もう一度ジュウシマツを
− 18 − 「敗者復活を企てるも 涙」
こめどころ 2004.5.9(発表)6.1(修正補筆掲載) |
「じゃあ、ここに判子を押して。ご両親の同意書もあるし、うん、これでいい。」
「これでいつからでも練習に来ていいぞ。」
2人のその言葉に思い切って言ってみる。
「あ、あのっ。」
「何かな。」
「あ、あのっ。今日から、今日からでもいいでしょうか。」
さして広いとは言えない道場。そこに逞しい体つきの男達が身体から湯気を立ち上らせるほどの
勢いで組み合っている。凄い、その無駄の無い寡黙な練習風景を見て、身体に震えが走った。
僕は邪魔にならないよう道場の隅の方で正座し、その練習を見守った。暫くすると正面に立った人
が手を振って僕を呼んだので、立ち上がって横に並んだ。
「皆、一時やめいっ。新入りを紹介する、今日からここで暫く預かる事になった、碇シンジ君だ。
見知りおいてやってくれ。修永館高校――今は森の原学園高等部1年だ。修永館の者が何人かいた
筈だな。」
「うおーい。」
3人が手を挙げた。
「田中、境、遠藤か。お前等にこの子の世話を頼む。」
「了解!」
早速集まってきた3人に取り囲まれた。背の高さは僕とそんなに変わらない。なのにこの威圧感は
何だ。圧倒的な腕と肩、胸板の分厚さだ。準備運動をしながら話す。
「修永館か、懐かしいな。俺は12年前の卒業生で、遠藤という、宜しくな。」
残りの2人もそれぞれ名乗り、僕も立ち上がって名乗り、頭を下げた。
「しかし、なんとも細いな。これではここでは直ぐに怪我をしてしまうぞ。まずは身体だな。よし、
まず胴着に着替えろや。今日のところはまず基本技の打ち込みをやってもらおうか。」
「はいっ!」
「いい返事だ。やる気だな、碇くん。」
早速打ち込みをはじめた2組に分かれて10本を10組ずつ、そして交代。単純な練習だが、この
練習こそ弱い相手ではただの時間潰しだ。巌のように動かない相手を崩し基本動作を繰り返す事で
自分の技の欠点が次第に見えてくる。無理の掛かっている部分、不自然な崩し、自分のバランスの
悪い所から簡単に技を返されてしまう。いや、むしろ自滅してしまうのだ。独りよがりな技は使え
ない。それを思い知るのが打ち込みだ。
「何だその腰は!ふらふらするな!」
たちどころに雷が落ちた。凄い、大学の先輩たちが来た時より更に凄い。境さんたちの身体はそれ
こそピクリとも反応しない。岩のように動きもしない。まさに巌だ。ぽたぽたと直ぐに汗が落ちる。
流れ落ちた汗は僕の中に溜まっていた怯惰だ。身体を鍛え強くなる事への自分の妥協だ。もう動け
ませんというポーズを取った報いだ。自分自身の、純粋な部分を裏切った報いだ。鋼の中に残った
炭素のように幾度も叩いて叩いて打ち出してしまわなければならないものだ。火花となって消えて
欲しいものなんだ。
背負いや内股、払い腰、打ち込みではほんの少し体重を掛けられ、傾けただけで身体が愚図愚図と
潰れてしまう。
「変な癖がついとるな、基本どおりしっかり真下に引くんだ。」
「お前の体重でそれでは体重差のある奴と当たったら返されっぞ。」
受身の形さえ違う。両足をそろえ、足の裏を使って受ける。脚の外側全体を使って受けるのでは
ない。その分次の動作が速くなるんだ。全体的に防御の姿勢が小さく、攻撃の型も全身を使って
の崩しが主体だ。十分に体を崩した後の技は敵へのダメージが大きい、そうすれば、次に最悪の
選択をしないですむ。技の選択肢が増える。
僅か1時間の練習で、僕は学校での練習の何倍もの汗をかき、燃えるような身体は冷水シャワー
を幾ら浴びても汗が止まらなかった。やっとの思いで道場を出ると、田中さんが待っていた。
「俺はこれから勤務だ。君のうちの近くの坂之上派出所さ。さあ、行くぞ。」
えっ、これから家までランニングっ、楽に7〜8kmはあるよっ。しかもこの重い鞄が。
「まぁ、最初の日だし、君の鞄は持ってやろう。」
ひょいっと鞄を奪われて、さっさと田中さんが走り出した。うわーと思いながら僕は後に続いた。
もっと強くなりたい、何としてでもアスカに勝てる様になりたい。そう思った僕はアスカに絶交
されたのを機に学園都市警察署の柔道研修に申し込んだんだ。期間はまず6ヶ月。進歩が見られ
れば更に半年更新が認められる。とにかく、今僕が自分に課す事ができる修業はこれしかなかっ
た。より強い人と、可能な限り密度の濃い練習を続ける事。身体を苛め抜いてアスカに勝つこと。
その事が、アスカをより強くする為に僕が手伝える事。アスカに頼らず、僕自身が強くなる為に。
自信を持つために、アスカにいじけた心を抱かないために。
彼女の前に、やましい気持ち一つなく、堂々と立てるように。
「シンジの奴、今日も来てない。何考えてんのよっあのバカッ。」
あたしが悪態をついた途端、主将が叫んだ。
「掛かり稽古開始ッ!」「おうっ!」
シンジが来ていない道場は、何かがらんとしてるような気がする。実際シンジがいないと私と練習し
てくれる相手は限られてしまう。洞木ヒカリは元々準部員だから毎日やってくる訳ではない。顧問の
体育教師はバスケット部と兼任になって、やはり週に2回しか出てこない。地の塩の指導教官だった
女の先生は産休で暫くお休みだった。しょうがないから土曜には新東京警察署の道場に顔を出し、
一週間分の鬱憤を晴らすと言う事になってしまう。絶対的な練習量が足りないと言う事にあせりなが
ら、サーキットトレーニングとロードワークを繰り返す。あたしの欠点はスタミナに有ることは確か
だから。プロテインを飲み、筋トレもする。この細い身体に幾らかでもボリュームが付くといいん
だけれど。スクワット、カーフレイズ、ベンチプレス、トライセップスetc.
