「もう行かなくちゃ、ね。」
暫くして、アスカは腕の中から離れていった。
そうだ。まるで木の葉が枝から離れるみたいに僕には感じられた。
病院に戻るために。あそこに再び囚われに行くんだ。
「お祖母ちゃん、待ってるし、きっと。」
ここに来る時と違って、僕らは一定の距離を保って離れたまま歩いている。
足を投げ出すように。この森はまるで陰鬱な魔法の森のように感じる。
夕方の風が吹く。僕とあいつの間にある暖かさを奪って通り抜ける。
アスカの感じている罪悪感のようなもの。死と言うものが突きつける現実の冷たさ。
君はお祖母さんの死を受け止め、受け入れ、その哀しみに震えてるんだ。
そして、死から目を離せなくなってる。
いつもの彼女と違う、打ち萎れ弱々しい様子は、誰かに注ぐ愛情とか同情とか、
人の優しさから出てくるんじゃない。アスカは、お祖母さんともうすぐ否応なく、
別れなければならない。死の翼はもうすぐ彼女に触れるだろう。
今にも連れ去られようとしているお祖母さん。
そこに纏わりついている、死そのものに魅入られている女の子はまるで――
死をじっと見つめている。そして、死に心を奪われている。囚われている。
その様子は、アスカ自身がお祖母さんの死を待ち受けている美しい死神のようだ。
だめだよ!アスカ、そんなものを見つめたりしたら駄目なんだ。
僕らはそんなものを見つめちゃいけないんだ。
若い僕らは、そいつに対抗して、もっと抗わなくちゃ。僕らの命の松明をかざさなくちゃ。
必死で生きてきた、一途に命を燃やして生きて来た人の灯火。
また、その最期の生き様が目が離せないほど美しくまたどんなにか惨めなものだったとしても。
僕らは、その外側に見える現象にだけ目を奪われたらいけないんだ。
そんなものに囚われて、若い生命の火を奪い取られてはいけないんだ。
僕は。僕は君を必ず死から奪い返すから。君が囚われているその場所から。
そう決意したけれど、その時のアスカの少し青白く翳った横顔は例えようもなく綺麗だった。
自分を嫌悪した。
− 43 − 「天使の微笑と死神の誘惑は こめどころ 2005.5.25(発表) |
病室の中に、彼女は僕を入れまいとしたが、強引に押し入った。
「どうして、こんなことするのよ!
死に掛けていたとしてもお祖母ちゃんには最期の誇りを守る権利があるでしょ?」
瞳が怒っていた。
日が翳った控えの間の中は、午前中とは違う明らかな異臭が漂っていた。
それは、あえて言えば、腐った排水溝の匂いと歯槽膿漏の強烈な口臭と、腐敗した
タンパク質の匂いを混ぜ合わせ、さらに発酵させたような匂い。
とにかく普通に耐えられるものではなく。
反射的に喉までこみ上げた吐き気と湧き上がった胃液を、必死で飲み下す。
「わかった?奇麗事じゃないの。この一歩先にはもっと凄まじい状況が待っているわ。」
アスカは、暗がりで目を光らせ、僕に出て行きなさいと命令した。
「嫌だ。」
「お祖母ちゃんに恥をかかせないで。お願い! 」
「じゃあ、せめてこの部屋にいさせてよ。」
突然 、 奥の部屋のドアが開いて、ナースが飛び出してそのまま外に走り出ていった。
一瞬目を奪われたあと、振り返ると部屋の中には大勢の人たちがいて、その中心に横たわっている
であろう、お祖母さんを囲むように取り巻いている。その中には父さんもいるのが見えた。
「えっ!」
アスカは一言悲鳴を上げると部屋に飛び込んで行った。僕もそれに続いた。
薄暗い部屋の中、酸素のコードが壁で小さな泡を上げている。それがお祖母さんの鼻の上に
カバーと一緒に固定され、何本かの点滴や検査器具のコードがベッドに引き込まれている。
枕元と、ベッドサイドにある3つほどの明かりの中で、拍動の機械的な音が流れていく。
その拍動は乱れがちで、ややもすると時々1,2拍停まったりする。時にはもっと長く。
さっき飛び出して行ったナースが戻って、点滴の側管からゆっくりと新しい薬剤を流し込んだ。
苦痛に満ちていたお祖母さんの顔が穏やかになっていくのがわかった。
周囲の人たちの間から漏れる溜息と、ほっとした雰囲気。真っ青な、切れ込みの深い皺の影さえ
