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それは彼女にとって偶然だった。 8月に入ったばかりの登校日。 下校後、お昼を食べてからみんなで市民プールに行こうと話が決まった。 みんなというのは総勢18人、男子が8人女子が10人だ。よくあることだが、俺も私 もと芋蔓式に増えていったのだ。 その中心がアスカやカヲルたちのグループであったことは言うまでもない。 アスカが行くと言ったからには、親友のレイも当然メンバーに入っていた。 因みに女子の水着はみんなワンピース。スクール水着を少し派手目にした程度だ。それ でも男子たちにとっては刺激的この上ない。 もっともそれは遊び始めるまでだった。 身体を動かしだすと、そういう色気成分はふっとんでしまう。 見上げれば眼が潰れてしまいそうな夏真っ盛りの太陽の下で、彼らは体力の限界まで遊 んだ。手加減などなかった。 あのカヲルやレイでさえ、ちゃんとプール内鬼ごっこに参加していた。 潜水の得意なレイが鬼になると水中にまで神経を向けなければならない。 超然とした態度のカヲルも鬼になると「僕は鬼でいいのさ」と怠けてはいないのだ。 女子はいざ知らず、男子にとって笑顔で迫ってくる彼の存在は不気味なのである。 しかも何故か彼は男子ばかりを追い掛け回す。 それはアスカの存在があるからなのだが、そのために彼のフェミニスト振りが上がって いく効果もあったことも否めない。 そして、彼らは笛と放送を合図にプールから強制退去させられる。 中に沈んで隠れていたつもりのトウジとケンスケも監視員のお小言つきで。 しばらく幼児向けプールに座り込んで弾みきった息を整えてから、彼らはエネルギー補 給に向った。休憩時間とともに行けばこの多人数だから席が確保できないのだ。彼らは販 売コーナーから一番離れた席を確保し、ジャンケンを始める。 全てを遊びに変えてしまいたいのは子供の特権だ。 全員で買いに行っても面白くないではないか。 そして罰ゲームに決まったのは、カヲルとレイだった。 これが最大の偶然。 運命だったのか、どうか。 いい加減にみんなの注文を聞いていたカヲルと違い、レイは全てを間違いなく記憶して いた。きつねうどんに七味を3回振ってくれというトウジのと、アメリカンドックにケチ ャップ1往復マスタード2往復というケンスケの馬鹿げた注文までを忠実に。 汁が零れてしまいそうなうどん類をお盆に載せて運んでいくカヲルをレイは少しだけ目 で追った。自分には運ばせないようにという気配りだと彼女は察知している。 それが“優しさ”と判断したのはかなりの拡大解釈であったのだが。 彼はアスカが注文した月見うどんを早く彼女の元に届けたかっただけだ。 素早くうどんを運んだカヲルはアスカの笑顔を背にいい気分で戻ってきて、2回目の配 達にかかる。おそらくはうどんを食べるのに夢中で自分の方は見ないだろうが、もしかす るとまた素敵な笑顔にありつけるかもしれない。 表情は黄金仮面だが内面は恋する14歳の少年に他ならない。 「あと、カキ氷がふたつで終わり」 「わかった。じゃ、これを」 「その真っ黄色のは相田君の。注文通りにマスタード2往復」 「ふふふ、君のスピードを認識していないケンスケ君のミスさ」 ゆっくりとチューブを移動した所為で彼のアメリカンドックはその本体もケチャップも 見えないほどの黄色の串付き長方体になっていた。 もちろん、これは彼女の意地悪でないことをケンスケはすぐに了解するだろう。席の方 で真っ赤に染まったうどん入り七味スープを味わっているトウジもそうだ。 気合の入っていない時のレイのスピードが人より遅いことは友達ならば百も承知してい るからだ。顔を大袈裟に歪めて悲鳴を上げるケンスケの表情を背にカヲルは歩いた。 「レイをお願いね」とアスカに言われたからである。あとはカキ氷だけだからもう戻る つもりはなかった彼は、あっさりと気持ちを変えたのだ。 すると視界の隅に今にも泣き出しそうな顔で佇んでいる少年を見つけた。 足を止めて見ると、立ち尽くしている彼の手には銀色の盆が。