『夏の始まり』
落雷12連発。
とんでもない雷雨が2日に渡って続いて、地下鉄に浸水したり橋桁が水に浸かったりした。
地下街の階段が滝みたいになり、それで脚を取られた人たちが折り重なって倒れ、怪我人が出たそうだ。
そんなひどい天気の後、キッパリと夏になった。真っ青な空と、元気一杯の入道雲。
小学生が絵日記に書いたような『夏』らしい夏が堂々と王道をやって来た。
その日は丁度終業式で、僕らは通知表をもらって家路に着いた。
まだ11時だというのに、道路にはゆらゆらと陽炎が立ち上り、逃げ水が転々と浮いて見える。
僕らの学校は古風で、2学期制なのになぜか通知表は3回律儀に発行される。
冬服はあんなに適当なのに夏の制服は昔ながらの半袖セーラーと半袖開襟シャツで学帽の指定まである。
冬と同じ帽子に白いカバーをつけたのと、白い網目になっているものと。
同じ帽子にさらにカバーつけて風通しの悪くなったものを被らせるなんておかしいんじゃないの?
まぁ、約50日に及ぶ休みの前だから大目に見るけどさ。
男子制服の適当さに比べて女子のセーラーはこの辺の高校生の間では結構評判のいい白地に3本線という
ちょっと凝った感じの制服だ。
学校のイニシャルマークだけが胸の三角の部分に紺色で描かれている。
トライアングルソフィアと呼ばれるそのマークは古いドイツの亀甲文字で組み合わされている。
ちょっと女の子の横顔に見えないこともない。
それでそういうニックネームが与えられているという話だ。
今時古風な、真っ白のつば広の大きな帽子は、通学路での日射しから女生徒を守ってくれる。
真夏の登下校時、通学路は白い蝶の群れのようになる。
「とは言っても、わたしにとってはこれは水兵さんの着る物ってイメージなのよね。」
「日本ではセーラー服イコール少女の記号ってイメージなんだよ。」
「男子の制服だって陸軍の制服が元だもの。歴史の時間にプロイセンとかの軍人が着てるの見たでしょ。
逆だっていいはずよね。向こうでは結構なおじさんでもセーラー着て歩いてるもん。」
「あまり考えたくない景色だなあ。
でもこれを女の子に着せたら似合うって考えた人はたいした美的感覚だったんだね。」
「単に軍服を着せて国民皆兵制度のアピールしたかっただけじゃないの?
たいして考えてなかったと思うけど。少し倒錯してたのかしらね。」
「考えたら胸も結構開いてるし、大胆なデザインだよね。襟も大きくてかっこいいじゃないか。」
「シンジ、セーラー服の襟ってこうやって使うのよ。」
そういうとアスカはセーラーの襟を立てて見せた。エリマキトカゲ?
「何だよ、変な格好。」
「こうすると、よく聞こえるのよ。」
「あ、集音マイクとかパラボラアンテナ見たいなもん?」
「船の戦闘では夜なんか何も見えないから、昔は音が大事だったらしいのよね。」
「なあるほどぉ。おしゃれでついてるわけじゃないのか。」
「機能性のあるものは美しいって、この間読んだ現代国語のテキストのエッセイに出てたじゃない。」
「そうだっけ。」
「シンジはこれだから。教科書とか受験のテキストからだって色々学べるのよ。
私あの人のエッセイ集買って読んだもの。」
「へえ、硬くてとっつきにくい文章だと思ったけどな。」
「そうなの?私初めて。日本語の文章を美しいと感じたのは。」
自然に角を曲がって山門の前まで来ていた。
「あれ?」
「なんでここに来たのかしら。」
山門の脇に「氷」の旗が揺れている。これに無意識のまま誘われたらしい。
この旗の誘蛾灯的機能性の高さは見事に実証された。美しいかどうかは別としても。
「氷宇治金時クリーム白玉!」
「すい!」
両極端な注文に、茶屋のお姉さんがにっこり笑った。夏の間は心池脇の藤棚の木陰に席がある。
竹の縁台に、小さな座布団。その組み合わせが美しい。
「こういう季節の組み合わせって日本ではほんとによく考えられてるわよねえ。」
「誰が考えたって訳でもなく、いつの間にか出来上がったものなんだろうけど。」
「ところで、シンジっていつもそのすいってのを食べてるけどさ、それって美味しいの?」
「美味しいと思うんだけどなあ。」
「ただの砂糖水でしょ。」
「多分、後味が好きなんだと思うよ。さっぱりしてるから。」
「ちょっと、口開けて。」
「えっ、いいよいいよ、入らないってば。」
そう言ってもやり始めたことはやめないのがこの子で。
「ほらっ、こぼれるこぼれる口開いて、もっと大きくっ!」
アスカは自分の氷宇治金時を崩れないぎりぎりのラインで掬うと僕の口の中に放り込んだ。
うん、一口だけっているのは悪くないね。と思ったのは一瞬だけ。