いくらか穏やかになっていく。だが、医師の表情には変化はなかった。
僕の肩を誰かが掴んだ。いくぞ、という声に従って部屋を出る最後にアスカの白い顔が見えた。
目線一つ動かさずに、じっと睨みつけるようにお祖母さんの指先と自分の指を繋いで。
じっとしている壁のように大きな陰影が立ち並ぶ中、アスカだけに色が付いていてその場で
生きて動いているようだった。
そこでドアが閉まった。
父さんは何も言わなかった。あの部屋の中の匂いはこちらの部屋よりもっと凄かった。
身体や衣服に染みこんで、容易には落ちないだろう。
死の匂い。
導尿バックは血尿で真っ赤になっていた。
医師は既に治療ではなく、末期の痛みや苦痛を抑えるための努力をしているのが僕にさえわかった。
「腎機能はもう働いていない。今後は透析を強化し、麻薬の投与量も2倍に増やすそうだ。
抗生物質も肝排泄型のもので嫌気性菌を叩けるものに変える。この悪臭もそれで消えることだろう。
ステロイドを増やせば腹水も抜ける。」
「それで、少しは楽になるの。」
「楽かどうか、本人にはもうわからんだろう。意識が明日も戻ればの話だ。」
僕は、死を初めて間近に見た。
いろいろ頭の中で考えていた事が全部何もかも吹き飛んでいる。死は圧倒的で、僕らはその前に
佇むしかない。初めてアスカがどんな想いでここにいたのかがわかったような気がした。
あそこに横たわっているのが母さんで、父さんはその母さんを看取り、僕らを育ててきたんだ。
人の死。その時の思い。母さんは死を予感して戻ってきたあの最後の日々にどんな想いで僕と
レイを抱きしめた事だろう。そして全てを知っていた父さんは。
「あいつが逝った時、俺はどうしようもなく混乱するだけだった。」
父さんが呟いた。その顔は逆光になっていてインク壺の様に真っ黒に塗りつぶされていた。
「俺はまだチンピラに過ぎなかった。何もかもわかったつもりでいたのに本当は何もできない
無能にしか過ぎなかった。あいつの差し伸ばした手をただ握り締めることしか出来なかった。」
死は、自分の裸の姿をどこまでも明らかにする。それは今僕自身が感じていることだった。
父さんがこんな事を言うのも。
ひどく疲れていた。奥の病室から時々人が出てきてまた入っていった。アスカはずっと出てこない。
お祖母さんの容態はどうなっているのだろう。ふと見上げるとラングレーさんとアスカのママが
僕らの前に立っていた。部屋に詰めていた他の知人や親戚?の人たちも病室から出て行くところ
だった。僕は立ち上がり、ラングレーさんのために席をあけた。
ラングレーさんは、すまんな、と言いながら座り込むと、目の上に片手を当てて眉間を揉んだ。
「悪いんだがシンジ君。家までうちのとアスカを送って行ってやってくれないか。
それでそのまま、家に泊まって行ってほしいんだ。」
「それはお安い御用ですけど。――父さん。」
「そうするといい。男がいないのは不用心だしな。」
父さんはそう言った。それでいいんだろうか。アスカのママが一緒とは言え。
「アスカは?」
「医者の見立てでは今夜は何とか乗り越えるだろうという事だ。アスカもすぐ出てくるだろう。」
「あの、ジョリは?」
ジョリはアスカの弟。樹林とかいてそう読む。ラングレーさんが巨体から小さな声を絞り出す。
「あいつのことは市の緊急保護センターの派遣員が見てくれてる。
日本語のわかるナニーはドイツでは珍しいからな。
ミュンヘン大に留学している日本人学生がセンターを通じて数人で見てくれているんだ。」
「日本語しかわからないから、あの子。」
いつの間にか後ろにたっていたアスカが答えた。
緊張していた皆が、小さなアスカの弟の話をすることで平静を取り戻していく。
アスカのママはじっと黙り込んだままだった。
「父さんと、ラングレーさんはどうするの?」
「俺たちはここに詰める。何か用事があれば8階のナースセンターに伝言しろ。」
「わかった。」
アスカはもう一度病室に入り、暫くして、おぼつかない足取りで出てきた。
出てすぐのところにおいてあるやわらかなソファの上に崩れるように座り込んだ。
