『ドンドンドンと冬が来る』



遠くに見える青い山の頂がある日突然霜が下りたように白んでいる。初冠雪だ。
日によってはあの山を少し下りた連山を次々と雲が波のように乗り越えてくるのが見えたりする。
雪はあっという間に山を下り、中腹まで白くなると一気にこの町の周囲の野山を白く塗り替えていく。


「早く雪にならないかなー。」


アスカは毎日同じことを言いながら窓を開く。そのたびに冷たい風が部屋の中に流れ込んでくるんだ。


「ああ、寒いッ。おこたおこた〜っ。」


アスカのやることって、いつも矛盾してると思う。自分は合理主義者だからっていつも言うくせに。
その上、開けるだけ開けた窓を、僕をわざわざ呼びつけて閉めさせたりするんだよ。さらにその上、


「ああ、ダメダメッ。まだ空気が入れ替わってない。早く来すぎっ!」

「何ノタノタしてんのっ、部屋の空気が冷え切っちゃうじゃないのっ!」


これだよ。皆の姉ちゃんや妹、娘や奥さんでこういう人がいたらぜひ教えて欲しいな。
いったいどういう対処をしてますか?


「掘りごたつって日本人の最高の発明品よねっ。」

「そう言って、下着や着替えを持ってきてコタツの中で着替えるのよそうよ。」


コタツ台の上にわざわざ朝食を運んでくるのは、ここからアスカは中々出て来ないからだ。
ひどいときはコタツの蒲団をカマクラ見たいに持ち上げて、そこからTVを見てたりするんだよ。
うちのコタツが炭じゃなくてよかった。少なくとも中で寝ちゃっても早々死にはしないでしょう。
脱水症状を起こすほど愚かじゃないでしょう…たぶん、きっとね。
結局時々覗き込んじゃうんだけどさ。


「早く着替えて出てきなよ、頭ぶつけてスープひっくり返して大騒ぎしたの、もう忘れたのッ!」

「わすれた〜〜。」


よくのうのうとホザクよなぁ、この女は〜っ! いくら温和な僕でも怒るぞッ。
スカートだけ履き替えて、上は胸の開いたままの寝間着姿とか、肌着のままとか。
いい加減にしろよな。その、目のやり場に困るじゃないかっ。
覗き込んだら赤く染まったお尻が見えて、ひっくり返っていたい思いをしたことだってある。
夏の間、結構きりっとしてたのに、最近たるんでるんじゃない、アスカ。


「精神がたるむと、身体も弛むって言うけど。ジョギングはどうしたんだよ。」

「寒い間に無理して走って筋肉傷めたら損でしょ、世界の常識よっ。循環器にもよくないし。」


全く、ああ言えばこう言う。頭の回る屁理屈屋は手に負えないよ。冬の間のアスカは殆ど無能だ。
長くて寒い冬の続くヨーロッパにいた頃はどうやって暮らしていたんだろう。
この調子でいて、日本に派遣されて来るんだから、相当猫ッ被りで優秀だったんだろうなあ。
そう思ったとたんに、軍服の上からカイマキを着てるアスカの格好が目に浮かび、噴いてしまった。


「何笑ってんのよぅっ!」


途端にコタツから半身を飛び出させたアスカは、頭はぼさぼさ、パジャマはボタンがずれてて。
まぁこういうのを可愛いって思う奴もいるだろうけど、百年の恋も冷めるって奴だっているだろう。
え、ぼ、僕は。


「いい加減起きて、シャワー浴びて顔洗っておいでよ。ひどい顔だよ。」

「ひどい?わたしのどこがひどいって言う…」


その途端、ぼくがTVのスイッチを切ったので、アスカは自分の顔をTV画面上で見ることになった。
2秒もしないうちにパジャマの上半身とパンツだけというひどい格好で洗面所に吹っ飛んで行ったアスカ。
コタツの中に残された制服のブラウスとか黄色いセーターとかリボンタイとスカート。
パジャマのズボンと靴下。それを引っ張り出して畳み、シャワールームの更衣室に置いた。
大きなバスタオルはロッカーにまだ十分ある。

アスカの名誉のために言って置くけれど、これはあくまで僕が朝当番の日のことだよ。
自分が当番の朝は、中学生時代からは考えられない程、しっかりしてるんだ。
僕の弁当だって作れるし、僕の風呂だってしっかり沸かしておいてくれるし、朝食も。
いや、だからといって僕はアスカみたいにコタツにもぐって亀みたいにはなってないよ。もちろん。
(あまり名誉を守ってやってないな)



温暖化は完全に終わって、各地ではむしろ1960年台以来の記録的な低温を記録している。
日本の食料事情が心配なのは最大のコメ生産地である北海道でコメ生産の南下が著しいことだ。
北海道での従来の穀物生産は、もう不可能になるだろう。前世紀よりさらに気温は低くなったからだ。
耐寒性の特殊な小麦とライ麦が今年から導入されたらしい。

もとよりヨーロッパでは通常の農業はできなかった。
この17年余り日本の水耕栽培技術で工場的農業が行われてきたんだ。
そこで磨かれた技術が今度は日本を救うことになる。
世の中というのはどこかでつながっているんだなあ。
僕ら子供は柑橘類だけじゃなくて林檎や梨や葡萄がこれからはいつでも食べられるくらいしか考えない。
だけど、世界的な農業会社が破綻したり、相場が暴落したり高騰したりそのたびに世界は大騒ぎだった。


