ハインツはドイツと香港を往復するだけのつもりだった。
もちろん、それはまだぎこちない娘との関係がそうさせていたのだが、
その予定を変えさせたのがマリアとシュレーダーだった。
会いたいのか会いたくないのかという二者選択の答を迫られ、無論会いたいと答えさせられてしまう。
しかし、こちらでの予定も向こうでの予定も一杯で、とてもではないが日本に寄るなど不可能だとハインツは主張する。
だがその主張もマリアが覆した。
夫のスケジュールと飛行機の時刻表を照らし合わせ、行きの行程ならば何とかなると結論を出した。
ミュンヘンから第3新東京国際空港への直行便に乗り、そこから香港へ飛ぶ。
そのインターバルは6時間。
それならば食事をして話も充分できる。
照れまくる夫を叱咤激励し、交通費の差額を自己負担することで会社とも話をつけた。
その上でアスカに連絡をとったのである。
「Kannst Du sicher Heinz erkennen?」
ハインツの顔わかる?
「Natuerlich. Ich hab das Bild geschickt bekommen. Er hat sich nicht so viel
geaendert.」
写真、送ってもらってるから。昔と変わっていないみたい。
「Das ist nicht wahr. Er hat schon viel mehr Falten und auch einen
dicken Bauch.」
そんなことないわ。皺が増えたし、お腹も出てきてるわよ。
「Denkst Du wirklich, dass ich ihn nicht erkennen kann? Hat er sich so viel
geaendert?」
わからない?そんなにかわったの?
「Das war ein Scherz. Keine Sorge, Ihr seid doch Familie.」
冗談よ。大丈夫、あなたたちは親子なのだから。
「Du! Scherzkeks!!」
ママったら、酷い。
「Ansonsten bitte pass auf ihn auf. Er wird sich bestimmt ausflippen.」
それよりあの人をお願いね。舞い上がっちゃうでしょうから。
「Du sagst das noch!! Ich weiss selber nicht, aber ich wuerde auch....」
もうっ!私だって、きっと…。
エンジントラブルだった。
新ミュンヘン国際空港を飛び立ったのが定刻より5時間遅れた。
その悪い知らせはアスカにも伝えられている。
「ふんっ、大丈夫!アタシは運がいいんだから!」
鈍感なシンジにもそれが彼女の強がりだとわかった。
リビングにいたたまれずに部屋に引っ込んでしまったからだ。
彼は気が気でなかった。
部屋の中でアスカが何をしているか、いや、どんなに悲しんでいるかがわかる。
ベッドでうつ伏せになっているのか、膝を抱えているのか。
気休めなど言えるわけがない。
そんな言葉が返って彼女を傷つけてしまうことは、サードインパクトの時に身に沁みて了解している。
自分が“よかったね”などと言ったがために、彼女の苦しみをさらに増してしまったのだ。
アスカは何も口にはしていない。
心を触れ合わしたことでシンジに知られたことがわかっている上に、そのことで彼が反省していることも知ったから。
さらに言葉で彼を追い込めば逆にシンジ自身が壊れてしまう。
サードインパクトは彼女を少し大人にしている。
そして、シンジも。
いや、もしかすると、ゲンドウたちをも大人にしたのかもしれない。
本当の意味の大人に。
アスカはひたすら待った。
見慣れた天井を見つめながら。
こういう時に悪い想像ばかりしてしまうのはやむをえないことだ。
だが、彼女には救いがあった。
それは、シンジの声だった。
但しその声は彼女に向けられたものではない。
10分に一度、空港に電話している声だ。
ミュンヘンを飛び立ったルフトハンザ航空の飛行機は今どこを飛んでいるのか。
何度も電話をかけるうちにシンジの声は恐縮度をどんどん増していく。
おそらくは彼の性格からすれば、電話など一度でもしたくないはずだ。
それが明らかに迷惑電話に近いことを繰り返しているのは何故か。
それは、自分のことを…。
アスカは違う違うと首を振り、大きく息を吐き出した。
あれは単に自分が不機嫌なのがいやなだけだ。
だから仕方なしにああしているだけなのだ。
アスカは溜息を吐いた。
こういう状況だったので余計にそんな風に思い込んでしまうのだろう。
本来の到着時刻の午後3時になった。
もちろん、飛行機はまだ空の上だ。
「アスカ。到着予定は7時45分頃だって」
扉の向こうからシンジの声がした。
「そう。じゃ、ちょっとは早くなったのね」
もう少し明るく言うつもりだったが、しばらく喋ってなかったためにこわばった口調になってしまった。
これではシンジにもっと心配をさせてしまう。
アスカは軽く舌打ちをしてベッドから起き上がった。
鏡で顔を確認する。
憂いのある表情をその中に見て、い〜だっと顔を思い切り歪めた。
この馬鹿アスカ。
さあ、行くわよっ!
