彼方からの手紙

(9) 〜 (10)



(9) 2016年10月

 ママ、シンジってすっごくエッチなのよ。
 同封した写真を見てもらったらわかると思うわ。
 こんな写真を見たらパパは何て言うのかしら?
 まさか、シンジを許さない!なんて怒るんじゃないでしょうね。
 もし、そうなら絶対にこの写真は見せないでね。
 だって、パパが許してくれなかったら、私が困るんだもの。
  


 
何やら支離滅裂な手紙をまず読んでマリアはふふふと笑った。
 
「何これ。で、どんな写真なの?」

 同封されていた10枚以上ある写真を彼女は手にする。
 だが、その一枚目を目にするや否や、彼女は吹き出した。
 見るも無残なピンボケ写真である。
 いや、ピントではなく、手ブレなのだろう。
 撮影された場所が空港のロビーであることだけはなんとなくわかった。
 
「よかった。コーヒーを口にしてなくて」

 マリアは楽しげに呟くと、コーヒーカップを手にした。
 そして一口褐色の液体を啜ると、すぐに飲み込む。
 この調子では2枚目の写真が彼女を笑わせないという保証などないからだ。
 しかし、2枚目も同じ。
 3枚目も、4枚目も、すべてブレてしまった写真である。
 どうやら写真の中央に黄色の服を着た人間がいるようだ。
 その黄色の服はアスカではないかと彼女は察した。
 ドイツから日本へと旅立つ時、アスカがその服を着ていた記憶がある。
 黄色のワンピースを着て、彼女は胸を張って言ったものだ。

「詳しくは言えないけど。アタシ、日本の連中に負けないから!」

 そんな台詞を思い出して、マリアはまた楽しげに笑った。

「詳しくは知らないけど、アスカ、日本の彼に結局負けちゃったみたいね。
 あ、でも、彼もアスカに負けてるのよね、きっと」

 そして、最後の一枚だった。
 16枚目にして唯一のちゃんとした写真だった。
 手ブレもなく、ちゃんとピントも合っている。
 その写真の中央には黄色のワンピースのアスカがハインツに抱き上げられていた。
 手紙に書かれていた、夫も照れながら話していた、“高い高い”のその場面だ。
 ほのぼのとした気分になったマリアであったが、ふと気がついた。
 アスカのワンピースの裾が見事にまくれ上がっているのを。

「ピ、ピンク!」

 彼女はソファーに横倒しになった。
 そのまま笑い転げる。
 アスカがよく言っている、「馬鹿シンジはホントに間が悪いの。信じられないくらいに!」という言葉が甦ってくる。
 まさにその言葉を証明しているのがこの写真だ。
 他の写真がブレまくっているのだから、彼は写真を撮るようなことが殆どないのだろう。
 それなのにこんな決定的瞬間だけをしっかりと撮影するのだから、これは天性の間の悪さといえる。
 まるで若い娘のようにマリアは笑い続けた。
 横隔膜を震わせて、頬が痛くなるまで。
 いや、いつもより遅くなっているミルクの時間を教えようと、大声でカールが泣き出すまで。





 話は数日前に遡る。
 碇シンジの間の悪さはこの時点から始まっていた。
 実は彼はアスカに黙っていたのである。
 あの感動的な父と娘の再会をカメラに収めていたことを。
 最初は携帯電話のカメラで撮ろうとしたのだ。
 しかし、あまりに距離が遠く、どう考えても綺麗に撮れる気がしなかった。
 そこで彼は手近な売店に走ったのだ。
 望遠機能付きの使いきりカメラを求めて。
 彼の望むものは入手できた。
 だが、この使いきりカメラというものはシャッターを押すだけで撮影した画像は確認することはできない。
 ましてや、シンジという少年は携帯のカメラでさえ殆ど使った事がないのだ。
 写真などは友人に任せておけばいい。
 どちらかと言えば被写体にもなりたがらない彼である。
 愛しいアスカの写真は友人に頼んで数枚撮ってもらってはいるが、自分では撮ろうと思わない彼でもある。
 彼は相田ケンスケの写真に慣れすぎていたのかもしれない。
 ケンスケの写真は当然ピンボケも手ブレもない。
 カメラというものはそういうものだとたかをくくっていたのだろう。
 ケンスケがこれを知れば気分を害していたのは間違いなかろう。
 腕を上げるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!などと。
 ともあれ、この日のシンジは意気揚々としていた。
 前日にカメラ店に現像と焼付けを依頼して、この放課後にアスカを町に連れ出したのだ。
 そのアスカはわくわくしていた。
 何しろ父との再会で幸せ一杯胸いっぱい。
 おまけに何やら嬉しげなシンジに誘われたのだ。
 心の中では「OK!」を百連発で叫んでいたわけである。
 それにシンジが何事か企んでいるのはすぐにわかった。
 レイと違って、彼は隠し事が苦手である。
 すぐに顔に出てしまうのだ。
 この時もまるで悪戯を仕掛けているかのようにわくわくした顔をしていた。
 アスカはそれが本当に悪戯であっても引っかかってやろうと決めていた。
 それだけ幸福感が満開だったわけである。

 シンジは意気揚々とアスカを引き連れてカメラ店に入っていった。
 だが彼は1分後にはしょんぼりと肩を落としていた。
 「こちらでよかったですか?」と店員に示された写真は、誰が見ても手ブレとピンボケである。
 しかし横から見ていたアスカはぼやいたり怒ったりはしなかった。
 彼女は嬉しかったのである。
 見るからにがっくり来ている彼の手を引っ張って彼女はカメラ店の外に出た。

「こら馬鹿シンジ。何よ、そんなにがっくりこないでよ」

「で、でもさ、せっかく写真を撮ったのに」

「はっ、仕方ないわよ。これが相田のヤツだったら張り飛ばしてやるとこだけどさ。
 だってアンタ、カメラさわったことないんでしょうが」

「うん。でも…」

「まっ、残念なのはそうだけどっ。仕方ないじゃない」

 ああ、どうして素直にありがとうと言えないんだろうか。
 アスカは自分の性格を呪った。
 こういうときにこそ優しい言葉をかけるべきではないか。
 近くの花壇の縁石に腰掛けさせると、シンジは悔しそうに袋から写真を取り出して一枚ずつ眺めていく。

「うん、でも…一枚くらいちゃんと撮れててもさ…わっ!」

 突然立ち上がった彼は手にした写真を食い入るように見つめた。

「な、なにっ?どうしたのよっ」

「こ、これ!撮れてる!撮れてるよ!」

 差し出された写真を見てみると確かにそれは手ブレも何もしていない。
 はっきりと写っているではないか。

「わおっ!凄いじゃない!シンジ!」

 アスカはぽんぽんと…ではない、ばしんばしんとシンジの背中を叩いた。
 痛いのだが、嬉しい。

「えへへ、そう?」

 彼は照れた。
 そして充足感に満ち溢れたのである。
 アスカが喜ぶのではないかと思いついて、咄嗟に動いたのだ。
 その結果がこれである。
 彼女の掌はシンジの背中に置かれて……そのまま動かない。

「アスカ?」

 背中の彼女の掌が熱い。
 その温かさが幸福感に置き換えられたのは、最初の数秒だけだった。
 地の底から響いてくるような低い低い声が温かさを奪い去ってしまったのだ。

「ちょっと、アンタ。これ、何よ…」

「え…」

「アンタ、なんでこれだけちゃんと撮れてんのよ」

「え、えっと、ご、ごめん」

 シンジ得意の“とりあえずごめんなさい”である。
 何が悪かったのか彼にはまったくわからない。
 じっくりとは見ずにアスカに渡したのだから、

「フィルムも渡しなさいよ。没収よ、没収」

「え、え、え、ど、どうして?何が写ってるんだよ」

 肩越しに白い手がにゅぅっと伸びて、シンジが握っているカメラ店の袋を掴み取った。

「わっ、か、返してよ」

「うっさいっ。焼き増しなんかされてたまるもんか」

「だ、だから、いったい、何がっ」

「馬鹿っ!馬鹿シンジの大々々すけべ!」

 耳元で叫ばれて、耳がきんきん鳴ったシンジは頭がくらくら。
 すけべと言うからには何かしらそういうものが写真に写っていたということに他ならない。
 そういう結論を出した時には、背後のアスカは既に遥か彼方を駆けていた。
 その後姿を…赤金色の髪の毛が揺れる背中を見つめて、シンジは大きく溜息を吐いた。
 アスカに怒られたから?
 違う。写真をよく見ておけばよかったという後悔だった。



 その後、手を変え品を変えアスカに尋ねてみたシンジだが、当然答は返ってこない。
 結局あの写真に何が写っていたのかわからずじまいであった。
 そして、密かに焼き増しをされた写真は…サングラスに野球帽のいでたちでアスカが隣町まで出かけたのだが…海を渡ったのだ。





 あの写真をあなたのパパは素直に喜んだわ。
 あの“鮮やかなピンク”には苦笑してたけどね。
 大丈夫。
 あなたのシンジ君には別に何も言ってないわ。
 逆にあなたがそれを心配していたといったら、きょとんとした顔になってね。
 ああ、そうか、そういう考え方もあるんだなって笑っていた。
 それどころか引き伸ばしてパネルにしたいと言っていたけど…。
 どうする、アスカ?



