もう一度ジュウシマツを

 

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「日常は突然終りを告げる」


 

こめどころ       2004.4.14(発表)5.13(掲載)






私立森の原学園は硬派で知られた『修永館』学園と、本物のお嬢様学校である『地の塩』学園が
統合されて出来た、市内で一番新しい学校だ。だが互いの伝統や、カリキュラムの違いが今ひとつ、
完全な統合を目指すにしては歯車がかみ合っていないという思いを生徒にも教師にも抱かせていた。
旧海軍式の蛇腹の制服と、地の塩の有名な憧れの制服についても何回アンケートを取っても新しい
制服を試着しに行こうという生徒は殆ど現れなかった。ここに到って遂に学校側は新制服の導入を
断念、従来の制服を男女そのまま残す事になる。それが決まった年、僕とアスカは高校に、レイは
中学に進学した。
高校の教科書は分厚くずっしりとした重みがあり、一見していかにも学問と言うものへの憧れを抱
かせる。もちろんそれは専門書ではないし、ユイ母さんの書斎に積み上げられている膨大な学術書
やリツコさんの部屋の渦巻くパソコンのコードや、CDやDVDの山に比べられる様なものではなかった
けれど、僕はその高校の教科書に未来に向かっての憧れをしっかりと感じたんだ。その新しい教科
書の配布日。新しい高校指定の体操着や専用ボタンやネクタイをディバッグ一杯に詰めて、いつも
のように惣流――いや、アスカと2人で帰路の坂道を上って行く。

「ねぇ、シンジのご両親は元々研究者だったんでしょ。リツコさんも現役の研究者なんでしょ。」

「うん、そうだったって聞いてる。父さんは今はもう違うからリツ子さんだけだけど。」

「私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんもそうだったんだって。形而上生化学とか生物工学とか言っ
てたけど、何の事やらよくわからないけどね。」

「いつか教えてくれたウルムの街に住んでいるんでしょ。君のお祖母ちゃん達って。」

「そ、そうよ。なんでわかったの、そこまで言ってなかったと思うけど。」

「直感だよ。」

「直感ねえ。いいけどさ。でももうずうっと会ってないの、お母さんが死んでから。多分お父さん
は、合せる顔が無いって思ってるだろうし、新しいお母さんを連れて行くわけにいかないって思っ
てるのかもしれない。でも私はお祖母ちゃんに会いたい。元気なうちに。」

「わかるよ、それって。」


彼女は下を向いて小石を蹴飛ばした。


「お祖母ちゃんはね、あの街で一人ぼっちで暮らしてるの。一人娘がアメリカ人と結婚して日本に
行ってしまったから。でもね、お祖母ちゃんは元々日本の人なのよ。こっちに帰ってきて一緒に暮
らせばいいって言ってるのに。こっちに来ちゃったらお墓のおじいちゃんが寂しがるでしょって。」


そうか、小平にある僕らの母さんのお墓にいつも何かある毎に出かけていく父さんの事を僕だって
知っている。多分レイも、リツコさんも。リツコさんが一人で出かけて行ってる事があるっていう
のが僕にはよく分からない。リツコさんは何か母さんに語りたい事でもあるんだろうか。お墓を訪
れる。それって何なのかな、もう死んで塵に戻ってしまった人のところへ繰り返し出かけていく人
の心って、何なのだろう。一体そこで誰と話してるんだろう。


「こっちへ来て一緒に暮らそうって幾らあたしが言っても駄目なの。私は日本の父さんや母さんの
お墓参りにも行かなかったからって、そんなこと言うの。だって、その頃はとてもドイツから日本
になんて、簡単に来れやしなかったじゃない。なのに自分だけ幸せになれないって思ってるのよ。
日本に帰って来たくない訳ないのに。」