「馬鹿シンジっ、着いてらっしゃいっ!特別にお供を許してあげるわっ」
電灯に慣れた目にリビングに差し込む陽射しが眩しい。
目を細めて、いつものポーズ。
足を踏ん張り腰に手をやって、多分シンジがいるだろうリビングを見やる。
「あ、え、も、もう、行くの?1時間もあれば着くよ」
「アンタ馬鹿ぁ?レディには準備が必要なの!まずお風呂に入って…」
「わかった!準備してくる!」
ばたばたとバスルームへ駆けていくシンジ。
その背中を見つめ、アスカはちょっぴりぎこちなく微笑んだ。
今日ほどシンジが一緒にいてくれることを嬉しく思えた事はないかもしれない。
もし一人でいたならば、虚勢や見栄を張ることもなく、ただ心のままに打ちひしがれていただろう。
彼がいるから、彼にそんな姿を見せたくないから、強気に出ることができる。
それが元気の素になるのだ。
「1分以内にしなさいよっ!でないと、ただじゃおかないからっ!」
アスカの叫びにバスルームから「ええ〜っ!」と悲痛な返答が。
その声に彼女は微笑んだ。
「馬鹿シンジ。無理に決まってるでしょ。……ごめんね」
午後7時には二人は空港に着いていた。
もしかすると飛行機の到着が早くなるという期待も手伝って。
淡い期待はものの見事に打ち砕かれ、到着予定は午後8時と訂正されていた。
乗り換える香港行きの出発時間は午後9時。
「ねぇ、シンジ」
「何?」
「アンタ、ちょっと暴れてよ。それで、香港行きの最終便を遅らせてくんない?」
「えっ、あ、あのさ、僕が暴れてもせいぜい3秒くらいじゃないのかなぁ、遅れさせるのは」
「じゃ、電話。爆弾仕掛けたとかどぉ?」
「お父さんの飛行機がさらに遅れると思うけど」
「アンタね、こういう時だけ頭の回りが速いのね」
その通りだった。
自分に危難が及ぶ時、つまりマイナス的な発想はかなり早い。
そんな自分をシンジは恨めしかった。
大好きなアスカに情けない男だと思われるに違いないと。
だが、今のアスカは落ち着かないままにシンジと馬鹿話をして気を紛らせるしかないのだ。
「どうせ、出張だからエコノミーよね。ってことは、ロビーに出てくるのは最初の方じゃないわけか」
フライトスケジュールの掲示板を見上げてアスカは溜息を吐いた。
「食事どころか、お茶も無理ね。もしかしたら、入出国の手続きとチェックインだけでタイムアウトじゃないの?」
シンジは何も言えなかった。
彼女が気休めを求めているのではないことは承知していたからだ。
彼は拳をギュッと握り締め、そして祈った。
少しでも早く着いてください。
場所だけでなく心も離れていた二人がやっと会えるのですから。
それから二人は国際線の到着口に移動した。
平日の夜である。
それほどの人ごみはない。
アスカは到着口の真ん前に立った。
そして、そのままじっと待ち続けたのである。
アスカはあの黄色のワンピースを着ていた。
その姿を見て、シンジは精一杯の勇気を振り絞って尋ねてみた。
どうしてその服なのか、と。
すると、アスカはそっぽを向いて吐き捨てるように言ったのだ。
「この服は運のいい服なのよっ」
当然、シンジは気分がよくなる。
二人が出逢った時にアスカが着ていた服なのだから。
だが照れが手伝って一言多くなるのが彼女である。
