幼馴染

 

−弐−

仏のレイ、
恋の味を思い出すとき




 それは彼女にとって偶然だった。
 8月に入ったばかりの登校日。
 下校後、お昼を食べてからみんなで市民プールに行こうと話が決まった。
 みんなというのは総勢18人、男子が8人女子が10人だ。よくあることだが、俺も私
もと芋蔓式に増えていったのだ。
 その中心がアスカやカヲルたちのグループであったことは言うまでもない。
 アスカが行くと言ったからには、親友のレイも当然メンバーに入っていた。
 因みに女子の水着はみんなワンピース。スクール水着を少し派手目にした程度だ。それ
でも男子たちにとっては刺激的この上ない。
 もっともそれは遊び始めるまでだった。
 身体を動かしだすと、そういう色気成分はふっとんでしまう。
 見上げれば眼が潰れてしまいそうな夏真っ盛りの太陽の下で、彼らは体力の限界まで遊
んだ。手加減などなかった。
 あのカヲルやレイでさえ、ちゃんとプール内鬼ごっこに参加していた。
 潜水の得意なレイが鬼になると水中にまで神経を向けなければならない。
 超然とした態度のカヲルも鬼になると「僕は鬼でいいのさ」と怠けてはいないのだ。
 女子はいざ知らず、男子にとって笑顔で迫ってくる彼の存在は不気味なのである。
 しかも何故か彼は男子ばかりを追い掛け回す。
 それはアスカの存在があるからなのだが、そのために彼のフェミニスト振りが上がって
いく効果もあったことも否めない。
 そして、彼らは笛と放送を合図にプールから強制退去させられる。
 中に沈んで隠れていたつもりのトウジとケンスケも監視員のお小言つきで。
 しばらく幼児向けプールに座り込んで弾みきった息を整えてから、彼らはエネルギー補
給に向った。休憩時間とともに行けばこの多人数だから席が確保できないのだ。彼らは販
売コーナーから一番離れた席を確保し、ジャンケンを始める。
 全てを遊びに変えてしまいたいのは子供の特権だ。
 全員で買いに行っても面白くないではないか。
 そして罰ゲームに決まったのは、カヲルとレイだった。
 これが最大の偶然。
 運命だったのか、どうか。

 いい加減にみんなの注文を聞いていたカヲルと違い、レイは全てを間違いなく記憶して
いた。きつねうどんに七味を3回振ってくれというトウジのと、アメリカンドックにケチ
ャップ1往復マスタード2往復というケンスケの馬鹿げた注文までを忠実に。
 汁が零れてしまいそうなうどん類をお盆に載せて運んでいくカヲルをレイは少しだけ目
で追った。自分には運ばせないようにという気配りだと彼女は察知している。
 それが“優しさ”と判断したのはかなりの拡大解釈であったのだが。
 彼はアスカが注文した月見うどんを早く彼女の元に届けたかっただけだ。
 素早くうどんを運んだカヲルはアスカの笑顔を背にいい気分で戻ってきて、2回目の配
達にかかる。おそらくはうどんを食べるのに夢中で自分の方は見ないだろうが、もしかす
るとまた素敵な笑顔にありつけるかもしれない。
 表情は黄金仮面だが内面は恋する14歳の少年に他ならない。
 
「あと、カキ氷がふたつで終わり」

「わかった。じゃ、これを」

「その真っ黄色のは相田君の。注文通りにマスタード2往復」

「ふふふ、君のスピードを認識していないケンスケ君のミスさ」

 ゆっくりとチューブを移動した所為で彼のアメリカンドックはその本体もケチャップも
見えないほどの黄色の串付き長方体になっていた。
 もちろん、これは彼女の意地悪でないことをケンスケはすぐに了解するだろう。席の方
で真っ赤に染まったうどん入り七味スープを味わっているトウジもそうだ。
 気合の入っていない時のレイのスピードが人より遅いことは友達ならば百も承知してい
るからだ。顔を大袈裟に歪めて悲鳴を上げるケンスケの表情を背にカヲルは歩いた。
 「レイをお願いね」とアスカに言われたからである。あとはカキ氷だけだからもう戻る
つもりはなかった彼は、あっさりと気持ちを変えたのだ。
 すると視界の隅に今にも泣き出しそうな顔で佇んでいる少年を見つけた。
 足を止めて見ると、立ち尽くしている彼の手には銀色の盆が。そしてその足元にひっく
り返ったうどんの鉢がふたつに床にのたくっている白い麺があった。
 カヲルは一瞬笑顔を引っ込めた後にまた微笑み、少年の元に向う。
 