「お父さんは行けないの。」

「多分行かなくちゃとは思ってるんだと思う。でも今のお母さんの手前もある、小さい子もいるし。」

「じゃあ、もう、君が行くしかないじゃないか。」

「あたしが?一人で?」

「お父さんに相談してご覧よ。アスカの気持ちをはっきり伝えて、頼むんだよ。」


アスカの身体がぶるっと震えた。そんなの今まで考えた事もなかったって、大丈夫かなって、言う。


「大丈夫だよ。お祖母ちゃんを心配する気持ちがお父さんに伝わらないわけ無いじゃないか。」

「あたしっ、話してみる。勇気出して相談してみるっ。」


アスカはそういうと勢い良く立ち上がった。


「どうしても言えなかったら、シンジに頼むから、一緒に来てくれる。居てくれるだけでいい。」

「ああ、そんなことなら幾らでも。」


そう僕は肯いた。でも結局それは杞憂に過ぎなくて、アスカのお父さんは娘の提案を喜んで聞いて
くれたそうだ。次の日の朝飛んできたアスカは、もう嬉しくってしょうがないって顔で、僕の前で
ピョンピョン跳ね回った。そこに中等部の制服に身を包んだレイが丁度出てきた。アスカのはしゃぎ
っぷりを見、くすくす笑いながら出かけていった。今日も弓道部の活動は休みじゃないらしい。


「また幼い事してるって思われたかな。」


ちょっと溜息をついてアスカはレイを見送りながら言う。


「レイがそんなこと思うわけ無いだろ。」

「何かこう上から見下ろされてると『バーカ』って言われてる気がしちゃうのよねぇ。」

「僕と一緒にいてもそう思う?レイより更に背が高いんだぜ。177あるもんな。」


自慢するな、という冷ややかな目で僕の頭の天辺から足先までをじろじろと見回しアスカは言った。


「ああ、あんたは大丈夫よ。あたしより馬鹿だって良く分かってるもの。レイは結構勉強も出来るし
しかもあたしの好きな学科と被るからね。数学とか古典とか歴史とか。」

「それ、大分ひどい事言ってると思うけど?」

「ああ、煩いわねっ!背がでかけりゃいいってもんじゃないでしょ。現にあんたは乱取りやれば3度
に2回はあたしが勝つじゃない。レイは別の土俵だからねえ。」

「ふふ、アスカがレイに勝てるのはバストサイズくらいじゃない?」


僕はつい油断して言ってはならない事を口にしてしまった。




「あら、どうしたのそれ。」

「アスカに殴られた。」

「また馬鹿な事言ったんでしょ。早く顔洗ってらっしゃい。」


リツコ姉さんは冷たい。前はもっと優しかったのに。アスカはプリプリ怒りながら帰っちゃうし最悪。


「あらぁ、不満そうねえ。でも駄目よ、私の愛情は100%ゲンドウさんのために捧げられてるのよ。」


聞いてられないよ。既にレイと父さんは朝食を済ましており、テーブルの上には僕の分の赤魚の開きと
茹でたほうれん草に鰹節をかけた奴、そして蕪の味噌汁が出ていた。父さんはワイシャツ姿で、居間の
ソファでコーヒーを飲んでいる。


「ゲンドウさん、コーヒーはいかがです?」

「ああ、もう一杯貰おうか。」


新聞を畳みながらそう言う父さんに、リツコさんは嬉しそうに淹れたてのサイフォンを持ちあげ、
新しいカップに注いで持っていく。そして顔を近づけてなにやら話し出す。息子は一人寂しく冷え
た魚と味噌汁を飲むのだ。アスカが朝食前に来なければ、せめてレイと一緒に暖かい御飯が食べら
れたのにな。
普通ならそんな事は思わないけれど、一発喰らったので少々恨みがましい気分になっている。
アスカの奴!――父さんも40過ぎにもなってにやけてるなよな!父さんが出て、リツコさんは家事を
始める。その為に研究所の出勤時間を11時にしているんだ。
父さんはどちらにしろ早くても9時過ぎまで帰ってこないし、僕らも普段は部活や塾で8時頃に
なるのが多いので、このサイクルはうちに丁度いいんだ。ただ、今日みたいに春休みの中で部活も
春期講習も無いなんて日は、少々手持ち無沙汰なんだけど。