「何もかもあいつが悪いんだから。」
技が荒れている。もっと丁寧に確実に相手を崩さないといけない。力に頼る部分を最低限に押さえ、
その分をスピードにまわす。男性の厚い筋肉を打ち抜く拳のスピードと角度。
「直ぐ誤りに来れば赦してやったのに。」
あたしはあの事は極力気にしないでやって行こうと思っているんだけど、あいつは明らかに気にして
いた。投げや崩しから寝技に移行する際など、余り粘らずに直ぐ手を離してしまう。絞め技や関節技
も直ぐに参ったを出す。揉みあってこその練習なのに。馬鹿、とっくに赦してやってんのに何を今更
意識してんのよ。でも最近はあいつが意識しているのをさらにあたし自身も助長してる。あたし自身
もあいつと肌が触れると手が縮こまる。技が小さくなって、のびのびと動けない。あいつの頭の中の
あたしも、あんな格好に映っているんだろうか。だとしたらあたしは、あいつにどう応ずれば良いの
だろう。いつまでも何も知らない振りは出来ない。あの時あたしはどうしても赦せなかったんだもの。
家に帰って考えたら、もっとむかむかしたんだもの。この感覚を何ていうのか、あたしは知ってる。
どうしてシンジの身体を意識してしまうのか、頬を染めてしまうのか、その訳だって知っている。
「そんなものなのかなぁ。あたし一人だけが幼いのかなぁ。」
「おかしくなんか無いわ。私だってそうだもの。」
「そりゃ、レイはまだ中学生だもの。あたりまえよ。でも高校生ともなるとね。ああ、なんで女の子
ってこんな形に変わってしまうんだろう。うっとうしいよね。こんなものいらないのに。」
それから、本音を漏らす。
「あたし…幼いんじゃない。いやらしいんだ。シンジの事、男として意識しすぎてる。」
最近急にレイが綺麗になった気がする。こうして正面に座っているレイは本当に綺麗な子だ。この子
は今何でもないものから女性に変容しつつある。男でも女でも無いものだった時代の終わり。それは、
いつか訪れるものなんだから。
シンジと知り合った頃のあたしは、まだ胸なんかもろくになくて、男の子のような脚と軽い身体を持
っていた。自分が絶対に強いと言う万能感に、空まで飛び上がりそうだったっけ。動きを制限する乳
房や鈍重な腰は、女になってしまったしるし。あたしはシンジと知り合って、今はもうあいつの事が
気になって仕方が無い、馬鹿女にされてしまった。女になるって事は――そして男になるってことは、
あたしたちに苛立ちと不幸しかもたらさない。もっともっと女にされていって、最後にはシンジに置
き去りにされるんだ。シンジは真っ直ぐに進んでいってしまう。男は男で有る事が何の障害にもなら
ないんだもの。女であってしかも男以上に優れていること――それは、リツコさんみたいに限られた
天才にだけ許されることで。
「アスカお姉ちゃんはいいわね。天才だから。」
思いもよらない言葉がレイの口から発せられてる。
「え?何ですって。」
「お姉ちゃんは天才だからいいねって思ったの。お姉ちゃんはきっと悩んだり苦しんだりしなくても
決断が出来るんだろうなって。だって女子柔道界の天才なんだってお兄ちゃん何時も自慢してるもの。」
あたしのどこが天才なの?レイこそ弓道の世界で天才と騒がれているじゃないの。だからといってレイ
に悩みや苦しみがなくなるなんて考える方がどうかしてる。当たり前の事だよね。天才は自然に生まれ
ることは無い。埋もれている天才は皆自分に才能が無い事を恨んだり残念がったりしてるに違いない。
実際の悩み事なんかはやっぱり人生の先輩に尋ねるしかないのよね。それも似たような悩みを持ってい
そうな。でもねぇたかが高1の悩みなんて大人が真面目に聞いてくれる訳無いのよ。大人にしてみたら、
あたし達はほんのネンネでしか無いんだもの。それが恋愛上の悩みとか言っても幼稚園生がシンジくん
が好きなんでちゅ。と言ってるのと同じ扱いでしか無いんだもの。でも本当はそれも嘘なのかもしれな
いんだもの。この子色気づいて厭らしいと言う目でしか見てくれなくなる。
ほら言ってご覧、本当の事を。もう我慢できないんでしょ。
「レイちゃん。」
「はい。」
「シ、シンジ――この頃どうしてるの。練習に出てこない…しさ。」
あたしは顔を背けたい。一体何を尋ねそうになっているんだろう。馬鹿じゃないの、情け無い。