 
パパの馬鹿!
 それだけ言っておいて。






 その単純にして簡潔な悪態を読んで、マリアは危うく涙を零しそうになった。
 アスカがその父にこんなことを言えるようになったのだ。
 まずは目出度い。
 本当に目出度い話ではないか。
 そこで彼女は胸を張って夫に伝言を伝えたのだ。
 日本にいる娘が「パパの馬鹿」と怒っていると。
 慌てふためいて、どうすればいい?とおろおろする大男に彼女は笑いを堪えられなかった。
 もちろん、この親子の関係をさらに強固なものにするために怖がる夫の尻を叩いてアスカに電話をさせたのである。

 しかし、アスカのピンクのパンティーの話はこれで終わらなかったのである。
 10月といえば運動会だ。
 どうしてそうなるのかアスカに追求されたが、シンジに満足な答が出るわけがない。
 そういうことになっているから、としか言えないではないか。
 第壱中学でも運動会が催される。
 そして、二人はとんでもない競技にでることになってしまったのである。



「いい、シンジ。息を合わさないと絶対に上手くいかないわよ」

「う、うん。やってみる」

「アタシとアンタはユニゾンできたんだから、こんなの簡単……わっ!」

 ばたんっ。
 ソファーがあって良かった。
 アスカとシンジは抱き合うように、いや残念ながら二人とも顔からソファーに突っ込んだ。
 その二人の足首はしっかりとタオルで結ばれている。

 障害物二人三脚400m競争。

 それが二人の出場する競技だった。
 全学年各クラスからワンペアずつエントリーされて、その1位のクラスには他の競技の10倍のポイントが与えられるのだ。
 まさに、障害物二人三脚400m競争を制するものは壱中を制す。
 したがってどこのクラスも剛の者が出場するのである。
 そして、二人のクラスでは満場一致でアスカとシンジが選ばれたのだ。
 当然、アスカは辞退した。
 心にもなく。

「なぁ〜んでアタシがそんなのに、こんなのと出ないといけないのよ」

「ぼ、僕だって。僕なんか走るのはアスカより遅いんだぞ」

「せやったら、惣流にリードしてもろたらええやんけ」

 どっと教室が沸いた。
 そしていつものようにアスカが期待通りに突っかかってきた。

「うっさいわね!アンタがヒカリと出ればいいでしょうが!」

「なんやてぇ!あんなぁ、この競技はうちのクラスの命運がかかるんやで。
 最強のもんが出なしゃあないやんけ。どう考えてもクラスの女子でお前が最強やろが」

 アスカの耳は地獄耳。
 そこでぼそりと呟いたケンスケに目からレーザー光線を発した。
 「最強の“きょう”って狂ってる方の…」と漏らしたのだ。
 ただし、サードインパクトはトウジの足を元通りにはしたが、
 アスカの目からレーザー光線を発するようにはしていない。
 従ってケンスケは少しひるんだだけだったので、彼女は手近の机から消しゴムを掴み上げて彼の眉間へ剛速球。
 悲鳴を上げたのはぶつけられたケンスケではなく、消しゴムを武器に使われたシンジだった。
 
「もう、勘弁してよ。投げるんなら自分のにすればいいのに。ごめんよ、ケンスケ…って、聞こえる?」

 床に落ちた消しゴムを拾いに行った彼は親友の顔を覗き込む。
 おでこを抑えていいからいいからとケンスケは手を振った。
 ボールペンやカッターナイフのような凶器でなく消しゴムのような柔らかいものでよかった。
 きっとこれはアイツの俺への愛の証だと、彼は自分を慰める。
 元よりその愛は、愛する人の友達への親愛の情程度のものだとしっかり自認しているが。
 
「見たか、あのコントロールの良さ。
 障害物競走にどんなものがあるんか全然わからへんねんで。
 当日まで秘密らしいからな。惣流のあの敏捷性と運動神経はこの競技に最適ゆうこっちゃ」

 褒められると弱い。
 自分の性格はよく自覚しているアスカだった。
 鈴原程度(アスカ視点)が相手であっても頬が緩むのを抑えるのに大変である。
 ということで、いつものように彼女は虚勢を張った。

「はっ、ま、まあ、アタシの運動神経は特別だからさ」

 クラスメートは笑いを抑えるのに大変である。
 ここで誰かが笑ってしまうとまたアスカがつむじを曲げてしまうのは確実だからだ。

「ということで惣流。お前さんが選手ってことで依存はないな?」

「し、し、仕方ないわね。クラスのためだからっ」

 こういうときの彼女の表情がシンジには眩しかった。
 期待され、その期待に答える自信がある。
 その自信を隠そうともせず、不敵な笑みに置き換える。
 自分には絶対に真似ができない芸当だ。
 例えどんなに自信があっても胸など張ることができない。
 もし張ったとすれば、その後にとんでもない落とし穴に突っ込んでしまいそうだ。
 そんな自分のことを彼はよくわかっている。
 だからこそアスカが眩しいし、そんな彼女が好きで好きでたまらない。
 もっともそこで彼は腰が引けてしまうのだ。
 なにしろそんな凄いアスカに自分は似合わないのではないか。
 そう思ってしまい、もっといい男になったら、いやならないと告白などできない。
 そんな風に思い込んでしまっているのである。
 今の彼で十分、OKの百万連発だなど知れば、彼は腰が抜けてしまうだろう。 
 とりあえず、今彼の腰が抜けるのは展開上まずいのでしばらくはまだ思い込んだままでいてもらおう。

「ほな、お前さんの相手はセンセでええな。そりゃあ、センセより運動神経のええんはいっぱいおるけどな」

 教壇に立つ、壱中運動会実行委員のトウジはぐるりと教室を見渡す。

「勝つためにはそいつらと組んでもろたほうが…」

「い、い、いいわよ、べ、別に馬鹿シンジでもっ。
 た、確かにコイツはとろいけどさ、で、でも慣れてる相手の方が、ほら…えっと…」

 アスカの頬はどんどん赤く染まっていった。
 
「そうね。ほら、アスカと碇君ってエヴァンゲリオンのパイロットの訓練か何かでペアでやってたものね」

 洞木ヒカリが助け舟を出す。
 即座にアスカは大きくうんうんと頷いた。
 見る者からすれば滑稽なくらい大仰に。
 そして最後に碇(旧姓綾波)レイが止めを刺した。

「私もパイロット。絆だから、私の方が息が合うかも。アスカの代わりに私が…」

「わかったっ!アタシと馬鹿シンジが選手!それで決定!文句なしっ!」

 はぁはぁと息を上げる彼女の様子に机に突っ伏してしまっている生徒も何人かいた。
 そして笑い声が漏れないように必死に肩を震わせて呻いている。
 トウジもかなり苦しそうだったが、ヒカリの一睨みで持ち直してようやく緊急HRの終了を宣言した。
 その直後教室にいた大半の生徒が姿を消した。
 トイレに渡り廊下、その他思い思いの場所で笑い転げていることだろう。
 教室に残ったのはいつものメンバー。
 レイは微笑を浮かべ、ヒカリは平静な表情。
 かわいそうだが曝露しておこう。
 ヒカリの太腿には何箇所か抓った痕があることを。

「馬鹿シンジ、いい?やるからには勝つのよ。絶対にっ!」

 アスカは高らかに宣言し、シンジは少し暗鬱な気分となった。
 簡単なことだ。
 運動神経的に自信がなかっただけの事。
 


 そしてその夜から特訓が始まったのだが、それが前述した通り。
 まずは二人三脚の練習からはじめたのだが、すいすいとは進んでくれない。
 当然、アスカは不機嫌になっていき、シンジはさらに暗い気分へ。

「ぐううう、二人三脚の世界記録を作ってやろうと思ってたのにぃ」

「ご、ごめん」

 これは口癖の方ではなく本心からの謝罪だった。

「もうっ、また私の所為?ユニゾンの時みたいに」

「ち、違うよ。きっと僕が…」

「はぁ…。もういいわよ。世界記録はあきらめたから」

「あ、そうなんだ。じゃ…」

 嫌な予感は的中するものだ。
 アスカは不適に微笑み、左手の拳をぐっと握り締める。

「記録じゃなくて勝敗にこだわることに決めたっ。さあ、特訓するわよ!」

 その時からシンジの苦難の日々は始まった。
 だが、裏を返せば彼にとって至福の時だったのかもしれない。
 何故ならトイレとお風呂以外は常に足首を縛り付けていたからだ。
 食事の支度だけでなく、食べる時も隣り合わせ。
 隣り合った椅子は20cmほど離れていても足首だけはくっついている。
 歯を磨く時も一緒だった。
 もちろん、それは家の中にいる時だけ。
 「おやすみなさい」を言うまでで、寝る前にはタオルを外す。
 外れた瞬間、肉体は安堵の安らぎを得、逆に精神は急激な喪失感に囚われた。
 それは二人共にそうだったのだが、恥ずかしくてそんなことは口にできたものではない。
 




 あなたの手紙を呼んでハインツは急に不安になったみたい。
 そんなに四六時中身体をくっつけていて…その後は口の中でもごもごもごって。
 私は平然と言ってあげたの。
 あら、その方がアスカには嬉しいことなのじゃないの?ってね。
 逆上した彼の姿。動画にして送ってあげたかったわ。
 もっともあなたはもう15歳になろうとしているのよね。
 こっちじゃそういうことは珍しくもない年齢。
 悪いことではないと思うけど、あなたや彼にはまだ早いような気がするの。
 きっと自分でもそう思っているから、そんな行動に出ていないのじゃないかしら?
 と、母親らしいことを書いてみました。
 どうかしら?