「今日は特練で遅くなるってレイちゃん言ってたわ。学校出るのが9時くらいになるって。」

「え、幾らなんでも遅いなあ。普通せいぜい8時ごろなんだけど。じゃあ僕、迎えに行きます。」

「そうね、頼むわ。私も遅くなるときはシンちゃんに電話入れるから。」


そう言うとリツコさんは慌しく出かけて行った。さて何をしよう。ジュウシマツの世話はおきた時に
してしまったし、胴着は昨日のうちに洗ってしまったし。勉強はこの春休みにはさすがに余りやる気
が起きなかった。
そうだ、庭の掃除でもしようか。今年の桜は早くてもう花を盛んに散らしているし、冬に落ちた小枝
が庭にかなり落ちている。雑草も大分生えてきたし。僕は物置から高枝切狭とか鎌とか竹箒を引っ張
り出した。


「ああっ、何か面白そうな事やってるぅっ!」


無駄に伸びた枝を切っている所へ惣流がやってきた。この頃僕が庭にいると思うと、勝手に門から
こっちへ回ってくるんだ。 面白そうな事?今日はこれがお気に入りか。僕は、これ?というように
高枝切狭の先をパクパクと動かした。貸して貸して貸してと連呼されて貸したが、そうそう簡単に切
れるものじゃない。切ることの出来る枝の太さには限度があるのに大きな枝にばかりはさみを当てる
んだもの。


「無理だよ。そういう太目の枝は鋸で切らないと。」

「もうっ!じゃあ、つけてよっ!」


相変わらずのわがまま姫ぶりだ。


「先に細い枝を払ってからじゃないと絡まってしまうだろ。あ、危ないから振り回すなよ。」


あの日から、彼女は急に幼くなったみたいな所がある。それは彼女が今まで纏っていたいた殻とかイガ
とかを少し脱いでくれたということ。プライベートな相談事とか、大事な話でも相談してくれる。それ
は僕にとってとてもうれしい事だ。だけど逆に相談に応じられないような、僕にとって手に余るような
事が起きたらアスカは僕の事を情けなく思うんじゃないだろうか。2人の互いの想いを口にしたあの日
から、僕はそんな心配をするようになった。高校が始まったら仲良しになって付き合い始めたという事
で舞い上がるだけじゃなく、そういう点もしっかりしていかないといけない。そんな風に考えるように
なった。
その時、2階のベランダから激しい羽ばたきと、ジュウシマツたちの激しい緊急事態を告げる短い叫び
が一斉に聞こえた。なんだっ!? 柵が邪魔で何も見えない。


「シンジっ、どいてっ!」


手にした高枝切狭で、アスカは激しくベランダの桟を叩いた。ガシガシッという激しい音、もう一度振
り上げて洗濯物の掛かった棹も叩く。何回目かに黒い影がベランダから素早く出て、屋根を回ってすれ
すれに飛び出して行った。


「ネコかっ!」

「違うっ、あいつは鳥だわっ。百舌よっ!」


黒い影は弾丸のように軒下から飛び出して丘の下に向かって飛び出していった。僕らは縁側から家の中
に飛び込んだ。そして僕の部屋に飛び込んだ。ベランダに落ちた棹と洗濯物。そこに小鳥のカゴが落ち
ていた。
壊れてはいない。大丈夫だ。その辺を片付け、洗濯物を拾い集めた。


「シンジッ!」

「え、なに。」

「…それ、…そこ。」


据え直した籠の底に、白い脚輪が付いたままの片方の足が落ちていた。カゴの中の鳥を確認する。一羽
足りない。お父さんが、お父さんがいないんだ!白い脚輪はお父さんのだった。
だけど――だけどこんな。
十姉妹たちの騒ぎは未だに収まっていない。よほど恐ろしい思いをしたのだろう。良く見るとカゴの柵
の一部に、血と小さな羽根が1枚2枚張り付いていた。百舌はカゴに止まって周りを飛び回り、柵に止
まった一瞬、脚で小鳥をつかみ、引き裂いて飲み込んでしまったんだ。その様が目に浮かんだ。何て、
何てひどいことを。目が眩みそうになった。真っ黒な闇が僕を押し包む。


