もう一度ジュウシマツを
− 23 − 「こころの形、今だ定まらず」
こめどころ 2004.6.10(発表) |
泥まみれになったシンジを、あたしは道場裏の洗い場まで連れて行った。よく見ると、
髪の中まで泥が入り込んでるし、顔からお尻まで跳ねが上がっていて、その上試合の後の
汗まみれの格好だったから、なんていうか、シロクロのひどい格好だったのよ。後から思
えば、あたしは物凄くはしゃいでいて、何がそんなに嬉しかったのかしらね。
――ま、まぁ理由はわかってるけど、悔しいからあえて触れないでおこう。
とにかくシンジを引きずるようにして洗い場に行き、構わずそのままシンジをコンクリ
ート製の広い洗い場に立たせて、ホースで水をぶっ掛け始めた。悲鳴を上げてたけど、
まあ、この暑さだからかえって気持ちいいぐらいのものよね。
「ほらっ、もっと頭下げて、水がうまく掛からないでしょ。」
「わう、わあっ。アスカちょっと待ってよっ!」
「またなーいっ!ほら石鹸っ。」
がしがしと石鹸をシンジの頭にこすり付ける。
「あっ、ひどい。これ洗濯石鹸じゃないか。」
あたしからその石鹸を奪い取ったシンジが口を尖んがらかした。これってアルカリが強い
んだっけ?まあ余計に落ちるんだからいいジャン。あたしの髪にそんな真似したら殺すけど。
「いい香りになるわよっ。頭に塗ったら今度はそのまま道着にも塗りつけんのっ。」
「僕の顔や頭は柔道着と同じかよ!ひどい扱いだな、もう。」
みんなも知っているかもしれないけど、柔道着の上衣は刺し子になっていて、剣道着
や空手着よりずっと分厚いし木綿の生地で汗なんか吸うと結構な重さになる。濡れれ
ばもっと重くなるわけ。だから洗うのは結構大変な作業なのよ。小さい洗濯機だったら
上衣だけで洗濯槽が一杯になっちゃうもの。こうやって踏むのが一番。私はお風呂に入
った時に一生懸命踏み洗いしてそのまま洗濯機に入れてすすいで脱水。夜外に干して
おく。柔道着干しておくと防犯にもなるって言うけど。
「石鹸よくつけたら脱いで。コンクリに置いてガシガシ踏むのよっ。」
シンジは柔道着を脱ぎ捨てて、上半身裸になった。そして上衣を踏みつけると、石鹸が
気持ちよく泡を立てる。こうしないとなかなか汗が抜けなくて乾くとひどい匂いになる
のよね。シンジはやけくそみたいになって、身体中に洗濯石鹸を塗りつけてる。ぷっ。
「アスカ、もういいよ、水かけて。」
「いくわよっ、まず頭から。バシャーッ!」
シンジの頭が水を弾き返して水しぶきと霧に包まれる。午後の日差しの中で、前よりずっと
逞しくなった身体が輝いている様に見える。背中も腋も、お腹も。太くなった首や腕も。
ホースの先を細くして、勢いよく水を拭きつける。あたしはシンジを車みたいに洗いながら、
この3ヶ月、シンジはいなかった間に、どんなに頑張っていたかが実感できた。こいつは、
あたしのために頑張ってくれてたんだ。ちょっとずれてるし、動機が不純な感じもするけど、
最後は何といっても、このあたしのためにだ。
女の子として、こんなに大事に思ってもらえた事は、とても名誉なことだとあたしは思う。
突然試合に現れて、前とは比べ物にならないほど鍛えられた動きを見せてくれたシンジ。
結構白馬の王子様っぽかったかな。
シンジは下ばき(ズボンのことね。)の方にも石鹸をたっぷり塗りつけると、脱ぎ捨てて
ギュウギュウ踏みつけた。泥がきれいに抜けて流れて・・・シンジの裸の後姿は美しいと
思った。え、裸?
「いやあ、シンジッ、あんたなんて格好してんのよ。」
間の抜けたタイミングであたしは叫んだ。やだ、何ぼうっと見てたんだろ。うろたえるな
惣流アスカ。男の子の裸なんて弟ので見慣れてるでしょうが!