「落としてしまったのかい?」

 小学校高学年くらいの少年は顔も上げずにこくりと頷いた。
 カヲルは蹲って少年に微笑みかける。

「君と…誰のだったのかな?」

「妹…」

 少年の視線を追うと少し離れた場所の席から二三才年下くらいの少女が心配そうにこっ
ちを見ている。その視線にカヲルは微笑みを返してから、少年の肩に手を置いた。

「お金は?」

 首を振る少年にカヲルは状況を察した。
 おそらくプールの入場料とおやつ代だけしか貰ってこなかったのだろう。もしかすると
おやつ代に自分の小遣いを足してうどんにしたのかもしれない。
 
「渚君。どうしたの?」

「ああ、綾波君か。頼みがあるんだ」



「ああ、レイ。ほら、座んなさいよ、ここ」

 カキ氷を持ってきたレイに隣の席をアスカは勧めたが、彼女はふるふると首を横に。

「頼まれごと、されたから」

 カヲルに教えてもらったアルカイックスマイルが少し深めになっていることにアスカは
気づく。
 だが、彼女にはしなければならないことがあったのだ。
 アスカは再び丼に顔を近づけた。のびたうどんが好きな物好きではないのだから。
 
「おばさん、きつねうどん、ふたつ下さいな」

 小走りにうどんコーナーに戻ったレイはカヲルに渡されたお金でうどんを頼んだ。
 待っている間に振り返ると、こぼしたうどんをカヲルと少年が二人でお盆の中に戻して
いる。
 カヲルは少年に言ったのだ。

「妹さんの分もうどんは僕が奢ってあげる、でもこれは君がしたことだからね」 

 もちろん、彼は少年が片付けているのを眺めているわけがない。
 丼がプラスチック製でよかったね、とうどんを手づかみにする。
 そんな渚カヲルの姿が新鮮だった。
 学校での彼は教室の掃除すら嫌がっているように見える。
 それなのに今はどうだろう。
 床に落ちたうどんなど誰もが手にするのは躊躇いそうなものだ。
 だのに彼は平気で、しかも少年を元気付けようとしているのか何かと話しかけている。
 レイはできあがったうどんを盆に載せ、二人のところに歩み寄る。

「手を洗ってきて。その手で食べられないから」

「うんっ。お兄ちゃん、それとお姉ちゃんも、ありがとうっ」

 少年は直立不動で最敬礼した。
 
「私は、いいの。何もしてないから」

 素っ気無く言うと彼女はさっさと少女の待つ席にうどんを運ぶ。
 少年はもう一度「ありがとう!」とカヲルに言うと、手洗いに走っていった。
 その背中を見送って、カヲルは思った。

 仏のレイちゃん、照れてたな。

 彼はにやりと笑い、そして汚れたうどんを返却口に運ぶのだった。



 プールで精一杯遊んだ帰り、レイはアスカの家に寄った。
 クーラーを効かせた部屋でしばらく喋っていると、睡魔が襲ってくる。
 ベッドは使わずに、畳の上に二人ともゴロンと横になって眼を閉じた。
 座布団を枕にタオルケットをお腹にかけて。
 まるで小学生のような昼寝である。

「君は、仏様だよ、観音様だよ、菩薩様だよ」

 誰もいない市民プールで、何故か学生服のカヲルがプールサイドに腰掛けている。
 にやにや笑いでズボンが濡れるのも厭わずに組んだ脚は水に浸かっていた。

「ふふふ、さあ一緒にきつねうどんを食べようよ。うどんはいいねぇ。人類の産んだ最高
のご馳走さ」

 レイに向って手が伸ばされる。
 女の子のように細く白いその手を握ってもいいのかどうか。
 悩んでいると、彼のその手を脇から握った者がいた。
 誰かと思うと、自分だった。
 しかもそれは一人ではなく、水面を埋め尽くさんばかりの自分の大量発生。
 その全てが彼に向って手を差し伸べている。

「困ったねぇ。僕は一人だから。綾波君は千手観音だったのか。それは知らなかったね」

 違うの、私は一人。綾波レイは一人しかいないの。
 だから、だから、私を選んで。
 レイは手を差し伸べた。

 そこでまどろみの時間は閉ざされた。

 身体を起こしたレイは胸を抑えた。
 動悸が激しい。
 小学生の低学年の頃は少し運動をすれば心臓がばくばく叫んでいた。だが、身体が成長
するとともにいつしか風邪も滅多に引かない健康な身体になっていたのだ。
 しかし、今のこの動悸の激しさは?
 アスカに羨ましがられている胸の膨らみの下、その動悸はあの頃のものと違う。
 明らかに違う。
 あれは身体が苦しかったが、今は…心が苦しい…?
 これは?