 よくわからない。
 ただ、ドイツと日本は違う。
 そりゃあ日本でも15歳でもう経験している子だっていると思う。
 でも、どうかしら。
 もし求められたらどうしよう?
 ママに訊ねるべきことじゃないよね。
 でも、ママ。
 こういうことってママにしか訊けない。
 日本にいる知り合いの女性はみんなどこか変だから。
 みんなに叱られちゃうかな?
 でもね、シンジは我慢してるのか興味がないのか。
 ただ、二人三脚に一生懸命になってくれているだけ。
 それでいいのかな?いいよね。ねえ、ママ。
 シンジと離れたくはないけど、まだそういう関係になりたくないの。
 理由はよくわからないのだけど。






 二人三脚とユニゾンは違う。
 ユニゾンは二人が同じ動きをすればよかったのだが、二人三脚の方がもっと微妙な動きが必要であった。
 脚の動きを逆にすればいいだけではない。
 片方の力が強すぎるとバランスを崩し、ころんだりよろけてしまったりする。
 ましてやアスカの真の望みのように全力疾走するなど夢のまた夢のこと。
 それでも彼らの動きは日増しによくなっていった。

 そして、公開練習…。
 と言えば大げさだが、単に二人三脚で走ることができ且つ長い距離が確保できるのはやはり学校しかなかったのである。
 体操服に着替え、足首を縛り、スタートラインに立つ。
 わざわざタイムを計ることもなかろうに、アスカの依頼でヒカリがストップウォッチを持った。
 トウジが指でピストルの形を作り、にやりと笑う。

「よぉ〜い、どんっ!」

 参考記録、4m62cm。
 タイムではなかった。
 スタートから二人が到達した場所までの距離だ。
 陸上部の女子が巻尺で計測してくれた。
 土を払って立ち上がったアスカは相方に悪態を吐き、そのシンジは暗い顔で俯いてしまう。
 クラスメート達は笑いを漏らしてから、そして一様に青ざめた。
 運動会まであとわずか3日。
 事前に漏れてきた情報ではまず二人三脚で100m走らないといけないらしい。
 これではクラスの期待を担った黄金ペアはリタイア濃厚である。
 大本命と噂されていた3年A組のペアの醜態を見て、各教室の窓から見物していた他のクラスの連中は失笑と安堵。
 アスカはタオルを外すと憤然としてのしのしと運動場を横切る。
 その後をシンジが悄然として付き従って行く。

「こりゃ、あかんわ」

 トウジの呟きがすべてだった。

 だが、真実は違っていた。
 アスカは心の中で“ごめん、シンジ”と唱え続けて、
 そしてシンジの方は自分の演技に陶然としていたのである。
 そう、アスカの提案で他のクラスに油断を誘うという高等戦略を実施したのだ。
 しかも敵を欺くならまず味方から。
 クラスメート達は競技の始まったその瞬間まで、3年A組の惨敗を信じて疑わなかったのである。





「よぉ〜い、どんっ!」

 パン!
 乾いたピストルの音と共に、素晴らしいスタートダッシュを見せたのはアスカとシンジだった。
 実はスタート寸前まで二人は喧嘩をしていた。
 シンジの体操服が少し破れていたのをアスカが見つけてやいのやいの。
 さらに足の縛り方が痛いだとかきついだとかどうのこうの。
 まわりにいる選手たちを散々辟易とさせてからの、このスタートダッシュである。
 場内が驚きの声に包まれたのは当然だった。
 驚かなかったのはただ一人だけ。
 碇(旧姓綾波)レイだけはしてやったりとにっこり微笑んだ。
 あのアスカがあんな無様な醜態を人前で晒すわけがない。
 わざわざみんなに見せるようにした意味を考えるとすぐにわかることだ。
 彼女は嬉しくて仕方がない。
 みんなが騙されたのに自分だけはわかっていた。
 二人のことを一番よくわかっているのはこの自分だ。
 それが嬉しくて嬉しくて。
 余りの嬉しさにレイは立ち上がって拍手をした。
 その彼女の動きにあわせて3年A組の連中はみんな立ち上がって歓声を上げた。
 早い。
 早すぎる。
 その速さに煽られてペースを乱して転倒する者が続出した。
 完全なる独走である。
 しかもアスカもシンジも一度として後ろを振り返らなかった。
 自分たちの力を信じていればこそである。
 二人三脚からスプーンレースに変わる場所に二人が到達した時、他の選手はまだ半分にも達してなかったのである。
 しかしそのスプーンレースで少しもたついた。
 スプーンに乗せた球がピンポン球で風に煽られて遥か彼方まで飛んで行ってしまったのだ。
 独走許すまじという神の為せる業だと、2年B組のあるクリスチャンは十字を切った。
 結局、アスカたちのリードはほんの数メートルにまで縮まってしまったのである。
 スプーンレースが終わるとそこには小麦粉が待っていた。
 障害物競走恒例のアレである。
 放送では暢気に「さあ顔を突っ込んで飴を捜しましょう!」などと囃し立てる。
 シンジは一瞬戸惑った。
 どうすれば簡単に探せるだろうか。
 そのためらいが命取り。

「うわっ!」

 “っ”を叫んだ時にはもうすでに顔は小麦粉の山の中。
 アスカがニヤリと笑ってシンジの首根っこを押さえつけているのである。
 まるで掃除機を操るかのように彼の頭を動かす。
 じたばたしながらもそこは真面目なシンジだ。
 何とか飴を探し出したのである。

「よしっ、さすがはアタ…じゃない、馬鹿シンジねっ!」

 アタシのと言いかけてアスカは慌てて言い換えた。
 そして、次の競技に移ろうとした時、非情な声が。

「おっと、駄目ですよ。3年A組の惣流さん。ふたりとも探し当てないと先には進めません」

「えええええっ!」

 アスカが悲痛な叫びをあげる。
 その目の前で真っ白な顔で真っ白な髪の毛の少年が白い歯を見せた。
 つまり顔全部真っ白。

「アスカ、がんばって」

「くわっ、このっ!」

 怒って見せても仕方がない。
 アスカは顔を突っ込んだ。



「行くわよ!馬鹿シンジ!」

「うんっ」

 真っ白な顔のペアがトラックを走る。
 別に手をつなげとの指示は出ていないのに、何故か手をしっかりとつなぐ二人である。
 それにぴんと来た実行委員は急遽ルール変更。
 「手をつないで走りましょう!」と悪びれずにルール改正。
 そのいい加減さに運動場は沸いた。
 結果を先に言うと、この時のペアがきっかけでお付き合いを始めたカップルが5組。
 いやはや純真なのか単純なのか。
 さてさて、お馴染みの障害物である。
 跳び箱を飛ぶのはシンジではなくアスカ。
 その方が早いから。
 高い段の跳び箱を飛べば最短ルートを走ることができる。
 アスカは躊躇いもせずに最高10段を選んだ。
 見事な跳躍だった。
 おまけに着地はくるっと一回転。
 「おお〜!」と叫んだのはシンジ。
 余りの見事さに拍手喝采。
 後ろを走ってきた陸上部のエースは跳び箱担当の実行委員に聞いてしまったほどだ。
 あれをしないといけないのか、と。
 担当者はテントの実行委員長におうかがい。
 さすがにそれではまずいと委員長は手でX印。
 胸を撫で下ろした男性陣である。
 
 レースは3/4を超えようとしていた。
 最後の障害を抜ければ、後はまっすぐゴールまで走るだけだ。
 その障害物は網抜け。
 10mもの長さの網を匍匐前進で潜り抜ける。
 ドイツでの軍事調練で匍匐前進を幾度もこなしてきていたアスカだ。
 シンジに大きく差をつけて颯爽と網から抜け出て立とうとした。
 振り返って「馬鹿シンジ、何してんのよ。さっさと来なさいよ!」と叫びたかったのだ。
 その思いが強すぎたのか、運が悪かったのか。
 
 べりっ。

 シンジの耳にもその異様な音は聞こえた。
 明らかに衣類を引き裂くような音。
 その音の方向を見るとアスカが仰向けになっている。
 太腿から下を網に残したまま。
 どうして腹ばっていたのに空を見ているのか。
 網を抜けたシンジはよくわからないままにアスカに手を差し伸べた。

「ごめん。駄目」

「え。どうして?」

「破れちゃった。お尻が」

「ええっ」

 かなり白さがはげてきた少年の顔が驚きに歪む。
 別に破れた下のものを想像したわけではない。
 そこのところは彼の鈍感さが評価されてもいいと思う。
 
「じ、じゃ、もう走れないの?」

「パンツ丸見えで?手で隠せるくらいの大きさじゃないわよ。たぶん」
 
 アスカにはシンジの顔が見られない。
 恥ずかしいのではない。
 悔しいから。
 あんなに彼を叱咤激励したのに、その自分のつまらないミスでこんなことになってしまった。
 網の金具か何かに思い切り短パンを引っ掛けて、お尻のところがべろりと捲れてしまっている。
 咄嗟に仰向けになって、触ってみたら直接パンツに触った。
 今日は何が何でも勝つつもりだったから、勝負パンツのあのピンクのパンティーだった。
 どうもあのパンティーは良運をもたらしてくれるが、自己顕示欲も強いようだ。