ホースをシンジにぶつけるように投げ捨てると、あたしは後ろに向き直ったまま、自分の
肩にかけていたピンクのバスタオルをシンジの方に向けて差し出した。
ホースがバタバタと跳ね回る。
「ほらこれっ。これで拭きなさいよ。」
「え、これアスカのタオル。いいの?僕が使っちゃって。」
「い、いいのよっ。洗って返しなさいよっ。」
シンジの手があたしのタオルを持っていった。――こらあっ頬っぺた、熱くなるなってのっ!
「あ、ありがと。」
いや、別にそのままでもいいんだけど。シンジの汗だもんね。でもそんな事まだ言えないわよ。
「あ、あのさ、アスカ。ついでだから一つ頼んでいい?」
「なによっ。」
「僕のバッグとって来てくれる?このままじゃ着替えが無いから。」
あ、そうか。あたしは脱兎のごとくバッグの置いてある縁側に走った。
キキキキキキ・・・・夕焼けの空に、真っ黒な木立の影とセミの声。ようやく涼しくなった風が
広い道場を通り抜けていく。あれから洞木さんから電話があって、みんなは駅前でご飯を食べて
から、次の駅に有るカラオケに行く事になったと言う連絡があった。電話を切って、溜息をつく。
あたし、すっかりみんなに嫌われちゃったのかなあ。ああ、落ち込んでしまいそう。
道場の前の物干しにはあたしの1着と、シンジの2着の柔道着が干されている。2人で一生懸命
絞ったけどまだ水滴が垂れていた。その水滴がようやく垂れなくなった。風が出てきたせいかな。
あの後あたしも内部の風呂場でシャワーを浴びて、汗を流した。ついでに洗濯も。あたしの道着は
シンジのと並べるとやっぱりずいぶん小さい。
お風呂上りの肌に、この風が心地よい。蚊取り線香の煙が漂ってくる。シンジって意外とマメよね。
ここは山上で涼しいせいか、ヒバの森のせいかわからないけど、蚊はあんまりいないんだけど。
こういう雰囲気では蚊取り線香っていいわ。なんていうのか古い想い出を甦らせる効果があるみたい。
シンジとあたしの柔道着が揺れている。あいつの柔道着随分ぼろぼろよね。3ヶ月かそこらでそんな
に痛むものかしら。レイがズックもぼろぼろと言ってたけど。特にランニングに精出してたのね。
その勢いで組み稽古もしてたなら納得がいくんだけど。普通、高校生にはもたないんじゃないかしら。
「アスカ、ここって夕飯出ないんだろ、どうする。何か作ろうか、それとも麓に降りるかい?」
「一応緊急用の『ザトウの御飯』もあるし、お米とお釜も有るよ。レトルトカレーでも食べる?
後はマヨネーズときゅうりとツナ缶もある。これもカレーに合うんだけどね。」
「元々の予定ではどうするはずだったわけ?」
「ふもとのうどん工場からうどんをいっぱい買ってきて、野うどんを作ろうと思ってたのよ。うどん
を茹でて、ばら肉とほうれん草を茹でて、たれと唐辛子があればお腹いっぱい食べられるし安いから。」
「うわー、それって凄くおいしそうだね。僕が当番の時に是非作ろう。」
シンジッて何でもおいしそうに食べそうな気がするな。あたしはそう思って、その途端シンジになにか
食べさせたくてうずうずしてしまった。こういう餌を与えたいって気持ちは、子犬なんかを拾った時の
気分に似てるかも知れない。そういえばママもパパが鬼のように食べた時ほど幸せそうな顔してるもん
なぁ。ああいうことだからパパがどんどん太るんだわ。シンジがあれよりもっと太ったらどうしよう。
体重が100kgになったら無差別級に出そうかしら。だめだめ、体重で勝負なんて。シンジの身長でもせい
ぜい85kgに押さえて欲しいわよね。身長はこの先180くらいにはなるかしら。シンジのお父さん大きい
らしいし。
うーん、あたしと並んだら凸凹よね。結婚式には高いヒール履かなくちゃね。転んだりしないように高い
ヒールを履く練習もしなくちゃだわ。長いヴェールをつけるならなおさらよね。
「おーい、アスカ。どうしたのー。」
目の前でシンジが、顔と顔がくっ付きそうになるほど近づけて、目の前で手をひらひらさせてた。
「わっ、きゃあーーー!」
胡坐をかいてたあたしは、そのままころころと畳みの上に転がって、ばっと立ち上がって構えた。
ジャージの半ズボンと、上はランニングシャツ。何かとっても男くさい格好だと思う。男の子って
