『湿った空気は
脳の中にまでカビを生やすか』



桜の花が終わって葉桜になって、緑がだんだん濃くなっていくのと肩を組んで気温が上がっていく。
そうそう、僕らがずっとなじんできた25度を越えている毎日がやっと戻ってきたんだ。
年配の人たちが、暑い暑いといつも口にしていた気持ちがやっと理解できた。
今まで過ごしてきた気温が日本の「普通」だったんだとすれば、この暑さは確かに不快だろう。
逆にもっと寒い冬ばかりの季節の国もある。
冬しかない季節の国からやって来たアスカが、いつも不機嫌だったのはこの暑さのせいだったのかも。


「そりゃあ、もちろんそういうこともあったわね。」


アスカはこのところ毎日練乳小豆バーとか、スイカバーとか、
冷たいものばかり食べてちょっと過激なくらいの格好でごろごろしている。


「でもそういう暑さは北回帰線越える頃がピークだったわけよ。
とにかく凄い湿気でさ、あれに比べたら日本はまだマシねってこと。」

「比較対象の問題だったわけか。あれよりましとかこれよりましとか。」

「そういうこと。そうは言ってもかなり辛かったのは事実ね。」


何だか年がら年中「夏少女」みたいに無駄な元気を振りまいていたアスカ。
実際は「スキー少女」でいる時間の方が長かったわけだ。
大体、ヨーロッパなんか旧世界時代でも海水浴なんかあんまり出来なかったんでしょ?
あくまで健康のための日光浴が大部分で。だって樺太より北にあるんだから。


「まあ、私だってそういう経験は艦隊行動をしたときだけだったわけだけれどね。海水浴なんて。」


半舷上陸中に沖合いの海の真っ只中で泳ぐのは爽快だったそうで。

汗なんてものは普通に暮らしていればあまりかくことはない。
日常的に体を動かす職業とか体を鍛える目的があるとか、学校で授業があるとか。
そういうことがない限り、もっぱら体を動かさないから、みんな不健康に太ってしまうんだ。
実際、気温が低い間太ってしまった人が多いらしい。
春辺りからむやみとダイエットダイエットというCMが増えた。


「アスカみたいにそうやってごろごろして甘いものばかり食べてるとよくないらしいよ。」

「なーに言ってんのよ。あたしの運動量はシンジが一番知ってるでしょ。」


そういって、短パンからにょっきりと突き出た脚を、自慢気に空中に高々と上げて見せた。
確かに朝のジョギングだけだってたいした運動量だけどさ。


「お行儀悪いよ。アスカ。」

「あなたはどういう権限でそんな事言うわけ?」


スイカバーの棒が歯の間でへし折れた。
あんたが時々あなたって昇格していること、アスカは意識してるんだろうか。


『僕らは付き合ってる。』そう僕が宣言してアスカがうやむやのうちにそれを認めてしまったあの日。
次の日から、僕らを見る目は劇的に変わってからかわれたりして大変……な状態にはならなかったんだ。
あっけにとられるくらい、皆はそれを認めてしまった、というか関心を示さなかった。
つまり、僕らの周りにいる誰も彼もが、アスカと僕はそういう仲なんだ、としか思っていなかったんだ。
これにはアスカが一番拍子抜けしたみたいだった。まぁ、僕もだけどね。


「何で誰も何にも言わないのよ!こんなに無視されたら…」

「反論も出来ないまま、既成事実になってしまう?」

「そ、そうよっ。」


今更どうしようもないよ。
これは僕にだって予想範囲外だったんだ。
かといって幾らアスカでも、からかってくるわけでもなく。
こうやって相合傘で帰宅する僕らを見ても普通の光景として関心も示さない相手の胸倉をつかめない。
私たちは付き合ってないし、好きあってもいないーっ、なんて言えないでしょ。