「シンジくん、大丈夫?」


アスカが僕の脇から支えてくれていなかったら、膝をついていたかもしれない。ことさら冷静を保とう
と努力した。こういう時のための精神鍛錬じゃないか、そう思った。だけど…だけど、お父さんは。


「うっ。」


涙が溢れた。瞬間袖口でそれを拭き取った。アスカが黙ったまま僕に張り付いていてくれたのが有難か
った。何か慰めでも言われたら、僕は恥ずかしさとか体面とか激情のために、アスカを突き飛ばしてい
たかもしれなかったから。アスカは僕からそっと離れると、手でベランダに飛び散った餌や割れた水差
しの欠片を集め始めた。アスカも泣いていた。時々僕と同じように袖で目をぬぐっていた。僕もしゃが
みこんで、その作業をのろのろと手伝った。最後にそれらを新聞紙にまとめて丸め、くずかごに捨てた。
ベランダの小さな水道で手を洗い、アスカのハンカチで拭いた。カゴを部屋の中にしまって窓を閉め、
ベッドに腰を降ろした。


「『お父さん』て名前だったんだ。僕の一番最初の十姉妹だったんだ。もう10年も一緒にいたんだ。」


 母さんの葬式の日の光景が甦った。部屋の片隅で、レイの手を握って初めて涙が出た。『お父さん』の
おかげであの日を乗り越えられた。『お母さん』を買って、卵から雛が生まれたんだ。雛は増えて僕の掌
の上でえさを食べた。十姉妹も手のりにできるんだと知ってうれしかった。部屋の中で離しても、呼ぶと
直ぐ戻って来て。レイは小さかったし、父さんは遅くにしか帰ってこなかった。僕は十姉妹のカゴを食卓
においてレイと一緒にみんなで御飯を食べた。だから全然寂しくなかった。レイも小鳥と一緒にご飯を食
べたがった。


「シンジ。」

「アスカ…駄目だよ、今僕にかまったらだめだ。」


君にすがり付いてしまう。君に依存して、君の事を抱きしめてしまう。そんな事をしたら駄目だ。
激しい思いと混乱が、君を巻き込んでしまいそうだ。だから側に寄らないで。かまわないで。


「どうして。辛いでしょう、悲しいんでしょう?」

「僕は…僕は男の子だから。悲しい事があっても我慢しなきゃいけないんだ。」


僕は必死で涙を堪えた。もうほんのちょっとでもアスカが優しくしたらぼろぼろと泣いてただろう。


「そんなことないよ。男の子だって――」


僕はゆっくり顔を振った。
部屋を出て、アスカを促し下の和室に降りて行った。そこの座卓の前に座った。頭がぐらぐらする。


「アスカがずっと一緒にいてくれた。それだけで、十分だよ。」


声が掠れそうになった。裏返って甲高い声になりそうだった。アスカは僕の斜め横に座り、膝立ちの
まま、僕の側に寄って手を伸ばした。僕もアスカにもっと側にいて欲しいと思ったけれど。


「ごめん。今日はもう帰って。」


手を引っ込め、アスカは何か言いたそうにしていたけれど、口を閉じて縁側先で靴を履いた。
ゆっくり手を振ってくれた。それに少しだけ手を振りかえした。庭からアスカの姿が消えた。




日が翳るまで、僕はずっとそこに座って、庭を眺めていた。





第14話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

 


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 百舌のヤツっ!
 
許さないわっ!
 弐号機で踏み潰してやるから出てきなさいよっ!
 罪も無いジュウシマツを引き裂いて食べるだなんて…。
 シンジも可哀相…。
 でも男の子よね、ここのシンジは。
 せっかく私がぎゅっとしてあげようと思ったのに…。
 どうして慰めてあげようかしら。とにかくこのままにはしていられないわね。
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。

 

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