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アスカの恋も突然だった。 いや、下地はできていたからだろう。 それはレイの“カヲルが好き”宣言だ。 テレビや漫画ではなく、実際に親友が恋心を表明したのだ。 肉体的には14歳の乙女が精神的な刺激を受けていないはずがない。 だが、その下地はカヲルの方向には向けられていない。 彼女にとって彼はそんな存在ではなかったからだ。 忘れもしない幼稚園に上がる直前だった。 幼きアスカは幼稚園になど行きたくなかったのだ。 最初は楽しみにしていた。 たくさんのおともだちができると聞いていたからだ。 だが、事前の体験入園の時に彼女は見知らぬ男の子から苛められた。 明らかに外国人にしか見えない異物にその子が大仰に反応したために、先生が気がつく までの数分に取り囲まれて揶揄されたり髪の毛を引っ張られたりしたのだ。公園などでそ ういう扱いをされた時は口げんかや乱闘で相手を黙らせてきたアスカだったが、こんなに 集団で苛められたことなど一度もなかった。 その日はいつも一緒のカヲルが風邪で家で寝ていたこともあり、彼女が恐怖心を抱いた ことはやむを得ないことだ。 しかしその時、アスカは泣かなかった。口をへの字にしてずっと我慢していたのだ。先 生に慰められた時も母に力づけられた時も、彼女の涙の堤防は決壊しなかったのである。 洪水が起きたのはその翌日、元気になったカヲルをお見舞に行ったときだ。 やせ我慢をしていたアスカは「ようちえんはたのしかった?」と聞かれてわあわあ泣い た。 それを知るのはカヲルだけ。 そして彼はアスカを力づけたのだ。どういうことを言われたのかアスカはほとんど覚え ていない。泣くので忙しかったからだ。 だが、結果として苛められたら立ち向かうんだという言葉にアスカはうんうんと大きく 頷いた。僕がついているからねとカヲルに優しく微笑まれたことで彼女は決意したのであ る。 そして、入園日。 アスカは大立ち回りを演じた。 件の男の子がからかってきた瞬間に即座に言い返し、驚いたその子がアスカの帽子をと ろうとした時、アスカのウルトラパンチが炸裂したのだ。二人の喧嘩は周囲を巻き込み、 園長先生の涙の演説でその日は締めくくられた。 人の肌や言葉やそういったもので差別をしてはいけません。同じ人間なのです。云々。 入園式でまっさらの制服がドロドロになり、鼻血擦り傷の子も出ただけに、本来ならそ の発端となったアスカと男の子がつるし上げられるところなのだが、その町で有名な園長 はこの事件を巧く利用し、平等と平和の精神を植えつけようとしたのだ。 時代もよかった。 せっかくの入園式がなどと内心は思っていても口に出すような親はいない。そんなこと を言えば、己の心の貧しさを周囲に知らしめることになるから。 髪の毛を振り乱したアスカと鼻にちり紙を突っ込まれた男の子は握手をさせられた。 その男の子は「女の子に手を出したらいけません」というその時の教えを今までずっと 守ってきている。 相変わらず口は出しているが。 拳を交えた鈴原トウジとの歴史はこの時から始まっていたのだ。 その日、胸を張って帰宅するアスカの隣で、形が崩れてしまった帽子を一生懸命に直そ うとするカヲルの姿があった。 その彼がいたおかげで、自分は立派に戦うことができた。 アスカは嬉しくてたまらなかったのだ。 この時から、カヲルはアスカにとって友達以上の存在になったのである。 彼にとって不幸なことに友達以上というのは恋愛の対象という意味ではなかった。 一人っ子のアスカは彼を兄弟だと認識したのである。 さて、アスカの恋心だ。 レイの兄、世間的には従兄妹(戸籍的にはそれも正しくないが)と扱われている少年が この町に引っ越してきたのである。勤めていた会社がこの地方に新工場をつくったので、 それを機に実の娘が住まう町に移り住んだのだ。 これは綾波家の夫婦の要望でもあった。 彼らはもう五十を超えている。 そのためレイの将来が不安になったということもあり、どうせこちらに来るなら近くに 家を見つけて欲しいと頼んだのだ。父親は逆に途惑ってしまったが、レイ本人からも「両 親のお願いを聞いてください」と言われれば頷くしかない。 