「クラスメートの話では、毎日のように授業中に寝てしまって怒られてるみたいだし。家で何か。」
レイは訝(いぶか)しげにあたしに答える。一緒になって兄貴の悪口を言ってたのに何故急にと、変に
思ってるんだろうな。
「毎日遅いわ。柔道着をぐしょぐしょにして、歩くのがやっとみたいに帰ってくる。ズックもどろどろに
して来るから毎日洗ってる。吐き気で食事も出来ないくらいみたい。お風呂に一旦入って出てきてから、
やっと食べるの、吐き気を堪えてるみたいに呻きながら食べるの。それから勉強部屋に上っていく。小鳥
の世話も出来ないくらいなの。だから私が後から行って机につっぷしているのを起こして、ベッドに入れ、
ジュウシマツの世話をするの。朝も気が付くともうランニングに行ってて。」
「なによそれ、強化合宿じゃ有るまいし。」
「だから不思議なの。お姉ちゃんに嫌われて落ち込んでるならわかるんだけど。そうじゃないみたい。
私より早くランニングに出て、凄い汗で帰ってくるの。あたしの3倍くらい走ってるんじゃないかな。
10km近く。」
前からシンジは真面目に練習には出てたけど、そんなにわざわざ汗水たらしてたわけじゃない。どちら
かと言えば勉強の方を頑張るタイプだって聞いてたけど。あたしの知らない部分があいつの生活に生じ
てる。あたしの知らないシンジが、そこには、いる。あたしの知らないシンジ。女みたいな顔してる癖
に、あんないやらしい本見て、いやらしいDVD見てたんだ。そんな事許せない。しょうがないなんて思え
ない。シンジをやっと自分のシンジにしたと思ったのに。わかりあえる本当の友達になれたと思ってい
たのに。シンジは何の見返りもなくただ純粋に好きになってくれたんだと思ってたのに。
あいつだって、『僕のアスカ』って呼んでくれたのに。『あたしのシンジ』だって認めてくれたのに。
そういう約束しててもあんな汚らわしい物を見るわけ?嫌らしい絵を描いてそれを周囲の女の子に当て
はめて欲望を滾らせてるわけ?あんな格好をシンジはあたしにさせたい訳?大体なんであの女たちは同
じ女なのにああやって裸を見せて笑って媚びて、あんな恥ずかしい嫌らしい格好をしているのよ。自分
の恋人や家族に見られても平気だなんて気が狂ってるとしか思えない。何故ただのモノみたいに自分の
事を扱えるのよ。――それともあたしが間違っているの?あたしがいやらしい女に変わるべきなの。
スカートをめくりあげて。太股を顕わにして。胸元をわざと広げて。口紅を濃くしなきゃいけないの。
男の子なんだから仕方ないって、そんな風に諦めて、媚びたように下から見上げなきゃいけないの。
暑い夏休み前。期末試験と業者テストが終った。この直後から試験休みが1週間。成績簿を貰えば夏休み。
最初の10日間は合宿がある。今年はいつものように武道場に泊り込みでは無い。武道場への泊まり込み
だと女子は通いになる。それでは不公平だから、と言うのが表向きの理由だったけど実際は皆からの熱烈
な意見があったから。折角の夏休みにみんなで集まるんだから、外部合宿にしようよ、ということだ。
東京から特急で東北に2時間ほど行った所に、あたし達のような武道系の部活専門の宿泊施設がある。
海まで僅か1km、道場からも宿泊所からも海が窓一杯に見える。温泉も付いている。至れり尽くせりだ。
「ここに決定!」
マネージャーがおごそかに発表し、部室は皆の歓声に包まれた。
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よかったぁ。レイと仲がいいから。
だってさ、もしレイっていう話し相手…ううん、相談相手がいなかったら、
シンジが何をやってるか見当がつかないじゃない?
全然道場にこないんだから、どこで何をやってんだかわかんないでやきもきどころじゃなくなってるわよ。
また馬鹿にそそのかされて、あ、あんなことを繰り返してるかも…とかさ。
私に叩かれちゃったから、拗ねちゃってよからぬ女と………なぁんて私も鬱モードに突入してるところよ。
まあ、実態がわからなくてもどこかで鍛えてるってことだけはわかるからね。レイ、感謝!
ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。