その後、氷の量の多さに溶けきれなかった分がキーンと口の中で爆発した。
「うんんっ!!うううううーっ。」
飲み込んだ分が、痛みすら訴えて食道を通過中、口の中は氷雪地獄編だ。
僕は氷のカップを縁台に置くと、ムワーッと声を上げてその辺を駆け回った。
アスカはケラケラ笑いながら。僕を眺めてる。
「ひ、ひどいよアスカッ!」
お姉さんがくれた普通の水を飲む。
それを温かく感じて喉の緊張が解け、やっと一息つけた。
「地獄だった?」
「んん〜、まさに地獄だったよ。」
背筋を寒気がブルブルッと通り過ぎた。暑さが何処かに飛んで行っちゃった。
くそー、この借りは返すぞ、きっと返すッ!と握るこぶしに力が入る僕。
夏も盛りになると、昼には植物の葉がしんなりとしてしまうものだけど、梅雨が明けたばかり。
打ち水をしなくても木々を抜けてくる風は心地よい。
始まったばかりの夏は一年で一番いい季節だ。
「ほら、そんなに怒らないの。ね?」
また、いつものあれだ。ほんっとにアスカはずるい。
キロッとした目でちょっと僕を見上げて伺い、くしゃっとした顔になって笑う。
「お、怒ってなんか、いないよっ。」
結局、僕はこう答えるしかない。
軟弱だって?それはアスカのこの顔を見たことがないから言えるんだ。
そのたびにアスカは満足げに笑う。これって地下核実験をする核大国のやり口と同じだよ。
自分の持ってる最大の武器の効果を、時々測ってるんだ。
その笑顔が消えると、いつものすまし顔に戻って、シンジなんてどうって事無いわねって表情になる。
そして、連れ立って家に戻っていく道すがら、ご褒美みたいに僕のちょっとだけ左前を歩く。
彼女によると、左側って言うのは右にいる人を守ってあげる位置で、心臓のある側を守るって事らしい。
ヨーロッパでは右側は壁のある方で、右前に付くのはナイト(騎士)の位置なんだとも聞かされた。
つまり道の陰からの不意打ちから大切な人を守るため。
アスカがそれを意識してて、どっちの理屈を採用してるのかは知らない。
でも、この少し斜め前にアスカが来るときは、僕に対し一番無防備でいるときなのはわかる。
もしかしたら僕がアスカを眺めやすい様にしてくれてるのかな、と思うくらいだ。
そんな時彼女は後ろで指を絡げた手をお尻の上の辺りで僕に向け、指を2,3本、曲げ伸ばしして呼ぶ。
これは、手をつないでもいいわよ、の僕らだけの合図。
アスカの『告白』以降変わった、唯一のこと。
僕がその指の先に触れると、アスカは手を離して僕と指をつないで歩きだす。
そうやって歩いてる間は何も話さない。
ただ、静かに並んで歩くだけだけど、アスカはその間にもいろいろな事を伝えてくる。
僕が、その意味をそのたびに考えるだけなんだけれどね。
甘えたい気分でいるとき、アスカは僕の指の2本くらいを握ってくる。
もっと甘えたいときは一本だけを握る。
そうして、身体の厚み半身分くらい、僕に遅れて歩く。
だからそんな時、僕はいつもより歩調を緩める。そんな時、アスカは小さな女の子になっているから。
大きな大人の手の指を一本だけ握って、一生懸命歩いている、小さな女の子に。
指の数が増えるたびに女の子は大きくなっていく。
そして、手のひら全部で手をつなぐとき、アスカは同い年の僕の『恋人』になる。
そうして僕の隣にいるのかもしれない。
すると、アスカは僕から半身ほど遅れて歩くのをやめて、僕の少し前を歩く。
アスカの頬とか長い首とか、アスカの胸とか綺麗な身体の線。
丸いヒップとウエストライン眺めることを僕に許す様に。
そして、彼女の髪や匂いが時々僕のほうに漂ってくる。
僕はアスカに気が付かれない様にこっそり息を吸う。
彼女の匂い。アスカの香り。
一緒に暮らしてるんだ、慣れっこだろうって思われるかもしれないけど、違うんだ。
そういう時の彼女と、一緒に暮らしているいつものアスカの香りとは、違うんだ。
不思議なくらい。
つないだ指は、僕の手のひらをくすぐり、爪を立て、優しく力をこめてきたり、色々な動きをする。
その視線の先にはタイザンボクの白い花がある。
薄暗がりの夕顔が咲いていたり、綺麗な柄の浴衣があったりする。
猫が歩いている、夕焼けの空を鳥の群れが横切っている、真っ赤な積乱雲が渦巻いている。
夕方出かけたり、朝から歩いたり、色々な時間に僕らは歩く。
あらゆる場所に出かけ、一緒にそれを見る。
その夏の始まり。
僕は、まだそんな風に手をつなぐくらいの事で、何百通りものことを考えていたんだ。
夏の始まり −了−
挿絵:六条一馬
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