そのまま、上半身を倒して横になり――それはまるで、魂のない人形の動きに見えた。
暫く経ってから僕はアスカを起こし、3人でお祖母さんの家に帰った。
「アスカ、もう10時だよ。」
起こしに来た僕の声に目を覚ましたのに、無視してアスカは布団を被り直した。
眠いし。ひたすら身体がだるいんだもん。そう背中が言っていた。
アスカはタップリ15分もしてからやっと目を開けて僕に向かっておはようと呟いた。
お母さんとジョリは、8時頃にセンターにむかった。だから今は家に二人だけだ。
昨日遅くまで起き過ぎていたのは知ってる。
そして、3時頃ライトが消えてからも、アスカはこの出窓の付いた部屋で外を眺めていたに違いなかった。
学校があるわけでは無いから朝起きなくたって別に問題はない。特別休み扱いだから出席日数も問題ない。
僕はアスカの話にじっくり付き合う。
アスカが話してくれる事を、じっと聞き続ける。それが何より大切な事だ。
話を聞くことで、僕はアスカをつなぎとめる。
この僕らの世界に、アスカが見つめている向こう側の世界への共感から、引き戻すために。
自分自身も感じている、優しくて、哀しくて、懐かしさに溢れた思い出の世界への、ささやかな抵抗。
いつもは忘れていながらこういう時に不意に思い出す感情が、どこかに詰まっていた。
アスカが囚われているその感情に共感するたび、その思いが溢れてぐちゃぐちゃな混乱が渦を撒く。
まるで、壊れてしまったように、どこかにしまってあった感情が吹き零れる。
血気盛んな青少年たる自分が、そこだけまるで小学校2年生になってしまっている。
そう胸の中で笑おうとする。だけど駄目だった。
随分強くなったって思っていたんだけどな。甦る、あのときの布団部屋の景色。泣いている自分が見える。
涙なんて、こんなに容易く零れそうになるものだったか? あの時涙はなかなか出なくて。
小学校2年生の自分が、母さんが死んだのに、もっと悲しまなきゃいけないのに、涙が出ないと、
自分はこんなに冷たい人間だったのかと、そんな事までどこかで悩んでいたっけな。
嫌な餓鬼だったと今でも思う。子供は大人が思ってるほど単純じゃない。
あの頃に比べて自分が大人になったなんて本当は思ってない。演技がうまくなっただけだ。
――あの頃。母さん以上に好きな人間なんていなかったのに。
アスカが作ってくれたサンドイッチにかぶりつく。冷たいコーヒーを飲み干す。
ライ麦パンにホイップバターを塗って、パストラミとちしゃを載せ、薄切りのライ麦パンにマヨネーズを
塗った奴を重ねる。
「冷蔵庫にこんなものしかなかったのよ。ママ手抜きしたな。」
「こんなものって、アスカ全然手伝ってないじゃないか。」
「そう言えばママはドイツ語わかるのかな。買い物なんかどうしてるんだろ。」
ドイツでは英語は結構通じなかったりする。
「でも、このパストラミは最高だよ。旨い旨い。」
「こっちのトマトも載せなさい。チーズもあるわよ。」
「うーん、このチーズも旨いなあ。」
「あんたも食べさせ甲斐のない奴よね。何食べても旨いとしか言わないんだから。」
他に用語の選択支なんかないよね。
そうしたら「男が食い物でくちゃくちゃ言わない!」って怒鳴るに決まってるもの。
アスカのお祖母さんの家は旧市街の外縁部にあった。昔の世界戦争でこの市街のほとんどは
米英連合軍の爆撃で瓦礫となった。そのあともう一度ヨーロッパ内戦があり、再びこの辺りは
瓦礫となったとガイドブックに書いてある。この街は2回甦った街なのだ。
それを可能にした、力強く我慢強い人たちから連想するイメージと、街の持っている雰囲気は
必ずしも一致しない。
のどかな空気が流れ、やる気があるのかないのか分からない大道芸人が道端で芸を披露し、
子供達は風船を持って、市場でもどこでも走り回る。明るい南独の太陽が溢れているせいか。
人々は楽天的で、人生を謳歌してるように感じられる。深刻な顔は見かけない。
朝食を終えてから、僕らは近所を歩き回った。
「昔はもっと中心部の方に家があったんだけど、結婚を機に外縁部に引っ越したんだって。」