「あのさ、悪いけどアタシたちの席に行ってトレパン持ってきてくれる?」

「う、うん。そうだね。このままじゃ…」

「ごめんね、失格になっちゃうけど」

 いつになく素直なアスカだった。
 どこまでも高く見える青空がそうさせたのだろうか。
 
 ふぅ…。アタシって馬鹿。
 
 アスカは青い瞳と青空で睨めっこをするように、じっと空を見つめた。

 ああ、綺麗だ。

 シンジはその彼女の顔を見つめ、悠長に思った。

 そんな二人の想いはあっさりと破られた。
 鈴原トウジの声はとんでもなく大きいのである。

「こらぁっ!あほんだらっ!何しとんねやっ!休憩しとる暇なんかないでっ!」

 彼らが焦るのも当然だ。
 再び差をつけていた後続グループがすぐ近くまで迫ってきていたのである。
 罵声と歓声が溢れる。
 当然、歓声が殆どだ。
 そこに状況を変える野次が飛んだ。

「おぉ〜い、早く走れよ。いや、起きろっ!」

「俺にも見せろ!ピンクなんだろ!」

 トラックの彼らがいるところに一番近い生徒席からの野次だった。
 すぐに隠したのだが見えてしまっていたようだ。
 続いて笑い声も起きる。
 2年生の席だったが、こういう時は上級生もクソもない。
 この野次はアスカに恥ずかしさよりも悔しさを覚えさせた。
 思わず知れず目が潤む。
 悲しみに涙するよりも、この方が彼女らしい。
 瞬間、そんなことを思いシンジは唇を噛みしめた。
 
 時に2016年10月。
 時にはシンジも漢になろうと思うときもある。

「アスカ!行こうっ!」

「へ?」

 初めて見た気がする。
 彼としては最大級の漢の顔だ。
 なんとあのマグマダイバーの折、火口へと飛び込んでいった時でさえここまで凛々しい顔ではなかったと言える。
 蛇足だが、あの時のシンジはただ本能的に飛び込んだにすぎない。
 ボイスレコーダーに残されていた彼の言葉は「あ…」(少なからず気の抜けた)一言で、その後ドボンだったのだ。
 後にシンジはあの頃からアスカのことを好きだったに違いないと心密かに断じてはいたが、それはあくまで後付け。 
 したがって神のみぞ知るあの時のシンジの表情はいつもの顔だったわけで。
 もう一つ蛇足だが、アスカの脳内ではその時の彼の行動が今や神格化されている。
 本人はともかく、オペレーターたちに確認するのは大いに恥ずかしい。
 したがって自分で想像するしかない。
 恋する乙女としては勝手に想像を膨らませていくのは無理なからぬところがある。
 台詞やアクションがどんどん増えて、ベッドの上で妄想に歓びころころ転がっていることがあるなど、
 さすがにドイツへの手紙にも書かれてはいない。

 話を戻す。

 シンジは大きく頷いた。

「で、でも、お尻が…」

 こういう展開になってしまうとアスカもすっかり女の子。
 何故なら恋する人が、とんでもなく男の顔になっているのだから。
 
「大丈夫。僕が…」

 言いきった彼はいきなり体操服を脱ぎ始めた。
 その異様な行動にアスカは慌てた。
 まさか「裸で走れば恥ずかしくなんかない!」などと言うのではないだろうか。
 そんな突拍子もない想像をしてしまうのは、アスカが悪いのかシンジのイメージがそうなのか。
 だが、彼は上半身だけ裸になって、脱いだ体操服をいきなり引き裂いたのだ。
 破れていた場所からびりびりと。
 そしてそれをアスカに差し出した。

「これ…」

「それで隠して。早くっ」

 有無を言わさぬその声音。
 さすがはネルフ司令の息子。
 思わずアスカは「Ja!」と叫びかけた。
 さすがにその軍人調の返事は口にはせず、さっと破れたシャツを受け取る。
 そして腰に巧く巻くようにして網から身体を抜いて立ち上がった。
 しかし、その隙に二組の選手たちが網から抜けた。

「くそっ」

 自分に舌打ちするようにアスカは立ち上がった。

「行くよっ」

「うんっ!」

 って、アタシはシンジか!

 アスカは返事をしてすぐに笑顔になる。

 こういうのもいい。
 断然、いい。
 勝てば、もっともっといい!

 彼女はシンジの手を握った。

 あと100m。
 数メートル先を走る2組を絶対に抜く。
 できる。
 絶対にできる。
 
 アスカは自分と、そしてシンジを信じていた。
 その彼女の信頼に応えるかのように、彼は実力以上の力を発揮した。
 何とアスカと同じスピードで走ったのだ。
 自己最速。
 
 いける!

 二人がともにそう思った瞬間だった。
 実行委員は最後の罠を仕掛けていたのである。
 実質的には罠ではなく、趣向だったが。
 残り50mのところを実行委員が石灰車を押して走った。
 くっきりと引かれた白い線。

「さあ!最後の障害!そのラインから向こうはおんぶをして走るんだ!
 おんぶされた人の足がもし地面についたら、その組は失格!さあ、がんばって!」

 早口でがなりたてる実行委員長の口上に場内はどっと沸いた。
 男子は喜び、女子は悲鳴を上げる。
 アスカもまた悲鳴を上げた。
 シンジにおんぶされるがイヤだからか?
 とんでもない、毎日でもおんぶしてほしいくらいだ。
 そうやって彼に甘えられたら何と幸せな日々だろうか。
 ああ、もちろん今この時、彼女がそんな甘い妄想に走ったわけはない。
 アスカは生涯最大の危機に見舞われたような気になった。
 冷静に考えると使徒との戦いの方が余程危機であろう。
 だが、過去の記憶よりも目の前のとんでもないハードルである。
 おんぶをされるとどうなるか。
 シンジの背中におぶさって、その身体を固定するために彼の手が!
 その手はどこに?

 駄目駄目駄目、駄目じゃないけどやっぱり駄目!

 瞬間的にアスカはリタイアを決意しようとした。
 シンジの手だけではない。
 仮に彼の手がお尻に位置していなかったら、今度はギャラリーにはっきりとピンクを見せ付けることになってしまう。

 それはイヤだ。イヤに決まっている。
 だが、負けたくない。
 ここまで来れば、絶対に負けたくない。
 二人でこんなに頑張ってきたのだから!

 疾走しながら、アスカはその蒼き瞳をきらりと輝かせたのである。

「おおおおお!これは驚いた!
 3年A組は男子の方がおんぶされている!」

 アスカが逡巡した分だけ一歩遅れた。
 シンジが反抗した分だけさらに一歩遅れる。
 だが「さっさとしないとコロスわよ」という説得に、彼はすべてをあきらめた。
 そして彼女の背中へ。

 シンジが華奢な体格でよかった。
 他の組は女子が男子の身体に密着するのを躊躇い、おんぶされても上体を反らし気味にしているため結構手間取っている。
 アスカはシンジにしっかりつかまっていろと厳命し、持てる限りの脚力と精神力で脚を回転させた。
 そして…。





 親愛なるミュンヘンのみんなへ。
 そろそろまたあの寒さに近づいてきている頃では?
 お元気ですか。
 なぁんて、少し堅苦しい感じで書いちゃった。
 何故かって?
 だって、パパに読まれてると思うとね。
 まあ、読まれて困るようなことは書いてないし、やってもいないって胸を張って言えるけど。
 写真を同封しました。
 もう開き直ってます。
 思い切り見えちゃってるけど、もういい…。
 もうあんなことになったら、秘密にしておくことなんかできないもの。
 (中略:障害物二人三脚400m競争の説明が書かれていた。便箋5枚に亘って)
 ゴールしてすぐに自分の席まで走っていってトレパンを履いたんだけどね。
 それまでにね。
 しっかり撮られちゃった。
 あ、学校新聞も同封したから見て。
 もちろん日本語ばっかりだから内容まではわからないと思うけど。
 でも、ご覧の通り、私のパンチラ写真はしっかり載っているの。
 もっとも写真週刊誌じゃないからカラーじゃないし小さいし、その気で見ないとわからないんだけど。
 これはゴールのテープを一番に切って、シンジに抱きつこうとして…。
 慌てて思いとどまって、ハイタッチをしたところ。
 けっこう…ううん、かなり嬉しかったからぴょんぴょんジャンプしちゃって。
 せっかくの即席スカートがしっかり捲れ上がっちゃった。
 で、同封の写真がそのカラー版。
 撮影したのはシンジの親友の相田ってカメラ馬鹿。
 ただ馬鹿だけあって、撮影技術はしっかりしてることは認めてあげる。
 シンジが撮ったボケボケ写真と違って、一撃必中だったものね。
 ネガと写真は没収。
 ううん、強制的にじゃないわよ。
 ちょうだいって言ったら、なんとあっさりくれたの。
 私の方がびっくりしちゃった。
 でもね、その理由を聞いたらちょっと私の虚栄心が不満たらたらになったのよ。
 つまりね、この相田ってカメラ馬鹿は女子生徒の写真を撮影してそれを売りさばいてるのよ。
 まあ、小遣い稼ぎっていうか、フィルム代とかカメラの備品を買うためだとか。
 それで私の写真も、けっこういい値段(ここにラインが引かれている)で売られてたんだって。
 だけど、惣流アスカの相場は暴落したんですって。
 まったく頭に来るわよ。
 まあ、その理由は身も心も碇シンジのものになってるから恋愛対象から外れつつあるからだって説明されたの。
 一発叩いてやったわ。
 あ、拳骨じゃないわ。
 持っていた学生鞄で。
 ちゃんと手加減したわよ。
 それに叩いたのは腹が立ったからじゃなくて、恥ずかしかったから。
 でも、心はともかく身の方は違うんだってば。
 どうしてそんな風に見えるんだろう?
 不思議で仕方がないのよ。
 あ、まったくの蛇足だけど今の一番人気はシンジの妹の(ここにもライン。妹のところは2本線)レイなんだって。
 まあ確かにあいつは可愛いし、最近感情表現もそれなりに出てきたからそれは当然かも。
 一つだけカメラ馬鹿の名誉のために付け加えておくと、実は最近その商売を彼はしてないんだって。
 これはシンジからの情報。
 友達の彼女の写真を金に換えるのは男として駄目だとか何とか。
 (友達の彼女の下にアンダーラインが3本)
 まあ、立派というか、大人の男に近づいたっていうか。
 但し、そのことを言うのにシンジはしどろもどろ。
 私のことを彼女扱いしているのがどうこうってぶつぶつぶつぶつ。
 まったくあの時の凛々しさってどこへやらって感じ。
 …………