そしてその足元にひっく り返ったうどんの鉢がふたつに床にのたくっている白い麺があった。 カヲルは一瞬笑顔を引っ込めた後にまた微笑み、少年の元に向う。 「落としてしまったのかい?」 小学校高学年くらいの少年は顔も上げずにこくりと頷いた。 カヲルは蹲って少年に微笑みかける。 「君と…誰のだったのかな?」 「妹…」 少年の視線を追うと少し離れた場所の席から二三才年下くらいの少女が心配そうにこっ ちを見ている。その視線にカヲルは微笑みを返してから、少年の肩に手を置いた。 「お金は?」 首を振る少年にカヲルは状況を察した。 おそらくプールの入場料とおやつ代だけしか貰ってこなかったのだろう。もしかすると おやつ代に自分の小遣いを足してうどんにしたのかもしれない。 「渚君。どうしたの?」 「ああ、綾波君か。頼みがあるんだ」 「ああ、レイ。ほら、座んなさいよ、ここ」 カキ氷を持ってきたレイに隣の席をアスカは勧めたが、彼女はふるふると首を横に。 「頼まれごと、されたから」 カヲルに教えてもらったアルカイックスマイルが少し深めになっていることにアスカは 気づく。 だが、彼女にはしなければならないことがあったのだ。 アスカは再び丼に顔を近づけた。のびたうどんが好きな物好きではないのだから。 「おばさん、きつねうどん、ふたつ下さいな」 小走りにうどんコーナーに戻ったレイはカヲルに渡されたお金でうどんを頼んだ。 待っている間に振り返ると、こぼしたうどんをカヲルと少年が二人でお盆の中に戻して いる。 カヲルは少年に言ったのだ。 「妹さんの分もうどんは僕が奢ってあげる、でもこれは君がしたことだからね」 もちろん、彼は少年が片付けているのを眺めているわけがない。 丼がプラスチック製でよかったね、とうどんを手づかみにする。 そんな渚カヲルの姿が新鮮だった。 学校での彼は教室の掃除すら嫌がっているように見える。 それなのに今はどうだろう。 床に落ちたうどんなど誰もが手にするのは躊躇いそうなものだ。 だのに彼は平気で、しかも少年を元気付けようとしているのか何かと話しかけている。 レイはできあがったうどんを盆に載せ、二人のところに歩み寄る。 「手を洗ってきて。その手で食べられないから」 「うんっ。お兄ちゃん、それとお姉ちゃんも、ありがとうっ」 少年は直立不動で最敬礼した。 「私は、いいの。何もしてないから」 素っ気無く言うと彼女はさっさと少女の待つ席にうどんを運ぶ。 少年はもう一度「ありがとう!」とカヲルに言うと、手洗いに走っていった。 その背中を見送って、カヲルは思った。 仏のレイちゃん、照れてたな。 彼はにやりと笑い、そして汚れたうどんを返却口に運ぶのだった。 プールで精一杯遊んだ帰り、レイはアスカの家に寄った。 クーラーを効かせた部屋でしばらく喋っていると、睡魔が襲ってくる。 ベッドは使わずに、畳の上に二人ともゴロンと横になって眼を閉じた。 座布団を枕にタオルケットをお腹にかけて。 まるで小学生のような昼寝である。 「君は、仏様だよ、観音様だよ、菩薩様だよ」 誰もいない市民プールで、何故か学生服のカヲルがプールサイドに腰掛けている。 にやにや笑いでズボンが濡れるのも厭わずに組んだ脚は水に浸かっていた。 「ふふふ、さあ一緒にきつねうどんを食べようよ。うどんはいいねぇ。人類の産んだ最高 のご馳走さ」 レイに向って手が伸ばされる。 女の子のように細く白いその手を握ってもいいのかどうか。 悩んでいると、彼のその手を脇から握った者がいた。 誰かと思うと、自分だった。 しかもそれは一人ではなく、水面を埋め尽くさんばかりの自分の大量発生。 その全てが彼に向って手を差し伸べている。 「困ったねぇ。僕は一人だから。綾波君は千手観音だったのか。それは知らなかったね」 違うの、私は一人。綾波レイは一人しかいないの。 だから、だから、私を選んで。 レイは手を差し伸べた。 そこでまどろみの時間は閉ざされた。 身体を起こしたレイは胸を抑えた。 動悸が激しい。 小学生の低学年の頃は少し運動をすれば心臓がばくばく叫んでいた。だが、身体が成長 するとともにいつしか風邪も滅多に引かない健康な身体になっていたのだ。 