『春の雪はすぐに溶けてしまうけど』



戻り雪が降る。春の気圧配置が急に転換し関東平野に寒気が流れこむと、3月にもなって雪が積もる。
朝起きると、信じられない量の雪が積もっていた。窓に張り付いている雪。30cmは積もったのだろうか。
ちゃりちゃりとチェーンの音が時々聞こえてくる。
桜の花が2分咲きにもなろうかという時だ。花が駄目にならないか心配した。
それでも午後になれば雪は殆ど溶けたので、一安心だ。
桜のほころびをアスカが発見した日、茶店にはまだ花見団子は無かった。
今日から揃うと言うのだが、こんな雪ではどうだろうか。僕はぐちゃぐちゃになった校庭をぼんやり眺めていた。
立ち上がった途端に、どんと誰かがぶつかってきた。両手に黒板消しと学級日誌と新しい標語ポスター。


「な、何勝手に、先に行こうとしてんのよっ。」


息を切らして、アスカはむくれながら言う。


「ああ、教室が静かだと思ったら、アスカがいなかったのか。」

「あたしが今日に日直だったって、知らないわけ無いでしょ。」

「いや、マジ忘れてた。」

「あんた馬鹿ぁっ?
12回もあたしの声で立ったり座ったりして、気づかなかったッてことは無いでしょっ。」


ああ、そういえばそうだったよなあ。6校時あるから12回起立と礼をしたもんな。
アスカは拳骨を握って、ダン!と僕の机を叩いた。


「あんたのボケボケーッとした性格も、いよいよ病気の域まで来たんじゃないの、ええ?」

「う、うん。もしかしてそう、かも。」


僕に肩掛けザックを放り投げて、彼女はチャコールグレーのコートを羽織り、黒板消しを揃えて板の端に置いた。


「もういいっ、帰るわよっ。」


急いでポスター貼ってあげてるのに。ちょっと待てよ。


「あ、日誌は?」

「あんたじゃあるまいし、6時間目の授業中に書いちゃったわよ。」


何か難しい問題が当ってた様だけど、とっさに板書してさっさと席に戻ってたもんな。余裕だよなぁ。
理数系ではアスカはいつでも学年でTOPクラスだ。
数学ヲタクと名高いC組の福山とかって奴とテストがあるたび激烈な争いを繰り広げている。
もっともアスカの方はそんなことは気にしてない。理数科受験補修コースにすら登録していないもの。
それがますます福山には気に入らないんだろうけどしょうがないよな。

アスカは常々そんな時間があったらシンジをしごくって、僕にもみんなにも言ってるし、情けないけど実際僕はアスカに数学と物理、英語も教えられてるんだ。(強制的に)

雪はもう殆ど溶け、通学路沿いの家の軒や枝先から滴(しずく)がひっきりなしに落ちている。
その大粒の水滴が地面で跳ねて、ぴちぴちと音を立て続ける。
坂上のほうから流れてくる極薄い水の波紋が道一杯に広がって下りて来る。
花びらや小さな葉っぱを浮かせて。アスカはその波紋の頭を踏むように歩いていく。
その流れに反射した照り返しの光が彼女の顔の上で揺れている。
日射しは明るいけれど、空気はまだ湿っていて、お茶屋の毛氈を敷いた台は片づけられていた。


「ああ、がっかりだね。」

「もしかして濡れちゃったのかしら。」


山門前の階段の桜は、雪で冷えたせいか、少し窄まったように感じられた。
実際今日はコートがないと寒いくらい。高台だし実際少し気温も低いのかも。
境内は木の影が多いせいか、雪が平地より大分溶け残っている。
そのせいでますます寒々とした感じがするんだ。
事務所脇の御茶屋の畳敷きには、火鉢が入れられていて、入ると少しほっとした。


「このくらいの寒さ、どうってこと無いはずだったのにな。」


アスカが火鉢に手をかざす。
寒さに強いって言うのが自慢だった彼女にしてみると悔しいことなのかもしれない。
ミニスカートからのぞいているアスカの腿は、ちょっと赤くなって網目状の血管が少し透けて見えた。
そうだよ、大体冬の制服がミニなんて無理があるんだ。でも街中の女の子たちは皆ミニをはいている。
女の子って大変だよなあ、って今日も仲間と話したっけ。
彼女は机の前に座ると、膝の上にコートをかけた。それで僕もちょっと安心した。
寒そうにしてる人を見ると気になるから。今日はもう甘酒も無いしね。
運ばれてきたお茶を二人ですすりながら、背中を丸めていると年取ったみたいに感じる。


「まったく、これじゃ陽だまりの猫よね。」

「若者の姿じゃないね。」


同じ事を考えてたので苦笑する。
さっさと帰ることにして、桜餅を2つ、包んでもらった。
多分、歩きながら食べようってアスカは言うだろう。それもいいな。

戻り雪の中、家に向かって二人で歩いていくと夕方になってどんどん気温が下がっていくのがわかる。
息がだんだん白くなり、足元の水が、いつの間にが薄氷になってぱし、ぱし、という音が微かにする。
雲は切れて、月が凍っているような色で輝いている。
家路は僕とアスカの長い影が街路灯ごとに行ったり還ったりする。
そうしながらいつの間にか寄り添っている。月が僕らを覗くようについてくる。枝の向こうから。 



「桜餅、食べる?」

「家に帰ってからでいい。」


僕の勘はどうやら外れてしまった。
その代わりアスカの手がコートのポケットに入ってきて僕の手を握った。
素手に触れるミトンの手袋の感触が柔らかい。そこに彼女の温もりが加わる。


「綺麗な月よね。」

「そうだね。」

「ドイツには月を眺めて楽しむ習慣は無いのよ、桜みたいに花を楽しむ習慣も。」

「でも、クリスマスとか、冬至のお祭りとかあるじゃない。過ぎ越しのお祭りとか。」

「そうね、でもそれは日本のとはちょっと違う。桜を見るのは一人でもできるし、月もね。」


アスカはフードを被った。それで彼女の表情は巻き毛の向こうに隠れてしまった。
手が、一瞬強く握られて、アスカは何か呟いた。


「え?なに?」


フードに耳を寄せたら、アスカは「もういいわ。」と言った。


「いいの?」

「馬鹿。」

「なんだよ、藪から棒に。」

「いいのよっ。」


もう一度、フードは跳ね除けられ、元気よくアスカは言った。


「桜餅、頂戴ッ!」


そうして二人で桜餅を咥え、家まで走って帰った。



春の雪はすぐに溶けてしまうけど −了−


 

挿絵:六条一馬

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