親子の名乗りは一生するつもりはなかったが、絆は切れはしないのだから。 こうして碇ゲンドウとシンジの親子は、8月の終わりにこの町に引っ越してきたのであ る。 アスカが彼と初めて顔を合わせたのはレイの家だった。 トラックに揺られるのが不安でチェロのケースを抱えて彼は電車で移動してきた。 引越しの前日である。 その夜は空き家になっている引越し先ではなく、レイの家に泊まったのだ。 レイはアスカに自分たち兄妹の秘密は告げていない。 従兄妹という説明で充分だと思っていた。 だが、少しばかり頼りなく見える兄のために強い味方を紹介しておこうと考えたのは兄 弟愛からだろう。それに翌日の引越しの手伝いにアスカも来ると言っていたのだから、顔 合わせはしておいてもいい。 そんな思惑からアスカはその日の昼下がりにレイの家に呼ばれた。 アスカらしく、約束の時間の一時間前に。 同級生で、かつ親友の従兄妹というのはどういうやつだろうかという好奇心でいっぱい だったためだ。 いつものように元気よく「お邪魔します!」と玄関を開けたとき、聞こえてきたのは妙 なる音楽。カヲルならばすぐにチェロだとわかっただろうが、この時のアスカにはクラシ ックの楽器であるとしかわからない。 意表をつかれた彼女は暫し玄関先でその音色を聴いた。 「あら、アスカちゃん。こんにちは」 「あ、おじゃましてます。あれは…」 「碇シンジ君。上手いでしょう?チェロよ」 「あ、チェロ。そうなんだ」 アスカのことをよく知る綾波家の奥さんは楽器のことは知るまいと情報提供をする。 知りませんでしたと素直に笑ったアスカは靴を脱ぎ、奥の部屋へ向う。 レイの部屋の前に立った時、中から会話が聞こえてきた。 その中に自分の名前があったために、彼女は思わず聞き耳を立ててしまった。 「はい、じゃ、次はアスカの好きなビートルズね」 「どうしても弾かないと駄目?」 初めて聴いたその声は少し頼りなげで、しかし何故かいやな感じではなかった。 アスカはなよっとした男は嫌いだったのだが、彼の言葉に含まれていた温かさを感じた のだろう。 「駄目。アスカはビートルズが大好きなんだから。約束したでしょう?」 「したけど。難しいんだよ。楽譜もないし」 「もうっ。そんな言い訳しないの。男でしょう」 新鮮だった。 レイのこんな口調を聞いたことがなかったのだ。 その時、ふと兄妹っていいなとアスカは思い、ああ従兄妹かと苦笑した。 何の遠慮もなしに喋りあえる。 その時彼女の頭に浮かんだのはカヲルの顔だった。 自分たちの会話もこんな感じに聞こえるのだろうかとも思う。 「何を練習してきたの?」 「えっと、イエスタディとミッシェルと…アンド・アイ・ラブ・ハー」 「ちょっとっ。駄目じゃない。アスカはもっと激しい曲が好きなのよ。 私、ちゃんと説明したじゃない。そういう曲を弾ける様に練習してきてって」 「む、無理だよ。これはチェロでギターじゃないんだから」 「同じじゃない。似たようなものよ」 「無茶言うなよ。全然違うよ」 アスカは笑いを堪えるのに必死だった。 音をさせないように廊下に座って、わくわく顔で続きを聞こうとする。 そして飲み物を持ってきたレイのお母さんに手を合わせて盗み聞きを許可してもらう。 お母さんは微笑んでここに置きますよとアスカの足の届かないところにお盆を置いた。 どうやらそういう部分の信用度はゼロのようで。 しかし今のアスカには会話を聞くのに夢中だった。 何しろ親友の別の顔なのだ。 いつも澄ました感じのレイがまるで妹のように甘えた感じの口調なのだから。 まるで漫才を聞いているかのようにおかしくてたまらない。 「それくらい弾けるでしょう。やる気がなかったんでしょう」 「あったよ。あったけど、だから難しいんだってば」 「じゃ、難しいから簡単なものでお茶を濁そうって言うの?そういうのアスカは嫌いよ」 うんうんとアスカは頷いた。 チャレンジ精神はアスカのモットーなのだ。 「ぼ、僕は、別にその子に好かれなくても…」 はぁ? アスカは眉間に皺を寄せた。 誰がアンタなんかを好きになるって? 「ま、まあ、写真で見たらさ、かなり綺麗だとは思うけど…」 ほぉ…。 アスカは唇をすぼめた。 綺麗だと言われて不快になるわけがない。 「でも、レイの話じゃ、凄いお転婆じゃないか」 何っ。 