「ただ唯一の例外がアンタなのよねぇ。あれでケチついちゃったんだけどなぁ」
「はは、そうなの?」
「あったり前じゃない。ま、厄落としで着るって意味もあるかも」
大嘘もいいところ。
験かつぎの意味で大事にしまっていた黄色のワンピースを引っ張り出したのだ。
少し裾が短くなってさらにミニになってしまったことは気になったが。
午後7時58分。
ようやくルフトハンザ航空の飛行機が到着する。
その時、アスカは震えた声でシンジに願った。
「お願い。手を握って」
「う、うん」
ジーパンの太腿でごしごしと掌を擦ってから、彼はアスカの手を握った。
彼女の手は汗びっしょりになっていた。
そして、精一杯の力で握り締めてくる。
どうすれば彼女の気持ちを落ち着かせることができるのかと考えながら、彼は渾身の優しさを自分の掌に込めた。
「たぶん…20分。ううん、30分くらいかかるよね。アンタ、海外に行ったことある?」
「ないよ。パスポートも持ってないもん」
「そうね。そうよね。ああ、早く来て、パパ」
ついに本音が出た。
少し力の弱まったアスカの手をシンジはぐっと握る。
すると、彼女も握り返してきた。
何だか心が通じたような気がし、少し嬉しくなったその気持ちがシンジにはやるせなかった。
その時である。
「え…」
アスカが呟いた。
靴音高く響かせて到着口に向って全力疾走をしてくる男性が見えた。
「嘘。早すぎる…」
「お、お父さん?」
「多分。きっと…。ううん、パパ。絶対にパパっ」
すっと二人の手が離れた。
一瞬の喪失感に襲われたシンジは、しかし明るく笑った。
その時、アスカは既に駆け出していた。
「Vater!」
到着口のすぐ前で父と娘は向かい合った。
その姿を見て、シンジは自分の予想が外れてぽりぽりと頭をかいた。
映画みたいに抱き合うのかと思っていたのだ。
実はアスカも、そしてハインツの方もそのつもりだったのである。
だが、いざ手の届く距離になってみると足が止まってしまったのだ。
ほんの数十センチほどの距離が最後に残ったわだかまりなのかもしれない。
「Asuka?」
父の声は少しかすれていた。
アスカの方は声が出なかった。
だから頷くだけしかできなかったのである。
彼女は笑おうとした。
でも、まるで泣き笑いのようにしかなっていない。
しっかりしなさいよと自分を励ましても駄目だった。
そして、彼女の頬に一筋の涙が流れた。
その娘の涙を見て、不思議なほど自然にハインツの手が伸びたのである。
大きな手がアスカの頬を撫でる。
彼女はその懐かしい掌に頬を預けた。
すると何故かすっと笑顔がこぼれたのである。
目の下の辺りを父の親指が優しく擦る。
そうしているうちにハインツはようやく言葉が出るようになった。
何と言おうかと考えに考え抜いたはずなのに、出てきたのは普通の挨拶だったが。
「Lang haben wir uns nicht gesehen, Asuka.」
久しぶりだな、アスカ。
「Stimmt, Vater. Wie geht's Dir, und alle andere?"」
うん、パパ。元気?みんなは。
「Uns geht es allen gut. Und Dir?」
ああ、元気だ。お前は?