 
ご馳走様。
 今回の手紙は新記録かしら。
 10枚以上書いたわね。
 ハインツったら、読みながら「むむむ」とか「うおっ」とか煩いの。
 シュレーダーの方は二人三脚にはまってしまったみたいよ。
 近所の友達連中と近くの公園でレースをしてるわ。
 母親としてはその中でよく名前の出てくる女の子が気になるんだけど。
 「シャルロッテはチビの癖に気が強くて」どうのこうのって。
 その子は何度か家に来てるから私も顔は知ってるの。
 はっきり言うわ。
 シュレーダーがシスターコンプレックスになってるんじゃないかって心配。
 少しあなたに似てるのよ、その子は。
 赤めの金髪で青い瞳。
 ちょっと顎が尖ってて、かなり気が強くてね。
 シュレーダーに何だかんだと言いがかりをつけるんだけど、それがもう微笑ましくて。
 あなたの弟もそれが嬉しいみたい。
 もっとも男ってそういう部分はあると思うのよ。
 シンジ君もそうじゃない?
 さて、写真の方は空港の写真とセットで飾らせてもらいました。
 あなたと彼が我が家を訪れた時が楽しみ。
 


 ふふふ。
 あの写真。
 ううん、空港じゃない方。
 シンジとハイタッチしている方ね。
 私の部屋じゃなくて、リビングにばっちり貼っているの。
 しかも額じゃないの。
 パネル。
 かなり大きいのよ、これは。
 実は前に話したカメラ馬鹿がね、大きく引き伸ばしてパネルに貼ってくれたの。
 それをプレゼントされたのよ。
 あ、カメラ馬鹿からじゃなく、クラス一同から。
 あの競技でうちのクラスが総合優勝したからだって。
 でもさ、いくらそうだからとか、私が女子100mで優勝したからとか、騎馬戦で一番敵の帽子をとったからとかじゃないと思うの。
 気持ちよ気持ち。
 だから、私とシンジもちゃんと気持ちのお返しをしたわ。
 学校の帰りにみんなにジュースとか缶コーヒーを驕ってあげたの。
 もちろん、シンジと割り勘でね。
 「お前ら損しとるで」(ここはローマ字。その後にドイツ語訳。日本の方言だと説明)って、彼の友達に言われたけどそんなの関係ないわ。
 私、幸福よ。
 シンジと一緒にいることももちろんそうだけど、学校に通うということがこんなにいいものだなんて。
 ドイツにいた時には想像もしなかったわ。
 あの時はパイロットになることだけを考えて、周りにいる人を友達だなんて考えもしなかった。
 みんな競争相手で、敵だって。
 学校は勉学のためにだけ存在するならば、私には不要。
 だって大学の卒業資格を持っているのだもの。
 でも日本の高校に進学するためには、大学で勉強したことはあまり役に立たないのよね。
 だからこっそりと勉強はしてるのよ。
 まあ、この「こっそりと」ってところが、私の欠点なんでしょうけどね。
 まったくこの虚栄心の高さには自分にも呆れちゃう。
 シンジがどうするのか。
 多分高校に進学するんだと思うけど、
 例え世界のどこかの国に留学するなんてとんでもないことになったとしても、地の果てまでも追いかけて行ってやる。
 私は決めたの。
 彼と一生二人三脚をして歩いていこうって。
 そして、いつの日か、二人はその肩や背中に子供たちを…。
 ああっ、書いていて顔が火照ってきちゃった。
 それからね、ママ……。
 




 草木もシンジも眠る丑三つ時。
 部屋にいるアスカは受験勉強を休憩し、長い手紙をまた書いていた。
 そのうちに喉が渇き、愛しい彼の眠りを覚まさないように抜き足差し足。
 ミネラルウォーターを飲むために台所へと向う。
 その途中で彼女はリビングの壁を見てにっこりと微笑んだ。
 レースのカーテン越しにほのかな月明かり。
 ハイタッチをするシンジと自分の写真が微かに見える。
 夜目にもわかる小麦粉塗れで変な顔の二人が嬉しげでそして楽しげに笑い合っている。
 「へへへ」と小さく笑って、彼女は真っ暗な中を台所へと姿を消した。
 冷蔵庫を開けると庫内灯の明かりがリビングを僅かに照らし出す。
 パネル写真に写っている筈の、アスカのピンクのパンティーを隠すために、
 あの懐かしきお猿さんを描いた彼女の絵がしっかりと貼り付けられていた。



(10) 2016年11月



 アスカは進路に悩んでいた。
 担任教師からいい加減に書類を提出して欲しいと言われたのだ。
 どこの高校に進むのか。
 いやその前に、彼女の場合は進学するのか、それとも帰国するのかという大きな選択肢があるわけだ。
 彼女は言いたかった。
 「アタシの方がさっさと決めてしまいたいのよ!」、と。
 何故かというと、改めて書くまでもないだろう。
 彼女の進路を決定するための最重要項目がはっきりしないのである。
 しかも、それを彼女からはっきりさせることができない。
 もしそんなことをして、彼との仲がおかしくなってしまっては元も子もないから。

 現状を簡単に説明するとこうだ。
 アスカもシンジも互いの想い人の動向がわからずに、自分の進路を決めかねている。
 ただそれだけのこと。
 いつものようにどちらかが相手に質問すれば終わり。
 それなのに行動を起こすことができずにうじうじとその場で立ち止まってしまっている。
 ただし、この場合は彼の方が明らかに深刻な悩みである。
 もし変な質問をしてアスカが「ドイツに帰る!」などと言い出したらどうなるのか。
 その先は彼にとってとんでもない修羅場が待っている。
 ドイツに追いかけて行くか?
 そのような行動力が自分にあれば、もっと早く彼女に意思表示できているではないか。
 となれば、彼女との思い出に縋りついて学校にも行かず、この部屋でただ膝を抱えて生きていく方が自分には似合っている。
 いや、生きて…いけるか?
 シンジの背中にぞぞぞっと寒気が走った。
 首吊り、手首切り、投身……?
 無残な姿の自分をイメージして、彼は頭を抱えた。

 どうしてこんなマイナスイメージはいとも簡単に想像できるのだろう。
 アスカとの楽しい毎日…恋人としての…など、まったく妄想できないというのに。
 ああ、どうして僕はこんなに暗いのだろう。
 
 シンジの心はとめどなく沈んでいった。

 ドンドンドンッ!

「うわっ!」

 目の前で起きた物凄い音に彼は腰を浮かし悲鳴を上げた。

「何変な声出してんのよ」

 アスカの低い声。
 明らかに怒っている。
 シンジは先ほどの悪い想像に拍車がかかるような気がした。

「な、何?」

「はあ?」

 シンジは扉の向こうを…そこにいるはずのアスカに問うた。

「えっと、何なの?」

「アンタ…それってしらばっくれてるの?それとも…」

 何を怒っているのだろうか。
 シンジは今日の自分を思い返した。
 とりたてて喧嘩などしていないはずなのだが。

「ご、ごめん。わからないんだ。何なの?」

 しばしの沈黙が訪れた。
 そして、アスカの低い声がさらにトーンを落として彼の耳に突き刺さってきた。

「アンタねぇ。女の子にこんなこと言わせるわけぇ?アンタ、もしかしてとんでもない変質者だったの?
 もうっ、信じらんないっ。変態シンジっ!」

 馬鹿ならともかく変態とはどういうことか。
 変態だなど思われれば、彼女に嫌われてしまうではないか。
 かなり差し迫った調子で彼は自分を見直した。
 確かにズボンと下着を半分降ろした状態だから、見たところ変態と言われても仕方がない。
 
 あれ?
 どうしてこんな格好を…。

 ようやく状況を思い出した。
 最近、便秘がちでもう20分以上、彼はトイレに立て篭もっていたのだ。
 で、ぼんやりと進路のことを考えているうちに頭を抱えてしまっていたわけ。