目を細めて、お祖母さんの話してくれた事をアスカは教えてくれた。
「それはバラ庭をもっと広くしたかったのと、リタイア後の祖父母に明るい光に溢れた部屋を用意
したかったかららしいわ。歩いて5分くらい離れたところに結局曾祖父母も移り住んだのだけど、
毎日のようにやって来ては一緒にバラの手入れをし、お茶をして時々夕食も一緒にしたり。
そうやってずっと暮らしてきたんですって。」
古き良き時代というのは何時でも懐かしく思い出すもの。
いつかは僕らのこの毎日だってそうやって夢のように思い出すようになるのかもしれない。
だからといって、あれもこれも後になれば良い思い出だ、なんて考えたりなんかしない。
それは、もう何年かしたらこんな馬鹿やって暮らしてるわけには行かないよな、今のうちだけだって、
そんなふうに自分の生きている今を否定したり切り離したりする事が、僕にはできないのと同じ事だ。
「そして両親の最後の日々をこの部屋で看取ることができたって。お爺ちゃんが内戦の時の怪我が
元でその後亡くなってからも、だから母さんを一人で育てていても、その子(ママの事ね)がここから
去ってからも、寂しい事はなかったんだって。ずっと一緒にここにいたのよって言ってた。
みんなで育てたバラを手入れするたび、みんなの声が聞こえていたからなんだって。」
肥料を施し、丁寧に小枝を剪定し、直射日光を遮るネットや簾を広げ、水遣りをし、土を入れ替える。
植え替え、株分け、除草、花芽摘み。水遣りだってただホースで撒くんじゃなくて、土壁を作って、
丁寧にそっとジョウロで注がなくちゃいけなかったり。咲いたバラを市場で売ってみたり、ご近所に
分けて上げたり。ポプリにしてみたり、ジャムを作ってみたり。
「とにかく、ここの奥さんは良くやってたと思うよ。日本人だという事は知っていたさ。たった一人で
ドイツで暮らしていくのは大変だったと思うよ。けどもうすっかりここの人間さね。」
「一人娘さんと2人暮らしでね。バラをこんなに綺麗に咲かせるのはこの辺ではあの人くらいだよ。」
「良く、バラの事で相談しに行ったよ。株を分けてもらったりジャムを戴いた事もあった。」
「娘さんが嫁に行ってからも、まぁ明るくて面倒見の良い人だったなぁ。具合はどうなんだい。」
「あんたは?へぇ、お孫さんなのか。キョウコさんの娘さんか。確かにそっくりだな。」
「町の高校の先生を長くやっていたからね。うちの坊主もあの先生が担任だったのさ。」
「亡くなった旦那さんも大学の先生だったからね。確か奥さんはドイツに来てから大学を出たとか聞いたよ。」
「留学生なんかが良く遊びに来ていたねえ。品のいい方だから、つい道で会うと先生って皆、呼んでたよ。」
近所の人たちが庭先を通るたびにアスカに話しかけていく。お祖母さんの人となりがアスカの中に積み上がっていく。
お祖母さんは、確かに近所の人たちの間に溶け込み、愛されていたんだ。最初は皆がびっくりするくらいの小さな
黒髪の日本人の女の子がどうやってこの町に受け入れられていったのか。
「この庭には一年間を通して、色々な種類の色々な香りのバラが咲くんだって。
何月にはどんな薬をまいてどの枝を切り落とすのか。全部違う扱いが必要なの。
バラは子供を育てるよりはるかに重労働なのよって笑ってた。確かにこれだけの庭になったら、
わくら葉を摘んで回るだけだって大変なことよね。」
楽しげなお祖母ちゃんとの日々をアスカは語り続けた。
いつも日の光に溢れてるように、人生がどんなに幸せだったかを伝えようとしてくれたと。
ママが遠い日本で死んだとき、本当はお祖母ちゃんはどんなに辛かった事だろうか。
それでもお祖母ちゃんは日本には戻ってこなかった。
そのころはヨーロッパ中が内戦後の混乱が続いていた事もあって、個人的な理由で民間人が移動できる
ような状態ではなかったということもある。
でも、それだけが理由ではないわ。お祖母ちゃんはここを離れたくなかったのよね。
ドイツに留まったまま、ドイツ人として短い結婚生活を送り、働き、子を育て、両親を看取った。
夫の墓と家を守る。それ以外のことは何もかも忘れてようと生きてきたお祖母ちゃん。