しかし、今のこの動悸の激しさは? アスカに羨ましがられている胸の膨らみの下、その動悸はあの頃のものと違う。 明らかに違う。 あれは身体が苦しかったが、今は…心が苦しい…? これは? 元気なアスカはぐっすりと昼寝をして、レイはひとりぼっち。 もう一度横になったもののまったく眠れない。 彼女はアスカの眠りを妨げないようにそっと立ち上がった。 レイの部屋も飾り気は少ない方だがアスカはもっと素っ気無い。女の子らしい部分とい えば、 ベッドに置いてある猿のぬいぐるみくらいなもの。 その容姿と性格のギャップが彼女の魅力なのかもしれないと、レイはよく思っている。 レイは窓際に立った。 レースのカーテン越しに見えるのは隣の家。 そこにはカヲルが住んでいる。 向かいの窓もしっかりしまっているところを見ると、彼も昼寝をしているのだろうか。 それとも好きな音楽を聴いているのか。 向こうもレースのカーテンが引かれている。 レイはじっとカヲルの部屋を見つめた。 こうして見ていると、もしかすると顔を覗かせるかもしれない。 そうすると…。 そうするとどうだと言うのだ。 嬉しい……のかもしれない。 この感覚に彼女は覚えがあった。 そしてその後に訪れた哀しみにも。 小学校6年生の冬。 今から一年半前になる。 綾波レイが待ち望んでいた親戚の少年が、ようやく年始の挨拶にやってきた。 東京に住んでいる従兄妹である。 レイは彼のことが好きだった。 それが初恋といえるのかどうか微妙なところがあったが、少なくとも彼女は胸を張って 言ったのだ。 大人になったら彼と結婚したいと。 これが七八歳の発言ならまだよかった。だがもう来年は中学生なのだ。 少年の方は照れて笑っていたが、大人たちはそんなわけにはいかなかった。 何故なら二人は実の兄妹だったからである。 少年を産んでから10ヶ月弱後、まだ妊娠7ヶ月での早産で生まれたのがレイだ。 そしてその母は赤ん坊の命と引きかえに天に召された。残された父親に赤子二人を育て ることは不可能で、そこで生まれたばかりの長女の方は養女に出されたのだ。 亡くなった母親と年の近い叔母の夫婦に子がなく、赤ん坊は綾波家の人間となる。 ただし、その名前は母が望んでいた名前を付けられたのである。 かくして綾波レイが誕生した。 身体が弱かった所為か、小学校時代の彼女にはこれといって親しい友達はいなかった。 そんなレイは折に触れて遊びに来る従兄妹(ということになっている)の少年と仲がよ かった。少年は家での遊びに異議を唱えず、ゲームをしたり本を読んだり歌を歌ったりし て過ごす。 彼との時間はレイにとって宝物のようなものだったのである。 読書好きな彼女は精神的には早熟であった。 だからこそ少年に好意以上の気持ちを抱いたのだ。 それは本当にささやかなものであったが。 しかし、親たちは慌てた。 それは亡くなった母の性格のためであろう。一回り以上歳の違った男に惚れこんでまだ 大学在学中に結婚し、そして22歳にならずにこの世を去った。 そんな情熱を内に秘めた女の娘がレイなのだ。 うかつなことはできない。 いつかは話そうと思っていたのだが、その日が早く来たということだ。 親たちは腹を決め、そして少年と少女に話をした。 それが一年半前の正月なのだ。 寧ろ少年の方が動揺した。 レイは逆に彼に惹かれる理由が飲み込めて、ただなるほどと頷くだけに過ぎなかった。 表面上は。 しかし赤ん坊のときから彼女を育ててきた義母には彼女の哀しみがわかる。 こういうものは一人になった時に湧き出てくるのだ。 その日、義母は強引にレイと一つ布団で眠った。 雪が町を薄化粧した寒い夜、人の肌と愛情のぬくもりに包まれて。 だが寝入る前に、レイはひとしきり泣いた。 母の胸に抱かれ、母の涙に濡れ、その人を死ぬまで母と呼ぶことを誓いながら。 つまり、こうだ。 少年と兄妹だということよりも、父母と信じていた人との絆を断ち切られそうになった ことの哀しみの方が強かった。 そういうことだった。 少年への好意は寧ろ実の兄だとわかったことで、より高いものと昇華したのかもしれな い。 