 元気なアスカはぐっすりと昼寝をして、レイはひとりぼっち。
 もう一度横になったもののまったく眠れない。
 彼女はアスカの眠りを妨げないようにそっと立ち上がった。
 レイの部屋も飾り気は少ない方だがアスカはもっと素っ気無い。女の子らしい部分とい
えば、
ベッドに置いてある猿のぬいぐるみくらいなもの。
 その容姿と性格のギャップが彼女の魅力なのかもしれないと、レイはよく思っている。
 レイは窓際に立った。
 レースのカーテン越しに見えるのは隣の家。
 そこにはカヲルが住んでいる。
 向かいの窓もしっかりしまっているところを見ると、彼も昼寝をしているのだろうか。
 それとも好きな音楽を聴いているのか。
 向こうもレースのカーテンが引かれている。
 レイはじっとカヲルの部屋を見つめた。
 こうして見ていると、もしかすると顔を覗かせるかもしれない。
 そうすると…。
 そうするとどうだと言うのだ。
 嬉しい……のかもしれない。
 この感覚に彼女は覚えがあった。
 そしてその後に訪れた哀しみにも。
 


 小学校6年生の冬。
 今から一年半前になる。
 綾波レイが待ち望んでいた親戚の少年が、ようやく年始の挨拶にやってきた。
 東京に住んでいる従兄妹である。
 レイは彼のことが好きだった。
 それが初恋といえるのかどうか微妙なところがあったが、少なくとも彼女は胸を張って
言ったのだ。
 大人になったら彼と結婚したいと。
 これが七八歳の発言ならまだよかった。だがもう来年は中学生なのだ。
 少年の方は照れて笑っていたが、大人たちはそんなわけにはいかなかった。 
 何故なら二人は実の兄妹だったからである。
 少年を産んでから10ヶ月弱後、まだ妊娠7ヶ月での早産で生まれたのがレイだ。
 そしてその母は赤ん坊の命と引きかえに天に召された。残された父親に赤子二人を育て
ることは不可能で、そこで生まれたばかりの長女の方は養女に出されたのだ。
 亡くなった母親と年の近い叔母の夫婦に子がなく、赤ん坊は綾波家の人間となる。
 ただし、その名前は母が望んでいた名前を付けられたのである。
 かくして綾波レイが誕生した。

 身体が弱かった所為か、小学校時代の彼女にはこれといって親しい友達はいなかった。
 そんなレイは折に触れて遊びに来る従兄妹(ということになっている)の少年と仲がよ
かった。少年は家での遊びに異議を唱えず、ゲームをしたり本を読んだり歌を歌ったりし
て過ごす。
 彼との時間はレイにとって宝物のようなものだったのである。
 読書好きな彼女は精神的には早熟であった。
 だからこそ少年に好意以上の気持ちを抱いたのだ。
 それは本当にささやかなものであったが。
 
 しかし、親たちは慌てた。
 それは亡くなった母の性格のためであろう。一回り以上歳の違った男に惚れこんでまだ
大学在学中に結婚し、そして22歳にならずにこの世を去った。
 そんな情熱を内に秘めた女の娘がレイなのだ。
 うかつなことはできない。
 いつかは話そうと思っていたのだが、その日が早く来たということだ。
 親たちは腹を決め、そして少年と少女に話をした。
 それが一年半前の正月なのだ。

 寧ろ少年の方が動揺した。
 レイは逆に彼に惹かれる理由が飲み込めて、ただなるほどと頷くだけに過ぎなかった。
 表面上は。
 しかし赤ん坊のときから彼女を育ててきた義母には彼女の哀しみがわかる。
 こういうものは一人になった時に湧き出てくるのだ。
 その日、義母は強引にレイと一つ布団で眠った。
 雪が町を薄化粧した寒い夜、人の肌と愛情のぬくもりに包まれて。
 だが寝入る前に、レイはひとしきり泣いた。
 母の胸に抱かれ、母の涙に濡れ、その人を死ぬまで母と呼ぶことを誓いながら。
 
 つまり、こうだ。
 少年と兄妹だということよりも、父母と信じていた人との絆を断ち切られそうになった
ことの哀しみの方が強かった。
 そういうことだった。
 少年への好意は寧ろ実の兄だとわかったことで、より高いものと昇華したのかもしれな
い。
 翌日、未だに落ち込んでいる少年をレイは力づけた。
 自分が生まれてきたことでお母さんが死んでしまった、そのことを謝る本当の妹に彼が
何を言えよう。
 まだ12歳にもならない妹に恥ずかしいと、12歳の彼は兄として彼女を守ると誓った
のだ。
 