そして今は、自分自身がこの世界から退場しようとしてる、とアスカは呟いた。
その時、突然何かが頭の中を走り抜けた。
「ただ、それを看ていることしか僕らには出来ないのかな?」
「何、シンジ。藪から棒に。」
「お祖母さんが、何も心残りなく逝けるように何かないのかな。」
「たとえば御祖母ちゃんが最後に見たいと思っているものとか ――何か―― 」
「そうだよ。お祖母ちゃんが繰り返し話してたこととか、何かないのかな?」
病院に顔を出した。お祖母さんの所には思いがけないお客さんが来ていた。
「先生…」
「おや、やっと会えたわね。アスカ・惣流・ラングレーさん。」
そこにいたのはシスター・マリア・マグダラ。――羽仁ヒロコ先生だった。
「な、何でここに。」
僕らは金魚のように口をパクパクさせて喘いだ。
「あ、そ、そういえばいつだったか御祖母ちゃんと知り合いだって。」
「思い出した?私とあなたのお祖母さんとは地の塩の同級生だったのよ。」
「じゃ、お祖母ちゃんの言ってたヒロコって、先生の事だったってこと――なの?」
「そういうことね。」
「アスカ。今はヒロコが貴方達の先生なんですって。なんか笑っちゃうわね。」
お祖母さんは、明るく笑った。
本当に呟くような声だったけれど、その声の色や口調は女子学生みたいで。
「何言ってるの。大体貴女がアスカさんを地の塩に入れてやって欲しいって言ってきたんでしょ。」
「そうよ。だって私達の過ごしたあの素敵な学園生活を孫娘にも味あわせてやらなくちゃって思うでしょ。」
「まぁ、それは確かにねえ。特にアスカさんみたいなお転婆娘には特に、なのかしら?」
「あら、それって皮肉?」
「親友として、私があの頃どんなにか貴女の事を心配したか、知ってて言ってる?」
「昔の事は忘れたわ。」
「私は昔の事が甦る日々だわ。ほんとに眩暈がするほどあなたそっくりよ。このお転婆娘は。」
「そうだったかしらね。」
「そうよ。兄様の鯉のぼりが見えるからって、校舎の屋根によじ登ったのは貴女だったわよね。」
「それを降りなさい止めなさいって叫びながら追っかけて登って来たの、ヒロコだったわ。」
「確かにあの時の屋根の上から見た街に翻る鯉のぼりは素敵な景色だったけど。
大変な思いをした挙句、二人揃って罰を受けた事、憶えてるかしら。貴女は。」
要するに二人ともとんでもないお転婆娘だったってことか。
いつも厳格な先生のにやりと笑った顔は小学生か中学生くらいの少女に見えた。
「今となっては懐かしい思い出ね。」
「懐かしいどころか!」シスターマリアは大きな声で言った。「私には日常よ。今でもね。」
そう言いながら、こっちに向かってウインクをしたので、アスカは真っ赤になって俯いた。
お祖母さんは、勢いよく話した挙句、ちょっと疲れたわと言ってベッドの上で目を閉じた。
懐かしい友達の顔が、一瞬にしてお祖母さんの記憶を掘り起こし、鮮やかに甦らせたんだ。
お祖母さんがすっかり眠ってしまうと、シスターはハンカチを取り出して涙を拭った。
お祖母さんの体力は日々衰えていってる。眠っている時間がどんどん長くなっていく。
麻薬タブレットが効果的で、痛みはほとんどないようだ。抗生物質も良く効いているようだ。
このまま元気になるのではないかと僕らは望みを繋げていた。
でもそれはあくまでも一過性のものに過ぎなかった。次第に顔の色が白く血の気が無くなっていく。
全血輸血が行われるようになった。もはや、目を覚ましている時間はほんの僅かになった。
しかも、その時間でさえもはっきりとした意識は保たれない。
お祖母さんはまるで小さい頃に戻ったように小さな声でかすかに童謡を歌い、キョウコさんを呼び、
シスターを呼び、アスカが手を握ると嬉しそうに目を閉じるのだった。
また3日が過ぎた。
お祖母さんの部屋は南側の正面玄関側の部屋に移された。
一週間ごとに病室は移動され、消毒されることになっているからだ。
特にコンプロマイズドホストには重要な措置だという。(免疫力の落ちた易感染性患者のこと)
その部屋からは街に向かっての展望が開けている。