「Mir ist auch ok.」
うん、私も大丈夫。
本当に普通の会話だったが、このやり取りで気持はほぐれた。
ハインツの掌が離れていっても、アスカはまだ父の温かみが頬に残っているような気がしている。
父の手はこんなに温かく、そして優しかったのか。
失われた時間がとてつもなく惜しく感じられた。
「Es tut mir Leid. Ich wollte eigentlich zusammen mit Dir essen gehen."」
すまない。一緒に食事でもと思っていたのだが。
「Das macht nichts. Das war der Flug, der Verspaetung gehabt hat.」
飛行機が遅れたんだから仕方ないわよ。
「Und? Wo ist Dein Freund? Bist Du nicht zusammen mit ihm gekommen?」
ところで、お前の彼はどこだ?一緒に来たんじゃないのか?
わざと大仰にハインツは言った。
どことなくからかうような調子で。
問われたアスカはいつになく女の子らしく頬を赤らめ、シンジを紹介しようと振り返った。
しかし、そこに彼はいない。
「eh? 'r ist verschwunden. Wo ist er gegangen?」
あれ?いない…。どこいったんだろう。
「Vielleicht hat er uns Zeit geschenkt. Netter Kerl.」
気を利かせてくれたのかな。いい子じゃないか。
アスカは肩をすくめた。
父の言うとおりだと思うが、素直に認めたくない気持ちは何故だろう。
「Er koennte einfach vor Dir erschreckt sein.」
パパに驚いたのかもよ。
「Das kann nicht sein. Er ist wohl ein Mann, den Du verliebt hast.」
そんなことはないだろう。アスカが好きになった子なのだから。
「Du! Bitte kein Scherz!」
からかわないでよ。
シンジがその場にいないことがはっきりしているためか、彼女は心置きなく照れた。
顔を赤らめ、視線を逸らし、そしてあろうことかもじもじと肩をすぼめたのである。
ネルフ関係者、そして学校の友達でさえ見たことのないアスカがそこにいた。
14歳の等身大の少女が。
父の前だから子供に戻れたのか、甘えなのか、それは彼女自身にもわからない。
しかし、逸らした視線の先に大きな時計があった。
ほとんど会話していないように思えたが、時間は刻々と経過していた。
20:35。
アスカは唇を噛みしめた。
娘のそんな表情の変化にハインツは視線の先を追う。
彼もまた一瞬、無念さを顔に浮かべたが、すぐに穏やかな表情に戻した。
「Oops, ich muss schon gehen. Tut mir wirklich Leid. Ich werde es nachholen.」
ああ、もう行かないと。本当にすまない。この埋め合わせはいつか。
「Natuerlich. Versprochen?」
きっとよ。約束。
「Ja, versprochen. Bring ihn auch nach Deutschland.
Ihr seid immer herzlich willkommen.」
おお、約束する。彼を連れてドイツへ来なさい。みんなで歓迎するぞ。
「Schoen!」
ステキ!
アスカは大きく頷いた。
まるで小さな子供のように。
そして、思いついた。
「Vater? Ich habe noch eine Bitte."」
ねぇ、パパ。お願いがあるの。
「Ja? Sag mal.」
なんだい?言ってごらん。
「Kannst Du mir bitte hochheben, wie einst?"」
高い高いしてくれる?昔みたいに。
「Hier? Jetzt?」
ここでか?今?
「Geht es nicht?」
だめ?
「hmmm, ich bin etwas verwirrt. Aber es ist trotzdem Deine Bitte. Hoppla!」
少し恥ずかしいな。いや、お前の望みだ。よしっ。
「Wow!」
きゃっ。
腋のところをぐいっと持ち上げられる。
ああ、この感覚だ…。
ふわっと身体が浮き上がる。
“Asuka. Du liebst das huh?”
“Ja,ich liebe es total!!”
もう幼い頃のような会話にはならない。
だが、アスカの心の中で優しい父の声は何度もリフレインされた。
ほんの数秒のことだったが、彼女はたっぷりと堪能した。
長い間の空白がこれで埋まったような気がしたのだ。
だから、その後の彼女の言葉にはぎこちなさはすっかりととれていたのである。
「Vielen Dank, Vater.」
ありがとう、パパ。
「Du bist ja wirklich gross geworden. Und auch schwerer.」
大きくなったなぁ。それに重い。
「Um Gottes Willen! Du, Du, Du!!」
酷い!パパったら、もうっ!