 初恋の想い出は、ときめきと、哀しみと、嬉しさと、そういった様々な記憶を彼女にも
たらす。
 そういうごったまぜの感覚がこの時のレイにも訪れたのだ。

 どきどきする胸。
 
 動悸が早い。
 カヲルの部屋を見ていると、彼のことを考えると。
 どちらかというと嫌いな異性だと思っていたはずなのに。
 しかし、この気持は間違いなくそうだ。
 しかもあの時よりもかなり強いではないか。
 レイは息を飲んだ。

 私は、あの渚カヲルに恋をしている。

 レイは振り返った。
 いつの間にかアスカはお腹にかけていたタオルケットをはねのけている。
 そんな寝相の悪い親友を見て、レイは微笑んだ。
 
 よかった。
 アスカはあの人のことをそういう意味で好きではないから。

 親友の気持ちはよく知っている。
 惣流アスカは渚カヲルが大好きだ。
 しかし、それは友達としてで、異性として好きなわけではない。
 言葉にして聞いたわけではないけれど、レイは確信していた。
 だからこそ、彼女は決心したのだ。

 自分の想いをアスカに伝えようと。
 カヲルには?
 ぶるるるる。
 それはとんでもないことだ。
 自分の想いが彼に通じるわけがない。
 彼は…。
 彼は…。
 
 レイはアスカのお腹にタオルケットをきちんとかけてあげた。
 整った顔立ち、青い瞳、ピンク色の唇。
 羨ましくなるほどの容姿だ。
 もし、彼女がカヲルに異性としての好意を持てば…。
 唇を噛みしめたレイは瞼を閉じた。
 


「あのね、私、渚君のことが好きみたい」

 目覚めたばかりのアスカの前に正座して、レイは真っ直ぐに目を逸らさず告げた。
 寝起きの頭に彼女の言葉が沁みこんだのは数秒経過してから。
 その間、レイは身じろぎもせずじっと待っていた。
 アスカの眉が寄った。

「ごめん。今、何て言ったの?」

 レイはもう一度同じ言葉を繰り返した。
 今度はアスカもすぐに理解した。
 理解さえできれば、彼女の反応は凄まじく早かったのである。

「わぉっ、凄い!カヲルのことを?ねぇ!告白するの?
 アタシ、応援するわよ!レイだったら大丈夫だって。
 よしっ。じゃっ、今から行くわよ!レッツゴーっ!」

 レイは必死でアスカを止めた。
 それこそ腕に縋り付いて。
 予想以上の反応の良さに嬉しいのだが大慌て。
 今、告白すれば100%以上の確率で玉砕してしまう。
 しかし、本気でレイとカヲルならいいカップルになると直感したアスカを納得させるの
は至難の業だった。まして彼が好意を持っているのはアスカその人だなどと言ってしまえ
ば、絶対に彼女はむきになってそんなことはないと断言し、カヲル本人に確かめようとす
るだろう。
 そんなことになれば玉砕どころか世界の破滅だ。
 ここは心の準備もできていないからしばらく待ってと説き伏せることしかレイにはでき
なかった。
 当然アスカは不服だったが、少し涙目の親友を見れば承知せざるを得ない。
 だが、アスカは嬉しかった。
 大親友のレイとカヲルが恋人同士になればこんなに素晴らしいことはない。
 彼女はレイを応援すると瞳をキラキラさせて誓った。
 もし、レイが恋心を抱いたきっかけが、プールで少年がうどんをこぼしたことだと知っ
たなら、少年を全校朝礼で表彰しかねないほどの勢いで。

 レイはほっとした。
 親友はカヲルのことをやはり異性としては見ていないようだ。
 しかも今こうして自分の想いを伝えたからには、アスカは絶対にカヲルに恋心など持た
ない。
 彼女はそういう人間だ。
 そのことをわかっていて、わかっているからこそ、アスカに自分の気持ちを伝えた。
 そんな自分をレイは汚いと感じていた。
 計算して親友の心を誘導したといってもいい。
 レイの心は複雑に揺れていたのである。

 ほんの数メートル先で自分の未来を語られているというのに、カヲルはベッドで眠って
いた。
 夢も見ずにただぐっすりと。

 


 

 

−参−

お転婆アスカ、
チェロ弾きの少年と出逢うとき




 アスカの恋も突然だった。
 いや、下地はできていたからだろう。
 それはレイの“カヲルが好き”宣言だ。
 テレビや漫画ではなく、実際に親友が恋心を表明したのだ。
 肉体的には14歳の乙女が精神的な刺激を受けていないはずがない。