「わわわっ!で、出るよっ!今すぐ!」

「ば、ば、馬鹿っ!すぐ出てこなくていいわよ!ちゃんと……ああっ、こんなこと言わせるな!馬鹿、エッチ、変態っ!」

 ばたばたと足音がリビングの方へと去った。
 何の処理もせずにトイレから出そうになっていたシンジは青ざめる。
 尾篭な話ながら、大きい方は何も出てなかったのだが。



 その数分後である。
 自己嫌悪で自室のベッドで見慣れた天井を眺めているシンジはふと思った。

 よく考えれば、これはとんでもないことなのではないか、と。
 自分のトイレの後に平気な顔でアスカは用を足している。
 これは、自分のことを家族のように…。
 ああ、違う、違うっ!
 逆なんだ。
 僕のことを異性として見て、少しでも好意を持っていたら、トイレなんて…。
 やっぱり、僕は…。

 トイレに座っているアスカは真っ赤に頬を染め、シンジの部屋の物音を窺っている。
 ここから出るところを彼に見られたくないからだ。
 同じ家に住んでいることはこれ以上になく幸福なのだが、トイレという分野においてだけは違う。
 できるだけ学校で用を済ませようとしている彼女だったが、土日だけはそうはいかない。
 デート(彼女視点。但し、彼視点でもある。因みに世間でもそう見られている)に出ている時は、
 恥ずかしいのではあるがしばしばトイレに向う。
 そうすれば帰宅してから、彼の前でトイレの扉から出てくるという世にも恥ずかしい行為を見せなくとも済む。
 アスカは溜息を吐いた。
 それにしても、どうしてシンジはああも平気な顔でトイレに入れるのだろうか。
 彼女は無意識に消臭スプレーのボタンを押す。
 因みにこれは無臭タイプ。
 ラベンダーやキンモクセイの香りはいかにもトイレの臭い消しだということを誇張しているように思えるからだ。
 何度も何度も消臭するためにスプレーの寿命は物凄く短い。
 しかし彼女はここにまで考えは至っていなかった。
 シンジもまた大量にスプレーを消費しているということを。
 だからこそこの家の消臭スプレーはすぐなくなってしまうのである。
 アスカはまた消臭スプレーのボタンを押した。
 この個室に入ってから6度目。
 但し、彼女は大にあらず、念のため。



 ママ。
 凄く訊きにくいことなんだけど、やっぱり訊きます。
 変な子だって思わないでね。
 あのね、つまり、ママはパパのいる前で平気でトイレに入る?
 冗談とかじゃないのよ。
 本当に困ってるの。

 


 アスカったら!
 返事に困るような質問をしないでくれる?
 でも、仕方がないわね。
 母親として娘に女性の心得を伝授するのは当然。
 但し、これはハインツには内緒よ。
 私にだって恥ずかしいって気持があるんですからね。
 
 

 
 この二人のやり取りはいささか露骨な部分があるので転載は控えよう。
 ただ、この他人には訊けない事を教えてもらいアスカはかなり勇気づけられた。
 それだけは間違いない。
 といっても、そこは惣流・アスカ・ラングレー。
 プライドの固まりの彼女がシンジの目前で気軽にトイレに入れるわけがないのだ。
 
 その頃、ここ碇家では夫婦がひしと睨み合っていた。
 碇ゲンドウはテーブルに肘をつき、組んだ指越しにまっすぐ見つめるおなじみのポーズ。
 碇リツコは椅子に背中を預け腕組みをし、冷たい眼差しを愛する夫へと向けている。
 但し、ぽってりと膨らんだお腹をかばうためにゆったりと座っているのだが。

「む…、その、なんだ。やはりここはわしが」

「駄目です」

「いや、わしはシンジの父なのだ」

「私は母親です」

「む、しかし、お前は…」

 義理ではないかという言葉は必死に飲み込んだもののもう遅い。
 リツコの眼が数倍増しになったような気がして、ゲンドウは心拍数が上がった。

「あなたを前にして先生が普通にいられると思って?馬鹿ね」

 ゲンドウは首を捻った。
 確かに相手を威圧するために彼はいろいろ工夫をした。
 何しろ中学高校時代は自らの熱い思いとは裏腹に周りの誰も説得できないという暗い時代を過ごしてきた彼だ。
 服装や風貌、そして言動に工夫を凝らし、今のスタイルを編み出した。
 それを見抜いたからこそ、あの若き日々に碇ユイは彼のことを「可愛い」と言ってのけたのである。
 そしてこの眼前で対峙している女性もそうだった。
 自分の野望と肉体的な欲望のために彼女を強引に抱いた。
 最初は道具として彼女を見ていたのだが、次第に自分の気持ちに変化が訪れてきたことがわかった。
 道具が人間に見えてきた。
 その変化に気づいた時、彼は恐れ慄いたのである。
 人の心は何と脆いものなのか。
 妻のことをこの世で唯一人の女性として愛しぬいていたはずの自分だ。
 彼はそれからリツコに対してことさらに冷たく当たった。
 それが度を越してしまったのが、彼女の査問会への身代わり出席と射殺という結末。
 そんな仕打ちを受けながら、サードインパクトを経て自分を殺したその男と結婚するなどとんでもないことだ。
 人間はロジックではないと身をもって知り、ただ苦笑するだけで彼女は己の復讐心や虚栄心を封じ込めた。
 そして自分の仕出かした行為に彼女と話をするどころか顔を合わせることすら恐怖していた男は、
 赤木リツコの開口一番の言葉に唯首肯することしかできなかったのである。

「結婚してもらうわ。物凄く痛かったのですから」

 このことがあろうがなかろうが、碇ゲンドウは尻に敷かれる男のようだ。
 それを歓んでいるのかどうかは筆者は知らない。
 ともあれ、そんな内面を持つ男は、あのような外面を世間に晒している。
 彼の内なる心を知らない者は二歩三歩後退したくなるような容姿である。
 普通の人間である、学校の教師ならばどうだろうか。
 リツコの指摘はまこと的の中心を射ていた。



 
 
 翌日。
 場所は第壱中学校の3年A組の教室前。
 窓側に置かれたパイプ椅子にはアスカとシンジが並んで座っていた。
 二人とも互いに相手を強烈に意識しているのだが、もちろんそんな隣の様子には全然気付きはしない。
 自分のことで手一杯なのだ。
 本日は三者懇談なのである。
 碇(旧姓綾波)レイ、碇シンジ、そして惣流・アスカ・ラングレーの順番で面談は行われる。
 その面談に望む役回りを決めるために、昨夜緊急夫婦会議が催されたわけだ。
 そして今、教室の中では担任教師の向かい側に、レイとリツコが座っている。

 哀れゲンドウはこの時刻は執務室であたかも彫像のように姿勢を崩さない。
 明らかに機嫌が悪そうで冬月でさえ会話しようとしない。
 何しろぶつぶつと口の中で何か言いながら、何かを鉛筆で書き込んでいる。
 書いては消し書いては消しでなかなか進まないクロスワードパズルを。

 さて、保護者として出席しているリツコは鼻高々だった。
 レイの成績は申し分なく、志望する高校への進学は間違いなく大丈夫だろう、と断言されたからだ。
 彼女は不思議だった。
 自分が学生の時、同じような言葉を教師から聞かされても内心鼻で笑っていたのである。
 当たり前のことを何をことさらに言っているのだ、と。
 そんな彼女の三者懇談は常に教師とマンツーマンだった。
 母親はいつも彼女に任せたと仕事に専念していたためだ。
 それをリツコは寂しいとも哀しいとも思わなかった。
 三者懇談など時間の無駄だと馬鹿にしていたのだった。
 それが今はどうだろう。
 自然に口元が緩んでくる。
 血の繋がらない娘というばかりか、彼女に嫉妬や憎しみすら覚えていた自分だ。
 母と娘というよりも年の離れた姉妹という方が似つかわしい。
 それなのにリツコはレイのことを寧ろシンジよりもわが子供のように感じている。
 その理由はいくら考えてもわからない。
 だから考えることを止めた。
 とにかくレイのことが可愛くて仕方がないのだ。
 あのボタンを押したのが自分であり、そのことをレイに許しを請うた。
 いや許しがなくともその事実を黙っていることができなかったのである。
 だが、レイは簡単に許した。

「だって、私は生きているもの」

 その言葉が全てだった。
 レイ自身自分がどのレイなのかまったくわからない。
 全ての記憶はあるのだ。
 赤木ナオコに絞殺された記憶でさえ。
 もちろんそんなことは彼女ひとりの胸の中に収めておくつもりだった。
 母の心を乱したくない。
 彼女にとって初めてできた母親がリツコである。
 その存在を大事にしたい。
 そんなことを思っているからこそ、これまでの経緯には知らぬ顔をして親子として暮らしているのだ。
 こうしてリツコもレイも互いを大切に思い、だからこそ教師の褒め言葉に相好を崩していたのである。
 娘は母親が喜ぶと思い微かに微笑み、母親は娘が誇らしく目尻を下げる。
 実の母親にしては若すぎる女性は時々膨らんだお腹を無意識に撫でていた。
 家庭調査票は何故か白紙の碇レイ。
 どう見ても実の母子ではなさそうな二人だ。
 それでもこんな反応を眼前にすると担任として嬉しくなってくる。
 そして、彼はついつい褒めちぎってしまった。