こいつ、何様? アタシのことをお転婆だなんて失礼なっ。 アスカは拳を突き上げた。 そこに言葉の主の顎があるかのように。 「まあ、レイの親友だからと思って…」 「大親友」 ぱちぱちぱち。 音のしない拍手をアスカはレイに贈った。 「はいはい。大親友だからさ。僕もこれでも頑張って練習したんだよ」 「はぁ、仕方ないわ。もう今さら。じゃ、弾いてみて。どの曲を聴かせるか私が決めるか ら」 「えっ、そうなの?」 「当たり前。アスカに聴かせるんだから。一番いいのを選ぶの」 「自信ないよ。どれも似たようなものだし」 「うっさい」 「え…?」 「って、アスカなら怒るわよ。早く弾くの」 アスカは床をバンバンと叩きたかった。 こんなに面白いものはない。 カヲルとの会話も遠慮がないものだが、こういう感じにはならない。 彼となら丁々発止のやりとりで会話が高速でキャッチボールされるのだ。 ところがレイとこの男の子ではふんわり和やかな感じで言葉が行きかっている。 いいなぁ、こういうのも。 そんな気持ちになったのは、彼がチェロを弾き始めてからだった。 イエスタディに始まって、3曲が続けて演奏された。 アスカがビートルズの曲を歌なしで聴くのは実は初めてだった。だからかなり新鮮で、 しかもスローテンポの曲は嫌いな方だったのに耳に心地良い。 ところどころで間違うようだが、それはそれでいいものだ。 3曲全ての演奏が終わった時、アスカは大きく拍手したくなったほどだ。 だが、プロデューサーは厳しかった。 「駄目。まだまだね」 「だから言ったじゃないか。全然駄目だって」 そんなことないないっと、アスカは大きく首を横に振る。 充分な演奏ではないか。 「どうしよう。こんなのじゃアスカに聴かせられない」 「だろ?だから僕…」 みんな、おかしい。 アスカは憤慨した。 「仕方ない。イエスタディね。あれが一番まとも」 「そうだね。僕もそう思う」 すっかり落胆したかのような二人のやり取りにアスカの目は鋭く光った。 彼女は音もなく立ち上がるとそろりそろりと玄関に戻る。 そして、足音も高く再登場。居もしないお母さんも登場させて。 「しっつれいしまぁす。あ、これは私が運びます。いっただきまぁす!」 床のお盆を持ち上げて部屋の前に立つと中でごそごそ慌てたような物音。 一人芝居のアスカはニヤリと笑った。邪悪な笑みと評されている笑顔で。 入室したアスカは少年の顔を見て笑いを抑えるので必死だった。 澄ました顔で「碇シンジです。はじめまして」と挨拶するのも笑いのツボを突く。 アスカは二人から見えないように膨脛をぎゅっと抓り上げる。きっと痣になっただろう が、こんなに楽しいものを奪われてなるものか。 「はじめましてっ。惣流・アスカ・ラングレーです」 高揚感を抑えながら、しとやかに挨拶したつもりのアスカはレイの従兄妹の顔を見る。 へぇ、やっぱり親戚よね。何となく似てるじゃない。 ま、全体的には冴えない感じだけどさ。 値踏みをされているのがあからさまにわかり、シンジはお尻のあたりがこそばゆい。 レイに告げた、写真で見た彼女が綺麗だという印象は嘘ではない。 外国映画で見るような女の子みたいな感じで、こんなに近くで見るとやはり胸がドキド キしてしまう。 本来ならもう少し話をしてからのつもりだったが、短気なアスカにはこのあたりが限界 だった。 「わっ、あれ何?バイオリンっ?」 少年の背後に横たわる楽器を指さし、アスカは目を輝かせた。 いささかわざとらしい芝居だったが、元々オーバーアクションの彼女だ。 二人は見事に誤魔化された。 「馬鹿ね、アスカは。あれはチェロ」 「へっ。そうなの?レイの?」 「違う。これは…」 お兄ちゃんと言いかけて、レイは口をつぐんだ。 二人が兄妹であることは秘密にしようと決めたのだ。 レイとしてはアスカになら喋ってもよいと思ってはいたのだが。 「碇君、の」 「碇君?従兄妹なんでしょ、何そのよそよそしいの」 思わず吹き出してしまうアスカである。 「えっと、なんだっけ?シンジ…くん?」 言ってからアスカは自分の中の違和感に気づく。 思えば男子の名前の方を呼ぶなどほとんどないことだ。 だから何となく気持ちが悪い。 「シンジ君、は変。碇君でいいの」 お兄ちゃんを名前で呼ぶほうが自分としては気持ちが悪い。 