 だが、その下地はカヲルの方向には向けられていない。
 彼女にとって彼はそんな存在ではなかったからだ。

 忘れもしない幼稚園に上がる直前だった。
 幼きアスカは幼稚園になど行きたくなかったのだ。

 最初は楽しみにしていた。
 たくさんのおともだちができると聞いていたからだ。
 だが、事前の体験入園の時に彼女は見知らぬ男の子から苛められた。
 明らかに外国人にしか見えない異物にその子が大仰に反応したために、先生が気がつく
までの数分に取り囲まれて揶揄されたり髪の毛を引っ張られたりしたのだ。公園などでそ
ういう扱いをされた時は口げんかや乱闘で相手を黙らせてきたアスカだったが、こんなに
集団で苛められたことなど一度もなかった。
 その日はいつも一緒のカヲルが風邪で家で寝ていたこともあり、彼女が恐怖心を抱いた
ことはやむを得ないことだ。
 しかしその時、アスカは泣かなかった。口をへの字にしてずっと我慢していたのだ。先
生に慰められた時も母に力づけられた時も、彼女の涙の堤防は決壊しなかったのである。
 洪水が起きたのはその翌日、元気になったカヲルをお見舞に行ったときだ。
 やせ我慢をしていたアスカは「ようちえんはたのしかった?」と聞かれてわあわあ泣い
た。
 それを知るのはカヲルだけ。
 そして彼はアスカを力づけたのだ。どういうことを言われたのかアスカはほとんど覚え
ていない。泣くので忙しかったからだ。
 だが、結果として苛められたら立ち向かうんだという言葉にアスカはうんうんと大きく
頷いた。僕がついているからねとカヲルに優しく微笑まれたことで彼女は決意したのであ
る。

 そして、入園日。

 アスカは大立ち回りを演じた。
 件の男の子がからかってきた瞬間に即座に言い返し、驚いたその子がアスカの帽子をと
ろうとした時、アスカのウルトラパンチが炸裂したのだ。二人の喧嘩は周囲を巻き込み、
園長先生の涙の演説でその日は締めくくられた。
 人の肌や言葉やそういったもので差別をしてはいけません。同じ人間なのです。云々。
 入園式でまっさらの制服がドロドロになり、鼻血擦り傷の子も出ただけに、本来ならそ
の発端となったアスカと男の子がつるし上げられるところなのだが、その町で有名な園長
はこの事件を巧く利用し、平等と平和の精神を植えつけようとしたのだ。
 時代もよかった。
 せっかくの入園式がなどと内心は思っていても口に出すような親はいない。そんなこと
を言えば、己の心の貧しさを周囲に知らしめることになるから。
 髪の毛を振り乱したアスカと鼻にちり紙を突っ込まれた男の子は握手をさせられた。
 その男の子は「女の子に手を出したらいけません」というその時の教えを今までずっと
守ってきている。
 相変わらず口は出しているが。
 拳を交えた鈴原トウジとの歴史はこの時から始まっていたのだ。
 その日、胸を張って帰宅するアスカの隣で、形が崩れてしまった帽子を一生懸命に直そ
うとするカヲルの姿があった。
 その彼がいたおかげで、自分は立派に戦うことができた。
 アスカは嬉しくてたまらなかったのだ。
 この時から、カヲルはアスカにとって友達以上の存在になったのである。
 
 彼にとって不幸なことに友達以上というのは恋愛の対象という意味ではなかった。
 一人っ子のアスカは彼を兄弟だと認識したのである。
 
 さて、アスカの恋心だ。

 レイの兄、世間的には従兄妹(戸籍的にはそれも正しくないが)と扱われている少年が
この町に引っ越してきたのである。勤めていた会社がこの地方に新工場をつくったので、
それを機に実の娘が住まう町に移り住んだのだ。
 これは綾波家の夫婦の要望でもあった。
 彼らはもう五十を超えている。
 そのためレイの将来が不安になったということもあり、どうせこちらに来るなら近くに
家を見つけて欲しいと頼んだのだ。父親は逆に途惑ってしまったが、レイ本人からも「両
親のお願いを聞いてください」と言われれば頷くしかない。
 親子の名乗りは一生するつもりはなかったが、絆は切れはしないのだから。
 こうして碇ゲンドウとシンジの親子は、8月の終わりにこの町に引っ越してきたのであ
る。
 