「今はまだ在庫があるけれど…」


世界的に砂糖が高騰し小豆の生産が激減する。餡は一般的な食べ物とは言えなくなるらしい。
そう、お茶とお饅頭のお店のお姉さんが残念そうに言った。
このお店は羽二重団子といって、江戸時代から有名な店なんだ。
昔の戦争のときもこっそり、売るほどではないけれどどうしてもという時は作っていたらしい。
あるところにはあると言う時代と、あるべきところにもないという時代ではやはり状況も変わる。
今度こそ、このお店もおしまいかな、と悲しそうに言っていた。
新しい価格では、このままでは一個が千円もする団子になってしまうんだ。
今ある在庫で今年一杯、正月まではやっていけるけど、来年の桜餅や花見団子はもう作れない。
耐寒性小豆の味が満足できるか、より良い味の甘味料ができるか、全部揃うのは難しい。

「朝と夜とではあなたの身体だって随分変わるでしょう?」
って、あの時お姉さんは言った。
背の高さも違うし、いろいろな血液やホルモンの検査数字もかわる。朝はだるかったり、午後は眠かったり。
散々検査漬けになった事があるから知っているんだ。日内変動っていうんだけど、社会にもそういう事がある。


「このお店のメニューも季節で変わりますね。味も変わる。」

「あら、気が付いてたの?」

「夏と冬、朝と午後では、餡子の味が違うもん。」


アスカも得意そうに言った。さすがこの店で一番食べてる人は違うなあ、と苦笑した。
一時は昼休みと帰り道と2回来てる時があったものね。
そうだ、アスカの誕生日には、まず一次会はお団子屋さんに連れて行ってプレゼントを渡そう。
そう思いついた。



家を出るのが遅くなった日は、空き地になっている場所を通学路を短絡して斜めに横切っていく。
霜柱を、ざくざくと踏みながら。霜柱なんて「昔の世界」という学校の副読本にも出てこない。
だけど15cmもある地面から生えてるウドの縦割りみたいな氷の現象は、小さな小学生から僕ら高校生まで子供達の人気の的だ。


「ほらアスカ、そんな遠くのまで踏んでないのッ。遅刻しちゃうよ。」

「もうちょっとだけえっ!」


ドイツでは寒すぎて地面がすぐカチカチになってしまうから、アスカには霜柱は初体験なんだ。
朝だけの楽しみだから、固執するには早起きして最初に歩く必要がある。
走るか歩くかで随分感触も違う。アスカは靴を泥だらけにして線を引いたりまでするもの。 




校舎の木はほとんどが落葉樹にすることに決まっているらしい。
夏の日射しを遮り冬の日射しを邪魔しない、そういうことで関東では大抵プラタナスかイチョウの木だ。
たまに大きなメタセコイヤもあるけれど、花粉が問題になってからは少なくなった。
でも春先に美しい若葉色を芽吹かせるこの木が僕は好きだ。
すっかり葉を落とした落葉樹が長い影を校庭に落としている姿。
真っ青な金属のような青空に聳え立つケヤキの、鈍鉄色の木肌も好きだ。
その枝の一本一本に、今日は真っ白な霜が降りている。
それを指差してアスカに教える。アスカは、そういうものが好きだ。孤高で一人立つものの寂しさを愛する。
そんな子だった。表現は違ったけど、僕もまたそうだった。生きていくのに他人を必要だと思えなかった。
人を求め、愛されたいと密かに望んでいながら、自分だけの閉鎖空間を手放せないでいた。
孤独は憎かったが、それを手放すことはもっと恐ろしいことだった。

僕らは反発しあいながら、次第に同類のにおいを嗅ぎ取って次第に魅かれあっていたのかもしれない。
それは単なる依存関係で、馴れ合いの類だったかもしれない。
もっと、時間があったならば。そんなに焦って近づく必要がなくてもいいのだったら。
僕とアスカはもっと互いを上手に受け止めあえたかもしれなかった。
だけどあの頃の僕らは切羽詰っていたんだ。とにかく助けて欲しかった、与えて欲しかった。
今僕らが少しづつ互いの必要性を感じ、僅かずつにじり寄っているような、そんな暇は無かったんだ。

甘えたり、依存したり、触れあったり、絡みあったり。互いの呼気を感じ、体温の優しさを知り。
好きだ、と想いあっていられるようになった、僕ら。

寂しさを、やっとつないだ手の温もりの中に紛らわすことが出来るようになった。


「シンジッ!」

「アスカッ!」


走ってきたアスカは、僕の腕を取って転がりそうになる。
その体を抱きとめて、笑い声を上げた。アスカも冷たい風に頬を染めて笑った。
そのまま、僕らは学校に向けて駆け出す。
吐き出した白い息が、目の前で交じり合う。朝日の直射の中を翔って行く。

アスカは翼。僕は風。光は、二人で生み出した希望。

愛してる、と僕は初めての言葉を心の中でアスカに伝えた。

ドンドンドンと冬が来る −了−


 

挿絵:六条一馬

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