「じゃあ、アスカは僕のことが嫌い?」

「き、嫌いじゃないわよ。でも、あなたはどうなのよっ。」

「僕は、アスカが大好きだ。」

「そういうこと平気で言うから、訳のわかんない反応が積み重なっていくんじゃないっ!
全くもう、この湿気で脳みそにカビ生えたんじゃないのッ。」


ひどいよ、いくらなんでも。


「嫌いじゃ無い、と好き、では随分差があるよ。」

「な、何が言いたいのよ。」

「いや、一度くらい好きって言って欲しいなって。」

「あああ、あんた馬っ鹿じゃないのっ!」

「そんなに顔真っ赤にしてるくせに。」

「えっ。ええええっ。」


自分の顔かきむしってどうなとなるもんじゃないでしょう。


「ほ、ほんとに顔、赤い?」

「僕は嘘はいわない。」


そう言うと、アスカはますます赤くなった。
地が白いから、いったん赤くなると本当に薔薇の蕾みたいに見える。
声を潜めるみたいに、「ど、何処かに隠れたい。」と呟いて顔を伏せてしまった。


「あ、あなたが傘忘れてくるからッ。」

「この間、僕の緑の傘勝手に持っていって、無くして帰ってきたの誰さ。」

「うっ、うううう〜〜」

「アスカ?」

「恥ずかしい。恥ずかしいのよぉ。何処かに早くつれてってよぅ。」


もう少しで、僕に縋り付かんばかりのアスカには、僕も対応に困った。
僕はまるで気の利かない大型犬。
飼い主の女の子が泣き出してどうしようもなくて周りを見回してる。そんな場面だった。
結局僕はアスカを連れていつものお寺に逃げるように駆け込んだんだけど。
女の子用のピンクの傘の相合傘。アスカを濡らす訳に行かない僕の身体半分は濡れそぼっていて。
茶店の畳の上にあがりこむのは憚(はばか)られたんだ。


「何で上がらないの?」

「いや、ちょっと…濡れてるから。」

「えっ、何でこんなに濡れてるのよ。ちゃんと傘さしてたのに。」


そういった途端に、アスカは僕の傘より自分の傘がずっと小さいのに気が付いたみたい。
自分のザックに手を入れると、お弁当を包んでいた大き目のナプキンを取り出した。
そいつで僕の髪とか濡れたシャツをごしごしと拭きだした。


「い、いいよアスカ。また外にでたら濡れるんだから。」

「あなた、馬鹿っ?朝来る時だって濡れてたんでしょ。」

「あ、午前中2時間体育だったから、その間に全部乾いたんだ、だから大丈夫だったんだよ。」


ナプキンを土間で絞ると、かなりな量の水がこぼれた。
茶屋のお姉さんが奥から大きなタオルを持ってきて貸してくれた。
ざっと拭いて、それから自分で頭をごしごし拭くと、さっぱりした。温度が高いからさほど寒さは感じない。
温かいお茶を飲んでいるうちにホカホカとしてきた。
ケヤキか何か、丸彫りみたいな感じの机と椅子に腰掛けて、梅雨寒む用の灯油ストーブを灯してくれた。


「ほら、ズボンから湯気が立ってる。」


笑いながらアスカを振り返った。


「ど、どうしたっ?」


アスカがうなだれて、目を擦っていた。な、泣かした?


「ばか。びっくりさせるんじゃ、ないわよ。」


それは馬鹿じゃなくて、ばかって言ってるのがわかるような気弱な声で。


「脳みそに、カビ、生やしてたの。私のほう、だったんじゃん。ばか。」


ばらばらって感じでアスカのスカートと膝小僧の上に涙がこぼれたのを見た。
お姉さんが、小さな和手ぬぐいのハンカチでアスカの涙を拭いて、頭を抱えてくれた。
甘えるようにそこでアスカの小さな金色の頭がくりくりと動いている。
僕は、そこに突っ立っていただけだった。





「雨、あがったね。」

「うん。」

「明日は少しは晴れるかなあ。」

「うん。」

「買い物、して帰ろうか。」

「うん。」

「何だよ、うんうんばかり言って。」


その時、僕の指先にアスカの指が触れた。そのまま、僕の指先はアスカに握られてしまった。


「帰ろ。」

「あ、うん。」


今度は、完全に僕のほうが緊張して歩いてる。
全神系が左手の指先に集中してそこから血液が循環していた。


「シンジ。」

「な、なに。」

「わたしも、シンジが好き。大好き。」



雨に洗われてつやつやした葉っぱたちが、夕焼けに輝いて綺麗だった。



湿った空気は脳の中にまでカビを生やすか −了−


 

挿絵:六条一馬

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