 アスカが彼と初めて顔を合わせたのはレイの家だった。
 トラックに揺られるのが不安でチェロのケースを抱えて彼は電車で移動してきた。
 引越しの前日である。
 その夜は空き家になっている引越し先ではなく、レイの家に泊まったのだ。
 レイはアスカに自分たち兄妹の秘密は告げていない。
 従兄妹という説明で充分だと思っていた。
 だが、少しばかり頼りなく見える兄のために強い味方を紹介しておこうと考えたのは兄
弟愛からだろう。それに翌日の引越しの手伝いにアスカも来ると言っていたのだから、顔
合わせはしておいてもいい。
 そんな思惑からアスカはその日の昼下がりにレイの家に呼ばれた。
 アスカらしく、約束の時間の一時間前に。
 同級生で、かつ親友の従兄妹というのはどういうやつだろうかという好奇心でいっぱい
だったためだ。
 いつものように元気よく「お邪魔します!」と玄関を開けたとき、聞こえてきたのは妙
なる音楽。カヲルならばすぐにチェロだとわかっただろうが、この時のアスカにはクラシ
ックの楽器であるとしかわからない。
 意表をつかれた彼女は暫し玄関先でその音色を聴いた。
 
「あら、アスカちゃん。こんにちは」

「あ、おじゃましてます。あれは…」

「碇シンジ君。上手いでしょう?チェロよ」

「あ、チェロ。そうなんだ」

 アスカのことをよく知る綾波家の奥さんは楽器のことは知るまいと情報提供をする。
 知りませんでしたと素直に笑ったアスカは靴を脱ぎ、奥の部屋へ向う。
 レイの部屋の前に立った時、中から会話が聞こえてきた。
 その中に自分の名前があったために、彼女は思わず聞き耳を立ててしまった。

「はい、じゃ、次はアスカの好きなビートルズね」

「どうしても弾かないと駄目?」

 初めて聴いたその声は少し頼りなげで、しかし何故かいやな感じではなかった。
 アスカはなよっとした男は嫌いだったのだが、彼の言葉に含まれていた温かさを感じた
のだろう。
 
「駄目。アスカはビートルズが大好きなんだから。約束したでしょう?」

「したけど。難しいんだよ。楽譜もないし」

「もうっ。そんな言い訳しないの。男でしょう」
 
 新鮮だった。
 レイのこんな口調を聞いたことがなかったのだ。
 その時、ふと兄妹っていいなとアスカは思い、ああ従兄妹かと苦笑した。
 何の遠慮もなしに喋りあえる。
 その時彼女の頭に浮かんだのはカヲルの顔だった。
 自分たちの会話もこんな感じに聞こえるのだろうかとも思う。
 
「何を練習してきたの?」

「えっと、イエスタディとミッシェルと…アンド・アイ・ラブ・ハー」

「ちょっとっ。駄目じゃない。アスカはもっと激しい曲が好きなのよ。
 私、ちゃんと説明したじゃない。そういう曲を弾ける様に練習してきてって」

「む、無理だよ。これはチェロでギターじゃないんだから」

「同じじゃない。似たようなものよ」

「無茶言うなよ。全然違うよ」

 アスカは笑いを堪えるのに必死だった。
 音をさせないように廊下に座って、わくわく顔で続きを聞こうとする。
 そして飲み物を持ってきたレイのお母さんに手を合わせて盗み聞きを許可してもらう。
 お母さんは微笑んでここに置きますよとアスカの足の届かないところにお盆を置いた。
 どうやらそういう部分の信用度はゼロのようで。
 しかし今のアスカには会話を聞くのに夢中だった。
 何しろ親友の別の顔なのだ。
 いつも澄ました感じのレイがまるで妹のように甘えた感じの口調なのだから。
 まるで漫才を聞いているかのようにおかしくてたまらない。

「それくらい弾けるでしょう。やる気がなかったんでしょう」

「あったよ。あったけど、だから難しいんだってば」

「じゃ、難しいから簡単なものでお茶を濁そうって言うの?そういうのアスカは嫌いよ」

 うんうんとアスカは頷いた。
 チャレンジ精神はアスカのモットーなのだ。

「ぼ、僕は、別にその子に好かれなくても…」

 はぁ?
 アスカは眉間に皺を寄せた。
 誰がアンタなんかを好きになるって?