広い階段状の坂が、病院の立つなだらかな丘陵に向かっている。
「ねえ、お祖母ちゃん。今日はあたしとシンジから贈り物があるの。」
「あら、…いったいなにかしらね。」
かすかに目を開けたお祖母さんは、覗き込んでいた孫娘に気づき、かすかな声で応えた。アスカは頬にキスして
身体を上げ、みんなに合図をした。
部屋の中にいたみんなでお祖母さんのベッドを窓際にぴったり寄せ、ベッドの高さを上げて窓と同じ高さに。
「さぁ、ブラインドを開けるわよ。」
カシャッ。
「まぁ!まぁまぁ…」
お祖母さんは両手で頬を包み込んで、静かな歓声を上げた。僕らにとっては季節外れだけど。
病院前の階段の両側に並んだフラッグポールに視野いっぱいに鯉のぼりが翻っていた。
青空を見事に舞う鯉のぼりたち。病室の中にも驚きの声が溢れた。
「お願い、起こして。」
ゆっくりと、ベッドが椅子状に僅かに持ち上がっていく。
広い通路に地元の人々が大勢立ち止まり、ポールを見上げ指差している。
風にはためく大きな美しい鯉のぼりの身をくねらせ、空を泳ぐさまに見とれている。
父さんと、ラングレーさんがそれぞれの会社の社員にメールで提供を呼びかけてくれたんだ。
真鯉、緋鯉、昔ながらの墨や朱で描かれたもの、鱗の一枚一枚が金で縁取られ、鮮やかに煌びやかに舞うもの。
青やピンクの子鯉たち。ポールとポールの間に綱を張って幾筋か通路を横断するように張られたものもある。
数百匹もの鯉が、雄大に、見事に広い青空に舞っていた。
「ああ、素晴らしいわ。ヒロコ。キョウコ。あなた…、お兄ちゃん。」
お祖母さんは、手を合わせるようにして、その鯉たちを見つめていた。
「お祖母ちゃん、泣いてる。」
「よかった。」
「うん。」
お祖母さんはその日、飽きずに鯉のぼりを眺め続けていた。何も言わなかったけれど、ずっと眺め続けていたって。
「わたしたち、お祖母ちゃんにいい事をしてあげられたのかな。」
「僕らはこれしか思いつかなかったし、できる限りの事だったと思う。いい事だったって信じるよ。」
「そうね。シンジ。ありがとう。」
夜は家の中でもかなり冷え込む。ガスストーブの赤い色が部屋中を染めている。
厚手の絨毯の上に座って、猫足のソファに上半身を持たれかけてアスカは解いた髪のままストーブを見てる。
「わたし、人が死ぬという事になんだか取り込まれすぎていたように思うの。
どんな風に暮らしてきても、結局そこで何もかもが喪われて、全ては消えてしまうことが怖かったんだと思う。
だから、生きている事を確かめたいとも思ったんだと思う。
シンジにすがり付いて、自分の命が確かに失われていない事を確認したかった。弱かったよね、わたし。」
「僕は、逆に死ぬという事に反発し過ぎていたかもしれない。それだって、君が死というものにあんなにも敏感に
心を痛めていたからこそ、冷静に、死ぬと言う事がどういうことなのか考えていられたのかも知れない。」
「死って、どういうことだと思う?」
「僕の母さんの死、君を生んだママの死。お祖母さんの死。そしてこれからも死というものは僕らの前にあり続ける。」
「そうね、そしていつかはわたしたち自身の前にも。」
「思うんだけど。」
僕は考えていた事をアスカに話してみる。
「死というのは、決して一人だけの、独立して存在するものではないんだと思う。」
「悲しむ人がいるって言う事?」
「それはもちろんそうだけど、沙漠の真ん中で一人で死んで誰もその事を知らなかったりする、
むしろそういう死の方が、人間に与えられた死の本当の姿だったのかもしれないと思うんだ。」
「そんな寂しい死に方は嫌だな。」
「そうでしょ。そういう風に死ぬって事は、多分そういう風に生きてきたって事なんだよ。そういう生き方を
したかった人もいるだろうし、そういう風にしか生きられないように追い込まれた人もいたんだと思う。」
一人きりで沙漠をさすらうような生き方に追い込まれる。
それはどんなにか過酷で、孤独で、残酷な生き方だろうか。何故そんなことになってしまったのか。
でも、それは必ずしも砂漠の中でだけ起こることではない。この人間の社会の中に存在していても、沙漠にいるのと