 そんなこんなで碇レイの懇談時間は予定よりも10分ほど超過してしまった。
 その間、廊下では沈黙が二人を支配している。
 二人ともこれから始まる懇談の内容をどうするか、それで頭が一杯だった。
 自分の進路は相手に合わせる。
 それはアスカもシンジも同様だった。
 だが肝心の相手の進路がさっぱりわからない。
 一言どちらかが問いかければそれで万事が解決するのだが、それができない二人なのだ。
 もし、それで相手が怒ってしまいとんでもないことを言い出したりすれば身の破滅だ。
 周囲の者は大丈夫だから確かめてみればと助言してくれるのだが、どうもその背中の押し方が悪いようで。
 この期に及んでも煮え切らない状況が続いているのであった。

 アスカは下っ腹が重たくて仕方がなかった。
 元来短気な彼女がこの間際まで自分の進路を決めることができない。
 それというのも隣にいる少年に確かめることができないからだ。
 ちらりと隣を見る。
 俯いた彼は学生ズボンの膝のところを皺になるくらいの力で握り締めていた。
 何か言おうとしたが何を言えばいいのかわからず、結局力なく溜息を漏らすと彼女は目を閉じた。
 その溜息を聞きつけて、シンジは自分の情けなさにさらに首の角度が傾く。
 まさに悪循環。
 もっとも彼の場合は生来の性格がそうなのであるからまだ仕方がないとも言えよう。
 問題はアスカの方だ。
 一見彼女にそんな弱々しい部分があるとは誰も信じられないかもしれない。
 特に同世代には。
 ミサトたちはそんなアスカの弱さを見抜いていったのだが、
 サードインパクトで彼女の心と触れ合ったはずのシンジは未だにその部分を埋めることができない。
 それが彼のジレンマだった。
 もっと大人にならないと駄目なのだと思い込んでいるのだ。
 今の彼で充分なのだとは想像もつかない。
 「好きだ」という一言で、彼のみならず彼女も幸福の頂点に駆け上れるなど思いもよらない。
 好意を持たれているのは間違いないが、それが恋愛感情という類のものであるとは信じられないのだ。
 だから、言えない。
 言えずに怏怏鬱鬱として黙り込むしかない彼である。
 今もそうだ。
 どうしようかと悩みながらもまったく結論を出すことができない。

「待たせたわね、あなたの番よ」

 扉の音すら耳に入っておらず、目の前でしたリツコの声に二人とも顔を上げる。
 彼女の言う“あなた”とはシンジのことだった。
 彼はアスカの顔も見ることができず、まるで処刑場に引かれていく死刑囚のごとき重い足取りで教室に向った。
  
 シンジの表情は教室の中でも冴えなかった。
 成績は中の上。
 得意科目もなければ苦手科目も特に見受けられない。
 公立高校への進学ならまず問題はなさそうだが、こういうパターンは教師としては実に喋りにくい成績であろう。
 成績優秀ならば褒めることもでき、悪ければ助言することができる。
 アスカのような自称天才の場合でも、日本文の読解力を話題にできるのだ。
 だが、シンジは実につかみどころがない。
 クラスでトップクラスなのは音楽と家庭科だけなのだから。
 したがって話題はいまだ未提出の進路に絞られる。
 先生とすれば彼の成績では高校進学以外は考えておらず、問題はどこに行くのかという点だけと思っている。
 公立か私立かで悩んでいるのだと決めこんでいたのだ。
 だが教師からの質問にシンジは答えられない。
 アスカの進むところに行きます、と心は決しているのだが口に出せるわけもなく、なおも彼は俯くばかり。
 先生はリツコに救いを求めたが、「我が家では子供たちの自主性を重んじてます」ときっぱりと言い切られ取り付く島もなかった。
 
 この時シンジが喋ったのは「ごめんなさい」「まだ決まってません」「もう少し待ってください」だけ。
 その3つを繰り返していただけだった。
 結果から言うと、シンジの進路は決まらなかった。
 しかしながら、まるでこの語の展開を完璧に予想しているかのようにリツコは薄く微笑んでいたのである。
 


「はっ、誰がどこに行こうか別にいいじゃない」

「アスカ。そんな言い方するんじゃありません」

 と、窘めながらもリツコは内心笑っていた。
 学生時代の彼女が言いたくても言えなかった言葉だったからである。

 まったくこの娘は…。
 こんなにハッキリとした性格をしているというのに、どうして肝心のことは言えないんでしょうね。
 ま、それが恋愛ってものの威力ってことでしょうけど。

 その恋愛の行く末を察知しているリツコにはそのような余裕があるわけだが、隣席のアスカには余裕どころではない。
 
 アタシの進路が一番知りたいのはアタシなんだってばっ!

 歯軋りしたくなるほどの焦燥感。
 貧乏揺すりしたくなる足を気力で押さえ込みながら、アスカは時の過ぎるのをひたすら待った。
 彼女にはそれしかなかったのだ。
 


 その頃、廊下では。
 アスカの面談が終わるのを待っている、戸籍上の兄と妹がいた。

「私、第壱高校に行くの」

「そうなんだ」

「先生、大丈夫だって」

「そうなんだ」

「アスカもそこに行くの」

「そうなんだ…」

 レイは口の中で「きっと」という部分だけ飲み込んだ。
 彼女の計算ではそれで全てが巧く行くはずだった。
 ところが想定外の反応だった。
 兄が自分の言葉すべてに生返事なのである。
 世にも重要な嘘をついているというのにまったく気がついてくれないのだ。
 現在、応用力というものを学びつつあるレイにとって、ここは正念場であった。

「お兄ちゃん。聞いて」

「うん、聞いてるよ」

「アスカは第壱高校に行くの」

「そうか…そうなんだ」

「だから、第壱高校なの」

 いつもとは違うレイのしつこさにシンジはようやく顔を上げた。

「えっと、レイが?」

 この時、彼女は新たな感情を覚えた。
 関西弁で言うなら、「あんなぁさっきからゆうとるやんけなにきいとったんやわれええかげんにせえや」といった具合か。
 ただ感情表現に乏しいレイは眉を顰めたに過ぎない。
 
「違う。ううん、私は第壱高校だけど、私だけじゃないの」

「僕は…まだ決めてないんだ」

 レイは今度舌打ちのやり方を義母に習おうと決めた。
 おそらくこういう時に使えるに違いないと思ったわけだ。
 その昔、金髪黒眉毛の白衣の女が時々舌を鳴らしていたのを記憶していたからだ。
 そんな妹の苛立ちをさらに酷くさせようというのか、シンジはぼけっとした顔で頭を掻いた。

「お兄ちゃんは…違うの。つまり、アスカが第壱高校を志望して…」

 その時、歴史は動いた。
 取るに足らない少年の歴史だが。

 シンジの目がかっと開いた。



「もういいじゃない。どっちにしてもアタシはもう大学を…」

 がらっと勢いよく扉が開いた音に反応して、肩越しに振り返ったアスカは息を飲んだ。
 滅多に見られない、凛々しげなシンジの顔がそこに見えた。
 彼はつかつかと歩いてくると、担任教師をじっと見つめてはっきりと言い切ったのである。

「僕は第壱高校を受験します。そして絶対に合格します!」

 かくも凛々しげな表情ができるのに、それが発動するのは彼の人生において片手の指の数を超えることができるのか否か。
 もっともこの一番重要な局面において立派に言ってのけたのは拍手喝さいを受けるべきところだろう。
 事実、廊下でパイプ椅子に座っているレイはぱちぱちと手を叩いていた。
 さらにリツコも微笑みを浮かべながら、「ついに言ったわね」とゆっくりと頷いたのである。
 反応が遅れたのは先生だった。
 
「そ、そうか。まあ、それはよかった。だがな…」

 こういう時の先生というものは必ずマイナス面も喋るものだ。
 彼はシンジの成績の凸凹が少ないことに苦しみながらも、全体的にもっと学力を上げることと理科を特にがんばるようにとアドバイスした。
 わずかながらも理科のテストの点が悪かったからだ。
 それに対してシンジは大きく頷き、「がんばります!では、失礼します!」と最敬礼して教室から出て行ったのだ。

 さて、アスカ。
 彼女は肩越しの振り返り姿勢で固まったままだった。
 それはそうだろう。
 好きで好きでたまらない男性の実に颯爽とした言動を至近距離で見せられたのだから。
 これは彼女にとって大いなる衝撃であったわけだ。

 シンジ、かっこいい……。

 他人から見れば失笑もの。
 アスカ本人でさえ、他の人間がこんな想いを抱いて異性を見つめていれば「バカらしい」と一刀両断していることだろう。
 ところが、夢見る乙女の如く潤んだ眼で、唇は僅かに開き、頬を微かに赤らめて。
 そんなアスカの表情をシンジはどう思ったのだろうか。
 その答は、ない。
 何故なら彼は教室に入ってから一度もアスカを見ることができなかったからだ。
 自分が彼女と同じ高校を志望することで、もしアスカが怒っているような表情をしていたら…。
 そう思うと絶対に彼女の表情を窺うことなどできはしない。
 だからシンジは、自分を見て蕩けるような顔つきのアスカを見ていないのだ。
 実に残念なことである。
 しかもこれはリツコのみならず第三者の先生までいる席での出来事なのだ。
 結果から言うと、アスカがこんな表情でシンジを見ることは二度となかったのである。
 訂正。
 二人きりのとき、もう少し突き詰めると…。あとは読者諸君の想像通りのシチュエーションだ。
 筆者はそこまで書かない。