「ま、まあ、写真で見たらさ、かなり綺麗だとは思うけど…」

 ほぉ…。
 アスカは唇をすぼめた。
 綺麗だと言われて不快になるわけがない。

「でも、レイの話じゃ、凄いお転婆じゃないか」

 何っ。
 こいつ、何様?
 アタシのことをお転婆だなんて失礼なっ。
 アスカは拳を突き上げた。
 そこに言葉の主の顎があるかのように。

「まあ、レイの親友だからと思って…」

「大親友」

 ぱちぱちぱち。
 音のしない拍手をアスカはレイに贈った。

「はいはい。大親友だからさ。僕もこれでも頑張って練習したんだよ」

「はぁ、仕方ないわ。もう今さら。じゃ、弾いてみて。どの曲を聴かせるか私が決めるか
ら」

「えっ、そうなの?」

「当たり前。アスカに聴かせるんだから。一番いいのを選ぶの」

「自信ないよ。どれも似たようなものだし」

「うっさい」

「え…?」

「って、アスカなら怒るわよ。早く弾くの」

 アスカは床をバンバンと叩きたかった。
 こんなに面白いものはない。
 カヲルとの会話も遠慮がないものだが、こういう感じにはならない。
 彼となら丁々発止のやりとりで会話が高速でキャッチボールされるのだ。
 ところがレイとこの男の子ではふんわり和やかな感じで言葉が行きかっている。
 いいなぁ、こういうのも。
 そんな気持ちになったのは、彼がチェロを弾き始めてからだった。
 イエスタディに始まって、3曲が続けて演奏された。
 アスカがビートルズの曲を歌なしで聴くのは実は初めてだった。だからかなり新鮮で、
しかもスローテンポの曲は嫌いな方だったのに耳に心地良い。
 ところどころで間違うようだが、それはそれでいいものだ。
 3曲全ての演奏が終わった時、アスカは大きく拍手したくなったほどだ。
 だが、プロデューサーは厳しかった。

「駄目。まだまだね」

「だから言ったじゃないか。全然駄目だって」

 そんなことないないっと、アスカは大きく首を横に振る。
 充分な演奏ではないか。

「どうしよう。こんなのじゃアスカに聴かせられない」

「だろ?だから僕…」

 みんな、おかしい。
 アスカは憤慨した。
 
「仕方ない。イエスタディね。あれが一番まとも」

「そうだね。僕もそう思う」

 すっかり落胆したかのような二人のやり取りにアスカの目は鋭く光った。
 彼女は音もなく立ち上がるとそろりそろりと玄関に戻る。
 そして、足音も高く再登場。居もしないお母さんも登場させて。

「しっつれいしまぁす。あ、これは私が運びます。いっただきまぁす!」

 床のお盆を持ち上げて部屋の前に立つと中でごそごそ慌てたような物音。
 一人芝居のアスカはニヤリと笑った。邪悪な笑みと評されている笑顔で。
 入室したアスカは少年の顔を見て笑いを抑えるので必死だった。
 澄ました顔で「碇シンジです。はじめまして」と挨拶するのも笑いのツボを突く。
 アスカは二人から見えないように膨脛をぎゅっと抓り上げる。きっと痣になっただろう
が、こんなに楽しいものを奪われてなるものか。

「はじめましてっ。惣流・アスカ・ラングレーです」

 高揚感を抑えながら、しとやかに挨拶したつもりのアスカはレイの従兄妹の顔を見る。

 へぇ、やっぱり親戚よね。何となく似てるじゃない。
 ま、全体的には冴えない感じだけどさ。

 値踏みをされているのがあからさまにわかり、シンジはお尻のあたりがこそばゆい。
 レイに告げた、写真で見た彼女が綺麗だという印象は嘘ではない。
 外国映画で見るような女の子みたいな感じで、こんなに近くで見るとやはり胸がドキド
キしてしまう。
 