翌日、未だに落ち込んでいる少年をレイは力づけた。 自分が生まれてきたことでお母さんが死んでしまった、そのことを謝る本当の妹に彼が 何を言えよう。 まだ12歳にもならない妹に恥ずかしいと、12歳の彼は兄として彼女を守ると誓った のだ。 初恋の想い出は、ときめきと、哀しみと、嬉しさと、そういった様々な記憶を彼女にも たらす。 そういうごったまぜの感覚がこの時のレイにも訪れたのだ。 どきどきする胸。 動悸が早い。 カヲルの部屋を見ていると、彼のことを考えると。 どちらかというと嫌いな異性だと思っていたはずなのに。 しかし、この気持は間違いなくそうだ。 しかもあの時よりもかなり強いではないか。 レイは息を飲んだ。 私は、あの渚カヲルに恋をしている。 レイは振り返った。 いつの間にかアスカはお腹にかけていたタオルケットをはねのけている。 そんな寝相の悪い親友を見て、レイは微笑んだ。 よかった。 アスカはあの人のことをそういう意味で好きではないから。 親友の気持ちはよく知っている。 惣流アスカは渚カヲルが大好きだ。 しかし、それは友達としてで、異性として好きなわけではない。 言葉にして聞いたわけではないけれど、レイは確信していた。 だからこそ、彼女は決心したのだ。 自分の想いをアスカに伝えようと。 カヲルには? ぶるるるる。 それはとんでもないことだ。 自分の想いが彼に通じるわけがない。 彼は…。 彼は…。 レイはアスカのお腹にタオルケットをきちんとかけてあげた。 整った顔立ち、青い瞳、ピンク色の唇。 羨ましくなるほどの容姿だ。 もし、彼女がカヲルに異性としての好意を持てば…。 唇を噛みしめたレイは瞼を閉じた。 「あのね、私、渚君のことが好きみたい」 目覚めたばかりのアスカの前に正座して、レイは真っ直ぐに目を逸らさず告げた。 寝起きの頭に彼女の言葉が沁みこんだのは数秒経過してから。 その間、レイは身じろぎもせずじっと待っていた。 アスカの眉が寄った。 「ごめん。今、何て言ったの?」 レイはもう一度同じ言葉を繰り返した。 今度はアスカもすぐに理解した。 理解さえできれば、彼女の反応は凄まじく早かったのである。 「わぉっ、凄い!カヲルのことを?ねぇ!告白するの? アタシ、応援するわよ!レイだったら大丈夫だって。 よしっ。じゃっ、今から行くわよ!レッツゴーっ!」 レイは必死でアスカを止めた。 それこそ腕に縋り付いて。 予想以上の反応の良さに嬉しいのだが大慌て。 今、告白すれば100%以上の確率で玉砕してしまう。 しかし、本気でレイとカヲルならいいカップルになると直感したアスカを納得させるの は至難の業だった。まして彼が好意を持っているのはアスカその人だなどと言ってしまえ ば、絶対に彼女はむきになってそんなことはないと断言し、カヲル本人に確かめようとす るだろう。 そんなことになれば玉砕どころか世界の破滅だ。 ここは心の準備もできていないからしばらく待ってと説き伏せることしかレイにはでき なかった。 当然アスカは不服だったが、少し涙目の親友を見れば承知せざるを得ない。 だが、アスカは嬉しかった。 大親友のレイとカヲルが恋人同士になればこんなに素晴らしいことはない。 彼女はレイを応援すると瞳をキラキラさせて誓った。 もし、レイが恋心を抱いたきっかけが、プールで少年がうどんをこぼしたことだと知っ たなら、少年を全校朝礼で表彰しかねないほどの勢いで。 レイはほっとした。 親友はカヲルのことをやはり異性としては見ていないようだ。 しかも今こうして自分の想いを伝えたからには、アスカは絶対にカヲルに恋心など持た ない。 彼女はそういう人間だ。 そのことをわかっていて、わかっているからこそ、アスカに自分の気持ちを伝えた。 そんな自分をレイは汚いと感じていた。 計算して親友の心を誘導したといってもいい。 レイの心は複雑に揺れていたのである。 ほんの数メートル先で自分の未来を語られているというのに、カヲルはベッドで眠って いた。 夢も見ずにただぐっすりと。
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