アスカは唇を尖らせ、その表情にハインツは楽しげに笑った。
そんな彼の肩を叩いて笑いながら去っていく、外国人がたくさんいた。
中にはアスカの頭に手を置いて「よかったね」とか「いいお父さんだね」などと声をかけていく人もいた。
おそらく飛行機で一緒だった人たちだと思い、アスカはシンジを見て覚えた愛想笑いで応えた。
もっとも愛想ではなく、本当に嬉しかったのも事実だが。
しかしハインツの方はうんうんと頷くのが精一杯のようだ。
そんな対応でもその人たちはいい印象を受けるようでそれがアスカには不思議だった。
パパって、どれだけの人にアタシと会うことを話したんだろ…。
アスカがそんなことを思った時が、ちょうど幕切れの時となったのである。
そして、唐突に時間のことを思い出し、彼は大慌て。
スーツのポケットからチケットを出して、アスカの手に握らせた。
「Oops, ich werde den Flugzeug verpassen. Das ist Gutschein fuer
Geschenktasche.
Ich habe unterschiedlichen Sachen reingepackt. Tut mir wirklich Leid, aber ich muss schon los.
Tschuess, Asuka. Treffen wir uns zum naechsten mal in Deutschland.
Danke noch mal!
Mach's gut!!」
あああっ、乗り遅れる!これがお土産のバックの引き換え券だ。
いろいろ入っている。本当にすまなかった。
でももう行かなきゃ。じゃあな。今度はドイツで会おう。アスカ、ありがとう!元気でがんばれ!
その勢いにアスカはただうんうんと頷くだけ。
そして、他の人たちと同じようにアスカの頭をぽんぽんと父は叩いた。
お別れの挨拶をしようとしたが、娘にそれを言わさぬうちに彼は背を向けてあたふたと走っていった。
父の威厳も何もあったものではない。
その背中が到着口に飛び込もうとし、ガードマンにここではないと指さされ、離れた出発口へ全力疾走していく。
その間彼は一度もアスカを見ようとしなかった。
「Tja, er ist fort...」
行っちゃった…。
しかし、アスカはそれを酷いとは少しも思わなかった。
絶対に父は照れてしまったのだと確信していたのだ。
「Du, Idiot und Klumpen!! Aber ich liebe Dich!!」
馬鹿でドジなパパ!でも、大好き!
アスカはそう呟くと、くるりと振り返った。
そこに彼がいるような気がして。
ママ、聞いてよ!
パパったら本当に間抜けなんだから!
香港行きの飛行機をロビーからガラス越しに見送って、凄くいい気持で到着口に戻ったのよ。
そうしたらね、確かに荷物はあったわ。
全部。
そうなの!ノートパソコンから着替えまで全部よ!
パパは身体一つで飛行機に乗っちゃったの。
まあ、チケットを財布の中に入れていたから乗ることができたから、余計に荷物を忘れたみたい。
おかげでそれから大騒ぎ。
会議とかにいる書類とかがあったら大変じゃない?
パパがくびになったら困るもの。
だけど、データとかは持ち歩いてないから当座で困るものは衣類くらいだってわかったの。
ということで、パパには香港で何とかしてもらうことにして、この荷物は全部そちらに送ります。
当然、お土産を抜いてね。
以上、緊急連絡のエアメールでした。
本当にドジでしょう?
あなたのお父さんは。
まず届いたのが、あなたからの特別速達航空便。
高かったでしょう?これ。
その翌日に彼が帰ってきたの。
荷物を忘れたことなど素知らぬ顔をしてね。
当然、あなたから電話があっておかしくないのに、言い逃れができるって考えてたの。
航空会社の手違いだとか何とか。
馬鹿ね、男の人って。
素直に非を認めればいいのにね。
そうそう、ところでアスカ?
お餅はどうなったのかしら?