 本来ならもう少し話をしてからのつもりだったが、短気なアスカにはこのあたりが限界
だった。

「わっ、あれ何?バイオリンっ?」

 少年の背後に横たわる楽器を指さし、アスカは目を輝かせた。
 いささかわざとらしい芝居だったが、元々オーバーアクションの彼女だ。
 二人は見事に誤魔化された。

「馬鹿ね、アスカは。あれはチェロ」

「へっ。そうなの?レイの?」

「違う。これは…」

 お兄ちゃんと言いかけて、レイは口をつぐんだ。
 二人が兄妹であることは秘密にしようと決めたのだ。
 レイとしてはアスカになら喋ってもよいと思ってはいたのだが。

「碇君、の」

「碇君?従兄妹なんでしょ、何そのよそよそしいの」

 思わず吹き出してしまうアスカである。

「えっと、なんだっけ?シンジ…くん?」

 言ってからアスカは自分の中の違和感に気づく。
 思えば男子の名前の方を呼ぶなどほとんどないことだ。
 だから何となく気持ちが悪い。

「シンジ君、は変。碇君でいいの」

 お兄ちゃんを名前で呼ぶほうが自分としては気持ちが悪い。
 いきなりだったが、これからはシンジのことは碇君と呼ぶことに決めた。

「そう?まあ、レイが呼ぶんだからいいんだけどさ」

 不承不承アスカは頷いた。
 呼び方よりも今はこのチェロを弾かせる方が先だ。

「じゃあさ、それ弾いてよ。ねっ、そうねぇ、ロール・オーバー・ベートーベンなんてど
うっ?」

「ええっ」

 シンジは眼をむいた。
 彼は生真面目な上にレイからの頼みだけにちゃんとビートルズの曲を聴いて、どれがチ
ェロで弾きやすいか検討していたのだ。アスカがレイ用にカセットテープに録音して渡し
たビートルズ全曲集をまた借りして。だから「ロール・オーバー・ベートーベン」がロック
ンロールであることはわかっている。
 何より、とんでもないふざけた題名だと憤慨していたほどの曲で、最初の部分を聞いて
すぐに除外したほどだ。
 当然、アスカもそのことは充分推理していた。

「そ、それは無理だよ。あんな曲」

「あんな曲ですってぇ?アンタ、カヲルの仲間っ!これだからクラシック好きの連中は本
当に…」

「あ、あの、碇君は他のを弾けるの。イエスタディよ、アスカ、イエスタディ」

 レイは慌てた。アスカが怒った振りをして見せたからではなく、カヲルの名前が飛び出
してきたからだろう。

「あ、そうなんだ。じゃ、聴いてあげるから弾いてみせてよ」

 アスカは腕を組んで眼を閉じた、振りをする。当然薄目を開けて、目の前の少年の様子
を窺う。
 こんな見ものを見物しないでいられようか。
 シンジは頬を膨らませてこの傍若無人な少女の要求に憤慨したが、傍らのレイが手を合
わせて怒らないでとお願いする。そうなると妹を守ると誓った兄としては、親友との仲が
悪くなってはと矛先を収めないわけにいかない。
 彼は大きく深呼吸を二度三度。
 気持ちを落ち着かせてから、チェロを構えた。
 そんな様子をアスカはわくわくしながら待った。
 こんな楽器を弾くのをこんな近くで見るのは初めてだからだ。

 結局、シンジは3曲とも弾かされた。
 アスカが盛大な拍手を送り、もっとないのかとリクエストしたからだ。
 彼も男子である。
 写真を見て綺麗だと思っていた少女から褒められれば、木でも東京タワーでも登ろうも
のである。
 その上、アスカの方も勢い余ってクラシックの曲まで要求してしまった。



 帰宅したアスカは、応接間のステレオセットの前に陣取った。
 そして、「Asuka's Favorite Songs 2」の製作にかかった。
 「1」のカセットテープはロック中心だったが、今度はバラード集であった。
 その日は遅くまでレコードをとっかえひっかえし、ようやく60分テープを完成したア
スカはすこぶる機嫌がよかった。
 一週間後までにもう一曲ビートルズを弾けるようにするとシンジに約束させたからだ。
 その代わり、明日の引越しの手伝いは朝から来て全力ですると宣言してしまった。
 言葉の弾みというやつだ。
 
 楽しかったし、まあいいか。
 
 アスカはレイに似た面差しの、しかし彼女よりも表情がころころ変わる少年の顔を思い
出した。
 そして、はっとさせられたことも。
 クラシックの曲を弾く時の、さらに真剣みが増した、それでいて優しげな表情。
 気がつくとその顔をじっと見ていた自分。
 彼女は急に恥ずかしくなった。
 ソファーに飛び乗ったアスカは、腰に手をやると天井に向って叫んだ。

「はんっ、ビートルズでアタシの気を惹こうなんて百年早いんだからっ」

 さて、気を惹こうとしたのはどっちだったか。



 その夜、アスカの部屋の明かりが灯らないことにカヲルは少し不安だった。
 彼はその不安を打ち消そうとしたのか、荘厳な曲調のものではなく明るめのピアノ曲を
選んだ。ステレオから流れてきたのはアシュケナージのショパンピアノ曲集。
 彼はいつものように机に足を放り上げ、音楽に身を委ねる。
 そして、時に首を伸ばして向かいの照明を確かめた。10時になっても暗いままの部屋
を見て、彼は溜息一つ。
 ちょうどそこに流れてきたのは練習曲第3番ホ長調。
 カヲルは苦笑した。

 「別れの曲」とは馬鹿にしている。
 部屋に帰ってないくらいで何だというのだ。
 くだらない。

 彼は掌を机にぱしんと叩きつける。
 だが、その乾いた音は激情的な鍵盤の音にあっさりと消されてしまった。

 

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