すごいな。たった3ヶ月でこんなになっちゃうんだ。柔らかい感じだったあいつの上半身は、この
短い間にすっかり肩が大きくなって、背筋も腕も立派になってる。毎日ランニングしてたという脚
も腰もがっちりして筋肉の筋が見えてた。レイに聞いてなかったら驚いたじゃすまなかったかも。
「で、どうする?食べに出るかい?」
「そうね。みんなは隣町に行っちゃたんでしょ。駅前に美味しい店なんかあるのかな。」
「僕は最初の日だから、ちょっと駅前もみてみたいな。」
「あたしもまだ1回買出しに行っただけだから、見にいってみようかな。」
そういうことで、あたしはここへ来て初めて私服を着た。ずっとジャージを着っ放しだったからね。
私服と言ったって、華やかなワンピース何かじゃなくて、普段着の膝までのハーフパンツと、上は
ちょっと選んだTシャツだ。いまの自分にはこれが精一杯のデート用の服だってこと。ああ、こんな
格好でもシンジは振り返って見てくれるかな…ここに来る時はシンジなんてって思ってたからさ、
そんな事考えてなかったんだもの。他のみんなは大きなスーツケースもって来てその中には可愛い
服をいっぱい詰め込んで来てたのに。ちょっとがっかりしたけど、そんな様子をシンジに見られる
わけにも行かないんだから。無いなら無いで、よしっ、しっかりしなくちゃね。
あたしとシンジは、一気に階段を走り降りていく。赤い髪飾りが揺れる。
こんなに鍛えられた脚を持ってるカップルなんて。へへッ、珍しいでしょうね。真っ暗な中でも、
足を踏み外したりはしないわ。まだボンヤリ足元が見えてるしね。2段飛ばしでもへっちゃらよ。
でもシンジはそうは思ってないみたい。さっきからあたしの足元にそわそわ目を走らせてる。
きっと心配してんのね。心配性のボーイフレンドさん。あたしの事なら大丈夫だから、自分の足元
に、気をつけなさい。来るときはどんどん来れるけど、却って下るのは結構不安定なんだからね。
薄暗がりの森の道。シンジと2人っきり。何か絶好のシチュエーションだけど、今は階段を下りる
ことに集中。こんな事でもなんかシンジに負けたくないなんて思ってるあたし。あたしの中には
シンジを特別な男の子として見る気持ちと、絶対的ライバルと思う気持ちが同居してる。ライバル?
そうか、あたしは今まではシンジをライバルとは思ってなかった。ある意味ではシンジは弟分であり、
指導してあげる相手だった。でもこれからは。そう思うと、シンジと組み合いたい気持ちが湧き起こ
って来る。こいつ、どのくらい強くなったんだろう。
変なあたし、ついさっきあたしはシンジにキスをしたんだっけ。そういう後って、もっと恥じらったり
くねくねしたい気持ちが湧き上がると思ってたのに。あたしってとことん色気無いってことなのかな。
シンジはがっかりしてないかな。階段の終わりが見えてきて、あたしは脚を緩めた。
「ねえっ、シンジ。」
「なんだい?」
視線と視線が絡み合った。その途端、ドクンと撥ねたように思える私の胸。
なんだ、ちゃんとどきどきしてるんじゃない。よかった――のかどうなのか。
あたし、手を差し出した。その手をおずおずとシンジが握った。
シンジとあたしは、同時ににっこり笑う事ができた。手をぎゅっと握りしめた。
「いこっ。」
「うんっ。」
最後の20段、手を繋いで駆け下りると、浜辺に沿った松並木の道に出た。
あたしの頭を手で押さえると、シンジは小さなタオルで汗ばんだおでこをキュッと拭いてくれた。
「あん。」
え、今の声って誰の声? うわぁ、恥ずかしっ!
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ぼふっ!
思わず、声が出ちゃった…。
こいつは恥ずかしいわよね。日頃が日頃だけに。
シンジに聴こえたかな?
聴こえてないよね…。
でもさ、聴こえて欲しい気持ちもあるのよ。
私だって女の子なんだもん。
そういうところもちゃあんと見ておいて…聴いておいて欲しいってわけよ。
その代わりそれを聴いたって口に出したらコロしてやるけどね。女心は複雑なのよ!
ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。