 さてさて、蕩けるチーズの如きアスカ。
 今や彼女には時間の概念も何もなかった。
 ただ雲の上で漂うようにぽうっとなっていただけ。
 そんな彼女が下界に引き戻されたのは隣に座るリツコの咳払いだった。
 しかもかなり大きめの。
 びくりと顔を小さく振った時、リツコがさらに見事な後押しをしてくれた。

「さあ、アスカ。いい加減に冗談は止めて、さっさと進路を言いなさい。とっくの昔に決めていたのでしょう?」

 さすがはリツコである。
 これがミサトならば含み笑いの一つも漏らしたであろうに、彼女と来たら眉一つ動かさずにしゃあしゃあと言ってのけた。
 こんな援護射撃を無駄にするようなアスカではない。
 彼女は顎を上げて椅子から立ち上がると腰に手をやった。

「はっ、アタシは第壱高校に入ってあげんのっ。受験なんか馬鹿らしいから黙ってただけ」

 アスカはいともくだらないことを言うかのように振舞った。
 仁王立ちしてまで、それに気合を入れまくっての発言だから、リツコは笑いを堪えるのが大変だったという。





「レイ。よくやったわ」

「大変だった。お兄ちゃんを相手にしてると疲れる」

「ふふふ。あのぼけっとしたところがいいのかしら?アスカは」

 帰宅したレイとリツコはコーヒーで乾杯した。
 本気でげんなりとした様子のレイを見て、リツコはふと思った。
 まるでふがいない息子を嘆く母親のようにも見える。
 その点、自分よりもレイの方がよりシンジに近いのかもしれない。
 そのことに少しばかりの嫉妬心も起きたのは否定できない。
 これは碇ユイの遺伝子の力か、それとも…。
 と、その時点でこの問題について考えることをやめた。
 遺伝子も血もどうでもいい。
 今の家族、レイやシンジだけでなく、お腹の中の赤ん坊や将来義理の娘となるであろうアスカも含めて、
 愛する人々が幸せであればいいではないか。

「あら、動いた」

「赤ちゃん?動くの?」

「当たり前じゃない。生きてるのだもの」

 レイはきょとんとした顔でリツコの膨らんだお腹を見つめる。
 もう8ヶ月だ。
 人は母の胎内にいた時の記憶をとどめているという。
 胎教というものはそのためにあるのだ。
 とすれば、レイはどうなるのだろう。
 母の胎内を知らない子供。

「さわってみなさい」

「いいの?壊れない?」

 リツコは微笑んだ。
 冗談で言っていることではない。
 レイは冗談など言わないし、この真剣そのものの表情が物語っている。
 
「大丈夫よ。あ、でもそっと触ってね。赤ちゃんをびっくりさせないように」

「了解」

 この癖はまだ抜けない。
 リツコに何か言われるとつい「了解」と返してしまう。
 レイはおずおずと手を伸ばした。
 まるで熱いものに触るかのように義母のお腹に掌を置いた。

「動いてない」

「うふふ、ずっと動き続けているわけじゃないわ」

「アスカみたいに?」

「そうね、彼女ならお腹の中でもずっと動いていそうな気がする」

 自分の思いつきに同意してもらいレイは嬉しくなって、そしてそっと掌を移動させた。
 別の場所なら動くのではないかと
 その動きを見ていると、リツコはお腹の中の子供が動いてくれないことが口惜しくて仕方がない。
 人間らしい、子供らしい感情を抱きはじめているレイに新たな生命の感触を実感してもらいたかった。
 しかし胎児は眠っているのかおとなしいものである。
 リツコはこの時間をできるだけ引き伸ばそうと考えた。
 レイの情操教育のために。

「レイ?どっちがいい?弟と妹と」

「今から決められるの?私が」

 リツコは吹き出した。
 その後で「ごめんね」と謝り、レイの頭を撫でる。

「赤ちゃんの性別はもう決まってるの。ごめんね」

「そうなの。じゃどっちなの?」

「さあ、どっちかしら。調べてないからわからないわ」

「どうして調べないの?」

「そうね。きっと、楽しみは先に取っておきたいから…かしら」

「楽しみ?」

「ええ、男の子か女の子か、直前までわからない方が…いろいろと楽しめるから」

「わかっている方がちゃんと準備できる」

「あは、そうよね。これって非合理的ね」

 うんとばかりに頷くレイだが、何となくリツコの言いたいこともわかりそうでわからずもどかしげな表情だ。
 まだまだたくさん教えないといけない。
 そんなことをリツコが思っていると、突然レイが予想外の行動に出た。

「訊いてみる。あなたは女の子?」

 掌を置いたまま、彼女は膨らんだお腹に問いかけた。
 真剣な眼差しのレイが可愛い。
 リツコが微笑みかけた、その時だった。

「それとも、男の子?」

 とくん。

「動いた」

 びっくりして掌を離してしまったレイが呟く。

「返事…したのかしら。今のは」

 独り言のようなリツコの言葉に、再びレイは母のお腹に手を伸ばす。

「もう一度、訊いてみる。あなたは男の子?」

 とくん。
 
「動いた」

 レイとリツコは顔を見合わせ、そして微笑みあった。
 この日から、レイには未来の弟に話しかけるという日課が増えたのである。
 それは彼女にとって、より効果的な情操教育となっていくのであった。



 さて、この三者面談の日の終幕はやはりあの二人に引いてもらうことにしよう。

「ちょっと馬鹿シンジ。アンタ、全然わかってないじゃないっ」

「だ、だってさ、アスカの喋ってること難しすぎて覚えられないよ」

「はぁ?簡単なことじゃない。CuSO4とBaCl2のそれぞれの水溶液の反応は…」

「ま、待ってよ。最初のは硫酸銅なんだろ。そんな記号で言われたらわかんないよ」

「何言ってんのよ。硫酸銅ってわかってるじゃない」

「違うよ。それは問題に書かれていた順番でそうじゃないかって…」

「アンタねぇ。外国に行って“硫酸銅”なんて言っても全然通用しないわよ。
 化学式は万国共通なのよっ。だからそれで覚えたら将来困らないじゃない」

「将来困らなくても、試験に困るよっ」

「なによその態度!この天才アスカ様がアンタ如きに深遠なる知識を伝授してあげようって言うのに文句あんのっ!」

「深遠なんかじゃなくていいってば。高校に受かればいいんだって」

「アンタ馬鹿ぁ?受かるだけの勉強なんてナンセンス!高校に入って困るのが目に見えてるわよっ!」

 食堂のテーブルでノートを広げるシンジの周りをアスカは腰に手をやりながらゆっくりと歩く。
 例によって口汚く聞こえるが、鈍感なはずのシンジにも何となく嬉しげな響きに思えていた。
 それはそうだろう。
 ずっと気になっていた将来の…差し迫って来年の進路が定まったのだから。
 アスカも嬉しいが、シンジの方ももちろんうきうきしている。
 だからこそ、いつになくアスカに口答えをしているのだ。

「そ、それは…。その時はまたアスカに教えてもらうよ」

 一瞬、アスカは言葉を失った。
 そして、それもいいかなと微笑んだ。
 タイミングの悪いことにその笑顔は彼の背後だったがために、シンジの視界にはまったく入らなかったのだが。

「う、うっさいわね!そうやってすぐに逃げるのがアンタの…」

「逃げてなんかないよ!」

「黙れ、黙れ!先生に向ってその口の聞き方は…」





 親愛なるママ。

 嬉しいことに進路が決まりました。
 ううん、ドイツ流に言うと何も決まってないのかな?
 将来のことは先延ばしになって、まずは同じ高校に入ることだけが決まったの。
 それから、私は彼の家庭教師になったの。
 リツコがシンジの苦手な教科を教えてあげてって言ってくれたから。
 だから、毎日私は彼に理科とか数学を教えてあげるの。
 でも難しいのよ。
 初歩的なことを教えるのは…って、これは有頂天になってる所為なの。
 リツコは言ったの。
 私の苦手なのは日本語での問題文の読解と回答なのだから、
 シンジに教えることによってそれも解消できるって。
 確かにその通りみたい。
 彼に理解できるように、まるで子供騙しみたいな教科書を読んで教え方を考えるのよ。
 それが凄く楽しいの。
 ドイツにいた時、眼を血走らせて一人で勉強していた頃の私が見たらなんていうのかしらね。
 ただね、時間がないの。
 一日が48時間だったらなぁ。
 




 かわいそうだけど、一日は24時間。
 誰にもどうしようもできないわ。
 だから、その貴重な時間を無駄にしないために頑張って。
 私からはそうとしか言えません。
 ハインツは「私の休みの日の時間を分けてあげられるなら日本に送りたい」なんてこと言ったから、
 頬を思い切りつねってあげました。
 だってそうでしょう?
 仕事の時間ならともかく、休みなのよ。
 家族と一緒に過ごす時間は、例えアスカにでも分けてあげません。
 冷たいようですが、自分で何とかしなさい。
 がんばってね。

 愛するアスカへ。



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