というのは冗談。
ちゃんと届きました。
お餅って変な食感ね。
ぷにゃってなったり、ぱりぱりになったり。
お月様を見ながらこれを食べてどうなるのかしら?
東洋の人って不思議なものの考え方をするのね。
そうそう、運んでくれた人が保存方法とかレシピの書いた書類を渡してくれたんだけど、
アスカ、どこの配送業者を使ったの?
ずいぶんと無愛想でサングラスまでかけてたわ。
間違いなく東洋人でしかもドイツ語が通じないの。
紙に書いてある通りに滅茶苦茶な発音で喋るのよ。
わからないからその紙を見せてもらったの。
人手不足なのかしらね。
それともまさか日本から受け付けた人が直接持ってきたとか?
ママ!
その人、シンジのパパ!
絶対にそうだと思って、シンジに確認したの。
でも彼はぜんぜん知らなくて。
実家の方に電話をしたらやっぱりそうだったの。
ちょうどスウェーデンで会議があったからついでに寄ったんですって。
ついでって、どれだけ離れてるのよ!
会議はしばらく続くそうだから、帰国したら丁重にお礼を言います。
国際電話でお礼をって言ったんだけど、そんなことをすれば会議が目茶苦茶になるんだって。
どうもその程度であの人がハイテンションになるって想像も出来ないんだけど、
奥様がそう仰ってるんですからそうなんでしょうね。
ねぇ、ママ。
シンジのパパに変なこと言ってないでしょうね?
もし何か妙なことをしてそれが原因で私のことなど認めないなんて言い出された日には…。
って、まずシンジに認めてもらわないといけないのよね。
あ、ごめんなさい。
お餅のことはすっかり忘れてました。
パパのことで頭が一杯になっちゃって。
多分私のそんな様子を見て、シンジのパパとママが気を利かせてくれたんだと思う。
それでいて私やシンジに何も言わないのは、まあそういう人たちなのよ。
ちょっと…いいえ、けっこう変わった人たちだけど、根はいい人たちなの。
それからもう一つ大事なことを。
パパのこと。
飛行機から一番に降りてきたのが不思議だったのよ。
するとね、香港行きの飛行機を見送って、前に書いたように荷物のことで大騒ぎしていたときに、
ルフトハンザのスチュワーデスさんが通りかかって、その謎を教えてくれたの。
なんと、パパは飛行機の中でスチュワーデスさんからマイクを借りて、もしかしたら奪い取ってかもしれないけど、
それで、演説をしたらしいわ。
愛する娘と10年ぶりに…って少し四捨五入したみたいね…再会するが、すぐに香港行きに乗り換えないといけない。
お願いだから一番に降ろさせてくれないか、と。
私、見てみたかったなぁ。
スチュワーデスさんによると汗びっしょりで熱弁していたそうよ。
そして、そのお願いは満場一致で受け入れられたの。
着陸して、すぐに機長がアナウンスしたんだって。
『大変お待たせいたしました。ハインツ・ラングレー様、娘様がお待ちかねですから、どうぞお急ぎください』って。
ウィットの利いた人ね。
それからパパは拍手と歓声の中を最初は歩いて、だんだん早足になって出て行ったんだって。
到着口のところじゃ全力疾走してたわ。
あんな感じで突っ走ってたらアメリカじゃ問答無用で射たれてるわよ。
でも、嬉しかった。
物凄く嬉しかったの。
ああ、書き足りない。
今日は超大作になりそうよ。
覚悟して読んでね、ママ。
「リツコ。その、なんだ…」
「何?今、こっちは夜中なんだけど?用があるなら手短にお願い」
「うむ、こっちも会議中だ。忙しい」
「あら、電話していていいの?今日はEUのお偉いさんと楽しい会議でしょう」
「ふん、待たせておけばいい。それよりわしは気になってたまらぬのだ」
「はぁ。何が?」
「どうして餅なのだ。団子ではないのか。正月ではなく、月見なのだぞ」
「あ…」