同様に孤独で過酷な生き方を強いられる事はある。そのように追い込まれる事がある。
母さんが死んでしまった時の父さんのように。あの時父さんが死を選んでいたとすれば、父さんは沙漠で
死んだのと同じように死んだのだと思う。それはアスカのママが死んだ時のラングレーさんも同じだったと思うんだ。
死ということを考える事は、それまでのその人の生き方を考えるなんだ。
その人の死を悲しむのは、その人の生きた在り方を振り返ることだと思うんだ。
「僕の中の母さんは決して死なないし、母さんはいつまでも生きているのと同じように僕に影響を与え続ける。
同じように、君のママだっていつまでもアスカの中で生き続けているでしょう?」
「前に、シンジにそう言われてからそのこと意識してた。そうしたら、確かにママに祈ったり、頼ったり、
けっこうしてるって気づくようになったの。不思議よね。何故今までそんな事を意識しなかったんだろう。」
「なぜかな。」
「わたしには、パパも今のママも、弟も、いろんな人たちが周りにいてくれたから、その事を意識しないでいられたのね。」
アスカは毛布を頭から被った。
「あの、もちろん、シンジも。」
「そ、そう?」
僕も、アスカのてれが移っちゃったみたいに首が熱くなった。
「父さんの中には、間違いなく母さんが生きてる。レイの中にはDNAの半分、母さんが生きてる。僕の中にも。
君の中にも、君のママの半分が生きてる。君のパパも、そしてお祖母ちゃんの遺伝子も生きてる。
感情だけではなく、身体の組成の何分の一かは僕らは肉親と同じもので生きてる。同じものを食べ、人生の
何分の一かを一緒に暮らし、一緒の経験をし、一緒に喜んだり悲しんだりしてきたんだ。
誰よりもわかりあえるのは当たり前のことかもしれないけど。」
「わかる。シンジの言おうとしてる事。」
アスカは僕の目を見つめて、しっかりと言った。
「お祖母ちゃんは、今、わたしの中だけで生きているんだね。わたしだけがお祖母ちゃんの生きた証なんだ。
わたしが、しっかりと生き、喜び、哀しみ、歌い、愛し合うことの全てが、あたしの中のお祖母ちゃんが、
もう一度生きるのと同じ事になる。そうでしょ、シンジ。」
僕はうなづいた。アスカは毛布の中から乗り出して僕を抱きしめてくれた。
「ありがとう、シンジ。」
家の奥で電話が鳴った。ジョリを寝かしつけていたアスカのママが電話に出たようだった。
「あなたですか。ああ、そう…はい、すぐにアスカにはそちらに向かわせます。」
アスカは立ち上がると、部屋のドアを開けた。開けてすぐに僕を振り返って、肯いて出て行った。
「お母様、亡くなられたそうよ。アスカにすぐに来て欲しいってお父さんが。」
僕はドアの内側でその声を聞いた。廊下に出ると二人は抱き合って静かに泣いていた。
廊下の明かりが、昨夜より暗く感じられた。
もう一度ジュウシマツを(43)天使の微笑と死神の誘惑はどちらが男の子にとって魅力的か(後) 2005-05-25 komedokoro
おばあさんが亡くなりました。
このおはなしでアスカとシンジが学び取ったことは大きいと思います。
それは死を見つめることではなく、
生を見つめること。
どういう環境においても、死の中からそれを見つけることができるのです。
死に逝くものがどういう人生を歩んできたか。
どんな春夏秋冬を辿ってきたのか。
おばあさんの家で近所の人の話を聞き、
シスターとの思い出話に触れ、
二人はおばあさんの人生に思いを馳せます。
そして、おばあさんに最後の贈り物をしました。
朧げに戻る意識の中で語られた日本での記憶。
その象徴であった鯉のぼり。
ドイツの空に翻った日本の思い出。
それは二つの国をまたいだおばあさんの人生そのもの。
その光景とおばあさんの表情はアスカたちにいかに生きるべきかを教えてくれたものと思います。
アスカのおばあさん、安らかに。
ご投稿、ありがとうございました、こめどころ様。
(文責:ジュン)
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