いきなりだったが、これからはシンジのことは碇君と呼ぶことに決めた。 「そう?まあ、レイが呼ぶんだからいいんだけどさ」 不承不承アスカは頷いた。 呼び方よりも今はこのチェロを弾かせる方が先だ。 「じゃあさ、それ弾いてよ。ねっ、そうねぇ、ロール・オーバー・ベートーベンなんてど うっ?」 「ええっ」 シンジは眼をむいた。 彼は生真面目な上にレイからの頼みだけにちゃんとビートルズの曲を聴いて、どれがチ ェロで弾きやすいか検討していたのだ。アスカがレイ用にカセットテープに録音して渡し たビートルズ全曲集をまた借りして。だから「ロール・オーバー・ベートーベン」がロック ンロールであることはわかっている。 何より、とんでもないふざけた題名だと憤慨していたほどの曲で、最初の部分を聞いて すぐに除外したほどだ。 当然、アスカもそのことは充分推理していた。 「そ、それは無理だよ。あんな曲」 「あんな曲ですってぇ?アンタ、カヲルの仲間っ!これだからクラシック好きの連中は本 当に…」 「あ、あの、碇君は他のを弾けるの。イエスタディよ、アスカ、イエスタディ」 レイは慌てた。アスカが怒った振りをして見せたからではなく、カヲルの名前が飛び出 してきたからだろう。 「あ、そうなんだ。じゃ、聴いてあげるから弾いてみせてよ」 アスカは腕を組んで眼を閉じた、振りをする。当然薄目を開けて、目の前の少年の様子 を窺う。 こんな見ものを見物しないでいられようか。 シンジは頬を膨らませてこの傍若無人な少女の要求に憤慨したが、傍らのレイが手を合 わせて怒らないでとお願いする。そうなると妹を守ると誓った兄としては、親友との仲が 悪くなってはと矛先を収めないわけにいかない。 彼は大きく深呼吸を二度三度。 気持ちを落ち着かせてから、チェロを構えた。 そんな様子をアスカはわくわくしながら待った。 こんな楽器を弾くのをこんな近くで見るのは初めてだからだ。 結局、シンジは3曲とも弾かされた。 アスカが盛大な拍手を送り、もっとないのかとリクエストしたからだ。 彼も男子である。 写真を見て綺麗だと思っていた少女から褒められれば、木でも東京タワーでも登ろうも のである。 その上、アスカの方も勢い余ってクラシックの曲まで要求してしまった。 帰宅したアスカは、応接間のステレオセットの前に陣取った。 そして、「Asuka's Favorite Songs 2」の製作にかかった。 「1」のカセットテープはロック中心だったが、今度はバラード集であった。 その日は遅くまでレコードをとっかえひっかえし、ようやく60分テープを完成したア スカはすこぶる機嫌がよかった。 一週間後までにもう一曲ビートルズを弾けるようにするとシンジに約束させたからだ。 その代わり、明日の引越しの手伝いは朝から来て全力ですると宣言してしまった。 言葉の弾みというやつだ。 楽しかったし、まあいいか。 アスカはレイに似た面差しの、しかし彼女よりも表情がころころ変わる少年の顔を思い 出した。 そして、はっとさせられたことも。 クラシックの曲を弾く時の、さらに真剣みが増した、それでいて優しげな表情。 気がつくとその顔をじっと見ていた自分。 彼女は急に恥ずかしくなった。 ソファーに飛び乗ったアスカは、腰に手をやると天井に向って叫んだ。 「はんっ、ビートルズでアタシの気を惹こうなんて百年早いんだからっ」 さて、気を惹こうとしたのはどっちだったか。 その夜、アスカの部屋の明かりが灯らないことにカヲルは少し不安だった。 彼はその不安を打ち消そうとしたのか、荘厳な曲調のものではなく明るめのピアノ曲を 選んだ。ステレオから流れてきたのはアシュケナージのショパンピアノ曲集。 彼はいつものように机に足を放り上げ、音楽に身を委ねる。 そして、時に首を伸ばして向かいの照明を確かめた。10時になっても暗いままの部屋 を見て、彼は溜息一つ。 ちょうどそこに流れてきたのは練習曲第3番ホ長調。 カヲルは苦笑した。 「別れの曲」とは馬鹿にしている。 部屋に帰ってないくらいで何だというのだ。 くだらない。 彼は掌を机にぱしんと叩きつける。 だが、その乾いた音は激情的な鍵盤の音にあっさりと消されてしまった。
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